番外編/花鳥謡藍。



       零/



 籃帷かごいを抱っこ紐で抱えた白籠はくろうが、揺唯ゆいに手を取られてゆっくりと階段を上る。揺唯にすべて委ねることをしないのは、母親としての矜持だろう。元々、彼人はプライドが高いのだ。

 そんな白籠の手をしっかりと先導する揺唯は、何かあっても二人を守ろうとする父親の気迫を感じさせるほど、真摯な眼差しを瞳に根づかせている。親になった揺唯はいっそ身内の誰よりも大人で、謠惟うたいは下子に抜かされてしまった気分になる。

 たかが階段、されど階段。

 花籠の最高峰である塔の頂を目指す螺旋は、緊張感に包まれていた。

 しかし、そんな空気を物ともせず眠りこけている籃帷は、きっと将来大物になるに違いない。

 ……白籠が子守唄で寝かしつけただけではあるが。何せ、獏の幻想存在である白籠の声や子守唄は、眠りにつかせる魔力が籠っているのだ。謠惟でさえ、疲れているときは魔力耐性が薄れて危うく眠気に誘われるほどだ。

 籃帷が生まれてから、早半年。

 春に生まれてから、既に木々が紅葉する秋へと突入していた。

 皆、つい先日までの夏めいた薄着から長袖に上着、または厚めの着物に羽織、と夜ともなれば防寒が始まっている。

 魔人は宿子してから生まれるのも早いが、成人するまでの成長も早い。

 すっかり、白籠の細腕では重たげになり、髪も随分伸び、人や言葉を理解しているのではないかという受け答えも増えた。

 正直なところ、目に入れても痛くない可愛さで甘やかしすぎている自覚は、ある。

 そのたびに、揺唯からじとっとした視線が送られることも。

 白籠は可鳴亜かなりあや謠惟のそういった奇行じみた溺愛にも、苦笑のみで済ませているが。

 ……この奇跡を生んだのは、揺唯と白籠だ。

 その事実は絶対で、紛れもない真実だ。

 けれど、家族が安心して暮らせるような境界地へと、平和と平穏を築き上げた存在あってこその今である、という事実も根底に存在する。

 そう、誰も知らぬうちに優しさと悲痛な決意によって魔力と愛を根づかせた、日常の立役者。陰の支配者。

 彼人こそがこの平和の象徴であり、成果である結ばれた二人とその子どもを目にするべき人物である。

 辿り着いた強固な門扉の前で、皆が内心ほっと一息吐くのを感じた。

 無事に上りきった安堵感はただ無心で長い階段を上がるのとはわけが違う。人一人分の命の重さがかかっていた。一段一段踏みしめるように歩んだこの長い道のりは、まるで二人のこれまでの困難な人生を表しているようだ。

 コンコンコン、とノックすれば可鳴亜の「どうぞ」といういつもより落ち着いた声が返ってくる。謠惟は木製の重い扉を開けて、二人に入るよう促した。

「……久しぶりだね、白籠。初めまして、揺唯、籃帷」

 天蓋つきベッドの上で、手を広げて迎えるのは――塔の主・花椿かめりあである。

 淡い萌葱色の着物を着流し、白藤色のカーディガンを羽織り、左耳の後ろに紅い椿の髪飾りを一輪挿して、天使の笑みを浮かべている。

 凛、とした甘く包み込むような声に淀みなどなく、一聞には元気そうだ。しかし、何年もの間寝たきりだった花椿は瘦せ衰え、元々撫で肩なのも相まって着物でさえずり落ちそうな細さで、覗く鎖骨はすっかり浮き出ており、白すぎる肌はもはや蝋人形で、髪は桜鼠に枯れている。端的に云って、死に体の病人だ。

 指一本で手折れそうなほどに儚いにも拘わらず、美しく咲き誇る花のままでもある。

「メリー、さん……!」

 腕に抱き締めた赤子は忘れず、しかし半ば駆け寄るように花椿に近づく白籠を、揺唯も可鳴亜も誰も止めることはなかった。

 抱き留めたのは、花椿だ。

 籃帷を潰さない程度に、ぎゅうぎゅうと抱き締め合う。

「メリーさん、メリーさん……っ。よかった、……ほんとうに目覚めて、よかった……」

 顔を見なくたって、涙で声が潤んでいる。

 そんな白籠を、花椿は優しく撫でた。

「……泣かないで、白籠。折角、現実で会えたのだから、綺麗な瞳を見せたくださいな」

「っ……。ないて、ないです」

 ――嘘云え。

「ふふ、そうですね。白籠は強い子ですから。……私に、夢の中にまで会いに来てくれてありがとうございました」

 目許をごしごしと拭った白籠は、しっかりと花椿の鴇色の瞳を見つめた。長い前髪で右目が隠されていても、片方の目としっかり絡み合わせる。

「お礼なんて……。わたしが、夢の中でもいいからメリーさんに会いたかっただけですから」

「……そう。白籠も可鳴亜に似てきましたか? 口説き文句が達者になりましたね」

「カナさんに……? うれしい」

 ……話が咬み合っているいるのか、いないのか。謠惟は少し頭を抱えた。

 ――この天然どもが。つぅか、絶対似てくれるなよ。

「……お二人が許してくださるなら、私が籃帷を抱いてもいいですか?」

 白籠が抱っこし続けるのも、二人に挟まれている現状も困ったものなので、花椿の優しい提案でもある。何げなさを装われたその言葉に、しかしどれだけの勇気と覚悟が必要だったか――何も事情を知らない揺唯以外全員の空気が一瞬変わった。

「メリーさんが許されないなら、わたしも許されないってわかってて訊くんですか……?」

 母親の顔をした白籠は少しばかり強気だった。否、似た者同士なりの優しさなのだろう。

 白籠が揺唯にいいですよね?と確認を取っている間、かすかに花椿の瞳が揺れた。

 宝石のように高潔で堅く揺るがぬ煌めきを持った瞳は、いつもまっすぐだった。こうして感情が浮き出るようになったことは、いっそしがらみから脱した証拠だと捉えていいものなのだろうか。

 謠惟の中には、疑念と疑問ばかりだ。

 揺唯が頷いて促すと、白籠は抱っこ紐を解いて籃帷を花椿へと預けた。

 小さな命が、手渡される。

 骨と皮ばかりの、白い枝のような腕が存外しっかりと赤子を抱いた。

 花椿の手慣れた様子に、そういえば孤児院だとかでよく世話をしていたのだったな、という事実を思い出した。

 ……正直なところ、筋肉も何もかも衰えた花椿がだっこし続けるのは負担だ。しかし、ここで「俺が代わろう」なんてたとえ優しさで提案したとしても、むしろ花椿を怒らせるだけだ。だから、謠惟は沈黙を選んだ。

 すっかり、やり取りのうちに目を覚ました籃帷は、しかし花椿に揺らされて喜んでいる。身内のような慣れ親しんだ人間以外には意外と人見知りする籃帷が、それでも初めて会った花椿に懐く、ということは繋がりを感じるのか、或いは花椿自身の優しさが伝わっているのか。

 ……単純にあやすのが上手いだけの可能性もあるが。

「……ありがとうございます」

 謝罪をぐっと呑み込んだのがわかった。

 可愛い、二人に似て綺麗、いい子、と褒めそやす。

 花椿も、例に漏れず親莫迦ならぬ親戚莫迦になりそうだった。

 籃帷が花椿の腕に落ち着いてから、今度は揺唯と向き合った。展開に置いてきぼりになっていた揺唯は、いざ花椿に意識を向けられるといつもの懐っこい笑みを浮かべた。

「……なんか、初めて会った気ぃしない」

「ふふ、そうですね。私もです。揺唯は見も知らない私のお見舞いにつき添ってくださっていたんですよね? ありがとうございます」

「んー、カナカナと謠惟の大事な人だし。白籠の友達ならおれも友達、だろ?」

 こういうとき、揺唯は処世術なのか子どもっぽい喋り方に戻る。これだから、初対面の人間も子どもや小動物を相手にするみたいに、ころっと落ちるのだ。

「そうですね、友達、です」

 噛み締めるように、繰り返す。ここにいる人間、おそらく皆友達が少ない。

「じゃ、メアさんて呼んでもいい?」

 既に眠っているときからそう呼んでいたくせに、一応本人に確認は取るのだ。

「ええ、構いませんよ。友達、ですからね。ふふ……、謠惟も初めて逢ったときにメリアって呼んでいいかって訊いてきたんですよ」

 思わぬ共通点に、花椿はうれしそうだ。

 可鳴亜も「そうですよねー?」と謠惟を見て笑い者にしようとしているし、白籠は微笑ましく見つめてくるし、揺唯は謠惟と似てるなんてうげっていう顔をしているし、唯一何もわからぬ赤子がぬくぬくと無邪気に笑っているだけだ。

