「蜜月に月籠り」
零/日密
――あなたは、ふふんだ桜が
キュッキュ、と拭き上げすれば窓はぴかぴかに磨き上がる。
窓硝子を見つめてもほとんどブラインドがかかっていてオフィスの中は覗けず、街路樹として放置された桜の木がちらほらと花を咲かせる姿がかすかに映って見えただけだ。
春が来た。
――
「おーい、終わったなら上がってきぃ?」
上から先輩に呼びかけられて「はーい!」と叫び返す。
そう、ここはちょうど地上三階に位置するビル、の外壁である。下を見ればそれなりに高さがある。
今日は清掃業務で、ビルの外側の窓拭きが仕事だった。都会の高層ビルほどではまったくないものの、この境界地にしてはしっかりした十階建てオフィスビルである。白い塗装がほとんど剥げた、いろんな事務所に貸し出されているらしいこのビルは、実際どれほどまともな企業が入っているのか……。知ったことではないが、窓の清掃を頼めるくらいには儲かっていることは確かだろう。
それこそ、三年前の春、謠惟の計画によってこの境界地一帯にあった悪辣組織は解体されたのである。残党は大して残っていないらしい。捕まった人や現在の境界地が合わなくなった人間は、他のもっと治安の悪い裏街に移ったそうだし。お陰で、仕事の範囲も幅も広がったというわけだ。
一応、ハーネスに命綱をつけているものの、白籠が内職で作ってくれた浮遊・跳躍・防護の御札を持っているので安全は確立されている。屋上に戻る際も、軽く外壁を蹴っただけで思ったとおりにぽぉん、と屋上まで戻ってこられた。
ふわっ、と着地。
先輩が「電動リール使えや」と苦笑している。いつも苦言は呈されるが、本気ではないらしい。
どうしても、空を見上げながら浮かび上がっていく瞬間の、あの浮遊感と空に近づいていく一瞬の景色が忘れられなくて、御札の力を使ってしまう。
――春の空は、好きだ。
白籠が前、春の花霞の空は揺唯の髪や瞳の色に近くなってすてきだ、と云っていたから。
その白籠のあえかな笑みを思い出すから、揺唯も好きになった。
或いは、元々自由の象徴みたいなどこまでも続く空や海、蒼という色、飛ぶという行為、どれも揺唯が好きだったことなのかもしれない。
「昼にしよーや」
「やった」
先輩に誘われて、このビルの屋上でお弁当を食べることになった。
ほんの少しだけ揺唯より先に清掃業で働くようになったという先輩は、深緑の髪に前髪だけ一部黄緑のメッシュが入ったウルフカットを長い後ろだけ一つくくりにした、糸目先輩だ。その瞳を、実は揺唯も見たことがない。すらっとした高身長で揺唯より十
揺唯が青い風呂敷の上に弁当を広げると、先輩は羨ましそうに手を伸ばしてくる。
ぱしんっ。
軽くはたいた。
「先輩でもあげねぇって、云ってんじゃん」
「えー、ケチ。イケズー」
いけず、の意味は未だ不明。
どうせもらえないと判っているのに、毎度難儀な人だ。
箸を持っていただきます!と揺唯が云うと、先輩も律儀に「まぁす」と略してあいさつする。
今日も今日とて、たけのこご飯にひじきの煮物、たこさんウィンナー、きんぴら、春キャベツ炒め、漬け物とだいぶ茶色に偏った白籠の愛情たっぷり弁当はものすごく美味しい。
ばくばくと揺唯が食べ進める横で、先輩はビニールを引っぺがしておにぎりを食べている。
最近は流通が境界地までわりと届くようになって、スーパーマーケットも充実してきた。弁当や惣菜を買うのもそう難しくはなくなったのである。
先輩には作ってくれる人もいなければ、自分で作る気もないらしいので、いつもそういうものに頼っているみたいだ。
量が少ない先輩はすぐに二つおにぎりを食べきってしまって、買っておいたらしいメロンソーダの缶ジュースをカシュっと開けて飲み始める。
「そーやぁさ、今日若干早帰りの申請出してたよね? なんか用事あんの?」
「――今日、カゴの誕生日なんすよ。皆そろって誕生日会するから」
「へぇ、じゃあカゴちゃんもう一歳か……。早ぇねー」
「そっすね。今じゃ、ハクローが抱えるの大変になってきてますもん」
「あー、あの細腕じゃーね。そかそか、じゃあぱぱっと午後からの清掃終わらせんとやね」
「はいっ。帰りに予約してたケーキ受け取って、帰ったら家の前で写真撮って、パーティーして、プレゼント開けて、ハッピーバースデイ歌ってケーキ食べて……」
