参/過去と亀裂



 ――夢を見る。獏は夢を見ないから、それは単なる自分自身の過去なのだ。


 白籠はくろうが白籠という名前を持つ前、彼人は獏の幻想存在だった。姿形を持たず、ある山間の寒村で悪夢を喰らい白夢しろゆめを呼び寄せるという信仰によって幻想として存在していたのだ。

 獏さま、または獏神さまと呼ばれていた。ちなみに、白夢とは吉夢の吉の字を「士」と「ロ」に分けて、漢字の士/シとカタカナのロと読むことでできた、吉夢の云い換え言葉であり、また悪夢を黒い夢だと考えるのに対して、吉夢は白い夢だと考えたことからだと云われている。

 そして、獏は動物のバクと混同され、バクの黒いところは悪夢を喰らっているからで、白いところから吉夢を分けてもらっていると考えられたそうだ。

 閑話休題。

 白籠の元となる獏さまは、ずっと微睡んでいた。人が信じる限り、願う限り、悪夢を喰らい白夢を祈った。獏さまは残念ながら神さまではなかった。だから、その人にとってのいい夢がどんなものかは知らない。ただ、少なくとも悪夢を喰らえば悪い夢を見ることはなくなるだろう。そして、信じる者は救われる。おおよそ。悪夢以外の夢を、いい夢だったと思えるかどうか、気の持ちようだと思う。

 獏さまは存在の在り方として、そもそも悪夢を食糧とする幻想だ。だから、悪夢を喰らい続けることにストレスだとかそういうものはなかった。ただ、お腹が満たされるようなもので、美味しくも不味くもない。たくさん食べられれば幸せ、そんなものだ。

 だって、人ではないから。

 人は獏さまに人の心を望みはしないから。でも、悪い夢から逃げたい、見たくない、いい夢を見たいという人間の心の底からの願いを叶えてやりたいとは思っていた。悪夢の内容がどうであるかに拘わらず。悪夢が、きっと人にとっていいことではない、ということはわかっていたから。反対に、獏さまは悪夢しか知らなかったかといえば、そうでもない。

 夜は悪夢を喰らい視て、昼は人の世を微睡んでいたから。いい夢を見て日中を明るく過ごす村人たちの活動が、笑顔が獏さまにとっての白夢であり、現実という名の触れぬ獏さまの夢そのものだった。だからこそ、悪夢が哀しくて辛くて嫌なことだということを知っていたのだ。そして、そんな悪い夢が現実に侵食しませんように、と祈るのが日課だ。

 ……でも、どちらにしたって、存在に形のない獏さまにとって不確かな夢でしかなく、現実も何もあったものではなかったけれど。

 獏さまは、寒村の過疎化によって弱体化したかというとそうでもなく、長年にわたって人の悪夢を喰らい続けたお陰で存在が希薄にならず、わずかな信仰であっても存在し続けられていた。

 ……もちろんそれも、信仰する人間がいなくなれば、いずれは消えていただろうが。

 幸か不幸か、奇しくも獏さまが幻想存在として顕現する日がやってきてしまう。

 夏の、山だ。

 日射しに焼かれそうな暑さが続く中、寂れた山村はしかし鬱蒼とした木々に囲まれて涼しさを保っていた。そんな深い山中に、赤子が捨てられた。アスファルトの上よりマシと云えど、ろくにその身一つで魔力変換もできぬ子どもが真夏の山中に置き去りにされて、生きていられるわけがない。捨て子はほどなくして死んだ。――獏の、信仰される山の中で。

 故に、赤子は幻想存在の贄となり、獏さまを顕現させる依代となった。

 尤も、その時点で死んでいた赤子の要素などなく、獏さまという不確定な幻想存在が人という形をもって具現化しただけなのだが。

 それが、何百年何千年という微睡みの中に生きた獏さまが、人として生まれ直した瞬間だった。

 そういった特異な顕現のせいで、獏さま(人間体)は歪な人間になってしまっていた。元々、獏とバクが混同された幻想存在だったこともあり、見た目バクの獣人のような耳としっぽを持ちながら獣人ではなく、人間でありながら生式を持たない(正確には再誕ができない)。死んだ人間を依代にしたことも、原因の一端かもしれない。

 元々、バク耳のくせに垂れ耳気味なのは、本人の気質によるものだろう、たぶん。昼夜もなく夢を見続けたおっとりした獏さまは、目も耳もちょっと垂れてしまったのだという暴論だ。

 ともあれ、人間の赤子として、依代/贄となった赤子がいた籠の中に顕現した獏さまは、信心深い老逑に見つけられてその子どもとして育てられることになる。

 ……だから、もう少し発見が早ければ。或いは、こんなことにならなかったのではないか。赤子の人生を奪わずに済んだのではないか、と考えることがある。でも、それは詮無いことだ。獏さまの産声だからこそ彼人らは聞きつけたのだから。でなければ、その日もいくら村人とはいえ、山奥にわざわざ分け入ることもなかった。

 そうして獏さまは、白籠と名づけられ、老逑に匿われるように大事に大事に育てられた。だって、獣人ですら迫害される世の中/時代で外の人間に知られたらよくてモルモット悪ければ即死刑である。信心深い他の村人だって、周知されれば神さまのように祀られるかもしれないが、半ば監禁のように人として生きさせてはもらえないだろう。

 もちろん、老逑の家の中を出られないのだったらそう変わりはないかもしれないけれど、なんにせよ養父母は白籠を守ってくれていたのだ。獏さまのお子だ、と敬い尊びながらも、人として生まれ落ちた白籠をできるだけ普通に暮らさせてあげよう、と。だから、白籠も二人が望むように平凡に生きた。

 二人の悪夢を喰らいながらも人間のように食事を摂り、農作業を手伝い、家事を習い、勉学を教えてもらい、日々を過ごす。人間になってからも夢見がちでぼうっとしていることが多く、手つき・足運びすらふわふわしている不器用な白籠は失敗も多かったが、二人のためにと努力を続けて慣れれば上手くできるようになった。白籠にとって二人は父母だったが、当人たちからすると年齢的な問題なのか、それとも紛いなりにも信仰している神さまのような存在の親を名乗ることは気が引けたのか、或いは両方か。呼び方はおじいさん・おばあさん、とどことなく他人行儀なものを教えられた。

 山村の中でも奥まった土地にある、和風家屋。二人暮らしだったわりには広く見えるかもしれないが、広い土地にしてはこぢんまりとした木造平屋だった。使用する部屋は二・三部屋くらいで、あとはほとんどが物置か未使用になってしまっている。

 白籠一人増えたからといって、自室を求めるでもなし、使う部屋が増えることもなかった。

 小さな白籠は幻想存在が元であることもあって、魔人の中でも特に早く成長した。幻想種が成人するまでが早く、あとはまったく老化しないのと同じ現象だ。

 おじいさんは農作業で汗水垂らしながらも家に帰ると気さくで陽気な語り部だった。おばあさんはおじいさんの手伝いをしつつも家事に勤しみ、白籠に勉強も遊びも教えてくれる優しい先生だった。

 農業でほとんど自給自足し、たまに行商人と物々交換してやりくりする日々は決して裕福ではなかったけれど、おじいさんとおばあさんは仲睦まじくお互いと、そして白籠がいてくれればそれでいい、という愛に満ち溢れた人たちだったので幸福な生活だったのである。

「ぼくの名前は、どうして白籠なのですか?」

 いつだか、小さかった白籠は名前の由来を訊ねた。

「それはね――」

 おばあさんはしわがれた声を殊更優しく、皺をさらに深くして答えてくれた。

 曰く、白はバクの濁点をなくして、籠は獏が喰らった悪夢を自分の中に籠らせるという意味で。白夢と拾ったときに籠の中に入れられていたからでもあって。また、白と黒のバクがいることから、名前全体の中にハクとクロ、つまり白と黒を入れているのだ、と。

 或いは籠の字を入れたかったのは、その籐でできた籠こそが唯一実の親との縁だと養父母は思っていたからかもしれない。尤も、白籠自身は捨てた母親の子ではないから、血縁はないのだけれど。

 白籠は誰の目にも触れず生きていたけれど、それでも一応おばあさんの縫ってくれた黒い三角巾を肌身離さず頭につけていた。もし、一度姿を見られても預かっている子だとか迷子だとかどうにか云い訳が立つ可能性もあるけれど、バクの耳を見られてしまったら一発で終わりだから。

 白籠の和服も、すべておばあさんが布を縫って作ってくれたものだった。あたたかな魔力が籠っている服は、まるでその優しさに包まれているようで安心感があった。けれど、やがては腰の曲がったおじいさんたちの背を抜いて、古着では賄えなくなっていたのだった。……それを、おばあさんは作りがいがあると喜んでくれたけれど。十になる頃には完全に身体が成熟しきって、ぱたりと成長を止めた。魔人でいうところの、一六くらいになっていたと思う。

 白籠が夢見がちなおとぎ話ばかり喋り、本気の演技をするのは、元々夢見る獏だったからでもあるけれど、面白おかしいことの語り部だったおじいさんの血を継いでいるようなものだった。

 午前中農作業を手伝って、午後から勉強をして、合間合間で家事を手伝って、暇になるとぼうっとするか本を読むか、お手玉や折り紙といった古めかしい遊びに耽る。おばあさんと一緒に何か作業しながら、童謡を二人で歌うこともよくある風景だった。そして、仕事から帰ってきたおじいさんのおとぎ話を聞くのが白籠の楽しみだったのである。

 ――いつだったでしょうか。死期を悟ったのか、おじいさんはこんな話をしてくれましたよね。

 大漁大漁、と旬の野菜を籠にたくさん入れて帰ってきたおじいさんは上機嫌で、それらをふんだんに使った料理をおばあさんと二人で作って、ちょっと発泡酒なんて開けちゃってさらに口は滑らかになっていた。

「人は死んだら、地上の星になるんじゃよ。プリズムっていう名の、心の煌めきを残す。そして、流れ星とは反対に天へと昇っていくんじゃ。人は皆、生まれたときから心に星を持っている。色も形も輝き方も違えば、成長の過程でその形さえ変える。人と関わり合う中でその光を篝火のように与え合い、影響させ合っていくんじゃ。……だから、わしらが死んでもわしらが白籠に与えた光はお前の中に生き続ける。反対に、白籠の光もまたわしらに灯りを点してくれている。いつも、たくさんもらっているよ。じゃからな、白籠もまたわしらが与えた光を誰かに与えてあげるといい。そしたら、きっと白籠の周りは星がたくさん煌めいてくれるじゃろうて」

 星空の下、縁側で三人、ラムネを飲んでいた。

 星が瞬く。

 そんな話を聞いたばかりだから、今誰かが死んだのかな、と思ってなんだか哀しくなった。

 ……別に、輝かなくたっていい。

 星なんかじゃなくて。

 傍にいて。

 でも、それはハッピーエンドのためのおとぎ話だったから、白籠はそうなんだって頷いたんだ。

「……じゃから、プリズムはそのまま天に帰しておくれ」

 こんなのって、もう遺言だ。

 死んだ魔人は、やがて肉体が消え、魔力が集まってプリズムを顕現させる。それをどう扱うかは遺族に一任されている。ある種の棺となる魔力石で作られた特殊な瓶に詰めて保存し続ける人もいれば、高い場所や海などに飛ばしてしまうこともあれば、そのまま天に昇って自然消滅するまで待つこともあれば、花壇や木の下などに埋めることもある。

 二人のプリズムをそのままにしておいてくれ、と云われているのだ。

 無知なふりをして、ただ頷く。

「きっと、隣で寄り添い合う何よりも輝く星になるんですよね」

 カラン、って瓶の中のビー玉が鳴った。

 想像したのは、粉々に割れた瓶の中から出てくるビー玉と、それが天に昇って星になる姿だ。

 きっと、口の中に溶けたしゅわしゅわした泡みたいに、プリズムは呆気なく消えてしまう。

 人の世にある、皆が見る蔓延った悪夢だ。

 二人は、もちろん目立ちすぎるくらい輝くじゃろうよ、って笑っていた。

 白籠が成長するにつれ老いていく二人に、

「白籠はおじいさんおばあさんの負担になっているのではないですか……?」

 と、訊ねてしまったことがある。

 ただ飯食らいだし、不器用で手間を増やすし、あまり手伝いにもならないし、存在を秘匿しながら子どもを育てるというのは難しいことだとわかっていた。人間として存在する自分は、あまりにも役立たずだった。だから、申し訳なさが卑屈な言葉を紡がせた。けれど、その言葉こそ二人を悲しませたのである。

「白籠がうちに来てくれてから、白夢しか見ないわ。それはね、獏さまのお力がすばらしいっていうことだけじゃないのよ。白籠と一緒に生活していると、毎日が楽しくて仕方ないからいい夢が見られているんですからね」

 白髪ばかりで、手もしわくちゃなおばあさんが白籠の手をふわりと握ってくれた。弱々しい力だ。いくら白籠がひ弱でも握力で負けることはないだろう、というくらいの。

 これは、云わんでおいたことじゃったが……、とおじいさんも続いた。

「わしらは子宝に恵まれんかったからの。この時代じゃ、村でも白い目で見られた。この歳になってでも、ようやく現れた子がうれしゅうて仕方ないんじゃよ。白籠はいい子じゃしな。それにな、子どもが大人の負担なんて考えるもんじゃないわ。楽しく、幸せに生きなさい」

