壱/実情



 ――おれは、社会のゴミを掃除する、殺し屋掃除屋だった。


 ぽたり……ぽたり……。

 が滴る。

 揺唯ゆいの頬から零れ落ちるそれは、しかし彼人自身の血ではなかった。返り血だ。

 ざっくり、と首をアックスで叩き切った後、念入りに解体した。もはやそれは死体ではない。スクラップだ。人としての尊厳何もかもを破壊し尽くされている。

 そこまでは、任務ではなかった。むしろ、後片づけをする死体処理班に迷惑がかかるからなるべくやめろ、と謠惟うたいに云われていたのだった。

 けれど、むしゃくしゃしてやった。

 今回の任務の標的、つまり殺しの対象だったソレは――孤児を売り捌き、犯し、殺し、醜い裸体と下品な嘲笑を浮かべていたのだ。

 ……それが、揺唯には酷く癇に障った。限界だった。

 間一髪で佐けられた孤児も恐怖に震えていたが、それも気にならない。

 けれど、どんなに醜悪な顔面を穿とうとも、骨を打ち砕こうとも、内臓を抉り出そうとも、決して晴れない靄がある。

 一時の激情こそ収まったものの、そのもやもやで永遠に覆われたまま。

「チッ……」

 舌打ちだけが、裏街の路地裏にこだました。

 死神みたいな黒い服に包まれた彼人は、自身の半身以上ある大きな斧を肩に抱えて本部へと帰っていく。

 鬱憤が溜まる。

 埋まらない穴がある。

 空虚を暴力と殺しに訴えても、結局残るのは虚ろだけ。

 ――……さむい。

 カチ、コチ。

 ……どこかが、音を立てて凍っていく。

 仕事終わりは、いつもそうだ。

 寒くて、冷たくて、……さびしい。

 誰かが、ひぃと声を引きつらせて逃げていった。

 別に殺しやしないから逃げなくてもいいのに、と思う。

 刺しても、叩いても、殺しても、埋まらない穴から冷気が吹きすさぶばかりでちっとも満たされやしない。もしか、誰かが寄り添ってくれたならこの寒さもちょっとはましになるのかも、なんて人間らしい感情は湧き出てこない。

 そも、誰かに寄り添ってもらった記憶など、ないから。

 人間なんて、そこら中にいる。

 けれど、そこら辺の誰か、じゃきっと満たされないことを本能でっていた。

 狼のように三日月を背負って孤高に歩く揺唯は、しかし何もかもを遠ざけて寂しがる小犬のように寒さを耐え忍んでいた。

 そんなことを知らない誰かが噂に噂を呼んで、今や裏組織どころか裏街を騒がせる冷酷な殺人鬼だ。仲間を見境なく殺すヤバい奴だとか、ブチ切れて組織一つ凍らせた超能力者だとか、目が合ったら凍るだとか、云いたい放題である。同じ組織の奴がちょっかいをかけてきたから返り討ちにしただけだし、ちょっと制御が利かなくて凍らせてしまったのはたった十人程度だし、どんなに透明感のある宝石みたいな瞳をしていても魔眼は宿っていないので睨んだって凍らせられはしない。まあ、能力を使用すればあっという間に氷漬けにできるけれど。いささか誇張表現が過ぎるにしても煙が立つには相応の火種がありはした。

 だが、謠惟の教育によって無闇やたらと標的以外には暴力を振るわなくなったし、能力はなるべく使わないようにしているし、仲間には何もされない限り攻撃しないし、腹が立ったからといってもなるべく八つあたりしないようにしている。

 最初についてしまった印象はなかなか払拭できるわけでもなく、ぼっちは継続中だが。

 尤も、裏組織に所属しているような汚い誰かと仲よくなりたいのか、といえばそうでもない。

 揺唯は縄張りを知り尽くした野良猫のようにするすると縦横無尽に我が道を行き、あっさりと裏組織の本部へと帰還した。

 名もなき殺し屋組織の本部は有刺鉄線つきのフェンスに囲まれ、鉄の重たい門扉に阻まれた要塞だが、外装は一見煉瓦造り風の洋館でありながら中身はばりばりの板張りだった。尤も、壁やら窓やらに鉄板や強化硝子が仕込まれたりはしているのだが。

 木造の廊下に不釣り合いな監視カメラに見られながら、シャワールームに向かう。本当はさくっと謠惟に報告しに行きたいのだが、顔どころか服もびしゃびしゃに血塗れのまま執務室に入るとめちゃくちゃ怒られるのだ。だから、最近は帰還後すぐに身体を洗うようにしている。

 徹底された監視下に置かれているようでいて、揺唯はすべてのカメラの死角をついて侵入することだって簡単なのにな、と思う。尤も、そんなめんどくさいことわざわざしたりしないが。

 脱衣所で、びちょびちょで気持ち悪い服をばさばさと脱いで、すべて雑にランドリーボックスに投げ入れる。すると、驚くことにいつの間にかすべてそろった状態で寮の部屋の前に洗濯済みの乾いた服が置かれているのだ。そこから思うことは清掃や雑用要員ががんばってくれているんだなということではなく、魔力石チップで誰のものか判別できるようになっていて何もかもが管理されているんだな、という事実が気持ち悪いなということだ。私服をランドリーで自ら洗濯乾燥待ちしている人間を見ると、確かに勝手にやってもらえるのは有難いことなのだろうが。

 一応のパーテーションで区切られたシャワーでざっと血を洗い流す。熱いお湯を出しているはずなのに、身体はあまり温まらない。固形石鹸で全身を隈なく洗い、なんなら頭も泡立てた。そうすれば、凝固していた血も取れて綺麗になっている、はずだ。揺唯はいちいち鏡を見て確認したりなどしないから知らない。

 五分足らずで済ましたシャワーの後、おざなりにタオルで拭いて常備されている黒いシャツとズボンを着た。揺唯のように任務帰りにシャワールームや大浴場に直行して着替えを用意しない構成員たちが本部や寮の廊下を全裸で闊歩するという大惨事が横行したため、いくら無法地帯とはいえあんまりだ、と目に余った上官たちの命令によってフリーサイズの部屋着が脱衣所に置かれることとなったらしい。

