弐/ちぎって、むすんで。



 ――喰いちぎったって、瞼の裏に焼きついた悪夢は消し去ることができない。


 否、これは夢ではなく脳に刻み込まれた記憶だから、その苦しみを想起させる出来事が起これば、何度だって甦るのだ。

 獏の幻想存在である白籠はくろうは、夢を見ない。それが白夢しろゆめでも、悪夢でも。

 作業的に目を瞑って、ひとり。

 眠りに就く。

 白籠一人だと上手く寝つけなくて、何日も眠れない日が続くと、強制的に気絶してしまう。

 意識が途切れるように、暗闇に――堕ちた。

 暗転/暗闇。

 断絶された記憶は、物音によって浮上していく意識の中、瞼の裏に火事みたいな夕焼けがこびりつく。

 条件:暗闇、気絶、記憶の断絶、そして……揺唯ゆいが傍にいないこと。

 ……瞼を開いても、暗闇。

 ここがどこで、何をしていたかも判らない。

 ただ、迫りくる物音に恐怖した。

 勝手に身体が震える。

 目を開いていても、あの日前職のボスが家に押し入って、この安住の地を踏み荒らしていったときの記憶が映像として再生される。

 謠惟うたいが、可鳴亜かなりあが、あの人たちは別の裏街に移り住んだからもう二度と会うことなんてないって断言してくれたのに。

 違う。

 ボスが怖いわけじゃ、ない。

 あの人に、恐怖したことなどなかった。

 こういうことを云うと皆に怒られるし、揺唯には絶対云えないけれど、白籠はボスに感謝すらしていた。

 どこに行っても、何をしても役立たずな白籠に仕事を与え、長く雇い、悪夢を喰わせてくれたのも、またボスだったから。

 もちろん、そう仕向けて囲おうとしてくれたのは謠惟で提言してくれたのが可鳴亜だということも知っているし、その感謝も忘れたことはない。

 けれど、傲慢で冷酷だけれど、悪夢を見る普通の人間だった、ボス。

 あの人にはあの人なりの罪悪感も矜持もあって、ただ今のこの境界地にはその古くさい考え方が合わなかっただけなのだ。

 怖いのは、揺唯との大事な場所を壊されることだ。

 揺唯の居場所を守りきれないことだ。

 殴られるのも、蹴られるのも、煙草を押しつけられるのだって痛くも怖くもないけれど。

 揺唯の悪夢にだけは、なりたくなかった。

 近づく足音、ガチャリと鍵の外れる音、開かれた扉……。

 パタン。

 静かに開閉された扉。

 すぅ、とやっぱりゆっくりと開けられる障子の先には、揺唯が立っていた。

 あたりまえだ。

 恐ろしいことなど、何もない。

 布団の上で半身を起こし、ガタガタと震えていた白籠はその姿を見てようやく落ち着いた。

「……ごめん、ハクロー起こした?」

「ううん、そんなことないです。おかえりなさい、ゆーちゃん。遅くまで仕事、お疲れさまでした」

 夜間の配管工事で夕方から深夜まで仕事に出ていた揺唯は、夜の匂いを纏わせている。

「ただいま、ハクロー」

 ぎゅっ、と抱き締められた。

 あたたかい。

 恐怖で冷や汗をかいて冷えていた身体は、触れた場所からゆっくり温まっていく。

「ハクロー、冷たいな……」

「ご、ごめんなさい。冷たいの、嫌でしたよね……」

 離れようとする白籠を、むしろ揺唯がぎゅっと引き寄せて強く抱き締める。

 心臓の鼓動が重なるくらい、強く。

「ううん、ハクローならいいよ。ハクローのこと、温めんのはおれの仕事、でしょ?」

 ――おれだけの仕事だよね、と云わんばかりの視線に射抜かれて、白籠は無意識に頷く。

「ね。だから、いーんだよ。……けど、布団入ってたのにこんなに冷えてる。ちゃんと、あったかくしなきゃダメだよ」

 いつも白籠が揺唯にする心配みたいに、お小言を口にする。

 立場が逆転したみたいでなんだかおかしくて、くすくすと笑ってしまう。

「もー、何? おれ、変なこと云ってないのに。……でも、よかった。ハクロー、元気になった?」

「ふふっ……。ふぅ、すみません。大丈夫ですよ。ちょっと、ぼーっとしてしまっていただけなので」

「そ? 変な悪夢とか喰ったりしてない?」

「今日は御札を使ってないので、何も見ていませんよ」

「そっか、ならいいんだけど」

「ゆーちゃんってば、過保護。いつも、お小言を云って心配するのはわたしの仕事なのに」

 そう笑うと、揺唯はむーと頬を膨らませた。

「おれはハクローを笑わせるためじゃなくて心配してんのにー。いや、笑っててほしいけど」

 一行矛盾を発生させている揺唯に、白籠は微笑みかける。

 悪戯っ子のように。或いは、共犯者のように。

「――お夜食にしませんか?」

 内緒ですよ、のポーズを添えて。

 揺唯は元気いっぱい「うん!」と頷いた。

 手探りで吊り下げ電灯の紐を引っ張ろうとしている白籠のふらふらした手の代わりに、揺唯がカチン、と一つ引っ張って部屋を明るくしてくれた。

 眩しい。

「ありがとうございます、ゆーちゃん」

「どーいたしまして」

 ぱちぱち、とまばたきして目が慣れてからようやく立ち上がり、台所に向かった。

 吊戸棚の下の電気だけを灯して、早速鍋で湯を沸かし始める。

 その間に、麺を取り出して、葱を切っておく。

 揺唯は着替えたり、いつも帰ってからのルーティンが終わった後、白籠の後ろ姿を眺めているみたいだった。

 時々、その視線に気づく。

 きっと、白籠が気づいていないだけで、ずっと見つめられているのだと思う。

 揺唯はこういう日常的な風景が好きなのかもしれない。

 白籠も、何げない、あたたかい日常が好きだ。

 好きなものを共有できている時間は、うれしい。

 何も喋らなくても、そんなあたたかな空気が漂っている。

 ぐつぐつ、沸きだした鍋に麺を二束投入した。

 湯気が立ち昇る中、ゆっくりとかき混ぜている時間は長いようで短い。

 くるくる、菜箸によって回される麺たちは洗濯機の中を回る服たちのように楽しそうで、想像が膨らむ。尤も、そのせいでゆですぎて失敗するのが玉に瑕だが。

 いい感じの硬さになってきたところで火を止めて、付属の粉末が入っている銀の袋をがんばってちぎってかけ入れ、小さく切った葱をさらさらとまな板から落としていった。

 どこからでも切れる、という魔法の切れ目がある。旧時代からあるらしいけれど、魔法はいつでもどこにだって身近に存在しているものなのだなぁ、とつくづく感じる。尤も、その魔法を上手く使いこなせるかは微妙なところで、よくはさみで切り直している白籠だった。

 揺唯の分は大きなどんぶりに、白籠は小さなお茶碗に少しだけ。

 空腹を誘うスープの絶妙な香りに、特段お腹が空いていなかった白籠も食べたくなってきた。

 ――深夜の特製ラーメンの出来上がりだ。

 大して具が入っているわけでも、高級な麺でもないけれど、ちょっとした贅沢。

 揺唯がしっぽを振りそうなほど期待に溢れた顔で待っていた。

「どうぞ、深夜のラーメンです。熱いのでふーふーして食べてくださいね」

「めっちゃ、うまそー」

 深夜なので、小声でいただきますを云って二人で麺を啜り始める。

 揺唯は豪快にたくさん麺を啜り、白籠はちまちまと箸で引き上げていく。

 喋る間もなく食べ進める揺唯を見る限り、云うまでもなく美味しいのだろう。

 ――おいしい。確かに、これは罪の味だ。

 深夜にカロリーの高いものを食べようと、なんの罪にもならないのに。

 それは、そんな怠慢な生活を続けていればいつかは自分の身体に返ってくるかもしれないけれど、たまの楽しみくらいどうってことはない。

 罪でもなんでもない。

 むしろ、罪なら最初から犯している。

 ――未来ある揺唯を、自分の許に縛りつけていること。

 自分がずるいのだ、という自覚がある。

 揺唯が喜ぶことをして、気を引こうとしている。

 ずるいんだ。

 少しでも長く自分の傍にいてほしい、って。

 仕事だって判ってるのに、寂しいなんてわがままを抱いてる。

 とろり、とした薄茶色のスープが腹を満たす。

 胸の内に溜まった泥濘よりも、よほどさらさらとしていて……やさしい。

 もしも、罰があるとすれば――それはいつか揺唯と離れるときに苛まれる胸を切り裂くような寂寥感、そのものなのだろう。

 春の終わり、初夏の深い夜。

 二人は、罪の味を口にした、共犯者だった。



 リリン。

 硝子窓が開け放たれ、網戸越しに風が吹いた。

 風鈴は涼やかな風のように、清涼感のある音を響かせる。

 金魚の泳ぐびいどろの風鈴は、揺唯が修理屋さんの〝宝の山〟で拾って磨き上げたものだった。

 元々は捨てられていたごみとはいえ、それを修理・修繕して商売しているのだから、タダで持って帰らせてもらえているのは親方の厚意に違いない。今度、お中元を送ろう、と白籠は思っている。

 あれから、三ヶ月。

 まだ涼やかな初夏だと思っていたのもつかの間、雨ばかりの梅雨を越え、すっかり暑さで参る日々が訪れた。

 三ヶ月間、揺唯は残業に夜間業務にと忙しく過ごしていた。

 そんなにも長い間、すれちがい生活が続いている。

 白籠は、ちぎる、ちぎる。

 レタスの葉っぱを無心でちぎっていた。

 ざるには既にかなりの量盛られているが、考えなしにすべてちぎるらしい。

 ちぎって、ちぎる。

 サラダにする予定だ。上に豆腐をのせようと考えていたが、果たしてこの大量のレタスの上にのるのか。

 ちぎる、ちぎった。

 白籠は自分がどれだけレタスをちぎっているか、なんてちっとも見えていなかった。

 はた、と気がつけばこんもりレタス。

「……?」

 明日の分まであったはずのレタスは、いずこに……?

 白籠の疑問に答えてくれるのは、もちろん目の前のちぎった山だ。

 ちぎればちぎるほど積もって山になる。

 なるほど、新しい真理だ。

 山はちぎってもできるらしい。

 そして、ちぎれてバラバラになったものは、二度と元には戻らない。

 これはジグソーパズルのピースではない。ちぎった同士をあてはめたところで、くっつくわけではないのだ。

 できた風景が、ちぎった山なのだから。

 山をどうすべきか?

 食べるべきである。

 それが、高い山であっても、一度ちぎったのならもう食べきるしかない。揺唯はきっと盛ってあったら喜ぶ。

「……何をやってるんでしょう、わたし」

 いつものこととはいえ、最近ぽかが多い。

 反省に反省を重ねつつも、自責と自嘲を重ねたって料理が進むわけではない。

 集中して作業しよう、と心を入れ替えた。

 今日、揺唯は早出で夕方に帰ってくる、ロング勤務だ。

 長時間の仕事となれば、疲れて帰ってくるだろう。それも、この暑さだ。いかに揺唯が寒がりとはいえ、暑いのだって得意なわけではない。そんな彼人に、最大限美味しいものを食べさせてあげたい。

 そのためには、失敗するわけにはいかないのだ。

 ……山盛りのレタスは、とりあえず水に晒しておいた。

 揺唯はここのところずっと、仕事で忙しそうにしている。以前のように、意図的に避けられているという感じはない。悪夢を見ている節もなく、むしろ白夢を見て毎夜楽しそうだ。白籠と顔を合わせづらそうにしている、ということもない。多忙で生活リズムの合わない時間帯の勤務が増えているから、結果的に二人でいる時間が減っている、だけだ。

 ただ、何か隠し事はしているのかな、とも思う。どことなくそわそわしていて、口がもごもごしていて、揺唯の隠し事をしているときの癖が完全に出ている。でも、うれしそうなのできっと悪いことではないのだろう。

 揺唯にとってうれしいことが、必ずしも白籠にとってうれしいこととは限らないけれど。

 むしろ、哀しい告白をされる可能性すらある。

 後輩もできて、スキルアップして、いろんな仕事を任されるようになって、職場の人たちにもお客さんにも恵まれて、楽しく仕事ができているみたいだ。単純に、仕事にやりがいを感じてがんばっているのなら、とてもいいことだろう。

 たとえ、二人で一緒にごはんを食べられなくても、今日どんな仕事をしたとかこんな人と会ったとか話が聞けなくても、一緒に風呂に入ったり眠ったりすることができなくても、生活リズムが完璧にずれて丸一日会えない日があったとしても。

