終/幻実到日
かくして、
揺唯は勤める場所が変わっても、変わらず清掃を主として修理屋、工事、検査手伝いとしていろんな会社や人の所へと向かっている。
……白籠とは、いわゆる恋人、という関係になった。
恋人になったからといってものすごく変わったわけではないけれど、ちゅーはするようになった。
揺唯が酷いことをしてしまわない範疇で、触れ合うようにもなった。
それくらいだ。
記憶が明瞭になっても、揺唯は自分自身がやってきたことに罪悪感は覚えていない。
こうして穏やかな生活を送るようになるまでに、人を殺め、物を盗み、自分が生きるためならなんでもしてきたけれど、それを悪いことだとはあまり思わない。というより、今はしたくないと思っているけれど、そうしなければ生きていけなかったのだし、そうした相手もまた殺されるほど悪いことをしてきた人間だったということも知っている。
ただ、自分と白籠がそういったことに手を染めず、こうした何げない日々を送れるようになってよかったと思う。
赤い夕日に手を翳しても、自分の手が血で汚れているとは思わない。
血が流れている。
温かい、血が。
生きている。
――もう、さむくない。
だって、ひとりじゃないから。
見えてきたアパートメント。
駆け上がる錆びた階段。
換気扇から立ち昇る湯気からは、味噌汁のいいにおい。
片手には、等間隔に散らされた雪輪紋様がプリントされている小さな紙袋。手のひらサイズだ。
ばっ、と扉を開くとそこに愛しい白籠の笑顔が待っている。
「ただいまっ、ハクロー!」
「おかえりなさい、ゆーちゃん」
ただいまとおかえりなさいの、ちゅーをする。
おつかれさまと今日のお弁当のひじきの煮物が美味しかったよ、をお互いに伝え合う。
揺唯は白籠に宝物を見せびらかすみたいに、手のひらにある袋を差し出した。
「ハクローに、プレゼント! 中、開けてみて」
突然のことに目を白黒させながらも、白籠は「ぁ、ありがとうございます」と感謝の言葉を忘れない。云われるがまま、桜のふわふわしたシールを剥がしてそっと中を取り出した。
黒い、三角巾。光のあたり方によっては銀にも輝く白い百合の刺繍のしてある、肌触りのいい。
実は、揺唯が白籠に内緒で謠惟や可鳴亜に相談して用意したオーダーメイドで、クレイドルの初給料記念ということで給料から天引きして作ってもらったものである。
白籠が一番肌身離さず身に着けているもので、白籠自身や彼人の大事な耳を守ってくれる大切なもの。白籠が揺唯のものである証として、自分が贈ったものを使ってほしいと思った。白百合は白籠の魔力香や見た目の儚さからイメージしたものであり、二人合わせて揺り籠だと揶揄されることから、自分の要素も入っているな、とちゃっかり決めた。
白籠が否定的な感想を返すとも思わなかったが、少し緊張しながら反応を待つ。
「……わぁ、すてきな刺繍。白百合、なんですね。ゆーちゃん、揺唯、本当にありがとう……っ」
感極まって涙ぐんでしまう白籠に、プレゼントは大成功だと喜ぶ気持ちと、こんなことで泣かないくらいもっともっと幸せにしたいという気持ちが折り重なった。
ぎゅっ、と三角巾を手にしたまま抱きつかれる。
ちょうどいい姿勢だったのでさらり、と今つけている無地の三角巾を外した。
ぴょこん、と垂れたバクの黒い耳が覗く。急に外気に晒されて驚いたのか、ぴくっと反応した。
かわい。
揺唯にだけ許された、白籠の三角巾を外す行為。
ちょっとした優越感に浸りながら、白籠の手にある新しい三角巾を攫ってもう一度つけ直した。
ただの黒い布ではなく、白百合がちらりと揺れて見えることで、より白籠の綺麗さが引き立つようになった。皆に見せるのが、心配なくらい。
「ど、どうですか……? 似合う、でしょうか」
心配そうに見上げてくる瞳に、
「むっちゃ、きれい。ハクロー、かわいい」
と、心からの賛辞を送った。
「……よかった。わたし、ゆーちゃんにもらってばかりで何も返せなくって……」