 どちらかと云えば引き締まった筋肉を持ち背は高いが細身で成長途中の揺唯は、ズボンの紐を結んで調整している。

 肩口ほどの長さのざんばらに切られた髪からは水が滴り落ち、タオルを首に引っかけたままノックもせず謠惟の執務室へ入った。

「うっす、ウタさん。仕事終わったー」

 上官への敬いも礼儀も何もなっていない揺唯に対して、謠惟ははぁと溜め息を吐きつつ応える。

「……揺唯、てめぇは仕事の報告するときくらいちゃんと呼べ。あと、水滴を垂らすな。ちゃんと、拭け!」

 革張りの椅子に座り、手許の書類へのサインをしながらそう叱ってきた。

 ぽたり、ぽたりと零れた雫が金糸に縁どられた赤い絨毯にしみを広げていく。……シンプル、品のない敷物だと思う。どこぞの金持ちだってもうちょっと品のある絨毯を敷く。

「喧嘩売ってんのか。俺の趣味じゃねぇよ。調度は全部ボスの趣味だ」

 暗にボスの趣味が悪いのだと口走る謠惟も相当上の人間への敬意が足りていないのではないか、という話だがこれ以上心の声を漏らすとまた話が長くなるのでぐっと我慢した。

「いつもどーり、ちゃんとターゲット殺してきました。いじょー」

「嘘こけ。また、死体を解体バラしたろ。死体処理班から苦情が入ってるぞ」

「えー。わかってんならほーこくとかいらないじゃん。もう、行っていい?」

「莫迦たれ。お前みたいな報告・連絡・相談が足りない奴のために強制してんだ、ボケ。今日も罰掃除で大浴場綺麗にしろ」

 うげぇ。

 揺唯が心底嫌な顔をしたところで、情け容赦ない鬼である謠惟が意見を翻すことなどないのだ。わかっている。しかし、大浴場は本当に汚くて嫌なのだ。とにかく、むさくるしくて汚い連中が入ると毎日洗ってあっても、汚れが溜まる。尤も、てめぇが清掃員の仕事増やしてるせいで人手が足りねぇんだよ、という正論を返されることは何遍も経験したので口にはしない。

「……りょーかいしました」

 踵を返して部屋を出ようとした瞬間、

「ちょっと待て」

 呼び止められた。

「一応、上からの通達だ。まあ関係ないが読んでおけよ。勉強になるだろ?」

 さっ、と風を切るように紙を投げられた。難なく受け取る。

「……読めねぇもん。捨てていー?」

「ちったぁ読む努力をしろ。指令書じゃねぇんだから、いちいち内容を教えてやらんぞ。日常的にわからないことがありゃあ、無線使え。無線は通話ボタンを押すだけで通信士に繋がる。そいつに聞きゃいい」

 知りもしない〝ツーシンシ〟にまる投げされた。

 どうせ、こういった上からのくだらない連絡事項は皆読まずにごみ箱へ捨てている。揺唯もそうすればいいのだが、謠惟にこれくらいの漢字も読めないのかとずっと莫迦にされるのは癪だ。どーしようかなぁ、と思いながら紙を弄んだまま今度こそ退室した。

 ギィ、パタン。

 ――……謠惟はめんどくさいこと云う。でも、嫌いじゃない。

 何せ、どこにも行くあてのなかった揺唯を拾い、なんだかんだと云いつつ世話を焼いてくれるのは彼人くらいなものだったから。



 組織に入る前、揺唯は裏街を彷徨う名のない浮浪者の一人だった。

 元の色なんて判らない薄汚れたシャツにダメージジーンズどころではない破れかぶれなズボンを着て、モップみたいな布を首に巻いていた。死体から奪った厚底のブーツは血を吸いすぎたせいか酷く重い。

 揺唯のように裏街でどうにか生きる孤児や浮浪児は多かった。そういった同族にねぐらや盗みに適した場所、反対に危険地帯を教わって、時に佐け合い、どうにか生きていた。

 互いの名前も知らず、利害関係だけで繋がり、死んでも思うことも弔うこともない。

 なんなら追い剥ぎして飢えや寒さを凌ぐ。

 積極的に他者を害そうとはしないが、傷つけようとしてくる奴には容赦がなかった。他の子どもたちが自分たちより大きく強い大人たちに屈し意味もなく次々と死んでいく中、揺唯だけは返り討ちにしていた。目には目を、歯には歯を。殺そうとしてくる奴は命乞いをしてきても殺す。

 だって、許した一秒後にはこっちが殺されるのだから。

 得物はその辺に落ちていた折れた椅子の脚や鉄パイプに始まり、ある日殺した奴が持っていたアックスを気に入りずっと使うようになった。

 時に、鬱憤が溜まりむしゃくしゃしていたらちょっとちょっかいをかけてきただけの連中を皆殺しにして、惨たらしい肉塊へと変えることもあった。

 そうして、すっかり裏街の有名人となった頃、そいつは現れた。

 月夜に融ける、紺色の髪。明け方の空みたいな青紫に似た瞳。どこかヤバい組織の人間なんだな、と一目で判る花のちりばめられた柄シャツにスーツ、重たそうなコートを纏った小綺麗な人間。三つ編みにした髪を胸許まで垂らしているのが、なんだか貴族じみていて嫌だった。

 ……ただ、他の奴らとは一線を画す何か、或いは特別な雰囲気を感じ取った。

 そういうのを魔力感知能力が高いって云うんだ、と後にその当人である謠惟は教えてくれた。

 冷めているのに、ぎらついた瞳で睨まれる。

 寒いとか冷たいとか痛いとかはよく感じるけれど、怖いと思ったのは久しぶりだった。初めてに近い。

 それほどに、そいつは強かったのだ。

 負けるかもしれない。

 だが、売られた喧嘩は買う主義だ。

 揺唯も最大限の強がりで睨み据えた。

「なんだよ」

「……賭けをしねぇか」

「……は?」

「喧嘩して勝ったほうの云うことを負けたほうがひとつ聞くって奴だ。お前が勝ったら金でも食べ物でも――俺の命でもなんでもやる。その代わり、俺が勝ったら組織に入ってもらう。どうだ?」

 賭け――ギャンブルには興味がなかった。あいにく貨幣経済と共には生きておらず、盗みと殺しで生計を立てていたから。

 運、なんて死ぬときには死ぬのだ。ラッキーもくそもない。

 だが、ここで退けはしなかった。

 勝ったら食べ物でもなんでもくれる、というのは浮浪児からすればさも魅力的かもしれない。しかし、そうではなかった。揺唯はただ、負けたくなかったから、敵前逃亡をしたくなかったからその勝負を受けて賭けに乗ったのだ。

「いーぜ」

 アックスを担いだ。

「準備運動は要らないだろ? さっさとかかってこい」

 謠惟は何も構えず棒立ちのまま、そう挑発してきた。

 カチン。

 元々細い理性の糸が切れる音がした。

 猛進。

 揺唯は大きく重いアックスを軽々と振り回す。

 ガッ。

「ヴッ……うぇ」

 勝負は一瞬だった。

 振り翳した斧はあたることもなく、力をなくした揺唯の手からカァンゴンゴン、と重たい音を立てて落ちた。

 大振りの隙に、謠惟は揺唯の懐に入り込み、体術で呆気なく締め上げたのだ。

「勝ち、だな。筋は悪くないが頭が悪い。ちったぁ考えて振れ。相手に次の行動を容易く読まれてるんじゃ、どの道裏街じゃ生き残れねぇぞ」

 ――……負、け?

