落ちた羽にはインクをつけて 4
「私に勉強、教えてよ。」
物音一つない階段の踊り場で、先輩の声だけが耳を通る。
勉強、べんきょう、ベンキョウ。
先輩が言った言葉を何度も復唱して意味を理解しようとするが、余計に考えが宙に浮いて離れていく。
この人、なんて言った?
そうだ、私に勉強を教えてくれ、って言ってた。
私が今日三年生の教室へ行ったように、頭の中で自然とこの人を、先輩、と呼んでいたように、私は二年生でこの人は三年生だ。
なら、私が勉強を教えると言うのもおかしな話だろう、と先ほど本能的に思ったことを頭の中でまとめる。
というかそれ以前に、今の私は弱みを握られているってことでいいの、、かな?
………………ふむ。私は先輩に脅されるのではないかと不安だったが、実は先輩は優しくて私にお金を返した上で黙っててくれる良い人、だと思ったら実は実は私の弱みを握って勉強を教えろと言ってくるやべー極悪人だった、ってコトか。
何故か急に冷静になって、この2分くらいの出来事を整理する。
さっきまで私に興味なさそうにしてたし、昨日のことで咎めようとする様子もなかったのに、こんな脅しをかけられるなんて思わなかった。
というか、なんで私にそんな頼みをするのか。
「橋延悠生、だよね。名前。さっきのレポート発表のとき聞いた。」
名前を呼ばれ、ビクッと自分の体が揺れるのを感じる。
「よく順位表で1位とか2位取ってるよね。たまに見かける。」
私の学校では、各学年の廊下にテストの定期試験の合計点数上位50人の名前が掲載された紙が貼られている。
確かに私は1位か2位になることが多い。それ以下を取ることも稀にあるが。
「だから、私に勉強教えられるよね。私が留年回避できたら昨日のことは誰にも言わないと約束する。」
先輩は戸惑う私に淡々と言い放ってくる。
……………。
「えーと、つまりこれは、先輩は私に勉強を教えてもらう代わりに私のことを黙っててくれるっていう交渉ですか?」
「うん。交渉じゃなくて脅しだけど。」
あっさり脅しだと認めやがったこの女。
見た目は真面目で知性的っぽいのに留年するほど頭悪いのか、この人。いや、そんなこと今はどうでもいいか。
「……さっき、自分で『店に来たこと自体は問題ない』って言ってましたよね。それに従うなら、脅しのネタにはならないと思いますけど。」
「確かに言ったけど。そのあと、『家でよく飲む』って言ってたよね。それはアウトなんじゃないかな。」
……………しまった。
過去の自分の発言を思い起こして後悔をする。
先輩が私に対してなんの敵意もないと考えていた私はついついいらないことまで告白していた。
「………私がそんなこと言った証拠どこにもないでしょう。学校に言ったところで、先輩が嘘つき判定されるだけですよ。私の方が優等生なんですから。」
こうなった以上、悪いけど最初からそんな発言はしていなかったということにしてしまおう。
苦し紛れではあるものの、先輩には実際に証拠なんてないはずだ。
しかしこの直後、私は最初から先輩の掌の上だったことをわからせられることになる。
先輩は徐に先ほど財布をしまったポケットとは反対の方から、携帯電話を取り出した。
そして画面の『録音中』の表示を私に見せつけて言った。
「全部録ってるよ。」
……………………。
何も言い返す手段がなかった。
強いて言うなら、携帯を私に見せている間の先輩の得意げな顔がすごくムカついた。
こうして私は自分の秘密を守るために、先輩に勉強を教えて留年を回避させなくてはならなくなった。
私のストレスの原因がまた一つ増えそうだと、この時はそう思っていた。
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