陽は落ち猫は月に鳴く 2
今までだってユキのことが好きだった。
友達になれて嬉しかった。
でも、その先が私にはわからない。
『友達』が、私にとっての最前線だったから、それより先に何があるのか知らない。
知らないはずなのに、それを感じる。
そんな夜が今日だった。
──── ────
「センパイ、あたま、なでさせて。」
楽器が狭い部屋中に反響して耳をつんざくように、再度繰り返し言われて私は余計に戸惑わされる。警鐘が鳴り響くように心臓が高鳴り、異常事態が発生したことを認知した。
同時に淀んだ体が洗い流されるような懐旧感を覚えて、頭の上に留まる。
撫でて、じゃなくて、撫でさせて。
嫌か言われれば別に嫌でもないし、するかされるかが変わるだけで私たちの関係に変化があるわけでもないと思う。
だから、私の胸がこんなに高鳴っているのは道理にかなっていないと言える。
ユキに頭を撫でさせるだけ。そう言われただけなのに、なぜか赤血球が熱で覆われて骨まで溶かされるような圧迫感を感じる。
状況が把握できない。
全てが見えているようで、たった二つの目しか見えていないような、鮮やかで歪んだ世界が見えた気がした。
この気持ちはなんだ?
嫌悪感ではない。
どこかで暖かくて、それでいて不気味な太古の海に潜るかのように。未知の世界が広がるように惹きつけられて、それがゾクゾクとして関心と恐怖感を煽る。
もう一段階、違うユキを見たような気がした。
そんな気がしただけで実際に変わったのは私の気持ちだけかもしれない。
それでも、えもいわれない余情が私に絡みついて動きを止めた。
急にどうしたんだろう私は。
たった数秒の間で世界がひっくり返されたような気分がする。
自分自身のことがわからないということは以前から知っていたけど、これほど未知の感想が生まれたのは初めてだ。
物も言わず、動作を止めて全てを終了させた機械のように固まる私に、酔っていて何も考えてないはずのユキが、全てを見透かしたかのようにやさしく笑う。
「ひな。おいで。」
腕を大きく開き、全てを向かい入れるような肌の温度が二メートルほど離れた位置にいる私からも感じ取れる。
はじめて。下の名前で呼ばれた。
ユキが私を呼ぶ時、私の名前はセンパイだった。学年が上なんだから当然なんだけど、こうやってユキの声で自分の名前を口にされると、ひっくり返るように私の心が跳ねる。
喜び、驚愕、興味、心配、恐怖、安堵、期待、それぞれが中心で混ざり合い、端へと分散していく。
ある場所では血が沸き肉が千切れんばかりの熱を持ち、ある場所では凍りついたように細胞が壊死し、骨が壊れる音が鳴るような気がする。
立ち尽くすことしかできない私に、ユキがそっと手を伸ばす。
「こわくないよ。ほら。」
子供を愛するように、子犬を躾けるように、優しく柔らかく全てを包む声が私を動かす。
直接私には触れず、こちらが自分から来るのを待っているこの子は、今何を考えているだろうか。何も考えていないかもしれない。
個人的な願望が許されるなら、どちらかといえば何も考えていてほしくないと思った。少なくともこの瞬間は。
膝立ちで腕を開き暖かく微笑むユキに、私は何を感じただろう。
分からなかったけど、それが正しいことだと思ったから。
だから、私も膝を擦りながらゆっくりとユキに近づいて、腕が体を包めるほどの近さまで寄った。
ぎゅっ。
と音がしたわけじゃないけど、漫画でこのシーンを書くならそんなオノマトペで表すんだろうな。
ユキが正面から両手を私の背中まで回して組みつくようにしっかり、ゆっくりと抱きしめた。
近づいた私を少し前屈みにさせるように、顔を胸元に寄せる。
ユキの柔らかい肌の熱でカチカチになった私を溶かされていくのを感じた。
何もないはずなのに、ユキの顔を見れずに僅かに俯くことしかできない。
そんな私に、諭すようにユキの右手が頭を撫でる。図らずも頭を下げて、撫でてくださいとアピールしているようになってしまった。
顔を埋めて撫でられている間、いつも見ているユキの綺麗な手を思い出しながら、その感触に想いを寄せている自分がいた。
冬空の古いアパートにいるはずだったのに、初夏のあたたかな高原にいるような錯覚をして思わず顔を上げる。
ユキは相変わらず酔いどれながらも、私の顔をじっと見つめていた。
視点はブレずにしっかりと目が合って、もう一度その手がなだらかにてっぺんから後ろ髪におろされる。
私は愛しむように向けられた目を見つめながら、生まれたての小動物のように、何も言わずに撫でられているだけだった。
さっきまであった、不安や恐怖は消し飛んでいた。それどころか興味や期待すらもなくなって、残っているのは永遠に幸福を与えてくれるような心地良さだった。ゆりかごで眠る赤ん坊のような、不思議で懐かしい感情が私から力を奪っていく。
自分に鈍感な私でも理解できる。
ユキに撫でられるのが好きだ。
私の方から撫でる時は特別な感情なんてなかったはずなのに、パズルのピースが埋まっていくように触れ合うことに幸福を覚える。
こんな気持ちになるのはどうしてだろう。
昔、何かの本で読んだことがある。
飼い猫は体を撫でられると、母親に舐められた事を思い出して心地がいいらしい。
それと同じなのだろうか。
私の覚えている限り、母に撫でられたことなんて一度もない。それどころか褒められたことすらない。でも、それよりずっと前。私が生まれたばかりの頃はもう少し母は優しくて、それを無意識に思い出しているのかもしれない。
もしくは、心の奥底で誰かからの愛に飢えていたせいかもしれない。
「ひな。もっとなでてあげよっか?」
声が届いて、一瞬だけ冷静になって酔った友達に頭を撫でられて喜んでいる自分を見つめ直そうとしたけど、一瞬では時間が足りなかった。
小さく「うん」と呟くと、ユキは今度はもっとゆっくりと、刻むように回し撫でてくれた。
バカみたいな返事だったと思うけど、今の私はそれ以上に真っ白になっていて、全てを預ける気持ちだったのだろう。
心も身体もユキに寄りかかって、ただただフワフワした快い居場所で夜に耽っていた。
私はユキに撫でられるのが好きだ。
さっきも同じことを考えた気がしたけど、二回目の告白があってもいいか。
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