第26話 スワンプマンの不在
まどろみの中で目が覚めた。
視界は暗闇だったが、まったくの暗黒ではなく、部屋の輪郭が見える程度には薄明かりがある。
「え?」
その部屋は、俺の部屋だった。
驚きのあまり跳ね起きる――――どうして、こんなところで寝ているんだ?
たしか俺は、アキラが倒れて、そしてどこかへ逃げてしまって、スマホが無いから急いで帰ってきて、母さんにスマホを借りて救急車なりを呼ぶはずだった、のに……。
あのときはまだ夕暮れ時だったのに、もうこんなに夜が更けている。
自分が着ている服を見る、部屋着だ。
髪の毛をくしゃりと握ってみる、ベタベタしてない。
いつの間に着替えて、風呂に入ったんだ?
その記憶が、まったくない――――!
「いや、それよりも、アキラ……!」
この状況は理解の範疇を超えているが、それよりもアキラのことが心配だ。
もしかしたら、体調が悪化して――――なんて最悪の想像をしてしまう。
「っ!?」
そのとき、大きな音が鳴った。 聞き慣れた着信音……俺のスマホだ。
音の方を見ると勉強机の上に小さな灯りが。
「こんなところにあったのか」
学校に行くとき、忘れてしまったのか?
勉強机の上に俺のスマホがあって、誰かからの着信が来ている。
その相手はアキラだった、画面に名前が表示されている。
「あ、アキラ! 大丈夫か!?」
慌てて俺はスマホを手に取り、耳に当てる。
「はじめまして、私はミチルと申します」
背筋がゾクリと寒くなった。
思わずスマホを素早く耳から離し、その画面を再度見る。
『アキラ』という登録された名前が画面上に表示されていた。
紛れもなく、アキラのスマホから、この電話はかかっている。
では何故、知らない声の女が出ているのだ?
……もしかしたら、アキラの知り合いなのかもしれない。
それをたしかめるべく、おそるおそるスマホをまた耳に当てる。
「あ、あの――――」
「エピメテウスについて、ご存じですか?」
「……は?」
俺が何か言う前に、彼女は捲し立てるように喋り始めた。
「エピメテウスとはギリシア神話に登場する神の名ですが、私が申し上げているのは、その名を冠する秘密結社『エピメテウス』のことです。 非合法な活動を行う組織であり、要人の暗殺や戦争への関与などが主な活動内容です。 しかしそれは『とある目的』のための資金調達に過ぎず――――」
俺は通話を一方的に切った。
明らかに普通の人物ではなかったからだ。
言っている内容も、かなり不穏なものだったし……。
『通話終了』の画面を見ながら、俺は考える。
このまま、アキラの電話番号にかけるべきか?
そしたらまた、あの変な女の声を聞くハメになるんじゃないか?
しかし、アキラの無事は確認したい。
いや、そもそも……どうして知らない変な女がアキラのスマホを持っている?
もしかしてアキラは今、とんでもない状況にあるんじゃないのか?
たとえば、誘拐されたとか……。
それも異常者に――――つまり、電話に出た変な女のことだ。
だとしたら、俺が電話を掛けるべきなのは、警察か?
もしかしたら万が一、これがアキラのイタズラだという可能性はある。
いや、そういうことをする性格じゃないことは十分に承知しているが、しかし……。
通報するべきか、否か。
その決心がつかず迷っていた俺は、ふと何気なく窓の外へと視線を向けた――――。
――――人間が本当に驚いたとき、恐れたとき、悲鳴は上がらず硬直してしまうと、どこかで聞いたことがある。
それを今、実感した。
窓の向こうは暗闇である、夜なのだから当然だ。
しかし、俺の目の前の窓には2種類の闇があった。
月明りを含んだ薄い闇と、その月光さえ遮る深い闇。
その深い闇は――――人の形をしていた。
人間が、人らしきものが、二階にある俺の部屋の窓に張り付いている。
それだけでも十分に恐怖に足る現象だったが、さらにそれに加えて理解しがたい部分がある。
その、真っ暗な人影の、その指は……ありえないほどの長さで伸びている。
俺の顔など簡単に握り込むことができそうで、そしてその指先は鋭く尖っている。
まるで槍の先のように鋭利な爪、その切っ先が薄い窓越しにある。
――――軋むような音を立てて、蜘蛛の巣状のひび割れが、窓中に張り巡らされた。
………………。
…………。
……。
まどろみの中で目が覚めた。
身を起こす。
部屋中が日光で満たされている。
窓を見る。
どこにもひび割れなんてない。