 ……籃帷だけが、癒しだ。今、この瞬間は。

 謠惟は頭を抱えて目を逸らすことで、その場をやり過ごした。

 そうしているうちに雑談は進み、ふと花椿は告白した。

「実は、貴方の上司である謠惟さんと、おつき合いさせていただいているんです」

 揺唯からすると、謎の報告である。実際、へぇそうなんだ程度の、謠惟から聞いていたし大した驚きもない、みたいな微妙な顔をしていた。

「揺唯も謠惟と同じ廿楽つづら姓になられた、と聞きましたし、一応ご家族に報告を、と思いまして」

 理に適った論かはさておき、一応廿楽家だった。

 家族だ。

 たとえ、揺唯が謠惟と血の繋がったきょうだいだと知らずとも。

 名前で繋がっていた。

「そーいやそうだわ。おめでとう、メアさん、ウタさん」

「ありがとうございます。二人も、ご結婚おめでとうございます。そういえば、お祝いが遅れましたね。結婚式も済んだのでしょうか?」

 どことなく寂しそうな顔の花椿に、四人はなんとも云えない表情で視線を合わせた。

 した、といえばした。

 身内だけパーティーのようなものを。

 それが、果たして花椿の思い浮かべる結婚パーティーかといえばおそらく否だろうが。

「んー、メアさんが折角起きたし、新居に引っ越したし、パーティーする? いろいろ記念で」

 ここで、空気を読まない揺唯がすべてを救ってくれた。

 時に、なんの事情も知らない、我が道を行く子どものような揺唯が、心底有難い。

「メアさんが元気になって、うちに来られるようになったら」

「……そう、ですね。早く、動けるようになります」

 可鳴亜と謠惟は軽く目を逸らした。

 今、花椿が動けないのは単純にずっと寝たきりだったから、何もかもが失われていてリハビリしなければいけない段階だから、でもある。が、物理的に鎖で繋がれているからでもある。

 シーツで隠されて見えないが、今もじゃらじゃらと鎖がついているのだ。

 元々は植物状態で意識がないにも拘わらず、夢遊病者のように歩き始める花椿を縫い留めるための鎖だった。今は、目覚めたばかりにも拘わらず勝手に動こうとする花椿を監視下に置いておくため、である。

 花椿が何をしでかすか気が気でない二人が講じた策だ。

 そこに関しては、正直花椿に対して信用がない。そのことを本人も理解しているから、甘んじてくれているのだ。

 けれど、目標ができてしまった今、すぐにでも外してほしいと云われそうで恐ろしい。

「メアさんさー、髪の色、なんかピンクっぽくなった? 白じゃなかったっけ……?」

 揺唯の素朴な疑問だった。

 しかし、それは謠惟に、可鳴亜に、白籠に、その瞼の裏にフラッシュバックさせる。

「ああ、それは……。元々は――」

 ――元々は、焼けるほどに鮮烈な……緋色だった。

 紅い、椿。


 ――俺の、俺たちの紅花椿。



       壱/



 ――あの日、紅い椿に目を魅かれた。


 謠惟が初めて花籠に訪れたのは、ボスに連れられてのことだった。

 この境界地の裏組織に所属する多くの人間は、社会経験とハニートラップ対策のために花籠などの夜店で経験を積むことがほとんである。謠惟が所属する殺し屋専門組織――偽称するならば〝掃除屋〟では、組織の一員として一人前と認められたときに花籠で初めてを経験するのが慣例となっていた。

 和風屋敷の要塞、夜店の頂点、支配者を頂に持つ塔、花が彩る閨城――「花籠」。

 正に木造建築の城といった風体の花籠は、実際前庭の植木や枯山水、池に至るまで緻密に作り込まれ、ホールも板張りの空間に絨毯や提灯、アンティークの家具、と和洋中折衷に調和が取れていた。神秘と科学技術のハイブリットの粋であり、最大限にキャストである花を守ろうとする花籠は、結界や電波妨害はもちろん、ローテクに思える蝋燭でさえ魔力石製で防火対策がなされ、ちゃっかり個人用の通信機器は最新機種の携帯パッドが配布されており、台所はシステムキッチンだ。ちらりと覗かせてもらった主要場所である閨も、ランクにもよるのだろうが畳敷きでありつつもしっかりとしたベッドや寝具が整えられ、調度も美しく配置されている。どの窓も、自然溢れる庭を切り取る絶景だ。花籠全体に漂うお香でさえ、品があって程よく気分を乗らせてくれる且つ煙草や酒のニオイをかき消してくれる優れものだ。

 そんな作り込まれた大人の空間に、果たして当時のちんちくりんだった自分は相当のガキに見えたことだろうな、と謠惟は思い返す。

 その時何歳だったか、なんていうのは法に触れる以前に、自身が手を血で汚し始めたのがいつだったか、も思い出すことになって業腹なので具体的には明言しない。

 尤も、そんな法も通用しなければ倫理観もないのが、地区境界地の裏社会、なのだが。

 裏社会/組織のルールに則って例に漏れずYourに再誕していた謠惟だったが、正直実家での生活との天変地異ほど落差がある裏社会に慣れて這い上がるのに必死で、生式的なことや生式行為には興味がなかった。時間も体力も残っていなかったということでもあるが、淡泊でもあった。

 花籠を利用するのは、花籠のオーナーとボスが懇意にしているから、らしい。組織全体でお世話になっている、いろいろと。

 バーや酒場としてひたすら呑み続けることも、美しい花に接待してもらうことも、もちろん閨業をしてもらうこともできる店だ。だが、裏組織としてはたくさんの人が集まり情報も集まるこの店が情報屋もしている、という事実が最大の利用理由なのだった。

 謠惟にとっても、もっぱらの興味はその情報だった。そういった類の人間とコミュニケーションを取って手練手管を学ぼう、という意識すらある。

 花、と呼ばれるキャストたちの教育がしっかりしており、サービスが行き届いている代わりに、裏街の夜店にしてはルールが厳格だった。接待でお触りは禁止、閨でも花に手酷いことをしてはならない。一度でもルールを破った人間はたとえどんな権力者でも強者でも二度と来店できない。ただの夜店なら、そんなルール蹴られてしまいそうなところだが、情報を握る大きな店だし、オーナーのコネクションが広くさまざまな組織が牽制し合っている結果厳守されている。オーナーが元・殺し屋兼凄腕諜報員でまず勝てないから、という噂もあるが。

 そして、花籠が繁盛しているのにはもうひとつ噂がある。

 曰く、すべてを透視するブレインが店に入ってから急激に業績を伸ばした、とか。素直にその能力・頭脳・手腕に興味があった。できることなら、そのキャストと会ってみたかったのだ。ようやく一人前の殺し屋になったばかりのぺえぺえに、そんな店のナンバーワンを宛がってくれるとは到底思えなかったが。しかし、オーナーは謠惟を気に入って特別に通してくれた。

 うちのボスも含め、にやけた気持ち悪い顔面を晒す人間たちの笑い声も、ホールを抜ければ静寂へと変わった。おそらく、結界のお陰だ。

 案内係の子どもに部屋まで導かれ、そうして辿り着いたのが中央の塔の、一番上だった。厳かで細工の凝った扉はさながらお姫さまを守り囲う防護壁でありながら、厳重な檻のようでもある。

 重い扉を開いて――初めに奥の美しい花に見惚れた。

 それが、花椿との出逢いだ。

 目の前でこちらを睨み据えている可鳴亜には目もくれず、その人だけを見つめていた。

 ――紅い花が、咲いている。

 一輪の紅椿が、凛と佇む。

 瞼に焼きつくほどの、緋。燃えるほどに熱いのは、けれど謠惟の心臓だった。

 目を惹く紅い髪に挿された一輪の白椿、片目だけ覗かせる薄紅に煌めく瞳、白磁のような白い肌、すらりとした肢体、白い唇には薄っすらと桜色の紅がのり、人形のような無感情さが表情をただ微笑みにかたどっていた。

