弐/邂逅



 ――月が欠けていくのは、悪夢を溜め込んでいっているからなんですよ。


 通信室の通信士がいったいなんの人かもよくわからなかったが、謠惟うたいの言のせいで揺唯ゆいの中でなんでも気軽に相談していい相談室の位置づけになったのは確かだった。

 だから、電話した――のが始まり。

「はい、こちら通信室夢杙むくいです」

 温度のない平坦な声だった。元々、通信機器を通すと魔力が感知できないので、対面して喋るように声から感情を読み取るのは難しい。それでも、冷たくは感じなかった。

「あの、ユイです」

「……ああ、はい。新しく入られた、揺唯さんですね。どなたにご連絡ですか?」

 境界地の裏組織の中では最大数を誇る人員がいる中で新人のことを憶えてくれているのだ。びっくりしつつも、目的の人物であるかどうか問う。

「ううん、ツーシンシさんに。それってあんた?」

「はい、通信士はわたしですが……。どのようなご用件でしょうか」

「よーけん?」

「わたしに、何か云いたいことがあるのでしょうか」

 わからない言葉の多い揺唯に対してイライラすることもなく、むしろ云い方を変えて優しく伝えてくれる。そんなのは、揺唯にとって初めての経験だった。自然と心が綻んでいく。

 ……誰も、揺唯の言葉を聞いてくれなかった。莫迦に教えるのは面倒だって、いつも捨て置かれた。それなら、会話なんて必要ないんだ、って閉じ籠っていた。

「うー、うん。謠惟が……、ウタさん。じゃないや、えーっと室長がなんでも通信士さんに訊けばいいって」

廿楽つづら室長が……。わかりました、何でもお聞きします。ゆっくりで構わないので、わからないことや聞きたいこと、ひとつずつおっしゃって……云ってみてください。わたしに答えられることなら、すべてお答えします」

 ……なのに、こんなにも丁寧に教えてくれる。莫迦にしないできちんと聞いて、答えてくれる!

 揺唯の口は自然と滑らかになった。

「ほんと? よかった。ウタさんてきとーだから、ウソかもしんないって思ってたけど、通信士さんってすげぇんだな」

「本来、わたしの業務外ですが、特別です。ないしょですよ?」

「そなんだ。んじゃ、ないしょにする。えーっと、じゃあさ。どうしたら、よくねむれんの?」

「ねむれない……。悪夢を見るのですか?」

「んーや。おれ、夢はあんま見たことない」

「なら、よかった……」

「ただ……さむくて、ねむれない」

「寒い、ですか? 最近は夜でも暖かい季節になってきたと思いますが……、寒く感じる原因、どうして寒いと感じるかはわかりますか?」

「さむいのは、きらい。なんか……仕事した後とか、特にチカラ使ったときはすっごく、さむい」

「……。揺唯さんは資料を拝見する限り、氷竜神の能力をお持ちですよね。人間が氷の力を使うと身体が冷えてしまうのかもしれませんね」

「ふーん、それってどうすればいいわけ?」

「根本的には、能力をなるべく使わないこと、ですかね。仕事や能力を使った後は温かいものを食べたり、湯船にしっかりと浸かったり、厚手の服を着たり……。他の改善策はちょっとこちらで考えてみますね。今日も、ねむれないのですか?」

「うん。ひとりは、さむいよ。通信士さんは、そーいうとき、どうすんの? どうしたら、ねむれる?」

「わたし、ですか……。どう、でしょう。あまり、眠れない経験はありませんので……。ただ、子どもは絵本を読んでもらったり、子守唄を聴いたりして眠りに就くそうですよ」

「こもりうた……って、何?」

「子どもを寝かしつけるための謡、ですかね」

「うたってよ、えっと……ムクイさん?」

「うた……⁉ えぇっと、はい、夢杙ですけれど」

「ムクイさんの、こもりうた、聴きたい」

「……そうしたら、揺唯さんは眠れますか?」

「たぶん。ムクイさんの声……聴き心地いい、から」

 低く穏やかで、けれど凛とした声が安心感を与えてくれる。話しているだけで、なんだかあたたかくなれている気がするくらいに。

「じゃあ、揺唯さんが眠ったら、終わりですからね」

 仕方ないな、特別ですよ――だって。

 夢杙は、いつもそう云ってお願いを叶えてくれる。

 ――うれしかった。

 だって、わがまま云ったら全部叶えてくれる。ずっとむちゃを云っていれば、揺唯は夢杙の特別でいられるのだ。

 会ったこともない、姿も知らない、どんな人かも判らない、声だけの邂逅。

 それでも、細い糸で二人は繋がっていた。

 そうして揺唯と夢杙は出逢い、この物語は始まりを告げる。

 翌日、仕事が終わって、云われたとおり温かいごはんを食べて、風呂に長く浸かって、上着を着て部屋に戻った。すると、クローゼットの中にたくさんの毛布やシーツ、コート・手袋、そしてネックウォーマーが入っていた。特に胸とか首のあたりが冷えるから、すぐに首をすぽっと入れた。

 ……ぬくぬくだ!

「聞いてくれよ、ムクイ! クローゼットん中にいっぱい、あったかいもん入ってたんだ。なんでだろ?」

 謠惟になるべく他人を敬ってさんをつけるように、と教えられたことなんてすっかり吹っ飛んでいて、さんづけするより呼び捨てするようになった。

「それは、それは。きっと、妖精さんの仕業ですね。妖精さんは数少ない希少な幻想種なんですが、悪戯もすれば手佐けもしてくれるそうです。揺唯さんは、妖精さんに好かれているんですね」

 そんなふうに夢杙は答える。

「えぇっ⁉ すっげぇ……」

 そう驚くと、夢杙はうれしそうに揺唯さんが優しくてがんばり屋さんだからきっと妖精さんもお手伝いしたくなったんだと思いますよ、と通信機越しに微笑んでいた。

 妖精さんの話を謠惟にすると、謠惟は何か笑うのを我慢するように「そうか、妖精さんか……それはさぞ大きい妖精さんなんだろうな……」なんて云っていた。夢杙曰く、たくさんの妖精さんが小さな翅を羽ばたかせて持ってきてくれたんだぞ、と懇切丁寧に説明すると「そうだな」って納得していた。

 ――謠惟はいつもおれを無知だって莫迦にしてくるけど、今日はおれが教えてやった。勝った! ムクイのお陰だ、うれしい。

 三日と空けず、ムクイに連絡していた。毎回、夢杙に眠るための何かをせがんだ。お決まりの台詞を枕詞に、子守唄や寝物語を聴かせてくれる。夢杙は、揺唯が何を訊いても答えてくれた。無知なのを莫迦にすることなく、彼人にわかりやすい言葉で一から百まで、理解できるまで丁寧に。書類のわからない言葉も読めない漢字も、日常生活の何げない疑問も、困り事も、なんでも。

「ムクイはさ、おれのこと莫迦にしねーのな。なんで?」

「無知であることは莫迦であることではないからです。それに、揺唯さんはわからないことはわからないと云って教えを乞うでしょう? すごいと思います。わたしも、社会のこと、人間のことを何も知りませんでした。不器用で、仕事に慣れるのも遅くて……。揺唯さんの、知ることに貪欲な姿勢、とてもすてきだと思います」

「そ、か……! でも、ほとんどムクイが教えてくれたことだし」

「……あの、すみません。ひとつ、謝らないといけないことがあって。揺唯さんの純粋さにつけ込んで、空想話まで本当みたいに教えてました。ごめんなさい」

 いくつか、おとぎ話の真実を開示された。

「え、あれってムクイの作り話だったの? すげーじゃん、そんな話作れるなんて。やっぱ、ムクイはおもしれぇ奴だな」

 って笑うと、夢杙はほっとしたように笑った。

「わしゃあ、物知り老人じゃからなぁ。何でも訊くとよいぞ? 嘘か真かはわからぬがな」

 なんて、変な口調で。

「変な奴って、揺唯さんは笑わないんですね」

 揺唯が無知を莫迦にされず褒められてうれしかったように、ムクイもおとぎ話ばかり嘯く変人だと疎まれずに褒められたことがうれしいことだったのかもしれない、と思った。

「まー、変だけどおもしれぇじゃん。そーいうムクイが好きだよ」

 変だって云うなら、こんな組織にいる人間、皆どこかしら変だった。その中でも、謠惟はまあイラっと来るけど嫌じゃないし、夢杙のことは好きだった。でも、好きって云うと、なぜだか夢杙は困っていた。そういう言葉は大事な人のために取っておくものですよ、でも有難く受け取っておきますが、って。

 おとぎ話であることを知り、妖精さんは夢杙であることが判明した。でも、たまに廿楽室長のもまじってるんですよ、と夢杙は苦笑していた。あれで、揺唯さんのこと気に入ってらっしゃるんです、と。夢杙はおとぎ話が好きだから、それでも妖精さんがいてくれると思うと楽しくありませんか?だから、姿は見せないでおきますって。夢杙でも謠惟でもない、妖精さんの仕業がまじってるかもしれない、と思うのは楽しかった。

 でも、たぶん、一番うれしかったのは夢杙が揺唯のために何かしてくれてるっていう事実だった。夢杙が喜ぶなら、どんなおとぎ話だって信じるけれど。

 夢杙には会ったことないけど、夢杙の痕跡はそこかしこにあった。書類の端にクリップでメモが留めてあって、ささやかな労いの言葉が書かれていた。名前はなくても、それが夢杙のものだともう知っている。同じ筆跡だから。チョコレート・キャンディー・キャラメル……、個包装に入っているタイプのお菓子が一握り差し入れされていることもよくある。夢杙はお菓子の妖精さんですね、って笑ってた。

 たまに、二重包装してあって、包装紙の裏側に小さな言葉が書いてあるのだ。たまらなく、うれしかった。そういうのは大変な仕事があった後で、そんなときに優しい一言がもらえることも、甘いお菓子が口に入れられることも、寒いのが吹っ飛んでいく心地だった。

 包み紙はごみなのに、全部大事に取っていた。四角いカンカンの中に、夢杙からもらったものはしまってある。

 ――『おつかれさまです。あたたかくして眠ってくださいね』『ちょこっとチョコ、なんていかがですか。なんて』『キャラメルとブロックのコンソメって似てますよね。妖精さんが交ぜておいてたら見分けがつかないかもしれません。いたずら好きなので一つくらい入っていたり。あ、コンソメっていうのは――』『暑くなってきて寝苦しくありませんか? でも、お腹を出して寝ないように気をつけてくださいね』『大変な任務だったと聞きました。あまりご無理をなさらないように』『このチョコレート、表面に花が咲いてるんです。いくつか種類があるので、なんの花か見てあててみてくださいね』『朝晩、冷え込むようになりましたね。あたたかくしてお過ごしください』『このみかんは廿楽室長からのおすそ分けなんです。わたしが書いたってことはないしょですよ?』『傷に塗ってみてください。少しは早くよくなるはずです』

 夢杙のくれるものが、時の流れを教えてくれる。手紙も、物も。いろんな妖精さんのお陰で、揺唯の部屋はそこそこ充実してきた。お菓子やジュースをもらったり、自分でも少し買ったりして常に小腹が満たせる状態になったし、細々とした傷を創って帰ってくる揺唯のために医療品のセットも置かれるようになったし、カセットコンロまで贈られてきた。魔力石入りのカセットなので、魔力を込めれば何度も再生できて便利だ。小さな鍋で湯を沸かして、カップ麺・カップスープ、それから袋ごともらったココアを作ったりしてお腹を満たしたり、身体を温めたりしている。だから、部屋にプラスチックのつるつる滑る箸だとか、金属製のマグカップだとかも増えた。マグカップは熱い飲み物を入れると火傷しそうなほど熱くなるけれど、手を温めるのに重宝している。

 あまりにももらってばかりなので何かお返しがしたいな、と思ったある日。裏組織御用達、行きつけのドラッグストアまで散歩した。コンビニエンスストアもかくやという狭さの店舗で、商品棚には種類もごっちゃに雑多な物が並んでいる。名称のわりに薬や医療品よりも日持ちする食料品やお菓子、ジュースなどの類のほうが多く仕入れてあり、需要が窺える。ほとんど配線の切れたネオンばかりが局所的に煌びやかで、店内は汚れさえ隠すほど薄暗い。

 そこでキャラメルとコンソメを買った。

 どれがそうなのかわからなくて、いつもヘッドフォンをして帽子を目深に被っている無口な店主に欲しいものを告げると、意外にも聞こえているようできちんとその二つを持ってきてくれた。もらってる給料で代金を支払う。いつも、適当なお札を出してお釣りをもらっている。

 どの紙切れがいったい何円なのか知らないのでそうしている、と謠惟に告げれば頭を抱えて「あいつがそこそこいい奴で本当によかったな」と苦笑された。

 たぶん、手間賃代とかは多少ぼったくられてお釣りをくれているんだと思う。他のヤバい店ならものすごい要求されてるぞ、と注意されたので他の店には行っていない。

 買ったものを包装からバラして、茶色い紙袋に詰め込んだ。レシートの裏に『いつもありがとう』と歪な文字を書いて、クリップで封をするように一緒に挿しておいた。

 いつ来てくれるか、なんて正直わからないけれどいつか気づいてくれるだろう、と入り口にどんと置いていると次の日には回収されていていつものキャンディーが数個置いてあった。

 さらに次の日――仕事から帰ると保温瓶にコンソメスープが入っていた。蓋を開けると湯気を出し、いいにおいが食欲をそそった。野菜の切れ端にぺらぺらのベーコンが入っただけのスープだけれど、食堂やダイナー、どこのコックが作った料理よりもあたたかくて美味しかった。ずっと、毎日作ってほしいと云いたくなるほどに。

 添えられたメモには、『昨日、すてきな妖精さんにプレゼントをもらったのでおすそ分けです。でも、いたずら好きだったみたいで、コンソメとキャラメルがいっしょくたになってたんですよ。かわいいですよね。キャラメルをなめようとして、コンソメだったことが一度ありました。今度からはきちんと気をつけます。そうそう、もし揺唯さんがその妖精さんに会うことがあれば「ありがとうございました」って伝えておいてもらえますか?』なんてメッセージが書いてあった。

 うれしくて跳び上がりそうになった。冗談めかして書いてあるが、それはつまり揺唯への感謝だ。お返しのお返しである。それじゃあべこべだって、本末転倒だってわかってるけれど、自分のプレゼントしたコンソメがスープになって返ってくるのは本当に妖精の仕業だとか魔法みたいだ。……この世には魔術も神秘も存在するのに、こんな些細な手品じみた子ども騙しが何よりすてきな、魔法だと思う。

 忙しいときや連絡が取れない場所にいるときでも、耳の中に夢杙の凛とした低い声が子守唄を紡いでくれる。何度も再生される。子守唄なんて知らなかった。なのに、いつの間にか一言一句、意味はわからなくても憶えている。

 揺唯は夢杙に会ったことが一度もないのに、彼人は有名人だった。食堂とか、シャワー室とか、人が集まる場所でムクイ・通信士ってワードは何度も聞いた。言葉の意味がわからなくて忘れたものもあるけど、大体は通信室に引き籠ってるけど美人らしい、みたいな話だった。

 ……おれは知らないのに、誰かがムクイの顔知ってたらヤダな、って思った。

 けれど、誰ともまともに話してくれない、無口でクール、人を寄せつけないと噂の夢杙が揺唯だけには時間を割いてプライベートな会話をしてくれている、という事実に満たされる。

 満月の綺麗な夜だった。

 夢杙は旧時代からあるという、お月さまに帰っていくお姫さまのおとぎ話を語り聞かせてくれた。おじいさんやおばあさんのしわがれた声も、お姫さまの高い声もなんでも演じた。七色の声であるかのように夢杙の演技が光る。聴いていて劇のようで楽しい。彼人自身が作ってくれたお話ではないので、ハッピーエンドとは云い難い終わりで……少し虚しくなる。

「……帰んなくても、いいじゃん。じいさんばあさんと一緒にいればよかったのに」

「そうですね……。そういう、また違った物語を描くのもすてきだと思います。でもね、揺唯さん。何も哀しむ必要なんてないんですよ。月は哀しみも悪夢も、暗闇さえも呑み込む――夜空に空いた穴なんです。皆を明るく包んで、幸せにしてくれます」

「ふーん……、じゃあどうしてずっと月はまんまるでいてくれないの? 欠けていっちゃうじゃん」

「いろんな闇を吸っていくと溜まっていってしまうからです。でも、またそれもすべて光へと変えていくから、またまるに戻っていくでしょう? だから、どれだけ世に闇が蔓延っても大丈夫なんです」

 ――……でも、それって苦しくねーのかな。闇を食べて光に変えられるっつっても、べつに食いたくねーかもじゃん、そんなの。

 心から零れた独り言に夢杙は、

「いいえ、闇が主食なので苦しいことなんてひとつもないんですよ。もし、辛かったとしても……誰かの夜の明かりになれているのなら、それほど幸せなことはないんじゃないでしょうか」

 そう信じて疑わない、という声音で律儀に答えてくれた。

 揺唯にとっての月は、夢杙だと思う。

 いつの間にか、夢杙と通信機越しに会話するようになって、胸の穴が埋まるようになった。さむいって、さびしいって思わなくなった。あまりの空虚さに苛々していた日々が嘘みたいに、心の中があたたかい光で満たされている。

 そのすべてが、夢杙なんだ。

 ある日、任務でヘマして大怪我を負った。どうしてヘマしたかは、云うとダサい気がして口にはしない。だけど、意識が戻った後にもだんまりを決め込む揺唯に反して皆事情をわかっているとばかりに怒ることも罰を与えることもなかった。

 治癒力も高いから、大したことではなかったし。けど、意識が朦朧としていて、手当てされる感覚も曖昧で。ただ、高熱に魘されながら眠る間、夢を見るようにあたたかい手に握られていたことを、憶えている。

 泣いていた。

 涙さえ、あたかかかった。

 夢じゃないのかも、と思った。

 だって、夢杙の声だ。夢杙が泣いている。泣いている夢杙なんて知らない。夢に出るはずがない。なら、これは現実で、夢杙を泣かせているのは揺唯で、彼人がすぐ傍にいてくれてるってことなんだ。

 できることなら、顔を見たかった。涙を、拭いてやりたかった。初めて知ったぬくもりを、離さないでいたかった。

 そのとき、初めて知ったんだ。自分が傷つくと、心配してくれる誰かがいるっていうこと。無事に帰らなきゃって思ったこと。そして……もしかすると、自分が殺してきた誰かにも、そんな大事な誰かが帰りを待っていたかもしれない、ということ。

 ――おれは、こんなことが、したいのかな?

 疑問に思うようになった。

 誰かを傷つけたり、殺したりしなくても満たされるようになったから、なんだか自分のやってることが莫迦らしく思えるようになったんだ。

 つまんない……。

 任務してても、楽しくない。

 いつか、可鳴亜かなりあが云っていた。

 謠惟曰く、彼人は組織の外部協力員らしい。

 どうしてカナカナは夜の仕事なんてしてるのか、って訊いたら、

「たのしーから。自分がしたいことなら、多少大変だったり、たまに嫌な客がいたりしても許せるでしょ? けど、自分のしたくない仕事だと、やる気も起きないし仕事も惰性になって大したもの提供できなくなるんだよね」

 そう楽しそうに笑って、教えてくれた。

 ――……どうしよ、おれ、今とんでもなくつまんねぇ。自由になりたい、ってまた思ってる。



       ∴



 白籠はくろうは今、誰かを贔屓していると咎められても反論の余地がないな、と思った。

 初めて通話したとき、誰にだって頼まれれば雑用をしないわけではなかったし、廿楽室長の名が出てきたからあの人なりの理由があるのだろう、と業務範囲外の相談に乗った。これまで誰かに頼られることがなかったから応えたいと思ったのかもしれないし、純粋でまっすぐな揺唯に子どもと相対するような庇護欲を持ったのかもしれない。何にせよ、特別意識したわけではなく、一度限りの戯れみたいなものだった。

 ……はずなのだが、二度三度と揺唯からの連絡を取るうちに情が湧かなかったと云えば噓になる。通信機越しとはいえ、絵空事ばかり語るおかしな人間の言葉をまっすぐ聞いてくれる、信じてくれる。作り話だと云ってもすごいと褒めて、そういうところが面白くて好きだと云ってくれた。白籠自身を、見てくれた。自由奔放で感情的だけど、豊かな感性を持った優しい子。育った環境や持たされた能力に翻弄されただけで、本当は他人を大事にできる、守ろうとする、自由を愛した芯の強い人。どういった感情を抱いているかはわからなくても、彼人に絆されている、という事実は実感していた。

 揺唯のメディカルチェックばかり熱心に見ている。揺唯にだけ特別にちょっとしたお菓子や手紙をこそこそと贈っている。何度も何度も意味のない通信を受けている。監視カメラや雑務で外出するとき、こっそり遠目に揺唯のことを眺めている。寒がりの揺唯のために防寒・暖房の備品消耗品を多めに渡している。揺唯のためのおとぎ話まで、考えるようになった。

 そんな贔屓は最低でも通信記録が筒抜けな以上ボスたちにはバレバレだったが、揺唯がかなり特殊な人員で日常的なサポートが必要なことはわかりきった話だったし、大きな戦力だったし、廿楽室長のお気に入りとなれば口出しはされなかった。

 情報提供などの外部協力員である可鳴亜は、いつものようにチャイムを鳴らして通信室に入ってきてお茶をしようとせがんでくる。

 金糸雀色の髪が鳥と翼のように広がっていて、細く伸びた部分を二つくくりにしている。蜂蜜に蕩けた瞳は、甘く誘惑するようでいて蜂の針のように現実を冷静に貫く。Innerらしい柔らかで小さな肢体は、いつもの仕事着であるドレススーツで守られ、鎖のアクセサリーがじゃらじゃらと絡みついていた。

 一言で彼人を云い表すならば、可愛らしい、だろう。

 実際、何度会ってもその愛らしい見た目と仕種に癒されている。

 通信室にあるものでは大したおもてなしもできず、コーヒーにミルクを入れて出すくらいしかできない。さまざまな電子機器がある部屋なので、トレーの上に載せたままである。

 白籠は何も出せないのに、可鳴亜はいつもお菓子などのお土産を持ってきてくれる。今日はとろっとしたカスタードクリームの美味しい、シュークリームだった。お気に入りの隠れ家的な洋菓子店があるらしく、そこで買ってきたのだという。正直、何もお返しできないので心苦しくもあるのだが、可鳴亜はそんなの気にしなくていーよ、といつも笑っている。二人で食べるお菓子は、甘く楽しいひとときだ。

 いつもの、無味無臭な食事とは大違いである。

「最近、前より元気そうでよかった! 白籠、何かいい出逢いでもあった?」

 そうコーヒーをずるずると啜りながら、目敏く訊いてきた。思わず手に力が入って、ぶちゅっと中のカスタードが飛び出て白籠の顔を汚した。あーあーやばい構図、と可鳴亜が手持ちのティッシュで拭いてくれる。むぎゅむぎゅ、とされるがままになっていると「かぁわいい、たべちゃいたいくらい」と頬のクリームをぺろっとなめられた。

 ……食べても、美味しくないと思う。

 何はともあれ、ありがとうございます、とお礼は云っておいた。可鳴亜が唐突にぶっ込んできたせいでもあるので、マッチポンプ感もあるが。

 黒々としたコーヒーを一口含んで、ようやく落ち着く。

「……カナさんがそう云うってことは、もう情報は入ってるんじゃないですか?」

 可鳴亜の顔は一つではない。この組織の外部協力員である前に、この境界地最大の夜店「花籠はなかご」のキャスト、そのトップ。そして、花籠自体も閨業以外に情報屋としての側面を持ち、彼人はさまざまな情報を持っているのだ。一聞、くだらない噂話さえ精査してきちんとした情報として抱え込んでいる。

「えー、これはあたしの勘なんだけどなぁ」

 ので、てっきりもう確定情報を得ているのだ、と思っていたがそうではないらしい。

 可鳴亜は二つ目のシュークリームに手を出しながら、にやりと笑う。

 情報通なだけでなく、彼人は人の感情の機微にも聡いのだ。

「敵わないなぁ。ちょっと、新人の子とおしゃべりするようになって……」

 そう、揺唯の不眠のために子守唄を歌ったり、寝物語を聞かせたり、おしゃべりしたりしているうちに白籠自身も眠たくなって、気づけば夢も見ないくらい深く眠れている。から、ある意味揺唯のお陰で体調が戻りつつあるのだ。

 いつもはだいたい仕事や客の愚痴だとか、面白い話、可愛くて美味しいお菓子の話だとかを、可鳴亜が喋るのをただ聞くだけだったのだが、今日は珍しく白籠がずっと喋り倒しだった。揺唯がどんな人か、揺唯と話したこと、揺唯が云ってくれてうれしかったこと、揺唯がくれたもの……。そういうもので、今の白籠は溢れていた。

 それを、可鳴亜はうれしそうにうんうんと頷きながら聞いてくれた。さすが、花籠のトップ。小悪魔のように翻弄したかと思えば、天使のような微笑みで聞き役に徹してくれる。

「……そういえば、先日揺唯さんがいつものお礼だと、贈り物をしてくれたんです」

「へー、なになに?」

「ふふ、それが――キャラメルとコンソメです」

 紙袋に入っている両者を、手のひらにのせて見せた。

「わぁ、似てる……。これ、間違えちゃわない?」

「そうなんです。キャラメルと思ってコンソメなめちゃいました。実はこれ、以前そういった手紙を書いたことがあって、揺唯さん憶えててくれたみたいなんです」

「へぇ、いい子じゃん。白籠にもあたしたち以外の友達ができてよかった」

「……友達、かどうかはわかりませんが。あの、これ――カナさんに」

 白籠は手のひらの上のキャラメルとコンソメをそのまま、ぎゅっと可鳴亜に手渡した。

「へ? あたしに? なんで……」

「揺唯さんに渡したホッカイロやガスコンロのセットは全部カナさんに手配してもらった物なので、お礼はカナさんにも渡すべきだと思って」

「あー……。その子はたぶん、白籠だけにあげたんだと思うけど、まあ白籠がそう云うなら有難くもらっておこーかな? うん、キャラメルとコンソメって……。あたしも久しぶりにちゃんと料理しようかなぁ」

「ふふふ、ぜひ受け取ってください。廿楽室長にも渡したら、しかめっ面をされました。でも、最終的には受け取ってくださるので、優しいですよね」

「あー、謠惟は白籠の頼みには弱いから。……それに、その子からのお返しだと思ったらうれしかったんじゃないかな」

「やっぱり、手塩にかけた部下は可愛い、ということでしょうか」

「まあ、それもあるけど。いいや。それより、謠惟こそコンソメなんて使いようなくない?」

「あ……」

「え、何?」

「……廿楽室長に、キャラメルとコンソメですって説明するの、忘れていたかもしれません」

「それは……」

「もしかしたら、ですよね……」

 くすくすくす。

 二人の笑い声が通信室に響く。

 花が咲き誇り、鳥が囀るようだ。

 けれど、ここは奇しくも防音室。音が漏れることもない。

 秘密の花園、なのである。

 だって、あのいつも眉間に皺を寄せている謠惟が間違ってガリっとコンソメを噛んだとしたら、そして思いっきりしかめっ面になったとしたら、面白いことこの上ない。

 ……申し訳ないけれど。

 涙が出るほどにひとしきり笑った後、二人で顔を見合わせた。

 す、とこなれた仕種で、涙を指で拭ってくれるのがかっこいい。

「本当に、よかった……。ずっと、隈作っててさ。死にそーだったじゃん? 最近は睡眠促進用の魔力薬もあんまり頼んでこなくなったでしょ。その代わり他の物頼んでくれるようになってさ。ま、そっちは白籠自身が欲しいものじゃなかったんだけど。それでも、白籠が誰かのために用意してほしいって頼んでくれるの、本当にうれしい。できれば、自分のためにも何か買ってほしいけど」

 花椿かめりあが――可鳴亜の上子かみごが、可鳴亜を見つめていたときのような慈愛に満ちた瞳を向けられる。昔、養父母が白籠を見つめてくれていた、あの瞳。

 そんな目で見つめられると、どうしていいかわからなくなる。

 白籠は困ったように微笑んだ。

 自分が随分心配をかけていたんだな、と気づいて申し訳なくなった。

「ご心配、おかけしてすみません……」

「違うでしょ? そこはありがとーでいいんだよ。っていうか、あたしがうれしいって話だから別に感謝も要らないんだけど。有難く思ってくれるんだったらさ、また話してよ。その子との話」

 はい、って頷いた。

 きっと、揺唯と通話している限り、話題なんて尽きない。

 そんな日常が続いて歯車が上手く回っていた頃、揺唯が任務中に大怪我をして帰ってきた。

 仲間をトラップから庇って怪我をしたらしい。これまで一人任務しかせず、誰かと関わることのなかった揺唯が、他者を守って傷を負った。

 進歩と捉えるべきなのか、それを助長した白籠が彼人に怪我を負わせたのか……。

 手当てをして、治癒魔術までかけて、寒くないようにっていっぱい布団をかけて、手も握った。涙が止まらなかった。……これまで、養父母のように大事な人なんてできなかったから、大切な人が死んでしまうかもしれないなんて悪夢を想像することもなかったのに。

 いつの間にか、揺唯は白籠の中に入り込んでいた。彼人の死が、怖くて怖くて堪らなかった。

 一睡もせず揺唯についている白籠に、謠惟もその秘書も苦言を呈した。否、心配してくれていたのだ。

 頑なに揺唯の傍を離れないので、遂には強硬手段に出られた。

「……おい、白籠」

「……なんでしょうか、廿楽しつちょ……むぐっぅ、ぁ、ぃゃ……ぁ、ん、んんぅ」

 一目で、開いた口につっ込まれたのが睡眠薬だとわかった。今、疲労が溜まって魔力耐性のなくなっている状態で飲むと即時的に効果が出てしまう。だから、呑みたくない。必死にあがいたけれど、ペットボトルの水まで含ませられて呑まざるを得なくなって、嚥下ごくんした。

 お門違いに恨みがましい瞳で見つめると、

「寝ろ。揺唯が起きたときにお前がそんなだと心配かけるぞ」

 酷いやりようだけれど、正論で何も口を出せない。

 そもそも、途端にやってきた眠気に抗えもせず、ゆるゆると瞼を閉じたのだった。



       〆



『……ぼく、ずっと待ってます。たぶん、あなたが死んでもそんなこと知らずにずっとずっと待ってるんです。もし、あなたの死を知って耐えられなくなって、そんな現実/悪夢を喰らおうとしたらどうしよう、って怖いんです。自分が、きっと制御できなくなりそうで。それくらい、揺唯のことを愛していた。それが恋かは知らない。少なくとも、愛ではあった。あなたがわたしの声が好きって云ってくれるように、あなたのハスキーな掠れた声が、好きなんです。安眠剤代わりに、なっちゃうくらい。あなたが死んじゃったら、きっと眠れなくなって、衰弱して、死んでしまうんです。ねぇ、揺唯さん。わたし、自由なあなたが好きなのに、あなたを縛りつけてしまいそう。それくらい、重い、愛に苛まれている。/白籠の手記より一部抜粋』



       〆



 結局、揺唯と直接的に会うことはなかった。

 或いは、夢見心地な中で揺唯はぼんやりと白籠の存在を感じ取ったかもしれないが、その姿を見るまでには至らなかった。

 それから、揺唯はあまり殺しの仕事をしたがらなくなった。自由を求め、組織を抜けたいんだな、という空気をひしひしと感じるようになった。

 白籠は、いいことだと思って、その気持ちを否定しなかった。むしろ、応援した。まっすぐで純粋な彼人が、人殺しなんかせずに、楽しく生きられるようになればいい、と。そのために、日常生活のわからないことを教えるのも、一般社会のルールを教えるのも厭わなかった。ただ、通信ではそういう話はしないほうがいい、と助言して以降込み入った話はお互い紙の切れ端による文通で行っている。

 けれど、揺唯の大怪我以降白籠の感情に気づかれてか、ボスは白籠を手酷く抱くようになった。あまり揺唯と通信できなくなった。眠れぬ日々が続き、以前のように体調を崩していった。

 そんなとき、謠惟が一晩白籠をかっ攫ってくれた。

 彼人の云い分としては、仕事が多忙で睡眠もロクにとれない日が続くから、白籠を一晩貸し出せ、というものだった。あからさまに謠惟の仕事量が増えているし、それをきっちりこなしているものだから、ボスも了承せざるを得なかったのだと思う。

 そして、それが謠惟の優しさであることを、白籠は理解していた。眼力が強く、言葉や人使いが荒く、暴力的で勘違いされやすいが、廿楽謠惟という室長が優しい人間であることはとっくの昔に、知っている。

 謠惟が自らスカウトした揺唯を殊更に大事にしていることも。揺唯に通信室を紹介したのも、清掃だとかお使いだとか雑用を頼むのも――普通に暮らしていけるようにするための、教育だ。

 すなわち、優しさ。

 だから、謠惟の執務室の奥にある自室に引き込まれても怖くはなかった。

 どちらの意味でも。

 何もしないのだろうなという信頼と、この人になら何をされたって優しさだってわかっているから怖くない、という意味でも。

 ボスの自室よりも、そして表の執務室よりもよほど質素な部屋。

 板張りそのままでカーペット一つ敷かれていない。謠惟のサイズに合わせて大きいだけのベッドも木製でぎこぎこいうし、マットレスも少し分厚いだけでぽよんぽよんもしない。

 物書き用の机と本棚、サイドボード程度、灯りくらいしかない、白籠にとっては落ち着く部屋だ。煌びやかで豪奢な部屋は、自分が何か壊してしまいそうだし、身の丈に合っていなくて居心地が悪い。

 素朴な温かさに包まれたこの部屋は、正に謠惟そのものみたいな空間だった。

「おい、寝るぞ」

 強引に押し倒すし、人聞きの悪い云い方だけれど、マットレスが優しく包んでくれた。ふわり、と優しく布団がかけられる。

 風呂上がりらしい謠惟は髪を結んでいなくて新鮮だ。白籠は、ぼうっと近くにある謠惟を眺めていた。いつも怒ってばかりいるから眉間に皺が寄っているけれど、精悍な顔立ちの綺麗な人。夜明けみたいな、青と赤の綯い交ぜになった、けれどそこにクリームを足したみたいな甘い色。その瞳が、殊更に優しく緩んでいるのだ。

 あまりにも見つめられて困ったのか、謠惟は指で白籠の瞼を下ろした。

 当然のように謠惟は白籠を抱き込んで、ただ添い寝して眠るだけ。

 本当に獏をただの抱き枕にして眠るのは、老人か謠惟くらいのものだ。彼人のたくましい腕に抱き込まれていると、不安なんてどこかに行ってしまうような気がした。父親や上子がいたのなら、或いはこういう人なのかもしれない、と思うほどの安心感だった。


 ――夜明けが来る。朝には、月だって眠りに就くのだ。

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