 一度も負けたことなんてなかった。筋肉質で魔力量も多い、あからさまに強い奴だってこてんぱんにやっつけた。

 こんなにも力量の差をつきつけられて、なす術なく倒されるなんて初めてのことだ。

 悔しい、と思う前に信じられなかった。

 何が起こったのかさえ、理解できなかったのだ。

 ただ、大した力も魔力も使うことなく、それこそ本人が云うとおり頭と、そしてテクニックを使ってちょいと押されただけで体勢を崩された。

 支点・力点・作用点の勉強をさせられるも、結局感覚的に掴むこととなる。

「もっと強くなって生き残りたいだろ? 俺の所属してる組織に来い。そしたら、誰にも負けねぇくらい、強くしてやる」

 言葉には、魔力が宿っている。

 自ずと「うん……」と頷いていた。

 ――守ってやる。

 そんな言葉を思い出した。忘れ去られた声だけれど、しかしそれを聞いただけで安心できるという確信だけは連れてきてくれる。その背中についていけば何も怖いものなどないのだ、と知らしめてくれるのだ。

 そうして、この殺し屋組織に連れてこられた。

 まずは、「くせぇ」と罵られて風呂に入れられ、服を投げ寄越され、食堂の不味いごはんを味わわされ、そして――

『揺唯』

 という名前をくれた。

 何かの書き損じの裏に書かれたその文字を、一生懸命憶えた。ついでに、謠惟の字も憶えた。別に、名前をくれたお礼というわけではない。上官は敬うべきだ、と云われたからだ。

 最低限、指令書の読み方や各種施設の利用の仕方、やっていいこと悪いこと、仕事のルール、倫理観、生活の仕方を教わり、約束どおり強くなるための修業も見てくれた。

 感覚的に覚える揺唯のために実戦形式で散々しごいてきたのだ。有難いけれど、何度もけちょんけちょんにされるのはやはりウザくもあった。

 けど、負けない。いつか必ず勝ってやる!

 思うところはあれど、確実に強くなれているという実感があった。怪我をすることも、トラップに引っかかることもなくなった。

 脆くて弱い存在ばかりが周りにいたから、謠惟のように自分より強い存在がいてくれる安心感にほっとする面もあった。

 組織に加入する際、Yourというのに再誕した。

 正直なところ、さっぱりわかっていない。

 謠惟が云うには裏組織じゃそれになるのがほとんど必須らしく、Borderのままよりは強くなりやすいらしいからうんたらかんたら、と意味不明な言葉を羅列された。

 何がなんだかわからない揺唯の代わりに、謠惟がイメージを補助するからただ魔力を込めておけと命令されて、云われるがままに集中しているといつの間にかYourという奴になっていた。

 身体の一部が変わっていたのだ。いくらか声が低くなって、背が高くなった気もする。

 強くなりやすいならそれでいいや、と今になっても追及はしていない。

 謠惟がまず命令したのは「死ぬな」だった。だけど、「お前は強いんだから、無闇やたらと殺すな」とも云われた。任務や理由のない暴力・殺しをするな、莫迦でもちょんでも考えることをやめるな、と。でないと人以上に強い社会に殺される。それは、理解できなかったけれどもっと恐ろしいものに喰い殺される想像が過ってぞっとした。

 ――いいか、悪い奴だから殺させてるんだ、誰でも彼人でも殺していいわけじゃない。

 ……でも、じゃあ悪い奴をどうやって選ぶんだろう、ってほんとはちょっと思った。それって生きるためにただ殺してた自分と何が違うんだろうって。選別することも、また悪いことなんじゃ?って。だけど、きっとそんなこと謠惟が一番解ってるんだって、なんとなくその厳めしい眉間の皺を見て思った。



 ……と、そんなこんながあって今ここにいるんだよな、ということを食堂で味のしないスープを飲み干しながら思った。

 正直云って、謠惟曰く経費削減されているらしい、料理人もド素人の傷病兵がやってる本部の食堂は死ぬほど不味い。

 食べられて生きてるんだからいいのだろうが。

 それにしても、放浪時代だって盗んだものはそれなりの味がした気がする。

 その前は……。

 とにもかくにも、腹が減っては戦はできぬ。

 詰め込むようにしてかったいパンを食いちぎっていく。

 一人前になった祝いに、と連れていかれたダイナーで食べたハンバーガーやフィッシュ&チップスの味が忘れられない。ジャンクフードばっか食ってんじゃないぞ、と謠惟には注意されたが、微々たる給料で外食できる日はダイナーに行ったりハンバーガーショップでテイクアウトしたりしている。緑色をしたメロンソーダはいったいどこがメロンの味だかわかんないけれど、炭酸が好きだから気に入った。

 しかし、現実は目の前にある硬すぎてたまに前歯を欠けさせる構成員が出ると噂のパンと味のしない煮込まれすぎた野菜がぐずぐずになったスープと、気持ちばかりの焼いた肉。そして、牛乳。

 正直、これだけじゃ腹が減る。仕方ないので、いつも在庫だけはあるらしいパンをおかわりすることになる。牛乳に浸して、どうにか飲み下すのだ。

「……ごちそうさまっす」

「おう」

 厳めしい料理人が一言、返事してくれる。

 謠惟が上の人間は敬えだとか、何かしてもらったら礼を云え、とうるさいので一応いつもあいさつしている。

 その意味自体は、未だによくわかっていない。

 言葉を交わすこと、あいさつをすること、礼を云うこと――明日死ぬかもしれない、もしかすると殺すかもしれない相手に何かを残すことは意味があるのだろうか。

 名前も知らない、顔も憶える気のない相手に、何を思えばいいのだろうか。

 わかんない。

 わからないことだらけだった。

 ともあれ、云われたとおり揺唯は掃除中の看板を入り口に下げてから、大浴場の掃除を始めた。やりたくないけど、やってないと必ずバレてそれ以上の罰を与えられるのだ。やるしかない。

 それなりに広くてやけに汚い風呂場を、いっそタイルが剥がれそうなほどごしごしとデッキブラシでこすっていった。安い洗剤はちっとも泡立たなくて、綺麗になった気はしない。

 それでも、最後にホースの水で流していったときの快感だけは、好きだった。

 ……ついでに一番風呂に入るのも、ちょっとした贅沢である。

 ようやく、寒さから解放されて温もれた気になって意気揚々と寮へ帰る。のだが、木造で穴だらけの自室に帰る頃にはすっかり冷えてしまうのだ。

 暖かくなってきたけれど、早朝は寒い。

 殺しを誰の目があるか判らない真昼間からやるわけにもいかないので、多く深夜の仕事になる。と、なるといろいろ終わって眠りに就く頃には朝になっているのだ。

 昼夜逆転しようと、深夜の仕事だろうと、別に揺唯は苦にはならない。いい、というわけではないけれど。

 寝床があるだけ、ましだ。

 ぺらっぺらな板張りの部屋は、隣どころかもう一つ隣の部屋の音まで貫通する。もちろん、冷気も。

 たまに、呻き声みたいな変な音がするのは誰かが喧嘩してんのかな、と思う。謠惟に訊くと、変な顔をされて「あー、まあ……気にすんな。いちいち他の部屋の音なんざ気にしてると眠れねぇぞ」と云われた。それもそうだ。酒を呑みすぎてゲロしてるのかもしれないし、違法魔力薬のやりすぎで気が狂った奴がいるのかもしれない。聞かなかったことにする、耳栓をするのがきっと最善なのだ。