 あまりにも透明感があって吸い込まれそうな瞳を、ただ、見つめていた。

 何も云わず扉の前で棒立ちになっていた謠惟に、しびれを切らした可鳴亜がまずは名を名乗れとか、無礼とか、これだから新人は、などと罵っていたが気にもならなかった。

 だから、声をかけたのは花椿からだ。花びらが耳の傍で舞うような、甘やかな囁きだった。

「ご主人、私は花の椿――カメリアと申します。この子は、私の妹分の可鳴亜。貴方さまのお名前を伺っても?」

 定形のようなあいさつに、こなれた仕種があまりに妖艶で思わずどきりとする。殺し屋として訓練・実戦を重ねるうちに心などとうに死んだと思っていたが、人は恋するとそんなこと関係なしに心臓を鳴らせるらしい。

「失礼……。謠惟だ。無礼ついでに、メリアと呼んでも?」

 単純に、いわゆる店上の姉妹である二人の名前が似通って間違えそうだったから、なんとなく口から出たあだ名だ。或いは、彼人の特別になりたかったのかもしれない。

 花椿は一瞬驚いて目を瞠った後、怒鳴りそうになる可鳴亜を抑えてから、いいですよと答えた。客の、その夜限りの主人だからこそ了承したのだろう。

 可鳴亜が何か云い募る前にこちらへどうぞ、とベッドではなくアンティークらしいテーブル席を指した。紅茶はお嫌いではないですか?と問われて首肯すると、可鳴亜は渋々といった体で慣れたようにお茶を入れに退出した。

「すまない、知ってのとおり新人なもので、何もわからず不作法だった」

「いいえ。誰しも初めてとはそういうものです。貴方さまの一人目に選んでいただけたことが、私の幸いです。どうか、堅苦しくならず、普段と同じようにお喋りしてくださいませんか? ここは、非日常の場所、桃源郷――立場も身分も何も関係ありませんから」

「そうか? なら、メリアも気軽に喋れよ。一応客かもしれねぇが、俺をただの友人だと思って」

「……それは、ご命令ですか」

「別に、お願い。嫌ならいい」

「いえ……そういったお願いは初めてですが、謠惟さまがよろしいなら、それで」

 困ったような微笑みがしかしどこか幼さを残していて、先ほどまでの妖艶さとは打って変わって可愛らしかった。

「じゃあ、俺のことも謠惟って呼び捨てにしてくれ。メリアみたいに、あだ名つけてもらってもいい」

「……それは、ちょっと。オーナーはよくても、可鳴亜が怒りそうだから」

 苦笑を漏らす。それさえも、人形じみた笑みよりもよほど人間らしくて好きだった。

「なら、可鳴亜とも仲よくなって、いつかな」

 当然のように今夜限りの関係で終わるつもりのなかった、自分がいた。お互いのことを軽く話して、その後新人で何も知らない謠惟にいろいろと教えてくれた。

 基本、花籠にいる花たちは命令従属人形オーダーメイドドールで、店に来てくれる主人たちの命令を従順に聞くこと。だからこそ、命令で酷いことをされないよう、厳格なルールが定められていること。それは、決して破らないで、と厳令された。それと同時に、ドールたちは命令がなくては生きていけないから、それぞれの子が悦ぶ命令をしてあげてほしい、と。花に水遣るように命令をあげれば、それ以上の愛をもって返してくれる。そういう存在なのだ。ドールたちを許可なく連れ出すことが禁じられているのは、金銭的な制約だけでなく、下手な主人に飼われると命令が合わず精神死する可能性があるからだ。金銭の要求も、どちらかというと信頼だ。預けるにたる能力と金銭的余裕と愛情を持ち合わせているか、という。オーナーは人形たちを愛している。命令されないと欲求不満になり死んでしまう、そんな歪な存在であるドールたちが社会でどうにか生きていくためにこの花籠はある。そういった基本的な話を聞くだけで、可鳴亜が二・三度紅茶を淹れ直してくるくらいの時間が経っていた。

「でも、私は人形として特殊なんです。ドール以外の性質も持つよう実験を繰り返され、透視能力を得ました。その代わり、私は人形として不出来で、命令をされる側ではなく支配する力まで得て、本来InnerでなければならないのにReversibleになりました。だから、確かに店のナンバーワンなんて云われていますが合わない人は合わないので、謠惟さまも無理そうなら他の子に代わります」

 Reversibleは、生式の中でも希少な区分だ。本来、成長過程で再誕をなしに両方の生式器官を持ってしまった固定生式である。再誕できなくても、どちらも選ぶことができるので問題ないように思われるが、実際のところ多感な時期に本人の意思に関係なく生式ができてしまうことやどちらの生式器官をも持った歪な形に何より本人が気持ち悪く思ってしまう、など弊害の多い生式だとも云われる。謠惟も、Reversibleの人間と会うのは初めてかもしれなかった。尤も、わざわざ自分の生式を喧伝する人間もいないので、たぶんだが。

 ともあれ、首を振った。

「メリアがいい、って云ったら?」

「物好きな、人」

 物好きなどと云うが、花椿はその透視能力と優れた頭脳、そして支配者としての力だけで花籠のトップに君臨しているわけではなく、その広く深い愛情で花たちを愛で育て皆から慕われ、客からもその美しさと妖艶さに気遣いを兼ね備えた彼人だからこそ、名実ともにトップなのだ。なんてことは、すぐにわかったことだった。

「いいですよ。貴方が、望むなら」

 可鳴亜がはっとした表情になり、慌てて止めた。

「ちょ、姉さん! 初めての人は、夜話だけだって……」

「私が、許可します。大丈夫、私が認めるならオーナーも規則違反だなんて云いません。ね、可鳴亜。お茶を下げたら、扉の前に御札を貼っておいて」

 有無を云わせぬ命令に、可鳴亜は渋々頷いて退室した。去り際に小声で、姉さんに酷いことしたら許さねぇぞこのド素人、と罵られた。酷い物云いに眉を顰めると、聞こえていない花椿はきょとんとしていた。たぶん、札は結界用で、誰も入ってはいけないという合図であり実際すべてを遮断する機能を持っているのだろう、と思った。……その分、防犯感知にも優れているのだろうが。

「どうして、俺を特別許すんだ。透視して無害だと思ったからか」

 緩く首を振った。その揺れでかすかな隙間から瓶覗色の神秘的な右目が見えた。確かに、魔術行使しているような痕跡は、ない。

「隠している右目でないと、透視はできません。人より察しがいいので、探るつもりがなくても予想がついてしまうのは申し訳ないのですが……。どうして、と云われると実は私もわかりません。貴方ならいいかな、と思ったからです。そういう、曖昧な感情、理由ではいけませんか?」

「いいや? そのほうがむしろいい」

「そうですか、よかった……。なら、ひとつだけお訊ねしてもいいですか?」

「ああ」

「可鳴亜を気にしている、いえ私と可鳴亜の関係を気にされているのは、貴方の心のしこりに関係ありますか? 私たちは、貴方に不快な思いを……させていませんか?」

 ドールの姉妹、という関係を通して自分たちきょうだいのことを見ていた。だから、驚いた。態度に出したつもりはないのに、たぶん花椿は自分の憂いを見透かしている。本心がバレていることの恐怖よりも、こいつになら誰にも話せない大事なことを話してもいい、むしろたった一人だけに共有したい、と謠惟は思った。

 遠回しな訊き方で、俺の心を、大事なことを大切にしてくれた、慮ってくれた花椿になら、と。裏社会の、殺し屋組織の人間に大事な存在がいるなんてどうしたって弱みになる。誰にも口にできないことだ。でも、揺唯のことは……ずっと忘れない、自分がこんな世界に身を堕としてでも守りたい、たったひとつの夢だから。それを、同じ上子である、同じように可鳴亜を慈しむ目で見ている花椿に話したいと思った。

 話を聞き終わった花椿は椅子に座ったままの謠惟をそっと抱き締めてくれた。労るように、褒めるように。その胸に顔を埋める形になる。

「……謠惟は、愛する下子のためにがんばったんですね。私も、同じ上子ですから、少しはわかるつもりです。どうか、抑えないで。辛かったなら、苦しいなら、泣いてしまって。ここでは、誰も見ていない」

 緩く背を、ぽんぽんと撫でさすられた。

 ――……ほんとうは、つらかった、くるしい。

 離ればなれになったことも、こんな人殺しなんてまねしないといけないことも。自分が、いつか守った揺唯のことを恨むんじゃないか、と思うことが一番怖かった。愛が憎しみに変わったら、どうしようって。

 でも、たぶんそんな気持ちすらも見透かして、花椿は大丈夫だと背を撫で続けた。

「貴方の誰かのためのがんばりは、いつか貴方に返ってきます。今は、貴方のがんばりを自分自身で認めて、褒めてあげてください。ね?」

 涙にキスをされた。それは、誘うような甘さはなく、されたこともない母が子にするような包容力だけがただあった。そうして落ち着いた頃、「もう、眠りますか? 気分では、ない?」そう訊かれた。

「慰めなら、嫌だ。だが、愛していいなら、俺の初めてを捧げさせてくれ」

 蝋燭の灯りに照らされた花椿が、どことなく照れているような気がした。熟練の花の雰囲気は霧散して、禁句でいうところの生娘のような初心さでおずおずと手を広げた。

「私に、初めてをくださるなら、うれしい……です」

 けれど、と視線で射抜いた。

「決して、忘れないで。檻の中の花は、そこにあるから美しく見える。絶対に、摘もうとしてはいけない。それだけは、忘れないで」

「ああ」

 今思えば、花椿の背負うものの大きさも、抱いた覚悟も、掲げた夢も、張り巡らせた計画も、その深い愛情も何もかも理解していなかった俺の返事は、なんて軽かったのだろう。

 気づけば、二人とも縺れるように寝台の上にいた。

「命令、してください」

 ちょこん、とシーツの上に座っている花椿はそうお願いしてきた。

「……支配するほうだ、って云ってなかったか……?」

 場を支配して、会話や仕種などで誘導し、自分の欲しい命令をもらうのだ、と。

「……貴方になら、支配されてもいい、と思いました」

 戸惑いながらも口にした台詞、濡れた瞳に歓喜ぞくりとした。

 それが強がりでもサービスでもなく本気なのだと確かめたくて、習いたての命令Orderを放つ。

おねだりしてBeg me

 すると、花椿の口許はやわらかに綻んだのだ。

 子どものように、喜んでいる。

「……私に、命令してほしい、です」

 なんとなく、わがままを云いそうにない花椿が恥ずかしそうにねだる姿は……こう、くるものがある。

いい子だなLove it

 褒めて頭を撫でると、きゅぅとイルカが鳴くみたいな喉の絞られる音がした。

 言葉もなく、感激しているみたいだ。

 半分しか見えない瞳がきらきらと輝き、表情がどんどん蕩けていく。

 ――もっと、自分のものにして、従えたい。

 これが、抗い難い支配欲か、と思った。

 でも、命令権を委ねられた、その信頼を得た人間として花椿を傷つけないオーダーをしたい。だから、ぐっと我慢する。

俺に花椿を愛させてくれLove you

 何もかもを捧げるみたいに手を広げた花椿を、包み込むように押し倒した。

 それは、夢のような夜だった。

 その身体に溺れなかったと云えば嘘になる。しかし、それ以上に花椿の初めてを奪った人間も、他の客も、心底恨めしく思った。手遅れなほどに、出逢ったばかりでもうその花を独り占めしたくて仕方なくなっていた。それでも、花に水を遣るようにせっせと逢瀬を重ねた。

 訪うたびに口説き文句を囁き、プレゼントを贈り、愛を伝えた。

 そのすべてを喜んでくれるものの、ついぞ最後まで色よい返事をくれることはなかった。

 そして、花椿の異変に気づき、彼人の計画や過去を暴き、共犯者とまで認めてもらえたのに――結局、謠惟が一つ同じ罪を共有して帰ってきたときには……花椿は眠り姫となっていたわけだが。

 ――酷い話だろう? とんだ悪夢だ。

 すっかり白く濁ってしまった花椿の髪を梳く。

 脱色した髪に埋もれてしまうようになった白い椿の代わりに、謠惟が見繕った紅い椿の髪留めをそっと耳の後ろに挿した。

 それを、可鳴亜は咎めなかった。

 以前の花椿を知る誰もが、あの鮮烈なを求めていたのだ。



       弐/



 花椿が瞼を開いた瞬間、薄紅の左目だけが何も変わっていないことに、心底安堵した。

 彼人は、驚きも戸惑いもなく、目を閉じ続けている間に過ぎた年月も、変わった世界もすべて見透かしているみたいに、目の前にあるものを見つめた。

 最初に見たのは、一番近くにいる手を握っていた可鳴亜だ。

 深い絆を結ぶ姉妹は言葉もなく、ただ抱き締め合うことによって何かを伝え合っているみたいだった。

 謠惟は野暮ではないので、少し離れた所からその様子を見守ることに徹する。

 しばらくして可鳴亜が少し身を離した瞬間、花椿はゆっくりと口を開いた。

「――……。……おはよう、可鳴亜」

 囁くような静かな声は、しかし魔力として空気を震わせた。

 甘い、花のように香る。

「……姉さん! おはよう、目を覚ましてくれて本当によかった……」

「心配をかけてしまって、ごめんね? もう、大丈夫だから」

 空気のような声とは裏腹に、言葉は流暢に紡がれる。寝起きの頭の回転とは思えないほどだ。

 腕に力も入らなければ、魔力だってまだ上手く操れないくせに、ぽんぽんと可鳴亜の背を撫でようとする花椿を反対に可鳴亜が諫める。

 寝たままではなく半身を起こした状態で話したいらしい花椿のために、可鳴亜がそっとベッドのヘッドボードにクッションを積んで簡易の背もたれを作り、そこにもたれさせた。

 そして、可鳴亜はあくまで姉さんのためですからね、と云わんばかりに「紅茶を入れてきます」と断ってわざわざ席を外してくれたのだ。

「うん……久しぶりに、可鳴亜の紅茶を飲めるの、うれしいよ」

 そう微笑んで可鳴亜を見送った花椿は、近づいてくる謠惟に向き直った。真剣な眼差しである。鴇色の甘い瞳が、確かに自分を見つめてくれていることが何よりうれしかった。

「メリア……。もう、共犯者だけじゃなくて恋人としてお前を抱き締めてもいいか?」

 計画が終わった今、たとえ罪があるとしてももう求愛を拒む必要などないはずだ、と。花椿の瞳は揺らいだが、結局少し俯きながらおずおずと手を広げた。

「共犯なのにずっと眠ったまま貴方にだけ罪を背負わせ続けていた。のも、もう終わりです――罪人なのに愛し合う罪も一緒に背負うから、だから……どうか私の夢を、叶えてくれますか?」

 ぎゅっと抱き締めてから、耳許で囁くように問う。

「どんな夢だ?」

「大事な人たちが幸せに暮らせて、貴方が私の傍に連れ添っていきて、くれる……夢、です」

 計画にはなかった、花椿も幸せな未来。そんなのは、謠惟にとって当然のことだ。だから、悪戯っぽく、

「ちゃんとウタって呼べよ? お前のつけてくれた、お前だけの、俺のあだ名だろう?」

 右の長い前髪を上げて、もう二度と何も映すことのない、月のように白い右目に口づけた。

 花椿は謠惟の腕の中で恥ずかしそうに身じろぎしながら、

「ウタ、お願い……」

 と囁いた。爆発した。何がとは云わない。

「……はいはい、あたしの目の前でいちゃいちゃしないでくださいねー」

 と、余裕を持って絶妙なタイミングで帰ってきた可鳴亜が二人を強制的に切り離した。

 間に入って、サイドテーブルに紅茶を置いたのだ。いつもなら茶菓子も添えられるが、起き抜けの花椿に配慮してフルーツがいくつかカットしてある。

「ありがとう、可鳴亜。可鳴亜の紅茶が、一番安心する……」

 紅茶の香りにだけ心底安心した顔をする花椿に、

「おい、それは俺には安心感がないってことか」

 と、ツッコミすれば、

「……あたりまえでしょう。ウタに抱き締められると、心臓が跳ねて安心するどころじゃなくなります」

 なんて可愛い返答がダイレクトアタックしてきたので思わず抱き締めそうになると、

「はいはーい。いちゃつく前に、あたしに云うことは?」

 可鳴亜に遮られた。

 そうだった。最終関門は花椿ではなく、可鳴亜なのだ。

 しかし、謠惟が云いくるめる算段を立てる前にちゃっかり花椿が口にした。

「――可鳴亜。私は謠惟と想いが通じ合って恋人になったのですが、認めてくれますか?」

 土下座でもなんでもする勢いの花椿に、可鳴亜ははぁと一つ溜め息を吐いてから、

「……いいですよ。どうせ、何を云っても無駄でしょう?」

 あっさり許可した。

 ――って、おい! そこは俺が云うべきところだろう? 格好がつかねぇだろうが。

「俺が必ず花椿を幸せにする」

「あたりまえです」

「可鳴亜……。許してくれて、ありがとう」

「いいえ。……正直、姉さんをもらいたいって云われたときにまともな精神でいられるよう、このシチュエーションを想像し続けるほうが疲れました。もう、いいです。姉さんがあたしの姉さんであることは、何があろうと変わりませんし」

