参/綿雲にくるまれた。



 窓を閉めきった真夏の朝は、きっとゆだるような熱に浮かされ汗だくになって起き上がるのだろう、と思っていた。いくら、山奥の谷間にある境界地と云えど、夏は夏である。扇風機の風がいくらか体感温度を下げてくれているかもしれない、という希望的観測さえ無音と無風にかき消される。

 初めての熱い夜を思い返してみても、扇風機はガタガタと自己主張激しく強で回り続けていたし、時折二人の動きによっては途中で逸らされて風鈴を鳴らすことさえあったのに。はて、間違ってタイマーでも押してしまったか、それとも遂にはその寿命を迎えてしまったか。後者であれば、もう一度修理可能だといいのだが。

 昨夜の余韻に浸っていたいけれど、このままでは熱中症になりかねない。いくら、魔人が丈夫と云えど限界値というものは必ず存在する。それでなくても、夏の暑さに弱い白籠はくろうのためにも、窓を開けて扇風機をつけなければ……。真っ白でぽきりと折れそうな細い身体は、溶けてしまいそうなほどに、儚い。それを肌で触れて感じたのだ、と思い起こしてしまってぼっと顔が熱くなる。

 煩悩を振り払うためにも、揺唯ゆいはばっと瞼を開けた。

 瞬間、眼前には一面の――白。

 ここが我が愛しのおんぼろアパートの一室である、ということさえ判然としない。ほどに、白で覆われた空間。

 思い返せば、無風にも拘わらず暑さを感じず、むしろずっと優しい魔力に包まれて温度湿度に限らずすべてが適度に保たれた空間に微睡んでいたような、そんな居心地のよさを感じていた気がする。だからこそ、蒸し暑さに起こされることもなく、ここまで爆睡していたのだろう。

 ――って、それどころじゃない! ハクローは、どこ⁉

 白に、触れる。

 魔力で編まれているらしいそれは、特段粘つくわけでも手にひっつくわけでもなく、しかし確固とした実体を持った糸の塊のような――そう、繭だった。

 そして、その魔力が誰のものか、揺唯は知っている。

 昨夜、或いはひょっとすると今日の早朝まで、ずっと奥深くまで感じていた彼人の、白籠の魔力だから。

 繭の最深部から、かすかな息遣いさえ聞こえる。

 つまり、そこに白籠はいて、確かに生きている。

 今すぐ繭を破って、白籠を取り出して、無事を確認したかった。

 けれど、繭が何かもわからないのに傷つけてしまえば、中の白籠にも影響を及ぼすかもしれない。

 白籠は、普通の人間とは異なる。獏の幻想存在が顕現したものだ、と云っていた。幻想存在特有の事象なのかもしれないし、昨日の愛交で何かやらかしてしまったのかもしれない。確かに、煽られて結果的にかなり負担をかけた覚えはある。

 揺唯の頭の中は、それこそこの部屋と同じように真っ白だった。

 凍結フリーズして、動けない。

 それから、どれくらい時間が経ったかはわからないが、異常を察知した可鳴亜かなりあがすぐに飛んできた。白籠の張っている結界が途切れたから、と様子を見に来てくれたのだ。

 白籠が買った恐竜が眠っている柄のパンツしか穿いていない半裸の揺唯を、可鳴亜は「とりあえず、服着て!」と怒鳴った。

 云われるがまま、それこそ子どもみたいにのろのろと適当なスウェットを着ている間に、可鳴亜はけーたいでんわでどこかに連絡をしていた。

 それが終わると、真剣な眼差しで揺唯に向き直った。蜂蜜ミルクの瞳に、甘さはない。

「揺唯、とりあえず白籠は病気とかじゃなくて無事だから、安心して。お医者さんを呼んだから、すぐ来てくれる。診察してもらったらすぐわかると思う。……から、とりあえず落ち着いて待ってて。繭化、してるんだと思う……」

 そう呟く可鳴亜さえ、信じられないものを見た、というように動揺が隠せていない。

 突然のことに焦って気が動転しているのは自分だけではない、ということに気づいて少し心にゆとりができた。第三者に大丈夫だ、と告げられたことも大きい。

「……カナカナ、ボタン、一個ずつかけ違ってるよ」

 はっ、とした可鳴亜は少し頬を染めながらさっと直した。何もなかったように、今度は謠惟うたいに電話をかけている。

 きっと、結界が消えたことに気づいて、慌てて来てくれたのだ。おしゃれも何も考える暇もなく、適当なワイシャツにズボンを引っかけて。以前、結界が切れたときは、ボスに急襲されたときだったから。

 それから、謠惟と花籠お抱えの医者がすっ飛んできて、すぐに診察が行われた。

 可鳴亜と謠惟は繭を見た時点で何か判っているみたいだったが、揺唯からすれば医者の口からもたらされた情報は何もかもが未知の領域だった。

 白籠が、今自らの魔力によって編まれた繭に籠っているのは、いわゆる蛹化という現象だ、という話だった。実例が少なくほぼ都市伝説と化しているために俗称しかなく、公には存在しないとされているらしい。生式を持たない者が、それでも愛する人と愛し合って稀に起こる、Borderのまま子どもを身体に宿す奇跡。繭に籠って現在進行形で一時的に身体の一部を作り変えて子どもが生めるようにがんばっているらしい。眠っている本人が、無意識のうちに。うまくいけば一週間そこらで終わって、繭は綺麗さっぱり消え去るから心配ない、ということだった。それを、羽化と呼び、身体が作り変えられた証なのだと。

 長々と情報量の多い話をされて、もう揺唯はパンク寸前だった。初老の医者は云うだけ云って帰ってしまった。――つまり、今医者がやれることは何もない、ということだ。

 逑が傍にいると安心できるから蛹化している間は付き添っておくように、それだけ言い残して。

 可鳴亜が御札で簡易結界を張り直し、謠惟が一週間出勤禁止命令を出した。使ってない有給がたんまり残っている、と。……労組もないのに、労働者の権利なんて嘯いてる。

 以前、謠惟から愛交だとか逑だとかの説明を受けたとき、逑になって特に相方が子どもを宿したYourは逑を守るために常時警戒態勢に入って神経が鋭敏になり、疲労やストレスが溜まりやすくなる、という話をしていた。元々、揺唯は白籠に身内以外の人間を近づけることに拒絶感を持っていたが、それどころではない。害のない医者の診察に感謝すべきなのに、むしろ近づくなと魔力が激しく飛び散っていた。それを、周囲は諫めもしなかった。当然のことだから、だろう。

 今、白籠は無防備な状態だから離れずあたたかい魔力で包んであげるように、と云いつつも根を詰めるな、と心配もされたくらいだ。

 繭のせいで、六畳一間の半分以上が埋め尽くされ、どうにか卓袱台と座布団を整えただけの状態で、謠惟と向かい合った。

 曰く、今の不安定な状態でこんな話をするのもあれなんだが、白籠が目覚めてからでは遅いから、だそうだ。

「本当に滅多に起こることのない奇跡だから、説明はしていなかった。悪かったな。だが、こうなったからには……お前が子どもを望んでいるいまいに拘わらず、父親になる覚悟をしなくてはならない。わかるか?」

「うん……。でも、父親って、子どもって何かわかんないから、なんか……こわい」

 揺唯に家族なんていなかった。幼い頃の記憶はなく、気づけば研究所で実験体、親を名乗る人たちに引き取られた時期もあったが、あれも結局その従者たちに強制教育をされただけで家族と触れ合うことも会うことすらなかった。

 白籠と出逢って、謠惟や可鳴亜という身内に大事にされて、ようやく家族に近いものを知ったくらいだ。子どもは遊び相手になったことはあっても、壊れやすそうで怖い、というのが素直な感想だった。

「そうだな……。親の在り方なんて人それぞれだから一概にこういう父親になれっていうわけではないが。まあ、白籠と自分の子だ、ものすごく可愛いに決まってるだろ。自然と可愛がるようになるし、愛して守ってやれるんじゃないか? 揺唯は仕事の後輩の面倒見も意外といいしな。不安で畏縮することはない。それに、親は一人じゃない。白籠と一緒に育てていくんだ。特に、子育ての最初は白籠の負担を減らそうと動けば、自然と上手くいく。俺たちもサポートする。親はお前たち二人だが、困ったことがあれば相談に乗るし、仕事や金については場合によっちゃ都合してやれる。安心して子どもを生んで育てられるよう、万全な体制に整える。だから、覚悟やこれからのことを考えたり話し合ったりする必要はあるが、恐れる必要もない。大丈夫そうか?」

「わかった……気がする。わかんないこと多いから、きっとカナカナとか謠惟にもいろいろ訊く、と思う。けど、がんばるから……!」

「よし。――問題は白籠のほうだ」

「! やっぱ、ハクローは大丈夫じゃないの?」

「大丈夫じゃない、というよりは実例が少ないから何が起こるかわからない、というところだな。問題は、羽化した後だ。元々、子どもを宿すと精神的にも身体的にも不安定になることが多い。特に、Innerのように生む素地ができていない出産は危険が伴う。……それ以上に、白籠は意図的でなく突然に子どもを宿すことになった。それでなくても羽化して宿子して不安定になっているところで、自分が親になることを急に自覚しなくちゃいけない。というか、腹の子に魔力を持ってかれるし、いずれは腹も膨れる。から、先に親となる自覚をするのは生むほうだ。子どもができたこと自体がいけないわけじゃないし、白籠が望んでないとも思わない。絶対に、堕ろす選択はしないだろう。けど、何せ急なことだからな……たぶん白籠はいろいろ葛藤があって悩む。不安定で心も身体も辛いから、もしかしたら白籠がお前を傷つけるようなことを云ったりすることもあるかもしれない。だが、そういったことは本心でないとわかってやってほしい。んで、傍で支えてやれ」

 頷いた。

 言葉にはならなかった。

 ハクローが辛い思いするくらいなら子どもなんていらない、というのが揺唯の素直な気持ちだった。それでも、白籠が子どもを生めないことを謝っていたのを思い出すと、いいことなのかもしれない、とも感じる。でも、揺唯は既に今子どもなんて欲しくないとぶっちゃけているし、白籠は傷つくかもしれない。遅効性の、毒みたいに。

 この複雑な感情を、正直揺唯自身理解できないし、うまく伝えられるかも判らない。

 ――それでも、おれらの子どもごと、ハクローを愛して大事にしたい。

 繭の傍で、二人の無事をそっと祈る。

 ……それはそうと、揺唯はずっと云うかどうか迷っていたことを口にした。

「……ウタさん、すっごい云いにくいんだけど……」

「なんだ?」

 なんでも受け止める、といった鷹揚な態度で訊き返してくる。

「ネクタイ、裏表逆」

「それは、迷わず早く云え」

 怒られた。

 謠惟のネクタイはシックな斜め線の入った紺と黒のボーダーじゃなくて、真っ黒な裏地が見えている。可鳴亜は面白がってあえて伝えなかったし、医者はこのガラの悪い謠惟に指摘することなどできず見て見ぬふりをしていった。

 くすくす、と揺唯は笑った。

 皆、こんな焦ってぽかをするほど、白籠のことを大事に思ってくれている。

 未知との遭遇で怖いことばかりだけれど、ひとりじゃないからなんとかなるような気がした。



       ∴



 ぬるま湯に浸かるような……木漏日に揺蕩うような……そんな微睡みの中に溶けていた。思考も、身体も、魔力さえも……。

 けれど、不思議と寂しくなかったのは、あたたかい光が自分の中に生まれていたから。悪夢ばかりを腹に溜め、冷たく根づいていっていたのに、こんなあたたかなものが自分の中にあるなんて、信じられなかった。でも、その小さな光がなぜかわからないけれどとても愛おしかった。

 それだけじゃない。白籠は揺唯の太陽のような魔力や心を、近くに感じていた。

 だから、きっと寂しくないのだ。

 氷の魔力を後づけされながらも、失われることのない本人本来のあたたかな魔力。優しくてあたたかい心を持った、揺唯らしい魔力だ。

 夢を見ない白籠が、まるで夢を見るように真っ白のふわふわに包まれていた。

 ……心地よくて、ずっと、ここにいたくなる。

 ここがどこかもわからないけれど。

 どれだけ、眠っているのか。

 長くも、短くも感じる。

 ただ……早く会いたいな、と思った。

 魔力を感じ取れるだけじゃ、やっぱりちょっと寂しいから……。



 ぱちくり、目を覚ますといつもの部屋だった。

 なんの異常もない、なんの変哲もない、二人のおうち。

 起き上がろうとすると、少し身体が軋んだ。まるで、長い間眠っていて身体を動かしていないみたいに。けれど、思い起こせば昨夜は初めての愛交をしたのだ。初めての、夜だった。ちょっと使わない筋肉を使ったり、日頃しない体勢をしたりしたせいで、きっとガタが来ているのだ。と、思うと途端に恥ずかしくなった。

