壱/一人進、一人退。



 散るひらり舞うひらり、と地に落ちてゆく桜の花びらたち。

 その合間を縫うように、鈍い空色の髪をポニーテールにして、透明な水色の瞳に薄紅の花を映した、作業着を着ている仕事人がステップを踏んでいく。背が高くがっしりとした身体つきにも拘わらず、所作も無垢な瞳もどこか子どもっぽさを残していた。彼人かのとの名は、揺唯ゆい。名字はない。

 梢暦しょうれき壱〇弐〇年、春。

 地区境界地、と俗に呼ばれる独立都市枝櫻守しおうりのどこかの地区に所属しながらもその狭間で存在すら認知してもらえない人々が住む、忘れ去られた地。いない人々、の一人でもある。そこに確かに存在していて、生きていながら義務もない代わりに権利も与えられず、戸籍もなければ多くファミリーネームすら持たない。政府から逃げてきた者、漂流者、なんらかの異常者、幻想種、脱走者、ゴロツキ、悪の道に走った人間、孤児、一般社会とは相容れない存在たちの坩堝。

 それでも、そこにいる誰かたちは必死に生きている――

 揺唯が白籠はくろうと恋人になって、クレイドルに入社して、そして白百合の刺繍された黒い三角巾をプレゼントしてから一年が経った。

 正式に同棲、ということになったからといって何か変わったかと訊かれれば……揺唯は少し悩む。変わったといえばがらっと変わったような気もするし、変わっていないといえばあまり変わっていないような気さえしてくる。揺唯が初めての生式せいしき欲に戸惑って彼人のことを避けてしまっていたから、ただ元に戻ったことを大きな変化と捉えてしまっただけな気もするのだ。なんていうか、家族というものを知らないから断言はできないけど、恋人のいちゃつきというよりはいっそ身内の触れ合いの延長線上に近くもある。

 それでも、一年、である。

 揺唯が白籠を傷つけてしまわないように、ともだもだ距離を測りかねているうちも、意外と白籠は積極的だった。白籠自身は、揺唯のすることで自分が傷つくと思われていることが心外だ、と云う。

 ちょっとはいちゃつきの度合いも深くなったし、避けることなく、酷くすることもないちょうどいい距離感を保ちつつ少しずつ進んでいった。

 ちゅーやハグはあたりまえになって、お風呂は一緒に入り背中を流し合って、寝る前はお互いに寄り添って額にキスを送り合ってから眠る。

 最初の頃は白籠とぎゅっとしてるとただあたたかくて安心感があっただけだったけれど、今となってはドキドキのほうが大きい。

 特に恋人同士になってから白籠が欲や色を隠さなくなって、「……ぁ、の。揺唯が嫌じゃなければ、もうちょっと」なんてキスの延長を恥ずかしがりながらねだってくるようになったものだから、もう揺唯は爆発寸前である。

 白籠は本当に雪みたいに白いから照れるとすぐ頬が桜色に染まる。ので、すぐわかる。照れてんだなとか、自分と同じように熱が上がってんだなとか。心臓が同じくらいドキドキ鳴ってるとか、近づいて判ることもある。

 ――ああ、子ども扱いじゃなくて、ちゃんと恋人として見てくれてんだ。

 そう思うと、余計頬がかぁっと熱くなる。

 すべてを受け容れられている、求められている、その先を望まれている。

 とけあって、境界線がなくなるまで――

 はっ、とした。

 仕事現場からの帰り道、歩いていると道端の桜が満開で、白籠の色つきリップに彩られた薄紅色の唇が想起されて、すっかり頭がお花畑だった。

 春だし。

 脳内ピンク。

 春真っ盛り。

 春眠暁を覚えず、って白籠も旧時代の言葉を教えてくれたし、微睡んでいたんだと思う。

 暖かくなると眠くなりますよねぇ、と白籠も所構わずうとうとしている。料理中、風呂の中、読書しながら、ごはん食べていても……といった具合なので少し心配になるのだが。独り暮らししてたら、もしかすると大惨事になってるんじゃないかな、と。

 悪夢は、見ない。

 現実でも、夢の中でも。

 最近は夢すら見ず深く眠っているけれど。

 白籠曰く、春は何かと新しいことが始まる季節だから疲れやすいのかもしれない、って云ってた。

 実際、清掃業のほうで新人を教育することになった。先輩、という立場になった。つい先日まで教えてもらう立場だった気がするのに、なんだか変な感じだ。正直、教育者向きじゃないっすよおれ、と先輩に告げると、「なんでも経験やで。いずれ財産になる。がっぽがっぽや」でひとまとめにされ、反論の余地なくやることになった。感覚的に仕事を覚え、才能でいろんなことをカバーしている揺唯は物事を言葉にして教えるということがとことん不得意だった。ので、基本やって見せて教える、という方針を採っている。そして、質問されたことに答える。後輩を教育するようになって初めて、言葉でいろんなことを一から教えてくれていた白籠のすごさを理解した。どれだけ、白籠が揺唯の曖昧な言葉や質問をしっかり受け取って、噛み砕いて教えてくれていたかと思うと感謝の念に堪えない。最初は本当に新人が何に躓いていて、何がわからないのかを理解できなかった。けれど、白籠が一つずつ訊ねてくれていたのを思い出してまねてみると、自然に意思疎通ができるようになったのだ。白籠さまさまだ。先輩はいずれキャリアアップするときに役立つんよ、ってようできるようになったと褒めてくれた。お客さんにどんな清掃をするのか説明できるようにならんとあかんし、ただの清掃員じゃなく責任者になるならただ掃除ができればいいわけじゃない、と。

 先輩は、揺唯自身の将来のこととかもちゃんと考えてくれてるみたいだった。

 正直、胡散くさい笑みを浮かべる糸目先輩に若干疑念を抱いていたことすらあったくらいだけど、考えを改めた。むっちゃいい先輩!

 そういうキャリアアップのためにも、しっかり一人現場のときは報告書をまとめなければならない。苦手だから、と書類仕事から逃げていてはいけないのだ。だから、揺唯は今クレイドル本社まで帰社していた。

 「安住補助員派遣会社 クレイドル」――いわゆる殺し屋組瓦解後、廿楽謠惟つづらうたいが信頼のおける部下や知人を集めて設立した。〝あなたの安住の地を守るお手伝いを致します〟を謳い文句に掲げた、実質清掃員派遣会社である。社会の塵の掃除屋が本当に清掃する掃除屋になっただけとも云える。健全でいいことだ。個性豊かな人員がそろっており、それぞれの得意分野を活かしたさまざまな事業展開をしている。個人宅・会社問わない清掃から始まり、整理整頓・管理・警備・庭の手入れ・廃品回収・家電や家具の修理・家の修繕・リフォーム・不動産・引っ越し・ホームコーディネイト・家事育児手伝い・家庭教師・安眠サポート・関連する相談受付など列挙に終わりがない。境界地のなんでも屋と化している。謠惟曰く、境界地に住む人間が安心して生活するためのサポートならなんでもする、らしい。こちとら安心を売ってんだよ、と喧嘩を売られたが揺唯にはいまいち理解できなかった。

 クレイドルには揺唯だけでなく白籠も内職として所属している。業務用洗剤の強力洗浄魔力石などの作成、必要な魔術を込められた御札といった仕事用の物が多いが、営業によって洗剤などは販売も行っている。……ちなみに、境界地だから無法地帯で許されているけれど、本当は神秘物品の販売は愚か作成自体条例で禁止されているらしい。白籠は苦笑いしながら、大きな声じゃ云えないんですよこの内職、って云っていた。

 実際、現場の揺唯からすると白籠が作ってくれる魔力石も御札も大変たすかっている。

 今日の揺唯の仕事は、以前からお世話になっていた廃品回収・修理工の親方のところで家電を主とした修理をすることだった。春先は何かと物入りで、家電を欲する人は多いのだという。

 境界地にあるかなりの業者や個人事業主と提携をしており、人手が足りないとき安価で専門人員を派遣する代わりに仕事をもらっている。互恵関係としてお互いに利益を得ていて対等ではあるが、境界地の住民を脅かしていた裏組織を滅し、管理するようになったクレイドルは多くの住民に感謝され、若干崇められている節すらある。

 ……やってることは、なんか裏組織のケツ持ちって奴?と変わんないんじゃないかな。

 探偵も弁護士もカウンセラーも霊媒師もなんでもござれのクレイドルは、いっそこの境界地全域を支配していると云っても過言ではなく、その社長たる謠惟は境界地の支配者ってことになるな、って思った。

「……支配者ってなんだ、おい」

 訂正、口に出ていた。

 帰社してから事務机に座ってうんうん唸りながら書いたそれなりに漢字が綺麗に並んだ報告書を、謠惟社長に提出するところだったのだ。

 慣れたものでノックもなしだ。どうせ、大事な話は社長室以外のお綺麗な応接室だとかで行われるから、社長室なんて大した場所ではない。

 社長の大きな机や革張りの椅子、本や資料の詰まった本棚はいかにもアンティークでそれなりに社長室を演出しているものの、そこに座っている謠惟がどう見ても裏組織のドン、という印象しか揺唯には持てずボス部屋にしか見えない。

 いつも眉間に皺が寄っているし、シャツは柄物じゃなくなったけどスーツがどことなく貴族というよりも悪ぶっているようにしか見えないのだ。最初に抱いた印象を変えるのは難しい、ということかもしれない。