「――んなことない! おれのほうがたくさん、いっぱい、もらってる。料理も、あったかい言葉も、居場所も、いろんなもの手作りしてくれるのも……全部初めてで、すっごいうれしくて。ハクロー、白籠。おれの帰る場所になってくれて、ありがとう。これからも、おれだけに三角巾外させて、な?」
独占欲と嫉妬の滲んだ揺唯の瞳に、
「はい、揺唯が望むなら」
あたりまえのように肯定の言葉が返される。
何もお返しがなくてすみません、と白籠は謝罪しつつも今日がクレイドル初給料日ということもあり、酒屋で少しいいお酒を買ってきてくれていた。
たったひと月程度とはいえ、クレイドルがこの街にもたらした安寧は大きい。その社員であり、前から仲のよかった揺唯のために、と気前よくサービスしてくれる人たちも少なくない。
冷蔵庫からちょっと高いビールといつもの白籠の酎ハイの缶を取り出した。
できた夕食を運ぶのを手伝って、一緒にいただきます。
今日は、たけのこご飯と味噌汁、焼き魚と卵焼き、大根の酢の物、佃煮と漬け物だ。
酒の肴に細かいアテが並んでいる。
お互いにグラスにお酌し合って、乾杯!
給料日のささやかな楽しみであるお酒。別に大して酔うわけでもなく、それを飲むこと自体に快楽は感じないけれど。
二人で、ちょっとふわふわしながら朗らかな気分で、いつもよりちょっと品目の多い料理を食べて、跳ねるように会話を弾ませるのが、楽しい。
白籠のごはんはいつもどおり美味しいし、サプライズが成功してちょっと気も大きくなって、ぐびぐびと飲み進めてしまう。
今日の仕事の話、プレゼントは謠惟や可鳴亜も手伝ってくれたこと、作ってくれたのは
白籠は穏やかな笑みで相づちを打ち、時に照れ、時に感動し、時にむせながら話を聞いてくれていた。――わたしも離したくないです、という小さな呟きが聞こえた気がした。
ちょっと酔いが醒めてなんだかぶっちゃけてしまったな、という羞恥が芽生え始めたころ、白籠が「お風呂に、入りませんか?」と誘ってきた。
頷く。
お風呂には……一緒に入る。
頭を洗ってもらって、背中を流してもらう。代わりに、白籠の背中も揺唯が流す。
白くて細い、白籠の背中。
つるり、と滑っていく綺麗な肌。
……ほんとは、正直、ちょっと、やばい。
揺唯は自分の理性と闘いながら、しかし幸福な手触りを手放せずにいる。
底が正方形の風呂では、さすがに二人して入れないから、そこは互い違いに入る。
いつか、お風呂がもう少し大きい家に住めたら、という野望は密かにある。
白籠の白い頬が、赤く上気しているのを見ると、堪らなくなる。
でも、我慢。
今は、まだこの心地いいひとときに酔い痴れていたい。
白籠は早速、この三角巾が汚れたり外れたりしないようにしたい、と魔術を編み込んで魔術装身具にしていた。これで、破れにくいし、最悪破れても修復されるようになり、風が吹いたり許した人以外に触れられたりしても外れない、という代物になったらしい。……それは、つまり正真正銘、揺唯と白籠本人以外には外せない特別になったということだ。
寝る前、二つ布団を敷きながらも、ほとんど一つの布団で寄り添って白籠の寝物語を聴く。
低くやわらかな声が、耳朶をくすぐる。
白籠が語り出す。
――これは、掃除屋さんと内職さんが出逢って……恋をする、おとぎ話です。
そう、語られるは二人の出逢いのお話。
いかにして、顔も合わせず二人が邂逅したのか、という。
血に塗れた、悲劇と哀しみに溢れた道行だとしても、結末はハッピーエンドに決まっている。
だから、安心して夢へと誘われてゆける。
それは、きっとこの変わらぬ穏やかな日々へと続く前日譚でしかなかったのだ。或いは、この日常こそが終わらない後日談。
――幻とあきらめていた日々に到達し、夢は実った。
「おやすみなさい、いい夢を」
額にそっと落とされた唇に、もう悪夢は混じっていない。
終
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