 たった一夜で自分自身が変わるわけがない。それでも、新鮮な、新しい朝を迎えたような清々しい気分で――はた、とおなかがうごめいた。

 気のせいだ。動いた、と思うのは錯覚だ。

 けれど、そこには確かに自分のものじゃない魔力がある。

 白籠の碧の瞳が点になって、自らのお腹を凝視した。

「うそ……」

 碧玉は、暗く、昏く、絶望の澱に淀む。

 触れた薄い腹は、いっそ骨が浮き出ていて膨らんですらいない。

 それでも、確かに、命があった。

 薄っすら、とベールのようにかかっている白い糸の残滓が、繭に籠って微睡んでいた、という事実を思い知らせてくれる。

 奇跡のおとぎ話を、知っている。

 Noneでも子どもが生める可能性がある、という愛の話をいとから聞いたのだ。

 愛の魔法で、無生式者が子を宿す。

 繭に籠り、蛹となりて、やがて羽化し――一時の蝶へと変わる。

 その身に、卵を宿して。

 原因は不明。

 原理は不明。

 魔法に、名はない。

 元々、魔人が子を生む原理さえ不明なのに、生式のない者が子を宿す仕組みなどもってのほかである。

 理由はない。

 理屈はない。

 そこに、本人の意思など介在しない。

 否、それが白籠の願いだったところで――無意識の願いが知らぬ間に叶えられた奇跡、とは不幸以外の何ものでもないだろう。

 震える手で、吐きそうな、今にも悲鳴を上げそうな口許を覆った。

 宿した光が――あまりにも、重い。

 命を、否定したくはない。

 この小さな命に、愛しささえ感じる。

 それなのに、心底恐ろしい。

 矛盾。

 そんな希望も絶望も孕んだ白籠とは裏腹に、ずっと傍で寄り添ってくれていただろう揺唯が目覚めた途端抱きついてくるし、可鳴亜や謠惟もやってきて彼人を諫めながらも羽化を喜び、早速診察してくれた医師にあれこれと説明され、と騒がしくなった。