 紺色の長髪を三つ編みにして前に流している、明ける空の色を湛えた瞳で睨んでくる、やたらと貴族然とした所作が鼻につく謠惟に、揺唯は一応礼儀を持って答えた。

「謠惟しゃちょーがクレイドルの支配者で、クレイドル自体が境界地を支配してるみたいだから。です」

 ぱん、と報告書を勢いよく机に置いた。

 睨み合いが続いていた中、揺唯の答えに謠惟はどこか自嘲するような歪んだ苦笑を漏らした。

「俺は支配者じゃないな。精々、管理者ってところだろう。本当の支配者は――」

 緞帳みたいなカーテンがかかった格子状の木枠がついている窓を振り向く。すぐ近くに、和風建築の要塞「花籠はなかご」が見えた。

 ――あそこには、謠惟の想い人が眠っている。



 それこそ、揺唯がクレイドルに入社して間もない頃のことだ。社長である謠惟ともそれなりに交流を重ね、記憶が曖昧だった頃の時間を取り戻すように関係を修復していった。唐突に、白籠と共に花籠へ招待されたのが事の始まりで。

 閨事や飲み接待専門の夜店だという花籠に、正直揺唯は居づらかった。

 雰囲気をよくするためらしいお香も、五感の鋭敏な揺唯にはきつかったし、乱れた和服を着たInnerがたくさんいる場所はどうも落ち着かなかった。興味があるとか、恥ずかしいとかじゃない。これまで生式というものを直視して生きてこなかったし、裏組織というほとんどYourばかりの場所で生活してきたから見慣れない存在たちに違和を感じてしまうのだ。云い方は悪いが、正直宇宙人の巣窟に放り込まれてしまったみたいだった。

 白籠から宇宙のおとぎ話を聞いたことがある。そもそも、夜見えてる空は宇宙にある星や月が見えているのだ、という授業から始まった。そして、誰も知らない言語を使う宇宙人がずっと電波を発信して交信を試み続けているのだ、と。いつか、遠い未来、どこかの宇宙船が彼人を迎えに行ってくれる、そういうハッピーエンドだった。白籠の話に不幸な結末なんて一度もない。だって、これは幸福なおとぎ話だから。

 白籠の云う人間とほぼ同じ形をした宇宙人ではなく、街で噂に聞く頭でっかちでちょっとホラーな宇宙人だ。形が違う、という意味で。

 可鳴亜かなりあを記憶曖昧時代に見てもあまりそう感じなかったのは、見慣れていたからなのかもしれない。反対に、初めて会ったときは正直他人に興味がなさすぎて姿形をしっかり見ていなかった。

 その可鳴亜も例に漏れずキャストとして和服を着ていた。妖しい提灯の光に照らされた金髪は煌めいて、空調のせいか鳥の羽のようにはためいている。蜂蜜ミルクの甘ったるい瞳さえ、どこか妖艶な輝きに満ちて見えるのだ。この空間にはその魔力がある。或いは、仕事中の可鳴亜には、ということだろうか。じゃらじゃらついた鎖だけが、ファッションとしても異様だった。

「あたし、本当は花籠が本業なんだ。情報屋とかクレイドルの外部協力員もしてるけど」

 あっさりと告げられた事実に、身内の夜事情を聞かされたようななんとも云えない気持ちにさせられた。でも、不快感はない。本人がけろっとしているし、店やキャストの雰囲気がそこまで悪くなかったから。皆、ここで仕事するのが楽しくて花籠にいるんだなってわかる。

 ちょっとだけ、いろんなキャストに接待された。

 人の美醜には興味がないから美人ぞろいなんだよ、とおすすめされてもいまいちわからない。ただ、造形が整っているという意味では裏街の薄汚い人間に比べればそうだろう、と思う。

 ちょっと前までは研究所が近くにあったこともあり、花籠にはドールと呼ばれる存在だけでなく、さらになんらかの幻想種やその能力を付与された人たちも多い。だから、獣人と呼ばれる幻想種のように兎や猫といった動物の耳としっぽがついているキャストだっている。

 宇宙人、という譬えを出したものの、白籠のこともあって普通の人間でない形に抵抗はなかった。

 ただ、隣に白籠がいるから接待されるのが居た堪れなくて、揺唯は借りてきた猫みたいにおとなしくなっていただけで。

 かくいう白籠は、以前キャストではないものの花籠にお世話になったことがあるらしく、むしろキャストと仲よさそうに筆談していた。時折、くすくすと笑い声が漏れるほどだ。

 ……キャストではなかった、と聞いて正直安心した。

 それなりに花たちに揉まれ、オーナーに認められた後、謠惟が顎をしゃくって「ついてこい」と示した。

 素直に従った。

 慣れない場所と人いきれになんだか疲れていたし、真面目な表情をしている謠惟をちゃかすべきではないと思ったから。

 ぐるぐる、ぐるぐる。

 長い螺旋階段を、ひたすらに上っていった。

 ここがあの和風屋敷を象徴する一番高い塔なのだ、ということはすぐに判った。

 揺唯の空間把握能力がなくたって、これだけ上らせられれば誰だって気づくだろう。

 花籠も夜店も何もわからなくても、この塔が重要な場所だということは理解できていた。

 さっきから、謠惟も白籠も、可鳴亜でさえ何も喋らない。

 いつも明るくお喋りして場を和ませてくれる可鳴亜が一番真剣な顔をしていて、なんだか気が引けた。自分はここに相応しいのか、って疑いたくなった。

 最上部に辿り着くと、そこには重たそうな木の扉があった。

 難なく可鳴亜が開く。厳かに、従者のように。

 蝋燭の灯りしかない暗い階段から、急に明るくなって目が眩んだ。

 思ったよりも落ち着いた和室だった。

 空間よりも、天蓋を纏った寝台に横たわっている人物に自然と目がいく。

 眠っているのに、独特な魔力香でも放っているのかもしれない。

 弱りきっていて微弱な魔力なのに強く香るということは、よほど魔力の質が高いのだ。

 その魔力は、この花籠、或いはこの境界地そのものとそっくりで清廉としていながらどこか凛とした花のような香りにも思える。

 それは、そう――ちょうど彼人の白い髪に映える、左耳の後ろに挿された紅い椿のように。

 椿、カメリア。

 それは、なんだかカナカナの名前に音が近いな、と揺唯は思った。

 揺唯が部屋の主に釘づけになっている間に、可鳴亜はそっと彼人に寄り添って手を握っていた。

「姉さん、初めましての人を連れてきたよ。白籠の恋人」

 姉さん、とは禁句のはずだ。

 旧時代の性別に関連する言葉はほとんど禁止されてるって白籠は教えてくれた。そもそも、元々Borderのきょうだいでそんな区別存在するはずもない。

「驚いた? 花籠では皆姉妹で、年上は姉さんって呼ぶの。花椿かめりあ姉さんは、本当に生まれたときからずっと一緒にいる、あたしの大事な姉妹。ずっと、眠ってるけれど……仲よくしてくれるとうれしいな」

 仕事の時ともまた違う、落ち着いた雰囲気の可鳴亜。

 どこか寂しげな表情は、眠り続ける姉をずっと思い続けているが故なのだろう。

 揺唯はうん、と頷いた。

 大事な身内の大事な人は、揺唯にとっても大事だ。

 可鳴亜の姉だというこの儚げな人が、早く目覚めればいいと思う。

「かめりあ……さん、か。じゃあ、メアさんだな」

 と、カナカナにつけたみたいにあだ名を決めると、なぜか可鳴亜は笑いを堪えているし、謠惟は渋い顔をしていた。

「え、ダメ? カメさんよりメアさんのがいいと思うけど……」

「う、ううん。全然! いいと思う。きっと、姉さんも喜ぶよ。ユイユイは別に悪くないの……。ただ――似てるなぁって」

「?」

「気にしないで、思い出し笑い」

 と、云いながら可鳴亜は謠惟をバンバンと叩いていた。痛くもかゆくもないのだろうが、謠惟はチョップをお返ししていた。

 二人が小競り合いしている間に、白籠が改めて揺唯のことを紹介してくれた。現状報告も含めて、二人の馴れ初めまで。

 眠っていても話しかけるのが大事なのだ、と二人で他愛ない雑談を語りかけ続けた。

 白い肌に濁った白い髪、顔の右半分を前髪が覆っているし、布団で身体もほとんど隠れている。それでも、がりがりに痩せ細っているのは確かで、しかしその美貌は損なわれることがない。

 花椿は何も応えてはくれないが、どこか雰囲気が緩んだような、そんな気がした。

 しばらくして、白籠に花椿の夢を覗いてもらう、という話になった。定期健診みたいなものらしい。

 謠惟に手招きされて、隣の小部屋に移動した。給湯室、のようなものである。こんな高い所によくキッチンが作れるな、と思ったけれど謠惟曰く魔術的に水や火が出るようになっているそうだ。

 白籠の集中を妨げないために連れ出されたのか、と思ったけれど口がもごもごしているあたり、何か話があるらしい。

 突然、窓を開けた。

「わっ」

 高層階ならではの強い風に襲われる。

 やがて、風が緩やかになってから謠惟は揺唯に煙草を差し出した。

「嗜むだろ。共犯になれ」

 揺唯のちょっとした喫煙趣味はバレているらしい。病人の近くで吸うのを一緒にやれ、と云っているのだ。銀色のジッポライターで自分の煙草を点けた後、揺唯の分にも火を点けてくれた。

 ふぅ、と謠惟が吐き出した煙が窓の外へと攫われていく。

「……俺と、メリアも共犯者だった」

 一瞬、誰のことかわからなかった。でも、それが指し示すのは一人しかいない。

 黙って、続きを促した。

「いや、今も、だがな。そんで、まあ……恋人でもある。可鳴亜がメリアと一緒に報告しに来るまでは認めないっつうから、保留なんだが」

 謠惟にそういう人がいる、というのは意外といえば意外だった。いると云われれば違和感もないけれど。

 ただ……、ほっとする部分もあった。

 時に鋭く尖ったナイフのような瞳をするこの人にも、揺唯にとっての白籠のような、大事な人がいるなら安心できると思ったからだ。

 だからこそ殊更に、早く目覚めればいい、と。

「今日、お前にメリアと逢わせたのは……できれば友人だと思ってこれからも会いに来てほしいからだ。眠る前からずっと塔の住人だったもんで、友人は少ないんだ。かと云って、信用できない奴はここには上がらせられねぇ。だから、時々でいい。たまに、白籠と一緒に話しかけてやってくれないか?」