「そうだね。可鳴亜が一番好きだよ」

「……おい」

「はい! ……それに、これからは三人暮らしですし、謠惟だけに好き勝手させたりしません」

 きょとん、と眠っている間にすべて見透かせているわけではない花椿だけが、不思議そうに首を傾げた。

 時は遡って、花椿がまだ目覚めていなかった頃。

 その日も、定期的に見舞い兼夢検診に白籠が訪れてくれていた。籃帷を抱いて。

 平日の昼間で揺唯はおらず、代わりに謠惟と可鳴亜がしっかりエスコートしてきたところだ。何十段とある階段も、いい運動になります、と白籠は笑った。

 上りきった頂上で、一旦可鳴亜の淹れたお茶で休憩を挟んでから夢視ゆめしに移る。

 白籠がベッドに横たわっている花椿の手を柔らかく包み込んで、白籠自身も瞼を閉じる。

 時にそのまま他人の夢に引きずり込まれてしまうこともある白籠を呼び戻せるように、と近くに可鳴亜も謠惟も待機している。夢の内容によっては白籠の精神を傷つけかねないし、夢に引きずられて出られなくなったら同じように植物状態になってしまう危険性があるのだ。

 白籠曰く、花椿はおおよそ白いふわふわとした光の中で微睡むような夢を見ているらしい。その中で、花椿の望む大事な人たちの幸せな未来をぼんやりと想像しながら、たまに夢の中で透視して現実の皆を見ているのだという。

 あの日、魔力脈との接続を切って、能力の酷使もあり右目の視力ごと透視を失ったのだが、夢の中でならまだ透視できるというのはなんとも難儀な話だった。

 そして、夢が鮮明になってきているだけでなく、微睡みの夢の中でかすかに周囲の呼びかける声などが聴こえるようになっている、という。

 希望的観測でもなんでもなく、白籠はこれを目覚めの兆候だと告げた。

 緊張と喜びが同時に襲ってきた。もうすぐ目覚めてその瞳を見て話せるかもしれないと思うとたまらなくうれしいのに、自分たちが彼人の眠っている間にしてきた今の結果がどう思われるかとか心配もあって……というのが可鳴亜と謠惟の共通の思いだった。

 そうなると、二人の行動は早かった。

 もう花籠に囚われる必要はないのだから新居が必要だとすったもんだした二人は最終的に三人暮らしで妥協して、花籠にも会社にも近い一軒家を買い、家具・家電なども花椿のために選び抜き、片目しか見えなくなったのだから杖をと謠惟が、これからは仕事用の着物以外も必要だと似合う服をと可鳴亜が……、などなどあれこれとしているうちに、ある意味あっという間に花椿は目を覚ましたのであった、という流れだ。

 ――そう、本人が眠っている間の決定事項だった。



       参/



 ぽつり、と水滴が地面に落ちた。

 汗が滴る。

 ――あっつい……。

 どうしようもなく、夏なのだった。

 結局、花椿が目覚めてから年を跨ぎ、揺唯と白籠の結婚記念日は二回目を迎えた、今日。

 ようやく、自宅とはいえまっとうな結婚式を行う運びとなった。

 花椿のリハビリ自体は過保護に邪魔されることもなく順調に進み、三人の新居にもあっという間に慣れたのだが、何せ全員がそれぞれ式に対するさまざまな要望希望を持ち、あれこれと準備している間に年を越し、それならもう結婚記念日に合わせて挙式してしまおう、という話になったのだった。

 一日だけでも部屋の中をそれっぽくしよう、と飾りつけどころか内装にまで凝りだしたので、主役である揺唯はともかくとして力仕事担当が面子的に謠惟しかおらず、えっちらおっちら緞帳風のドレープカーテンにテーブル、真っ白なテーブルクロスなどを炎天下の中一人で運ぶ羽目になった。ちなみに、提供は花籠・商店街の貸衣装屋と古着屋と写真館・境界地の劇団である。

 料理や衣装に関しても、商店街の人たちや会社の人間を筆頭として二人を祝福する多くの人たちが協力してくれたのだった。

 ともあれ、この真夏日に体力労働、それも黒いタキシード袴という暑苦しい恰好で、というのは冷静に考えて死活問題だろう。頭が沸いている。

 しかし、可鳴亜がせっせとデザインした和洋折衷衣装に文句をつけようものなら、折角の式の前に一悶着始まってしまうに決まっている。それは避けたかった。

 デザイン自体はいいし、素材もなるべく薄手のもので涼しく作られている。

 ……悪いのは、たぶん天気だ。

 後で写真を撮ると服や化粧が崩れるから、と撮影が先になったのはいい。

 そう告げられたから外で待機しているというのに、何か手間取っているのか謠惟一人暑さに晒されている。

 ぱたぱた、と慌てたような小走りでやってきたのは花椿だった。

 紅いドレス袴が露出度は低いにも拘わらず、艶美に花椿を飾っている。可鳴亜デザインなのだから、この異様なマッチ具合は当然と云えば当然なのかもしれない。花椿自身は、この色だと主役でもないのに目立ちすぎないかな、と心配していたが謠惟は紅白でめでたいだろ、と髪や肌との絶妙なコントラストを眺めながら答えたのだった。

「ごめんなさい。ちょっと、化粧直しと籃帷の機嫌を直すのに時間がかかってしまって……」

 謝罪しながら、花椿は白いハンカチで謠惟の汗を丁寧に拭いてくれる。

 薄紅の唇が近くて、思わず触れたくなった。……が、我慢した。

「……式も始まる前から化粧直しってなんだよ」

 ぼそっとした呟きも花椿に拾われたようで、苦笑しつつ教えてくれる。

「……ほら、皆がサプライズプレゼント、はりきりすぎちゃったでしょう? それで、白籠がちょっといっぱいいっぱいになってしまったみたいで」

「ああ……」

 白籠は哀しいことや辛いことよりも、幸せなことに弱い。すぐ許容量キャパシティーを越えて、感情が溢れ出してしまうのだ。

 ……それは、なんていうか。自分たちのせいだな、と思ってあきらめることにした。

「そしたら、籃帷も泣きだしちゃって大騒動って流れかな。でも、もうすぐ来るよ」

 目覚めた当初のがりがりっぷりに比べれば、いくらか肉づきがよくなったものの、それでも血色の悪い薄っぺらな身体の花椿に、少しでも中で涼しくしていろ――と云いたくなったが、やめておいた。

 もう少し、と云うならば本当にすぐなのだろうし。

 何より、折角珍しく花椿から繋いでくれた手を離すのは惜しかった。

 太陽の祝福は、暑苦しいほどに煌めいている。

 それでも、こんな幸福を連れてきてくれるなら力仕事を一人でこなしたかいもあったな、と思えた。

「……そういや、杖は?」

「え? 家から門までに必要ないよ。それに、写真撮るときに格好がつかないし。ウタが支えてくれるでしょう?」

「……はぁ。まあいい。杖代わりくらい、してやる」

 花椿は、ふふりと妖艶に微笑んだ。

 無自覚で性質たちの悪いお姫さまのエスコートをするのが、謠惟の役目である。



       ∴



 ――わたしは、生まれたときからの、人殺しだった。


 もしも、花椿も自分を人殺しだと自虐するのなら、白籠自身は生まれることそのものが命を奪うことで、生まれたことが罪だった。

 夢杙なんて名字は、無垢衣なんて白い衣装が似合うなんて、嘘だ。

 獏の幻想存在だった白籠は、人々の幻想であるが故に存在はしていても形はなかった。そんな彼人が人として形を持ったのは、一つの命を喰らったからだ。獏を信仰する山の中で、赤子が捨てられた。その赤子の命を贄として、白籠は生まれた。

 尤も、その赤子は既に死んでいて、白籠が命を奪ったわけでもなんでもなかったのだが、本人にとってはそうなのだ。

 ――悪夢を喰らって、人を殺したこともある。

 それさえも、本人の自業自得だったが、白籠にとってはすべて自分の罪だ。

 だから、これはあまりにも――

 見ちゃダメ、と可鳴亜に厳令されて目隠しをされたまま着つけされた白籠は、借りてきた等身大の姿見を前に凍りついた。

 新雪のようなまっさらなドレスじみた着物に紅い半襟と帯、桜色に色づいた袴、三角巾の上からかけられた黒いベール。

 花愛はなうい衣装と呼ばれる、つまり白無垢。

 旧時代とは意味合いが違っても、つまり結婚式の特別な服装なのだ。

 そんなもの自分が着ていいわけがない、と白籠が拒否し、忌避し続けてきた服装。

 さぁ、と血の気が引いていく白籠に可鳴亜がそっと手紙を渡した。

「これね、この花愛を作ってくれたイトイトから。読んでみて?」

 無言で頷く。

 可鳴亜の云うイトイトとは、つまりまだ見ぬ友人であるところの千織ちしきいとのことだろう。


『結婚式おめでとう。できることなら拙も出席したかったけど、生憎仕事が立て込んでて無理だった。写真、待ってる。皆、人遣いが荒くってさ、可鳴亜の葛籠作ってほしいとかオレの専門じゃなくてはぁ⁉ってなったし、花椿は花愛衣装が欲しいとか急に云ってくるし、それに便乗して可鳴亜がデザイン案送ってくるわ、謠惟が大金振り込んで圧かけてくるわ、揺唯がベールは黒がいいとか注文つけてくるわでとにかく大変だった。それはまあ白籠のせいじゃないから気にしないでいいんだけど。正直、拙も白籠の花愛織りたいなと思ってたからちょうどよかった。コンセプトとかデザインの意図とかはいろいろあるんだけど、そういう細かいこと結婚パーティーの前に長々説明するのもだるいだろ。うん、オレも書くの面倒。一言で表して名づけるな、これは「夢無垢ゆめむく」かな。白籠と、周りの皆の白夢を形にした、世界でたった一つだけの花愛。うちの家特有の千織縮だから、夏でも涼しいと思う。夢無垢はさ、ベールとか袴も合わせて白いだけじゃない、白籠自身そのものを表現したつもり。でもさ、それって別に悪いことじゃないと思うんだよ。ただ、無垢なだけじゃない、いろんな表情のある白籠がすてきだから。気に入ってくれるとうれしいな。愛を込めて、佳き日の白籠へ、千織いとより』


 ぽつり、と涙が零れた。

 幸せは、喜びも哀しみも綯い交ぜにして心に激しい渦を巻く。

 痛みさえ伴う。

 無垢な衣装なんて似合わない、着ちゃいけないと思っていた。

 それでも、こうして皆の想いによって編まれた花愛はあまりにもすてきで。

 真っ白な便箋を胸に、声も上げず涙をぼろぼろと零し続ける。

 折角の衣装が汚れてしまわないよう、懸命に手で拭う。

「あーあー、また化粧やり直しじゃん。もう、白籠泣かないで。今日、うれしい日なんだから!」

 わざとおどけて可鳴亜が笑う。

 いっぱいのティッシュで涙を受け止めていく。

 すると、先ほどまで花椿の腕に揺らされて上機嫌だった籃帷も大泣きを始めた。

 母親の哀しみを感じ取ったみたいに。

 花椿はそっと籃帷を白籠に手渡す。

「籃帷……?」

 てちてち、と籃帷が白籠の頬を撫でた。

 だいじょうぶ?って、かなしいことがあったの?って慰めるみたいに。

「……ありがとう、籃帷。大丈夫、何もかなしいことなんて、ないんですよ。ただ、うれしくて、幸せで……。ね、籃帷も泣かないで。笑って?」

「うー。かちゃ、あーぅ」

 二人が、微笑み合った。

 夏の日射しに照らされて、まるで映画のワンシーンみたいに。

 ――もしも、わたしが生まれたことが罪だとしても。籃帷にはなんの罪もないから。

   ……どうか、笑って。

   あなたが生まれてきてくれて幸いなのだと、何度でも伝えるから。



       ∴



 白籠の化粧をやり直している間、花椿がもう一度籃帷を引き取っていた。

 白く小さな手は、花椿の手を握ってくれる。

 ……この手が血に汚れていても、その無垢な笑みを向けてくれるのだ。

 花椿に籃帷を抱くことを許してくれたみたいに、白籠にも自分が白無垢を着ることを許してあげてほしい、それが花椿の願いだった。

 だからこそ、この花愛を千織いとに頼んだ。

 化粧が終わり、隠れるとはいえ髪を整えている間にも、可鳴亜は皆からの贈り物一つひとつを丁寧に説明していく。

 危うく、白籠がもう一度泣きそうだった。

 元々、二人への結納道具として連れ合うときに可鳴亜が注文していたらしい葛籠は白籠の宿子などで渡す機会を失い、しばらく出来上がってもしまわれたままだったのだ。結婚式、というこの場を得てようやく日の目を浴びる運びとなった。廿楽家に贈る葛籠の意味は、考えるまでもないだろう。紅い葛籠に、白百合が咲き、揺り籠に包まれている。

 座って使う小さな鏡台は、謠惟と花椿からだった。花と鳥が歌う様の描かれたそれは皆が白籠を守るという意思の表れでもある。

 衣紋掛けは謠惟からで、折角の白無垢を飾るといいだろう、と思ってのことらしい。

 その他、葛籠の中についでとばかりに揺唯からのつげ櫛やいとからの余った布で作られた籃帷用の衣服も入れられている。

 今日の籃帷はおめかしさんだ。

 これも、花愛の余り布で作られたドレスで、いと作である。ひらひらとして愛らしく、着心地もいいらしく本人も満開の笑顔だ。

 揺唯にも黒い葛籠と白籠と対になる花愛、そしてフォーマルなスーツ一式がプレゼントされている。これから、管理職にもなるだろうから、と謠惟から先んじて贈られたものだ。

 準備が終わると、白籠と揺唯が対面する。

 白籠の対となる花愛衣装は、白いタキシード風の着物に薄い水色の袴、黒い髪留めでくくられていた。

 お互いがお互いに見惚れ合い、何かを囁き合っている間に、籃帷を可鳴亜に預け一足先に花椿は外へ出た。

 いろいろあって忘れていたけれど、ずっと謠惟を外で待たせていたのだった。

 汗だくになった謠惟は、ちょっぴり艶めいてかっこいいな、と思ったけれど口には出さない。

 三脚をつけたカメラが、タイマーで写真を撮った。

 切り取られたワンシーンは、きっと何度も見返すことになるすてきな写真になった、という確信がある。

 真ん中に揺唯と白籠、そして二人に抱かれた籃帷。その後ろに花椿、取り合うように左右を陣取る可鳴亜と謠惟。皆、笑顔だった。

 こんな暑い外には一秒だって長く居られない、と中へ入ろうとした瞬間。

 ぽつり、と雫が滴り落ちた。

「ぁ……」

 晴れた空から、雨が降る。

 ――狐の、嫁入り。

 嫁、という言葉が何を指し示すのかは誰も知らないけれど、ただ天からも祝福されたのだ、と思った。

 恵みの雨に、誰もが微笑む。

 水滴が光を反射して、まるでたくさんのプリズムに囲まれているよう。

 花椿は、目を細めてその美しい輝きを見つめていた。

「……メリア。お前が守った景色なんだからな、それを忘れるなよ」

 優しい謠惟は、たとえどんなに花椿の手が汚れていようとも、計画の糸でたくさんの人間の人生を操っていようとも、そのお陰で守れたもの、救えたものがあるのだ、と何度でも伝えて――教えてくれる。

