終/悪夢が現実なら、
――現実が悪夢なら、そんなものいらない。
雨が降っていた。
止め処ない、涙のように。
或いは、この頬に流れる熱い雫は……本当に自分の目から零れ落ちている涙なのかもしれない。
(どうして、こうなったんだろう……? これは、ほんとに現実……?)
――なぁ、どうして、どうして……。魔力香を辿った先にいる奴が……ムクイと同じ声をしてるんだよ。
雨の中静かに佇む影はぼんやりと浮かび上がってくる。もう、そんな距離だ。
右目にガーゼ、包帯や絆創膏だらけ、三角巾で隠された頭。
見たことのない人物だ。
それはあたりまえだろう。何せ、
それでも、その声だけは忘れないほどに聴いてきた。
今だって、夢杙の優しい声が耳に残響している。
バシャン、アックスが地面に落ちる。かろうじて手が掴んでいてぶら下がっている状態だ。
物理的に遮断されると魔力も通りづらくなるから、こんなに雨が降っていると魔力香もわかりづらい。それでも、質のいい魔力がここまでだだ漏れになっている。
……甘く澄んだ、白百合の香りだ。
相手は逃げる気もないようで、ただこちらを見つめている。
朧げな姿で、しかしあまりにも綺麗だった。
それは、声から思い描いていた夢杙の理想そのものみたいで、あまりにも透きとおっている。
この世のものとは思えないくらい。
黒い三角巾でそのほとんどを隠されているとはいえ、ふわりとした墨のような色の髪。まるまると輝く青と緑の海や山みたいな深みのある瞳。白い肌に、今は少し血色の悪い寒そうな唇。白い着物を纏って、より神々しい。
誰にも興味がなくて、大して姿形をきちんと見ることがなかった。
だから、人の美醜なんて比べようもないのだけれど、それでも圧倒的な綺麗さがそこにある。
嘘だって、云ってほしかった。
何もかもを捨てて逃げることを決めたけれど、それでもたった一人殺したくない、喪いたくないと思っていた存在がいた。殺しがしたくなくて逃げたのに、どうしてこうなるのか。
雨が降る。
泣き虫な天は、今揺唯の心だった。
殺したくない、でも自分が死ぬ気もない。
けれど、組織の命令を反故にして生き残れるとも思えなかった。
どうしたらいいのか、どうしたら目の前の存在を守りながら自分も生き残れるのか、なんてちっとも考えつかなかった。
それでも、自分のしたくないことをするな、でも自分を蔑ろにもするなと云った
どうしたらいいかはわからない。
それでも、揺唯は自分が死ぬ気も、夢杙を殺す気もなかった。
――こんな悪夢みたいな現実なら、いらない。いっそ……、悪夢ならいいのに。
願いは、誰かにとどいたのだろうか。
∴
止め処なく降る雨の中で、揺唯は泣いていた。
涙を拭いてあげたかったけれど、あいにく距離が空いていたし、大雨の中じゃ無意味だってわかってた。
一応の初対面だけれど、声であの〝ムクイ〟だと理解したらしかった。
「おい、お前が白籠か?」
と訊かれて、
「そうですよ、揺唯さん」
と答えただけだけれど、その一言で氷解したのだろう。
白籠も、そうして状況を理解した。
裏切者に、裏切者をあてたのだ。ボスは、組織から抜けたい揺唯に最後の任務として裏切者を始末したら許してやるという条件を出したのだろう。でも、仲のいい二人がお互いを害せるわけがなく、結果としてお互いで縛り合って組織から離れられなくなる、そう踏んだ。
揺唯のためなら、揺唯が自らの自由のために殺したいと願うなら、死んだってよかった。
……命を終える瞬間が、愛しい人の腕の中、だなんてむしろ願ってもない幸せだとさえ思う。
「……うそ、だろ?」
「いいえ」
「妖精さんの仕業だろ……?」
「いいえ、これはおとぎ話ではありません」
「……どうして。だって、ムクイは悪いことなんてしてないだろ……?」
「いいえ。わたしは、組織から逃亡する、という罪を現在進行形で犯している最中です」
「なに、云ってるか。わけわかんない。だって、ムクイは逃げる気なんてなかったじゃん!」
「いつか、逃げたいと思っていました。時期が被ったのは偶然です。けれど、あなたに追いつかれてしまった以上、遅かれ早かれわたしは殺されます。どうぞ、情け容赦なく、ひと思いに殺してください。他の誰かに殺されるより、わたしは幸せです」
微笑んだ。
だって、本当に幸せだから。
心から笑みが浮かんだのだ。
けれど、白籠の笑顔に比例するみたいに、みるみるうちに揺唯の顔が歪んでいく。
「お、れは……ムクイをころしたく、ない……っ! そんなことで得られた自由なんて、ほしくない……っ。おれが欲しいものは、そんなんじゃない‼」
そう、真っ向から否定された。
そうだ、誰も殺したくないと組織を抜ける揺唯に、知り合いを殺させるなんて酷いまね、させられない。
自分で首をかき切ってもいいけれど、結局それは同じことだ。
秘色色の髪が、藍白の瞳が、雨に濡れて煌めいている。それは、冷たい氷のようでいて、どこまでも強く輝くダイヤモンドのように高潔だ。
こんな綺麗な人を、こんな純粋な涙を流す人を、白籠は知らない。
震える唇に、早く温かな場所へ連れていってあげたい、という気持ちが湧き上がる。寒がりの揺唯に、こんな雨の中なんていさせられない。
触れて、少しでも体温を分け与えられればいいのに、と思う。
そう、初めて対面するのだ。
ある意味、出逢い。
それがこんな雨の中だなんて、少し悲しい。
「こんなっ、……悪夢みたいな現実ならいらない! ……いっそ、悪夢ならいいのに」
揺唯が泣き叫んだ。
魂の叫びだ。
――……そう、それがあなたの願いなら、わたしは。
白籠の瞳に、覚悟の火が宿る。
「わかりました……。それが揺唯さんの悪夢なら、わたしが喰いちぎる」
だから、どうか泣かないで……。
哀しいことなんて、辛い現実なんて、ここにはないから。その悪夢の記憶を、喰らう。
――あなたはただ、何も知らずに平凡な日々にいて。
近づく白籠に、呆然と立ち尽くす揺唯。
白籠は優しい、いっそ艶やかな笑みを浮かべて、何も怖くないというように穏やかな表情でいた。
殺そうとしてきた相手に対して。
愛しいものを見つめるように。
そこまでの深い慈愛は、いっそ狂気じみている。
触れる、額に熱が帯びて――初めて触れた温もりは冷えきっている。
額にする、それは確かに白籠が初めて揺唯にした口づけだった。
黒い魔力が揺唯の額から白籠の口の中へ、束になってなだれ込む。
この辛い現実そのものを、悪夢という概念に閉じ込めて、喰いちぎる。
雨脚が弱まっていく中、ぱたりと揺唯は倒れ込んだ。
支えきれなくて、白籠諸共地面に蹲る。
そこにあるのは確かな寝息で、白籠はほっと息を吐いた。
自らの禁を破り、罪を犯した。
それでも、抱き留めた温もりだけが確かなもので、向こうの空に晴れ間が見えた。
――悪夢が現実なら、わたしが喰らう。
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