延々と続きそうな揺唯の言葉に、先輩は「あちゃー、藪蛇つついたわ」と空を仰いだ。
揺唯が気づかないうちに自販機まで行って戻ってきていた先輩は、
「これ、お祝いってわけやないけど、おとーさん二年目に突入する揺唯に餞別」
微糖の缶コーヒーだった。
少しだけ味覚も大人になった揺唯は、最近コーヒーの苦みのよさもほんのちょっとわかるようになった。
「あざっす!」
カコっ、とプルタブを押し開けて一気に飲み干す。
「……ようは知らんけどさ、きゅーにおとーさんやることになって大変やったんやろ? ワシやったら、たぶんそんなん逃げ出すわ。責任持てへんし、重とうなってさ。揺唯よりワシのほうが年上やけどさ、そーいうとこワシより大人やなって思うんよな。なんか、素直にそんけーするわ」
反論はしなかった。
――けど、違う、とは思う。子どもから逃げなかったんじゃなくて、ハクローを子どもに奪われたくなかっただけなんだ。今でこそカゴが将来結婚するとか云いだしたら反対する自信があるけど、当初は父親の実感も自覚も薄かった。
「……んなことは、ないと思うっすけど。先輩が気遣ってくれるから、なんだかんだ仕事も上手くいってるし」
「ま、それはせやな。仕事以上にやりすぎるとこあるもんな、揺唯はんは。ほんま、真面目なんはいーけど、金にならん仕事はやらんといてや。こちとら、慈善事業やあらへんねんで? ワシが謠惟社長に怒られるわ」
「すんません、気をつけます」
「別にえーけどなぁ。揺唯のえーとこやもんな。じゃからさー、なんか。たまに息抜きせぇよって、思うんよなぁ。仕事も家庭もって、気張りすぎやんなぁ……。いろいろがんばらなって思うんはわかるけど、ぱぁっと遊んだりしぃよ?」
ガシガシ、と頭を撫でられた。
「……っす」
心配されているのだ、とわかった。
何せ――白籠と恋人になって、連れ合って、まさかの初夜を越えて……家族も知らない揺唯は急にお父さんになることとなった。覚悟もできないうちに子どもが生まれて、それから怒涛の一年。
働きながら家事や育児を手伝って、わからないなりに父親になろうとしていた。
うまく、やれているかもわからない……。
いつも、心のどこかで不安だった。
それを、身近だけど遠い存在である先輩に認められたことが、なんだかうれしかった。
「まー、でもいいお連れはんがおるみたいやけぇ、無用な心配か。のぉ、新婚生活はどないなん? やっぱ、二人でイチャついとんの? 連れはんのどこが好きなん?」
こちらを覗き込むのに、顔を傾けられてじゃらじゃらとピアスが鳴る。
これでも少なくしたほーなんやけど、と云っていたくらいだから昔はもっとゴツいのをたくさんつけていたのだろう。
と、現実逃避するほどにはまあ訊かれた内容が予想外というか、言葉にできない満ち足りた日々なのだ。
妄想と回想の狭間に揺れた後、にやりと揺唯は笑って答えた。
「それは――」
∴
きゅっきゅ、と拭き上げれば皿はぴかぴかに光り輝く。
最近、白籠が内職の延長線上で作った専用の洗浄屑魔力石を食器用洗剤に混ぜ込んでいるお陰で、さっと簡単に皿洗いができるようになったのだ。
小さな白い花が並ぶ黄緑色の布巾を、そっと三つハンガーのついたタオル掛けに留めた。
よいしょ、と背負い直せば遊んでもらっていると勘違いしたのかきゃっきゃと喜んでいる。
「よしよし、
拭いた皿を食器棚に直して、かしゃしゃと立てつけの悪い硝子戸を閉じた。
もこもこした布の上からおんぶ紐で負ぶっていた籃帷を、ゆっくりと解いて揺り籠へ横たえさせる。軽くゆらゆらしてあげると、あーって笑った。
ぷくぷくした頬が愛らしく緩む。
かわいい。
籃帷が生まれてから、ずっと顔が緩みっぱなしな気がする。それほどに、自分たちの子どもというのは愛しいものだった。
Noneである白籠には永遠に訪れるはずのなかった贈り物だ。
「かーごい、今から飾りつけするのでちょっと待っててくださいね」
「うー!」
元気なお返事。
両親の要素をバランスよく取り入れた籃帷は、とても美人さんだ。やや癖っ毛の浅葱色の髪と、藍色のくりくりとした瞳。ちょっと吊り目で揺唯寄りだが、口許の形は白籠似だ。白籠が生まれる前からちくちくと裁縫して布から作ったベビー服が籃帷を彩る。祈りを込めた麻葉紋様の背守りが、こっそり守ってくれている。