 揺唯が楽しくて、幸せなら、それでいい。

 いい、のに。

 ――……さびしい。

 なんて、途轍もないわがまま。

 すぐ、めそめそしてしまう。

 まともな職に就けなくて、ただ人の厚意に甘えて、与えられた内職という仕事をこなすだけ。目標も目的もなく、同じ作業を繰り返すだけで成長もない。大した稼ぎもない。家事がものすごくできるわけでもない。役立たずから変わらない。

 ネガティブに偏った白籠は、自己卑下が止まらない。

 揺唯は目標を持ってやりたい仕事を一生懸命やっている。

 眩しいくらい、努力家ですてきな人だ。

 自分にはもったいない。

 そんな揺唯の邪魔にはなりたくなかった。

 だから、白籠は揺唯がいない、独り寝でうまく眠れないのだ、とは相談できなかった。

 優しい揺唯はじゃあ仕事を緩める、なんて気遣ってくれるに決まっているから。

 迷惑をかけてしまう。

 どうにか気絶するように眠っても、夜中に帰ってきた揺唯に怯えてしまう自分が嫌だった。怖くなんてちっともないのに。

 睡眠薬でごまかしたり、帰るまでずっと起きていたり、そんなのいつまでも続けられない。

 それに、たとえ眠っていても必ず揺唯が帰ってきたときに「おかえりなさい」を云いたい。

 それが、白籠の願いだ。

 ……気づけば、味噌汁のにおいが漂っていた。

 考え事をしていても、習慣的動作で作っていたようだ。ある意味、集中して料理できていたともいえる。

 よかった……、とほっと一息吐く。

 レタスサラダに、もずくとお麩の味噌汁、そして……。

 黄色くてらてら光る麺に、きゅうり、錦糸卵、しいたけ、醤油や酢などを混ぜて作った麺つゆ。

 ――冷やし中華、始めました!

 幟を出そうかな、なんて冗談で考えた。

 実際、コンビニエンスストアなんて境界地にはないし、ずっと田舎暮らしなので行ったことはない。ので、そんな幟は都市伝説じみている。

 都会の人は、冷やし中華が始まると「ああ、夏が来たな」って思うのかな、なんてくだらないことを想像してくすっと笑う。

 カンカンカン!と、元気な足音が上ってくる。

 それが、誰の足音かなんて考えるまでもない。

 勢いよく開け放たれたドアと「ただいま!」の声。

 なりふり構わず、割烹着のまま抱きついた。

 ――……ゆーちゃんの、においがする……。あったかい。心臓がどくどくいってる。

 その存在を自分に刻みつけるみたいに、しばらく離れなかった。

 冷やし中華の始まり、夏の始まり。

 風鈴の音は、夏の音。

 この心臓の音は、恋の音。

 ――ちぎりすぎたレタスは、何かがちぎれて、破れて、壊れて、終わる合図?



 リリン。

 ちぎれた和紙、失敗した御札。

 内職の製品を、一つ無駄にした。



 カラン。

 ちぎれた鼻緒、こけた白籠。

 赤い鼻緒がぷつん、とちぎれて履けなくなってしまった。

 大事な草履、直してもらわなくっちゃ。



 ビリッ。

 ちぎれたメモ用紙、途中の買い物リスト。

 夕ごはんは、なぜかコロッケじゃなくて肉じゃがになった。



 ブォーン。

 古めかしい扇風機に揺唯の「あー」という声がちぎれていった。

 途切れ途切れの声は、どこへ行ってしまったんだろう。



 プツン。

 ラジオの音がちぎれた。

 今朝は、天気予報なんて云ってたっけ?



 プツリ。

 意識が、ちぎれた。

 いつだったっけ? どこだったっけ?

 何をしていたんだろう……。

 白籠の夏は、何度も記録しすぎたビデオテープみたいに、びりびりだ。

 ちぎれすぎて、何日も何日も経ったような気がする。

 けれど、冷やし中華を始めてからそんなに日にちは過ぎていないみたい。

 ちぎれたものが、もう二度と元には戻らないのなら……それはなくなってしまったものなんだ。

 ちって、きれて、ちぎれてしまった。

 千々に切れた日々の名残が、夏の暑さに溶けていく。

 カロン。

 氷がグラスの中で揺れた。

 目眩の中で瞼を閉じれば、夢も見ずにまた気を失う。

 昼も、夜も、境はない。

 ちぎれた記憶を繋ぎ合わせるための手記も、あっちこっち。

 これっていつのこと? あれ、昨日?

 今日って何日?

 明日っていつ?

 ――ゆーちゃんは、まだここにいる?

 白籠は辺りを見回した。

 ぐるり、と首を巡らしていつもの部屋を確認する。

 まだ、かすかに揺唯の魔力の残り香が残留している。

 まだ、ここにいる。

 きっと、今日も帰ってくる。

 だから、そうだ――ごはんを用意しなくっちゃ。

 パリンッ。

 お皿が一枚割れた、落としてしまった。

 拾っていたら、破片で血が滲んだ。

 切れた。

 ぷつり、と血が。

 血、切れた、ちぎれた。

 ちぎれて。

 そう、皮膚が。

 血が。

 赤い、夕焼け――踏み荒らされた部屋、殴られる、蹴られる、嘲笑われる。

 すぅ……。

 障子の開く音。

「いやっ、やめて、お願い……っ。お願い、します。やめて、やめてください……。なんでも、しますから……! 何も、もう、奪わないで……。たすけ、て――ゆーちゃん」

「ハクロー⁉ え、ぁ、どうしたんだよ、ハクロー? おれ、ここにいるよ。ねぇ、ハクロー‼」

 揺さぶられる。

 こわい。

 くらい。

 なにも、みえない。

 パチン。

 パチッパチパチ。

 接触の悪い電灯が、断続的な音を立てて点いた。

「……。ぁ、ゆーちゃん。揺唯さん、だいじょうぶ、ですか? どこも、けがしてない? ひどいこと、されてませんか……?」

「おれはだいじょーぶ。ハクロー、どうしたの? 悪い夢でも見させられた? それとも、ほんとに誰か部屋に入ってきたりした?」

「ぇ、あ……? わたし……、あれ? どうして、いや、ちがう。ごめん、なさい。わたし、へんな、こと……。すみまっ、ごめ……ぅ」

 かひゅっ、ひゅう。

 呼吸が乱れる。

 吸っても、吸っても吸っても、酸素が肺に辿り着かない。

「ハクロー! だいじょうぶ、だいじょーぶだよ。変じゃない。謝ることなんかない。ちょっと、悪いことを思い出しちゃっただけなんだよな? だいじょーぶ」

 ぽんぽん、と背中を撫でられる。

 だいじょうぶ、と揺唯は繰り返した。

 心臓の音、呼吸音、あたたかな魔力。

 やさしい揺唯のぬくもりに包まれて、すぅと意識が落ちていく。

 今度は、穏やかな眠りの中だ。

「……ハクロー? 寝ちゃった? ……おやすみ、ハクロー」

 ――くらいのがこわいんだよな?

 薄れゆく意識の中で、二回、カチカチと音がした。

 かすかな灯りは常夜灯だ。

 電気がもったいない、といつもすべて消してしまうのだけれど。

 その日から、「消しちゃダメ」と揺唯に反対されて点けたままにすることになった。



       ∴



 ミーンミンミンミン。

 蝉が鳴いている。

 どうしようもなく、夏なのだ。

 冬の寒さに比べればどうってことないが、外で身体を動かしていると汗がどばどばと流れて仕方ない。折角の白籠が縫ってくれた手ぬぐいだってびしゃびしゃになる。一日に二枚は必要だった。

 どこかのメーカー名がでかでかとプリントされたタオルを頭に巻いているから多少の日射しも防げるけれど、真っ黒な三角巾を被っている白籠はむしろ熱くなるんじゃないかな、と思う。まあ、そのための日傘なのだが。

 短く跳ねたポニーテールの下に覗く項に浮かぶ汗、豪快に汗をぐっと拭き、ほぼ真上を向いてごくごくと水分を呷る。

 そんなワイルドな姿が、実は会社の一部社員に人気なのだとかいうことは、揺唯本人はちっとも聞こえていない。仮に聞こえていたとしても、白籠以外にはまったく興味がなかった。

 昔から、そうだ。

 興味があることには必死に取り組むし、憶えるし、むしろ積極的に関わろうとする。けれど、それ以外のものは憶える気もなければ、そもそも視界に映りさえしない。糸目先輩に「あの子がむちゃくちゃ話したそーな顔で見とったよ」と云われても気づいていないし、そもそも誰?となるのだ。仕事上で直接関わる先輩後輩だとか、お客さんなら憶えているけれどその他大勢はピンとこない。たまに、「お茶に行きませんか?」と誘ってくる猛者もいないことはないが、一応誰?と訊きはしないものの「行かない」としか答えない。

 なぜなら! おうちで白籠が待っているから。

 揺唯の計画のためにどうしてもお金が必要で、ちょっとでも高いお給金がもらえる仕事を割り振ってもらっている。謠惟はそういうところ身内贔屓だ。

 その代わり、朝早かったり夜遅かったり、大変な現場だったり、残業が多くなったりする。生活リズムが不規則になるし、仕事自体が重いのでやっぱり疲れるには疲れる。

 けれど、心地いい疲労感だ。

 誰かの役に立っているという実感、お給金が増えているという目に見える目標値、自分の能力が最大限活かせるというやりがい、何よりもそれが白籠と揺唯の指輪を買うという最大目標に繋がるのだからむしろやる気は増すばかりだ。

 その代わり、白籠とはすれちがう生活が続いている。

 正直、寂しい。

 もっと、いちゃいちゃしたい。

 けれど、これは自分だけでなく二人の関係をステップアップさせるためにも必要なことなのだ。

 がんばるしかない。

 カンカンカン!

 元気よく駆け上がった階段の先には、我が家がある。

「ただいま!」

 久しぶりに夕方に帰れてテンション高く扉を開ければ、白籠に抱きつかれた。

 突然のことに、胸が高鳴った。

 白籠から求めてくれることなんてめったにないから、ドキドキした。

 揺唯と次の関係に進むことを望んでくれているんじゃないか、同じ気持ちなんじゃないかと感じて、うれしくなる。

「……おかえりなさい、ゆーちゃん」

 囁かれるようにあいさつが返ってくるまで、しばらくの間ずっと玄関先で抱き締め合ったままだった。

 この一瞬が永遠になればいい、とさえ思った。

 つやつやとした黄色い麺にきゅうりと錦糸卵、甘辛いしいたけがのり、酸っぱい香りがする麺つゆが爽やかに仕立ててくれている。

 ――冷やし中華、始まった!

 夏が来たんだなぁ、という気分になる。

 なぜか深皿いっぱいのレタスサラダは、白籠が「ぼうっとしてしまって」と苦笑していた。

 たくさん食べれるのはうれしいので、別によかった。

 サラダっていくらでもむしゃむしゃできるし。

 夏になってから白籠はぼうっとすることが多くなったように感じる。やっぱり、暑いと食欲減退するし、疲れるし、体調が優れないのかもしれない。

 ……心配だ。

 白籠とゆっくり過ごせるようになるためにも、早く目標を達成しなければならない。

 決意を新たに、レタスをむしゃむしゃと食べ進める。

 胡麻のドレッシング、青じそ、ポン酢……と味を変えながら虫みたいに齧り続けた。



 リリン。

 風鈴の音は、ただの音で室温を変えてくれるわけでもないのに、涼しくしてくれている気がする。

 ふと、ケチャップトーストで汚れた口を拭いたティッシュを捨てようとして、ごみ箱にちぎれた和紙が溜まっているのを見つけた。

 物を大事にする白籠が、特に仕事では集中して書き損じ一つ出さないのに、失敗しているのは珍しいな、と思った。

 でも、仕事だって人間誰しもぽかをやらかすことはある。

 揺唯も最近後輩を教えるのにも忙しくて、自分自身が道具の片づけを忘れそうになる、という事件があったばかりだ。

 それでなくても、内職作業は魔力も気も使う。べりっと破れてしまっても仕方ないだろう。

 早朝勤務で白籠はまだ眠っているし、言及すべきでもないと思って足早に出勤した。

「……いってきます、ハクロー」

 眠るハクローの額にそっとキスを残して。



 カラン。

 昼間、家に帰ってくると白籠の草履に足をぶつけてしまった。白籠は買い物か何かに出かけているらしく、部屋の中は薄暗い。

 慌てて並べ直そうとすると、赤い鼻緒がちぎれていた。

 早朝から昼までの勤務で、ちょうどこれから可鳴亜と会う予定だった。

 これがここにあるということは、ブーツで出かけているのだろう。ちょいと拝借して、ついでに可鳴亜経由でこれを直せる人を紹介してもらったら手っ取り早い。

 そう思って、ついでに草履を持ちすぐ家を出た。

「……サプライズ、ねぇ」

 いつものレストランに集合して、すぐ本題のお願いをすると可鳴亜は渋い顔をした。

 ちなみに、〝いつもの〟で通じてしまうから訊いたことがなかったけれど名前がなんなのか訊ねれば、「そんなのないよ。あったら云ってるし。いつもの~とか、自警団御用達のとか、コックんとこのとか皆テキトーに呼んでるよ」と答えられた。

 黒いドレススーツのままだから、仕事が忙しい中合間を縫ってこの時間を作ってくれたのだと思う。けれど、可鳴亜はお昼ごはんくらい好きに食べるよ、と笑っていた。

「はぁ、それでか。謠惟もなんか……企んでそうだったんだよね。どいつもこいつも……」

「カナカナ? ダメ?」

「あー、ううん。細かく金属とか加工できる技師なら知ってる。わりと近くの町工場にいるし、紹介するけど……」

 サプライズってたまに迷惑……、白籠が不安になってなきゃいいけど、ごにょごにょと呟いている可鳴亜はそれでも了承してくれた。

「おっけ。まあ、もうここまで来たらやりきるしかないもんね。いーよ、事前にユイユイが行くかもって連絡しとく。場所も地図描くしさ。ちょっと、住宅街の入り組んでる所にあるけど、ガレージが目立ってるから近くまで行ったらわかると思う。準備ができたら好きなときに行くといいよ」

 カロン。

 可鳴亜がグラスに入ったアイスティーをストローで回す。

 縁にレモンが挿され、飲む前に大量の蜂蜜を投入されたそれは、蜂蜜レモンティーとでも云うべきなのだろう。常々、白籠から可鳴亜の蜂蜜とレモン好きの話は聞いていたが、どろりとした蜂蜜をスプーンの表面張力以上に盛ったそれを全部入れたのを見た瞬間、さすがにこんなの飲めねぇと思った。

 水面の自分と対話するように少し悩んだ後、可鳴亜は一口ちゅー、と啜ってから言葉を発した。

「……あのさ、あたしはユイユイも白籠も二人とも同じくらい大事な友達でさ、どっちかに偏ることなく平等に接してきたつもり。バランスを取ろうとしちゃうのは、まあ職業病でもあるんだけどさ。お客さまそれぞれで贔屓しない、みたいな。二人に優劣をつけたことなんてない、それはわかってほしい」

「うん」

 いったいなんの話なのかは判らないが、云いたいことは解る。可鳴亜は先に白籠と友達だったけど、だからといって後から仲よくなった揺唯を蔑ろにすることはなかったから。

「ただ、今回はさ……謠惟がユイユイに加担しすぎてるから、あたしが白籠につかなきゃバランスが悪いっていうか。もし、今回の件で何かあったら、たぶんあたしは白籠の側につくと思う。でも、それはユイユイを見捨てるってことじゃないから……許してね?」

 あざとい上目遣いながら、真剣な言葉に頷いた。

「わかった。おれも、そのほうが有難いよ。ハクローについてくれる人がいると、安心する」

「くすっ……。ユイユイってば、大人になっちゃって。……うん、わかってるみたいで、よかった。あたしさー、自分の中でそれぞれの対人バランスっていうのがあって、他人から見ると八方美人だったりどっちつかずだったりするかもしれないけど、あたしの中ではちゃんとそれぞれに理由があるんだ。でも、お客さまとか云ってしまえば赤の他人だから、勘違いされても、指名されなくなってもまあいっかなで済むんだけど……。友達に勘違いされるのも、それが原因で傷つけるのも嫌なんだよね。だから、ユイユイの相談聞いててなんなんだけど、白籠についちゃうかもっていうことは云っておきたくて」

 あんなにたくさんの人と知り合いで好かれていても、可鳴亜は結局のところ寂しがりだと思う。身内のことが大事で、身内に嫌われたらきっとものすごく傷つくんだろうなってわかる。

「うん、だいじょーぶ。おれもカナカナの味方でもあるし。打倒謠惟同盟であることに変わりはないし」

 可鳴亜にとって姉さんの恋人(予定)であり、揺唯にとって越えるべき壁である謠惟は、共通の敵だった。ので、共闘することにしたのである。それが、打倒謠惟同盟だ。雑談する以外に、特段活動はしていない。

 可鳴亜は揺唯の返答にほっとしたみたいで、ずるっとアイスティーを飲み干した。

 よしっ、と気持ちを入れ替えると、

「コック長、たこ焼きちょーだい!」

 そう注文を叫んだ。

 ちなみに、可鳴亜は大盛りカルボナーラとチーズケーキを食べた後だし、揺唯もハンバーグ定食で二杯もご飯をおかわりした後だ。

 そも、たこ焼きなどメニューにあっただろうか。

「コック長が作れればなんでもありだから、この店」

 だ、そうだ。

 焼き立て熱々のたこ焼きを、二人であっついねと云いながらふぅふぅして食べた。

 結局、なんだかんだと云いつつも揺唯にも甘いのだ。

 ありきたりなロックミュージックが、自分はここにいる、と存在を訴えている。

 陳腐な歌詞よりも、どこにでもありそうな懐かしいメロディーラインがなんだかすてきだった。ありもしない郷愁と、見たこともないコック長の背中が哀愁を漂わせてるみたいだ。

「草履も知り合いに修繕するプロがいるからさ、郵送して頼んどく。大丈夫、ちょちょっとやったらすぐ直って、そんなかからないうちに返せると思うからさ」

 可鳴亜のウィンクにほっとした。

 よかった、白籠の大事にしている草履がこのまま履けなくなったら哀しい。

 少しだけたこ焼きで火傷してしまった口の中を、冷たい水で冷やす。

 経費で切っておくから大丈夫、と当然のように謠惟に押しつけようとしているところが、したたかでカナカナらしいと苦笑する、揺唯だった。



 ベリッ。

(……やっちゃった)

 筆圧も強ければ、押さえる力も強い揺唯が報告書を破ってしまうのはかれこれ二桁に上る。

 これを裏側からテープでひっつけて提出すると謠惟に下手くそと怒られるし、新しい用紙をもらいに行くと事務員に消耗品を大事にしてくださいと怒られる。八方塞がりだ。

「せんぱ~い、破れたぁ……」

 第三の選択肢として糸目先輩に縋りつくと、

「またかいな……。ワシは皆みたいにあんさんを甘やかさへんで? 貼るか新しい紙もろうてくるか、自分でやりぃ」

 と、にべもなく却下された。

「えー、先輩のけちぃ。いけずぅ」

「こら、下手くそなワシのまねすんな。まったく……、先輩らしくなったかと思えば器用に甘えよってからに。そういうとこ、使い分けうまいわぁ」

「先輩が何云ってんのかわかんなーい。なぁなぁってばー、たすけてくれよ先輩。今日、早く帰りたいから謠惟のお小言聞いてる場合じゃねんだもん」

 駄々をこね続ける揺唯に、結局先輩が折れた。

「……仕方あらへん。それ、くっつけといたら謠惟社長に渡しといたる。それでええか?」

「あんがと、せんぱい~! 今度、おれーする」

「ええわ、そんなん。先輩の厚意には素直に甘えときゃええんよ、ほんま」

 苦笑して手を振る先輩を後目に、早速揺唯はセロハンテープで修繕を試みる。器用な揺唯がやると表からではほとんど裂け目が判らないほどに綺麗にひっついた。

「社長はあーいうけど、結局報告書なんか読めりゃええねん」

 そう、先輩は笑いながら書類を持っていってくれた。

 ありがとうとお疲れさまでしたをいっぺんに叫んでから、揺唯は急いで帰路に就く。

 早く帰れる日には、できるだけ早く帰りたい。

 白籠とできるだけ長く一緒にいたいから。

 その日の晩ごはんは肉じゃがだった。明日はちゃんと肉じゃがコロッケにすると云っていたけれど、もしかすると今日本当はコロッケを作る予定だったのかもしれない。



 ブォーン。

「あ~~~~~~~~」

 古めかしい扇風機の前で声を出すと、途切れ途切れに震えて面白い。

 去年も初めての扇風機で遊んだものだが、夏が来るたびにブームが到来する。

 風呂上がりの火照った身体を冷ましながら、くるくるガタガタと回り続ける扇風機と戯れる。

 同じく風呂から上がったばかりの白籠はぼうっとしていた。

 また、空想に耽っているのだろうか。

 ぽたぽた、と落ちる水滴を拭うためにも揺唯は白籠をぽんぽんと自分の膝の上に呼んだ。

 いつもなら、白籠が揺唯の髪をドライヤーしてくれるのだけれど、今日は揺唯が白籠をお世話する番だ。ぼーっとしたまま、すり寄るように膝の上にちょこんと乗ってくれた白籠が可愛い。

 まずは、白籠が首にかけていたタオルを使って水分をぽんぽんと取っていく。

 細く柔らかな白籠の墨色の髪は、ずっと触っていたくなる心地よさだ。ちょっとばかり、バクの耳にも触れた。優しく、傷つけないように。

 すると、まるでもっと、とねだるように頭が寄せられたのだ。

 なんて。

 ――なんて、かわいい、ハクロー……!

 無意識で無防備な白籠とはこうも可愛い。

 いつも可愛いのだけれど。

 何度も、何度も甘えてくる白籠の黒い耳を撫で続けた。

 ことん。

 そのまま、すぅすぅと寝息を立てて眠りに誘われてしまった。

 どうしよう、さすがにドライヤーはうるさいだろうか。

 しばらく、胡坐をかいて抱き締めた姿勢のまま頭を撫で続け、限界までタオルで拭いて後は一緒に寝てしまおう、と決めたのだった。



 プツン。

 ラジオの音が途切れる瞬間、ほんの少しだけ「行かないで」と云いたくなるような一抹の寂しさを感じる。別にもっと聞いていたかったわけでもないのに、音がなくなったらなくなったで物足りない、みたいな。

 ラジオが、今日の天気は晴れだと云っていた。

 やっぱり、なんだかんだ天気はいいのが一番気持ちいい。

 それはつまり暑いってことだけど、梅雨みたいに毎日雨が降ってじめじめしているほうがもっと気がめいる。

 白籠は、雨も似合うけれど。

 なんとなく、白籠自身雨が嫌いじゃないんだと思う。

 濡れる白籠の美しさは、ずっと忘れられないひとつの芸術作品だ。

 けれど、揺唯が求めているのは動かない絵画ではない。

 生きて、動いて、笑って、あたたかさのある白籠だ。

 綺麗なものを綺麗なまま留めておきたいのではなく、思い出は思い出として今の白籠と毎日を共に生きていたいのだ。

 そこに、美醜は関係ない。

 雨の日には、苦しみも哀しみも絶望もあった。

 夢杙むくい――白籠を殺せという命令に従いたくないって、泣き叫んだあの日。

 そんな悪夢なんて、悪夢みたいな現実なら要らない、と。

 あの雨は、揺唯の哀しみそのものだった。

 けれど、雨上がりにただの揺唯と白籠として出逢ったあの瞬間の美しさ、光は何ものにも代えられない。

「今日、晴れだって。よかったな、ハクロー」

 昨日は雨であまり洗濯物が乾かなくて落ち込んでるみたいだったからそう声をかける。

「ぇ? ……もう、天気予報終わってしまいましたか?」

「ぷっ、ハクローってばぼうっとしすぎだって。自分でラジオ切ったじゃん」

 確かに、習慣的動作は無意識にやれてしまう分、やったかどうか忘れてしまうことも多い。揺唯も定期的に行く現場の掃除をしているときあまりにも流れ作業でできてしまうものだから、「あれ、全部掃除したっけ?」という気持ちになることもままあった。

「ご、ごめんなさい。ぼうっとしすぎですよね……」

「そんな気にすることでもないよ。聞き逃したって、どう見ても晴れだしさ」

 いろんなことを気にしすぎるきらいのある白籠に、軽い言葉をかける。

「……ふふっ、そうですね。いい、お天気」

 リリン、と風鈴が鳴った。

 少しだけ晴れやかになった白籠の表情に、ほっとした。

 やっぱり、白籠も泣くより笑顔が一番似合っているから。



 プツリ。

 ビデオテープの映像は、それきり途切れてしまった。

 今日はいつもの修理屋の仕事で、午前中は修理に廃品回収、宝探しと忙しかった。その中で、使い古された透録帯CRTを発見した。貼られていたシールは薄汚れていてほとんど判別できなかったが、親方曰く昔の映画だろう、ということだった。もしかしたら観られるかもしれない、と昼休憩中に再生機器へ差し込んだ。

 親方と二人、揺唯は白籠のお弁当で、親方はいつものかったいパンのサンドイッチ。

 ジージーザーザー、と異音を発しながらも、どうにかこうにか薄暗い映画が再生されていった。ただの旅行記録かと思われた映像は、やがて廃村へと突入し、突然のホラー、スプラッタ。

 ……食事中に果たして観るべきものだったか、と悩むところだがこういう系統のホラーであれば日常的に存在する場所で育った二人だ。なんの感慨も、感情も湧かなかった。これが、幽霊だとかのホラーだったら、また揺唯は違った反応を示したかもしれないが。

 なんともつまらない映像をかなり最後まで観賞したものの、ラストシーンのネタばらし直前でちょきんと途切れた。

 大して面白くもなかったくせに、この幕引きは嘘だろ⁉と思った。

 ……だって、気になる。

 揺唯と親方はお互いの目を見合わせて、同じ感情を共有した。

 ちょっとだけ、テレビや再生機器を叩いてみたものの、うんともすんともいわない。

 それはそうだ。

 だって、透録帯のテープ部分が切れていた。

「この切れ方は駄目だな。くっつけたところで、もう見たいシーンは見れん」

 そう修理の天才が結論づけたので、一生ラストは判明しないままだ。もやもやした感情を持て余しつつも、まあどうせ明日には忘れてる、と切り替えた。

 何せ、内容はほんとうにつまらなかったのだから。

 もう二度と再生されない映画を、元のごみ集積場へ戻していった。

 ちぎれてしまうともうどうしようもないものもあるのだ、と少し虚しくなった。

 ――でも、いいや。

 失ったものがあったとしても、新たなものを積み重ねることができる。

 そのことを、あの曖昧な記憶の中で白籠に拾われて同居した頃の日々が証明してくれているのだから。



 パリンッ。

 清掃中、後輩が割ってしまったカップの件で、お客さまに頭を下げた。

 自分の監督不行き届きだ、と揺唯は落ち込んだが、「現場責任者はワシやから、責任取るのも感じるのもワシの仕事や」と糸目先輩は誇らしげに胸を叩いた。

 幸い、大した値段がするものでも、お客さまにとって思い入れのあるものでもなかったらしく、本人はまったく怒っていなかった。むしろ、賠償金だとか社長直々の謝罪にたじたじになっていたくらいだ。それはまあそうだろう、あの威圧感を持った社長が平身低頭謝罪しに来たらむちゃくそ怖い。先日観た、ホラーよりも、よっぽど。

 事態はまるく収まったものの、揺唯の心は落ち着かなかった。

 もっと自分が気をつけてやれたんじゃないか、落ちる前に手が伸ばせたんじゃないか、指導の仕方が他にもあったんじゃないか……。

「おい、つき合え」

 謠惟に頭を掴まれて、クレイドル本社の喫煙場と化している屋上まで連行された。一部フェンスが崩れている、安全管理もなされていない屋上で、大の大人が二人、煙を吹かす。

 ふぅ。

「……どんなベテランだろうと、ミスをするときはある。新人ならなおさらな。なるべく零にするための努力を怠るべきじゃあないが、起こるときには起こるもんだ。てめぇだけが責任を重く感じることでもない。社長や上司って奴は部下のやったことの責任を負うために存在してんだ、こういうときは頼っときゃいい。んで、いつかお前が責任者になったとき、同じミスが起こらないように指導してやりゃいいし、何かあったときの対処を今のうちから先輩の後ろ姿見て学んどきゃいい。そんだけの話だ」

 慰められているのだ、と思う。

 正直、揺唯自身は優秀で大きなミスをしてこなかった。仕事を覚えるのも早かったし、もし何かを落としそうになっても反射でキャッチできていた。コミュニケーションや書類仕事の雑さだけが難点だったくらいで。だから、どういうことが危険で、どこをどう気をつければいいか、なんて配慮はあまりなかった。注意も足りていなかったと思う。

 何より、起きてしまったことに対してどう対処すればいいのか、そして感情の持っていき場も判らなかった。

 失敗を知らなかった子どもが初めて挫折したような、そんな項垂れ方だった。

 日没の太陽が赤々と世界を照らし、燃やしている。

 二人の影は太陽に焦がされたみたいだ。

「……あー、つまりだな。ぱぁっと呑んで忘れろ!」

 謠惟も、大概には不器用だった。

 ガシガシ、と髪をぐしゃぐしゃに撫でられる。

 揺唯は、ようやくぷっと吹き出した。

「ウタさんって、慣れてないことが下手くそ」

「あーそうだよ。皆、慣れないことは下手くそなもんだ。もう悩むなよ、ガキ」

 カチン、と来た。

 でも、そんな不器用な優しさがうれしかった。

 その日は、後輩と糸目先輩と謠惟と来れる社員たちで飲み会となった。

 会社の電話で晩ごはんが要らなくなったことと、飲み会で遅くなることを白籠に連絡した。彼人は、自分のことは気にせずぱぁっと楽しんできてほしい、と云っていた。

 いつものレストランが夜は大衆酒場のようになっていて、皆どんちゃん騒ぎだった。寡黙なコック長でさえ、どことなく楽しげだ。

 しばらくめそめそしていた後輩も大笑いしているし、糸目先輩はむしろ酔ってクールになっているし、謠惟はばかすか飲んでも酔わないしでとにかく楽しかった。

 大人は呑まなきゃやってられない日だってある、それを実感した大人の夜だった。

 ふわり、ふわり。

 ほろ酔い気分で浮足立って帰った。

 蒼白い月が、仄かに街を照らす。

 厚い雲が通りすぎるたびに、夜闇が濃くなるのだ。

 どことなく不確かな灯に、不安を覚えた。

 気分さえ醒めてしまえば、酔いなど霧散してしまう。

 街灯もほとんどない境界地で、表も裏もなく境を曖昧にさせていく闇。

 忍び来るのは、鬼か、ゴロツキか。

 はたまた、幽霊か。

 途端に、背筋が凍った。

 夏の蒸し暑い空気とは裏腹に、鳥肌が立つほど冷たい何かが通りすぎていく。

 すべては、気のせいだ。

 飲み会の途中で夏の涼に、と怪談を始めたのがいけなかったんだ。つまり、最初に始めた謠惟が悪い!

 と、恐怖を怒りに変えてふんずと早歩きし始める。

 もう、夜も更けてきたから白籠は起きていないだろう。それでも、白籠の姿を一目見て安心したい。できることなら、抱き締めて眠りたい。

 足音がやけに響く夜、音がいつの間にか二重になっていないか怯えながら揺唯はアパートの錆びた階段まで辿り着いた。近所迷惑にならないよう、白籠を起こさないよう、慎重に上る。

 チョーカーから伸ばした鍵でカチャリ、と開錠した。

 真っ暗闇。

 だけど、揺唯の瞳には物が浮かんで見える。

 実は、暗がりでよく物が見えない人の気持ちがわからなかった。

 ふと、台所に違和を感じて見回してみると、隅にビニール袋がぽつんと佇んでいた。近くで覗くと、中には割れた皿が入っている。……今日は、よく物が割れる日だな。

 手が滑ったのか、ぼうっとしていたのか、単なる経年劣化か。なんにせよ、白籠が怪我していないか心配だった。

 そぅ、っと障子を開けた。

 虚ろな瞳をした白籠が震えながら何かを呟いている。

 ――いや、とかやめてとか、なんでもとか。……なに?

 何が起きているのかわからない。

 揺唯は、呆然と立ち尽くす。

 悪夢を、思い出した。

 夜闇の中、布団の上で、白籠を押し倒す、夢。

 自分自身が悪夢なら、白籠の傍にいるべきじゃないのかって悩んだあの日々を。

「……たすけ、て――ゆーちゃん」

 違う。

 白籠は揺唯にたすけを求めている。揺唯を恐れているんじゃない。目に見えない何かに怯えているんだ。

 慌てて近づいて、抱き締めて、名前を呼んで、揺さぶった。

 ――おれを、見て。ハクロー。

 白籠の口が、こわい、くらい、と動く。

 なにもみえない、って。

 そうか、と思った。

 夜目の利く揺唯と違って白籠は暗くて何もわからないから、目の前に誰がいるのかもわからないのだ。

 蛍光灯の長い紐を引っ張った。

 ……正直、いつも揺唯はこれが顔面にあたる。大して痛くはないけれど、ちょっとうっとうしい。

 接触が悪くて、何度か明滅した後、ぱちっと点いた。

 白籠は揺唯の存在に気づいて、執拗に大丈夫か怪我してないか訊いてきた。

(だいじょーぶじゃないのは、ハクローだ)

 それでも、揺唯は優しく問いかけた。どうしたのか、と。

 けれど、反対に何があったか思い起こさせたのが悪かったのか、白籠は過呼吸に陥った。

 噴出するもののなくなったスプレー缶みたいに、不規則で掠れた息が漏れる。

 だいじょうぶ、だいじょーぶだよ、と優しく背中をさすりながら同じ言葉を繰り返した。

 この段になって、揺唯はようやく白籠が恐れる悪夢の正体に感づき始めた。

 あの日だ。

 ボスがこの家を荒らして、白籠を傷つけた日。

 白籠は気絶していたところ、急にボスたちが現れたって云っていた。

 暗闇から急に浮かんだあの人相の悪い顔は、ホラー以外の何ものでもない。

 ――……あの日も、ハクローはおれにたすけを求めてた?

 やっぱり、間に合っていなかったのかもしれない、と思う。

 白籠はこんなにも傷を負っている。

 もう、怪我は一つも残っていないけれど――白籠の身体を隈なく見渡すと、右手の人さし指の先に絆創膏が貼ってあった。

 ――ああ、きっと割れた皿で怪我したんだ。

 薄っすらと、血が滲んでいる。

 白籠の一部分、ほんのちょっとでも傷つくのが許せなかった。せめて、傷をつけるのなら自分がいい、という仄暗い願望は未だ揺唯の中に燻っている。

 どろり、と血が滾る。

 そんな狂気を思い出した揺唯とは裏腹に、白籠は穏やかな寝息を立て始めた。

 おやすみ、と額にキスを落としてから、

「よっと。暗いのが、怖いんだよな?」

 カチカチ、と紐を引っ張って常夜灯まで落とす。

 電気がもったいない、なんて白籠は云うけれど夜中点けてたって構うものか。白籠の心以上に大事なものなんてない。

 その日から、寝るときも常夜灯を点けっぱなしにすることにした。揺唯だって真っ暗なほうが寝やすいけれど、そんなこと関係ない。……もったいない、と呟く白籠に「消しちゃダメ!」と厳令しておいた。



       〆



「梢暦壱〇弐〇年 夏/揺唯の覚書。」


『ようやく、給料日だ! 三ヶ月分の給料が貯まった。明日はお休みだし、早速町工場に行ってみようと思う。ハクロー、喜んでくれるかな? ちょっと、キンチョーしてきた……。しばらく忙しくってずっといちゃいちゃできなかったけど、プロポーズして逑になって、ハクローともっと近づきたいな。ハクローがおれのものだって、おれにはハクローだけなんだって。誰にも渡したくない。何があっても、もうハクローはおれの逑なんだって、云い張って守れるように。自信を持って、ハクローを抱き締められるように。――ハクロー、大好きだから逑になろう。

(逑指輪の案がいくつも描かれている)』



       〆



 その日、朝からずっと揺唯はそわそわしていた。

 休日のルーティンとして洗濯物だとか家事を手伝いつつも、気もそぞろだ。

 折角、白籠が作ってくれた朝ごはんの味噌汁や卵焼きの味だってわからないくらい。正直、もったいない、と思う。

 でも、仕方がないのだ。

 何せ、今日は決戦の日――

 一世一代のプロポーズをする日、なのだ。

 揺唯の頭の中には、頼んで今日中に指輪ができないかもしれない、なんて想像はどこにもなかった。指輪を渡すシミュレーションばかりが、駆け巡っていたから。

 タンクトップの上からジャケット、半パン、という気合を入れているんだかどうだか、という恰好で揺唯は決戦の前哨戦へと赴こうとしていた。

「ハクロー、ちょっと……出かけてくるな。なるべく早く帰ってくるから、待っててほしい」

 前のめりにそう告げると、

「お出かけですか……? 暑いから気をつけてくださいね。いってらっしゃい」

 微笑むように穏やかな口調で見送りの言葉をかけてくれた。

 揺唯がドアを開けようとした瞬間、ドンッと後ろで音がした。

 振り向く。

 目の焦点が合わない白籠が、床に尻もちをついていた。

「ハクロー⁉」

 慌てて膝をついて、彼人の額に手をあてる。

 じんわりと汗をかいているものの、むしろ異様に体温は低い。

「ハクロー、どこか痛い? 熱……はなさそうだけど、体調悪い? 病院、お医者さん、ううんカナカナんトコ――」

 焦って捲し立てると、白籠がふるふると緩やかに首を振った。

「……だいじょうぶ、です。魔力が偏って、ふらついた、だけなので」

 ストレスや精神の不調、または能力や魔術などの過剰使用によって、体内の魔力が極端に増減したり偏ったりすることで貧血と似たような症状を引き起こすことがある。そのまま、魔力偏乏へんぼうと呼ばれるもので、目眩・立ち眩み・吐き気・頭痛・四肢のしびれ・意識の混濁などの症状があり、重度になると魔力点滴が必要になることもある、という。

 白籠は幻想存在であるからか、魔力量が多く、偏ってしまうと大きく体調を崩す。

 ので、そういった知識は揺唯自身いろいろと調べて仕入れていたのだ。

 軽度ならすぐに落ち着くかもしれない、が先ほどの白籠の瞳の動きからしてそうは思えなかった。目の前がほとんど見えていないレベルだ。

 可鳴亜経由で花籠のかかりつけ医を呼んでもらったほうがいい。

「……ちょっと、大家さんとこで電話借り――」

 きゅ、と弱々しい力で服の裾を掴まれた。そういう可愛らしいことは事態が逼迫してないときにしてほしい。

 遠慮なく。

「わたしは、大丈夫、なので。ゆーちゃん、大事な用事なんでしょう? 早く、行かないと」

 この期に及んで、白籠は自分を放っておけ、と云っているのだ!

 カチン、ときた。

「大事――って、そりゃ大事だけど。ハクローが大事だから、プロポーズしたくて指輪を――」

 ぽろっ、と零れた隠し事のせいでサプライズどころではなくなった。

 あ、と揺唯は自分の失態に気づき一時停止ボタンが押され、白籠も驚きに目を見開いている。

 パチパチ、と電気が気怠くゆっくりと点くように、二人はまばたきしながら目を合わせる。

 青碧の瞳は、周囲の水分を吸っていくが如くに潤んでいき、やがてぽたり、と粒の涙となって落ちた。

 幻想種である人魚の涙は、真珠になるらしい。が、それくらい白籠の大粒の涙は透きとおっていて綺麗だった。

 一時、見惚れそうになるも泣かれているのだ。

 予定外の大変ダサいプロポーズ未満はお気に召さなかったということだろうか。白籠は指輪なんて欲しくないのかもしれない。

「ハクロ……? やっぱ、結婚するのとか、連れ合うの、いや? ハクローはそういうの、好きじゃない?」

 不安になって、おろおろと訊ねる。

 止まらない涙を、ひたすら宥めるみたいに、主人の機嫌を取る犬みたいにぺろぺろとなめ続けた。

「ち、ちがっ……。うれしくて、泣いてるんです。そこまで揺唯に思われてるんだなって感じて、溢れちゃって、これ以上は入らないくらいなんです」

 感無量、という奴だろうか。つまり、これは喜びの涙なんだ!

 そう安堵した途端、

「じゃ、指輪買ってくる! ちゃんと、もっかいプロポーズかっこよくするからさ」

 揺唯はもうこれまでのいろいろすべてが頭から吹っ飛び、調子に乗って駆けだそうとする。

 それを、もう一度白籠が縫い留めた。

「い、いえ……プロポーズはうれしいんですけど、指輪は……いいんです。あの、もう気持ちだけで。ゆーちゃんがくれたこの三角巾だけで、プレゼントはじゅうぶんだから。これ以上大事なものが増えちゃうと、抱えきれなくなってしまう。わたし、不器用だしあれもこれもってできないし、アクセサリーとかきっと傷つけたりなくしちゃったりしそうだから、そしたらすごく哀しくなるんです。だから、逑の契をして小指に証を刻んでくれるだけで、それだけで……」

 白籠は黒い三角巾の、白百合の刺繍にそっと触れながら呟く。

 クレイドルに就職して初めての給料でプレゼントした三角巾を、白籠はずっと大事にしてくれている。それが、揺唯もうれしい。

「指輪、いらない? 結婚式は? ウタさんは、結婚ってそういうことするんだって云ってたけど、一番大事なのはハクローの気持ちだから……」

 揺唯自身、確かに給料三ヶ月分の指輪を買うためにがんばって仕事していたわけだが、実際指輪自体にはなんら拘りがない。白籠が要らないなら、正直要らない。

 じゃらじゃらとアクセサリーをつけるのは、元々性に合わないのだ。

 別に何も買わなくたって、この三ヶ月間仕事をがんばったことは、それはそれで揺唯自身の身になった。がんばってよかった、と思える。

「あの、盛大な結婚式とかも、いいんです。いつもみたいに、謠惟さんやカナさんと集まって食事するくらいで。……大事なことは、二人だけが知っていれば、いいと思いませんか?」

 そっと、顔を覗き込まれる。上目遣いで、どこか不安げに。けれど、色を含んだ、秘め事みたいに。

 なんだって二人のヒミツ、だ。

 大事なことこそ、二人の中だけで完結していたい。

 揺唯は顔を真っ赤にして、白籠をぎゅうぎゅうと抱き締めた。

「うん、そーだな。指輪とか結婚式とか、形なんて要らないもんな。ハクローがそうしたいなら、そうしよ。おれも、そーいうのよくわかんないし、ハクローにはその三角巾が似合ってるからそれだけでいーよ。アクセサリーなんて必要ない。いっつも、綺麗で可愛いんだから!」

 素直な気持ちで白籠を褒め称えれば、ものすごく照れていた。

 若干、どころかかなりぐだぐだとしたプロポーズながら大団円、を迎えたように思われたが――

「……あの、でも。わたし、ひとつ揺唯に云わなくちゃいけないことがあって。それを聞いてもらって、それでも連れ合いたいって思ってくれるなら……」

 そう、白籠が真剣な表情で告げた。

 一気に浮かれた空気が引き締まる。

 白籠の碧玉が、澄んだ水のように揺唯の心を凪ぎさせる。

「わたし……無生式、Noneなんです。再誕できない、永遠のBorderみたいなもので……。獏の幻想存在って普通じゃないから、人間みたいに生式を変えられないんです。だから、Yourであるゆーちゃんの対となるInnerにはなれなくて。……揺唯の、子ども、生んであげられないんです」

 別に、そんなことどうだっていい、と思った。

 子どもなんて欲しくない。

 揺唯が、今、欲しいと思ってるのは白籠だけだ。

 それ以外、要らない。

「……今はっ、まだゆーちゃんも子どもが欲しいなんて思わないかもしれません。けど、いつかそう思う日が来ない、とは断言できないでしょう? 人の気持ちは、変わっていくものだから。そんなときに、わたしと連れ合っていると後悔、するかもしれません。逑になる、ということは一生に一度の大事なことなんです。揺唯の好きって気持ちを否定する気はないけれど、そういうことも踏まえて、将来のためにもわざわざ逑という形を取らなくても……結局気持ちの問題なら恋人のままでもいいんじゃないでしょうか。お互い愛し合っていることに変わりないなら、リスクを負ってまで契をする必要はありません。云ったでしょう? 形は関係ないって」

 云った。

 そうだと思った。

 でも、リスクだなんて思わない。保身のために、関係を進めないなんて考えられない。

「……そりゃ、ハクローの子どもならたぶんきっと可愛いだろうって思うけど……。でも、子どもができてハクローが取られたらきっと嫉妬するし、なんつーかハクローとだったら欲しくなる可能性はあっても、それ以外の人間を好きになって子どもが欲しいなんて思うことないなら、一緒じゃね? おれはさ、ハクローのこと独占したくて、その証とか愛交する前にちゃんとした関係になったんだって示したくてプロポーズしようと思ったんだ。だから……逑になってほしい」

 揺唯が水晶みたいな瞳で射貫くと、白籠もじっと見つめ返した。

 ……長い、永遠みたいな数秒間だった。

 どく、どく、どく……自分の心臓の音ばかりがやけにうるさくて、こんなときに限って風鈴も蝉も空気を読んで静かにしている。

 項に汗がたらり、と流れた。

 白籠の桜色の唇が、ゆっくりと言葉を形作る。

「――はい、謹んでお受け致します」

 ふわり、と頭を深々下げられて、あたふたした。

 ぐわっ、と肩を持ち上げて対面する。

「逑になってくれるってこと?」

 驚いて目をぱちくりとさせた白籠は、微笑んで頷いた。

「ええ。揺唯が望む限り、あなたのものでいたいってことですよ」

 感情がぶわぁっ、と溢れ出してきた。

 こんなにも明るい気持ちで満たされたのは初めてかもしれない。

 昔は、いつも感情が爆発していた。それを、すべて暴力で発散した。どろどろとしたマグマみたいな感情を持て余していて、ちょっとしたことですぐ噴出していたのだ。それが穏やかになったのは白籠に出逢ってからだ。白籠といると、白籠の声を聴いていると、白籠の優しさに触れていると、あたたかい気持ちで満たされていく。

 感情の海が凪いだのは、白籠のお陰だった。

 この熱い感情の奔流が流れるのも、白籠が一緒だからだ。

 もー、とにかくうれしい!って、白籠をぎゅうぎゅうした。

 抱き上げて、本当はくるくる回りたかったけれど、狭い部屋じゃできなくて不格好なダンスにしかならなかった。

 とにかく、白籠とくっついて、動いていなきゃこの感情が収まらない。

 白籠も、ふふふってずっと楽しそうに笑ってる。

 元気そうで、さっきまでの青白い顔とは大違いだ。

 リリン。

 風鈴が二人を祝福するみたいに鳴り響いた。

 ある夏の日、凝ったシチュエーションもなくプロポーズは成功した。

 ちぎったのは、なんてことはない。

 ――そう、愛の約束だった。



       ∴



 ――いつか離れる日を思いながら、首を縦に振るわたしを、許さないでくださいね。

 白籠は瞼を閉じて、そっと心の中で呟いた。



 朝、早くから出かけようとする揺唯を、不安に駆られて「行かないで」と呼び止めそうになったあの日、そんな白籠の杞憂とは裏腹にプロポーズをされた。

 置いていかれるのとは反対方向のサプライズに、しかし根本的な問題を晒されてしまったのだ。

 それでも、白籠がいい、と云われたので今日も揺唯の隣にいる。揺唯は、おんぼろアパートに帰ってきてくれる。白籠は、ずっと待っている。

 夕ごはんの支度をしながら揺唯の帰りを待っていると、思ってもいない宅配物が届いた。

「……? なんでしょうか」

 白籠宛てで、送り主の名前はない。ダンボール自体は、どこにでもあるような茶色いものだ。

 半ば毒見係か爆弾処理班の面持ちで、揺唯が帰ってくる前に開けてしまおう、とガムテープをびりびり剥がしていった。

 ぱか、と開けてしまえばそこには――忘れ去っていた白籠の草履があった。

 先日、鼻緒がちぎれて代わりにブーツを履いて過ごすうちに、すっかり修理に出すことも玄関から消えていたことも忘れてしまっていたのだ。精神が不安定でそれどころではなかったし、プロポーズ事件があってからは心がふわふわしていて夢見心地だったから。

 赤い鼻緒が綺麗に直っているどころか、新しいものにつけ替えられ、ついでとばかりに草履全体がぴかぴかに磨かれている。

 ――……この魔力は、っている。

 ふわふわの綿に包まれた草履にそっと触れながら、この鼻緒を編んだのはいとさんだ、と思う。

 千織ちしきいと――白籠の会ったことのない友人。文通と通信のみによって繋がっている、相談所を営む所長さん。家業が織物作りで糸紡ぎから機織り、縫い物・編み物なんでもござれ、といった器用な人でもある。白籠が愛用している着物や帯の一部もいとが不用品をくれたものだし、揺唯がプレゼントしてくれた白百合の刺繍が入った黒い三角巾だっていとのお手製だ。