 ワンルームの殺風景な部屋には、もちろんキッチンもシャワーもついていない。パイプベッドと木製のテーブルと椅子、備えつけのクローゼットだけで狭いくせにガランとしている。

 揺唯はずっと肩に背負ってきたアックスを下ろした。その定位置にだけ、やたらと傷がついている。シャワーに入るときすら盗難防止もあるが単純に血を落とすために一緒に連れていっているのだが、シャワールームでも脱衣所でも廊下でもすれちがう人間がたまに目ん玉をひん剥いて避けていく。なぜかはわからない。魔力石で作られているらしいアックスは錆びることもない、どこでも一緒で安心だった。

 寝られればいい、という揺唯は家具を増やすこともなく細々とした物のみが雑然と置かれている。テーブルの上には無造作に放置してあるお金、お菓子の袋、ジュースのペットボトル、ごみ、資料、何かについていた輪ゴムと節操がない。床にもバッグや脱ぎ散らかした靴下、紙屑が落ちていて汚い。虫が湧くのも嫌なので、ごみ箱はないものの定期的に適当なビニール袋に詰めてごみ捨てしている。綺麗好きな謠惟に怒られないためにも。

 開けるたびにミシミシと鳴るクローゼットから支給されている上着を取り出して羽織る。それでも湯冷めした身体は冷えたままだ。他にも、真っ黒な替えの制服一式に銃なども入っている。が、一応訓練を受けたもののどうも飛び道具を信用しきれない揺唯は一度も持ち歩いたことがない。

 夏になれば扇風機、冬になればヒーターが備品として支給されるらしい。

 今、ヒーターが欲しいけれど。

 一仕事終え、雑用までこなし、身体そのものは疲労感に包まれている。

 けれど、寒さのせいか瞼を閉じてもなかなか寝つけないのだ。

 ぽいぽい、と蹴飛ばすようにブーツを脱いでやたらと沈むベッドに上がって薄っぺらい布団にくるまる。

 暗闇の中、ただ耐え忍ぶように目を瞑り続けた。

 放浪時代は、眠るのが怖かった。

 凍えるような寒さの中、目を瞑ると二度と起きられない気がした。眠っている間に、誰かに殺されているかもしれなかった。幽霊に拐かされるかもしれない。

 今は、眠れないことが辛い。

 疲れているのだから早く眠ってしまいたいのに、芯から冷える身体が、心の中の空虚が、穴という穴から吹き込む冷風が、揺唯の身体を冷たくして眠らせてくれない。

 寒くて、冷たくて、寂しい。

 明るくなっていく空とは反対にゆっくりと眠りへ誘われていく。

 その時間は途方もなく感じるが、いつかは疲労に負けて眠ることができる。

 そんな事実は、なんの気休めにもなりやしない。

 夜闇が暗い穴なのではなく、あの白い月こそが夜の穴なのだ、と誰かが云った。

 ともすれば、この胸に空いた空虚はあの満月なのだ。



       ∴



 暗澹たる悪夢を綯い交ぜにした夜闇に穿たれた穴。

 マグカップに注がれた、黒々としたコーヒーに浮かぶ月。

 それは、白熱電灯の影だ。

 未来に咲く光のようでいて、どこまでも果てのない落とし穴のようでもある。

 もしも、これが白夢しろゆめであるのならば悪夢すら包み込んでくれればいいのに、と思う。

 ……眠りたく、ない。

 深夜、カフェインを摂取するのは眠気へのせめてもの抵抗なのだ。

 無駄だ、ということは判っている。

 魔人は基本的に摂取したものの影響を受けないから。食べたものは一度お腹の中で魔力変換してから血肉へと再変換されるし、魔力の膜を張っているお陰で外的要因にも強くなったし、病気にもほとんど罹らなくなった。旧時代の薬や毒、お酒も効かない。神秘的な要素を足さない限りは。

 しかし、魔人は神秘と感情に左右されやすい。思い込みが身体に絶大な影響を及ぼす。つまり、プラシーボ効果で毒にも薬にもなるし酔いもするのだ。信じる者は救われる。

 夜中にコーヒーなどカフェインを多く含むものを飲まないほうがいい、という通説を信じられる人間は目が冴えて仕方ないだろう。

 残念ながら、自分にそんなもの効くわけがない、と理解しているのでどんなに効果を期待したところで偽薬にはなってくれない。

 白煙の湯気をふぅふぅとかき消す。

 両の手で包んだマグカップは真っ白でなんの飾り気もない。か細い指に重たげなそれは、大量に飲めば少しは効くかもしれないという願いのあらわれだった。

 夜は更ける。

 いつかは、明ける。

 それが長い夜になるか、短い夜になるかは人によれど、等しく時は進む。

 黒々とした海も、いつか飲み干せば月も映さなくなるように、月は沈み日は昇るだろう。

 哀しみは海ではないと云うけれど、マグカップ一杯だってきっと飲み干すのに時間がかかる。泥濘のようにぬかるんだそれを、どれだけ飲み下せばいいのだろう。

 或いは、一瞬にして喰いちぎれる悪夢こそが、昏く底のない海なのか。

 どれだけ抵抗しても、くらいそこへとおちていく――



       /



 梢暦しょうれき壱〇壱漆年、春。

 独立都市枝櫻守しおうり、地区境界地裏街。

 魔力濃度の異常な増加により、普通の人間は生きていけなくなり恐ろしい化け物へと変貌したという。人間が魔力をコントロールできる、いわゆる魔人へと進化を遂げたと同時にそうでないものが排斥され、外敵から身を守るために自らを閉じ込めた檻こそが枝櫻守を囲む結界である。故に、現在千年以上経った外界がどうなったかを知る由もなければ、一般人はそもそも外があるなんて情報を知り得もしないのだが。尤も、これはあくまで歴史を紐解いた人間が提唱する一説に過ぎない。

 前時代、つまるところ一般人と魔術使は隔絶され神秘は秘匿しつつ研究されていた時代。独立都市という概念は、その都市ひとつで自給自足を可能とし、都市条例という法律に匹敵する法を制定することができる、都市国家として誕生した。