「……私が忘れたときは、何度でも思い出させてくれますか?」

 天気雨の中で、微笑んだ。

 踊るように、二人は手を取り合う。

 謠惟の答えは、手のひらへの口づけ、だった。



       終/



 花椿は、事後承諾の決定事項に、苦笑しながらも頷いた。

 ――新しい家に新居で暮らしたい、という二人の願いを。

 身体的には片目も見えないし、何年もの横臥で衰えていたのをリハビリして塔の外まで動けるようになったとはいえ上り下りするのは大変だし、花籠の花として働くわけではないのなら出ていくべきだし、新居へ移る正当な理由などいくらでも見あたった。

 そして、一応の医者による検診だとか、塔以外の場所で安定して生きられるくらいまでに体調が回復してから、謠惟の手によって新居に辿り着いた。

 謠惟が杖代わりとなってその腕を貸していたのだが、花椿が足を止めたのに合わせて停止した。

「ここが、おうち……」

 見上げる花椿に誘われて謠惟も目を遣る。

 閑静なオフィス・住宅街の狭間にあるビルを、少し離れた場所から見上げた。

 西洋じみた煉瓦造り風三階建てビルアパートメント。

 縦に長い直方体、ではなく三階のベランダのためにやや立方体の窪みがある。歪でありながら整った形をしているこのビルは、元々は一階がなんらかの事務所で二階・三階を下宿として貸し出していたらしい。

 揺唯も含めたクレイドル従業員クレイドラーを動員して、修理・修繕・清掃・引っ越しを済ませたので、築数十年の年季のわりには綺麗な見た目をしている。

 花壇に囲まれ、鉄製のアーチを潜って入らなければならないそこは、なんとなく探偵事務所じみている、というイメージを謠惟は勝手に抱いていた。尤も、二階以上の窓すべてに厳重な鎖によるロックがかかっているのは、いささか監獄じみているが。

 外観を損なう付属品を見ても、しかし花椿は文句の一つもつけなかった。

「すてきな家だね」

 やわらかに、微笑むばかりだ。

「……そう、したつもりだがな。中も見てから評価してくれ」

 何も云わず、けれど花椿は謠惟の最大の懸念を正しく理解しているようだった。謠惟が花椿の計画を暴き、共犯者となったあの日、ここまでやってきた計画をバラされるなら……と躊躇いなく塔の窓を後ろから落ちて死のうとする、という自分の命を盾にする行為を平気でやってのけたのだ。それが、謠惟のトラウマになっていることは当然見透かされている。

 ――ノータイムで、微笑みながら、後ろから落ちようとする姿。高い所になんて住ませてなんかやれない。

 急な新居探しでさまざまな必要要件を勘案した結果、三階のビルアパートのような建物しか残らなかったのだが、二階ですら渋る謠惟は当然唸った。しかし、立地・三人暮らし・バリアフリー・建物の強度・三人の仕事・特に花椿が好きそうな部屋など……要望が多すぎてこれ以上の物件はなかったのだ。……じゃなけりゃ、時間をかけて新しい家を建ててくれという話だ。

 窓だけでなくベランダ、屋上に出るドアは厳重なことになっていて、花椿はさすがに苦笑した。

「私はもう、自分から飛び降りたりしないよ? しんぱいしないで」

「嘘だろ。お前、何かあったら躊躇しねぇ」

 花椿は少し考えて、積極的に飛び降りる気はないけど何か特別な事由があれば躊躇わないかもしれないな、と思ってしまったから黙ったのだろうな、という間ができた。それに、謠惟ははぁと溜め息を吐くばかりだ。

 ともあれ、早速中に入る。すっかり草花が枯れたこの季節は、病床明けの花椿には優しくない。木枯らしが花椿の髪を攫っていく。昔の、肩上までだった頃に比べれば長いが、胸許まで伸びていたつい先日までに比べるといささかすっきりして見える肩にかかる短さだ。寒くなってくると、その長さでは心許ないのでは……と杞憂してしまう。

 けれど、花椿たっての願いで可鳴亜が散髪したのだ。似合っていることに変わりはない。

 中は、吹き抜けがあって見渡そうと思えば一階から三階が見える造りになっている。侵入者防止よりも、花椿が変なことをしていないか監視する意図が大きいことはあからさまである。

 一階の内装は修繕した程度でわりとそのままを流用しており、順に事務所・食堂・台所・洗面所・浴室と続いている。三人で集まるときか、クレイドルの事務所代わりに使うときくらいしか使わないだろうな、と予見している。結局、一階で料理したところでそれぞれの部屋だとか二階の居間で食べるに決まっているのだ。

 ……本当は、欲を云えば花椿の部屋はせめて一階がよかった。その理由は以下略。

 玄関の奥には菱形がいくつも連なった蛇腹の鉄格子が開閉するような旧時代のエレベーターが動いており、杖を使用した歩行をする花椿のために稼働するようにしてある。ベルがチープにもチィン、と鳴って目的階に辿り着いたことを教えてくれるのがご愛嬌だ。

 早速、それに乗って二階へ。花椿は、どことなく古くさいエレベーターを気に入ったようで、狭いはこの中を見回している。上部には黒い半円に壱・弐・参と端から順に彫られてあり、時計の針のように階層を跨ぐごとに指し示していく。階移動はレバー式だったが、面倒だったのでボタン式に換えた。それでも、雰囲気に沿うようにタイプライターのような金属光沢のあるボタンだ。

 ホールに螺旋階段もあるが、ほとんど飾り扱いで「別に、私は階段も使えるのにな……」と零した花椿に無言の圧力がかかった。それ以上云うと、景観がどうなろうとこの階段すら強制的に封鎖するぞ、の意だった。

 二階は各人の個室である。どれも、ほとんど同じ造りをしており、どちら向きの部屋かという差異くらいしかない。元・下宿とあって軽い給湯室と浴室がすべての部屋についているのが魅力的だった。花椿にあまり上り下りさせたくないし、それはまあ……謠惟だって彼人が起きたのなら何年もお預けを食らっていたのでちょっとは閨で夜を共に、とかいろいろ妄想することはある。

 左の扉から、順に謠惟・花椿・可鳴亜の部屋となっている。単純に中央のエレベーター前を花椿の部屋にしたかったのと、二人とも花椿の隣の部屋を譲りたがらなかったからだ。後は、どちらでもよかった。

 元々あったアンティーク調の家具などは修繕したものの雰囲気に合っているのでそのままに、各人の部屋はそれぞれに合うよう好きにコーディネイトした。謠惟はそのまま古めかしい洋館を活かした殺風景な部屋を維持し、可鳴亜はシンプルながらベッドだけが大きく後は可愛らしくポップな部屋にして、花椿の部屋は塔の部屋とあまり変わらないテイストにしておいた。小上がりの畳に、ベッドを中心とした家具はまだまだ病人である花椿の身体に優しいものをすべて選び、花椿が好きな本がたくさん置ける本棚や一輪挿しできる花瓶など、とにかく花椿のためにと増やしていった結果、一番物の多い部屋になってしまった。実際、本は溜め込むことになったのでよしとするにしても、他の物は少し多くて一部物置に移動したくらい「やりすぎかな」という花椿の一言に収束する。

 そのあたりは、謠惟も含めた過保護二人が反省した。

 キッチンや浴室などもいわゆる西洋風という奴だが、使い勝手自体は最新のものになっているので不便さはない。自社で扱っている防御・清潔結界の御札を張っているので、広い家と云えどそう荒れることもない。

 三階はほとんど客間と物置、ランドリースペースになっており、家人はほとんど近寄らないだろうな、といった感じである。

 食堂に、可鳴亜が待ち構えていた。

「おかえりなさい、姉さん」

 手を広げて待つ可鳴亜に、もちろん花椿は飛び込んだ。結局、誰より何より花椿にとって可鳴亜がいる場所こそおうちなのだと、痛感させられる。

「……ただいま、可鳴亜」

 そうして抱き締めて、花椿の見えないところで可鳴亜は謠惟を睨んだ。

 早く姉さんを連れてこい、の意だった。

 可鳴亜も本当はここまでエスコートしたかったのに、花椿が帰ってくる家をすべて整えた状態で、お茶の準備もして待っていたいからという理由で我慢したのだ。

 それなのに、なかなか謠惟が食堂まで花椿を連れてこないから怒っているのだろう。

 謠惟は素知らぬ顔をした。

 ともあれ、三人で立派な最大八人くらいが着けそうな食卓テーブルでお茶することになった。暖炉風のストーブが火の魔力石によって部屋を暖めている。

 優しい紅茶の香りが鼻腔をくすぐる。チーズスフレ、蜂蜜たっぷりアップルパイ、コーヒーゼリー、カットフルーツとたくさんのお菓子が並ぶ。

 それぞれが好きなものを考慮してくれたのだろう、と感じた。

 別に、謠惟はさほどコーヒーなど好きではなかったが。仕事上、よく飲むだけで。

 乾杯、というわけではないですけど――と可鳴亜が前置きして、

「姉さんの快癒祝いに」

 謠惟も続いて、

「メリアの引っ越し祝いに」

 花椿が、

「三人の新しい門出に――」

 と、締めた。

 不作法だろうと、三人が掲げたティーカップをチリン、と鳴なす。

 三人での新しい生活が始まろうとしていた。

 それは、しろいゆめのような日々だ。

 夜、花椿はほんの少しだけ瞳に水の膜を張らせた。

 自分の計画と、罪深さと、それを支えてくれる大事な人たちと、あきらめていてでもあきらめさせてもらえなかった、あの日恋した夢がここなんだと思うと、泣きそうになったんだ――と後に告白した。

