陽は落ち猫は月に鳴く 1

 気だるさで体がうまく動かない。全身に空気が入ったかのように圧迫感を感じ、体調がどんどん悪くなっていく。私の体はどうなってしまうのだろう。


「それ、ただの食べ過ぎですよね。」


 場所は変わって私の家。センターテーブルの正面で胡座をかきながらペンを動かしているユキがやれやれと言いように私を揶揄する。

 その通りなんだけどさ。

 てっきり今日はご飯食べてそれで終わりかと思っていたのに、きっちり勉強会が開催されていることが問題だ。


「今日はもう寝るだけだと思ってたからたくさん食べたのに。こんなに腹が膨れてたら勉強なんてできないよ。」

「はいはい。わかったから早く問題解いてください。」


 私の訴えをいとも簡単にかわして急かしてくる。ユキとは一緒にいたいけど、それと今の体調とは別物だ。


「そういえば今更ですけど。」


 思い出したようにユキがぐったりとしている私に言いかける。


「センパイってそこまで頭悪くないですよね。この前の中間考査だって悪い教科でもせいぜい下位3、4%ぐらいで、留年はしなくても済むんじゃないですか?」

 

 そういえばユキには話していなかったか。

 学力だけの問題なら去年も一昨年もギリギリ留年回避できていたのになぜ今年はキツいのか。


「五月六月あたりに色々あってね。授業にあんまり出れてないから、考査の成績で稼がないと評定もらえない。」


 色々というのは親が死んで、その後処理に時間がかかってしまったことだ。

 私が殺したみたいな表現だけどもちろんそういうわけではない。

 

「色々ってなんですか?」

「まあ、自暴自棄になったりしてね。」


 わざわざ、親が死んだなんて物騒な話をこの場でする気はないが、自暴自棄になったというのもある意味嘘ではない。

 私にとって親はいてもいなくても変わらない存在ではあったけど、私にとって唯一身近にいる人間だった。だから親が死んだ後、私も生きる意味ないし死のうかな、と思ったり思わなかったりで、高校に行かなかった時期があった。

結局は生きることを選択したわけだから悩んでいる期間は無駄になったわけだけど。


 あの時は自分の選択が正しいかどうかもわからなかったし、間違っていたとしてもどうでもいいと思っていた。

 でも、今は隣にユキがいる。それだけで生きていてよかったと思っているのは大袈裟だろうか。

 平穏な空間に大きな穴が空いたように、感傷的に全てが覆い尽くされていくのを感じ、思わず口を開く。


「ユキ。もし私が死んだら悲しい?……って飲み始めてるし………。」

「へ。なんか言いました?」


 わたしの心情の変化なんてつゆ知らず、ユキはいつの間にかチューハイの缶を開けてほろ酔い状態になっている。

 確かに私とユキの脅迫関係はなくなったわけだし、私に指図する権利はないけど、そんなに堂々と飲まれて好き放題されても困る。

 酔っている時を人格と言っていいのかわからないが、学校での元気で人気者のユキ、私と一緒にいる時の不躾で若干陰よりのユキ、酒に酔っているときの素直で生意気なユキ。3つも違う人格があるとかほぼ多重人格じゃないかと思う。

 酔いどれモードを除く2つに関しては本人も意識して性格を変えているわけだから多重人格とは違うのかもしれないけど、コロコロ対応変えるのは辛くないのかなぁと思う時はある。


「なんでもない。忘れて。」


 それはそれとしてくだらない質問に真面目になってもらわずに済んだ。

 私が死んだら、とかロマンチストみたいだけど、そんなことを聞いたところでユキを変に困らせることになるし、答えてもらっても私が返答に困ってしまう。

 私は私だ。自分の価値を他人から見出そうなんてみっともない。


「悲しいですよ。」

「え」


 酔いが回り始めたのか、顔は赤くなってわずかに声もうわずっていたが、ユキははっきりと言い切った。


「センパイが死んだら悲しいです。」

「………泣く?」


 何を聞いているんだ私は。

 酔っている相手に真意なんか問えないことは分かっているはずなのに。


「泣きます。」


 グビグビと缶を傾けながら言うユキに呆れと心配が浮かびつつ、そう言ってもらえたことが嬉しいような気がした。

 酔っていなくてもユキはそう言ってくれるだろうか。


「センパイって結構寂しがりやだったりします?」

「え、そんなこと、……………あるかもしれない。」


 今までは違うと思っていたけど、ユキと出会ってから一緒にいたいと思ってしまうのは、実は私が人間関係に飢えているからかもしれないと思うことがある。でも、他の人に対してユキに対しての感情と同じものが芽生えるとも思えない。

 ただ、どちらにせよユキがいないと心細くなることがあるのは確かだ。


「じゃあ寂しくないように、わたしがずっと一緒にいてあげますからね〜。」


 甘く、とろけるような音色となってユキの声が部屋を響かせる。不思議と抵抗なく耳がそれを受け入れて力が抜ける。


 完全に別人格だ。

 これは酔っていなかったら絶対に言ってくれないセリフだろうと確信できる。

 ずっと一緒にいてくれるとか………実際にそうだったら嬉しくないわけでもないけど。でもありえない話なので頭の片隅に先ほどの言葉を入れる余白をほんの少しだけ作っておいて、あとは忘れることにする。


 それにしても、ものの数分でここまで別人じみてしまうとは、どれだけお酒に弱い体質なんだろう。

 言ってしまえばいつものことなんだけど、そういえば最近はユキがお酒を飲むシーンが少なくなっていた気がするから、なんだか新鮮さを覚える。

 お酒を絶ったとは思っていなかったけど、できることなら体に悪いので飲まないで欲しいと思っていたので、普通に友達として心配だ。


 数分前までの理性的なユキと今の感情剥き出しのユキを見比べると、なんか、その、いろんな感情が沸き起こってくるけど、まず最初に思うことは心配の念だ。

 私になら好きにしていいけど、知らない人が見たらユキの変貌に驚いてしまうだろうし、本人の精神安定の面でも不安になる。社会的にも精神的にも酔っているユキの存在は危うい。


「センパイ。」


 ほろ酔い状態を通り越して泥酔している声が私の名前を発してそちらに意識を向ける。


「あたま」


 ああ、そうか。

 久しぶりだから忘れてたけど今日のユキは甘えモードっぽい感じがするから、いつもみたいに頭を撫でてとねだってくるのか。

 いつもの理性的なユキには悪いけど、こうやって甘えられるのも、個人的な心情としては悪くないと思ってしまっている。つい先ほどまで、お酒に酔うユキを心配していた自分はどこへ行ったのか、と突っ込みたくなるが、でも好きなものは好きだ。

 本性じゃないと分かっていても、触れているという実感だけで距離が近づいたように思える。

 ………自分でもこんな考えが気持ち悪いことは分かっているので、ユキに直接気持ちを伝えたりはしないけど。


 いつものように、頭を撫でるために手を伸ばす。

 

 ところが、今日のユキはいつもと毛色が違っていた。


 普段は自分でも自覚できない、心のどこかで願っていたことを私にわからせるように、溶けかけた笑顔で言った。


「なでさせて。」

 

 その言葉が私を狂わせるきっかけだった。

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