落ちた羽にはインクをつけて 3
「どこまで行くの。」
落ち着いた先輩の声が正面に意識を向けていた私の耳を後ろから撫でた。
ここら辺ならいいだろう。
階段の最上段に掛けた左足を踊り場に乗せる。
4階と屋上の間にある階段の中腹で先輩の手をそっと離す。
この学校では普段は屋上を開放していないため、この階段を使う人は誰もいない。
だから、誰にも気づかれない。はず。
壁の上部にある窓から差し込む光に小さな埃が舞い上がる情景が映し出される中、先輩の方に向き直す。
先輩は私が話し始めるのを待っているらしく、じっと目を見つめてくる。
この人のことを私は全く知らない。どんな性格なのかもわからないし、どこまで融通がきく人なのかも分からない。
見た目はおとなしそうな人だと思う。
でもさっき教室で堂々と私の最重要の秘密を暴露しようとしてきたところを見るに、間違った対応はできない。
「あの……。さっきなんて言おうとしてたんですか。」
先輩の顔に、ここまで連れてきてなにを今更、という意思が浮かぶのが分かる。
「昨日うちの店に来たよね。」
やっぱりそれですよね。
もしかしたら気づかれていなかったかもしれないというワンチャンスにかけてみたが、一筋の希望は無常にも打ち切られた。
………いよいよギロチンの刃が降りそうだ。
「……学校に通報します?」
「いや、別にそんなことするつもりもないけど。」
「……お金が目当てですか?」
「いや、お金は欲しいけど脅迫したいわけではないよ。」
漫画やドラマのサスペンスシーンのような会話を繰り広げているうちに私の中で一つの結論が出される。
あれ?もしかしてこの人は私を陥れようとはしていないのではないか?
いやいや、なにもないなら私を見かけても黙っててくれればいい話だ。わざわざ話しかけてくる必要はない。
私がますます混乱していると先輩は自分の制服のスカートのポケットをまさぐって、古ぼけた長財布を取り出した。
そこから一万円札を一枚取り出すと、私の方にずいっと突き出してきた。
?ナニコレ。
私がお金をもらうの?
訳がわからない。昨日バーに行ったことを黙っている代わりに口止め料を払え、と言われるのは少々漫画の見過ぎかなとは思ったが、逆にお金を渡される展開なんて聞いたこともない。
「………あの?これは?」
「昨日、なにも頼まなかったのに10000円置いていったよね。なにも買ってないのにお金は受け取れないから。なんで10000円置いて行ったの?」
そう言いながら、私の手に無理やり10000円札を握らせる。
そういえば置いて行ったな、10000円札。
なぜかと言われると、なんとなくただで居座って逃げ帰るのはなんか申し訳ない気がしたし、入った時点でなんらかの料金が発生してたらどうしようかと不安になったからだ。
「えーっと、なんか、時間で料金が決まってる的な?やつかなって。」
「キャバクラじゃないんだから。」
今日の授業の始まりから今に至るまで、ずっと硬い表情だった先輩の表情が緩み、少し微笑みを浮かべながら指摘される。
………いや、まあ、そう言われればそうか。
今日の授業の始まりから今に至るまで、ずっと硬い表情だった先輩の表情が緩んだことで、私の心もようやく軽くなるのを感じた。
よかった。この人は私に対して敵意がない。
私の脳はそう判断したのか、自分でも落ち着きを取り戻していくのがわかる。
「………聞きたかったんだけど、昨日うちの店に来てお酒を頼もうとした?」
「えと、はい………。」
かなり踏み込まれた質問をされたが、昨日あんな態度をとっておいて今更言い訳は効かないと思ったし、先輩が私を咎めるつもりもなさそうな雰囲気だったので素直に答える。
「普段からよく飲むの?」
「………家とかでは。」
「ふうん、不良だね。まあいいや。じゃあね。」
事情聴取のような会話だったが、先輩は聞くだけ聞くと、あまり興味なさそうな声で言うと、振り返ってその場を去ろうとした。
思いもよらない展開だった。一時はどうなるかと思ったが、結果的にはこうやって先輩が話しかけてくれたおかげで、これから不安を抱えなくてよくなったのだ。
胸を撫で下ろすと同時に、先輩にお礼を言わなければ、と思う。
先輩は私の不安を拭うために話しかけたわけではないと思うが、置いていった10000円をわざわざ私に返しにきてくれたのだ。
善意以外の何物でもない。
そう思って、口を開こうとした時、こちらがものを言う前に先輩が振り返って私の方を見た。
今度も先輩は少し笑っていた。
でも、さっきとは違う雰囲気を感じる。
私を安心させてくれない笑顔だった。そんな感じがした。
そのまま二、三歩私の方に歩み寄り、目の前に立って言った。
「ねえ。昨日のこと、そんなに学校にバラされるのが嫌?」
なんだか声が先ほどよりも艶やかに聞こえる。
「え、ハイ。」
あれ?学校に通報するつもりはないって話じゃなかったけ。
私がどこか嫌な空気を感じていることを知ってか知らずか、先輩は続けて淡々と言う。
「別に店に行っただけなら、特に何もないと思うけど。」
「………高校生が夜中にバーに行ってたらその時点でまずいんじゃないんですか。」
「ふぅん。そういうものなんだ。厳しいんだね。」
自分だって高校生なのに、先輩は私が別人種であるかのように話す。
そんなこと、私だってわからない。どんな処分が下るのかがわからないから今日みたいに怯えているんだ。
ただ注意されるだけで終わるかもしれない。でも、人間は悪い方に考えが進んでいくものだ。
そんな私の心情を先輩は察していたのだと思う。
さっきまで窓から差し込まれる光に照らされていた私の体は、いつのまにか日陰に押し込まれていた。
物言いたげにこちらをじっと見つめてくる先輩と目が合う。合わせたくなかったけど、合ってしまった。
誰もいない空間で先輩が口を開く。
──いい人だと思ったのはやっぱり撤回しようと思った。あと、ついでにウソつきだ。──
「秘密を守りたいなら私の言うこと聞いてくれるよね?」
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