 ……まあ、でも、この三人が集まってドタバタしないわけがないのだが。



       ∴



 ――三人の暮らしぶりがどうだったか、というと話せば長くなるのだけれど。

 花椿が目覚めてから、半年後。籃帷が一歳になる頃である。社長も可鳴亜も入り浸るというか出社拒否して家で対応しようとするせいで、クレイドルの「第二本部」みたいな隠れた名称がつき始めたビルアパートメントはすっかり三人の生活に馴染んでいた。



 可鳴亜は元々彼人の好む籠を自由に行き来する性質だったので、自宅と花籠と白籠たちの家と客と行くホテルをすべて自分の家みたいに好き勝手渡り歩いてクレイドルの外部協力員/情報屋として働きつつ、これまでと変わらず自分の性質もあって花籠の花としても仕事していた。晴れて恋人同士となった二人に気を遣ったというわけではなく、それが可鳴亜の見つけた好きな生き方だからだ。もちろん、花椿が目覚めた当初はべったりだったものの、花椿が過保護に介護されることを望んでいないこともわかっていたのである程度体調が戻ってからは自然な生活に戻ったのだった。こっちも家族だし、白籠の家も家族だし、花籠の皆も家族。白籠のところは新婚さん家庭だし邪魔になるかなぁ、とちょっと遠慮したこともあったけれど、白籠は特に揺唯もそこそこ籃帷も喜んで家族として迎えてくれてむしろあんまり行かない日が続くと寂しがるから好き勝手行くことにした。そんな可鳴亜を見て、幸せそうに花椿が微笑んでくれるのが、好きなのだ。

 ――結局、姉さん至上主義は変わっていないものの、姉さんだけに依存するわけじゃなくて、ちゃんと自分に合った自分の好きな生き方を見つけて、姉さん以外の居場所もあって自分できちんと考えて生きている。境界地、花籠周辺という決まった鳥籠の中を出なくても、あたしは幸せに生きている、って胸を張って云えるくらいに。



 謠惟はクレイドルの社長として変わらぬ日々を過ごしている。変わったのはそれこそ新居に引っ越したことと、花椿が目覚めたことと、そのせいで家から出ずリモートワークばかりし始めたことだ。花椿が裏でこそこそ計画を立てて暗躍しないかどうしても不安で、というのはまあだいぶ建前になりつつあるが、ある程度元気になったからこそ自由に歩き回っていろんな仕事をしようとする花椿が危なっかしくて目を離せないのだ。単純に、大好きな花椿と離れたくない、ということでもあるが。



 その花椿本人は、片目での杖つき歩行にも慣れ、すっかり一人でも周辺を歩き回れるくらいには回復していた。花籠にももう情報屋以外の花としての仕事はしていないものの顔を見せて客引きに成功しているし、オーナーともずっと良好な関係が続いているし、なんなら社長の代わりにクレイドル本部まで出社してさまざまな事業計画を立案したり各社員のサポートをしたりしているし、白籠たちの家に行って籃帷のお守りまでしたいとねだる始末である。というか、まあ籃帷は親戚を自称する皆にやたらと愛され構われているのだが。

 花椿は植物状態になってから真っ白になった髪は元に戻らず、やや毛先が赤っぽい灰色になったような、といったレベルである。眠っている間に、謠惟がその髪に映える赤い椿の髪飾りを耳にかけてくれていたものをそのまま愛用しており、白籠に頼んで魔術装身具にしてもらって外れないようになっている。謠惟の要望によりお守りとしての効果も付与された。可鳴亜チョイスの書生さん風の和洋折衷衣装を着用しており、白い詰襟のシャツに桜色の着物、灰色の袴を穿いている。靴は草履だと危ない、と云われるのでブーツにしている。

 花椿は自由に外を歩けるのが楽しいのか、一人でよく外を歩き回り、いろんな人を惚れさせているのでたまに謠惟に怒られて抱き潰される。あまり反省はしていない。自重はしたものの。

 体調が全快ではないしこれからもそこまでの回復は見込めないんだから、と休みを多めにされているので、休日は昔と変わらず読書に勤しんでいる。学術書にしろ小説にしろ、活字を読むのは塔の住人である花椿の数少ない楽しみだった。物語を好む白籠とは読書友達でもあり、時折どちらかの家でお茶をしながら語り合っている。

 そして、新居に越してきてからもっぱら花椿が夢中になっているのは家事と花の世話である。ベランダ解禁後、プランターで小さな花園を創り上げ、ハーブなども育てて時にハーブティーにもしている。家事自体は昔からできたことだったが、特に料理はオーナーの絶品料理のお世話になりっぱなしだったし、塔にキッチンがあったとはいえあまりする機会がなかった。だから、リハビリという意味も含めて少しずつ家事をこなし、料理の感覚を思い出し、今となっては新しく難しい料理を覚えようと奮闘している。

 身体がうまく動かない日もあって、いつもというわけではないけれど、そうやって自分のやりたいことを見つけ、且つ花椿の料理が食べられるとなれば謠惟はものすごく喜んだ。謠惟があまりにも喜ぶから、花椿もちょっと奮発して作ってしまうところもなくはない。

 仕事は先述のとおり、クレイドルの外部協力員という立場で情報屋として協力しながらも、ほとんど謠惟の秘書のようなサポートを行っている。花椿が優秀すぎて困る、というのが謠惟の言だ。それも仕事ができすぎるから、たまに自分の体調も忘れて没頭して倒れることがあるから本当に心配だ、と。

 花籠のキャストや客、白籠たちやその周辺の商店街や職場の人たち、クレイドルの社員たち――とさまざまな相談に乗っていった結果、最近では家に相談者がやってくるほど、境界地の相談役になってしまっている。仕事が増えるのでなんだかな、と謠惟は思いつつも、罪を償おうとする、そして元々そういった気質のある花椿が人佐けをして皆の笑顔を見て幸せになれるならそれが一番だと思っている。みたいだ。

 花椿は、罪を背負い、それを謠惟と分かち合い、贖罪の道を歩みながら、今もまた企んでいる。


『……けれど、それはもう悪夢じゃない、しろいゆめのつづきだ。塔を出て、身体は不自由になったけれど、時に夢を見ながら片目で現実を見て、おぼつかない足取りで一歩一歩を踏みしめていく。もう、飛ぶ必要はない。空は、青々と謠惟の瞳のように広がっている。今はまだ恋人という関係を満喫していたくて、逑になるとか子どものこととかは考えていないけれど、そういうこともいつか……と思えるくらいには罪と向き合えているのだと思う。――しろく、すきとおったゆめのさき、それがこのおうちで、このまちだ。/花椿の日記一部抜粋』



「……おしまい」

「うー? さんにんともしあわせになったってことー?」

「そうですね、ずっと幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし、っていう話です。少し、籃帷には難しい表現を使いすぎましたね。でも、今は解らなくていいんです。……いつか、皆から直接聞いてみてください。すてきな、お話なので」

「うん、そーする。かーみゃのおはなし、すきぃ」

「ふふっ、ありがとう。……でも、そろそろねんねの時間ですよ?」

 ――夜の帳に、子守唄が響く。

 揺り籠に揺れる謡には、カナリアも鳴く。

 目覚めた花をそっと添えて――今日のおとぎ話は、ここでおしまい。



       終

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