荒廃
お茶碗だ、お箸だ、食器にまでおの字をつけて、不思議でならない。なぜ不思議かだなんて食器におの字をつけて敬う必要があるか。長考しても必要はない、しかし、言葉は必要の問題であるか。茶碗や箸などという言葉に、必ずそうでなければならい必要や必然性があるのではないのか。これは、ないと思う。何故箸とよばないといけない。二字もあるなんて贅沢。は、ではいけないのか、し、ではいけないのか。
つまり、敬語など突っつき、言葉の合理性などということを言いだすと、言葉全体を新たにメートル法式につくりあげない限り、合理化の極まる果はないのである。
敬語にあらわされる階級観念は民主々義時代にふさわしいとしても、旧態依然の生活様式があり観念があるからには仕方がない。言葉だけ変えてみたって、実質的には何らの意味もなさない。生活の実質的なものが、自分自身から言葉を選び育てるのであるから、問題はその実質の方である。
また、お前という言葉が存在し、恋人、夫婦、親友、などは「お前よび」という特権を享楽することができる。他人をよぶには貴方といって、丁寧に分け距てておく。
お前などという言葉が存在するのは下品だという。人をよぶには常に貴方でなければならない。そんなことを力説してみたって、人を差別する気持があって、相手を自分より卑しいもの、低いものに見る観念がある以上、言葉の上でだけ貴方とよんだって、なんの意味をなすのか。
人を見るに差別の観念がなければ、人を呼ぶ言葉は初めから一つになるに決まっているし、仮に英語の如く人を呼ぶに、you、の一語しかなくとも、差別の観念のある限り、youの一語も発音のニュアンスに色々と思いが現れる筈で、やっぱり根本の問題は言葉の方にあるのではない。
女房をお前とよぶのは男尊女卑の悪習だというが、「お前よび」が、近く、良い関係の中に存在する限り必ずしも男尊ではなく親密の表現でもあり、他人行儀といって他人のうちは丁寧なものだが、友達も親密になると言葉が荒れること、それも「お前よび」と同断であり、夫が嫁ををお前と呼ぶのも、むしろ親しさの表現の要素が多いと思う。
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