伍/終わりの日、始まりの日。
唐揚げをいっぱい食べて少し休憩した後、
どこに行くとも云わずに出ていった揺唯に、もしかしたら捨てられるのかもしれない、と不安が湧き立つ。こぽこぽ、こぽこぽ……際限なく心の底から噴き出て止まらないそれは、泥濘のようにどろりとしていた。
夕ごはんまでには帰る、そう云っていた言葉を信じたい。信じるべきだ。
なのに、思考がネガティブに偏って前向きに考えられない。
最近、睡眠薬を使ってもうまく眠れないせいだろうか?
そも、眠ることになんの意味がある?
獏の幻想存在として、最も眠るときが仕事時だ。活動時間とも云う。
人間の形を取っていたところで、人間のように睡眠を必要としているわけがない。
結局、何にせよ、精神が不安定になっているのが原因、なのだ。
どうにかしなければ、と思う。
昨夜は揺唯に薬を呑むところを見られて、危うくバレそうになった。心配をかけてしまった。こんなんじゃ、いけない。もっとしっかりしないと。もっとがんばらないと。
――本当にゆーちゃんが出ていく日、笑顔で見送れるようにしなきゃいけないんだ。
不安が悪夢を呼び、悪夢が現実となる。
だから、白夢を願っていなきゃいけないのに、その気力もない。
魔力のバランスも不安定で、眠れもしないのに、起きていることもできなくて。
心の安定を図るために日記を綴っていた手は、ぽたりと落ちた。
椿の花が、首から地面に落ちるみたいに。
気絶/暗転。
……
――……ゆーちゃんに、おいしいごはん、かいものしなきゃ。
そんな気持ちだけが、ただ一筋の頼る糸だった。
ぱちぱち、とまばたきする。
目を覚ましそうな蕾をふふんだ桜の木を、夕日が赤く染めている。すっかり、夕方だった。急いで買い物しに行かないと、と顔を上げれば――
「……久しぶりだな、白籠」
家の中に、前職の組織のボスとその腹心が数名、土足で踏み入っていた。
……目を覚ましたのではなくて、自分の悪夢を見ているのだろうか。
尤も、白籠は自分の夢だけは見られないのだけれど。
起きて微睡みながら幸せな夢を見ることはあっても。
否、夢だと思いたかった。
「ようやく、見つけた。本当に大変だったんだぞ。その苦労の分は――耐えてくれよ?」
パァン!
軽い音が響いた。
ぶたれて、殴られて、蹴られた。
始まりの日の焼き直しみたいだ。
靴の底についた土が、白籠の血が、畳に飛び散った。
――やめて、大事なおうちなの。ここは、わたしとゆーちゃんの居場所なの。穢さないで、汚さないで。踏みにじっていかないで。
「お前たちのせいで、この辺りの人間が殺されるところを見せてやろう」
ボスは酷薄な笑みを湛えて、白籠のまとめた長い髪を掴んで外に連れ出した。階段を引きずるようにして下りられる。
ボスも、腹心たちも銃を取り出す。
「……やめて、ください。おねがい、です。なんでも、しますから……!」
揺唯は、そういうことが嫌で組織を抜け、自由を求めたのに。これでは意味がない。
あの雨の日、揺唯はこんな悪夢みたいな現実は嫌だって、そんなの要らないって云った。それほど、現実が辛かったのだ。人殺しなんて、もうしたくないって。