 ちなみに月から魔法を持って帰ってきたといわれる前時代より前、つまり人類が一度この惑星を駄目にして月へ逃げ延びるまでの神秘とは無縁の時代を、旧時代と呼ぶ。

 閑話休題。

 ともあれ、密閉された都市に魔人と幻想種という神秘存在が同居することになり、独立都市枝櫻守が設立されてから始まった梢暦は怒涛の転換期としてこの千年を目まぐるしく変化し続けたのである。

 中櫻ちゅうおう政府と民間人及び地区長のいざこざ、幻想種や魔法使いといった神秘存在の迫害、子どもが生まれにくい魔人の人口減少、あまりにも便利な神秘物質として採掘しすぎた結果一時期消滅が危ぶまれた魔力石、そして――問題が山積したために後回しにされたさまざまな政策や研究機関による実験の残骸、また幻想種や劣等種の迫害から生まれた俗に云うはみ出し者が逃げ込んで集まってできたコミュニティーこそが地区境界地、である。その中でも特に治安の悪い社会の闇そのものを、裏街と呼ぶ。

 中櫻地区西から縦に伸びた境界地にある裏街一帯を牛耳るほど強大と云っても過言ではない掃除屋を自称する、殺し屋組織。

 そのたった一人の通信士――夢杙白籠むくいはくろう

 薄暗い洗面所の鏡にぼんやりと映る、黒い三角巾に包まれた短い墨色の髪、垂れ目に納まる青碧の瞳、白い肌。幽艶な美を称えるに相応しい端正な顔立ちはしかし、目の下の隈や痩せ細った肢体、白を通り越して蒼白い肌がいっそ死体か幽霊に見せる。

 ――みにくい、ぼく。

 白籠は鏡と共に自嘲した。

 眠りたくない、とできるだけ睡眠時間を削れば削るほど身体は疲弊していく。魔人は魔力さえあれば、食べなくても寝なくても生きていけるとはいっても限度がある。人間という形を保っている以上、結局健康で文化的な最低限度の生活は必須なのだ。

 或いは、魔人という存在も人間という在り方を魔力によってどうにか保とうとした結果で、魔力石も前時代と変わらぬ生活を送れるよう食べ物も物品もカバーできるよう生まれたのかもしれない。

 第三者から見ればブラック企業残業三徹目のサラリーマンもびっくりなありさまだが、あいにく通信室の住人である白籠はそんな誰かとも出会わない。尤も、裏街の人間はサラリーマンを知らないし、違法魔力薬やいかれた生活習慣によってゾンビみたいな人間も多いのでそういった意味ではいっそ目立たないかもしれないが。

 通信室の隣に設けられた小部屋のような自室から、出社時間もなく職場へと辿り着く。

 起きてから身支度をしただけで、朝食も摂っていない。

 通信士の朝は早い。

 そもそも、本来は通信なんて二四時間いつでも必要とされているのだから休む暇などない。が、ワンマンなので都合上定時が決まっている。一人しかいないからこそ、いなくなられたら困るので規則も労働基準法もない殺し屋組織で唯一働く時間が定められているのだ。

 通信室は雑然としている。白籠が散らかしているという意味ではなく、狭い部屋に統一感のないいろんな物を詰め込んでいるからどうも汚く見える、というわけだが。

 重苦しい扉と吸音材で防音仕様になっている室内は、クリーム色で柔らかく包まれている。床も板張りままではなく、同色のカーペットが敷き詰められているのだ。本部のように煙草や傷などで薄汚れておらず、多少年季が入っているものの清潔感があった。壁際に放送機材一式がそろい、その隣の事務机にボタン式の電話と旧式パソコン、液晶のついたタイプライター風の何か、分厚い電話帳、書類、筆記用具、メモ帳、付箋が並んでいる。反対の壁際に、ファイルがずっしりと詰まった木製の棚、コピー機、シュレッダー、長方形の折り畳みテーブルの上に断裁機と雑紙、灰色のロッカーに掃除道具が入っており、白籠の仕事に使うものはここだけでほとんどそろっていた。

 ぎゅうぎゅうと詰められているせいで、こぢんまりとしている。軽くハタキで埃を落としてから、コロのついた灰色の椅子にぽふっと座った。

 お気に入りの万年筆を片手に、日誌を開いて日付を記入する。今日の業務の始まりだ。

 プロロロロロロ。

 カチャ。

「はい、こちら通信室――」

『……廿楽つづら室長まで』

「廿楽室長ですね、少々お待ちください」

 保留ボタン。

 ピポパポ。

 プルルルルル。

 通話音が鳴り出したのを聞き届けてからカシャン、と受話器を置いた。

 電話を取って、云われた人か場所の番号を押して仲介する、たったそれだけの仕事だ。

 構成員の通信は、必ず一度通信室を通して連絡するように設定されている。本部の電話でも無線でも、拠点に置かれた古めかしい電話交換手方式の壁掛け電話でも、通話ボタンを押すか受話器を取るだけで通信室に繋がるようになっているのだ。例外はボスやその側近、一部の室長くらいだ。

 各員にバッジが取りつけられていて、支給された通信機以外での不審な通信があった場合はすぐわかるようになっているから、個人所有の通信機器での不正もできない。

 プロロロロ。

「はい、こちら通信室夢杙です」

『えーと、あの……あれ、一番遠いセーフハウスのさ……なんだっけ』

「拠点Δデルタでしょうか?」

『あ! それそれ、そこの固定に繋いでくんない?』

「了解しました。拠点Δにお繋ぎします。少々お待ちください」

 保留、番号押し、通話音。

 と、入った当初はどこかもわからず連絡を取りたがる通信に困ったものだったが、ちょっとした情報でどこ/誰と連絡を取りたいのか判断がつくようになった。努力と経験の賜物である。

 プロロ。

「はい、通信室夢杙」

『……よぉ~、ムクイちゃん。おれっちとデートしようぜぃ』

 あからさまな酔っ払いである。

「どちらにご連絡でしょうか?」

『ムクイちゃんにぃ、でぇとのお誘い~』

「そうですか。他にご連絡先は?」

『えー、だからぁ……でーと、しようぜぇ~~~』

「致しません。他に用件がないようでしたら切ります」

『ムクイちゃん、で――』

 プチっ、カシャン。

 ……昔、入ったばかりで右も左もわからなかった頃、こういった電話にもきちんと受け答えしていたし、なんなら呼び出しを受けさえしていた。が、通信仲介の渋滞に繋がるし、呼び出された先で酷い目に遭ったのでボス直々に禁止令が出たのだ。以来、まともに相手していない。

 できるだけ人と直接会話したくないし、冷たくあしらって嫌われるくらいがちょうどよかった。

 通信が途切れる時間帯もあって、そういうときに本部からの通達・連絡事項などの頼まれた文書作成を行う。電子タイプライターと名づけられた無駄に技術部の粋によって製作された、小さなモニターのついたタイプライターが文書作成電子機器として使用できる。隣に旧式とはいえパソコンがあるのだから、それでまとめてやればいい、という尤もな意見は呑み込んでいる。単なるボスの懐古趣味の成せる業ではあるが、データを残さないなどそれなりに利点はある。