ずっと見守っていたい笑顔だけれど、そろそろ動かないと。
白籠はいそいそと和菓子の入っていた空箱に詰めておいたお飾りを取り出して、飾りつけを始めた。広告や新聞紙で作った輪飾りや星・ハート形などの折り紙を障子前などに垂らしていく。
籃帷が生まれてから引っ越した木造平屋は物置や浴室などを含めなければ居間と寝床の二部屋で部屋の大きさ自体も以前のアパートに比べれば全体的に広くなっている。それでも、三人家族にはこぢんまりとしたおうちだ。
でも、そんなところを気に入っている。
籃帷が生まれてからというもの、自分の背で息苦しくなっていないか、揺り籠から落ちていないかなど気になるので魔力感知をし続けている。この家と相性がいいのか、自分の魔力を張り巡らせるのがすんなりといったくらいだ。
だから、いつもこの家にはあたたかな魔力が充満している。
飾りつけしながら、白籠の口からは無意識に童謡が零れていた。籃帷は白籠の
飾りつけを終えて振り向けば、籃帷はすやすやと眠っていた。
「……ふふ、籃帷の夢はふわふわな雲のようですてきですね」
白籠は起こさぬよう小声で呟いた。
さて、と本日の主役が夢を見ている間にパーティーの料理の準備をしなければ。後ほど早めに可鳴亜が来て準備を手伝ってくれるそうだけれど、下準備くらいはしておきたい……。
トントントン、と気を遣ってチャイムではなくノックをしてくれたのは、もちろん玄関ドアのすり硝子越しのシルエットでわかるとおり、可鳴亜だった。
料理に集中していると、あっという間に時間が経っていた。
ある種のファミリーとも云える身内勢ぞろいともなると、それなりの量が要るので時間がかかるのだ。
「やっほ、手伝いに来たよ。カゴはお眠?」
「はい、お昼寝中です」
「そっか、ならちょーどいいかもね。あ、そだ、これ先に渡しておくね。これは白籠と揺唯へのお土産。プレゼントとは別の奴」
「わぁ、ありがとうございます」
いーのいーの、と手を振りながら可鳴亜の膝近くまである上がり框を上がる。
慣れた動線を辿って洗面所で手洗いうがいした後、早速ゆで卵の殻を剥くのを手伝ってくれる。つるっと、綺麗にまるまるとした玉子が顔を出していくのが爽快だ。
「ね、この玉子はなんに使うの?」
「肉巻き卵にします。ゆーちゃんと謠惟さんが好きなので」
「なーる。で、今白籠が作ってるのは?」
「煮しめです。皆さん、お酒に合うから好きでしょう?」
と、くすくす白籠が笑うと、可鳴亜もうれしそうに笑った。
子どもがお腹にいたときは体調を崩すことも多かったし、産後も無理をして倒れそうな時期すらあった。それに、子どもについていろいろと思うところのあった白籠が悩んでいることにも皆気づいていて、心配をかけてしまっていた。だからこそ、白籠が元気そうだと皆安堵したようにほっと笑ってくれる。
少しだけ、申し訳ない。
籃帷が生まれた半年後には、ずっと眠ったままだった
一時は本当に片時も可鳴亜は花椿の傍を離れなかったほどだ。だからこそ、こうして皆で落ち着いて集まるのは久しぶりだとも云える。その花椿も今日は来てくれるそうだ。
なかなか会えなかったその間にも、もしかすると心配をかけていたのかもしれなかった。
作業の合間にも可鳴亜は籃帷を眺めてにこにこしているので、この子やこの家が癒しになっているのなら幸いだ。
「ねー、白籠。訊いてもいい?」
「? 何を、ですか?」
手を動かしたまま、口だけで問い返す。
今、首を振ったりしたら、危うく持っている包丁で肉を自分の指ごと切ってしまいそうだから。
「えー、じゃあ訊いちゃお。連れ合ってからすぐカゴができたからあんまり暇なかったかもだけどさぁ、最近はゆとりもできてきたでしょ? 二人の逑生活はどーなのかなぁって。ユイユイは、優しくしてくれてる?」
悪戯っ子のようなちゃめっ気のある笑顔で問われて、白籠は少し赤面してから妖艶に微笑んだ。
「それは――」
∴
「――ヒミツ」
日々を密に、蜜月に。
日中から、蜂蜜のような甘ったるさを添えて。
離れていても心は溶け合っているみたいに傍にある。
――これは、二人が
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます