「殺し屋と内部職務監査役」

零/ある構成員の噂話。



 ――オレたちゃ、社会のゴミを掃除する掃除屋だった。

   汚れ仕事に手を染めたドブネズミさ。

   きっと粗末に始末した分だけ、地獄に堕ちる。

   誇りも矜持も塵山に埋もれ、墓すら建てられない。



       〆



 ――ごみ溜めの中の清涼剤みたいな、涼やかな声が耳に残響した。


 カチャン。

「……あの、もしもし」

『はい、こちら通信室』

廿楽つづら室長の秘書さんまで頼んます」

『廿楽室長の秘書ですね、少々お待ちください』

「……うっす」

 保留音。

『……申し訳ありません、現在電波の届かない場所にいらっしゃるようで繋がりませんでした。わたしが聞いていい内容でしたら、ご伝言承りますがいかが致しますか?』

「あー……、ならいいっす。ぁ、一応繋がることがあったらオレが定時報告してたって伝えてもらえたら……」

『わかりました、お伝えしておきます。他に連絡先はございますか?』

「いや、特にないっす」

『そうですか。では、失礼致します』

 ガチャ、ツーツーツー。

 受話器をかけると、カクンと送話器のついた筐体――壁掛け電話にぶらさがった。

 電話交換手方式の古めかしい壁掛け電話だ。彼人かのとの組織が使用しているセーフハウスや系列店にどこでも置かれており、構成員が身に着けているバッチに反応して受話器を取るだけで本部通信室まで繋がる、ハイテクなんだかローテクなんだか判らない代物。

 ――相変わらず、キレーな声やんなぁ。通信士さん。

 齢は二十歳そこら。裏社会に足を踏み入れてから自分の歳も何年かも数えることをやめた。

 職業は掃除屋――もとい、殺し屋。

 地区境界地、という名称そのままに地区と地区の狭間に存在する無法地帯。政府からも地区長からも見放されたはぐれ者の住まう地の、さらに裏街。そこを取り仕切る巨大組織に所属している。

 名前は、ない。

 否、正確にはもう憶えていない、が正解だ。彼人が境界地に逃走するしかなかったくそみたいな父親と住んでいた頃はまだ憶えていたはずだが、その父すら名を呼ばず「おい、お前」としか云ってくれなかったし、逃げて裏組織に入ってからも名前を呼ばれることはもっとなくなった。

 かくして、本人も忘れた。

 ともすれば、果たして通信士は誰からの伝言だ、と秘書に伝えてくれるのかは謎である。登録番号のようなものがあるのか、それとも組織加入時に行ってあるだろう身辺調査で身元なんて割れていて、本人すら忘れてしまった名前を呼ばれているのだろうか。

 ……あのやわらかな声で呼ばれるなら悪くねーかも、なんて鼻の下を伸ばしてみたものの、一人で虚しくなるだけだった。

 現在、若くも(所属年数的な意味で)中堅どころ。

 そこそこに子どもの頃裏街に逃げてうっかりゴロツキに殺されそうになったところ、殺し屋にたすけられた。ヒーローか、とときめいたのだが「殺しを見られたからにゃ、お前も所属するか死ぬか選べ」と脅される始末で、死にたくないからどうしようもなく殺し屋になる一択。文字どおり血反吐を吐きながら、人殺し街道をつき進みそれなりに人を殺して誰かを佐けもしたし害しもした。

 ごろごろと死んでいく人間が多い組織の中でここまで長く生き残れたのは、別に強かったからではない。彼人がほどほどの任務しか与えられないくらいに弱く、連絡係や荷物運びなどの雑用を任せるくらいしか能がないから意味もなく生き残っただけなのだ。敏腕室長である廿楽謠惟うたい率いるチームに偶然配属され、適材適所な任務を与えられていることも理由の一端かもしれない。

 廿楽室長のチームは他に比べて生存率がだんとつに高い、と噂だ。魔人と呼ばれる現代人は、親の祈りによって生まれたときからブレスという名の能力を持つ。だから、その能力が低かろうとなんらかの手に職は得られると相場は決まっている。しかし、優等種という生ませやすい生みやすい存在だった父に無理やり孕まされた見も知らぬ母が子を愛せるわけなどなく、彼人にはブレスも突出した能力もない。

