肆/『白籠の日記』



 雨が、降っている。

 彼人の頬を伝った大粒の涙は、雨が流してくれただろうか。

 白籠はくろうは茫洋とした海の中に佇むように意識を揺蕩わせながら、しかしただ目の前にいる揺唯ゆいだけを見つめていた。

 彼人の愛用していた斧は陰に隠しておいた。後々、可鳴亜かなりあ謠惟うたい、或いはその部下が回収してくれることだろう。

 断罪を待つ罪人のように、揺唯の目覚めを待っていた。

 もし拒絶されたら、という不安。

 自分が犯した罪を受け容れる諦観。

 綯い交ぜになった感情は、それこそ大海原のようである。

 ザーザーと降りしきっていた雨はどこへやら、天はふと泣くことをやめた。

 晴れ間。

 雲が一瞬にして晴れ、それと同時に揺唯の瞼が震えた。

 ぼう、と水溜まりの水面をうろうろしていた視線は、やがて白籠の姿を捉えた。逃げずに、見つめ返す。

 裁定を委ねるように、手を差し伸べた。

 すべての杞憂を払いのける力強さで、縋るように手を取られた。

 無垢な藍白あいじろの瞳は、宝石のように透きとおった煌めきを潜ませてこちらを射抜いている。確かな信頼が、手と手を通して交わされたのだ。

 この手を取ってもらえたのなら、必ず揺唯をたすけ、守りとおす。

 冷えきってしまっている揺唯の手を握り歩きながら、早く温めてあげないと、と思う。

 だって、揺唯は寒がりだ、ということを白籠はっている。

 寒い思いをしているに違いない、と。

 教わった住所のとおりに歩いてきたが、実際合っているかは不安だった。だから、『メゾン・トワイライト』の薄れた文字が見えた瞬間、ほっとしてしまった。

 動揺も安堵も伝わっていないと、いい。

 用意してもらった隠れ家のアパートメント。二階、二〇三号室。錆びた階段を甲高い音とともに上って、廊下を進んだ奥の部屋。鍵に書かれている数字が、そのままドアに表記されている。

 ……初めて、帰るおうち。

 震える手で鍵を差して、回した。

 カチャリ、というこの軽い音と感触が家に受け容れられた証だった。

 開いた。

 尤も、この鍵で開かなければ二人して路頭に迷うことになっていたのだけれど。

 開いた扉の先は、あからさまに人の住んでいない場所特有の埃っぽさと冷たい空気を纏っていた。

 それでも、帰ってきた、という気がしたのは遠い昔に住んでいた古い家の和室と似た感じだったからだろう。刹那、長いこと思い出すこともなかった穏やかな笑みとしわくちゃの手のぬくもりがフラッシュバックした。

 幻想霧散/現実回帰。

 謠惟が用意し、可鳴亜が手入れしてくれていた家だ。不備などの心配はないが、揺唯に帰るのが初めての家だと悟られないか、不安だった。

 人一人拾っておいて、いえ実は自分も今日から宿無しの予定だったんです、なんて口にできるわけがない。

 窓を開け、棒立ちしている揺唯に玄関での靴の脱ぎ方・そろえ方を教える。

 風呂をざっと綺麗にしてから、温度を40あたりまで回してからカランを捻り、湯を張った。揺唯を温めようと奔走した。服を脱がせて、シャワーの使い方やお風呂の入り方など一から教えつつ、髪と身体を洗い、ぺらぺらのタオルで拭いて、箪笥の中に見つけた灰色にワンポイントのついたスウェットを着せてあげた。

 濡れた着物を脱いで襦袢のみになった薄っぺらい身体の白籠とは違い、がっしりした身体つきの揺唯を見て少し羨ましく思った。白籠よりやや硬質な秘色ひそく色の髪も、動物の毛を触るようで心地いい。

 白籠自身は、包帯やら絆創膏やらで風呂に入るどころではなかった。ので、あまり魔術を多用したくはないのだが、清浄と温風を複数の基礎魔術を組み合わせて作り出し、身体を清め水分を落とすだけに留めた。

 白籠の好みに合わせて可鳴亜が用意してくれたであろう簡易的な着物を纏う。水浅葱の着物に藍色の角帯。さらっと着流して、部屋に戻る。

 揺唯に物の位置を教える体で、この家に何があるか確認していった。揺唯がさらっと見流すのに対して白籠のほうがじっくり見つめているので、ちぐはぐだ。

 衣食住、生活必需品、ついでに何日かは引き籠れるほどのカップ麺や栄養補助食品もそろえてあって気遣いが窺える。これまでの給料を一部現金化して持ってきているとはいえ、以降引き出すことはできない。謠惟室長が内職の仕事を用意してお給金をくれると云うので、本当に至れり尽くせりである。

 ……二人ともお尋ね者の身だ。

 この部屋にも御札で結界を張っているし、お守りを持ち歩いているので白籠自身も直接対面しない限りは察知されない。それでも、しばらくはおとなしく身を隠していたほうがいいだろう。

 とりあえずの家事を終え、カップ麺に湯を注いだ。

 料理とも云えないそれが、初めて揺唯に作ってあげるものだと思うと、少し寂しい。

 それでも、ラーメンをうれしそうに啜る揺唯を見ていると幸せな気持ちになった。

 ちょっと心にゆとりができてきたところで、はたと思いあたった。

 捨て猫や野良猫のような、無垢で無知な存在に思えたからつい風呂の世話から着替えまですべて手伝ったけれど……果たしてそれは必要だったのだろうか、と。だって、概念的な記憶を奪ったから、たぶん思い出は曖昧かもしれないけれど、彼人に知識がないわけではないのだ。旧式の風呂だったから使い方くらいは教える必要があったかもしれないけれど、後は一人でできたのかもしれない。揺唯が気持ちよさそうにしていたし、嫌がられなかったから万事オーケーということにしておいた。

 白籠自身が揺唯のことを知っているものだから、つい初対面ということを忘れていて、取ってつけたように自己紹介をする羽目になった。

 夢杙むくい白籠を名乗れば、揺唯は舌っ足らずに〝ハクロー〟と呼ぶようになった。〝ムクイ〟の語感に既視感を覚えてもらっても困るけれど、揺唯はそもそも聞き取れていないみたいだった。或いは、思い出すことを彼人自身が拒否しているのかもしれない。

 仕事の関係でもないのに揺唯さんと呼ぶのはおかしい気がしたし、偽名の意味もあって〝ゆーちゃん〟と呼ぶことにした。ゆーちゃん……愛らしい響きだ。

 窓の外には、雨上がりの世界がきらきらと輝いている。日の光を反射する水滴たちが、二人の門出を祝福してくれているみたいだった。

 地区境界地の中でも、商店街やある程度の働き口のあるここ一帯は比較的治安のいい安全な場所だ。和風建築の要塞、支配者の眠る塔を頂に持つ夜店よみせ、「花籠はなかご」の近くで守られているからである。漂流者の多いこの場所は訳ありの人間が急に住み着いても噂話すらしない。お互いにお互いを秘匿し合うのだ。一度追っ手を撒いてしまえば安全だとも云える。……いつまでも、ずっと、とはいかずとも。

 晩ごはんにカップ焼きそばだけではなく、塩むすびを作った。料理とも呼べないようなそれを、しかし揺唯は美味しいとものすごく喜んでくれた。申し訳ない気持ちもありながら、こんな簡単な手料理で喜んでもらえるなら明日はちゃんと食材を買って料理をしようと思った。少なくとも数日間は引き籠っていよう、なんて決意は一日にして崩れたのだった。