 窓際に寄りかかった謠惟は、髪の色や恰好もあって外の夜闇に溶け込みそうだ。憂いを帯びた瞳が、なんだからしくなくて嫌だった。

「いーよ。ハクローの友達なら、おれの友達だし。ウタさんとカナカナが来ていいって云うなら、いつでも遊びに来んよ」

 にへら、と笑った。

 煙草を吸う。

 煙が揺蕩う。

 きっと、ここには哀しみも苦しみも、揺唯には予想もつかない物語もあって、それらを悼むように煙を上げるのだ。

 その後、しばらく二人で窓際に佇んでいた。

 二人には言葉以外で伝わる何かがあった。

 ……とか、そんな綺麗事じゃない。

 単に、二人して証拠隠滅に必死だったのだ。



「――……本当の、この境界地の支配者は花椿だ。俺はあいつの意志を継いだに過ぎない」

 ま、それも上手くいってんだかって話なんだけどな。

 なんて、珍しく弱気な発言をする謠惟はどこか憔悴気味に見える。

 花椿が目覚めないことに、落ち着いてきた今だからこそ焦りを感じ始めたのかもしれない。

 ――似合わねー。

「……んな弱気なこと云うなら、ハクローに〝謠惟が元気ない〟って云いつけるけど」

 いーの?

 うげ、という顔をした。

 最近、謠惟は白籠に云いつけられることに弱い、という事実に気づいた。

 どうやら、白籠にはごまかしが利かないし、純粋に誰よりも本気で心配するので罪悪感がものすごいのだろう。あと、白籠は根に持つタイプだ。改善・解決されない限り、ずっと押しかけるに違いない。

「やめろ。卑下するような発言をしたことは撤回するが、メリアが本当の支配者だってのはただの事実だ。あいつの計画と努力なしには、この境界地は平和にはならなかった」

 それは、そうなのだろう、と思う。

 昔に比べれば相当治安がよくなった、ということは実感せざるを得ない。

 そして、今ずっと眠り続けるくらい消耗しなければならないほど、そのために花椿が尽力したであろうことも関係者ではないながら想像はつく。

 皆からの厚い信頼と目覚めへの希求を目にすれば、花椿という存在は途方もないほどに皆を愛し、他者のために己を犠牲にしたのだろう。

 部外者が知った口は利けないが。

 窓の外、花籠の最も高い塔を見つめる。

 クレイドルの本社を花籠の近くに置いたのは、当然花椿の近くにいたかったからだろう。公私混同とは云わない。花籠の近く=治安がいい場所、だから。うちのアパートも近いし。

 七階建ての見た目だけ西洋風だとかいう煉瓦造りやアンティークチックに整っているが、その外面に合った調度が置かれているのはそれこそ社長室と応接室、受付くらいなものだ。他の事務所だとか更衣室だとかは皆古びた灰色の事務机とパイプ椅子だとかロッカー……まあ安っぽいオフィスの家具がそろいもせずに雑多な内装となっている。報告書を書くだけなので、揺唯としては別にどうでもいいが。なんなら汗を流すためのシャワー室まで完備されているので親切設計ですらある。

「……きっと、目覚めるよ。ハクローが白夢を見てるって云ってたし、魔力の質も行くたびによくなってるし」

 ――白夢を夢見なきゃ、現実にならないんじゃん。

 はっ、と謠惟は目を見開いた。

「……そうだな。可鳴亜があれほど信じているんだ。叶わないはずがない」

 自分自身だって願っているだろうに、あえて可鳴亜の名前を出すところが謠惟らしい。

「そーそ。じゃ、ハクローには云わない代わりに今度なんか奢ってよ」

「莫迦たれ。んなの、呑むわけねーだろ。もちっとまともな報告書――」

「――しつれーしました!」

 長い説教が始まる前に社長室から出て、家路に就く。

 春の陽気に浮かされて、スキップしながらおうちへ帰る。

 寒いのは途轍もなく苦手なので、必然的に暖かくなる春が好きだった。

 氷竜神の能力を持つが故に氷魔術を扱え、その代わり芯から冷えやすい。

 自分自身の能力で凍りついて死にかけた記憶、冷えきった路地裏で独り寂しく凍えながらボロ布にくるまって眠った記憶、そういうのがあるからか冷たいのも寒いのもとことん駄目だ。

 ……でも、白籠と一緒にいれば寒い冬だってへっちゃら。

 嘘、やっぱり寒いのは苦手だけど、触れればあったまる。

 少なくとも、寂しくはならない。

 勢いよく歩いていたのもあって、本社から近いアパートメント「メゾン・トワイライト」にあっという間に辿り着いた。

 古びた階段を駆け上がると、換気扇からコンソメのにおいが漂ってくる。今日は洋食かもしれない。

「ただいま、ハクロー!」

 と、揺唯が手を広げれば、

「おかえりなさい、ゆーちゃん」

 そう微笑んで鍋をかき混ぜていたお玉を置き、火を消してその腕の中にすり寄るように入ってくれる。

 ぎゅっ、とハグをして――そしてただいまとおかえりなさいのちゅーをする。

 しばらく、永遠みたいな、数秒を、何度も。

 ぷはっ、と息継ぎを未だに上手くできない白籠が頬を染めながら荒い呼吸を繰り返す。

 かぁわい。

 いつまで経っても慣れずに初心な反応を返してくれるところが。

 そのくせ、

「……ゆーちゃんのあったかい匂いがする」

 って、首許に顔を埋めて色の籠った声音で囁くのだ。

 煽るなよ‼

 こちとら、ハクローを傷つけないように一年以上かけてゆっくり進んでるんだから!

 という、揺唯の心の叫びは当然本人には届かない。

「ね、揺唯。もういっかい」

 だめ?と、小首を傾げるように見上げてくるものだから、ダメなんてことあるもんか!という気持ちで、白籠の薄く柔らかい唇に口づける。

 蕩ける碧玉の瞳が瞼の下に消え、長い睫毛が震えている。墨色の髪は随分伸びて、二つの三つ編みをまとめて黒い三角巾の中に隠している。白い割烹着の下は、今日は桜色みたいだ。春らしい色の着物はまだ春先なので厚めな生地のものだった。新雪のような白い肌だけでなく、黒いバクの耳としっぽが隠されていることを揺唯は特別に知っている。

 カタカタカタカタ、と薬缶が沸いた音にぱっと二人は離れた。

 ちぇっ、と残念な気持ちがありつつもこのままキスを続けていたらヤバかったしキリがないので、いっそよかったと思い込む。

 着替えて手洗いうがいを済ませているうちに、着々と晩ごはんは運ばれていた。

 揺唯がすることはほとんどなく、白いご飯をそろいの茶碗につぐことくらいだった。

 卓袱台の上には、ロールキャベツ、キャロットスープ、けんちょうに漬け物、そして今持ってきたご飯が並ぶ。

 可鳴亜と一緒に料理したりするようになって、白籠の洋食のレパートリーが増えた。

 それはそれとして和食も挟んであるけれど、和洋折衷になろうと統一感など特に気にしない。

 いただきます、して早速食べ始める。正直、いっぱい動いたのでお腹ぺこぺこだ。

 魔人である現代人は食べたものをすべて魔力に変換するのだから、動くとお腹が空くとはこれいかに?という話なのだが、感情に左右されやすくもなっているのだから、要は気分だ。

 或いは、魔力を消費すれば、疲労感と同じように飢餓感も生まれるのかもしれない。

 ロールキャベツはよくスープに浸っていて、一口食べた途端――軟らかな春キャベツの食感と中のジューシーな肉汁が口いっぱいに広がっていく。スープの香ばしさは鼻からつき抜けていくようだ。

「うっま! ハクローはなんでも美味しく作れるな」

 褒めると、白籠は照れる。

「カナさんに、教えてもらいました……。春キャベツが美味しい季節なので、いろんなキャベツ料理」

 教えてくれた可鳴亜がすごいのだ、と逃げを打つ白籠に「作ったハクローもすごいよ」と追撃すると、おそらく耳がへにょっと隠れるみたいに瞼を伏せた。

 最近、白籠が瞼を閉じるとまるでキスを望まれてるみたいに思えて、ついしたくなるからほんと困る。

 煩悩はご飯と一緒にかき込んで飲み下した。

 絶妙な味つけでご飯が進んで仕方ない、そういうことだ。

 キャロットスープはにんじんの甘味とスープのコンソメがベストマッチしてるし、けんちょうを食べるといつもの味だってほっとするし、白籠の漬け物はご飯がさらに進む。

 ごちそうさま、と一息吐く頃にはお腹がぱんぱんだ。

 温かい緑茶が優しい……。

 食器を下げた白籠が座布団を持ってちょこちょこと隣に座った。何をするでもなく、ただ肩に頭を乗っけて寄り添われた。

 いつだか揺唯が直したラジオが、ややノイズ交じりに明日の天気を告げている。

 ただ、隣にひっついている。

 何もしないでいる。

 愛しい温もりとかすかな呼吸音をお互いに感じ取って、微睡むように一緒にいることが幸せだった。

 それからの、夜の営みは二人だけの秘密、だ。

 ――カーテンの隙間から覗く、月だけが見ていた、ってな。

 二つ敷いた布団の、しかしほとんど揺唯のほうに偏って床に就く。

 今日の白籠のおとぎ話は、ある城に囚われたお姫さまの脱走劇だった。

 巻き込まれたスラム出身の商人が、颯爽とお姫さまをかっ攫っていくシーンが爽快だった。

「なー、お姫さまとか王子さまって生まれたときからそうなるのが決まってんの?」

 暗に生まれたときはBorderだから生式わかんないじゃん、という意図を含めた質問だった。

 スウェット姿の揺唯に対して、寝巻用の灰色の着物を着た白籠は、月明かりのみの暗がりに灯る理性の光を瞳に宿して答えた。

「……説明すると長くなりますが、簡単に云えば政府はおとぎ話からお姫さまや王子さまを奪い去ることができなかったんですよ。本来、昔からあるおとぎ話は性別を元に作られています。それを、政府はやがてInnerになるかYourになるか生まれたときから決められている存在、として定義することによって禁句を回避しました。人類から、おとぎ話という拠り所を奪えなかったから。姉や兄といった言葉が禁句となっている中、母や父、おばあさん、おじいさんという言葉が生き残っているのは子どもが生まれている以上生むほうか生ませるほうか明確に決まっているからだとも云えますし、その名称まで奪ってしまうと子どもが親を呼ぶとき困るから残ったとも考えられます」