 ……正直、医師から告げられた結果は解りきったことで、大した動揺もない。

 ただ、静かに凪いだ心の中で、かすかな漣のように不安が共鳴し合って、連なり広がっていくばかりだった。

 三人がそれぞれ気を遣って白籠の世話を焼いて、見守ってくれて、ずっと傍にいてくれるのは深い愛情を感じてうれしいのだけれど……素直な感情を吐露するならば。

 ――ひとりに、してほしい。

 空想と夢に耽るばかりの白籠だけれど、揺唯と出逢ってからはむしろ独りは以前よりずっと寂しく感じるようになった。

 それでも、一人の時間が必要で。

 不快、だなんて皆のことを思いたくなくて。

 こんな酷いことを思う自分が、心底嫌だった。

「……っすみません、あの……しばらく一人にしてもらっても、いいですか? ちょっと、考え事、したくて……」

 一週間声を出していないからか、或いは緊張からかどもりながら一生懸命願いを口にした。

 白籠の不安に揺れる瞳を見て、三人は顔を見合わせた。代表するように可鳴亜が、

「白籠の安全のために、近場で待機してるから。安心して、ね?」

 と、優しい笑みを浮かべて髪を梳いてくれた。

 他の二人を追い出すようにして、可鳴亜はさっさと部屋から出ていった。

 ――深呼吸/溜め息ふぅ

 誰もいなくなった部屋で、どこか安堵している自分がいて、白籠は嫌気が差す。

 独りにされると不安で、寂しくて、揺唯に傍にいてほしいのに……。

 現状を受け止めて、これからのことを考えるには、皆がいちゃ駄目だった。

 ……愛の魔法で、奇跡によって自分に宿った子。

 揺唯との愛し子。

 しかし、獏の幻想存在が母親で、普通の人間として生まれることができるのか。

 戸籍もなければ、結婚の証明もない二人の子が幸せに育っていけるのか。

 揺唯にとって子どもは負担ではないのか。

 それでなくても、貧しい暮らしをしているのに養育資金はあるのか。

 そもそも、育てられるのか。

 ……裏組織や夜店で汚れた仕事をしていた自分に、親になる資格はあるのか。

 ぐるぐるぐるぐる。

 考えた。

 子どもが生めないことを哀しく思っていた気持ちと、知らぬ間に子どもが授けられていることは別の問題なのだ。

 子が生まれなくても連れ合う覚悟と、子を生む覚悟が別であるように。

 どれだけ、時間が経っただろうか。

 皆が心配して戻ってくるまでに、考えをまとめなくちゃ。

 思えば思うほど、どつぼにはまる。

 結局、答えをくれたのは時間、だったのかもしれない。

 ――真っ赤な夕日に照らされて、ふ、と白籠は思い至ったのだ。


『窓から、射した夕日を見て……思い出したんです。恋人になったあの日を。ずっと、変わらないことでした。恋人になることも、逑になることも、親になることも。結局、わたしの覚悟、だったんです。もしも、この子がどんなふうに生まれても、もしゆーちゃんが自由を求めて出ていったとしても、境界地が戦火に見舞われても、自分一人でもこの子を幸せにする、それくらいの覚悟が。そんな覚悟をした、なんて知ったらきっと怒られるけれど、そうしなければわたしはこの現実と向き合えないから。揺唯が信じられないわけじゃなくて、わたし自身をずっと信じきれないから。たとえ、普通とはかけ離れた生活になったとしても、貧しくても、生まれてきた子を愛し、絶対に幸せにします。どんなことが起きても。/白籠の母子手帳より一部抜粋』



       〆



 白籠はすっかり母親の顔になった、と可鳴亜は云っていた。

 目覚めたときは揺唯が何を云っても耳から素通りしていくみたいに反応が鈍くて、体調がよくないのかもしれない……と不安になったけれど、すっかり元気というかやる気に満ち溢れてきたみたいで、安堵した。

 だけど、なんだか子どもに白籠を取られちゃったみたいでちょっと寂しい。

 白籠はその不安定さから人にあたる、ということはなかった。むしろ、自分で何もかも背負い込んで、体調が悪くても、情緒不安定でも必死に隠そうとするものだから、揺唯もそれを教えてもらおうと躍起になった。喧嘩にはならなったけど、結局揺唯のほうが泣き落としする羽目にはなったくらいだ。

 お腹を締めつけないように、といつもの和装じゃなくて可鳴亜が用意してくれたワンピースみたいなゆったりした服を着始めた白籠を見るのは、新鮮だった。相変わらず三角巾は外さなかったけれど、横になることも多くなったので髪を下ろしたままにすることも。

 ものすごく不安定な時期には、物もろくに食べられなくて、何度も吐いて、結局点滴や注射でどうにかしたことすらあった。それでなくてもふらつきやすくて、一人で歩かせられやしない。食べられたとしても握り飯か氷っていう時期も結構続いて、それでも揺唯が作った不格好な握りを白籠は「おいしい……」ってすごく喜んでくれた。気持ちがうれしいから、なんとか口に物を入れられる、そんな状態だった。

 ある程度安定して動けるようになると、今度は家事や仕事に精を出そうとする白籠を止めるほうが大変になった。でも、ちょっとは動いたほうがいい、って医者も云うから心配しながら見守ることにしたのだ。

 揺唯はというと、今から生まれてくる子どものためにも仕事をがんばった。なるべく白籠の傍にいたいけれど、それだけじゃ養えない。そんなことは、よくわかっていた。何せ、白籠に何もかもお世話されていた時代に嫌というほど味わったのだから。両立する、というのは難しい。そのあたりは、謠惟が調整してくれているようだった。