――この現実を悪夢として、今度こそわたしが喰いちぎって……何もかもを、変える。許されないことだってわかってる。わかってる、けど……。許されないこと以上に許せないことがあるのなら、それ以上にゆーちゃんの帰る場所を守りたいって願うなら、どちらかは叶わないってことだから。……それでも、どちらも選びたくないのなら、ご都合主義の白夢を願うしかないのかな……? ゆーちゃんが佐けてくれる、なんて都合のいい夢を見たら、いけないかな……。
赤い夕日だけが、街を照らしていた。世界の、終末みたいに。
泣くみたいに、獏の幻想存在が一滴、額から血を流した。
∴
「ハクローっ‼」
アパートの前で黒いスーツを着たやばそうな奴らに引きずられている、傷だらけの白籠を見つけた。
頭の中で、ぶちっと何かが切れる音がした。
気づけば、人数差とか武器の有無とか関係なく遮二無二殴りかかっていた。
咄嗟のことで相手も驚いて最初は上手くいったけど、白籠という人質がいる分結局はジリ貧で不利だった。
我に返ったボスと呼ばれてる人間が、白籠の頭に銃をつきつけた。
そうして身動きが取れなくなっているうちに、いつの間にか揺唯の頭にも銃が向けられていた。そして、一つの銃を寄越される。
「死にたくなければ、今ここで白籠を撃て。そうしたら、揺唯、お前だけは生かしてやろう」
名前を教えた憶えもないのに、なぜだかそんなふうに命令された。
うざい。
さっきまで頭は沸騰していたのに、臨界点を突破していっそ冷え始めたのか、どこか冷静にこの銃とおそらく残っている弾数で、あまり得意じゃない射撃武器で、一斉制圧が可能か頭でシミュレートしていた。どうしてそんな物騒なことがぽんぽん思いつくのか、まったく理解できないけど。
――まず、隣のおれに銃を向けてる奴から、自分の頭を打ち抜くふりして殺して、それからそいつの銃を奪ってハクローに銃を向ける奴から順に殺せばいいかな。
殺す、ということがあたりまえのように感じた。何の違和感もなく、守るためには殺せばいいと思った。そんな自分の思考を、怖いとすら思わなかった。
自分の頭に銃をつきつけた瞬間、白籠が泣き叫んだ。
それを見て、雨の日がフラッシュバックして、これはとても悲しいことなんだと、やっちゃいけない、やりたくないことなんだって、気づいた。
そしたら、銃が手から滑り落ちていって――でも、これじゃあ二人とも殺される。って、もうがむしゃらにハクローに駆け寄って手を伸ばした瞬間。
「おいたはめっだよ?」
「てめぇらこそ包囲されてる。殺されたくなきゃ、おとなしくしろ」
そうして、悪者は連れていかれて事なきを得た。
よくはわからないが、悪い奴らの一掃作戦だったらしい。
これからはいろんな組織が解体されてこの境界地ももっと平和になるんだ、って云ってた。だから、もうこそこそ隠れて生活しなくていいよ、お前らは。ついでと云っちゃなんだが、今度立ち上げる新しい企業に興味があればお前も入れよ、ってあいつは云うだけ云って去っていった。
可鳴亜も、今日はいろいろ話すこともやることもあるでしょ?また後でね、って手を振って行ってしまった。
急展開に頭が落ち着かない。
いろんなものがこんがらかっているし、曖昧だった記憶がどこか繋がってきた気さえする。
――そんなことどうでもいい、ハクロー……!
