羽がなくても空を飛べたら 3
「さてと。わたしはもう大丈夫です。勉強の続きをしましょう。」
「え、うん。…………それで、私はここにいてもいいの?」
さっきまでよりさらに距離を詰めて、気まずそうにしつつもわずかに顔を紅潮させて先輩が言う。
結論が出たはずなのに、隣にいることをねだられるとどうしても落ち着いていられなくなる。
だから、先輩もわたしもそんな気はないって言ってるじゃん。
友達だってそれくらいのスキンシップはするはずだ。
「もちろん!すぐ隣にいた方が教えやすいですしね……。」
語頭は勢いよかったのに、尻尾にいくにつれだんだんと萎れていく声が情けなかったけど、なんとか自分を制せた。
「ありがと。嫌だったら言ってね。」
ほんのりとはにかんでわたしの隣でペンを動かし始める先輩は妹っぽくて可愛らしく思えた。
わたしにいるのは姉だけで妹は最初からいないが。
昔も昔、とは言っても数ヶ月前のことだけど、先輩と初めて会ったころ。先輩は冷静で表情をあまり出さない人で、わたしよりもずっと達観していると思っていた。
でも、それが時間が経つにつれ表情が豊かになっていって、今じゃわたしなんかよりよっぽど楽しそうに笑うようになっている。良くも悪くも素直な人なんだと思う。
それに比べてわたしという人間は。
いつまでも過去の自分から逃げ出せない、憐れで皮肉的に言えば人間らしい生き物だ。
そんなわたしでも先輩の前でだけは本当の自分が顔を出せる。だからわたしは先輩のことが好きだ。自分勝手な事情かもしれないけど、わたしにとって先輩はそういう存在だ。
「そうだ。この問題でしたよね。これはですね……」
ようやく落ち着きを取り戻して、隣の先輩に数学の問題を教えられる。
えーっと、この問題は……。
「……………………あの、センパイ。」
どうしても見過ごせない懸念が生まれ、自然と声が低くなる。
一難去ったらまた一難とはよく言ったもので、ここでもう一つ別の問題が発燃した。
「ここ、この前までちゃんとできてたやつですよね。」
この問題も。こっちの問題も。これも。あれも。
全部とっくに解決済みのはずの問題が空白になっている。
「やり方、忘れちゃって。」
呑気に言う先輩を久しぶりにぶちのめしたくなった。
嘘だろ?
いや、先輩が頭良くないことは知ってるけど、こんな簡単な基礎問題を一度習得した後に忘れるなんてことある?第一、復習だってさせてるんだし、嫌でも身につくでしょ。
「ユキ。優等生にはわからないだろうけど、落第生を甘く見ない方がいいよ。三歩歩いたら全部忘れちゃうから。」
ふふんと鼻を鳴らして隣で謎に威張っているバカは放っておくとして、これは深刻すぎる問題だ。
「この前の復習小テストではできてたとこですよね?なんで急に分からなくなったんですか?」
「調子がいい時は解けるんだけどね。頭が働かない日は無理。」
「は?」
なんだそれ。そんな場当たり的なやり方で今までやってきたのか。こんな基本中の基本を。勉強って言葉の意味知ってるのかなこの人。
最近先輩と自分の関係性についてあれやこれや思索させられすぎて勉強会の方が疎かになっていた。
「やばいですよこれ。」
「なにが?」
他人事のように先輩がこちらを覗き込む。
なんでこの人はこんなに危機感がないんだろう。わたしと関係を持ったのだって元々は留年阻止のためだったはずなのに。
「だから。来週から期末テスト始まっちゃうんですよ。これすら解けなかったら絶対点数取れませんって。」
「三学期もあるんだし、そっちでなんとかしようよ。」
「三年生は三学期の成績はありませんよ。というか学期末試験もありません。」
「…………まじですか。」
ようやく危機感をもったように先輩の顔が段階的に青ざめていく。ていうか三学期に成績がないこと知らなかったのかよ。
「で、でも当日は調子がいいかもしれないから……」
「そんな不確かな理由で楽観視できませんって!」
「じゃあどうすればいいの?」
「それは……。」
言葉が詰まる。
実際のところ、今からやれることは少ない。
復習させるくらいだけど、それもどこまで効果があるかは微妙だ。
正直わたしの見通しが甘かったところもある。先輩が案外簡単にスラスラ解けるようになっていたので、実は要領悪くないんじゃないか?と油断していたせいだ。
もっと長期的なスパンで繰り返し確認していれば避けられた事態だ。
まだ巻き返せるか?巻き返す以外の選択肢はないんだけどさ。
「とにかく、来週までに無理やり詰め込んで後は野となれ山となれ作戦でいきましょう。」
「ダサい作戦名だね。」
「うるさい。そうと決まれば今日は夜までみっちりやりますからね。」
腹を括ってやるしかない。もう、ホントに先輩はわたしを慌てさせないと気が済まないのか。
まず絶望的な数学。同じ現象が理科系科目でも起こっている可能性あり。日本史や公民は暗記中心だから理論的に考える理数よりは覚えていてくれてそうだけど、安心はできないからもう一度練り直す必要がある。
ああもうやることが多すぎる!
「ユキ。」
「ああ?なんです!?」
こんな状態なのに、先輩はゆっくりと髪をかき撫でながらおおらかに笑みを浮かべて名前を呼んだ。
心中ざわめいていて、乱暴に返事をしてしまったのに、先輩の動作に思わず目を引かれて意識をそちらに完全に移されてしまう。
「ありがとね。私のために。」
「………………。」
なだらかに肌を滑るような感謝の意を込められて、またしてもわたしの何かがざわめかされる。なんで先輩の一挙手一投足にこんなに心動かされてしまうんだろう。
「別に、センパイのためじゃないし。」
「?じゃあ誰のためなの?」
「…………………センパイのためですけど。」
王道なツンデレセリフみたいなのを言ってみたりしたけど、0.5秒で論破された。まあこの状況じゃ先輩以外の誰のためだよっていうのはその通りなんだけどさ。
それでも、『わたしのために』なんてセリフはむず痒くなって仕方がない。とっさに否定したくなってしまう。
「ユキは優しいね。」
だからやめろって。
過去にたくさんの人から何度も言われたことのあるセリフなのに、先輩に言われると急に照れくさくなって身が縮まってしまう。
第一、先輩はただの一人の友達であるはずなんだから、わたしがここまで真剣に留年回避のために取り合ってあげる義務はない。あとは一人で頑張って、と言っても、怒られるようなことではないはずなんだ。
それなのに、ここまで入れ込んでしまうのは…………。
「わたしはセンパイの『親友』ですから。これくらいは普通です」
そうだ。友達よりも特別なら恋人なんかよりよっぽど名目的にそれらしい名称があるじゃないか。
わざわざ口に出して言うのはちょっと恥ずかしいけど、わたしたちはこれだけ密接度が高いんだ。先輩は親友と言っても差し支えはないだろう。
「親友!?………しんゆう!」
こんな状況で、言葉を覚えたての二歳児のようにはしゃいでる先輩にちょっとだけ引いた。かわいいから別にいいかと思っている自分にドン引きした。
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