 カチン、カチン……。

 浮いた金属のボタンを押す、独特な音を響かせながら文書を打っていく。使用感としてはラベルプリンターに近く、後ろについている機器に用紙を差し込んでおけばプリントもしてくれる。印刷されたものを、コピー機で必要枚数複製すれば終わりだ。

 タイピングの速度は遅いほうで、正直なところ手書きのほうが絶対に早く済む。

 上から与えられた文書作成だけでなく、個人的な手紙の代筆も内緒で請け負っている。さらさらと色気のない便箋に万年筆で頼まれた文言を綴っていく。本当はやってはいけないのだが、こんな裏組織に所属する人間ともなれば識字率も低く、どうしても文章を書くどころか読むことさえできない人が多い。任務関連の伝達事項であれ、好きな人への恋文であれ頼まれると断れないのが白籠だった。

 そうこうしているうちに、昼になった。

 奥の自室に一旦戻る。こちらには電話の音が届くのでいつ休憩しても特に問題ないのだ。

 非常に狭く、木製のベッドと棚つきの机、本棚だけでいっぱいいっぱいになっていて、書き物も食事も同じ机の上でしなければならない。ので、食事するときは料理を載せたトレーをそのまま机の上に置いている。キッチンとシャワーも完備されているので、他の構成員のように大浴場やシャワールーム、食堂を利用することもない。

 一人で摂る食事にさほど意義を見出していないが、しかし人間として生きる以上最低限の食事をしなければという思いから、おむすびやサンドイッチなど手軽に摂取できるもので食事を済ませている。食堂の食材をもらいに行くのもずうずうしい気がして、一応もらっている給料から自腹である。

 本当は緑茶に和食が馴染み深いのだけれど、いかんせん一口しかないコンロと小さな冷蔵庫しかない環境、裏街で購入できるそこそこまともな食材だけでは大した料理もできない。小鍋でご飯を炊くのも手間と時間がかかるのでおむすび一つ作るのも大変で、結果トーストやサンドイッチにコーヒーという食生活が続いている。

 今日も今日とて、野菜の切れ端とチーズを挟んだサンドイッチと黒々したコーヒーをトレーに載せて、ささやかな昼食を摂る。

 騒音が問題となる寮とは対称的に、この部屋は通信室の音しか入らない。つまり、静かだ。

 質素な昼食を小さな口でもそもそと食べ進め、コーヒーでどうにか飲み下す。

 食材には大変申し訳ないのだが、こうして穴蔵のような部屋で独り食べる食事は味も何も感じなかった。不味い、というわけではない。ただ、彼人にとってのある種の主食と同じで美味しいとか不味いではなくただ飢餓感を埋めるための作業めいているのだ。

 寂しくは、ない。

 誰とも関わりたくなくて、できるだけ引き籠って過ごすことを選んでいるのは誰でもない彼人自身だ。

 通信室は機材などのためにも神秘的な設備で一定の湿度・温度に保たれていていつも快適だ。しかし、隣のこの部屋は違う。たぶん、まだ朝夜は冷えるし、夏には暑くなっている。のに、それをあまり感じない。だから、真冬の夜くらいじゃないと備品のヒーターは使わないし、夏も時折扇風機を回す程度である。

 数少ない白籠を心配してくれる人たちは「雪の精から凍死体になりたくなきゃ、部屋でも暖房つけろ」「怪談だけはほんとやめてよ? 暑いからってそれ以上がりっがりになったら、幽霊になっちゃう」と忠告してくれるのだが、本人にどうも自覚が足りずあまり響いた試しがない。

 午後からも変わらぬ業務をこなす。

 通信仲介も、罵詈雑言も、告白も、間違い電話もすべて等しく仕事として扱う。合間に事務作業を挟みながら休む間もなく黙々と小さな部屋の中で完結していく。

 やがて、夕方になると郵便屋さんが来る。まとめておいた郵便物を渡し、代わりに届いた物をもらう。境界地で営む郵便屋さんは裏街にも裏組織にも等しく届けてくれるのだ、有難いことに。チャイムがジリリリリと鳴って、白籠はひょこっと通信室の扉を開ける。も、そこには防音のためにもう一つ小部屋があって、手前の硝子窓を開いて受け渡しを行う。一応あいさつをしてくれるものの、白籠が無口なことは既にここ何年かの勤務でわかっていることなので返事は期待せずそのまま去っていってくれるのだ。届いた郵便物を部屋で振り分けて、ついでに本部からの連絡とまとめて廊下にどんと置かれた長机に分けて置いておく。いずれ、それぞれの部署の雑用担当だとかが回収していってくれる流れだ。

 他にも、日によっては雑用係として資材部・技術部・医療部など各部署で発注するまでもない細々した雑貨・消耗品や急ぎの発注や応急手当て、備品の管理・資料の整理などの仕事もある。ボスなど上司に頼まれれば無言でお茶汲みもする。人が出払っている時に、共用部分の清掃などもしている。不器用だが裏社会に入ってから応急手当ては日常的に必要な技術となったので、今となっては得意な部類だった。随時、業務日誌にやったことを記入していく。

 夜になると、白籠のもう一つの顔がひょっこりと出てくる。

 正確にはこちらが本業で、通信士の皮を被った〝内部職務監査役〟――略称・内職なのだが。

 尤も、やることは至ってシンプルだ。

 ド田舎育ちでネットワークどころかパソコンの一台さえなく、知りもしなかった白籠がぽちぽちと台形のチョコレートみたいな分厚いキーボードでパスワードを打ち込む。白籠がそらで憶えられる程度のパスワードにいったいどれだけのセキュリティー性があるのかは判らないが形だけ一応。

 内部職務監査役、というと大仰に聞こえるが白籠自身は誰かを監査しているつもりなど毛頭ない。ただ、形式化された手順どおりに通信記録・ネットワークデータ・監視カメラ映像を毎日提出するだけ。私情も思考も必要なく、収拾したデータをどう解釈しどう利用するかは関知するところではない。いっそ、情報に対する無関心さと口の堅さが必須要件とも云える。

 マニュアルどおりの仕事。

 自分が内職であることなんて忘れそうだし、皆が白籠のことを通信士だとしか思っていないように、彼人自身も通信仲介業務や雑務の仕事量のほうが圧倒的に多く、内職の仕事のほうがささっと適当に終わってしまう。

 そういえば、新人さんが入ったって聞いたな、と新しく届いた個人データの資料を引っ張り出す。

 別に、内職としての仕事というわけではなく、単純に通信士としてもそれぞれの個性や特性を知っていたほうが何かと円滑に仕事が進むし、今回は廿楽室長自らが手塩にかけて育てている期待のホープという話で気になってもいたからだ。