 白籠のお腹が膨らみ始めると、ようやく揺唯にも実感が湧いてきた。

 ――ここに、いる。おれと、ハクローの子ども。

 白籠の中に白籠以外の魔力がある、ということに常々違和を感じていたけれど、形になった途端――こんな薄っぺらだったお腹の中にもうひとつの命があるんだな、って思えるようになった。

 ぽこっ。

 気になって触らせてもらっているときに、蹴られた。

「⁉ ハクローに何すんだよ」

 って、怒ると白籠はくすくすと笑った。

「元気な証拠ですよ。早く、お父さんと遊びたがってるんです」

 そう云われると、なんだか気持ちがむずむずした。

(……おとーさん、って響きはなんだかおれじゃないみたいだ)

 ――でも、父親に、なるのだ。ハクローと、一緒に。

 とっくに白籠はいいお母さん、だったけれど。



 春の日だった。

 桜が祝福するみたいに笑っていて、あまりにも眩しい綺麗な夕方のことだ。

 ――おれたちの、子どもがこの世界に生まれてきたのは。



       〆



「梢暦壱〇弐壱年四月一日/揺唯の覚書。」


『――生活は、生きる活動だ。生活は日常で、普通であたりまえで。ハクローと形作ってきたものだ。日々の常であるように、普遍のとおりであるように、当然の毎日であるように。

 朝起きたら忙しくても必ず「おはよう」と云うこと、高い所に置いてるティッシュはおれが取ってくること、弁当の卵焼きはしょっぱい味なこと、いってきますとおかえりなさいのキスをすること、眠る前には夢魔を寄せつけないように額に口づけること、誕生日とちっぽけな賞与の日はケーキを買って帰ること、給料日にはビールと酎ハイで乾杯すること、眠るときは常夜灯を点けたまま同じ布団に入ること、残業や遅くなった日も「ただいま」を云って入ること。

 避けてたときとかにあいさつもキスの一つもしなくてハクローを不安にさせたのを後悔したから二人で決めたこと、そうしないと眠れなくてよく体調を崩すハクローのためにもそうされると安心して眠れるおれのためにも額にキスを送り合うこと、おれより背も低くて足許のおぼつかないハクローがティッシュを取ってくるのが危なっかしくて心に決めたこと、実は卵焼きの甘いのとしょっぱいのを作っておれの反応を見てしょっぱい卵焼きだけを作るようになったこと、ハクローの喜ぶ顔がなんでも見たくてでも無駄遣いしちゃダメと怒られたから二人で大事な日とボーナスがもらえた日だけケーキを買うと決めたこと、でも仕事をお互いがんばってるから給料日にはぱーっと飲むこと、ハクローが好きだと思っていた酎ハイは実のところただ安いからそれがいいと云ってただけらしいこと、でもいつもおれが同じのを買ってくるから好きになったこと、夜闇が怖いハクローのために電気代なんて関係なく常夜灯くらいは点すこと、夜遅くに何も云わずに入ってこられると泥棒と違いがわからないからと云ったハクローの、その半分が残業や深夜業で疲れて帰ってきたおれにどうしてもおかえりなさいを云いたいからだ、ということもこの日常の中で、ちょっとずつ知っていったこと。ハクローと生きてきたこと、生きること。

 そして、子どもが生まれるってことは、その風景に子どもが加わるってことだ。それは――きっと幸せなことなんだって思う。ハクローの、お腹を撫でるときの慈しむような笑みを見ていると、きっとすてきな家庭になるって思ったんだ。そして、少し前までハクローはおれのことを子どもを見るように慈しみながら大事に育ててくれたんだなって、気づいた。だから、家族なんて知らなくても、ハクローがしてくれたことを憶えてるから、きっと父親に、家族になれる気がした。

 ……こんな奇跡を、与えてくれたのはハクローだ。ハクローがおれのこと愛してくれたから、おれは人を愛せるようになったんだから。そして、二人で愛し合ったから、生まれてくるんだ。これは、なんて魔法なんだろう……。だから、どうか二人とも無事に生まれてきますように。おれは、ハクローを喪って生きてはいけないし、ハクローは子どもが生まれなくては絶望してしまう。

 だから、しろいゆめが、きますように。そう、こい、ねがう。

(桜の花びらが押し花にして貼りつけてある)』

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る