「へぇ……。めんどくせーの」

「ふふ。まあ、実際旧家なんかでは生まれたときから家を継がせたい子は必ずYourにさせることを決めていたり、Innerとして子どもを生ませようと決めていたり、親や家の都合で将来が決まっていることも少なくないそうです」

 ……実家を思い出した。

 もしも、揺唯が裏街へ脱走して裏組織に加入することがなかったとしても、あの金持ちの名家はきっと自分をYourに再誕させる気だったのだろう、と思った。

 なんだか、気がめいる。

「でも、よかったです。お姫さまとか王子さまっていう表現が残ってくれていて……。わたし、ゆーちゃんの王子さまになりたいです。何があっても、守れるように」

「えー? おれがハクローの王子さまがいーよ。Yourだしさ」

「そーいう差別は、よくないと思います」

 ぷくぅ、と頬を膨らませて可愛らしい。

 それはそれとして揺唯も譲れなかったので、結論としてどちらも王子さまでお姫さまということにした。

 そうやって寝転んでお喋りしているうちに、揺唯の瞼も下りてきた。

「おやすみなさい、いい夢を」

 いつもの文言で白籠が額に唇を落としてくれるので、揺唯もお返しにキスを送る。小さなおでこに、ちゅっとノイズをのせて。

 すると、白籠の口許がほんの少しだけ微笑ふふんだ。桜の蕾みたいに。

 春は、いい季節だ。

 この恋は、きっと永遠の春なのだ。

 寝る段になると、白籠は一枚の御札を自分の枕の下に挟む。

 白籠自身が作った、他者の悪夢を御札同士を通して転送するもので、白籠が悪夢を喰らうために謠惟主導で開発したのだった。

 獏の幻想存在である白籠は、他者の悪夢を喰らい、白夢を連れてくる。云わば、悪夢は白籠の主食なのだ。

 しかし、記憶が曖昧になった揺唯と暮らしていた一年、白籠は一度も悪夢を喰らっていなかったそうだ。揺唯の悪夢という名の記憶をずっと含んでいたから飢餓感に襲われなかったものの、本人に返した後すぐ体調を崩した。そうして、白籠の我慢がバレて、可鳴亜と謠惟がしこたま怒り叱っていた。仕方なく、境界地内で悪夢を無作為抽出して喰らうようになった矢先、ある悪夢に白籠が囚われてしまったのだ。それはこの治安の悪い境界地において選別もせずに悪夢を見れば、描写も不可能な最悪とかち合ってしまう可能性などいくらでもあった。そんなリスクがあったものだし、揺唯自身どこの馬の骨ともわからない人間の悪夢を喰らうのはどうかと思っていたので謠惟の計画に乗ったのだ。

 本当は、今も誰かの悪夢を白籠が喰らうのを、ちょっと嫌だと思ってる。

 そういった経緯もあり、白籠が安心安全に、悪夢を喰われる側も望む人が正しい意味で悪夢を祓えるように、営業が顧客を厳選して売りつけているわけである。

 白籠自身はどんな悪夢でも美味しくも不味くもないんですよ、ってきょとんとしてたけれど、正直白籠にえげつない悪夢など見せたくない。ただの食事であって、見ても痛くないと云うけれど、他者の哀しみに敏感な白籠が傷つかないはずがない、と思っている。

 もう白籠と眠っていて悪夢を見ることなどなくなったし、仮に見たとしても本人が出てくる淫夢を喰わせるわけにはいかないのだが。

 それでも、できることなら白籠を構成するすべてが自分でありたいし、他人の夢など見てさえほしくない。……なんてわがままを云える立場ではないので、その隣を独占して眠ることで溜飲を下げるのだ。

 夢がある。

 ――もっと深くまで繋がり合いたい。愛し合いたい。そうするに、相応しい関係になりたい。



       ∴



 花の鏡を映したように、公園すべてが桜の花びらに埋もれている。

 桜の海に沈めば、きっと花の精に出逢えるのだ。

 ――いつか、どこかで拐かされたあの子は、花の鏡面に魅入られてしまったの?

 アパートメントの裏手から近くにある寂れた公園で、一人。

 白籠はベンチに座ってぼうっとしていた。

 否、本当はいろいろと考え事をしていたのだけれど、いつもの如く脱線した思考はやがておとぎ話を紡ぎ出していた。

 すっかり木は葉桜となり、花びらばかりが地面に満開している。

 散ってもなお万遍の笑みを浮かべる花たちは、綺麗で儚い。その向こう側に、いきたくなる。

 小さな児童公園には鉄棒と滑り台、ブランコ、そして座っているベンチくらいしかない。木製の丸太を切ったようなベンチは、所どころ皮が剥げているし、どの遊具も錆びついて触ると痛そうだ。

 ぱたぱた、と小さな足音と共に慌てて追いかけるような大きな足音がした。

 目線を上げる。

 小さな子どもが公園に入って、ブランコを押して!とねだっているところだった。はいはい、と微笑むのはきっとお母さんだ。目が合ったので、お互いに軽く会釈だけした。

 こんな境界地に、子どもは珍しい。

 もっと治安の悪い裏街あたりなら孤児や浮浪児がうろついているけれど、平和に過ごしている子は初めて見たかもしれない。見たことあるのは、よくて花籠のお手伝いをしている子くらいだった。

 もちろん、平和そうに見えたところで、戸籍も与えられない無法地帯にいる家族になんの困難もないことなどないが。

 それでも、穏やかな昼下がりの象徴みたいな光景が見られて、ほっとするとともになんだか泣きたくなった。

 話すこともないであろう、近くて遠い隣人。

 どんなに大変な境遇にあろうとも、人間として家族が育める、普通。

 生式を持たない、無生式の白籠には無縁の幸福。

 燦々と降り注ぐ日射しさえ、今は恨めしい。

 ――ううん、違う。

 羨ましい、というよりただ哀しいのだ。

 他の誰かなら与えられるものを白籠は持っていないのだ、ということが。

 揺唯を幸せにできる存在が自分ではないかもしれない、ということが。

 こんなにも、かなしくて……さびしい。

 きぃこぉ、と不協和音が鳴り響く。

 親子の笑い声だけが優しくて、春の風に涙は攫われていったから……泣かなかった。



 それに気づいたのは、茶碗を洗い終わった後だった。

 今朝はちょっとばかり二人でいちゃつきすぎて、揺唯はぎりぎりに出ていった。白籠も白籠で家事の順番がしっちゃかめっちゃかになり、朝ごはんのお皿を洗うのが後手に回ってしまったのだ。

 ぽつねん、と食器戸棚の天板に弁当の包みが置いてあった。

 家で食べる白籠が弁当など要るはずもなく、もちろん外に働きに出る揺唯のためのものだ。蒼い波を纏った風呂敷には、正にYUIと刺繍されている。それはそうだ、白籠が縫ったのだから。

「……忘れ、てました」

 いつもならお弁当を手渡しするのに、ドタバタと見送っていたらすっかり忘れて、昼前になるまで気づくこともなかった。

 それでなくても体力労働で大変な揺唯にお昼を抜かせるなんて考えられない。職場の皆が優しいから何か分け与えてもらえるかもしれないし、自分で何か買う余裕もあるかもしれない。

 それでも、失態だと思った。

 ――でも、今ならまだ……間に合う。

 今日の現場は白籠も知っている馴染みの工場だ。揺唯が検査とシール貼りを担当している。

 遠くはないし、急いで行こう――と思った。

 危うく、白い割烹着のまま外に出るところだった。

 ……焦ると、いつもこうだ。

 割烹着を脱いで、襷がけしていた腰紐を取り、萌黄色の着物を軽く整える。

 桜色のリップを手鏡で確認しながら薄く塗って、弁当箱を手提げ袋に入れ、茶色の草履を履いてから急いで部屋を出る。

 カチャリ、と軽い音で鍵がかかった。

 よく晴れた春の日、眩しいほどの太陽に見送られて足早に工場へと向かう。

 目眩がしそうなほどの明るさで、一瞬目を眇めたほどだった。

 ――恋人になってから一年、相変わらずぽかをやらかすけれど順風満帆だと信じて疑わなかった春。とうに帆には穴が開いていたなんて、そんなこと思い出しもしなかったのだ。幸せに満ち溢れていて。

 春の鳥が空を横切る。

 自由な鳥は、揺唯だ。

 もしも、白籠という鳥籠から出ていくのだとしてもそれを止める気なんてない。

 いつか、旅に出たいと云われても、何か目的を見つけて出ていっても、或いは好きな人ができたとしても……白籠はただ見送るだろう。そして、ずっと待ち続ける。

 明日も、なんて望まない。

 いってきます、の後にいつまでもおかえりなさいを云えなくても構わない。

 揺唯が幸せなら。

 それでも、微睡みのようにあたたかく染み渡った幸福は、希望の光として絶望への前座を築く。地獄へ続く道は、決して険しいだけではないのだ。

 優しさも、善意も、愛も、笑顔さえ……積み重ねられ瓦解した瞬間、地獄へと堕ちる。

 明日も、ただいまも望まなくたって、にじり寄る影から逃れる道は、ない。

 揺唯は白籠が獏の幻想存在だと知っても、悪夢を喰らう恐ろしい化け物だと告げても、こんなおっちょこちょいで迷惑ばかりかける存在だとわかっていても、白籠を恋人にしてくれた。今も、大事にしてくれている。ちょっとずつ、触れ合いを進めてくれている。傷つけないように、大事に。

 そんな揺唯に相応しく、ありたい。

 身内以外の人が苦手だとか、他者と喋られないから、と逃げたくない。

 たとえ、声を出すことができなくたって、コミュニケーションを取って揺唯にこのお弁当を届けなければ!

 今日、最大のミッションである。

 街外れの工場は、鉄筋剥き出しのトタンで囲われた建物で、そのすぐ傍に小さな木造の事務所がある。事務員さんに渡せば、きっと届けてもらえるだろう。

 と、思った瞬間。

 ウォォオン、と獣の咆哮のようなサイレンが鳴り響いた。

 お昼休憩の合図だ。

 どうにか間に合った、とほっと胸を撫で下ろす。

 工場からぞろぞろと人が出てくるのが見えた。事務所の隣にある簡易的な食堂で、皆が食事を摂るのだろう。何はともあれ、事務員さんにあいさつしなければ。勝手に入っては不法侵入だ。

 ひょこっ、と白籠が事務所の硝子ドアを覗き込めば、ちょうど事務員さんと目が合った。

 作業着を着た恰幅のいいInnerの事務員さんは、全開の笑顔で手招きしてくれる。一度会っただけなのに、白籠のことを憶えていてくれたみたいだ。

 去年の忘年会で、勝負になって飲みすぎたらしい揺唯を迎えに行ったとき、事務員さんと工場長とは少しだけ会った。何度も何度もお辞儀をした記憶しかないが。家に電話がないので、緊急連絡先は大家さんの黒電話になっており、大家さんに呼ばれて何事かと思えばそういう経緯いきさつだったのである。

 揺唯が心を許せる人が増えたのだと、素直にうれしく感じたのを憶えている。

 そして、こんな喋りもしない白籠にも優しくしてくれる。

 用件を伝えようとして、けれどメモを先に書いてくるのを忘れていたのでどうしよう、とあたふたした。のだが、弁当の包みを見ただけで事務員さんが気づいてくれた。

「ああ、揺唯ちゃんのお弁当でしょう? さっき、工場で忘れたぁ!って騒いでいたもの。べっぴんなお連れさんが持ってきてくれるなんて、果報者ねぇ」

 赤い口紅の似合う、朗らかな人だ。白籠たちよりも一回り以上は年上と思しき彼人は、その皺を刻むほどに困難を乗り越え、いろんな不安を抱えながらも、しかしすべてを笑顔で済ませてきたのだろう、という雰囲気を持っている。

 魔人は特にその人の身体的特徴も雰囲気も魔力も、心とそれまでの経験を顕著に反映する。

 食べれば食べるほど、カロリーの高いものを食べるほど太る、というわけではない。精神的に肥え太り傲慢になればなるほど、醜く身体をぶくぶくと太らせていく。幸せやストレスを溜め込めば、それはそれで身体の特徴として出る。結果は同じでも経過は異なるのだ。でないと、食べた物すべてを魔力変換しているのに辻褄が合わない。反対に云えば、結果が同じですべてはイコールで結ばれているのならば、強欲にも食べすぎるとおおよそ太る(個人差あり)ことに違いないという話でもあるが。

 事務員さんは健康的な恰幅のよさである。人生谷も山もあって、しかしそれと笑顔で向き合ってきたのだろうな、という道行を窺わせる。

 こんなすてきな人たちのいる職場なら安心だ、と初めて工場の人たちを見たときにも思った。

 白籠の答えがなくてもお構いなしに事務員さんは話し続ける。

「それにしても、いつもお弁当すごいわよねぇ。お店の惣菜一つもなしにあれだけバランスのいいおかずがそろってるんだもの! アタシも分けてほしいくらい。揺唯ちゃんってば、アナタのお弁当が好きだからちょっともあげたくないんですって。相思相愛ね、いいことだわ」

 にこにこ、にこにこ。

 お喋りは止まることを知らない。そして、いつまで経っても食堂に来ない事務員を見に来たのか、或いは話し声が気になったのか、ぞろぞろと人が集まってくる。

「あれ、誰だい?」「えれぇ、べっぴんさん」「あれ、揺唯んとこの――」「ああ、茶色い弁当の」

 気づけば、かなりの人に囲まれていた。

 喋られたとしても、この人数に口々に話されては答えられなどしなかっただろう。

 困ったように微笑みを浮かべるだけですべての対応とした。

 ふと、誰かが窓の外を指さして、

「揺唯ならあそこにいるぞ」

 と、教えてくれた。

 薄暗い旧式の蛍光灯に照らされた事務所から、春の日射しが強い庭に目を遣る。

 そこには、小さな子どもを肩車する揺唯の姿があった。

 眩しい。

 揺唯も、その子も楽しげに歯を見せるほどの笑顔が満開だった。

 禿頭とくとうで笑顔の皺が深い老人、以前少しだけあいさつした工場長も近くで微笑ましげに佇んでいる。

「あれ、どこの子?」

「工場長の孫だってさ」

「はぁ? 工場長に子どもなんていなかったべさ」

「あれだよ、あれ。あー、寄付してた孤児院の子が連れ合ったって云ってたじゃろ」

「おー、あのちんまかった子たちも立派に親かや」

「そーらしいぜ」

「時間が経つのまじ早ぇっすよねー」

「あれじゃ、揺唯がとーさんみたいやんね」

「工場長のじじぃってば、揺唯のこと自分の子みたいに思ってる節あるもんな」

「揺唯に子どもが生まれたら、また自分の孫じゃ!って主張するんでしょ」

「いつ、連れ合うんだい? 早く、二人の子どもが見てみたいなあ! きっと、すごい美人に育つんじゃねぇか」

「確かに。お連れさんも揺唯も美人だものねぇ」

 何げない、当然の言葉だった。

 恋人同士が連れ合うのはまっとうな流れで、逑に子どもができるのは自然の摂理だ。特に自分の子どもや下子のように揺唯を可愛がってくれている工場のメンバーからすれば、待望の夢である。

 ……そんなあたりまえの事実を、忘れていた。

 恋人にしてもらえた、という事実にだけ浮かれていて。揺唯が家から出ていかずに、傍にいることを選んでくれたことがうれしくて。

 そんな将来にまで目を向けていなかった。

 仮に、想いが通じ合って逑になれたとしても、再誕できない白籠はどんなに願っても揺唯のためにInnerになることはできない。

 白籠が生式を変換できない、無生式である以上――子どもは、できない。

 そんなの初めから解っていたことなのに、子どもが欲しいなんて考えたことがなかったから、ずっと思考の外だった。恋人ができることすら、白籠の見る未来にはなかったから。

 今はまだ揺唯自身が子どものようで、成長途中だから……子どもが欲しいなんて思ってもいないかもしれない。でも、いつか成長したときに欲しくなるかもしれない。今日のように子どもと触れ合っているうちに、自分の子が欲しいなって。

 ……そんなとき、白籠が逑に縛ってしまっていたら、そんな未来を揺唯から奪うことになるのだ。揺唯の、子どもを。

 子どもは、大事だ。

 逑になる、ということは子どもを生むことと同義とされる。

 子どもの生まれにくい魔人だからこそ、連れ合うこと、子どもを作ることは必須なのだ。

 実際、養父母があの過疎化の進みきった寒村で、子どもができなくて村人たちから白い目で見られ、半ば迫害を受けていたという話は聞いたことがある。だからこそ、白籠を拾い、孫のような子どもができたことが何よりの奇跡でうれしいことだったのだ、と。

 そもそも、連れ合うことも難しいこの境界地で、そんな偏見はないかもしれない。

 それでも、揺唯にはなんの瑕疵もないのに、白籠のせいでもしも嫌なことを云われたら……、と思うと辛かった。

 白籠は揺唯になんでもあげたいのに、一番大事なものはあげられない。

 白籠は、自分の白夢だけは、見ることができない。

 ……できないと判っているのに、逑になることは罪なんじゃないか。

 そう、囁かれている気さえする。

 気づけば、白籠は公園までとぼとぼと歩いて、すとんとベンチに落ち着いていた。

 揺唯は子どもたちと楽しそうにしているから、と事務員さんにお弁当だけ預けて会わずじまいだ。どんな顔で会えばいいかわからなかった。

 今も。

 考えはまとまらず、結局おとぎの国のハッピーエンドも思い浮かばず、夕食の買い物へと商店街まで足を伸ばす。

 その頃には、遊具で遊んでいた母子の姿もなかった。

 夕暮れの商店街は、今日も元気に商売をしている。

 いつもどおり喋りはしないが、それでもいくらか表情でお話しするようになった白籠がどことなくしょぼんとしているのを見かねて、皆おまけしてくれた。

 今日はどうしたんだろう、ときょとんとしている白籠に、商店の店主もおはぎを二つサービスしてくれた。

 こねる、こねこね……。

 ひたすらに、ただ無心で、赤くいっそ艶やかなひき肉を手でこねていた。

 今晩は豆腐ハンバーグの予定だからだ。

 合いびき肉が安かったし、豆腐屋さんが美味しいお豆腐をおまけしてくれた。

 揺唯はやっぱり肉や魚が好きだし、さっぱりした豆腐ハンバーグは特にお気に入りみたいだから、気合を入れて作っている。

 揺唯がお手伝いしてくれたときは、粘土遊びみたいにこねるのが楽しかったらしくて、ずっとこね続けていた。ちょっとだけ困るのは、揺唯がタネを作ってくれると、ハンバーグでもコロッケでもものすごく大きいサイズを作ろうとしてくれるところだ。