 わしわし、とやっぱり皺だらけの硬い手で頭を撫でられた。おじいさんの骨張った手も、ほとんど皮しかない。痩せ細っていっているのを、肌で感じた。

 わしが子どもの頃はもっと酷かったわ、親に反抗してろくに勉強もしちょらんかった――そんな言葉に笑い合った。

 二人を悲しい顔にさせたくなくて、二度と卑下するようなことは云わなかった。

 それは、二人と過ごした最後の誕生日のことだった。

 誕生日といっても、二人に拾われた日のことである。

 けれど、依代となった赤子の命日だから、と頑として祝われることを拒否し、その日一日はずっと喪に伏していた。毎年。

 ――莫迦で愚かな白籠。

 養父母はいつだって、白籠の誕生日を祝いたがっていたのに頑固で。二人の喜ぶ顔が見たいなら、たとえ苦しくたって笑って祝われておけばよかったのに。

 ……自分の生まれが誰かの死によって成り立っているという事実に、耐えられなかった。

 だから、生まれて間もなく死んでしまったあの子のことを、毎年悼んでいる。

 けれども、そこでただ云いなりになっているだけの二人でもまた、なかった。

 あの手この手を使って、白籠にとって哀しいだけじゃない日にしてくれようとしていた。

 死んだ赤子を悼むため、という名目で和菓子を買い、花を飾り、宴会を開いた。花火を咲かせた年もあれば、簡易プールで水浴びをした年もあり、ひたすら歌っていた年もあった。おじいさんのこじつけじみたおとぎ話に乗せられて、なんだかんだ祝われていたし、楽しんでいたんだと思う。

 ……そう考えれば、最後の年は静かなものだった。

 神壇かみだんの前で正座して、線香を挿し、ひたすら祈っていた。

 神壇というのは、神さまに祈りを捧げたり、遺影などを飾って悼んだり、供物を捧げたりする場所だ。昔の宗教を元にした風習らしく、一部の田舎や旧家でしか見られない。この壇には蝋燭や「獏」の描かれた書画、日持ちする和菓子などが置かれていた。白籠が傍にいても二人は獏さまを信仰していたから、毎日神壇に祈りを捧げる習慣をやめることはなかったのだ。

 思えば、一番記憶に残っている匂いは線香の香りなのではないだろうか。畳に使われた藺草の匂いだとか、古くさい木の匂い、土の香り、季節の花々の香り、おばあさんの作る料理のにおい。

 たくさんの匂いがあった。どれも身近で思い出深いものだ。

 けれど、染みついて離れない匂いは、やっぱり線香だった。

 二人と一緒に毎日神壇に手を合わせていたし、家にすっかり染みついた匂いだったし、二人からも野菜や土のにおいよりも線香の香りが漂っていた。

 それは、神々しい香りなんかではなくて、死臭じみていたけれど。

 その年は静かに誕生日が終わろうとしていた。

 晩ごはんが少し豪華で、デザートに羊羹がついていたくらいでこれといった行事はなかった。ただ、寝る前に二人は云った。

「白籠、わしらが死んでも毎日ああやって悼まないでええからの」

「いつだって、白籠の傍にいるんだもの」

 死期を悟っていたのだ。

 そんなの、白籠だって気づいていた。

 二人は一緒に逝ってしまう。

 逑になるときに、永久契約をしているから。

 それは、魔力だけでなく命まで繋げる契約だ。愛し合う逑は、どちらかに置いていかれたくないから、と永久契約することがままある。

 置いていかれるのは白籠だけだ。

 毎日毎日思い出して、悼んで、祈ってやる、なんてわがままは云えなかった。

 だから、やっぱり聞き分けのいい子どもみたいにただ頷いたんだ。

 その日は、間もなくしてやってきた。

 養父母が亡くなった。

 数週間前から家事も農作業もままならなくなった二人の代わりに「ぼくがやっちょくよ」といろんなことを白籠一人でやりきり、前日にはすっかり布団から動けなくなった二人を白籠が看病していた。「もう、はくろうはなんでもひとりでできるようになったねぇ」なんて緩やかにぼんやりとした瞳で微笑まれたのだ。……だからって、一人でいいわけじゃないよ、寂しいよ、なんて云えなかった。ただ、「でしょう? 二人に育ててもらったから」なんて笑った。「そうじゃな、さすがわしらの子じゃなぁ」って弱々しい手で撫でられた瞬間、泣きそうになった。小さい頃、おじいさんの手は既にしわくちゃだったけれど、とても大きく感じていた。……今では、すっかり白籠が越してしまっている。白籠をおんぶするとよたよたしてしまう足、白籠に料理を教えてくれた手、白籠と一緒に農作業して土塗れになった手、二人でそろいの万年筆を使って勉強を教えてくれた手、童謡を歌ってくれた口、きらきらとしたおとぎ話を語ってくれた口、何度も白籠が肩叩きした肩。いつの間に、こんなに小さく、か細くなってしまったのだろう。

 ――ぼくは、二人の白夢になれましたか……?

 老衰で、二人ともその朝眠るように逝ってしまった。二人が幸せな夢を見ながら静かに息を引き取ったことを知っているので、よかったと思った。

 だけど、やっぱり泣いた。

 星になる、なんて。

 傍にいる、なんて。

 信じられない、愚かな子どもだったから。

「……ごめん、なさい……っ」

 ごめんなさい。結局老いた養父母の役に立つことも、真綿にくるまれた嘘を信じきることさえできなかった。

 ひとしきり泣いた後、布団を捲った。

 二人仲よく、プリズムだけがころんと転がっている。

 ずっと、見つめていた。

 プリズムが光り輝き、やがて空気中の魔力と融け合ってなくなるまで、ずっと……。

 白籠が嫌がるので二人はあまり自分たちが死んだ後の話をしなかったけれど、人目につかず隠れて過ごして、葬儀が終わって人が寄りつかなくなったあたりでまたここで暮らせばいいと生前云っていた。或いは、勇気を持って人里に降りても好きにしたらいい、と。ただ、危険であることは確かだから……と人間社会のいろんな話を聞いた。

 ――結局、どちらにもならなかった。

 二人が死ぬ前から、何かを隠していると疑念を抱かれていたので家探しされてしまったのだ。そして、隠れていた白籠は呆気なく見つかった。致し方ないことだった。年老いた養父母が隠しとおすのに限界があったし、長年生きているとはいえ夢を見ていただけの世間知らずな白籠に打開する策はなかったし、村人たちも寂れた寒村で生活し続けるにあたって不安要素を取り除きたかったしそれが金になるのならば売らざるを得なかったのだから。

 ……だから、白籠は売られた。

 手始めに、存在すら未知だった白籠は研究機関に買われ、希少な獏の具現化幻想存在であることが発覚し、しかし悪夢を喰らう程度しか能のない白籠は早々に手放された。

 多くは裏社会で生きる悪夢を見やすい人間の快眠抱き枕として買われ、主人となる人物に飽きられるか用なしになるか、はたまた主人が死んでしまうかでまた売られるを繰り返した。その途中で、夜の店の接客業やハニートラップ要員も経験した。

 どこにいても、白籠は世間知らずで人馴れしない不器用な人間だったので、役立たずだとあまり歓迎されなかった。おおよそ、見た目だけが彼人の取り柄だった。……その美しさか、あるいは異形である物珍しさか、どちらにせよ。どの職場にいても、どういう形であっても苛められるのが常だったが、真面目で努力家だったから変な技術ばかり身につけた。

 でも、対面のコミュニケーションばかりはてんでダメだった。一つは優しい養父母二人としか生きてこなかったから急にいろんな(それも多く害意や悪意を持った)人たちと関わるようになって畏縮してしまったのと、そもそも元からあまり喋る性質ではなかったことと、一番の要因はどうやら白籠の声だか言葉だかが夢に誘う性質を持っていることだった。だから、快眠抱き枕として買われたとき以外めっきり喋らなくなった。寝ても起きても夢見がちで、ふわふわしたおとぎ話みたいな変なことしか云わない白籠と、そもそも誰も会話が合うことなどなかったし。

 裏街でいろんな職場を経験するにあたって「ぼく」は子どもっぽいからやめなさい、と「わたし」に矯正された。生式ごとに定まった一人称はなく、精々性格に合っているか、子どもっぽいかきちんとしているか程度の違いでしかない。「ぼく」と舌足らずに喋る白籠を好む客も少なくなかったが、キャストには不評だった。だから、一生懸命慣れた一人称や口調を変え、必死に間違えないようにした。どうにか心の中以外では言葉が矯正され、気づけばそれすらなくなっていった。

 行き場所を自分で決められるわけでもなく、役立たずなら何度も売られ、汚い社会に揉まれ続けた白籠はだからと云って人を嫌うこともなかった。ただ、寝るも起きるも、夢も現実も、どこもかしこも悪夢でしかないという事実を、知っただけ。

 元々、悪夢を喰らっていた獏である白籠には、苦しくて悲しくて辛いことしかなかったのだから。ただ……、皆白夢を求めて願っているのだから、現実が白いもこもこした夢みたいな、そんな幸福で溢れればいいのになって、祈っただけ。

 ――だって、ぼくはばくだから。悪夢は喰らえても、いい夢が見せてあげられるわけでも、悪夢みたいな現実を変えられるわけでもない。ぼくは人として役立たずだし、精々鬱憤晴らしのサンドバッグくらいにしかなれない。だから、祈るだけ。……現実も、悪夢なら。ぼくが喰らい尽くせればいいのに。もしも、それで幸せが訪れるなら。

 一年ほど、可鳴亜かなりあにスカウトされて花籠はなかごの花として特殊な形で雇われた。

 花籠が境界地一の閨店であったこともあり、白籠が可鳴亜と会う機会があったのだ。そこで、「白籠ってすっごく可愛いし、いい子じゃん。ね、うちに来ない?」と誘われ、うんともすんとも云えないうちに花籠へ連れられていた。

 コミュニケーションが下手くそでも、安眠抱き枕として重宝された。

 可鳴亜と花椿かめりあは、自分の下子を見るように優しく接してくれた。仕事でもなんでもなく、二人に抱き締められながら眠る幸福は、その悪夢を喰らっても余りあるものだった。

 安寧の日々は、けれど束の間の夢で……。安眠抱き枕としてある人の自宅まで出張しに行ったことがきっかけで脆く崩れ去ったのである。

 その人は裏組織に所属し、いろんな人の弱みを握り、多く不幸に陥れ、搾取し、たくさんの人を殺している酷い人間だった。

 獏に悪夢を喰らい尽くしてほしい、と乞われて夢枕に立ち続けた。

 けれど、悪夢を喰えども喰えども、彼人の悪夢は終わらない。

 その理由をっていたけれど、口にはしなかった。

「……なぁ、白籠。オレの悪夢はいつまで続く?」

「いつか、終わります。わたしが、喰らうから」

「……そうか。白籠が、いてくれてよかった」

 体調の悪そうな顔で、違法魔力薬の香りを口腔から漂わせながら、弱々しく笑った。

 だけど、その人は気づいてた。

 ……悪夢は、悪いことをしている自分自身で、誰かの悪夢であって、誰かに呪われるようなことをしている、という自覚があったから彼人は自分自身という悪夢から一生逃れられなかった。

 その自覚さえない狂人か、或いは無垢な人間であれば、彼人は悪夢を見なかったかもしれない。そして、悪夢そのものである自分を、自ら絶つこともしなかっただろう。

「悪夢が、オレ自身なら――」

 その夜は手酷くされて、変なものも注射されて、縛られたままだったから、暗闇の中で首を吊ろうとする彼人を止めることなどできなかった。

 それでも、白籠は必死に手を伸ばした。

 声も掠れてほとんど吐息しか出ないのに、叫んだ。

「……ぁっ、ぇ。ぁぇ……ぅう」

 朦朧とした瞳でそれでも泣き叫ぶ白籠に、彼人は笑った。

「ありがとな、白籠。オレ、目が覚めたんだ」

 かくん、と首が曲がる瞬間を、一生忘れることはない。

「ぁ、ぁ、あ……。ああああああぁぁぁあああああ……っ‼」

 喉が張り裂けても、叫び続けた。

 彼人の願いを聞き入れず、毎夜毎夜悪夢を喰らうことをしなければ、もっと生きられただろうか。生きていて、くれただろうか。彼人は悪いことをしていた。彼人にとっては悪いことだった。誰かに恨まれもした。いけないことをした。でも、そうしなくちゃ生きられない場所で生きてきた。

 それを、自分だけは咎められない。彼人の悪夢をしっているから。

 獏にすら喰らい尽くせない悪夢なのだと、自分自身が悪夢だからそれは永遠に続くのだ、と知らなければ彼人は幸せだっただろうか。

 ――わたしが、悪夢だった。或いは、死神だった。……奪い合わなくちゃ生きていけないこの世界こそが、現実が悪夢なら。わたしは何を喰らえばいいのだろう。

 その後、客に連絡がつかなくなったから、と心配して見に来てくれた可鳴亜によって白籠は救出された。

 けれど、精神的にも肉体的にも仕事ができる状態ではなく、しばらく休むよう云い渡されたのである。可鳴亜も花椿も白籠を心配してくれていた。それはわかってる。白籠のせいじゃないよ、って云ってくれる優しさに甘えられはしなかった。だって……。

 ――あの人を、わたしが、殺した……。

 悪夢を喰らったって、どんどん精神的に不安定になっていることを傍にいてわかっていたはずなのに。何もしなかった。できなかった。佐けられなかった。一人の客に入れ込みすぎちゃいけないってストップをかけていた。何かできるはずだった。何か、なにか、どうにか!

