最前線のその先を眺めて 6
空気中に晒されて風に撫でられる左腕と、先輩に抱き寄せられて体温に守られた右腕が対照的にわたしを身震いさせる。
そこでようやく金縛りから解放されたかのように、意識が慌てて生きを吹き返した。
え、え、センパイ何やってん。
わたしの腕は抱き枕じゃないよ。
バカみたいな感想しか浮かんでこない。
抱きしめられた右腕には先輩の胸のやわらかい感触が伝わってきて、もう意味がわからない。
こんなの、当ててるとしか思えない。
なぜ先輩はいきなりこんなことをしたのか。
どうしてわたしが一日中ドキドキしなければならないのか。
生涯かけても解決できないような学術的難問の壁が立ちはだかっているようだ。
今日先輩に最初に会った時、電車で恥じらっているのを見た時、胸を見ていたと指摘された時、そして今。
4回目だぞ。どう考えてもおかしいだろ。
「ユキ。」
わずかに高揚した声に余計に意識が乱され、もとのかたちに戻らなくなってしまう。頭の中でカオスな小宇宙を展開していた。
そんなわたしに対して、先輩はなぜか緊張した面持ちだった。
意を決したかのように、わたしの腕を絡ませたまま口を開く。
「ユキ、言いたいことがあるの。」
その先はできることなら聞きたくなかった。
先輩がこのあと言うことを察してしまったから。
普通に考えれば、こんなことは確信どころか想像だってしない。
『先輩に告白されるかもしれない』なんて。
こんな考えがこの時点で思い浮かぶなんて、後々考えれば馬鹿げた妄想だ。
つい昨日までそんな関連性なんてなかったし、今日のことを追考してもありえない話だ。
思いつくはずがないんだ、こんなこと。
でも、今日のわたしは本当に狂っているから。
昨日までの重ねてきた先輩との日常。
今日の先輩の服装や髪型、それに顔色。
一度浮かんだ発想がどんどん広がってなぜか確信まで到達してしまった。
こころが暴走した機関車のように蒸気を撒き散らして高く鼓動を鳴らしている。
でも、いきすぎた考えだったかもしれないけど、予想はできていたことが功を奏した。
理性はまだ存命で、否定する体制をなんとかして整えている。
わたしは女好きではない。
もしも先輩がそうだったとしても、わたしは違う。
少なくとも、そうであってはならない。
それはわたしにとって望ましいことではない。
何もかも矛盾していることは理解しているけど、そんな状況のなかでもこれまで保ち続けてきた『意思』は崩されなかった。良いか悪いかはともかくとして。
先輩のことなんて好きじゃない。そう言って突き放せばいいだけの話。
そしたら、わたしの高鳴る鼓動も治ってくれるはずだ。
静寂を破るように先輩がゆっくりと口を開く。川辺の草の香り、水の流れる音、すべてが鮮明に感じられた。先輩の姿がスローモーションで映って目を焦がす。
「ユキ、わたしの」
興味ない興味ない興味ない
先輩にそういう興味は一切ない!
「……………ともだちになってくださ…ぃ。」
……………………………………………………………………………………へ?
なんて?
先輩の顔は耳の先までゆでだこのように真っ赤に染まってこちらをのぞいている。
心許なく揺れる瞳が、いまにも崩れてしまいそうになっていた。
トモダチ………って、あの友達?
え、そんなことを言いたかったの?
さっきまでの盛大な前ぶりはこの告白のため?
一旦限界まで思考回路の摩擦で温度が上がったあと、結露したかのように熱が体から逃げていく。温度が急激に下がったからか、肌を刺すような冷気を感じた。
ああ、やっぱり日の落ちた冬の日は寒い。
目が完全に覚めたかのように、冷静にあちこちを観察できた。
逆に先輩はわたしの目を見つめることが精一杯のようで一切目線を逸らさず、体を動かすこともなくわたしの返事を待っている。
ふと、先輩のミニスカートのサイドポケットから何か紙のようなものがはみ出ているのが見えた。
今はどうでもいいだろ、と思うものの、冷静になりすぎた頭はこれの正体を確認したがっているようだ。
そのまま空いている左腕を伸ばし、先輩の腰元へと持っていく。
今度はいかがわしい意味はないと確実に言い切れる。
「これ、なんですか。」
ポケットから紙を引っ張り出すと、先輩は少しの間何が起こったのかわからないように紙に視線を動かしたのち、慌ててわたしの右腕を解放した。
「あっ、あ、ダメ、それ。」
動転しつつも、あまり取り返そうとしない素振りだったので、遠慮なく中身を確認させてもらう。
「なになに……『意中の相手と仲良くなる方法。その1、やりすぎない程度に肌を見せて相手を意識させる。普段からのギャップが少しあるとなお良い。その2、相手が気楽でいられるような場所や時間を選択する。無理してテンプレの場所に行く必要はない。その3、いつも自分が控えめなら、大胆な行動で相手に真理を測らせる。ただし、一歩間違えるとドン引きされるので慎重に。その4………』……。」
なんなんだこれ。
わたしの朗読を聞いて、羞恥を超えてがちがちに固まっている先輩を見るに、今日の先輩の行動はこれを参考にしてたのか。
仲良くなりたかったけど近づく方法がわからず、なんとかして調べたってところか。
先輩らしい。
…………いや、ていうかこれ、友愛じゃなくて恋愛なほうのやつでは?
そういえば先輩は友達一人もいないって言ってたっけ。
ネットで調べて間違えたのか、どこかのバカに吹き込まれたのか知らないが、普通友達になろうとしている相手にこんなことはしない。
「……センパイ、意中の相手、ってどういう意味かわかりますか。」
「好きなひとのこと…?」
間違ってないけどさ。
「それってわたしのことです?」
「うん。」
「センパイは私のことが好きなんですか?」
「うん。」
「それって、友達になりたいって意味の、好き、ですか?」
「?それ以外の好きってなにかあるの?」
「…………………。」
わたしの想像していた意味とは違うことはわかっているけど、好きな人がわたし、なんてなんだか気恥ずかしくなる。
本当にピュアな人なんだな、と思う。十八年も生きてきてこれほど対人関係において無知な人は見たことがない。
でも、先輩の一手とは、わたしがもう持っていないものだ。とっくの昔に捨て去って、欲しくても手に入れることができない芽だ。
他人のものだったとしても、先輩のものだったから。だから、摘み取りたくはなかった。
「…………答えは?」
言いたいことはある。
仲良くしたいなら脅しを解け、と言っておくべきだと思う。それは先輩と関わることになった原因なのだから。
でも、今にも泣き出しそうな先輩を見ていると、ネガティブな要素を含むことばは言えなかった。
こんな表情もできるんだな。
笑ったり、恥ずかしがったり、泣き出しそうになったり、子供みたいだ。いつもは沈着な先輩が時々現す感情のこもった表情をわたしは気に入っている。
だから、他のことよりも優先してしまった。
一歩ずつ、一歩ずつ、確実に先輩に侵食されていく自分の姿を、俯瞰している別のわたしが嘲笑っているような気がした。
でも、今はどうでもいいや。
「いいですよ。今からわたしと先輩は友達です。」
無理せず、一番楽だと思った笑顔で先輩の瞳を眺めた。
心から笑顔でいたいと思ったのはいつぶりだろうか。
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