 ……そんなところも、いとしい。

 いっそ無になるためにこね続けたハンバーグは、大量にできた。

 揺唯は帰ってくると、こんもりと盛られた豆腐ハンバーグに目を輝かせた。

 大根おろしとポン酢を添えて、ご飯とお味噌汁、野菜サラダ、漬け物を卓袱台に並べた。

 たくさんのハンバーグを器用に大根おろしと絡めながら食べる揺唯は、ご満悦のようである。いつものように仕事の話をしてくれていたけれど、ふと思い出したみたいに「弁当、ありがとな」とにへらと笑った。

「でも、会いたかった……」

「ごめんなさい、お子さんと楽しそうに遊んでたみたいだから邪魔するのも嫌だなと思って……」

「まー、おれも気づけなかったからいーんだけどさ……。皆がハクローのことべっぴんだとか、いい連れさんだとか好き勝手云ってきてさぁ。おれのハクローなのに。ハクローが綺麗でかわいーことなんて、おれが一番知ってるのに……!」

 なんて、拗ねている揺唯があまりにも可愛い。

「わたしも、揺唯が一番可愛くてかっこいいこと、知ってますよ」

 そう白籠が事実を伝えれば、途端に揺唯が顔を真っ赤にした。

 サラダを口につっ込んでごまかしていたけれど、バレバレだ。

 微笑ましくそんな揺唯の表情を見つめる白籠の瞳には、ずっと暗い影が差していた。

 その日の夜は、月に棲む兎の話だった。

 そして、歴史の話にも少し発展して、クレーターが兎が餅つきしている姿に見えるけれど、そもそもあのクレーターは人類が月に移住していた頃に戦争した痕跡だという説もある、ことも語った。

 そこから、ぴょんと跳んで兎獣人が月にいる可能性の話になり、兎獣人や獣人そのものの生態の話まで跳び越えた。

「獣人には、盛情期せいじょうきという生式行為をするのに適した時期が一定周期訪れて、一定期間続くんです。成長期を抜けると、訪れるようになるみたいですね。フィーリング……魔力感知能力のようなものが強くなって、自分の運命的存在、相性のいい人が嗅ぎつけられる、とか。わたしは耳としっぽがあっても獣人ではないので、そういった時期はありませんね」

「へー、人間には盛情期、ないんだ」

「基本的には。ですが、似たようなことはなくもないみたいです。季節柄だとか場所の魔力、その人の魔力的資質、いろんなものが作用し合って、盛情期とまではいかずともフィーリングが高まって恋人といちゃいちゃしたいなーとか、触れ合いたいなぁっていう時期が唐突に訪れることもある、という論文を読んだこともあります」

「えー。おれ、いつもハクローといちゃいちゃしたいけど」

「ふふ、それは盛情期ではなくゆーちゃんの愛ですねぇ。うれしいです、ありがとうございます。それなら、もっと触れ合ってくれてもいいのですが」

「もー、煽んない! 今日はこれ以上、ダメ‼」

 暗い中でもわかるほど顔を真っ赤にさせる揺唯に、くすっと笑った。

「ごめんなさい、ちょっと調子に乗りすぎましたね。そうそう、獣人の可愛らしい行動に、〝巣籠すごもり〟というものがあるんですよ。パートナーがいない場合は、盛情期中に暴走して他人を求めてしまわないように引き籠る行為なのですが、逑や恋人がいるとその相手の魔力痕が残った物や大事な物、好きな食べ物なんかに囲まれながらそこで盛情期を過ごすんです。これは、実際人間にも似たような習性があって、フィーリングが高まっているときは片時もパートナーと離れ難くなったり、パートナーの物が欲しくなったり、パートナーの魔力が残っているものを抱えて眠りに就きたがるようになるそうです」

「おれは、いつもハクロー抱きかかえて寝てるからだいじょーぶだな」

「そういうこと……なんですかね? 兎獣人や月の話にも繋がるのですが、兎獣人は月のおとぎ話になぞらえて、巣籠りのことを〝月籠り〟という云い方もするそうなんですよ。すてきな、言葉。実家たる月に帰って愛しい人と籠るんだ、って。或いは、宿子することを月籠りと云ったりもするそうです」

「しゅくし……?」

「はい、子どもが宿ることを宿子って云うんですよ。子どもができるといずれお腹が膨らんで真ん丸お月さまみたいになることから、月籠りと呼んだりするみたいですね。……ゆーちゃんは、子どもが欲しくないですか?」

 白籠は揺れる瞳を隠すために、そっと瞼を閉じた。

 幸いにも、考え込み始めた揺唯は気づいていないみたいだった。

「……うーん。そりゃ、まあ遊ぶのは楽しかったけど……、正直、さ。こわいよ。小さくて、脆くて……すぐ壊れちゃいそ。抱えきれないし、守りきれないし……。おれが壊しちゃうのが、一番、こわい」

 氷竜神の能力を無理やり付加されたとき、いったいどれだけの同じ境遇の子どもたちが亡くなったのか、想像に難くない。小さな命は、守りきれない。その絶望を揺唯が簡単に忘れられるわけがなかった。

 白籠は、ぎゅっと揺唯を抱き締めた。

「だいじょうぶ、大丈夫ですよ。白籠が揺唯さんを守りますからね」

「ん……。おれも、ハクローだけは絶対に守るよ」

 温もりに眠気を誘われたのか、とろんと揺唯の瞼が下りていく。

 深くなる夜のカーテンに、二人の影が重なる。

「おやすみなさい、いい夢を」

 今日は、白籠からだけ、額に口づけを。

 深く眠ろうとしている揺唯から、お返しは期待できない。

 白籠は、ほっと胸を撫で下ろした。

 ――最低、ですね。

 揺唯が過去のトラウマもあって今子どもなんて望んでない、ということに喜んでいる自分がいて、心底嫌になる。

 ――まだ、傍にいられる、と思ってしまった。

 今夜は、枕の下に悪夢喰らいの御札を挟む気にもならなかった。

 悪夢は自分だ。

 飢餓感もない。

 白籠の悪夢喰いの習性を知ったとき、揺唯は心配してくれた。

 他人の悪夢を見続けるなんて辛いんじゃないか、と。

 そんなわけない。

 悪夢に味はない。美味しいも、不味いもない。

 ただ、喰らって満たされれば生きていける。

 悪夢に善し悪しなどない。

 それでも、揺唯は白籠になるべく傷ついてほしくない、って悪夢喰らいの御札を売る対象選別にはかなり口出ししているらしい。それを謠惟が容認しているあたり、揺唯の意思が正しいと思われているということだろうか。

 悪夢を喰らい白夢を連れてくる存在が、悪夢そのものになったなら……。

 ――わたしが、揺唯の悪夢なら……。目を覚まさせてあげるべきなのでしょうか。



『あなたに相応しい相手はわたしではない、と告げるべきなのでしょう。それでも、浅ましくも揺唯がわたしを想ってくれている限り傍にいたいとも思うのです。/白籠の手記より抜粋』



       〆



 大盛りのハヤシライスをぺろりと平らげた可鳴亜は食後のデザートと称してビールジョッキいっぱいのなんともどんと構えた感じのパフェを片手に薄い味のブラックコーヒーを啜っていた。

 細長い持ち手の先割れスプーンが可愛らしくて、あまりにも似合いすぎている。

 白籠は渋すぎる緑茶をお供に、食べ続けている可鳴亜に延々と悩みを語った。

 自分だけでは持て余す悩みに、とうとう誰かに相談することを決めた白籠は可鳴亜とアポイントメントを取っていたのである。

 揺唯の実の上子である謠惟には当然相談できないし、一番の相談相手である花椿はまだ塔の眠り姫だし、他に信頼できる身内もいないし、Innerである可鳴亜が適任だと思ったのだ。

 そして、約束の今日。

 まだ肌寒さも残る季節ということもあって、可鳴亜チョイスの白い詰襟シャツと黒いレギンスの上から鶯色の着物を纏い、暗い緑の帯で締め、灰色の襟巻をマフラーのように巻き、ブーツを履いて可鳴亜曰くのデートに臨んだ。

 いつもどおり、心配性な白籠が三十分以上前から待ち合わせのポスト前で待っていると、約束の時間ちょうどに可鳴亜は現れ、当然のように白籠の恰好を褒めた。いつもはお客さまに褒められてちやほやされる立場の可鳴亜は、こうして身内相手になると途端にかっこよくなる。いろんな面を持ち、上手く使い分け、そのどれもが似合っている可鳴亜を素直にすてきだなと思う。

 そんな可鳴亜も、仕事着ではなく私服で、ふんわりしたブラウスにキャラメル色のベスト、赤みを帯びた黒の短パンにハイソックス、短ブーツという可愛らしい恰好だった。素直に「可愛いですね」と褒めると、でしょ?と自慢げながら頬を染めてちょっと照れていた。

 そうして、やってきたのがこのダイナー風レストランだった。

 一見、治安が悪そうなほど薄汚れ、油染みた剥き出しの梁、壁や柱には古びたポスターやシールがぺたぺた、壊れて置物化したジュークボックス、コンポから流れるロックミュージックと落ち着かない店内だが、客入りが少なくBGMがうるさいためにかえって密談には最適だった。

 コックは厳めしく可愛らしいキャラクターもののエプロンがちぐはぐだが、安く大量にそこそこの味の料理を提供してくれるんだよ、と可鳴亜は好んでいる。実際、境界地の自警団めいた組織の人間たちのお気に入りの場所らしく、ごはん時には人が多いらしい。そういった人間が出入りすると知られているからゴロツキ連中も近づかないし、それこそ謠惟や可鳴亜みたいな大物を受け容れる店なのでコック兼店長という最大のセキュリティが目を光らせてくれており、安心安全というわけだ。

 そういった事情も込みで、慣れればすてきなお店だとは思うのだが、いかんせん大音量の音楽だとか、きついくらいの煙草や酒、油の臭いが充満した店内は、本当は少し苦手だった。

 ……何より、たまに揺唯が煙草を嗜んで帰ってきたとき、ただいまのキスでそのにおいを感じるから、煙草の香りはそういうことを想起してしまって、気まずい。

 ともあれ、誰にも聞かれない、とわかっている店内では白籠の口も滑らかだった。

 可鳴亜はしっかりと食事を摂りながらも、真剣に話を聞いてくれた。

 そして、白籠の話をすべて聞き終わるとパフェを口にしながら少し悩んで、その回答をくれた。

「そっかぁ……、いっぱい白籠は悩んだんだね。えらいえらい」

 そう、パフェのアイスを口につっ込まれた。

 ……ものすごく、甘い。つめたい。

「まずね、そーいう存在であるってことは、白籠のせいじゃないから、そこは自分のこと責めないであげてほしいな。ほんとは、子どもって白籠一人の問題じゃなくて二人のことだから、ユイユイにちゃんと相談して話し合うべきだって云うところなんだけど……確かに今のあの子はまだ成長途中の大きな子どもで、今は子どもなんて欲しくないって云ってもいつか欲しくなるときが来るかもしれないっていう白籠の懸念は否定できないし。だから、まぁ現実的な話をすると境界地にいっぱいいる孤児を養子にするとか、孤児院の支援をするとか、そういう方法で子どもとつき合うこともできる。いずれは収入が安定して、二人にその権利ができると思うしね。それはもちろん揺唯が子どもを望んだ場合だし、いつまで経っても望まない可能性もあるしね。何にせよ、さ。未来のことを思って今や自分を蔑ろにしちゃだめだからね? 結局、好きな人と一緒にいるのが一番幸せなんだから」

 可鳴亜は、慈しむような笑みを向けてくれる。

 白籠には見出せなかった新たな選択肢を提示してもらえて、少し視界が開けた気がした。

「あたしは、誰か一人じゃなくて皆と楽しく遊びたいし、もしも愛されるなら姉さん以外要らないし。今は……白籠や揺唯も家族みたいなものでさ、あたしの大好きな人たちが幸せだと、あたしもすっごく幸せだからさ。鍋に誘ってくれたりとか、一緒にご飯食べるの、ほんと好きだよ」

 ……それは、暗に揺唯と白籠が離ればなれになったら哀しい、ということを云われているのだとわかった。

「わたしも……、カナさんと鍋やコロッケパーティーするの、楽しいです。いつでも、来てくださいね」

 花椿という最大の家族が眠り続けている今、一番寂しい思いをしているのは可鳴亜だ。

 そんな彼人から、なるべくなら何も奪いたくはない。

 二人の家をもうひとつの家族だとあたたかく思ってくれているのなら、それを自分から手放すようなまねはしたくなかった。

 ネガティブな思考に陥って、危うく皆に自分勝手な思いを押しつけるところだった。

 本当に、可鳴亜に相談してよかったと思う。

 えいえい、とたまにチョコレート・フルーツ・アイスと口につっ込まれながらも、後は服や和菓子などの楽しい雑談をして過ごした。

 ……もしも、仮に養子を取ることになっても、普通の人間ではない獏という化け物である自分が、果たして母親になって大丈夫なのか、という疑問に対しては答えが出なかった。

 可鳴亜が食べ終わった後の透明なジョッキの底に、アイスやチョコレートがどろどろに溶けた、救いきれない泥濘のような液体が残されている。

 心の底に溜まった不安は、まるでそのどろどろみたいだ、と思った。



       ∴



 可鳴亜からのお土産だ、といろんな種類の大福が入ったアソートボックスを差し出した白籠は、どことなく瞳が憂いを帯びていた。

 いつもどおりの低く凛とした声音に、やわらかな笑顔。ぼうっと受け取っていたら、或いは気づけなかったかもしれない、かすかな碧玉の陰り。

「えぇと、種類は苺とクリーム、チョコレート、抹茶、普通のあんこです。いろいろあるから、飲み物はどうしましょう……。緑茶かコーヒーか、紅茶でも合いそうだな……。ゆーちゃんはどれがいいですか?」

 大福と一緒に飲むものは何がいいか、と悩んでいる白籠が困った笑みを浮かべている。

 ――……そういうんじゃ、ない。

「……ハクロー、なんか元気ない?」

 考えてもわからないので、素直に訊いてみた。

 首を傾げて見上げるのに、白籠は弱いのだ。

 あざとくてもなんでも、白籠から訊き出せるならどんな手でも打つ。

 揺唯は、ずるいのだ。

 甘やかされるためなら、いつまでもわからないふりだってできないふりだってするし。

「? そんなことないですよ。どうしたんですか、ゆーちゃん。疲れてるんじゃないですか?」

 不自然な間もなく、自然に返される。

 眠そうにも妖艶にも見える垂れ目は、瞼が伏せられることもなくまっすぐこちらを見つめ返してくる。違和感こそが、嘘だったのか。自分を疑いたくなるも、白籠が優しい嘘なら平気で吐けることを知っているので自分の直感を信じた。

「んー、疲れてはないけど。ハクロー、なんかあったらおれに一番に云ってね? じゃないと、さびしーよ」

 それ以上はつっ込まないけれどこれ以上隠し事をするな、という釘を刺しておく。

「ふふ、甘えたさん。本当に、大丈夫なんですよ」

 少し照れくさそうな微笑みに嘘くささはない。

 ……白籠の大丈夫、が大丈夫なんかじゃないことはよく知っているけれど。

「なら、いーけど。おれ、ハクローの淹れるコーヒーがいい」

「コーヒーですね。じゃあ、わたしもそうしようかな」

 そう台所に消えていった白籠を見届けてから、じゃあ茶菓子の準備をしよう、と箱を開ける作業に入った。

 揺唯のせいか、と思うほどに心あたりはなかったし、最近これといって周辺に怪しい動きはない。あったら、謠惟か可鳴亜が教えてくれるはずだ。

 いろいろと勘ぐってみたものの、白籠本人の口からでないとわからないから保留にした。

 何せ、揺唯には今大事な考えが頭の中に渦巻いているのだ。そちらに集中していて、白籠へのちょっとした不安まで思考が回らなかった。

 白籠がかなり甘めな和菓子に合わせて微糖のコーヒーを淹れてくれて、その夜のお茶会は甘いものにはちょっぴり苦いくらいの飲み物が合うという知見を得たのだった。



 休日だったけれど、「謠惟との面談があるから、昼から出かけるな」って云うと簡単に白籠は信じてくれた。面談という名の雑談会だとでも思っているのかもしれない。

 微笑ましそうに見送られた。

 実際、まあ間違いでもない。

 謠惟に相談があって、揺唯から時間を空けておいてくれ、と頼んだこと以外は。

 だるっとした水色のティーシャツに黒のズボン、薄手の灰色のパーカーの上から青いジャケットを羽織り、ちょっとだけスマートなよそ行き着。ジャケットは可鳴亜が買ってくれたものだ。こうやって人と会うとき、重宝している。すぽっと履ける青い靴で地面を踏みしめる、その中は灰色のくるぶし丈ソックスだった。

 揺唯が休みであっても謠惟は仕事らしいので、集合場所はクレイドルの社長室だった。

 もちろん、きちんとしたスーツ姿で出迎えられた。ただ、他の社員も休みの人間が多いので社内はいささか閑散としていて、ちょっと不気味だ。

 ――正直、ウタさんに相談するのは気が進まない。

 けど、ええいままよ、という気持ちだった。

 なぜ、謠惟を相談相手に選んだのか、と訊かれればいろいろと理由はある。

 同じYourだからというのもあるし、揺唯と白籠の裏事情まで知っている数少ない人物だからでもあるし、生式せいしき愛交あいこうのことを教えてくれたのも謠惟だったからでもある。

 あれは、記憶を取り戻しクレイドルに就職後しばらくして落ち着いてきた頃のことだった。ちょうど、花椿を紹介される前くらいの。面談、という形で何度か二人きりで話したことはあったが、またその呼び出しは唐突だった。それも、「……あー、白籠とはうまくいってるか?」なんて仕事の話もそこそこにおずおずと訊いてきたときには、思わず「はぁ?」と素で怪訝な声を出してしまったくらいだ。大事なことだし裏組織時代にYourになることを強制したのは自分だから、と珍しく一から百まで懇切丁寧に説明してきた。

 人間が魔人となった現代、性別の代わりに生式という区分が生まれ、人は生まれたときはBorderと呼ばれるいわゆる生式のない生殖活動ができない状態で、成長して身体ができあがると俗に再誕と呼ばれる、YourかInnerという生ませるほうか生むほうかを選んで生式を変換できるようになるのだ。

 人それぞれ、生式の差異がある、ということ自体はなんとなく社会に出て学んでいた。けれど、詳しく教わるのは初めてのことだった。

 謠惟はだいたい知っているだろう、とかい摘まんで教えてくれた。

 本来再誕して生式を決める/変えるということは、逑と契り連れ合うためにするということ、そうしてまともな愛交ができるようになるということ、Yourにはあげるための器官ができてInnerには受け容れるための器官ができ、そして愛交によって子どもが生まれることもあるということ、YourやInnerの身体の違い、愛交の仕方……など後々考えれば結構恥ずかしいことまでざっくりと説明を受けた。

 愛交っていうのは、愛し合う同士で触れ合うことすべてを指し、狭義では特に子どもを作る触れ合いを示すこともある、と大真面目に謠惟は話した。

 それに補足するみたいに、可鳴亜が白籠は生式を持たないからInnerのように受け容れる器官がないんだよ――と殊更に丁寧な愛交の仕方まで教えてくれた。最終的にはとにかく優しく、理性を保って、だった。生式がない、ということがどういうことなのかいまいちわからなかったけど、それは自分で白籠と関係をもっと深めていく過程で知っていくことだよ、と可鳴亜は答えなかった。

 そんなこんながあり、謠惟がこの相談に適任だと思ったのだった。

「――ウタさん、おれに名字をください」

 社長室に入って開口一番、そう頭を下げた。

 正直、考え事で頭がぐるぐるしていて、何をどういった順番で話していいかわからず、単刀直入に欲しいものを告げてしまった。

 沈黙/静寂。

 少し謠惟の顔を覗き見ると、呆気に取られていた。

 何か、変なことを云っただろうか。

 しばらくの沈黙の後、何かを察してくれた謠惟が、

「……とりあえず、座れ」

 と、着席を促してきた。

 正直、ずっと頭を下げたままの姿勢でいるのは辛いので、有難く高級でふかふかな革張りのソファーに腰かけた。

 ごほん、と咳払いした謠惟は気まずそうに口を開いた。

「危うく、俺が結婚の申し込みでもされているみたいだったが、そうじゃないだろう? 順を追って話してくれ」

 ――……うげぇ。ウタさんにプロポーズ、なんて死んでも御免だ。

 顔にそのまま出てしまっていたのか、被害者である謠惟が眉間に皺を寄せていた。

 落ち着いて話をしよう、という姿勢になって謠惟はブドウソーダの缶を投げて寄越した。相変わらず、謠惟は揺唯のことを子ども扱いしてくる。もう、立派な社員なのに!

 緊張からか、喉が異常に渇いていたので炭酸を一気に飲み干した。……げぷ。

 謠惟も缶コーヒーに口をつける。どうせブラックだ。大人ぶって。

「ハクローが好きだから、愛交したいと思って」

「ぶっ、ごほっげほっ……」

 真っ黒なコーヒーが謠惟の口から噴き出た。

 少量だったし、机の上に書類は置いていなかったから、ただ近くに置いてあった台拭きでさらっと拭くだけで済んだ。

 謠惟お気に入りの白いクラバットは、ちょっと染みていたけど。そっちは後にすることにしたらしい。ぽい、と外して投げていた。

 何を動揺しているのか、この人は。

 怪訝な瞳で見つめると、謠惟が睨んできた。

「物事には話す順序があるだろ? ちょっとは考えろ! 急にぶっ込んでくるな‼」

 謠惟が何を云いたいのかさっぱりだったが、やっぱり結論から話したがりなのかもしれない。順を追って――

「ハクローといろんな話をして、デートして、お互いのことを知っていって……、ちゃんと順序立てて触れ合っていってるんだけど」

「詳細な報告はいい」

「なんだよ、順序立てて最初から説明しろって云ったのは謠惟だろ⁉」

「……そう、だったな。悪い、続けてくれ」

「で、好きだからハクローと愛交したいと思ってるんだけど」

 今度は謠惟もむせたりしなかった。

 結論に辿り着くのはすぐだった。

「だから、ハクローと逑になりたい」

「……だから、の前にもう少しステップを踏め。なんでも接続詞を使えば繋がると思うなよ。愛交がしたいと逑になりたいは別にイコールで結ばれてねぇだろうが」

「ハクローを誰にもあげたくない。おれだけのものにしたい。誰にも奪わせないためにも、けじめをつけるためにも逑に……なりたい。前、逑のじーちゃんばーちゃんの話聞いてさ、連れ合うのっていいなって漠然と思ってて……。ハクローと何げないことで笑い合って、触れ合ってたら、あんなふうに年を取って、死ぬまで一緒にいたいって、なんかちゃんと思ったんだ」

 それは、以前まで明確なビジョンのない願いだった。

 けれど、今は確かに視えている。

 たとえ、あんな豪邸じゃなくたって、慎ましくたって、白籠と寄り添って死ぬが死ぬその瞬間まで手を繋いでいる姿が。

「ハクローと、家族になりたいんだ。……おれ、家族なんて知らないけど、それでもハクローとそういう形で繋がりたい。結婚、したい」

 この境界地という無法地帯で、戸籍もない二人が結婚できないことなど、もちろん知っている。それでも、まともに結婚できなくても、婚姻届を残したい。

「白籠と家族になって、同じ名字を共有したいから……名字が欲しいんだ。――だから、ウタさん。名字をください」

 もう一度、座ったまま深く頭を下げた。

 だって、そんなことを頼める名字持ちの知り合いが、謠惟しかいないのだ。たとえ、苦手でもなんでも彼人に頭を下げるしかない。

 はぁ、と特大級の溜め息を吐いた後、

「いいぞ」

 と、一言謠惟は了承した。

「ほんと⁉」

「……ここで嘘吐いてどうするんだ。名字くらい、別に減るもんでもなし。廿楽をお前らにやるよ」

「あんがと、ウタさん‼」

 跳び上がりそうなほどの勢いで喜ぶと、やめろという意味で手を雑に振られた。

「……で? 問題はそこじゃないんだろ?」

 謠惟は揺唯が悩んでいることに、ちゃんと気づいてるみたいだった。

 こくん、と頷く。

 喜びも束の間、悩んでいることを一気に吐き出す。

「逑になるためにはどーすればいいんだろ、とか。連れ合うとか、結婚するってほんとはどういうことなのかいまいちわかんないし。そのために、どんな準備すればいいのか、とか。したい、って気持ちはあるのに……なんかわかんないこと多くて。でも、ハクローには相談できないし」

 感情ばかりが前のめりで、何からすればいいのか、どう動けばいいのかもわからず、思考ばかりが右往左往していた。もう相談するしかない、となるまで。

「なるほどな……」

 謠惟は、揺唯の悩みを嗤わなかった。正直揺唯自身は、子どもっぽい何もわかってない奴の悩みだって一蹴されるかな、とも思っていたのに。

 でも、知っていた気がする。

 謠惟は、大事なことはちゃかしたり、莫迦にしたりしないのだ。

「ま、実際に逑になれるかどうかは白籠にプロポーズしてからの話だから置いておくぞ。もし、そうなったら証人になるのも、名字をやるのも構わんがな。……本当に大事な相手だからこそ、逑って形を取りたい、逑になってから愛交したいってのも、まあ真面目でいいんじゃねぇか? あくまで、全部白籠がそれを望んで承諾するならって前提つきだがな。逑になるってのは基本おめでたいいいことなんだが、誰しもにとってそうとは限らねぇ。きちんと、白籠の意見を聞いてやれ。わかったな」

「うん」

 頭の中のメモ帳にすべて記憶していく。

 具体的な逑の契の仕方を順番に教えてくれた。なるほど……、ときちんと一回で憶えた。

「結婚がどういうことなのかって云われてもな……。してねぇ人間がアドバイスもクソもないが、正直婚姻届なんてもんは連れ合ってることを証明するためだけのただの紙切れだ。本人たちに意味が見出せるんならそりゃ大事な証明書だがな、どうせ出さない紙はただの形だけ、じゃあるだろうよ。実際に出せるんなら、税金だとか委任者だとかいろいろ責任も権利もあるんだが……。んなの、境界地にはねぇしな。ま、精々結婚式でも挙げるか? 結婚するってことは、お互いに何かあったときに責任を取ること、取れる関係になることなんじゃないか、と思う。届がただの紙切れで意味がなくて、なんの証明にもならなくてもな。あと、なんだ、結婚の準備……? 形だけのもんに、それこそ準備も何もないだろ。結婚式挙げんなら金は要るし、収入が安定していることを示すためにも給料三ヶ月分の指輪をプロポーズにプレゼントするって話は古くからゆうめ――」

「! それだ……!」

 バンッ、と立ち上がって揺唯は走りだした。教えてくれてありがと!と振り向かずに謠惟に礼を云ってから、とにかく気持ちが踊り出して止められなくて目的地もなく走りだしたのだ。

 ――給料三ヶ月分の指輪を買って、ハクローにプロポーズ!



       ∴



「――給料三ヶ月分の指輪をプロポーズにプレゼントするって話は古くから有名だな。……なんてな、そんなことやる奴今どき……っておい、聞けよ。チッ、最後まで聞かずに行きやがった。まあ、いいか。なんにせよ、家計握ってんの白籠なんだから、貯金とかそんなねぇだろうし相談しろよって話だったんだが。第一、白籠が望んでるかどうか……」

 誰もいなくなった社長室で、謠惟は汚れたクラバットを見て溜め息を吐いた。

 それから、お金を稼ぎたい!と意気込む揺唯に、ついつい上子の甘やかしが発動して残業や深夜帯の仕事を割りあててあげるなど、融通を利かせた、とか。


 ――ま、なるようになるだろ。

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