 ガシャン!

 割れたのは、親切に置かれていた水の入った硝子コップだ。

 割れたのは、白籠の心だ。

「ぅ、ぁ、あぁぁああああ……っ」

 白籠の絶叫は、けれど花籠の結界によってかき消された。

 気がついたときには、花椿のベッドの上だった。

 塔の最上階、支配者たる花椿本人を押しのけて眠っていたことに慄いていると、その張本人がそっとぎゅっと抱き締めてくれた。椿のような赤い髪が鼻をくすぐる。

「ぇ、ぁ……メリーさん……?」

 そっと包帯の巻かれた手を優しく包み込んで、

「……白籠は、消えていかないでくださいね」

 かすかに震える手が、彼人の心配と不安を思い知らさせてくれる。

 ……せめて、塔の住人であるこの人を、哀しませてはいけない、勝手にいなくなったりしてはいけない、と思った。

 奮い立った心は、今思えばまんまと彼人の策にはまっていたのだな、と気づけるけれど。

 白籠が弱っている人を見過ごせない、と解っているからそうやって生きざるを得ない状況を創り出したのだ。

 ――メリーさんは、その透きとおった瞳で、どこまで見据えていたのでしょう?

 そうして、ようやく白籠はまともな思考回路に戻っていった。

 あの事件は、転機でもあった。

 ある仮説が白籠の中で立ってしまったのだ。遠回しでも間接的でもなく、悪夢という概念を喰らう白籠が傍にいたから彼人は死んでしまった――白籠が彼人という悪夢を喰らい尽くしてしまったのかもしれない、という仮説。荒唐無稽、と笑い種にしてしまうには真実味を帯びていた。

 幻想存在自体が曖昧な奇跡であることはもちろん、対概念の神秘は下手すると魔法になりかねない禁忌を孕みがちだ。

 研究所生活での暇にそういった書物をただひたすらに読み続けていたし、売られる奴隷の中には幻想種やその末裔、ハーフなども案外と多く、神秘について知る機会はたくさんあった。

 だからこそ、仮説が立てられたのだ。

 いつもは、ただ楽しくなれる空想を夢見ている。こう考えたら楽しいな、って世界を見てる。

 けれど、今回ばかりはそれだけじゃいられなかった。もしかしたら、自分という存在が他者を脅かすかもしれないからだ。白籠や、対象者が〝悪夢〟だと認識したことをなんでも喰らうことができるなら、夢だけでなく人も現実も何もかもを喰らい尽くせてしまうかもしれない。

 そう思えば、白籠は人と対面することも、まともに悪夢喰いという食事をすることもままならなくなったのである。

 そうして、花籠で働けなくなった白籠は殺し屋組織にスカウトされて、今に至る。


 ――白籠の悪夢だけは、誰にも喰らえない。



       ∴



 ――寒いことや寂しいことよりも、不自由であることに耐えられなかった。


 ごろん、と寝返りを打つ。

 古びたパイプベッドが、みしっと音を立てた。

 揺唯ゆいは、この組織内では筋肉ががっしりとしていて背の高いフィジカルお化けに囲まれているから、細身で小さく見えるが、実際のところ一八〇センチ越えのばきばきと無駄のない筋肉を備えた長身である。それは、ベッドも軋む。

 今夜、どころか最近は夢杙むくいと通信が繋がらない。寂しい。

 連絡できなくなる前に、一度でも話したかった。

 ……けれど、これでいいのかもしれない、とも思う。

 知らないほうが、迷惑をかけないから。

 さよなら、を云わなければいつか姿を見たこともない彼人と出逢えるかもしれないから。

 それまで、せめて夢杙がこの最悪な裏社会の中でもそれなりの平穏と共に過ごせていたらいい。

 結局、寂しさよりも不自由への反発のほうが大きくなってしまう。

 どちらかを採るなら、自由で、結局誰かは選べない。

 ……ムクイも連れ出してやるって云えたら、きっとかっこいいんだろう。

 けど、そんなことは云えない。

 自由を求めて勝手なことをしようとするのなら、それを妨害する多くの敵に阻まれる。そんな危険な目には晒せられないし、誰かという枷があっては自由とは云えないから。

 酷い云い分かもしれないけれど、通信機越しにおしゃべりしていたあの距離感がお互いにとって一番いいつき合い方だった。

 謠惟うたいに連れてこられた当初、いろんなことを教わったけれど特に何度も云われたのが「嫌なことは嫌だとはっきり云え。暴力で解決しようとするな」だった。

 嫌だけど我慢する、なんてできない。

 嫌と云っても認めてもらえないなら、脱出するしかない。

 いろんなものを、犠牲にしてでも。関わってくれた人を、見捨ててでも。

 それでも、満たされているのは……きっとここでの思い出が辛いばかりではなかったからだ。

 夢杙のくれた優しさや子守唄、おとぎ話、そういったものがあればこの先もあたたかく眠れる気がする。それを、思い出して、心の支えにして。

 不自由さに耐えきれなくなって逃げ出したあの頃は、いつも辛いばかりでただがむしゃらに振りきるしかなかった。



 揺唯が憶えている限りの最初、彼人には名前がなく呼ばれていたのは番号だった。それが何番だったかは思い出したくもないので、記録にも残さない。

 八歳くらいの子どもだった。思い返せば、コンディションチェック表の被検体番号近くにあった数字が年齢だったのだろう。

 そこは、児童養護施設の皮を被った異能力開花研究施設だった。

 気がついたときにはそれまでの記憶が一切なく、酷い実験による防衛反応のせいで記憶喪失になったのか、脳までいじくられて忘れさせられたのか、なんらかの実験の弊害でそうなったのかは定かではない。思い出の記憶だけでなく知識も欠落しており、生きるために最低限必要な手続き記憶くらいしか覚えていなかった。言葉もあやふやで、文字はからっきし読めなかった。もちろん、その他の教養もなければ、マナーやモラル、道徳も何もかもが足りていなかったのだが。

 実験動物だった子どもたちには、知識も知恵も必要なかったのだろう。児童養護施設の体をしながら、囚人の監獄のようだった。

 冷たいコンクリート剥き出しの空調設備もまともにない施設内で、病院着のようなシャツ一枚だけで大した食事も教育も与えられず、決められた時間どおりに動くことを強制され、ちょっとした失敗も反抗も或いはただ看守みたいな大人たちの機嫌が悪いだけで暴力を振るわれ、そして……酷い実験をされた。

 前時代、人間が魔人となる前、魔術使まじゅつしでもない人間が時に異能力を開花することがあったらしい。適性のある人間が、心に大きな瑕疵を負うと、その願いが能力となり、俗称・能力持ちスキレストになったという。現代では、生まれながらブレスという名の能力を持っていることが当然になっているので、そういった者を瑕持ちスカーレストと呼称するようになったらしい。一般には周知されていない、界隈だけのものだが。スキレストも思春期の子ども特有の病気のように、精神に柔軟性がある頃にしか発症しなかったらしい。

 ので、こうして人攫いしたり孤児を預かったりして、子どもに酷な仕打ちをし心に瑕を負うよう仕向け、人為的な能力者を創ろうとしているのだ。心、つまりプリズムに瑕疵ができた子どもに対して、特殊能力を持つ幻想種などの魔力から作った特別な魔力薬を投与し、適合した子どもだけが生き残り能力を発現した。

 だから、多くの子どもたちが死んだ。

 同じ部屋の子どもは揺唯以外生き残らなかった。

 ……大事な、友達だったのに。

 言葉も知らなければ情操教育ももたらされていない揺唯に、友達という概念はなかった。が、生まれもっての優しさか、同じ苦渋をなめる連帯感からか、自分より幼い子どもを守ろうと思う責任感か――或いは記憶にない昔、誰かに優しくされ守られていたという実感を持つからか。何にせよ、大事にしていた。守っていた。あの子らはもういない。

 にも拘わらず、彼人は氷竜神の能力、という極めて特異稀な能力を得て生かされてしまった。

 ここの前身となる研究施設に、氷竜神と人間のハーフという世界に一人しかいないであろう存在を捕えていた時期があったらしく、そのハーフの魔力から作ったらしい。今となっては予備もない、貴重な魔力薬(もちろん違法)が揺唯には適合してしまった。或いは、その素質を見込まれていたからこそ使用されたのかもしれないが。

 ……ひとりぼっちで、さむくて、くるしくて、いたくて、つらかった。

 けれど、すべての言葉を知らない揺唯にはその表現方法がなく、感情だけが暴れ回り、魔力暴走を起こし、衰弱した。施設内を一部凍結させてしまうほどの吹雪と氷結。しかし、本当の竜神ではない揺唯は自分の能力によって凍え死にそうになっていた。施設半壊の憂き目に遭ったものの、希少価値の高い揺唯はそのまま魔力薬などを使い生き永らえさせられることになったのである。

 これまでと違い、守るべき仲間もいなくなった揺唯は自由を求めて施設の脱出を決意していた。

 そんな折、表向き児童養護施設である監獄に、揺唯の迎えが来た。

 ある裕福な名家の子どもが何年も前に失踪しており、ずっと捜索が続いていたのだがどうやら人攫いから人買いに、を繰り返してどこかの施設へいるらしいという情報を得てやってきたと云う。見た目や年齢などから揺唯がその子どもだと考えられる、と。

 その当時の揺唯には知ったことではなかったが、その家は政府の高位役人家系で代々能力が高く、また恨みを買いやすいこともあって子どもが誘拐されたらしい。名字も長ったらしく仰々しいものだったように思う。

 だからこそ、見つかってしまえば政府に逆らうことなどできない施設は、呆気なく揺唯を手放した。自由を求めていた揺唯にとって願ってもない申し出だった。

 ……尤も、監獄よりも各段に裕福に暮らせるだけで、自由などありはしなかったのだが。

 おそらく、その家の子どもだと豪邸に連れてこられて、しかし揺唯は親に会うことも名前を呼ばれたこともなかった。被検体番号でさえ、一応自分を呼称するものだと認識していたから、なんらかの名前――本名を呼ばれ続けていたのならわかるはずだ。が、本当に揺唯がその家の子かわからなかったからか、或いはそうだと知っていても教養も品性も何もかもが欠けた彼人が立派に育つまではそう認めなかったからか。次期当主さまとか、そういった仮の記号で呼ばれていた気がする。

 執事やハウスキーパー、家庭教師に監視されて、この歳になるまでなんの教養もマナーも覚えていない揺唯は家に相応しい人間となるべく、高等教育を叩き込まれた。

 言葉も曖昧で、文字を読めすらしなかった子どもに、もはや虐待のように、毎日。

 衣食住や安心安全が確保されているだけで、何も知らない子どもに対して酷い扱いだった。揺唯の感情なんて関係なしに、勉強・政治・作法・習い事……休む間もなく強制されたのだ。

 鬱屈として、嫌だと駄々をこねて暴れても、警備員に捩じ伏せられて。

 だから、揺唯は無知のようでいて変に政治や社会情勢などの高度な知識を持っていたり、貴族の作法や楽器演奏などの特技を持っていたりする。

 そんなもの、使いたくもないが。

 それが元からの能力なのか、研究所で実験し尽くされたせいなのかは知らないが、揺唯は五感が鋭敏かつ記憶力がよかった。一度憶えたら忘れない程度には。ただし、記憶喪失の部分や感情が昂ぶって魔力暴走したときなどを除く。

 幼い頃から少しずつ勉強してきたわけではないので理解力は高くないが、暗記することによって勉学をカバーした。意外と器用なので、暗記さえしてしまえば作法や習い事何にしても高いテクニックを覚えた。ただ、暗記勉強なので、言葉や文字に関してもこの文字列の形・並びはこうと記号のように文章を読み取っていて、意味や成り立ちを理解していない部分が多く、それぞれの単語がわからないという意味不明なことになっている。数学などに関しても式と解答をほぼ丸暗記みたいなものである。記憶力テストやパズルゲームなどでは高得点を叩き出す。類稀な記憶力と動体視力、空間把握能力のなせる業だった。

 もちろん、揺唯がそんな窮屈な環境に耐えられるわけがなく、二年程度で呆気なく家から脱走した。そうして、裏街へと辿り着く。

 ……変わらない、最低な毎日を送っていたせいで、これといった思い出もない。

 悪夢と云えば、悪夢だ。



 夢を見ていた。

 懐かしい、過去の記憶だ。

 以前と同じように、また逃げようとしているから思い出したのかもしれない。

 ……朝だ。

 白く、まだ浅い。

 これが、希望の朝になるか絶望の朝になるか、揺唯にはまだわからない。

 むく、と起き上がると寝巻のシャツとズボンを脱ぎ捨てていつもの制服を着た。

 黒いシャツとズボンに、上着。フードを目深に被る。

 今から脱走しようか、というのに仕事着をそのまま着ているのは阿呆なのか、という話だがこれ以外持っていないのだから仕方ない。第一、見つかることを気にしたところで、見つかるものは見つかる。どうしようもない。