音が鳴る。
勉強机の上に俺のスマホがある。
手に取る。
『タケシ』という名前が表示されている。
「……もしもし」
「風邪でも引いたか?」
「え?」
「なんで学校に来ないんだ」
壁にかけられている時計を見る。
既に時刻は午後四時をまわっていた。
完全に遅刻どころか、もはや学校の授業が終わる時間だ。
「……あの、アキラは?」
いまだハッキリとしない頭で、最優先事項を聞く。
「アキラ? アキラがどうした?」
「学校には来ているのか?」
「来てるけど」
「そうか、わかった。 俺も学校に行く。 アキラを引き止めていてくれないか?」
「いいだろう、了解した」
俺は電話を切って、すぐさま学生服に着替えた。
学校に来ているなら元気なのだろうが、どうしてもその様子を、この目で確かめたい。
家を飛び出して、駆け足で学校へと向かう。
いつもの通学路を走り、校門を抜けて、下駄箱で上履きに履き替える。
そのまま教室に向かおうとするのを思いとどまり、先に科学部へと向かうことにした。
そっちのほうが距離も近いし、今は放課後だからアキラがそこに居る可能性も高い。
科学部の扉を開くと、そこにはタケシ一人だけしか居なかった。
「アキラは?」
「え?」
なぜか、不思議そうな顔をするタケシ。
「アキラがどうした」
「引き止めてくれと言ったろう」
「……なんのことだ?」
「……は?」
何を言っているんだ、コイツは。
「さっき電話で話しただろ?」
「電話ぁ? そんなもんしてないぞ。 今日お前と会話するのは、これが初めてだ」
「……へ?」
急速に、風景が色味を失うような錯覚が、俺の全感覚を襲った。
電話は……たしかにしたはずなのに、目の前の男は、そんなことを言う。
あのとき、電話越しの声は、その口調も、タケシそのものだったのに。
「じゃ、じゃあアキラは……?」
身体から力が抜けて、思わず壁によりかかる。
それでも俺は、アキラの身が心配だった。
「おい、大丈夫か」
心配そうにタケシが席から立ち上がる。
俺は再び身体に力を入れ直し、自分の無事を証明する。
ちょっとクラっときただけだ。
「大丈夫だ。 それよりもアキラは? 学校には来たのか?」
「……来てないぞ。 ニナもだ。 そして、お前もな。 まったく、一体どうしたんだ?」
「アキラは……その、昨日、倒れたんだ。 すごく具合が悪そうだった」
俺の途切れた記憶、偽物のタケシとの会話……。
そのどれもが不可思議なことだったが、とりあえず今はアキラの無事を確認したい。
「そうだ、電話……」
俺はスマホを取り出して、登録されているアキラの電話番号を選択する。
あとは通話ボタンを押すだけだが……昨晩の記憶が蘇る。
あの変な女との会話は……そしてあのバケモノの姿は、すべて悪い夢だったのか?
「…………」
考えたってしょうがない。
とにかく今はアキラの声が聴きたい。
俺は意を決して通話ボタンを押した。
幾度かの呼び出し音が鳴ったあと、声が聞こえてきた。
『ただいま、電波が届かないところか――――』
俺は苛立ちながら電話を切る。
「アキラの家に行く」
「まぁ待て」
踵を返す俺をタケシが呼び止めた。
「なんだよ?」
「お前、汗だくだぞ。 ここまで走ってきたのか?」
そう言われて俺は自分が汗にまみれていることに初めて気が付いた。
駆け足で来たせいだろうか? 胸も少し苦しい……。
「少しだけ休んで行けよ」
「いや、そんな暇は――――」
「何をそんなに心配している? 仮にアキラが重病だったとしても、家には家族が居るんだから大丈夫だろ」
「そ、そうかな?」
「そうだろ。 別にお前が行ってアキラが快復するわけじゃあるまいし、少しは落ち着け。 ゼエゼエハアハアしながら行っても、向こうも困るだろうさ」
「…………」
諭すようなタケシの言葉に、俺はいくらか落ち着きを取り戻す。
「ちょっと休んでけ。 ジュースでも買ってくるよ」
「あ、ああ、悪いな」
その言葉に甘えて、俺はパイプ椅子に座る。
タケシはポンと俺の肩を軽く叩きながら、部屋を出て行った。
「ふぅーー………」と深く溜め息を吐く。
たしかに、少し焦っていたか。
今ごろアキラも、家族に看病されているのかもしれない。
電話に出ない理由も、充電を忘れたか何かしたのかも。
……そうであってほしい。
そう思いながら、俺は目を閉じた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます