肆/終末
――物語の終末に、いったい何を捨て、何を得るのだろう。
悪夢と現実の区別がつかないほど、
人間として存在する前から悪夢ばかり見ていたせいか、日頃ぽやぽやしていて五感が鈍いのか、痛みを苦痛に感じることはあまりない。
ただ……、
……でも、ボスを傷つけてるのは自分なのだ、と思う。
お世話になっている身でありながら、裏切ったのはこちらが先だ。内部職務監査役という任を帯びながら、報告を怠った、意図的に。組織から勝手に抜けようとしている揺唯のことを、報告せず、むしろ手伝いさえした。
だから、傷つけられて当然なのだ。
饐えたような臭いと、鉄の臭いばかりが鼻についた。
片目がよく見えないし、背中も腰も鈍痛が響くし、腕も脚も動かしづらい。
記憶も少し曖昧でちょっと頭を打ったかな、ととぼけてみる。
寝起きの頭が少しずつクリアになっていって、鮮明な記憶が流れだす。
豪奢なベッドの上だ。ボスの、部屋。
揺唯のことを何か知らないかとか、逃亡を手伝ったんじゃないかとか、お前も逃げる気なんじゃないかとかいろいろ訊かれて、何も知らない、わからない、ごめんなさいを繰り返した。そのたびに、殴られ、蹴られ、蹂躙された。
実際、詳しい情報は何も知らない。だから、答えられることは何もない。逃げる気もない。でも、裏切り行為をしたのは確かなので、罰に甘んじるしかないのだ。
気がつくと、医務室のベッドの上だった。
「……どう? どこか痛む? お水は飲めそう?」
心配そうに見つめられている。きっと、床に臥せることの多かったメリーさんと重ねているのだ、と思った。
「だいじょうぶ、です。いたくない。それより、首尾はどうですか?」
揺唯さん、と名前を口にすることはできないので、そう訊いた。
「そっちは
小声で伝えられた言葉に、ただ首肯だけを返した。きっと、ここまで連れてきてくれたのも、手当てしてくれたのも、可鳴亜だ。たくさん迷惑をかけてしまった。謠惟がいるから可鳴亜に危害が及ぶことはないと思っているけれど、これ以上頼ってはいられなかった。
「あの、お世話になりました。謠惟室長にも、そうお伝えください」
ぺこり、と頭を下げて医務室を出て、可鳴亜と別れた。
心配そうな視線が背中につき刺さっていることは知っていたけれど、振り向かない。
通信室に寄って、いつもの制服を着て、要る物を肩掛け鞄に詰め込んだ。
大事な万年筆や手帳、ハンカチに医療セット、財布。予備の三角巾。一冊の本。手紙。
自室にも、自分の物なんて大してなかった。
名残惜しい、とはあまり思わない。
振り返れば、眠りたくないと必死になって、自室にもさほど寄りつかず、かと云って通信ばかりしているせいか通信室自体もあまりここが自分の場所だな、と感じたこともなかった。
――捨てられる前に捨ててやれ。
謠惟に云われたとおり、バリバリと書類を破り捨てた。
紙吹雪に見送られた、白籠自身が初めて選んだ、門出だ。
∴
つい先日、揺唯が一応の別れのあいさつをしに来た。
餞別は告げ口しないことだが、どうせ追っ手が来るぞと忠告だけはしておいた。すると、ぶっきらぼうに感謝の言葉を告げられたので何かと思えば、
「ムクイが、謠惟も妖精さんやってくれてたって云ってたから」
と呟いた。大の大人が妖精さんというのも微妙な気分だが、まあ素直に受け取っておいた。
「……自分のやりたくないことはするな。だが、自分を傷つけるようなまねは絶対するな」
最大限の助言/お節介に揺唯はあたりまえだろ、と云い捨てて去っていった。振り返りもせず。
これから残酷な運命が待ち受けている、などとくだらない予言はしなかった。揺唯はもう裏組織を抜けるということがどういうことかわからないド素人でもないし、それをわかっていて佐けてやれない人間が口にすべきでもなかったからだ。
白籠には、それよりずっと前に鍵を渡している。雑用と添い寝を云いつけたときに、隠れ家の鍵を渡した。計画の内容も、なんのための鍵かも伝えていないのに、白籠は何もかもを察して「ありがとうございます」と微笑んだ。
これから、ボスにどんな酷いことをされるか、どんな運命が待ち構えているかおおよそ見当がついているのに、先んじて庇ってもやれない。それなのに、本当にうれしそうに。そうなる前に逃げていい、と云いそうになった。白籠は、そんなこと求めていないのに。それでも、彼人のプライドを傷つけるようなことを云いそうになったのだ。
「……すまない」
揺唯にさえ、上子の矜持として謝らなかったのに、白籠の優しさに甘えて謝罪してしまった。それは、彼人の優しさにつけ込み、縋る言葉に他ならないのに。
「これが悪夢なら、喰らいましょうか?」
「いや、白夢の前哨戦だ」
「でしょう? なら、謝ることなんて何もありません。それでは、また」
さようなら、とは云わなかった白籠を信じた。
これが悪夢だと云うのなら、それは白夢のための始まりでしかないのだ。そのために、今自分が情けをかけて台無しにするわけにはいかない。
花椿がたった一人の妹のために世界を変える計画を立て実行した、その覚悟を想った。
そして、その跡を継ごうとしているのだ――ノックの音に、はたと現在に戻った。
許可を出す前から入ってくるのは揺唯か可鳴亜くらいなもので、前者がもう旅立っている以上、それは後者でしかありえなかった。
「白籠、見送ってきた」
端的な言葉とは裏腹に、苦々しい表情がその辛さを物語っている。見送るしかできない人間の、どうしようもない感傷だ。
「はあ……。今更ながら、姉さんはいつもこんな気持ちだったのかなって思い知らされる」
これまで避けてきたはずの
「ボスやその傀儡連中は、他の件にかかりきりにさせている。そっちの首尾は?」
「完璧。監視連中はまるっと買収しておいた」
「よし、しばらくは行方を晦ませられるな。その間にすべて終わらせる」
「ボスたちが気づく頃には、すべてのお膳立てが済んでるってわけだ」
「……ああ、だが。メリアのこれまでの成果を台無しにしないためにも、すべての組織の力関係を調整しながら、裏組織が蔓延る時代を終わらせなければならない。この、時代遅れな殺し屋も含めてな。新しい時代の職場も必要だ。その準備期間、囮になってもらうのは心苦しいが、始めたからにはやりきるしかない」
「わかってる。この檻を愛してるけど、境界地にも夜明けが来なくっちゃ」
――きっと、姉さんも目覚めない。
――朝が来て、日が昇れば、いつかはメリアも……。
それは、花椿を知る人間皆の祈りだった。姉妹二人だけという限りなく小さな世界で生きてきた可鳴亜に、初めてできた下子/友人である白籠、同じように気にかけていた揺唯、二人の安否を気遣う憂い顔はどことなく花椿に似ていた。たとえ、血が繋がっていなくても、長い時間と強い絆で繋がっているのだ、と改めて感じた。
「ほんと、やんなる」
「……人の顔を見て、藪から棒に、なんだ?」
「今の謠惟の顔、何か企んで一人で背負い込んでる姉さんと、そっくり。やめなよ、似合わないし。ちゃんと、あたしのことも巻き込まないと許さないからね」
同じようなことを互いに思っていたのだから、ある意味似た者同士なのか、或いはどうしようもなく花椿で繋がった二人ということなのか。
「上子なんて、皆そんなもんだ。実際、白籠や揺唯が下子みたいになって、実感しただろう?」
「ふっ、それは否定しない。どうしようもなく愛しくて、佐けてあげたくなるよ。でも、いつの間にか、いつも佐けられてる。姉さんにとって、あたしもそうだったんなら、よかった」
「あたりまえだろう。どんなに近づいても、メリアは可鳴亜以上には愛してくれないからな」
「はぁ、うっざ。姉さんの恋人気取り? 姉さんが目覚めて、きちんと報告してくれるまでは少なくともぜったい認めないんだから」
姉に対するやわらかな言葉はどこへ行ったやら、ぴぃぴぃと小うるさい囀りが、今はとても心地よかった。
――悪夢では、終わらせない。
∴
――天には泣き虫がいるんです。誰かの代わりに泣いちゃうような。
鈍色の空が泣きだした。
誰かが泣いてるんじゃないか、ってなぜか心配になる。
以前、
ムクイが哀しんでなきゃいい、と思う。
ぽつり、ぽつりと黒い服を滲ませていく雨はやがてじゃじゃ降りになった。世界のカーテンみたいに覆い尽くす雨は、いっそ薄汚い裏街を綺麗に見せてくれる。
地上のオーロラだった。
……嘘。
揺唯はオーロラなんて見たことがない。夢杙に聞いただけだ。
ここで云うオーロラ、とは旧時代とは異なり魔力の質や魔力濃度が奇跡的な連なりをしたときに見える、魔力光のカーテンのことである。
魔力の波と波がぶつかり合う、それこそ境界地みたいな所でよく見られるらしいが、あいにくこの魔力の少ない境界地ではちっとも見た試しがない。
……或いは、空なんて見上げて歩いている明るい人間がこの辺りにはいないだけかもしれないが。
すこし、さむい。
服もびしゃびしゃだし、体温も下がる。
心も、冷えていく。
これで、雨が彼人を隠してくれるならまだましだったのが――
じゃきん、とアックスを構えた。
けれど、囲まれている。それに、この天気だ。
コンクリートの道が、つるつると滑る。
圧倒的に揺唯が不利だった。もう見つかったのだ。
――……追いつかれた。
謠惟にも追っ手が必ず来ると云われていたし、勝手に組織を抜ける以上仕方のないことだと思っていたが、予想していたより早かった。
殺し屋組織の情報網をなめていたかもしれない。
おそらく、ボスの秘書だと思われる副官が前に出てきた。狐顔で眼鏡をかけている、なんだか胡散くさい顔をした奴だ。嘘吐きのニオイがする。
取り引きしよう、と云うのだ。
とりあえず、雨音でまともに会話もできないから、とどこかの廃屋の中に移動した。相変わらず、びっちりと十数人の手練れにマークされている。
「お前も、こんな所で死にたくないだろう? 何、別に組織に戻れというわけでも、今から拷問するというわけでもない。この任務を完遂しさえすれば、無事も保証するし、脱退も認める。破格の待遇だろう? ただ、組織を抜ける穴埋めとして少々面倒な殺しを一つ、ヤってくれればいいだけだ。そいつがものすごく強いというわけでもない」
にやり、と意味深長な笑いを零す。
怪しい、と思いつつも実際この状況では承諾以外の選択肢がない。
殺したくないから組織を抜けると云っても、今から殺す命とこれまで殺してきた命に差異があるわけじゃない。ただ、自分の抱える重みが違うだけだ。
抜けるための最後の任務、だというなら妥当な気もした。正当な権利だ。
仕方なく、差し出された布切れを手に取った。
「それに残ってる魔力香で追え。今日逃亡したばかりだから、たぶんそこまで遠くには行っていないはずだ」
自分と同じ組織からの逃亡者なのだ、と知った。
だからこそ、別に強くなかったとしても心情としては殺しづらい。
まったくと云っていいほどメンバーと関わらなかった揺唯にうってつけの任務だ、とも云える。
ボロボロで、血のついた……おそらく服の一部。
鼻を近づけた。
別に、魔力香は鼻で感じ取っているわけじゃないけれど、そうしたほうが感知しやすい気になるのだ。
ふわり、と香る残り香は、どこかで感じたことのあるような、魔力の残滓に似ていた。
――百合の、香り。
すてきな魔力だけに、それを殺してしまうのは惜しいと思った。
そして、秘書は酷薄な笑みを浮かべて処刑対象の名を告げた。
「そいつの名は――白籠だ」
――物語の終末に、悪夢が訪れる。嵐のように。
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