 ――新人、ですか……。

 こうしてみると、時の早さを感じる。これほど長く同じ職場に勤めることも初めてだ。

 自分が新人の頃あまりにも仕事ができない役立たずだったことを思い出して、なんとも云えない気持ちになる。



 裏街で売られていた白籠は、どこに行っても役立たずでいろんな夜店や裏組織を転々としていた。そんなとき、新しく買われた、飼われた、もとい雇われたのがこの殺し屋組織だった。

 前職で大きな失敗をして塞ぎ込んでいた白籠にとって、それが下卑た笑顔を湛えた髭面であろうと救いのように感じたのだ。

「白籠、お前が必要だ」

 ごつごつした手を、差し伸べられた。

 誰かを守る手ではなくて、誰かを殺してきた手。武器を持つ手。

 だけど、差し伸べられた手を、取った。

「……わたしで、いいなら」

 必要とされていたから。

 嘘だ。

 自分じゃなくちゃいけなかった理由なんてない。

 ボスじゃなくちゃいけなかった理由なんてない。

 白籠自身、本当はわかっていた。

 このとき、手を差し伸べてくれたなら、たぶん誰でもよかったのだ。

 どうして白籠が選ばれたのかは、知らない。わからない。単純に見た目で選ばれたのかもしれないし、ぽやんとしていてこれまでの仕事上聞き役に回ることの多かった彼人なら皆口が緩みやすくなって不正が暴きやすくなることを期待したのかもしれないし、唯々諾々と云われるがままにあっちこっちと仕事をしてきた彼人なら裏切ることなく命令に従順であり続けるだろうと踏まれたのかもしれないし、彼人の声がオペレーター向きでもあると思われたのかもしれないし、白籠の能力を買われたのかもしれないし、安眠抱き枕が欲しかっただけだったのかもしれない。

 ……なんにせよ、打算的な理由であっただろうことは否めない。

 殺し屋という組織の性質上、イカれた連中の集まりだし、ヘッドハンティングも少なくはなく、金などで裏切ったり情報を流したりすることもままある。故に、内職を必要としていた。白籠の存在は、ちょうど裏切って処刑したばかりの通信室の空きと新しい内職という役のポストにピッタリだった、というわけだ。

 白籠自身も、ちょうどもう誰とも人と深くつき合いたくない、と何もかもを拒絶していたので適職だったとも云える。

 最初は初めて使う電子機器、連絡先をまともに云えない構成員たち、何事もやり始めは要領が悪く努力型でゆっくりと成長していく即戦力タイプではない白籠。

 ……散々だった。

 それでも、ボスは白籠を解雇することはなかった。

 結果的に長期雇用の末、白籠の努力は報われ、仕事をコンスタントに回せるようになったし、皆に認められるようになった。

 その喜びは今でも憶えている。

 こんなにも長く雇ってもらえていること、誰かの役に立てていることが、うれしい。



 新人時代の恥ずかしいエピソードには事欠かないが、今肝心なのは新しく入ってきた人のプロフィールだ。顔写真・名前・身長・年齢・経歴・能力……、箇条書きされたそれらをさらっと読んだ。個人情報を覚え込むのもどうかと思うから。

 ……室長が目にかける存在、ということはただ強いだけの存在ではないのだろう。けれど、こんな紙切れの調書ではいったい彼人に何を見出したかは判別がつかなかった。

 今日はこれといった雑用もなく、後は深夜まで電話番をしていれば白籠の仕事も終わる――といったタイミングで電話が鳴った。

 ピコピコピコ……。

 内線だ。

 ……いつもの呼び出しだろう。

「……はい。こちら通信室、夢杙です」

『今夜、部屋に来い』

「了解しました」

 ガチャ、ツーツーツー。カシャン。

 ボスの呼び出しに、白籠は少しだけ顔を顰める。

 今夜は寝られないだろう。

 眠りたくない。

 けれど、疲労するのも確かなのだ。

 はぁ……。

 自然と溜め息が出た。

 次の日の仕事が辛くなることは目に見えている。

 さっとシャワーを浴びて身綺麗に準備してから、もう一度仕事着を着る。

 白い詰襟のシャツに白い着物を纏い、その上からさらに白いインバネスコート。黒い三角巾とブーツだけが、白い肌と白い服に対して強烈なコントラストを際立たせている。

 その衣装を、皆は白無垢だとか無垢衣だとかと呼んだ。

 髪を魔術でさっと乾かしてから、三角巾をつける。

 その隙間から見えるのは、人間の耳とは別についた動物の黒い耳だ。

 バクの耳。

 強固な制服によって隠されているが、この下にはしっぽもついている。小さな逆三角形のしっぽだ。

 白籠は普通の人間では、ない。

 獏の幻想存在である。

 人間と対をなす幻想種ではなく、人間が想像した存在である幻想存在、その具現化。

 人として顕現した幻想存在。

 他者の悪夢を喰らい生きる、獏の化身。

 動物のバクと混同されたが故に、人の形をしながらバクの耳としっぽを持つ歪な身体。

 裏街で売られてきた、その多くの仕事が皆の安眠抱き枕だった。

 夢杙、ムクイは――夢喰いだ。無垢衣でもあり、報いでもある。

 この名字ができたのは、内職になってからだ。

 入りたてのころ、通信室に籠っているとはいえ美しい新人にちょっかいを出そうとする人間は多かった。身内に対して反抗をするという意識のない白籠は(そもそも、元々幻想存在として大量の魔力を持ち基礎魔術を扱える以外、戦闘はてんでできない。この組織に入ってからようやく護身術を身につけた程度の白籠が抵抗したところで、という話だったが)早々に壊されかけたのだが、それをボスは許さなかった。ボスたちの悪夢喰いの仕事もしていたし、表向き通信士だが内職という特殊な役目を与えている、ついでに目の保養だとか慰み者としても扱える白籠に無体を働くことを禁じた。……ボスのお手つきだ、と認知されたことが事の始まりだ。

 獏の幻想存在云々や悪夢喰いの噂が尾ひれをつけて歩き回った結果、夢を喰らう存在として認知されることになり、彼人に関わって報われるか報いを受けるかは自分次第といった風説がまことしやかに囁かれ、黒の三角巾以外はまっさらな白で統一された無垢な衣を纏っていることも含めて、夢喰い、報い、無垢衣といった意味を持つ〝むくいのしろ〟といった二つ名が定着したところ、あてつけのようにあて字で「夢杙」という名字が与えられたのだった。ちょっとしたハニートラップ紛いの潜入捜査に人手不足から駆り出されることになり、名字を必要としたからだ。半ば嫌みでつけられた名字を、本人は案外と喜んだ。

 初めての、名字だった。それに、通信士をしていて稀に名前を訊かれるとき、わざわざ白籠という大事な名を名乗るのは好きではなかった。だから、仮名であっても名字が名乗れるようになったことは有難かったのだ。

 シャワーを浴びたばかりの白籠が何も持たずにすたすたと本部の廊下を歩いていく。

 深夜は仕事の時間で閑散としているが、非番か非戦闘要員が残っているのでそれなりの人間がその姿を目にする。たまに名前や役職名を呼んだり、触ろうとしてきたり、話しかけてきたりする人間もいたが全員スルーして目的地へ向かう。

 まさか、誰もがエロいなぁなんて思って見つめているとは、本人はつゆとも知らず。

 本部の奥、重厚な二つの扉に守られたそこが、ボスの部屋だ。執務室とは別に広い自室が存在する。意匠の凝った木の扉にしか見えないが、重たさを鑑みるにきっと鉄を挟んで防護扉として機能しているのだ。

 コンコンコン。

「入れ」

 ノックすると、くぐもった声が聞こえた。

 ぎぃぃいいい、と重たい扉を開けて入り、すぐに閉じる。

 仄かなシャンデリアの常夜灯だけがぼんやりと部屋を照らしている。真ん中に置かれたキングサイズのベッド以外、暗闇に呑まれてよく見えない。

 そこに、ボスはいた。いかにも筋肉質で修羅場を潜ってきましたと云わんばかりの古傷を誇示した、髭面の中年Yourである。老人と呼ぶには早いが、そこそこの歳を取っている。眉間の皺は歳のせいか、いつも怒っているせいかどちらかは判らない。

「……失礼します」

「来い」

 ナイトガウンを纏っただけのボスがベッドまで白籠を呼び寄せる。

 白籠は「はい」と云われるがままに近づいた。

 当然だ。自分はこの組織の物だが、それ以前にボスの物なのだから。買ったのは、彼人だ。

 裏街では普通お目にかかれないような、ふわふわと浮き沈みするマットレスを、ボスの分厚い手がボンボンと叩いた。

 ここに座れ、の意である。

 何度経験したところで、白籠は命令がなければ勝手に座れもしないのだ。

 ぽん、と着席すれば、ぽふんと窪みができる。

 あまりの不安定さに、白籠は上半身ごとベッドに沈んだ。

 和服の白が、おそらく赤い色のシーツに広がる。

 ボスはいっそそれを待ち望んでいたみたいに、にやりと嗤った。

 白籠はただ無垢な瞳で、凪いだ心のまま、まっすぐに前を向いて眼前を見つめるだけ。

 求められれば与える、命令されれば従う、云われればなんでもする。

 反対に云えば、それがないならただぼう、としているだけなのだ。

 自分で考えてやれ、と命令されるのならまた別だが。

 そんな人形のような白籠を、ボスは簡単に解体していく。

 和服を脱がすのが面倒になるなら、別に他の服を着てこい(と云われても持っていないが)と命令するわけでもなく、ナイフで切って剥がすだけなのだ。衣服、というラッピングに意味はない。

 骨の浮いた、白い肌があらわになる。身体はBorderなので、見た目は何もついてないまっさらなものだ。

 Innerのように豊かな胸があるわけでも、Yourのようについているわけでもない。極めて凹凸の少ない、真っ平な身体。

 こんなものを見て、何が楽しいのか解らない。

 けれど、白籠の裸身を見ると皆にやにやと笑うのだ。

 強引に三角巾を引っぺがされて、ぴょこと飛び出た耳を、加減もなく摘ままれる。いたい。

 耳としっぽだけは白籠がまともな反応を返すから、余計ボスの嗜虐心を煽って酷くされるのだ。

 ……でも、痛みは慣れる。

 ベッドに押さえつけられて、後はされるがまま触れられ、つっこまれ、揺さぶられる。

 それが、仕事だ。

 そっと、目を瞑る。

 ふかふかのお布団だけが、白い夢だった。

 ――なにも、かんじない。

 痛いっていう子もいれば、気持ちいいっていう子もいた。

 白籠には、どちらもわからない。

 ただ、小さな不快感だけが常につきまとっていて、強いて云うならばうっとうしい。

 ……早く、終わればいい。

 暗闇に、ドレープカーテンの隙間から月が覗く。

 終わったら寝こけてしまったボスの隣で、白籠と裂かれた服の残骸と血や粘着質な残滓が取り残された。

 夢を見始めるボスのために、白籠もまた瞼を閉じて夢へと入る。

 獏の幻想存在と一緒に寝たい、というのはつまり夢枕に立って悪夢を喰らってほしい、ということなのだ。

 ……悪夢を喰らいたくなかったから、悪夢という名の別の何かを喰らいたくなくて、眠りたくなかった。

 その点で云えば、ボスという強靭な精神を持った人の悪夢を定期的に喰らわせてもらえる、というのはいっそ有難くはあった。たとえ、連日寝ることになったり酷く抱き潰されたりして、次の日仕事が億劫になることがあったとしても。

 悪夢が主食であっても、喰らわなくても生きてはいける。魔力さえあれば。人間という形になっているから。だが、人間で云うところの空腹感と似た飢餓感には襲われる。おそらく、我慢にも限界がある。だから、いつか無意識に誰かの悪夢を喰らってしまうことが怖かった。それが、単なる夢としての悪夢ではなく、誰かを――

 昔はずっと夢ばかり見ていたのに、今は寝ても覚めても夢を見ることが怖い。やわらかな空想さえも獏の能力として神秘を行使してしまいそうだから。

 ……誰かを、傷つけてしまうくらいなら、誰とも関わらないでいい。誰かを悪夢にしてしまうくらいなら、夢さえ見ないでいいから。だから、どうか――みんなに、しろいゆめを。

 ――夢を、見る。黒い夢を。

 夢の中でボスは責任だとか、敵対勢力との駆け引きだとか、彼人なりの恐ろしいものと闘っている。

 それらを、すべて喰らう。

 そうしたら、次の朝目覚めるとボスは子どもみたいに穏やかで無垢な顔をして寝ているのだ。

 その姿を見て、安心する。

 隙間に射す、朝日が眩しい。

 水色の空に薄い月がかすかに浮き出ている。

 夜の穴が黒々とした闇を連れていったのだ、とそんなおとぎ話を想った。



 夢杙白籠は、通信でしか喋らない、対面すると口を噤んでしまうクールでミステリアス、たまに気怠そうにぼうっとしてふわふわしているところもある謎の美人通信士、というそれまでの裏社会とは一変した印象を持たれる存在となっていた。長期間同じ組織で同じ仕事をし続けることになって、ドジで即戦力にならない役立たずをある意味卒業することになったのも要因の一つだったが、白籠が誰とも関わろうとしない強力なバリアを張り始めたことが大きかった。


 ――ぼくは、掃除屋の職務を監視する、内部職務監査役内職だった。

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