白籠が無事なら、それでいい。
傷だらけで、出逢った日みたいにぼろぼろだけど、ちゃんと、生きてる。……よかった。
抱き締めたいけど、傷が開きそうで怖くてただ近寄るだけで止まった。
でも、白籠は笑顔を見せてくれるでもなく、哀しげに立ち尽くしている。
夕暮れの太陽を背に、白籠はぽつりと零すと溢れるように語り始めた。
「たぶん……薄々思い出しているかもしれないのですが、揺唯さんとは以前から知り合いでした。カナさんも、謠惟さんも、あなたの知人です。さっき襲ってきた人たちは、わたしたちが以前所属していた組織の、ボスでした。あの組織にいたとき、わたしたちは悪夢のような経験をしました」
一息。
なんとなく、そんな気はしていた。
親しく接してくれる人たちは、皆初めてな気がしなかったから。
そして、さっきの冷徹な思考を思えば、裏組織に所属して最悪なことを自分がしていたとしても驚かない。
言葉は、ない。
白籠の話の続きを待った。
「――信じられないかもしれないのですが、この見た目のとおりわたしは獏の幻想存在で、悪夢を喰らいます。揺唯さんの、悪夢のような記憶を、わたしは喰いちぎりました。けれど、その悪夢はわたしがまだ大事に持っています。もし、平和になった今だからこそ、大切な記憶も含まれているあなたの夢を取り戻したいと、揺唯さんが願われるなら……わたしはそのとおりにします。揺唯さんは、思い出したいですか?」
バクの耳としっぽがついていて、夢を喰らうことを嘘だ、とは思わなかった。白籠のおとぎ話に慣れているから、すべては許容範囲とも云える。
急なことで正直頭は回らないし、何を答えていいのか言葉に詰まる。
わからないことはわからないまま、ただ……思い出したいと思った。
――たぶん、おれの知らない、おれの知ってるハクローがいるのが許せなかっただけだ。
けど、たぶん、白籠が大事に守ってくれた悪夢は、もう悪夢じゃない気がした。今、乗り越えたからこそ、白夢になってる気がする。
だから、頷いた。
「……わかり、ました」
白籠はそっと揺唯に近づいて、そして――唇を、重ねた。
魔力を注ぎ込むように、口を通して何かを戻していっている。
すると、靄がかかっていたみたいだった記憶は鮮明になって、意外なことにあまり混乱なく、昔と今が重なった。
空と海が重なった、水平線みたいに。
或いは、夕日が沈み山と街と空の境界線が溶けて、やがてひとつの夜になるみたいに。
「ムクイが、ハクローなんだ」
揺唯が知っている白籠は、声しか聴いたことのない、通信士の〝ムクイ〟だった。知っている仲と云えど、実際逢うのも名前を知るのもほとんど初めてみたいなものだったのだ。
「……はい、そうです。あなたと初めて出逢ったふりをして、今まで一緒に生活してきました。けど……、もう揺唯さんは自由です。好きにどこへでも行けるんです。わたしがあなたをずっと縛りつけてしまっていたけれど、あなたはずっと自由になりたがっていた、だから――」
白籠は哀しいこととか辛いことを口にするときばかり、早口になる。哀しくなるなら、云わなきゃいいのに、と思う。……おれも聞きたくないし。
ただ、自由を求めてきたのは事実だった。
殺し屋組織から抜け出したくて、その前は裕福な家から解き放たれたくて、さらに前は研究所で実験される生活から脱走しようとして。
いつも、どこか不自由に縛られていたから、自由になりたいと思っていた。
けれど、こんなにも不自由な枷が、愛おしいと思う。
「……じゆう、自由って求めてきたけど、ハクローがいないなら、そんな自由要らない。おれ、ハクローが好きなんだ。傍にいたいんだ。どっかに行っても、ハクローがいるとこに帰ってきたい。ハクローに、触れたい。……ハクローは、やだ?」
すぐ近くにある白籠の瞳は、うるうると潤んでいる。
揺らめいた波紋が次の波紋を呼ぶ。
透明な、優しい雨だ。
「……そんなこと、ないです。揺唯さんと、ゆーちゃんといられる日々が幸せすぎて、いつか騙しているということをばらしたら、きっと出ていくのだろう、と。覚悟、してました。ううん、覚悟なんてできていなかったんです。わたしも、揺唯が好きなんです、どうしようもなく」
撫でるように、涙の粒を拭く。
触れる。
願いが、正しい形で昇華されていく。
「ならさ、今度はおれから唇にちゅーしてもいい?」
白籠が首を傾げてねだる揺唯に甘いと知っていて、無垢で無知なふりをする。
触れたい、と告げてもいいのなら。
許してくれるのなら。
「……いいですよ。あなたが望むことなら、なんでもうれしいです」
なんだか途轍もない殺し文句を受けた気がするけど、とにかく初めてのちゅーをした。
誰も見ていない、夕暮れのアパートの、前で。
二人だけの居場所に、今日も帰っていく。
そうして、獏が喰らった悪夢が白夢となって戻ってきましたとさ。
――めでたしめでたし。
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