 能無しに与える無線もないので、こうして拠点に立ち寄っては固定電話を使用しなければならないのだが……。

 いかんせん同じ組織所属のヤバい連中と鉢合わさざるを得ないのがネックだった。

 仕事だろうとなんだろうと、人殺しをしている彼人自身がヤバい奴じゃないと思っているわけでもないが。最低でも、人殺しや違法魔力薬を愉しむほどヤバい奴に成り下がったつもりはなかった。

「おーおー、クソガキ。通信室で振られたか?」

「ひひっ、×××誘って断れてやんの」

(……ほら、絡まれた。めんどくせー)

 見当違いな汚物に塗れた言葉を、下卑た嗤いとともに吐き散らかす。

 虚ろな瞳、酒と煙草と薬の臭いが混ざったどぶみたいな口臭、鉄と吐瀉物が綯い交ぜになった体臭。近づくことさえ憚られる中毒者の末路がそこにあった。

「……いやー、ブロック厳しいっすねぇ」

 テキトーに合わせておく。

 それが、この世界で長生きしてきた彼人の処世術だった。

 自分がどれだけ貶されようと莫迦にされようと、死なないためには愛想笑いも自己を貶めるお笑いもなんでも耐えなければならない。弱い人間は、力以外の知恵を絞って小ずるく生きていくしかないのだから。

 ――……死にたくない。

 生きていることになんの魅力がなくても、生きていてもこうして自分が惨めになっていくだけでも、死ぬのが怖くて父親からも逃げたのだ。

 どこまで行ったって、地獄に堕ちるまでは、死にたくない。

 こんな職業に魂を売って、綺麗な死にざまは望めないが。

「あー、ムクイなぁ。アレは上物だが、冷てぇからな」

「あのクールな面を×××してやりてぇよなー。けんど、ありゃボスのお手つきだかんな……。死にたくなきゃ、やめとけガキンチョ」

 ヤバい奴らは気分よく酒を呷って、また二人で汚い雑談に戻っていった。

 ほ、と心の中で息を吐く。

 こちらから意識が遠のいた時点で、逃走勝利だ。

 ……ただ、ヤバい奴らの云ってることが一部理解できてしまうことが、嫌だった。

 彼人も通信室のムクイは見たことがある。途轍もない美人だ。

 とろんとした青緑の瞳はしかし冷たく引き上がり、一言も喋る気はありませんと薄い唇を引き結んでいるが、色白な身体は華奢で、黒い三角巾の下に隠れた墨色の髪すらふわふわして気持ちよさそうで、白い無垢な衣に包まれた身体は正に折れそうな白百合そのもの、まあつまり……誰もを魅了する可憐さを持っている。

 かく云う彼人も、目の保養だとかアイドル的な意味で通信士のことが好きだった。

 偶然、お目にかかることができたらラッキー、みたいな。

 他の構成員が云うように、綺麗なものを穢したい、とは毛頭思わないが。むしろ、大事に保管して愛でていたい。

 ……それも、なんだか監禁性癖じみていてヤバいなオレ、と思った。

 五年以上、長い期間所属していながらも実際通信士をお目にかかれたのは両手で数えられるほどだ。通信室の住人、と呼ばれるほどに引き籠っているので、雑用などで部屋から出ているときと本部に出向いているタイミングがブッキングすることは本当に稀なのである。

 大体はあいさつしてもただ会釈が返ってくる程度で、むしろ小走りになって通りすぎられただけだった。一度だけ、備品管理をしている通信士とかち合ったことがある。やっぱり何も喋らなかったけど、そのときはなんだか気怠げで一挙手一投足がゆったりしていて……どこか艶っぽかった。さすがに、どきりとした。

 彼人も実働部隊の構成員である以上、Yourに再誕している。

 現代では生式せいしきと呼ばれる区分があって、生まれた当初は皆Borderと呼ばれる状態で成長すると自分の意思で生ませるほうか生むほうと分けられる、YourかInnerを選択し生式を変換できるようになる。例外はあるが、おおよそそうだ。

 そして、Yourのほうが強靭になるという定説や比較的犯されにくいという利点から裏組織の構成員はYourに再誕することを半ば強制されている。

 ので、例に漏れず彼人の所属する殺し屋組織もむさくるしいYourばかりしかいないのだ。

 だからこそ、通信士のように再誕もしていないおそらくBorderと思われるような存在が狙われる。Yourだって、最悪見た目が綺麗だったら掘られる世界なので、あの美人っぷりなら、なおさら。Innerじゃなくたって構わないのだろう。

 魔人になって食べたものすべてを魔力変換するから排泄という行為がなくなったくせに、その器官の名残だけあるのはいっそ神さまの悪戯めいている。

「グリルドチーズとコーヒー!」

 紫煙と喧騒に包まれるダイナーで、注文を叫んだ。

 いろんな飛沫で汚れたエプロンを身に着けたコックが、返事もせずに料理をし始める。

 ようやく腰を落ち着けたカウンター席は、皮部分が破れていて中の綿がはみ出していた。

 これ、後で尻にくっついてんだよな……と、思いつつ彼人はラジオから流れているらしい音楽に耳を傾ける。境界地の海賊放送はインディーズの素人くさいロックミュージックを流していた。チープでくだらなくて、境界地でもまだそんな夢を追えるほどまともに生きられてる奴らにいっそ嫉妬してしまいそうだけれど、店内のくだらない放送禁止用語しかない雑談に比べればまだましだ。

 どこぞのごみ溜めから引き上げたバスか何かを改装したのか、といった風体のおんぼろダイナーは雨の日に雨漏りするほど穴だらけで、彼人の頭にも小さなまるい日溜まりができている。

 電灯が少なく昼間なのに陰鬱として薄暗い店内に灯る、かすかな光だ。

 元から明るい場所に住んでいたわけではない。それでも、これ以上堕ちてしまわないよう必死に生きている。

 無言で提供されたグリルドチーズに、すぐさまかぶりつく。

 ぺらっぺらなチーズを挟んだホットサンドは、油が染みすぎているし、焼きすぎて硬い。それでも、生きるために食べる。食べ物にさえ困った時代を思えば、幸せなことだ。

 その後に差し出された泥みたいに不味いコーヒーを流し込むようにして呑む。

 クソみたいな世界で、クソ溜まりで、クソみたいに生きている。

 ――ああ、まったくクソったれだ。魔人はクソなんてしねぇから禁句になってるってのによ。

 死んだ誰かの残響をかき消してほしくて、清涼感のある声を思い出そうとした。

 殺した誰かの悲鳴に対して、それはあまりにも儚くてちょっとだけ泣きたくなったのだった。



       /



 時は進んで、噂の新人が入った後の話だ。

 組織の本部にある食堂が、いつものように構成員でごった返していた。

 名無しの構成員はどうにか隙間に空いた丸椅子に座り、トレーを長机に置いた。周りは違うチームの人間が固まっていて、居心地が悪い。尤も、彼人は半雑用係と化していて誰とも深く関わったことがなく、同じチームの人間だってまともな知り合いもいないのだが。

 石みたいなパンとスープ、得体の知れない何かの炒め物、牛乳。経費削減の進みすぎた食堂のごはんは、死ぬほど不味い。裏街で美味しいごはんにありつけるほうが異常なのだが、それにしても食べられたものではない、と評判だ。それでも、食べられないよりましなので、こうして皆集まっている。

 スープに浸けなければまともに食べられないので、パンの端を浸す。

 唯一の取り柄とも云える丈夫な前歯で食いちぎり、もごもごと噛み続けてなんとか飲み下した。牛乳で一息吐く。合間に炒め物をフォークで刺す……というループを、何度も繰り返す。

 作業のような食事の最中、下世話な話が飛んでいた隣席からふと気になる噂話が聞こえてきた。

「そーいや、新人の話知ってるか?」

「……あー、例のキレて周り全部凍らせたとかいう?」

「あれだろ、ちょっかいかけたうちの構成員も殺しかけたとか……」

「え? んな、やべー奴入ったん? こっわ……。会いたくねー」

「マジマジ。ホント、ヤベーんだって。俺、見たんだよ! 死体に斧振り下ろしてさ、ぐっちゃぐちゃになっても気が収まらないって感じで次の獲物探してて……あん時は死ぬかと思った。ちょっとでも物音立ててたら、次の死体は俺だったかもしんねぇ」

「だっさ、雑っ魚!」

「意気地なし~」

「うーわ、ホラーかよ」

「笑ってんなって! マジで気をつけたほーがいいぞ。あいつ、箍が外れてるときは仲間も何も関係なく殺してくるってば」

「……あー、真面目な話さ、どんな見た目の奴?」

「噂じゃあ、水色だか白だかみたいな髪色した、氷みたいな冷たい瞳してる奴だろ。案外、バケモンのわりにキレーだって聞いたけどな」

「えっ、マジ⁉ ヤリてー」

「やめとけ、やめとけ! あいつ、見た目はそこそこ綺麗だけどタッパもあるしガタイいいぞ。ひょろっひょろなお前のほうが押し倒されるって。一瞬で首ちょんぱ!」

「げぇ……、ならやめとく……。ムクイで妄想してるほうがマシ……」

「そーしとけって。ムクイっていやぁ、なんかちょっと前に大荷物抱えて寮まで来てたぞ。あれ、なんだったんだろーな」

「しっかし、んなバケモンなんの対処もなく野放しにしてんの? ヤバくね?」

「つづらしつちょーが手綱握ってるらしいぞ。ちょっかいかけなきゃ大丈夫だってさ」

「ふーん、あのしつちょーさまがね。なら大丈夫なんかな」

「えー、ムクイ寮まで来てたん? 襲えばよかったのにぃ」

「バッカ、あれはボスのお気に入りって話だぞ⁉ 下手に手ぇ出したら俺らが殺されるわ」

 それぞれが好き勝手に喋り、話しがあっちに行きこっちに行き、最終的に誰と誰が会話してんだか、という混沌に場が支配されかけたとき、ふと近くに座っている年季の入った殺し屋が近づいてきた。

 ――あーあー、うるさくしてるから。

 我関せずで彼人はこっそりその場を抜け出すようにトレーを持って退散を始めた。

「よぉ、テメェら。聞いてりゃおもしれぇ話してんじゃねぇか」

 席周辺が静まり返った。

 おざなりにうっすとあいさつを返す下っ端たちに、しかし玄人先輩(暫定)は注意するでも威圧するでもなく訊ねた。

「噂の新人って奴ぁ名前はなんていうんだ?」

 緊張感に包まれていた空気が、ほっと緩んだ。

 噂好きの輩が、確か――

「――ユイ、って聞きましたけど」

 そう答える。

「はぁん。ユイ、な。おぼえたわ。そいつにお灸を据えたるわ」

 背中がぞっとした。

 後ろに目なんてついてないから、もちろん何も見えていない。……恐ろしく残酷な表情で眼光をぎらつかせた、そんな雰囲気があった。鋭い魔力に刺されるようだ。

 なんの耐性もない彼人からすれば、脅しどころか傷害行為である。

 そそくさと逃げる。

 カタン、とトレーを鳴らせながら立ち上がった誰かと一瞬目が合う。

 綺麗な、氷かダイヤモンドみたいな冷たい瞳をした、見たことのない、誰か。

 無垢で無知な、何も映さないその目は硝子玉のようだ。

 ――こいつが、ユイだ。

 なんの根拠もなく、否先ほどの話と照らし合わせるに……それ以外ありえないと思った。

 彼人は背筋が凍る思いだったが、あの大きな声の噂話にキレたわけでもなさそうだ。何もかもに興味なさそうに、ただトレーを返却口に返して去っていく。

 ふぅ、と一息吐いた。

 あの感じだと、聞こえてないんじゃなくて意味を理解していないのだ。

 裏街には最初から孤児で教育も倫理観もなく育つ子どもも少なくない。言葉も文字も理解できない殺人マシンがいたとしてもおかしくないのだ。

 実際、幼少期は一応父親の元で暮らしていた彼人でさえまともな教育を受けられず未だに漢字が読めないし書けない。

 殺されたくないから、という理由で廿楽室長の名字だけは必死に書けるようになったくらいだ。

 ――さて、とさっさと逃げよ。

 返却口にトレーを置く瞬間、偶然銀色の台と台の合間から料理人が見えた。色黒で筋肉質な、あからさまにキッチンの似合わないYourだ。

「……ごちそうさまっす」

「おう」

 任務で怪我を負った人間がこういう裏方に回るという話なので、料理人もたぶんその一人なのだろう。

 料理はクソ不味いし、愛想もないが、別に気性が荒いわけではなく返事もしてくれる。

 ……人肉だとかを入れないだけ、ましだと思っておこう。

 彼人は噂の新人(仮)と同じ道を辿って寮へと戻っていく。

 喧嘩を売る勇気も、忠告をする度胸もないので、心の中で呟いた。

 ――自信満々の玄人先輩、あれはやべぇって。どうせ殺されるからやめといたほうがいいっすよ。



 ……一週間後、噂で玄人先輩(暫定)が死んだという話を聞いた。



       /



 ――人を呪わば穴二つというか、見て見ぬふりしてきたツケというか、欲を出したら負け、みたいな……。


 名前のない殺し屋は裏街の中でも特にアンダーグラウンドな地下街にいた。

 なぜかというと、久しぶりに殺しの仕事だったからだ。

 けれど、上からの任務ではなく、他のチームのヤバそうな先輩から横流しされた掃除殺しだった。

 なんてことはない。

 自分のチームに腕の立つ新人が入ったことで、より自分の役立たず加減を痛感してちょっと先輩強いんだぞ感を出したいといった焦りやストレスが溜まっていたからぱぁっと呑むためにも成功額に目が眩んだ、のでつい軽い気持ちで代行を引き受けてしまったのだ。

 廿楽班は上官命令以外受けてはいけない、という鉄則を破った罰かもしれない。

 厳しい命令には、裏にきちんと理由があるという話だ。

 正直、いつも眉間に皺を寄せたあの室長のことをものすごく怖いと思っていたし、その秘書である糸目の先輩もまるいサングラスと笑顔の下に底知れぬ闇が渦巻いていて怖いと逃げ腰だったし、ちっとも危険な任務を与えてくれないことにいっそ恨めしさまで募らせていた。

 けれど、結局莫迦で矮小な自分が考えることなんてたかが知れているんだ、と本物の痛みをもって痛感させられる。

 標的を追って地下街まで辿り着いたものの、まんまとトラップに引っかかって相手を殺すどころか攻撃をもろにくらって逃げ帰る始末。血を垂れ流しながらどうにか身を隠し得意の応急手当てを試みているものの、どうせ血痕を辿って追いつかれる。

 万事休す。

(……結局、何か役に立ちたくて身につけた応急手当てを誰かに披露することも、なかったな)

 地道な努力も、役に立ちたいという思いも、嫉妬をやる気に変えたことも、これまでの人生も……何もかもが無駄だった。

 ただ我が身可愛さに人殺しをしてきた奴の末路なんて、結局こんなものなのだ、と諦観を抱いた。

 ぽたり、ぽたり。

 紅い雫が額から落ちる。

 目に見える傷はあるだけの布でどうにか止血したけれど、さすがに頭まではいろんな意味で手が回らなかった。

 朦朧とした意識の中で、ジィィイという金属を引きずる音と、死神の足音を聞いた。

 ――……死にたくない。

 カツン、カツン。

 路地裏の闇に浮かぶのは、蒼白い眼光。

 ――ユイ、だ。

 死んだ、と思った。

 尻をついたままじりじりと後ずさる。

 どうして、あんな死神みたいな新人と任務地が被ってしまったのか。これでは、仲間の救援どころではない。

 祈る神がいるのなら、こんな子どももあんな子どももいないだろうから、きっととっくのとうに死んでいる。

 ガチガチガチガチ……。

 死ぬ、という段になって震えが止まらなくなった。

 彼人は最期に、名前を呼んでほしい、と思った。

 なぜかはわからない。

 もう声も憶えていない母親に、名前を呼んでほしかった。

 ……いや、きっと死んだら同じ場所に逝って呼んでもらえるかもしれない。

 嘘だ。

 なんの罪もない母は天国へ昇って、自分は地獄へ堕ちるから。

 どうせ、魔人は死体も残らず身体は魔力として消え、残るプリズムさえ無惨にもこなごなに打ち砕かれるか放置されて消えるかだろう。

 墓もない。

 それでも、死ぬときにくらい自分が誰かを思い出したかった。

 何も成せなくても、ここに存在したんだと叫びたかった。

 でも、死にたくないから生きていたいと宗旨替えするほどには未来に希望もない。

 だから……ここで終わるんだ。

「うわぁぁぁああああああああ‼」

 絶叫。

 ザン――。



       〆



 ――オレなんかが知ってる二人の話はこれくらいさ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る