 その魔力や想いごと、しばらくぎゅっとした後、少し白い綿をもふもふした。

 白くて、やわらかくて、もふもふしてるものは……好きだ。

 遊んでいてはいけない、と綿も大事に袋にしまっていく。今度、何かに使えるかもしれない。

 底に、封筒があった。夏らしく水に金魚の描かれた便箋には、きちんと千織いとの署名がある。

 彼人らしい。

 ペーパーナイフで開封すれば、一枚の同じ柄の便箋が出てきた。

 三つ折りにされている手紙を、ぺらりと開いた。


『拝啓、夏の日射しに目が眩む今日この頃、いかがお過ごしでしょうか? なんて、堅苦しい前書きは必要ないよな。白籠は元気にしてますか? 暑いからって食事を疎かにしてない? 拙は近所の和菓子屋さんで新作の水羊羹が出て、ちょっと食べすぎたくらい。会社で素麺流ししたって云ったら、信じる? けぇきに竹切らせてきたの。これ、ほんと。そっちもだいぶ落ち着いたみたい、って可鳴亜から聞いた。また、文通が再開できたらいいなって思ってたから、返信待ってます。いつか、直接会えたらいいな。揺唯に頼まれて可鳴亜が依頼してきた草履の鼻緒は両方新しくつけ替えておいた。拙の手作り。請求は謠惟にするから気にしないでいいよ。すてきなパートナーに出逢えてよかったね。また、今度二人の馴れ初めとか聞かせてよ。約束。じゃね。親愛なる白籠さまへ、貴方のまだ見ぬ友人千織いとより』


 縦書きの便箋に、さらさらと流れるように書かれた綺麗な字。それこそ、柄の川に流れていきそうな文字。万年筆特有のインクの溜まり方もすてきだ。真っ黒じゃなくて、蒼っぽい色。

 ――お返事、書きますね。

 たくさん。言葉にできないくらい、感情が飛来する。云いたいことが、いっぱいある。

 自分の知らないところで、見えない場所で、支えられている。繋がっている。

 ちぎれた鼻緒が、繋いでくれた。

 なんだかあまりにも優しすぎて、泣きたくなった。

 大事にしまおう、と文箱に入れようとしたとき、光の加減で裏に薄く書かれた鉛筆の文字を見つけた。

「……追伸?」


『追伸、糸の作り方にもいろいろあって、うちではちぎって繋ぐ結構面倒なやり方もしてるんだけど、それを績むって云うんだ。ちぎれたことを不吉に思うことはないんだよ。ちぎってうみだすものは、いくらでもあるから。ほら、拙と白籠もまたこうして繋がれたし?』


 白籠は畳に頽れた。

 立っていることすら、ままならなかった。

 ぼろぼろ、に泣いた。

 零れた大粒の涙は着物に染みを作っていく。

 浅葱色の浴衣が、蒼く染まる。

 真綿にくるまれて、優しくされるのは、本当に苦手だ。

 不安で心が千々に引き裂かれそうな日々を過ごした。揺唯が傍にいないことも、子どもを生めないことも、自分一人が停滞し続けていることも、何もかも心配だった。

 ちぎれたものは、元には戻らない。

 悪夢を喰いちぎって、実際に死んでしまった人を知っている。

 ――わたしが、殺した。

 それでも、ちぎっても、直せるものがあるのなら。ちぎって、繋げられるものがあるのなら。

 すべてが終わるわけじゃない。

 何もかもが壊れるわけじゃない。

 そうだ、確かにちぎって得た新しい縁だって、あった。

 揺唯の、悪夢の記憶を喰いちぎって、それでも新しい関係を築いたように。


 ――ちぎって、ちぎって、約束しよう。

   ちぎることは、契ることだ。

   繋がる、ことなんだ。


 ばたばた、と帰ってきた揺唯は、泣き腫らして目許を赤くした白籠を見て慌てふためいた。

 嫌なことがあったのか、また寂しい思いをさせたのか、誰かに酷いことをされたのか……。

 ううん、って首を振り続けた。

「……ちがう。違うんです。たくさん、うれしいことがあって。最近、涙脆いんです」

 でも、それってきっと揺唯のせいだ。

「――あなたの、せいだ」

「えっ⁉ おれ……?」

「揺唯がわたしに優しくするから、です。草履のこと、修理を頼んでくれたのも揺唯なんでしょう?」

「ぇ、あ、うん……。鼻緒がちぎれてたから、カナカナに頼んで……」

「ありがとう、ございます。今度、カナさんにもお礼を云わなきゃ」

「ぅ、うん、そーだな?」

「……あーあ、こんな不細工になっちゃいました。これじゃ、誰ももらってくれません。だから――責任を持って結婚してくださいね?」

 涙が膿を洗い流したみたいに、なんだかすっきりしてしまった。

 揺唯の相手が自分でいい、と自信を持って云えるわけじゃないけれど、今だって別に捨てられる覚悟を持っているけれど。

 今は、今だけは、傍にいることを自分に許したいと思う。

 いつか、じゃなくて、今は。

「! あたりまえだろ、おれ以外には渡さないかんな」

「……はい。不束者ですが、もらってやってくださいな」

 きつく、きつく抱き締められる。

 カラン、と手から転げ落ちた草履は台所まで行ってしまった。

 今度の休みは、草履を履いて、二人で出かけよう。

 赤い鼻緒は、小指を契る、赤い糸。

 赤に踊らされて、ちぎれたのは足じゃなくて、一歩を踏み出せなかった弱い心。

 無様にステップを踏むように、杞憂も、勘違いも、すれちがいも、一段一段踏み越えていく。

 きっと、これからも。

「ハクローのこと、一生大事にする」

「好きなだけ、でいいですよ」

「ずっと、好き」

「……そういえば、お夕飯の支度がまだでした。それでも、好きですか?」

「好きに決まってる。あ、カステラもらったから、それ食べよ」

「……カステラだけで足りますか……?」

「ぐぅ……。うっ、おにぎり欲しい……です」

「じゃあ、久しぶりにカップ麺とおにぎりですね」

 くすくす、と笑う。

 卓袱台には、湯気を立てたカップ麺と、味気ない塩にぎりと、ふかふかお布団みたいな黄色いカステラ!

 バランスも何もあったものじゃないけれど、幸せな味がした。

 口いっぱい料理を頬張っている揺唯が好き、今はそれだけでいい。

 ジジジ、と回して回線を合わせたラジオは今日も世界の平和だとか自己主張だとか、君への愛だとかを歌っている。

 一昔前にはやったらしいヒット曲の、サビだけがやたらと耳について、憶えてしまった。


 ――世界が終わる日でも、僕だけは君を愛してる。



       ∴



 逑の契は、週末にすることになった。

 白籠の体調が落ち着くのを待つのと、単純に次の日が仕事では落ち着いてできないと思ったからだ。

 事前に、謠惟と可鳴亜には逑になることを報告しておいた。

 今度、逑おめでとうパーティーと形だけの婚姻届を書くのを両方一緒にやろう、とあっさり話がまとまった。

 謠惟がぽんぽんと白籠の頭を撫でていたから、思わずその腕をむんずと取り払うことになったし、可鳴亜は結局指輪を作らないことにした、という報告に「二人らしくていいと思うよ」って笑っていた。

 ――……どんな逑の契をしたのかは、二人だけのヒミツ、だ。

 白籠が頬を染めて、目を潤ませて、本当に可愛かったってことだけ、お裾分けだ。

 契った左手の小指には、逑のしるしが黒く浮かび上がった。

 指の内側はふわふわとした雲のような波のような波線が重なっていて、外側は籐で編んだ籠のような編み目になっている。そして、宝石が陣取るように真ん中には白百合の模様が浮かび上がっているのだ。

 ――これが、おれたちの、おれたちだけのシルシだ。

 空も海も夢も、清廉な百合も包み込む籠も何もかもがそろっている。

 白籠が自分のものになったのだと見せびらかしたい気持ちと、二人だけの絆を誰にも見せたくない、独占したいという気持ちが複雑に絡み合った。けれど、指輪は買わない約束だし、何より虫よけになるし、逑になったのだと自慢して歩くしかない。

 それに……、契のときにお互いのプリズムを感じ合った。

 白籠のプリズムが、心が、魔力炉の心臓部がどんな形をしているのか、どう輝いているのか知っているのは自分だけだ、ということで揺唯は溜飲を下げた。



       ∴



 昼前の起床に、可鳴亜は朝ごはんという名のブランチを用意し始めた。

 正直、料理するのも億劫なので、朝はいつももらい物のお菓子や作り置き、パンなどで済ませる。今日は、昨日買っておいた隠れ家洋菓子店のワッフルを袋からばさり、と一輪花の咲いた皿に広げて、冷蔵庫のポケットに詰まっている小瓶をいくつか取り出した。起き抜けに火を点けていた湯が沸いたので、ティーバッグのレモンティーを淹れる。朝から、自分のために料理をするのも、本格的な紅茶を淹れるのも面倒すぎだ。可鳴亜は、どうでもいいことに対しては時間も労力もかけない主義だった。

 ――それもこれも、姉さんのせいなんですからね?

 と、眠り姫に悪態を吐く。

 姉さんがいれば、姉さんのためとついでに自分の分も料理を作るし、きちんとオーナーが作ったごはんを運んでくるし、美味しい紅茶だって二人分淹れる。

 花椿の眠る、天蓋つきベッドの傍にある丸テーブルで独り、大雑把な朝食を摂る。

 ワッフルに、小瓶の一つから蜂蜜を手に取って金色の蓋を回し開き、スプーンでとろりと大量にかける。ちなみに、他二つには蜂蜜レモンジャムとマーマレードが入っている。可鳴亜の手作りだ。花椿が起きているのならば、貴族じみたテーブルマナーでフォークもナイフも使うだろう。けれど、目の前にいても、目を開けもしない相手に対して遣う気などない。手掴みでボロボロと食べた。品性を保って好かれたいのは、自慢の姉だけなのだ。精々、人生の先輩ぶりたくて白籠や揺唯の前ではもう少しお行儀よくするけれど、それでも仲のいい友人同士だからそこまで気は遣わない。これ以上堕落していったら、起きない姉さんが悪いのだ、と責任転嫁を続ける。

 可鳴亜にだって、花籠に自室は用意してある。花椿がこうなってからは実質トップに躍り出てしまったので、最高待遇を用意されていると云っても過言ではない。しかし、花椿がこうなったからこそ、可鳴亜はずっと目覚めない人の傍で生活している。

 花籠の塔、最上階。魔術陣が組み込まれた台所は、神秘によってコンロも水道も冷蔵庫さえも機能している。上り下りの不便さ以外は、最高品質だった。

 元々、花籠自体が店の花たちのために、室温・湿度どころか魔力濃度すら安定を保たれていて、不快などひとつもない環境を整えられているのだが。

 実際、真夏の昼前だってこんなにも涼やかだ。空調ではなく魔術式が組まれているので、別に窓を開けたって構わない。優雅なブランチだ。

 他のキャストたちも起き出したのだろう、彼人らのためにオーナーがブランチを用意する美味しそうなにおいがかすかに届く。

 何せ、ここは夜店である。夜から朝にかけて仕事して、午前中なんて寝る時間だ。むしろ、昼前に起きている可鳴亜は早起きなほうだった。

 可鳴亜は花籠のトップであり、情報屋としてもクレイドルの外部協力員としても活動している。暇がない。

 大容量マグカップに入れた紅茶を、ごくごくと飲み干して、朝食を終えた。浄化の魔術でベタベタした手を綺麗にして、洗い物は全部食洗器に放り込んだ。あまり機械は信用ならないから、と自分で手洗いしていたのが嘘みたいに、花椿がいないと多少汚れが残っていても気にしない生活が続いている。

 起き抜けのキャミソールワンピース姿のまま、花椿の眠るベッドに腰かける。この寝巻は、昨夜のお客さまの趣味だった。白い髪の隙間から、額に手をあてて魔力に異常がないか確認した。問題なし。

 朝のルーティンをこなす間に、可鳴亜は電子パッドで電話をかけ始めた。

 境界地がかなり時代錯誤なので異様に映るかもしれないが、ほとんどの地区で普及している携帯多機能電子機器である。小さなパソコンと携帯電話が融合したようなものだ。今どき小学生だって、親に買ってもらっている。

 花籠も電波規制の高い場所だが、塔と可鳴亜が持つ特殊な回線はなんでもありだ。

 髪に始まって、肌のケア、化粧といったルーティンに使う道具を準備しながら、応答を待つ。

 ピッ。

「もしもーし、イトイトげんき?」

『はい、こちら千織糸相談事務所――って、可鳴亜さん?』

 哀しいかな、都会在住の友人も懐古的というか理由があるにはあるんだけど黒電話で、誰からかかってきたかも判らない仕様ときた。

「さっすが、すぐわかってくれるねぇ」

『いといと、なんて呼び方するのは可鳴亜さんくらいだからなー』

 客対応ではなく、早速砕けた喋り方になる。年上だろうと友人であれば、いとはあまり敬語を使わない。或いは、人に合わせているのかもしれない。そういうところ、可鳴亜と似ている。

 電話したのは相談所の事務所。普通の、平日の真昼間。完全に仕事中である。

「今、だいじょーぶ?」

『お客が来ない限り、暇。大丈夫だけど?』

「白籠の件のごほーこくとか、相談とか愚痴とか、依頼とか」

『なーる。相談は友人としてってことなら仕事には含まないけど?』

「えー、やっさしぃ。商売上がったりじゃない?」

『なわけあるか。友達と雑談するのに金取るほど、困ってないし』

「じゃあじゃあ、いっぱいお喋りして長話になるけどいーい?」

『もちろん。オレもその後どうなったか気になってたしさ』

「わーい。まあ、白籠本人が手紙も書くと思うけどさらっとご報告ね――」

 鏡台と向き合いながら、金糸雀色の髪を二つに分けて結んでいく。

 新しい鼻緒に挿げ替えた草履を大変喜んでいたこと、結局指輪は買わなかったこと、逑になる報告をしに来てくれたこと……、順番に話していくのをさすが聞き上手、相談所の所長らしく相づちを打ちながら先を促してくれる。

「……ほんとさ、サプライズって相手のこと考えてやってほしいよ。そりゃ、結局自己満足だからさー、仕方ないんだけど。白籠は金稼ぐより傍にいてほしいに決まってんじゃん!ってしょーじき思った……。深夜とか早朝の仕事で白籠独り寝させてた、とか聞いて後からヒヤヒヤしたもん。揺唯と穏やかに暮らせるようになってから、白籠の睡眠もわりと安定してきてたのに……。別に、ユイユイだけのせいじゃないけどね。白籠ってば一人で抱え込んでパンクしちゃう悪癖あるしさ。何より、テキトーぶっこいてそれを助長した謠惟が全面的に悪いしね。あたしも仕事立て込んじゃっててさぁ、気づいたときにはいろいろ限界ギリギリだったわけ。びっくり! 白籠、だいぶ精神不安定になって、体調崩してたんだよ~。もう、あたしが泣きたくなった! 白籠まで意識不明の重体、なんてなってたらどーすればいいかわかんないもん。あー、でもさ、だからさ。ほんっとーによかった……。二人が逑になって、幸せになってくれて。それで、盛大にお祝いしたくってさ」

 なんだか、感極まって泣けてきてしまった。折角、肌のケアをして化粧していたのに、これじゃあ一からやり直しだ。

 鼻声になってるのも、触れずにただ優しい声音で頷いてくれる。うんうん、そうだね、って。

 どこか少し白籠と近い感じの、低音と高音が綯い交ぜになった、凛とした声。包まれるような、ふわふわとした心地になる。

『それで、逑のお祝いに贈り物がしたいって依頼?』

 仕事の話は的確に拾ってくる。所長としての顔と友達としての顔はしっかり使い分けてくれる。

「うん……。結納道具に葛籠をプレゼントしたいんだ。名字は謠惟からもらったわけだし」

『あー、つづら、ね。って、おい。さすがに葛籠編むのはオレも専門外なんだけど? そりゃ、伝手を辿ればたぶん材料は集まるけど……。職人に頼んだほうが確実だし、オレが作ると結構時間かかると思うけど、どうして?』

「白籠は知り合いの手作りのほうが絶対喜ぶし、ユイユイって魔力に敏感だから職人が真心込めて作った奴のほうが嫌がりそうなんだよね。……イトイトの手作りはあったかい魔力が籠ってるし」

『ま、オレNoneだからフィーリングに引っかからないもんなぁ』

「……。白籠もそうだけどさ、Noneだからとかかんけーないよ。好きに恋愛していいと思うんだ。だから、イトイトもちゃんと恋人ができたら教えてよね」

『んー、りょーかい』

「それでさ、依頼、受けてくれる?」

『時間かかってもいいなら、それなりのものを提供はするよ。正直、職人が作ったのより断然劣ると思うけど……』

「いーの、いーの。気持ちの問題だから」

『実際練習してみて、具体的な案はその後な』

「うんうん、それでいーよ。無茶ぶり聞いてくれてありがとー。だいすき」

『うん、すきすき。こちらこそ、いつもうちに注文してくれて商売繁盛してるよ。ありがと』

「もー、ほんとすき。あたしのハニーにしたいくらい」

『嘘吐き。お姉さんが一番のくせに』

「あはっ、バレちゃった? ほんとさ、こんなに想ってるのに……眠ったままなんてさ、ズルいよ。浮気しちゃいそ。しないけど。だってさ、白籠と揺唯が結ばれて幸せになるとこなんて、一番姉さんが見るべきじゃん。あんなに白籠の幸せ願っててさ、揺唯佐けるために謠惟の協力もしてさ。誰よりもこの街の平和を、皆の笑顔を守りたかったのは、見るべきなのは姉さんじゃん。謠惟と恋人になった報告するのも、遂には抜かされちゃうしさぁ……。ほんと、寝すぎ。……さびしいよ」

 可鳴亜ばかり、ひとりぼっちだ。

『別に、白籠たちが逑になったからって一人置いていかれるわけじゃないよ。むしろ、可鳴亜さんが家族の一員になるってだけ。……それに、魔力が安定してきたってことは、それほど回復してきたってことだから、本当に目覚めるのは時間の問題だと思うよ。これは、何も希望的観測ってわけじゃない。オレが実際診たわけじゃないから断言はしないけど、白籠たちの所見から推測するに、かなり覚醒してきてると思う。……オレはさ、可鳴亜さんの傍にはいないから抱き締めてやれないの。だから、一人で泣くなよ? 辛いときも、寂しいときも、周りに頼って寄っかかりな』

 言葉で、抱き締められている、と思う。

 どうしようもなく一人なのに、独りにはさせてくれない。

 お客さまに命令されたって、縛られたって埋まらない穴があって。それが、姉さん以外では埋まらない、ということを可鳴亜は解っている。

 誰か、じゃ代わりにならない。

 それでも、誰かに泣き言を漏らすくらい、泣きたいときに胸を貸してもらうくらい、頼ってもいいのかもしれない。

 ――……姉さん以外要らない、って拗ねたあの日。哀しそうに笑ったのは、いつかこんな日が来るって判ってたから?

 だとしたら、なんて残酷なことか。

「……うん、ありがと。もー、ほんと惚れちゃいそう。罪な大人だね」

『どーも。可鳴亜さんもいいヒトだよ。……ん? けぇき、どした? わかった、カウンターで待たせておいて。……ごめん、可鳴亜さん。お客さん、来ちった』

「ぁ、ごめん。長々電話しちゃって」

『ううん、楽しかった。また連絡して?』

「うん、またね」

『じゃね』

 プツッ、と通話が切れた。

 名残惜しく暗くなった画面を見つめたものの、数秒も経たぬうちにぽんと机に投げた。薄っぺらい板が、ほとんど音も立てずに着地する。

 まだ顔も作れてないけど、もういいや、と思った。

 布団、というより姉にダイブする。

「ねーさん、白籠と揺唯が逑だっていうんだよ。ほんっとーに、よかったぁ……。なんか、いっぱいいろいろあったじゃん。白籠のためと思って花籠に引き入れたら、相性の悪い客の悪夢で歩く死人みたいになっちゃったときとかさ……ほんとあたしの監督不行き届きだって死ぬほど落ち込んだしさぁ。ほんと、あのまま死んじゃうんじゃないかって、思った。だからさ、報告のときだけでも泣きそうだったし、パーティーのときはマジ泣きしちゃった。恥ずかしい……。姉さん、早く起きてくださいね」

 ――こんなにも幸福な白夢が、現実ここにある。

 握った、骨と皮しかないような白い手が、かすかにぴくっと動いた気がした。

「ねぇさん……?」

 気のせいかもしれないし、希望的観測かもしれない。それでも、触れた指先にあたたかな魔力を感じて、姉の優しい気遣いを思い出したのだ。

 夏の花は、天を仰いでいる。

 すくすくと日にあたり、水を得て育つ緑のように、いつか誰かが蒔いた種はやがて花となる。

 太陽が眩しすぎてどこにも見えなくても、月はいつだって見守ってくれている。

 花椿もきっとそうなのだ、と可鳴亜は信じた。

 ――さあ、今日も愛を囀るカナリアとして、皆に笑顔を振りまきに行こう!

 鳥は羽ばたく。

 たとえ、翼が溶けたとて、解けない絆で結ばれている。

 花が咲く日は、そう遠くない未来の話だ。



       ∴



 カロン、と琥珀色の液体に入った氷が鳴った。

 一口呷れば、かっと喉に過ぎ去る熱がいっそ心地いい。アルコールで酔うことはない。酩酊の魔力薬の入っていない酒など、謠惟にとってはただの水だった。プラシーボ効果にはめっぽう強いのだ。哀しいことに。

 商店街の酒場で買ったというウィスキーは、云ってしまえば安物だ。境界地のまともな店で早々いい酒には巡り会えない。とはいえ、酔わないなら味に拘っているのかといえばそうでもなし、結局揺唯と白籠が悩んで選んでくれた酒なら美味い、という話だった。

 我ながら単純で自嘲したくもなる、と複雑な笑みを零しそうになった謠惟はそれこそ自重した。

 何しろ、祝いの席だ。

 揺唯と白籠の結婚式、とまではいかずとも、逑になったことと形だけの結婚を記念したパーティーなのである。

 二人のアパートの一室で、皆が持ち寄った料理や酒だけで行うささやかな宴会だ。

 皆、いつもどおりの恰好で、部屋が飾りつけられているわけでもなく、仕事帰りに立ち寄りましたといった風体だが、気持ちだけでよかった。

 蛍光灯がやけに明るく見えて、ふわふわした気分だ。

 ……こういうのを、雰囲気に酔う、というのだろう。

 謠惟がちびちびとやっている傍で、ほとんど皆潰れていた。祝い事にテンションが上がって、かなりハイペースで飲んでいたからこんなものだろう。

 ぎゃんぎゃん泣き喚いていた可鳴亜に至っては、泣き疲れて眠っているのだろう。目許が紅い。自分が傍についていながら可鳴亜を泣かせたとあっては花椿に咎められそうだが、うれしいことならノーカンだろう。

 揺唯は食べて飲んでをひたすら繰り返していたから、単純に眠気に負けたようだ。

 白籠は……雰囲気に酔うタイプだし、なんだかんだ緊張していたから気疲れもあって寝たのだと思う。

 謠惟は一通り観察を終えると、今度はぐびっとグラスを呷った。

 今日はお開きだ。

 普通なら、皆を残して自宅へ帰るところなのだが、今日ばかりは雰囲気に呑まれていたい気分だった。明朝、可鳴亜を回収して帰ればいい。

 今は、余韻に浸っていよう。

 白籠が作ったわかめご飯とお吸い物、だし巻き卵にきゅうりの浅漬け、豚肉の生姜焼き――だけでもだいぶごちそうだったが、加えて可鳴亜がオーナーに作ってもらった中華のオードブルがそれはもう多かった。餃子・回鍋肉・肉団子・えび焼売・青椒肉絲・肉まん……といったそうそうたる酒のあてが並び、可鳴亜自身が手作りしてきたでかでかとした真白いケーキまでデザートを飾った。ウェディングケーキのつもりであることはあきらかで、普通の包丁で二人が一応のケーキ入刀をしていた。二人自身は、これはいったいなんの儀式なんだ?と、頭に疑問符を浮かべていたのでもはやコントじみている。可鳴亜一人、満足そうだったが。白くて柔らかくてもふもふしている食べ物を好むので、白籠はやたらと肉まんに目を輝かせていたくらいだ。ケーキのほとんどは、揺唯と可鳴亜の胃袋の中に収まっていった。謠惟も可鳴亜の作るお菓子は美味しいと思うが、何せ既に大量のあてを食べた後だ。……腹が割れて死ぬ。

 揺唯は料理のための買い物や酒選びをしたらしい。謠惟自身も、高いビールといい値段のする酎ハイ、甘ったるい酒の類を用意してきた。面子的に謠惟の好みな酒を呑む奴はいない、と選んできたのだが、それを見透かされたようにウィスキーを用意されてはうれしいやら本末転倒やらである。

 後半になるとこうして酔い潰れることは完全に予期していたので、初めにメインイベントである婚姻届の署名を行った。

 ほとんど先に記入されていて、後は証人欄と本人の署名のみだった。厳かな雰囲気で謠惟から順にサインしていく。その隣に可鳴亜が自分と花椿の分まで記入した。

 そして、揺唯と白籠が順に古い名前、新しい名前を書く。

 旧姓は、「夢杙は本名でもないんですが……」と白籠は呟いたものの、一応記入していた。揺唯は空欄だ。白籠の夢杙という名字は、裏組織時代に仕事で使っただけのものだった。

 できた婚姻届を、揺唯が掲げて見せた。

『廿楽揺唯 廿楽白籠』

 並んでいるのは、ただの文字だ。

 だが、二人が確かに家族となった瞬間だった。

 二人が互いの小指を取り合って、そこにキスを落とす。

 そうして、一応の儀式は終了した。

 それ以降は、飲めよ歌えよのどんちゃん騒ぎだ。騒いでいたのは、主に揺唯と可鳴亜の二人だったが。

 逑の契がどうだったかとか、新婚生活はどうかとか、くだらないインタビューコーナーが開催されていた。

 話半分で聞き流しながら、しばらく卓袱台に放置されている婚姻届を見つめていた。

 廿楽、という名字は本当に謠惟と揺唯の母方の名字である。そのことを、白籠は知っている。可鳴亜も情報屋の端くれだ。知らないわけがないだろう。

 名字が欲しい、と揺唯に直談判されたときには驚いたものだが、ある意味で同じ名字に戻れたのだと思えば感慨深くもある。

 それもこれも、白籠のお陰である。

 なのに、本人ときたら――逑になる、と報告しに来た日。

 可鳴亜と揺唯が会話している間に、こっそり謠惟に耳打ちしてきたのだ。

「……あなたの下子さんを、本当にわたしがもらってもいいのですか?」

「お前以外にやれるものか、莫迦者」

「……ありがとう、ございます。わたしが、揺唯さんを幸せにします」

「たわけ、お前が幸せにしてもらえ。……ここまでずっと苦労してきた白籠が、幸せになってくれるのが俺もうれしいよ」

 トンチンカンなことを訊いてくる白籠を小づきつつ、本音を告げた。

 白籠は泣きそうだった。

 そんなことを思い返していると、ふと白籠と目が合った。

「……本当に、ありがとうございます」

 何が?とは、訊かなかった。

 手を振って感謝されることでもねぇ、と示す。

 こくん、と白籠は頷いた。そして、騒いでいる二人を見て微笑んだ。

 ――……幸せ、だな。

 こんな光景のために、謠惟自身も、可鳴亜も、そして花椿もがんばってきたのだ。

 艱難辛苦の道を行かせてしまった、血の繋がった下子がここまで成長して連れ合うまでに至ったことも、生まれから苦労してきた大事な部下である白籠が遂に自分の幸せを考えられるようになったことも、こんなに幸いなことはないだろう。

 熱いものが込み上げて、瞳が潤んでいることを隠すように、謠惟は酒を呷った。

 ……ぼう、と走馬灯のように思い返しているうちに、グラスは底をついていた。

 溶けかけた氷だけが、カラカラと鳴っている。

 廿楽――つづらは、葛籠という漢字もある。葛藤つづらふじで編んだ蓋つきの籠のことだ。白籠のろうの字も入っていれば、揺唯が持つ氷竜神の能力を思えば龍の字すら入っている。奇跡的な繋がりだ。

 クレイドルだって二人のために設立したし、社員の名称である〝クレイドラー〟だって二人の要素しかない。私情など、とうの昔に入りまくりだ。

 可鳴亜は、ファミリーネームにちなんで結納道具に葛籠を贈ると云っていた。被らないようにしてよね、と釘を刺されたばかりだ。

 葛籠を作る葛藤は「かっとう」とも読む。すなわち、感情が縺れることだ。二人がどれほどの葛藤を経て、ここまで辿り着いたかは考えるまでもない。折り曲がった坂道を九十九つづら折りと呼ぶように、曲がりくねりながらも必死に上ってきた道だろう。

 ――年を取ると、どうも脳内がポエムっぽくなっていかんな。

 二人で、甘く楽しい蜜月を、日記に綴れるような日々を送ってくれればいい。

 九十九に一を足しても、白に一を足しても、答えは百だ。

 二人は、きっと、元から一つだった。

 一つになるべく、生まれてきた。



       ∴



 お互いの小指を切り合って、血を滴らせる。

 蝋燭だけの灯りで、二人の影が揺らめいている。

 影絵が指切りした瞬間、二人の唇が重なった。

 契とともに、焼かれるみたいな熱を感じた刹那。そこにはもう、二人だけの印が刻まれていた。

 お互いのプリズムを感じ取り合って、お互いの魔力を送り合う。

 白籠がよく知る、太陽に照らされる海みたいなあたたかさや広大さ、揺蕩うようなふんわりした感触が、揺唯の心の形、在り方だった。

 ――あなたに、永遠をあげる。

 一方通行の、永久契約。

 揺唯は何も返してくれなくていいけれど、もし揺唯が死ぬのなら白籠も連れていってほしくて。

 自分勝手な契約を結んだ。



 ――なんて、揺唯にも誰にも云える、わけない……。

 喫茶『曼華鏡まんげきょう』――どこにでも門がある、異界。結界どころではなく、どこからも時間も空間も切り離された、絶対の密室。密会にも内緒話にも適した喫茶店。またの名を、煉獄の門。と云うかどうかは知らないが、喫茶店が副業であることは知っている。

 和洋折衷の店内で、今日は向日葵の一輪挿しだった。仄明るい障子張りの照明を照らし返すほどの黄金が輝いている。

 夏の日射しに負けて薄手の浴衣を着た白籠は、気もそぞろに待ち合わせ相手を待っていた。柄のない水色で絞りがある浴衣は、見た目涼しげだ。アイスティーを入れたグラスばかりが、汗をかいている。

 先ほどから、喉を潤すためというより緊張を紛らわすためにストローを口に含んでいるのだが、何度も飲んでいるのに減るのは微々たる量だ。

 カランコロン。

 玄関のベルが鳴って、待ち人が姿を現した。

「お待たせ、白籠」

 いつもの仕事着姿の可鳴亜が、白籠の前の席に座る。

 着席と同時に、ウェイターがアイスのレモンティーと蜂蜜の入った小さな硝子容器、そして白玉あんみつを置いた。

 事前に白籠が頼んでいたとはいえ、ベストタイミングである。

「お疲れさまです。いつも、忙しいのにありがとうございます」

 ぺこり、とお辞儀すれば、

「いいって、いいって。白籠と休憩するほうがいい息抜きになるし。いつも振り回してるの、あたしのほーだしね。頼んどいてくれて、ありがと」

 そう可鳴亜は笑った。

 仕事の合間を縫って時間を作らなければいけないほど、可鳴亜は本当に忙しい。だから、白籠も相談するかどうか迷ったけれど、つい最近体調を崩して「悩んでることがあるなら溜め込まずに相談してくれなきゃ怒るよ」と半ば脅されていたので、きちんと連絡した。

 休憩の一環なので、時間は無駄にできない。本題にすぐ入るべきだけれど、それを口にするには少し勇気がいる。

 それでも、可鳴亜だから話せるのだ。

 花籠の花であり、夜の店の王である、可鳴亜だからこそ。

「あ、の……こんな話を他人さまに相談するのもどうかと思うのですが……」

 暑さからか蜂蜜をたっぷり入れたアイスティーをぐびぐび飲んでいた可鳴亜は、うんうんと頷く。

「いんだよ。ここなら、誰にも聞こえないから」

 促されて、それでも囁くような小さな声で本題を口に出す。

「……その、揺唯は夜も……いつも、優しくしてくれるんです。しょ、初夜も連れ合ってすぐじゃなくて、一月後にしよう、って。だから、でも、わたし……初めてじゃないから、バレないかなって、不安で……。カナさんにしか、相談、できなくって……」

 可鳴亜なら、花籠でいつもあけすけな閨事の相談を受けているはずだ。というか、受けている。だからといって仕事ではない、個人的な事情を話すのはさすがに気が引けるのだが。

「あー、ね。……そういう悩みか。でも、しょーじきそれ、悩む必要ないよ」

 さらっと答えが返ってきた。

「え……?」

「仕事とかさ、愛のない触れ合いって、愛交とは云わないの。好きな人と、じゃないと。だってさ、これまで仕事で身勝手なことされて、ドキドキしたことないでしょ?」

「……それは、特に、何も……」

 感じたことがない。

「でしょっ⁉ そんなの、愛交のうちに入んないよ。気にしなくたって、好きな人とする愛交ならドキドキして初めてみたいな気持ちになるから、流れに身を任せちゃえばいいよ。というか、愛交、初めてなんだし」

 銀色の先割れスプーンで白籠をびしっと指してから、もう問題は解決したとばかりに黒蜜が大量にかかった白玉を食べ始める。

 少し口に残ったまま、くぐもった声で、

「――だっへ、ふれあうだけへもどきどきするでほ?」

 ――だって、触れ合うだけでもドキドキするでしょ?

 白籠は、沸騰するが如く顔を真っ赤にした。それが、何よりの答えだ。

 揺唯は白籠のことを割れ物かのように大事に優しく触れ、何事も確認してくれる。「だいじょーぶ?」「いたくない?」「いい?」と、耳許でハスキーな声をやや低くして、囁くように訊いてくれるのだ。ぶわぁってなって、心臓が高鳴る。ドキドキして死んでしまう、なんて思うほどに。そして、その丁寧さがいっそ焦らしているみたいに感じられて、白籠は時折もっと早くめちゃくちゃにしてほしい、なんて心の中で懇願してしまうのだ。……はしたない。

 洗いざらい白状させられた頃には、すっかりアイスティーどころか氷も溶けてなくなっていた。

 可鳴亜は、にたにたと笑っている。

 ぽすん、と白籠が小さな攻撃をすると、その手をむしろ掴まれた。

「いーじゃん、いーじゃん。青春だね。……正直さ、今日の相談が健全でほんとよかった。また、白籠がネガティブ入ってたり、揺唯が暴走してたりしたらどうしよって思ってたけど、逑になってからうまくいってるみたいだね。安心しちゃった」

 にこり、と心底安心したみたいに微笑まれると、白籠も自然と頬が緩んだ。

 心配をかけてごめんなさいと、気にかけてくれて、相談に乗ってくれてありがとうの意を込めてもう片方の手でさらに包み込んだ。

「……あーあ、でもなんか妹分に先を越された気分。みぃんな、廿楽家に入っちゃってさ。なんか、ちょっと、さびしい」

 別れ際に、可鳴亜はそう寂しそうに苦笑した。

 何げなく零れた言葉が、可鳴亜の本音のように感じた。

「メリーさんが目覚めて謠惟さんと結婚したら、妹のカナさんも廿楽家に入りますよ。そうでなくても、カナさんとわたしたちは家族じゃないですか。わたしと揺唯さんの関係が変わっても、今までと何も変わりませんよ。カナさんがわたしたちの養子に入ってくれてもいいですけど」

「……その手もあったか。うん、なんか杞憂だったな。また、鍋パとかコロッケパーティーとかしようね!」

「はい、ぜひ。また遊びに来てくださいね。花籠にも、お邪魔しますから」

 手を振り合って、笑顔で別れた。

 悩みも打ち明けてみたら意外と些細な問題だった、なんてこともよくある。

 ――そのときは、自分がNoneであることも子どもが生めないことも、心に澱を生みはしていなかった。



       ∴



 ――愛交をして、ようやく自分の勘違いに気がついた。

 あの悪夢を見たのは、白籠に乱暴したかったからじゃない。

 根底にあったのは単純に……触れて、愛でたい。

 ただ、それだけだったんだ。

 愛して、その愛しい姿を、愛でたかっただけなんだ。

 そう、揺唯は気づいた。

 もっと白籠を乱したい、というやや嗜虐的な思考がないわけではないけれど。

 初めての夜、確かに愛が交わった。

「……ねぇ、揺唯さん」

「なに、はくろー?」

「純然たる事実として――逑になるということは、ゆーちゃんを縛りつけることになります。あなたの、自由をわたしが奪ってるんです」

「それは――」

「だから、揺唯――わたしを、自由にしていいですよ」

 ――好きに、してください。

 なんて、殺し文句。煽り文としては最高だ。


 ――ピロートークには程遠い。

   夜はまだ、終わらない。

   蜜月に籠る魔法の名を、二人はまだ知らない。

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