 今度はどこに逃げようか、など決まっていない。きっと、あてどなく進み続けるだろう。

 どこに行くか、が問題なのではない。

 どこで自分が生きたいように生きるか、だ。

 一瞬、後ろを振り返った。

 たとえ一年くらいずっと寝泊まりした場所だとしても別に思い入れがあるわけでもなく、捨てるときに振り返るなんてナンセンスだと思う。

 それでも、開け放たれたクローゼットに覗く毛布の山、厚手の上着、そして――夢杙からの手紙が入ったカンカン、そういった物をもう一度だけ目に焼きつけていたかった。

 揺唯が、初めて名残惜しく思う相手。

 そこに詰まった思い出。

 未だ残響する、彼人の低く凛とした声。

 どれだけの言葉が、揺唯にあたたかさを与えてくれただろう。

 通信機でしか会うことのなかった、近くて遠い隣人。

 せめて、この通信機がずっと夢杙と繋がってくれたらいいのに、と思う。

 そんなの、叶わぬ夢だ。

 白い、朝に溶けてゆく。

 カサカサ、としか鳴らないあの缶が、何よりも重い足枷になってしまう。重い物を持っては自由に羽ばたいてはいけない。

 だから、捨て置くしかない。

 リボンみたいに包装された、夢杙にもらった最後のキャンディーを口に含む。

 ぽい、と包み紙を投げ捨てた。

 最後の一個だけは、噛まずに溶かして歩きだす。

 これが溶けたらもう振り返らないのだ、と自分に云い聞かせて。

 ……後に残るのは、主人のいない荒れた部屋とごみのみである。


 ――夢も希望も、自由がなけりゃ始まらない。



       ∴



 ――悪夢は、二つある。


 抱き込んだ身体はあまりにも華奢で、その白い肌は傷だらけで隈も濃い。

 きゅ、とか弱い力で謠惟のワイシャツを掴んでいる。

 ……不安。

 白籠に蔓延る黒い渦を、しかし謠惟では取り払うことができないのだ、と知っていた。

 けれど、冷えきっていた身体は謠惟の体温が移ってか、幾分かは温もりを取り戻してきている。少しでも白籠が温かく眠れるなら、それでいい。

 揺唯は、さむくてねむれない、とよく云った。

 謠惟では揺唯を温めることができなくても、白籠は離れていてもそれができた。

 ……素直に、感謝している。

 せめてものお返しになれば御の字だ、などと云う気はないが。

 常夜灯だけの、薄暗い室内。

 疲労は溜まっているが、反対に頭がこれからのことで回転しすぎていて眠れない。

 折角寝ついた白籠を起こすわけにはいかないので、動くわけにもいかない。

 白籠の墨色の髪が口許に垂れるのを、そっと払ってやる。

 頬にもぶたれた痕があった。

 本人が治療魔術を使えば、すぐ治るような傷だ。それでも、こんな綺麗な顔を殴る人間の気が知れない。

 労るように、そっと撫でる。

 恐怖からかびくっと震えたものの、やがて表情が緩んだ。

 小動物のようにすり寄られるとこんな強面の人間に信頼を寄せてくれているんだ、とむずがゆくなる。

 せめて眠りくらいは健やかたれ、と思う。

 眠り姫は、二人も要らない。

 白籠の温もりに誘われて、徐々に瞼が落ちていった。

 やがて、暗闇の底へと辿り着く――



 夢を見ていた。

 謠惟自身が、自分に忘れることを許さない悪夢だ。

 元々、謠惟はとある役人家系の子どもだった。揺唯は、五つも歳の離れた下子だった。

 この際、謠惟と揺唯という名が本名かどうかは伏せておく。名字は名家らしい、長ったらしく仰々しいものだったが、思い出したくもないので記述しない。

 謠惟は優秀な長子で、それに比べて揺唯は莫迦で物覚えが悪いと疎まれていた。

 だが、謠惟は揺唯が優秀なことを知っている。独特な感性を持ち、理解するのに時間がかかるだけで、抜群の記憶力を持ち、空間把握能力が高く、広い視野を持っている。きちんとわかるように教えさえすれば、やがては自分のことを抜くだろうと思っていた。

 その事実を大人に伝えても信じてもらえず、揺唯はたった一人のきょうだいだけを純粋に信頼してついてきてくれるので、やがて揺唯のよさは自分だけが知っていればいいのだと思うようになった。そして、いつか自分の教え以上に賢くなった揺唯と一緒に皆を見返してやるんだ、と画策していた。

 だが、そんな日は来なかった。

 あきらめたわけでも、揺唯にその能力がなかったわけでもない。単純に、その機会を奪われたからだ。どうしても役人という立場上、都市民に嫌われやすく、その子どもは狙われやすい。

 ありていに、誘拐されたのだ。

 謠惟は、揺唯だけでも守ろうとした。自分は、彼人の上子だった。何があっても、この小さな命を守る義務がある。上子とは、そういうものだ。

 家の中にいても両親や親戚に次期当主という型として見られ、外に出ても役人の子というレッテルで見られる。自分はどこにもいなかった。優秀な役人、という形だけが必要だった。唯一、ただの謠惟として純粋に見てくれるのは、揺唯だけだった。だから、このきょうだいがどれだけ大事だったか……。誘拐した奴らには、否他の誰にもわかるまい。生きてるのにどこにも存在しない恐怖も、ただ一人自分を認めてくれる存在そのものの救いも。

 だからこそ、揺唯を守ろうとして、人売りと交渉した。揺唯だけはきちんとした養護施設に入れてあげてくれ、と。あんな家に一人で帰ってもいい思いはしない。ならば、と。

 それが大きな間違いで、自分が騙されていたと気づくのはもう少し先の話だ。

 自分はどうにか揺唯だけは守れたと安堵して、その後殺し屋組織に買われた。

 人売りに、揺唯を佐けてくれるなら、自分は一番高値で売られるよう策を巡らすことができる、と交渉したのだ。

 実際、ボスは謠惟の頭の回転の速さや将来性を高く評価して、大金で買ってくれた。そういったところは、ボスは信頼の置ける人物だ。

 お綺麗な役人の家から、汚く醜い裏社会に身を堕とすのは並大抵の覚悟ではなく。もちろん、どんなに知恵が回っても、最初は蔓延る暴力と飢えと血溜まりと死と、殺し屋になるための苛酷な訓練に耐えきれず何度も吐きながら泣き喚くような日々があった。やがて、心は鈍麻し、感覚は鋭敏になり、身体は鍛え抜かれ、人殺しの能力と人に騙されず自分がいいように利用し画策する悪知恵を手に入れた。

 殺し屋として一人前だと認められた日、花籠で花椿と出逢い恋をして、行くたびにアタックしていくこととなる。……可鳴亜にいつも睨まれながら。大変だったけれど、花椿と次に会う日のことを考えて過ごす日々はある意味満たされていたとも云える。

 謠惟はそうして、一歩ずつ成り上がって、殺し屋組織にいなくてはならない参謀兼最強の殺し屋となった。……ボスにさえ、乗っ取られるのではないか、と恐れられるほどの。

 四年後には既にそうだった。

 組織のトップクラス、室長にまで上り詰めたのは身分を高くして権力や金を持ち、できるだけ花椿を独占できるようになりたかったから、という理由もあったからである。花椿や外部協力員である可鳴亜と繋がっているのは情報が欲しいからだ、と思わせることができたのでそういった意味で花籠が情報屋の側面も持つことや花椿が持つ能力もカモフラージュになった。実際、二人の情報網に佐けられたことも多くあった。揺唯の調査も二人が協力してくれてわかったことだ。

 だが……、そうしてようやく事の重大さに気づいた。

 一つは、自分が人売りに騙されていて、愚かにも守っていたと思っていた揺唯は児童養護施設の皮を被った酷い監獄のような異能力開花研究所に売り飛ばされていた、という最悪の事実。

 調査の結果、氷竜神の能力を発現し、誘拐以前の記憶が完全になく自分の名前すらわからない状態になっていると判明した。守りきれなかった下子が、唯一自分を認めてくれる存在が、自分のことを忘れてしまったのは罰なのだと思った。

 もう一つは、揺唯のことももちろんだが、なんでも透視できる花椿がその能力を使って見透かすということは、依頼主より先に真実を視てそれを伝えるという辛い役目を背負わされている、ということに。

 多く、調べてほしいことなんてこのクソったれの裏社会にある最悪な事実か、捜し人は死んでいるか酷い環境にいるか、朗報なんてほとんどなく見たくもない真実を見せられた後、さらにその事実を伝えなければいけないのだ。そして、花椿は優しいから見も知らない人物の不幸に、胸を痛める。それに、能力を使用すると大量の魔力を消費するし、体力も消耗し、目が痛むし、脳のキャパシティも使うらしい。調べることによっては数日寝込むこともあるくらいだ。強力な能力であるが故に、その分負担が大きいのは考えるまでもないことだった。

 だが、そのときはとにかく揺唯のことで頭がいっぱいだった。

 今度こそ佐けなければ、と。けれど、理由もなく自分の部隊を動かして研究所一つ潰すことはできないし、仮にそんなことをしたら揺唯の能力が組織に目をつけられてしまう。純粋で優しいあの子に、殺し屋など似合うはずがない。だけど、一刻も早く佐け出さなければ。

 苦肉の策が、実家に情報を流すことだった。うちが役人家系の名家である以上、表面上は児童養護施設を名乗っているあの研究所は子どもの引き渡しを断れない。そして、子どもを二人とも誘拐され、現在後継者のいないあの家は、この情報に食いつかざるを得ない。家がいい場所とは云い難いが、大人になるまで裕福に暮らして、後は好きに出ていけばいいと思った。少なくとも、研究所や裏社会に身を置くよりはよほどいいと思ったのだ。

「……俺は、莫迦だ。勝手に守ってる気になってる間に、あいつはもっと酷い目に遭ってた……。何も、守ってなんてやれてなかった。むしろ、不幸のどん底につき落としたのは俺があんな契約を持ちかけたからかもしれねぇ……っ!」

 ドンっ、カシャン、と机を打って嘆く謠惟に、花椿はそっと寄り添ってくれた。

「そんなこと、ないです。もし、謠惟さんが交渉していなかったら、もっと酷い環境にいたかもしれないし、生きていなかったかもしれません。謠惟さんのせいでは、絶対にない。今から佐けることを考えないと、でしょう?」

 謠惟が後悔しないために厳しくそう叱咤して、透きとおった瞳で貫いた。

「……そう、だな。すぐにでも佐けてやらないと」

「はい。微力ながら私もお手伝いさせていただきます。だから、ご自分を責めないでくださいな」

 ――まっすぐ、前を見据えている謠惟さんがかっこいいですよ。

 ふわり、と抱き締められた。

 花椿はそうやって自分が大変なときでも、揺唯の真実で酷く落ち込み憔悴してしまった謠惟を慰め、励まし、支え続けてくれた。そして、揺唯を佐けるために協力さえしてくれた。可鳴亜すらだ。そして、さまざまな根回しや情報を駆使して研究所から揺唯を救出することに成功し、一段落ついたのだった。

 揺唯は研究所や裏街にいるよりもまだましだろう、と思って。

 紛いなりにも家族だから、誘拐された子どもが一人でもようやく帰ってくれば優しくしてくれるかもしれない、なんて希望的観測もあった。まあ、それすら間違いだったのだが。

 ……いつも、肝心なところで間違いだらけだ。

 結局、揺唯はあの家に耐えきれず、野に下り、地区境界地へと至ったのだから。そして、裏社会で好き放題して生きていた。裏社会にも裏社会なりのルールがある。無知な揺唯が奔放にやりたい放題していれば、いずれ殺し屋に殺される。

 そうなるなら、いっそ……。

 否、最初から手を離すべきではなかったのだ。たとえ、辛い道のりであっても、汚い世界であっても、二人で手を取り合って生きていけばよかった。今からでも遅くない、いや或いは償いのつもりか。揺唯を拾って、この社会で生きていく術をひとつずつ教えていくことにした。

 だから、揺唯が路地裏の殺人鬼と有名になった頃、喧嘩をふっかけた。勝敗で賭けをして、負けたらうちの組織に入るように、と。当然、負けるわけがないので、イカサマ八百長と云われればそれまでなのだが、揺唯は潔くついてきた。その素直さが、この世界では命取りだ。純粋無垢さは健在だが、すっかり生意気になってしまった揺唯に、名前を与え、目上の人間に対して丁寧な言葉と態度を取るように教えることから、みっちり躾が始まった。

 ――……きょうだいであることなど、思い出さなくていい。兄貴分などと、慕ってくれるな。俺を口うるさい上司だと反抗して、捻じ曲がらず自分の好きなように生きていけばいい。そうできるよう、この悪夢のような現実を変えていく。許されざる、過去の罪という悪夢を背負ったまま。

 ――なあ、白籠。これは、お前が教えてくれたことだ。

 それは、揺唯をスカウトするより前の話だ。

 ちょうど、その頃は白籠が可鳴亜のスカウトによって特例的に花籠に雇われていた時期で、悪夢を喰らい安寧をくれる妹分ができたことで、可鳴亜も花椿も穏やかに過ごせていた。当時の白籠と大して話したことも会ったこともなかったが、二人が癒されている姿を見て勝手に有難く思っていたものだった。

 しかし、一年も過ぎようかという頃、ある客に長期間つき添うことになり、そしてそいつが自殺して白籠は心を閉じてしまうようになった。花籠で仕事ができるような状態ではない。ちょうど同じタイミングで、ボスが白籠の能力と容姿に目をつけていて、それを利用することにした。とりあえず、他に買われるくらいならうちの組織の安全な場所で匿おう、と。花椿と可鳴亜の願いでもあった。

 通信士兼内部職務監査役・夢杙白籠誕生秘話である。

 その白籠の言葉だ――現実が悪夢なら、それさえ喰らえばいい、と。

 でも、白籠はそれをしない。

「結局、それで幸せになれる人なんていないから。だから、悪夢の続きがいい夢になるよう、佐けられるようになりたいんです。悪夢では、終わらせない。たとえ、現実がどんなに悪夢じみていても、いつか」

 その言葉に、考えを変えさせられた、佐けられた部分は多大にある。本人には告げたことはないが。そして、そうやって誰かのために、裏で少しずつ世界をいい方向に変えようと大がかりな画策をしていたのが、花椿だった。

 それこそが、もう一つの悪夢の端緒だ。

 謠惟が出逢う前からずっと計画されていたことで、出逢ったからこそ謠惟も計画に組み込まれ、さらに佐けるリストの一人に加わることになるのだが。

 そして、その計画について教えてもらうのは、否それを暴くのは最後の最後になる。

 花椿に恋をして、何度も口説き、そのたびにあの美しい笑みで惨敗した。可鳴亜は愛する姉を奪われると難色を示していたが、途中から「あんたを認めたわけじゃないけど、姉さんを離さないでいてほしい」と乞われるようになる。

 謠惟にも可鳴亜にもわかるほど、花椿は現実のものではなくなっていくような、そんな儚さを増していっていたのだ。

 揺唯を組織に加入させる一年前、花椿は――植物状態になった。

 可鳴亜が心配するほど様子がおかしくなってから、謠惟は個人的に花椿のことを調べた。その過程で、花椿が花籠を、最愛の妹を守るために手を汚してきたことを知り、またこれまでの計画やこれからやろうとしていることを推察したのだった。

 その夜、花籠の最高峰たる塔で花椿と対峙した。

「……そうやって、お前は手を汚してきた。でも、それは結局可鳴亜や皆のためだったんだろ?」

 真実を暴き、つきつけても、花椿はその右目を晒さない。

 ただ、開いた窓から風が吹き荒んで、花椿の美しい赤い髪を揺らした。もっと表情が見えなくなる。

「……。やめろ、とおっしゃるんですか? 計画をバラしますか? 私を、殺しますか? ……もうすべては廻り始めたことだ。誰にも、止められない。止めようとするなら……――」

 ――私が、命を鍵にする。

 鋭い瞳に射抜かれた。

 こちらが殺される、なんて初めて思った。

 しかし、違う。

 花椿は窓から後ろ向きに飛び降りようとしたのだ……!

 その瞬間ほど、魔力を全部集中させて走ったことはない。

 何かを、がむしゃらに佐けようとしたことはない。

 死なせたくない、と願ったことはない。

 死なないでくれ、と哀願したことはない。

 お前が死ぬなら俺が生きてる意味なんてない、と絶望した瞬間は、ない。

「メリア――っ‼」

 伸ばした両の腕は、確かに花椿の細い腰を捉えた。

 ぎゅうぎゅうと掴んで、引き寄せた。力いっぱい。

 ガタンっ。

 二人で尻もちをついて、カーペットに座り込んだ。

 ――花椿は自分の命を盾にして、そうすれば俺が佐けてくれるし、バラさないと思ったのか? それとも、そんなのは五分五分で死んだら死んだですべては計画どおり廻るって、自分がいなくてもその歯車は完成してるって……。畜生、別に信じられてたわけじゃねぇ。どっちでも、よかったんだろ……。

 謠惟は、がしっとその頬を手で挟み込んだ。

「莫迦か、てめぇ。自分のしたことの顛末くらい、見届けやがれ。後始末も仕事のうちだろーがよ! 俺は、俺はなぁ……お前がいなきゃ、生きていけねぇんだよ……!」

 ――俺を殺す気か⁉

 そっちがその気なら、と今度は謠惟自身の命を盾にした。

 すると、頬をむぎゅうとされたままの花椿は心底驚いたみたいに目をまるくした。

 驚くところじゃねぇだろ、と思った。

 どれだけ、花椿が皆に愛されていると思ってるんだ。花椿が死んで哀しむ人間も、生きていけない人間もたくさんいる。

 ……そんなこともわからないのか、って嘆いた。

「……私を、止めないんですか?」

「あたりまだろ、花椿がしてることを否定する気はねーよ。手伝えってんなら喜んで手伝う」

 いつもポーカーフェイスで何を考えているか読めない瞳が、揺れるのを見た。

 髪がばさばさになって、透きとおった右目さえ晒され、水面のように揺れていたのだ。

 あ、こいつ完全に信じきってはねーな、ってわかった。

 ぼふっと胸に顔を埋めてきた花椿は囁くように、

「――……私の、共犯者になってくれますか?」

 なんて可愛いことを云った。

 ぎゅう、と抱き締めて云い返す。

「それは、恋人になっていいってお達しか?」

「……そ、うですね。同じ罪を担保に、貴方の告白を受け容れてもいい、という意味に取ってもらっても構いませんよ、ウタ」

 それが、初めてあだ名を作って、呼んでもらえた瞬間だ。

 その声を、一生忘れない。

 ぶわっとなって、その髪に口づけた。

 折角の表情は見えなかったけれど、髪色に負けないくらい耳や項が赤く染まっていたことは知っている。

「ありがとな、メリア……」

「……こちらこそ」

 そうして、一つの殺しを頼まれて、真の意味で共犯者となった。

 無事任務を遂行し、帰ってきたときには――花椿は植物状態になっていた。

 莫迦、みたいだろう?

 浮かれてた、俺が。

 それでも、花椿からの手紙を読んで真相を知り、残された可鳴亜を支えるためにも日常に戻った。揺唯を手許に置こうとしたのも、そうしないと皆零れ落ちていくと危惧したからでもある。何より、白籠のあの言葉のように、花椿がそうしてきたように、自分たちが生きやすいように少しずつ世界を変えていこう、と決めたからだ。

 悪夢に、今も苛まれている。揺唯の手を離したこと、花椿の許を一時でも離れたこと。この悪夢があるから、いい夢を見るために世界を変える、夢を見ている。自分たちが生きる、この小さな境界の世界を。


 ――悪夢は二つあった。どちらも、手放したくない、夢だ。



       ∴



 ――眠り姫は、夢を見ている。


 眠り姫の傍らで、仕事の準備をする。

 今日は、なんとなく桜色の着物に黄緑の帯を締めて、所どころの小物に黄色を散らそう。なんて、随分春めいた色彩になった。

 じゃあ、それに合わせて化粧しようかな、って桜色の口紅を手に取った。

 物知りの知人たちから聞いた話だけれど、魔人は旧人類より見た目が綺麗らしい。

 なぜかっていうと、親の祈りを受けた愛の結晶である子は、生まれたときから可愛らしくなることに始まり、摂取したものをすべて一度魔力変換してから血肉へとか再変換しているから不要なものが身体に蓄積されないからだとか、魔力による自浄作用が働いているからだとか、果ては幻想種に近くなっているから神秘的に美しくなっているんだ、など。説自体はたくさんある。どれもが正解かもしれないし、そうじゃないかもしれない。どの説も別に実証されたことではないから、って皆云う。

 少なくとも、魔力やその元となる精神が見た目にも大きな影響を及ぼすってことは確か。

 だって、魔力の枯渇や精神の不安定さは大なり小なり人の姿を醜くするものだから。反対は証明されてしまっている。

 そもそもの話、前時代以前の人間は皆見た目が似たり寄ったりだった、とも聞いたことがある。この辺りの人種は皆髪が黒かったというのだから、驚きだ。

 魔人は魔力の質や系統がもろに身体的特徴と直結していて、いろんな瞳や髪の色や質感に繋がる。その時々の感情に左右されやすいので、比喩表現などではなくうれしいときにはきらきらと目が輝くし、哀しいときは目から光がなくなる。

 魔力は魔性だ。

 他者を魅了する魅力に繋がる。

 そんなふうに、可鳴亜は思っている。

 恐ろしいのは魔法使いなどではない。

 魔性だ。

 或いは、旧時代的な云い方をするならば――魔女。

 他者を魅了し誑かし、心を掴んで離さない。

 そういった意味で、可鳴亜自身も花椿も魔女だとも云える。

 尤も、可鳴亜は姉のことをそれ以上の神聖な存在だと崇めているが。

 なんの話をしていたかというと、花籠にいるようなドールたちは皆元がよくて、且つ誰も彼人もを魅了する魔力を持っているけれど、それでも一応化粧はするのだ、という話だ。

 より、自分たちを魅力的に見せるように。

 和風要塞たる花籠の薄明かりに浮かぶ自分たちの姿が最大限引き立つように。

 自分をよく見せたいというのもあるけれど、何より客商売である以上お客さまに美しいものを見てほしい。

 そういった意味では商品だから、仕事として身体をケアし、整えるのは当然の義務だと考えている。

 それでもやっぱり元の肌が綺麗なので、ファンデーションもかなり薄めだ。睫毛だって元からばちばちだし。鏡台と見つめ合う自分は、やっぱり可愛いと思う。

 それは、自信がある。

 ――なんたって、姉さん自慢の妹だから。

 桜の髪飾りをつけて、今日の可鳴亜は完成だ!

 店が開いてから少し遅れた時間に、可鳴亜は案内係の手を借りながらゆっくりと階段を下りていく。

 中央の吹き抜けから、わざわざトップたる可鳴亜が優雅に登場するのはサービスの一環でもある。訪れた者誰でも、その美しい姿を拝めるように。そして、ちょっとした耐久テストの側面も持つ。少しキャストが待たせたくらいで文句をつけてくる客はこっちから来店お断り、という奴だ。

 尤も、今日は常連のお客さまだったが。

 しゃらり、しゃらり、と身に着けた鎖のせいで物理的に音を鳴らしながら下りてきた可鳴亜は、フロアに下り立って優雅に一礼し、予約のお客さまの許へと向かう。

 トップともなると予約が限界ぎりぎりまで詰まっていて、キャンセル待ちでなければ半年以上もしくは一年も待つこととなる。それでも予約が絶えないのは、一重に可鳴亜の魅力あってこそのことだった。

 常連客は穏やかな顔つきの、金持ちで優雅な貴族といった体の老いたYourだ。可鳴亜の姿を認めると、柔らかく微笑んで杖とともに立ち上がった。布張りのふわりとした椅子がすんと元の形に戻る。

「お待たせ致しました、お客さま」

「いいえ、全然」

 軽く礼すると、相手は帽子を脱いでお辞儀してくれた。きっちりと固めて後ろに流した白髪は、老いよりも若さやかっこよさを感じさせられる。

 スマートなジェントルだ。

 尤も、彼人も裏街で生きている以上、それなりにヤバい取り引きをする商人ではあるのだが。

「……すまないね、エスコートもできなくて」

「ううん、花籠はあたしの庭だもの。杖よりもあたしを頼ってくださいな」

 幼さと妖艶さを綯い交ぜにしたような笑みを浮かべて腕を差し出すと、彼人は優しく肘を掴んでくれた。いやらしさも下心も微塵も感じさせない触れ方にもうおじいちゃんじゃないんだから、とくすぐったくなる。それは確かに、こんな誰も彼人もが見ている場所でお触りしてくる人間は即出禁だけれど、あまりにも無垢な触れ方をされると反対に居心地悪い。

 板張りの廊下を抜け、橋を渡った先の奥に可鳴亜の閨がある。もちろん、自室とは別の仕事用の部屋だ。中華風の欄干があったかと思えば、美しい絵柄続きになっている襖がずらっと並び、しかし結界によって堅固にも扉以外は開かないようになっている。あくまで飾りなのだ。

 意匠の美しい木の扉を開けると、広々とした畳部屋が待っている。

 完全に寝る部屋といった感じではなく、一部絨毯の敷かれた場所にテーブルセットが置かれ、本棚に新聞掛け、階段状になった棚の中には骨董品や盆栽が陳列してある。

 実際、二人で本を読んでくつろいだり、ただお茶を飲んでお喋りしたりするだけ、というお客さまもいるくらいだ。

 お客さまの求めるもの、なんにでも対応できるようにしてある。

 そもそも、トップと相対することが許された人間にあまりにも品のない人間や教養のない痴れ者などいるはずもない。

「今夜はどうなされますか?」

 しなだれかかるように可鳴亜が問うと、

「一杯、どうかね?」

 とお客さまは人の好い笑みを浮かべた。

 そうしてしばらくは酒の肴におしゃべりをして楽しんだ。

 商人としていろんな場所、いろんな人や組織と取り引きする彼人はたくさんの思い出話も情報も持っている。聞くだけで楽しかった。

 けれど、お猪口に注ぐ手が止まって、本題を切り出すタイミングを計っていることが見て取れた。

「……なんだか、酔ってしまいましたね?」

「そうかい? お水を頼もうか」

「ううん、そうじゃなくって。……酔ってるから、これからする話は全部忘れちゃうかも」

 そう、話していいよ、と促す。

 何もかも見透かされているんだな、と相手も苦笑した。

「じゃあ、これも酔っ払いの戯れ言なんだがね……」

「うん、なぁに?」

「……可鳴亜くんが、最近疲れているんじゃないかと思ってね」

「ぇ……」

「あまり話題に出すのもどうかと思ったんだが……、花椿くんが店に出なくなってからずっと出ずっぱりだろう? それでも、君は笑顔を絶やすことさえしない。無理を、しているんじゃないか、と。老いぼれの無駄な心配だとはわかっているんだが」

 本当に心配そうな瞳で、こちらの顔を覗き込んでくる。

 年の功、という奴だろうか。

 得意の笑顔だけでは騙せない客も、たまにいる。

「……そう、だね。バレてるんじゃ仕方ないなぁ。本当は、ちょっと姉さんがいなくって大変っていうか、うん……。さびしい」

 カポン。

 庭の鹿威しが鳴った。

 なんとなく音の鳴るほうへ目を向けて、雪見障子から池に映る満月を見た。

 花椿、という胸に空いた穴は他の誰にも満たせない。

「……そうか。それで私にできることなんて何もないかもしれない。だが、小さくとも事情を知る者として、花椿くんを知っている私になら何か吐き出せるんじゃないかな、と思ってな。差し出がましい提案かもしれないが、私も……花椿くんの常連だった身としては妹君である君のことが心配で」

 ……そう、この人は花椿の常連さんだった。

 本来、花椿が店に出られない以上わざわざ花籠に来る必然性などない。

 だからといって、別に可鳴亜を花椿の代わりとして指名しているわけではない、ということももちろん解っていた。

 老婆心、のようなものだろう。

 もちろん、可鳴亜自身を気に入ってくれている。

 正直なところ、花椿から流れてきた客はそこそこいるし、花椿の代わりとして扱ってくる人間もいないわけじゃない。

 けれど、可鳴亜は自分らしい接客をするだけだ。穴は、埋められない。

 このお客さまは昔からの常連としていろんなことが見えていて、だからこそ心配してくれているのだ。

「……じゃあ、少しだけ。姉さんとの思い出話につき合ってくれませんか?」

「もちろんだとも」

 夜は、長い。

 先ほどよりもずっとお酌のペースが早くなり、会話もぽんぽんと小気味よく尽きない。

 酔っていい気分になってきたところで、互いを慰め合うように触れ合った。

 抜いた着物の衿は、首許どころか胸許が見えるほど肩を出していて、帯の解かれたそこはいとも容易くその中身を晒されてしまう。

 それでも、じゃらじゃらとした鎖はついたまま。

 ドールそれぞれに守ってもらう規則はあるけれど、可鳴亜の場合鎖を外さないこと、が絶対のルールだった。

君を愛でるよLove you

 命令Orderにしては云い回しが優しすぎる。

 そういう命令が好きな子もいるけれど、可鳴亜はもっとキツいのが好みだ。

 けれど、花椿の常連だった彼人がそういったサド寄りの命令ができないことはわかっている。だから、ちょっと欲求不満な部分がありつつも、受け容れる。

はいYesあるじさまmy master

 もっと縛りつけて、きつく命令してほしいな、と思いながら緩やかな触れ合いに興じて、甘やかな愛情に溺れた。

 とろとろとピロートークに耽っていた頃、

「……行っていいよ。花椿くんの許へお帰り」

 そう気遣われた。

「……いいの?」

「ああ。きっと、そのほうが君もよく眠れるだろう?」

「ありがとう、また来てね」

 ちゅ、と頬にキスを残す。

「また来るよ。永久指名だ」

 丁寧に服を着た可鳴亜は、綺麗に微笑んだ。

 ――知ってる。

 花椿が目覚めたところでもう二度と花籠に立つことはないだろう、なんて当然わかりきったことだ。可鳴亜を永久指名してくれることも、老い先がそう長くないことも知っている。

 彼人の気遣いに甘んじて可鳴亜は花椿のベッドで添い寝した。

 ……安心して眠れるのは、姉の傍だけだ。

 ゆっくりと、ふかいやみにおちていく――闇のような記憶の淵。



 ――花椿姉さんが、世界のすべてだった。

 少なくとも、幼い頃の可鳴亜にとっては。

 特殊な能力や幻想種の魔力を持たせた命令従属人形オーダーメイドドールとして、ある研究所で生まれた。(後から調べてみたところ、揺唯のいた児童養護施設とも繋がりのある研究所で、ある意味であたしたちは親戚みたいなものだったと知った。そして、白籠が検査された研究所でもある)

 不死鳥の魔力を投与されて作られたドールとして、いくらか不死鳥の性質を持って生まれたのだ。不老長寿で、その魔力を他者に分け与えると即効治癒、また継続的に摂取させると不老長寿性も得られるという話だ。即効治癒はともかく、不老長寿は誰にも試したことはないけれど。

 というよりも、花椿がその力を誰にも知らせないように、とずっと守ってくれていたのだ。命令従属人形は同じ屋敷だとか、同じ研究所だとかで作られた/育った子たちを、姉妹と呼ぶ。その研究所で特に直近に作られたのが花椿と可鳴亜で、他の姉妹たちよりも濃い関係だった。本当の、姉妹のように。

 花椿は、自分のすぐ後に生まれたドールというだけで、可鳴亜に手を差し伸べてくれた。培養カプセルからある程度育った状態、知識を持って生まれるドールたちは、自我が生まれ外に出られるようになった瞬間から十歳程度の身体をして、十六歳くらいで身体の成長が止まる。

 カプセルから出た瞬間、生まれて初めてみたのは――手を差し伸べて、大事に抱き締めてくれる花椿だった。

 いつも一緒にいて、可鳴亜を守って、他の子たちにも優しくてなんでもも教えてくれて、時に怒ってくれて、そして……愛してくれた。

 研究所の辛く苦しい生活も、姉がいてくれたから大丈夫だった。

 ――姉さんさえ、いてくれれば、それでよかった。

 花椿は高い能力を持つ代わりに、身体が弱かった。特に、能力や頭脳を使いすぎるとすぐ体調を崩してしまう。そういった力を使って、策略や言葉、その容姿までもを利用して守ってくれる代わりに、可鳴亜は物理的に姉を守ろうとした。優しく美しい、今にも手折られそうな儚げな姉が、壊されてしまわないように。

 研究所では、そうやって上手く立ち回って外へ出て、命令従属人形のいる施設や屋敷をいくつか回って佐け合った後、今のオーナーに出逢ってその許で働くことになる。

 花椿がオーナーとどんな取り引きをして、どんな契約を取りつけたのかは、知らない。ただ、それまでとは打って変わった待遇のよさだった。

 花椿はドールとしては異形で、命令されるよりも支配することを好む、強い命令権を持つ人形だった。けれど、可鳴亜は普通に命令されることを好むドールだったから、特定の誰かは求めないけど、いろんな人と夜を共にして心地よい命令を下されるのが好きだった。だから、花籠という安全に不特定多数の人と仮の主従関係を楽しめる場所は、可鳴亜にうってつけだったわけだ。

 ――でも、姉さんが主人になってくれるなら、本当はそれでよかった。

 姉妹という関係を築きながら、姉に恋に近しい愛情を抱いていたし、花椿を独占していたかったから。けど、花椿にとって可鳴亜は誰よりも大事な存在であっても、たぶん前提として家族だったのだと思う。たとえ、血の繋がらない、姉妹でも。

 ……それに、花椿はいつか自分が早くに死んでしまうかもしれないとか、命令ができない状態になるかもしれないとか、自身が特殊な存在であることを理解しているからこそそういった関係になって一人残していくことを危惧したのかもしれない。……あたしにとっては、姉さんがいなくなるなら、どっちにしろ同じなのに。

 可鳴亜が着実に花籠の花として一歩ずつ上り詰めていく間に、花椿はこの花籠をより良い場所に改善し、夜の店の支配者として君臨していた。それ自体は誇らしくて、姉さんなら当然だと思った。けれど、張り巡らされた策略の糸を思えば、なぜか……不安になった。あたしの知らないところで、姉さんはとんでもないことをやらかそうとしているんじゃないかって。

 それも、花椿は優しいから自分のエゴだって云いながら、誰かのために自分を犠牲にしてすべてやり遂げてしまうのである。そんな不安が、いつも拭えなかった。

 花椿は花籠の一番高い塔に根を張り、境界地の情報を網羅し、花籠のお客さまである主人たちを皆虜にした。愛情深い人だから、誰にでも愛を振りまくけれど、心底愛してくれているのは自分だけだという自負があったし、そうして仕事をして疲れている姉を癒せるのも自分だけだと思っていた。

 ……それなのに、あのクソYourがあたしたち姉妹の間に入り込んできた。殺し屋の新人で、夜の店に入るのも初めてでろくに作法も知らないド素人のくせして、廿楽つづら謠惟は一足飛びで「メリア」なんてあだ名をつけて呼び始め、姉さんの閨の許可まで得たのだ! 信じらんない! あの姉さんが、初めてのお客さまは二度目から、という店のルールを破ってまで、共寝を許したのだ。それって、そういうこと⁉ 姉さんは、あいつに決めたってこと? どうしてあんな奴がいいのかわからなかったし、姉さんを奪われたくなかったけれど、でも心のどこかで姉さんが対等に話せる、心の拠り所を見つけて、地に足をつけてくれたら……ってどこか安心した部分もあったんだ。

 けれど、花椿は何度も何度もやってきては告白してくる謠惟に、決して色よい返事をしなかった。どう考えたって、どう見たって、あいつのことが大嫌いなあたしが見たって、姉さんはあいつのことを気に入ってるのに、って思いがやまずにどうしてって訊かずにはいられなかった。

「姉さんは、廿楽謠惟のこと、気に入ってるんでしょ? どうして、いつも断るの?」

「ぇ……? 可鳴亜にも、そう、見えるかな……?」

「云いたくはないけど、とっても。だって、他のお客さまには皆平等なのに、あいつにだけは……姉さん贔屓してるっていうか、うれしそう」

「そっか。自分でも、初めてのことだから、よくわからなくて……。どう、なんだろうな」

「もし、姉さんがあたしの言葉に縛られてたり、あたしのせいで恋のひとつもできないって云うなら、やめて。あたし、姉さんの足枷になりたいわけじゃない。あいつはむかつくけど、でも……姉さんの邪魔をしたいわけじゃない」

「そんなことない。可鳴亜のせいであきらめるとか我慢するとか、そういうことはないよ。それに、もし私に恋人ができても、姉妹の一番はずっと可鳴亜だけだから。ね、泣かないで」

 その言葉で、安心した。そうだ、この姉妹の絆はたとえ恋人ができたって越えられやしない。不安に思うことなんて、ないんだ、と。

 花椿に抱き締められて、久しぶりに二人で一緒に寝た。どうにも痩せっぽちで肉づきの悪い姉が、それでもあたかかくて、心臓の音を刻み続けていることに心底安心したのだった。

 ……ちょっとは、姉さん離れしようと思った。

 揺るがない絆を再認識して安心したのもあったし、仕事にやりがいを見つけたのもある。この鳥籠をめいっぱい幸福な場所にしようって思ったから。一般社会とか学校とか普通の生活とか、そういうものが欲しいんじゃなくて、ただあたしたちはあたしたちなりの居場所で幸せに暮らせればいいんだって。

 そして、仕事の関連で白籠と出逢った。がんばり屋で健気だけど、不器用でどこか放っておけない子。あの子が欲しいって云ったら、花椿がすぐにかけ合ってくれて花籠の特別な従業員になった。花椿もすぐ白籠を気に入ってくれた。うれしい。白籠は姉妹の癒しだった。

 可鳴亜にとっては、姉が謠惟に取られてるとき、そっと何も云わず抱き枕になってくれる優しい子でもある。初めての、妹分、友人だった。

 友達ができて、少し姉の気持ちがわかった。

 これまで、世界には姉さんしかいなくて、他の姉妹やお客さまは正直二の次三の次で……。だから、姉さんが一番であることに変わりはなくても、友達といるひとときが楽しくて大事だってこと。姉さんにとって、廿楽謠惟がその相手で、あいつが恋しいって云うなら、その時間だって大事だってわかったから。仕方なく、そっと見守ろうって、可鳴亜も少しは譲歩したのだ。

 それから、白籠が不安定になって緊急措置として謠惟の組織に行くことになったり、いろいろあった。白籠は前みたいに笑えなくなったし、うまく眠れなくなったみたいだけど、それでも自分の仕事をがんばってるみたいで外部協力員として陰ながら見守っていた。

 変わらず花籠という檻の中で生き、そう生きることを愛しながらも、情報屋としての仕事を主としていろんなところに回っていた。

 そうこうしているうちに、いつの間にか花椿は前よりずっとどこか遠い存在、儚げで今にも消えそうになっていた。

 ――あたしは、どうしたって姉さんの妹だから、大変なことは相談してもらえない。それが愛されてるってことだって、わかってる。昔は自分だけのけ者にされてる気がしたけど、特別扱いして、それほどに大事にされてることだって。姉さんがあたしにとって一人しかいないかけがえのない存在であると同時に、自分がどんなに情けなく思えたって姉さんにとってもまたあたしはたった一人だけなんだってこと。わかってる。でも、それってあたしじゃ姉さんを佐けられないってことだ。

 だから、嫌でも謠惟に佐けを求めた。

 姉さんを佐けて、って。姉さんがどこか遠くに行ってしまいそうだって。きっと、何かやらかす気なんだって。廿楽謠惟なら、それを止められるかもしれないって。

 ――まあ、あたしの懇願も、あいつの努力も虚しく悪夢は現実になったわけだけど。

 それでも、誰かを恨む気にはなれない。それに、植物状態になったって、花椿はまだ生きている。快復の余地はある。

 ……姉さんが、死なないで、死を選ばないでくれて、うれしい。それを選んでくれたのは、たぶんあいつのお陰なんだってこともわかってる。だから、いっそ言葉にはしないけど感謝してるくらいなんだ。

 花椿は、死をもってすべての贖罪を果たし、すべての計画を終えようとしていた。けれど、最期の最後に踏み止まったのは、恋をしたから。そして、自分を大事にすることを、覚えたから。

 可鳴亜が姉から、大事な人のためにも自分のことを大事にするってことを学んだみたいに、たぶんきっとそれを教えるのは謠惟じゃなきゃダメだったんだ。(だって、どうしてもあたしは姉さんにとって自分自身よりも大事な存在だから。自惚れでもなんでもなく)

 ――ね、白籠は大事な悪夢なんですねって、あの日の夢を大切に、一緒に抱えてくれたよね?

 花椿があんなになって、辛くて、でもそれを白籠に報告もできなくて。ただ、一緒に眠った。悪夢で伝わるってわかってたから。そして、どんなに辛くても大事な記憶であるこの悪夢を、白籠が喰らいはしないってことをわかっていたから。優しい白籠は、きっとそうするって。可鳴亜が姉のためにも、自分自身を幸せにしようって思ったように、きっと白籠もすてきな夢を自分のために紡げるよ。

 白籠は悪夢を想えば悪夢に引きずられて悪い現実を引き寄せるから、白夢を夢見てくださいって云ってくれた。姉の容態を悪いほうにばかり考えていたら、ずっとよくならないって。可鳴亜はその言葉に救われたし、信じようって思えるようになった。

 ――今、あたしは夢を見ている。幸せな夢だ。いつか、姉さんが元気になったときに、あいつも白籠も皆が笑顔で迎えられる、そんな未来を。



 瞼を開ければ、そこには眠り姫が。

 ずっと目を開けてくれなくても、何も応えてくれなくても、確かにここにいて鼓動を刻み、あたたかな体温を持っている。

 生きていてくれるだけで、いい。


 ――いつか眠り姫が目覚める、夢を見ている。



       ∴



 ――ふわふわとした、白い夢に包まれている。


 ふわり、ふわり……と雲の上を歩くようにおぼつかない足取りで進んでいく。

 行くべき道なんて見えなくて、けれど先へ進まなくちゃいけないことだけはわかっていた。

 見届ける、と約束した。

 自分がたくさんの罪を重ねてでも成し遂げたその行く末を。

 いつもすべてを見透かして、計画どおりに進んで、何もかもがわかっていたから、こんなにも不透明なのは初めてだ。

 それでも、不思議と怖くはない。

 いろんなものを失った代わりに、開放感がある。

 不意に、ぬくもりに抱き締められた気がした。

 何が起きているのかわからない。

 けれど、なんだか涙を零している気がして、手を伸ばそうとしたけれど、ちっとも腕は動いてくれなかった。

 それから、ふと浮遊してもじゃらじゃらとした鎖に繋がれて、身動きが取れなくなった。

 不自由さは、これまでと変わらなかったから別に嫌だとは思わない。

 近くに感じるあたたかさがあれば、それでよかった。



       〆



『結論から云って、貴方の暴いた真実は大正解だったのでこれは単なる思い出話でしかないのですけれど……。よければ、読んでいってくださいね。

 可鳴亜には、きっと一生わからないと思うけれど、あの子が生まれてきてくれてどれだけうれしかったか、どれだけ救われたか。どんなに言葉を尽くしても、きっと伝わらない。けれど、貴方には多かれ少なかれ共感を得られると思ってここに綴ります。

 私は特別なドールとして研究所で生まれて、無感動にただ命令されるままに生きていました。苦しみも痛みもわからなかったけれど、喜びもうれしさもなかった。変わらない日々の中で、培養槽を見つめるのだけが趣味だったんです。作られては死んでいく、自分の姉妹たち。命とは、こんなにもあっけなく塵にされる。孤独で無意味な繰り返しの毎日の中で、生まれくる命をどれだけ渇望したか。どれだけ、たくさんの姉妹たちが死んでいって哀しんだか。命を命とも思っていない研究者たちにはわかるまい。

 たった一人、順調に成長し続ける子がいることに希望を見出して、毎日毎日通って、独り言が得意になるくらい話しかけました。

 ――貴方を待っていること、貴方に生まれてきてほしいこと、貴方と出逢えたらあんなこともこんなこともしてあげたいんだってこと。

 生まれてもいない、あの子を愛していた。

 ……あの日、可鳴亜が培養槽から生まれ出て、手を差し伸べて、抱き締めた。そのぬくもりの愛しさと、孤独だったことを理解した哀しさと、ただただ命として生まれてきてくれたことへの感謝を、一生忘れることがないと思いました。

 可鳴亜は、いつも姉さんに守られているって、ドールなんて無価値だって、自分を卑下しているけれど。自分なんてどうでもいい、姉さんが大事だって云ってくれるけれど。あの子がいなければ、私は、私の心は生きてさえいなかった。可鳴亜という存在が希望そのものであるってこと、きっとあの子には一番理解できないと思う。それでもいい、それでいい。きっと、こういうのはわからないほうがいいのでしょう。きっと、親や上子でないと、わからないことだから。貴方も、そう云ってくれるんじゃないでしょうか。


 親愛なる、廿楽謠惟さま。

 これを読んでいるということは、私が貴方に真実を口にできなかったということなのでしょう。ほとんど、貴方が暴いたとおりなので、これから記すことはその答えが合っていたという事実をなぞるだけの作業に過ぎません。それでも、貴方に自分の言葉で伝えたいのです。誠実さというよりはわがままでしかないのですが、おつき合いいただければ幸いです。

 今更云うべくもない、ご存じのこととは思いますが、私の計画の発端、すべての始まりはたった一人の妹である可鳴亜が幸せに生きられる世界にしたいというエゴからでした。可鳴亜が望んだわけでもないのに、本当に身勝手な独り善がりだったのです。それでも、私にとってそれが生きる希望、夢そのものでした。

 私の持つ透視という、遠見も未来視も過去視もすべてを可能にする能力が目をつけられやすく求められていたのはもちろん、命に固執する人間が可鳴亜の持つ不死鳥の性質を求めるのも当然の流れでした。

 それでなくても、ドールという存在は人に尽くす性質を持ち、人に害されやすい。被虐性癖を持って生まれるので、なおさら。傷つけられることに快感を得るようにできているから、それがドールの求めていないものだとしてもそういうものだと思って平気で傷つけてくる。研究所で作られた生命である私たちは、人の扱いを受けず、多く自分を卑下するようになります。幸い、私たち姉妹は一人ではなかったので自分の存在すら希薄に感じるとまではいきませんでしたが、こうした生まれ育ちのせいで可鳴亜が自分の存在や命を軽く見てどうでもいいものだと思っていることは常々感じ取っていました。或いは、私の能力の強力さのせいもあったかもしれません。優れた上子持つ、というのは得てして比較されて辛い思いをするものです。

 ……私は、できることなら可鳴亜に自分自身の命を大事にしてほしかった。私にとっていなくちゃいけない、すてきな存在なんだって気づいてほしかった。いつか、可鳴亜が自分自身の生に目を向けられるようになったとき、その希望が潰えるような未来/世界ではあってはならないと考えました。可鳴亜を害そうとする、能力を利用しようとする人間たちから守らなければいけない、それが最初の行動指針でした。

 そして、知ってのとおり私は多くの罪を犯します。可鳴亜を狙う人間を籠絡したり、殺したりしました。妹を守るべき手は、既に真っ赤に染まっていたんです。妹に愛を告げるための口は、既に真っ赤な嘘ばかりを吐いていたんです。滑稽でしょう? 可鳴亜はいつも、姉さんは綺麗ですてきな人間だと云ってくれます。こんなに美しい存在は、この世のどこを見たっていない、と。でも、本当の私はその裏をすべて隠しとおさなければいけないほど、穢れきっていたんです。自分の頭脳と容姿を使って他者に取り入り、騙し、時に身体を使われることも厭わず、可鳴亜を狙う者には死をもたらす。私がこの名のとおり椿だと云うのなら、それはきっと血塗れの赤なのでしょう。

 そうした道行の中、同じような境遇の子たちとも出逢い、守るべきものは多くなりました。可鳴亜を筆頭とする、姉妹たちやこの境界地に住む人々ができるだけ幸せに生きられる世界。どうしたって違法に作られた私たちやどうしようもない事情があってこの境界地に身を寄せた人々は、一般社会には降りられない。ならば、せめて生きるこの世を少しでもよくしていかないといけない。

 そうして、私は花籠のオーナーと出逢い、ドールに魅入られ愛す彼人とある意味共同戦線を張ることになり、花籠の相談役として店を盛り立てまたドールたちの生きやすい世界にするための協力をする代わりに、自分の計画を手伝ってもらう、そういう関係性になりました。

 ただ、共犯者などいない、と云ったのは嘘ではなく、私が何をしても協力せずただ沈黙を貫いて見過ごすこと、それが手伝いの内容でした。オーナーにさえ、この血塗られた道を共にはしてほしくなかったのです。

 ……私は、透視によって境界地の未来を知っていました。このままだと、どんな形であれいずれ滅びる運命しかありませんでした。政府に目をつけられて殲滅させられるか、治安が悪くなって共喰いで終わるか、それらすべてを回避したとしても魔力の汚染と枯渇によって遠くない未来枯れ地となり人が住めなくなる。それを、知っていました。

 前者二つに対しては、花籠の情報網と自分の透視と支配する力によっていとを張り巡らせ、この境界地裏社会をコントロールすることによって回避することを画策しました。貴方の所属する殺し屋組織も、以前からずっと有効活用させてもらっていたのです。

 後者に関しては、さまざまな問題がありました。まず、いろいろな研究所が魔力脈を確保して大量の魔力を用い研究に使用していること。それ自体は研究所を情報操作で潰していってもらうことによって、解決できました。でも、消費された魔力が元に戻るわけではありません。

 また、自然が少なく、自然魔力自体発生しづらいことが問題でした。人の心が淀んでいて循環しづらいこと、闇の魔力ばかりが溜まることも。それらに対して、私は単純に自然を増やすことから始めました。だから、花籠は自然でいっぱいなんですよ? 知っていましたか?

 ちょうど、花籠のある場所が魔力脈の中心地でした。ここを改善していけば、この不毛な土地もやがて魔力を多く含み、また自然も育ちやすい豊かな土地になるでしょう。実際、最近は農業などで生計を立てられる家庭も多くなったように感じます。

 精神的な問題、治安の悪さに関しても、情報や自分の力を使って裏から社会を操作することによって変えていきました。花籠を中心に互いを牽制し合うことによって力の配分を均等化し、ルールを逸脱した者を排除する。いずれは、そういった組織も規模縮小、軟化してただの自治団体になればと思っていました。

 ……ただ、魔力の枯渇・悪化問題についてはそんな対処療法だけでは正直間に合わない、とわかっていました。だから、私は魔力脈と直結して、塔の住人になりました。私が花籠のあの塔から出られないのはそういう理由です。そして、手を汚した自分を収監する意図もありました。

 貴方が云ったとおり、私は計画の最後に死ぬ予定でした。

 理由はいくつもありますが、透視能力を狙われることによって結果として可鳴亜まで危険に晒してしまうこと、魔力脈と直結して自分の強く膨大な魔力を流し込みながら循環させることによって土地の魔力をよくし豊かにするということは根を生やし幹となるということでそのまま植物のように人でなくなるか、引きちぎって土地だけで循環できるようにしたとしてその頃にはいわゆる魂の一部も繋がっている状態となりそれを切り離せば死んでしまうだろうということ、何より私自身が私の犯した罪に耐えきれなかったことが一番の理由です。

 私は殺した人間がどんなに悪人であっても、何か理由があって道を踏み外したこと、帰りを待つ誰かがいたことを、死に際の透視で知っています。私は、どうしようもなく殺し屋になった貴方たちとは違って、自分の意思で、殺しました。それと同時に、命がどれだけ愛おしいものか知っている私は、人殺しという罪があまりにも重く、どうしたって贖罪などできるようには思えませんでした。可鳴亜の生きる綺麗な世界に、私は必要ない。死んで償う以外に、方法がわかりませんでした。

 ……けれど、貴方に出逢った。貴方に恋をして、私は……正直、死ぬ前の最期の夢みたいなものだと思いました。貴方に何かを残してはいけないので、恋人になることをずっと拒否してきました。それでも、生きてるうちは貴方と一緒にいたくて貴方への好意を隠すこともしなかった、ずるい人間なんです。

 ずっと、ずっと、ついこの間まで私は――何も云わず貴方たちを置いていく気でした。

 貴方を、共犯者になんかする気はなかった。

 わたし、わたしは……貴方が愛して、一緒に生きる未来を口にするから、だから。

 私は、本当は貴方を共犯者にせず、可鳴亜を狙う最後の一人によってこの塔から連れ出され、死ぬことによってその人間を他の組織に殺してもらうつもりでした。それで、計画はおしまい。

 の、つもりだったのに、貴方にその人を殺してもらって、共犯者にする、なんて。昔の私なら、莫迦げたことだと思うでしょう。

 でも、私はもう一度夢を見ることにしたんです。花籠という居場所を見つけて、白籠という友人を得た可鳴亜は私がいなくても大丈夫だって思っていたけれど、自分のしたことの顛末を見届けないなんて、後始末をしようとしないなんてずるいっていう貴方の言葉に便乗しようかな、と。お前がいなきゃ生きていけない、なんて貴方の言葉をうのみにしてしまおうかなって思うんです。

 正直、どうなるかはわかりません。無事に魔力脈と切り離せたとして、自然魔力と同調しすぎた、透視能力を使いすぎた私は、廃人や植物人間一歩手前です。いつか、快復する可能性もあるし、そもそも死ぬかもしれないし、一生そのままかもしれません。

 それでも、貴方が私を愛してくれるから、私は生きようって思ったんです。

 だから、どうか――信じていてほしい。私は、いつも白い、綺麗な夢を見ているから。

 貴方の、花椿より。/花椿より謠惟宛ての手紙(何度も読み返して折り目がついている)』



       〆



 ふぅ……。

 正直、綴った手紙を推敲する気にはならなかった。

 こんなにもあけすけに自分の想いを吐露したのは初めてだから、気恥ずかしいのだ。

 花椿は整えた手紙を封筒に入れ、きっちりと封蝋で留めた。

 いっそマッチで燃やすかこの窓から落とすか、そんなことも考えたけれど、結局ちゃんと机の上に置いておくことにした。

 安全のためにも、ベッドへと移動する。

 寝そべって、目を瞑った。

 集中して自分の魔力と自然魔力を感じ取っていく。自分自身と魔力脈の境界を探るように。

 けれど、境界は曖昧になって、一部魔力脈はもはや花椿のプリズムまで届いている。それでも、細心の注意を払ってどうにか自分を残しつつ、切り離していく。

 すべてを見透かして、透視の魔力回路を焼き切る、限界まで。

 堕ちる、意識の中――思ったのは、貴方は怒るかなってこと。怒ってくれるかな。……でも、できることなら目覚めたとき抱き締めてほしい。がんばる、から。


 ――そうして、お姫さまは眠りに就いたのでした。



       ∴



 瞳に光を灯していない花椿がうろうろと歩いているのを見た瞬間、心臓が凍るかと思った。

 そこに本人の意識はなく、さながら夢遊病者だった。

 ふわふわ、よたよたとゆっくり歩を進める彼人は本当に何も見えていなくて、危うく階段から落ちる大惨事に繋がるところだったのだ。

 謠惟はがむしゃらに抱き留めた。

 生きている、という実感。

 心はここにない、という哀惜。

 こんなことで死なせて堪るか、という反骨。

 魔力も体力もすっからかんな花椿は、いっそ身動きが取れないことがある種救いでもあった。でないと、本当にどこかへふらふらと行っていたかもしれない。

 思わず、涙が零れた。

 そのとき、かすかに花椿の腕が動いたような気がしたのは願望の成せる業だろうか。希望的観測だろうか。

 その後、すぐに花椿が出られないようにドアと窓は特殊な施錠をすることとなった。

 いつもかつも、仕事がある以上謠惟か可鳴亜がついている、というわけにもいかないので仕方のない措置だった。

 そうして、たまに会いに行ったときにふらふら歩いていたり、椅子に座っていたりする花椿と出くわすようになった。

 そんなとき、いろんな話をしたり、ラジオを聴かせてみたり、調子がいいときは風呂に入らせたり、服を着せ替えてみたり、ほんの少しだけ食事を摂らせてみたりしてみた。

 ……人形遊びじみている。

 それでも、話や音楽に対して微笑んでくれたり、ちょっと離れようとすると嫌がるような表情になっているような、そんな気がした。

 いっそ、赤子のようで愛らしい。

 言葉もなく、感情を伝えてくれる。

 介護というよりも育児だ。

 ともあれ、魔力点滴をしに来た医者が食事は魔力変換できない状態でするのはよくない、と注意してきたのでやめることとなった。

 そして、ある日可鳴亜が帰ったら花瓶を倒してそこに座り込んだ花椿が手と膝を血塗れにしていた、という事件があってそれから問答無用で鎖に繋がられることとなった。ほぼ、ベッドから動けない。

 ……今も、執務室の机の、鍵つきの棚にしまった手紙を思い出す。

 定期的に読み返して、今となっては暗誦できそうなほどだ。

 白夢を見ている、という文言を信じて待つしかない、今は。



       ∴



 夢を見た。

 久しぶりの、誰かの悪夢だ。

 謠惟の、悪夢だ。でも、忘れちゃいけない、大事な。

 白籠は喰らわず、夢の中でそっと夢を見た。この悪夢にどうか幸福な続きが訪れますように、と。

 ……ぱち、ぱち。

 まばたきすると、目の前には大きな胸板があった。

 謠惟の、こうモデルみたいな綺麗な筋肉でできた胸板だ。

 寝巻のワイシャツはがっつりボタンを開けているから、見えてしまっているのだ。

 Yourの裸体なんて見慣れたものだけれど、謠惟は少ししか見えていないのにも拘わらず反対に綺麗すぎて目を逸らしたくなった。

 いつの間にか握っていたらしいシャツの裾から、そっと手の力を抜いていく。

 このまま胸許を見つめているのは破廉恥でいけない、と思って白籠は目線を上げた。

 目が合う。

 どうやら、謠惟は白籠より先に目覚めてずっと待ってくれていたらしい。

 これがボスやお客さまなら怒られているところだ。

 ……きっと、白籠を起こさないように添い寝を続けていてくれたのだろう。

 目線が右往左往する白籠に対して、寝起きの穏やかな目つきでどこか下子を見るような柔らかな瞳で見つめてくる。

 何もしてない後朝なのに、なぜか一番物語に読む恋人同士の朝みたいでびっくりしてしまう。

 花籠を含めた裏街で隠れた人気を博すのも頷ける。部下や同業者には厳しいから怖いと恐れられがちだけれど、身内や弱い存在には優しい謠惟に恋する人や隠れファンは多い。実際、通信室に届く郵便物の中には謠惟へのラブレターやファンレターもそこそこの数があるくらいだ。

 ここで、くすりとでも大人の笑みを見せつけられたら思わずときめいてしまいそうで困るので、話題を探す。

 そうだ……!

 すてきな夢のお礼に、

「廿楽室長は、わたしを抱かないのですか?」

 と訊いてみた。ものすごく怪訝な顔をされた。これでまた一つ、眉間の皺が深く刻まれたかもしれない。謠惟は上半身を起こして、前髪をかき上げる。白籠も寝っ転がったままではいろいろと喋りづらいので、起き上がった。

「謠惟だ。廿楽も室長もやめろ。朝っぱらから。白籠を抱いたら、将来的に揺唯に殺される」

 そう訂正されれば、白籠は頷いて素直に従う。きょとんとしながらも、

「? 謠惟、さん。廿楽は、母方の名字でしょうか。なら、揺唯さんと被らないよう、名前のほうがいいですよね」

 呼び変えたのだが、謠惟は浮かない表情だ。

「ちっ、そうだ……。黙ってろよ」

 白籠と一緒に寝れば悪夢と共に自分の記憶を見られてしまうだろう、ということはわかっていて、それでも白籠の体調を優先してくれたのだ。信頼の証、なのかもしれない。

「まさか、わたしの口から告げることなんて、ありません。人の夢のことを。でも、よろしいんですか? 実の、ごきょうだいでしょう? 揺唯さんにとっては、たった一人の大事な縁なのでは? 家族を知らない、わたしが口出しできることではありませんが」

 それどころか、揺唯が何よりも、ひょっとしたら自由よりも求めている繋がりかもしれない、と思うから。

「知らないほうがいいことだってある。今更、上子面すんのも、ずるいだろう。守ってやれもしなかったくせに」

 自分の表情を見せないように、謠惟は立ち上がってクローゼットへと向かい、服を取り出す。着替えるようだ、と気づいて慌ててそっぽを向いた。

 別に、いけないことでもないのに。

「そうは、思いませんが……。謠惟さんがそうしたいなら、尊重します。でも、だからだったんですね。謠惟さんはいい人ですけれど、揺唯さんには殊更に優しかったですから」

 思い返せば、あの不器用な優しさや教育はすべて下子に対する愛情だったのだな、と納得した。

「ばぁか、お前らだけにだよ。第一、優しいなんて云うのはお前くらいだ」

 ……ほら、そう云う声音が優しい。

「……だって、謠惟さんは、相手を傷つけて自分が傷ついてでも、相手を守ろうとする人でしょう? 揺唯さんを構い倒すのは、一番大事だからですよね」

「お前に云われると、なんだかな……。白籠ほど優しい人間は知らねぇけどな。お前は結局、他人にとって大事な悪夢なら喰らわずにそっと見て見ぬふりをするような、そんな人間だ。だから、心配するなよ。お前が化け物になることは、絶対ない」

 そんな優しい言葉を、うのみにはできなかった。自分がいつ悪夢という名の何かを喰らい尽くすか、なんてわからないから。

 それでも、少しだけ安心した。

 今までしなかったからこれからも大丈夫、という保証にはならないけれど。彼人がそう云ってくれた、という事実だけは忘れないでいたい。

「そう、でしょうか……。それは、わかりません。でも、ありがとうございます。わたしのために、一晩攫っていただいて」

 ぺこり、と座ったままお辞儀する。

「礼は要らん。どうせ、一晩程度じゃ気休めにもならねぇだろ。それより、白籠。てめぇはこれからどうする気だ?」

 いつもの制服を着た謠惟が、こちらをしっかりと見据えて問う。今日の柄シャツは鎖柄だ。

 大事な話だ、と思って白籠も立ち上がった。寝乱れた着物が、さらに着崩れる。

 まっすぐ、対面して。

 背の高い謠惟を少し離れた場所から見上げた。

「どうも、しません。揺唯さんを告発する気もありませんし、特に何か変える気もないです」

「なら――俺の計画に乗るか? もしかしたら、白籠にとって一番嫌なことをする事態に陥るかもしれんが、それでも白籠が揺唯を大事に思って、ここを裏切る覚悟があるんなら」

 一瞬だけ、瞳が揺れた。

 既に裏切っていると云えば裏切っているが、それでもボスと対立したいわけではなかった。けれど、もう白籠の優先順位の一番にボスはない。

「……それは、謠惟さんのためにも、揺唯さんのためにも、なりますか?」

 ……もしそうなら、なんだって裏切れると思ったのだ。

「おそらく、な。ただ、俺の計画を遂行するためには時間がかかる。それまで、このままお前には耐えてもらうことになる。一番、辛い役目だ」

「辛くなんて、ないです。お二人のためになるなら、何も知らずあなたの計画に乗ります」

「白籠、お前も好きに生きろ。そういう未来を考えろ」

「……それは、揺唯さんを好いているわたしに、云うことでしょうか」

 思わず、苦笑が漏れてしまう。

 恋、だと思われる感情を抱いているのだ、謠惟の下子に。

 どこぞの馬の骨よりいっそ穢れた自分を近づかせていいのか、と問いたかった。

「好意に応えるかどうかはあいつ次第だ。なんなら、白籠があのお子ちゃまでいいのか訊きたいくらいだ」

 驚いた、上子公認は聞いていない。

「ふふ、謠惟さんは素直じゃないですね」

「莫迦云え」

 ――本当に、お前はもったいないくらいいい奴だよ。

 そう、ぽんと頭を撫でられた。優しく、耳は殊更に優しく。

 わけもなく、泣いてしまいそうな、そんな優しさだった。

「わたしに、何があっても守ろうとしないでください。あなたたちのことを優先して。わたしは、誰かに守ってもらうほど、弱くはありませんので」

「ああ、信頼している。……揺唯が黙ってられるかは、知らんがな」

 小さく何を云ったかは聞こえなかった。ただ、綺麗でもない身体を大事に抱き締めてくれるのだ。

「優しくしないでください、泣きそうになるので」

「泣けるときに泣いとけよ。下手くそなんだから」

 涙が、つぅと流れた。見て見ぬふりをして、ぎゅっと強く抱き、自分の服に塩水が染み込むのも厭わない、彼人の優しさに甘えた。

 朝が来た。

 時を刻む者には、皆平等に。

 夜明けの空を湛えた瞳に見つめられ、白籠は瞼を閉じる。


 ――今からでも、夢を見ることは遅くないのでしょうか。

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