 一日でいろいろとありすぎたせいもあって、揺唯は子守唄を聴きながらすぐに眠ってしまった。

「おやすみなさい、いい夢を」

 額に祈りを込めた口づけを送る。

 ささやかな、おまじない。

 以前、花椿かめりあが可鳴亜にしていたのをまねただけの。

(わたし自身があなたの悪夢かもしれないのに、なんて愚かな……)

 揺唯の規則的な寝息を聞き届けてから、白籠はゆっくり立ち上がった。音を立てないように。

 台所にある食器戸棚、その奥にある白い袋を取り出した。

 表面には何も表記がないそれを、しかし白籠は薬が入っていると知っている。いつも、可鳴亜に手配してもらっていた睡眠薬だからだ。きっと、可鳴亜は白籠がうまく眠れなくなることを予想して、先んじて用意してくれていたのだ。たくさん感謝を伝えたい、けれど今はできないから有難く呑ませてもらおう。蛇口を捻って、水道水を透明なグラスに入れる。睡眠促進魔術のかけられた魔力薬を口に含んでから、水を呷った。

 こくん。

 細い喉で嚥下するのも不得意なのでよく失敗するのだが、今回は一発でいけた。

 その代わり、ぱさりと黒い三角巾が頭から落ちた。

 黒いバクの耳があらわになる。いっそ黒い羊のように耳が垂れているそれは、白籠が普通の人間でないことを表している。

 ――ばくの幻想存在。

 幻想存在とは、幻想種とは異なり、人間が幻想した妄想の産物の結晶が姿形なく力を持ち世に影響を及ぼしたり、裏世界に存在したりしている曖昧なものだ。

 白籠は、人間として顕現した獏の幻想存在だった。悪夢という概念を喰らう、悪夢を主食に生きる、夢見る存在。

 幻獣である獏と動物のバクが混同されたためか、バクの耳としっぽを持つ歪な身体。

 白籠自身が最もやりたくないと忌避していた禁を破り、揺唯の記憶という名の悪夢を喰らった、張本人。

 自らの意思で罪を犯しながら、それに耐えられなくて眠れず、こうして睡眠薬に頼っている。

 不本意な展開ながら、この夢みたいに幸せな生活に適応しつつある自分がいっそおぞましいのだ。

 貧しくても、誰に認められなくても、二人で一緒に平凡な暮らしができたら、と夢想し続けたことが現実になったからあまり違和感がないのかもしれない。

 身勝手な願いを心の中で呟く。

 ――どうか、あなたが独り立ちできるようになる日まで、夢から覚める日まで、傍にいさせてくださいね。



       〆



「皐月の一日。/白籠の手記」


『今日、揺唯さんの悪夢を喰いちぎりました。悪夢の、記憶を。揺唯さんはわたしを殺したくない、と泣いていました。大雨の中で、大粒の涙が止まりませんでした。わたしがあなたの悪夢なら……、殺されたってよかったんです。あなたの幸せのためになるなら。けれど、あなたはもう誰も傷つけたくなくて、人を殺したくなくて新しい道を選んだのだから、それではきっと本末転倒なのでしょう。だから、大罪であることを知りながら、わたしは禁を犯しました。わたしは、この罪を、記憶を、あなたが憶えていなくても、思い出すことがなくてもずっと憶えています。いつか、わたしたちを取り巻く状況がすべてうまくまとまって、あなたが自由を求めてこの場所を離れる日まで、どうか傍にいさせてほしいのです。少しでも、揺唯さんが独り立ちするためのお手伝いができたら、幸いだなと思うんです。そうだ、ゆーちゃんって今日から呼ぶようになったんでした。今から慣れておかないと。ゆーちゃんが、今夜白夢しろゆめを見られますように。祈りを込めて』



       〆



 日々は、目まぐるしく過ぎていく。

 白籠がぽやっとしている間にも、季節は巡る。

 つい先日まで平仮名ばかりの日記を書いていたと思えば、すっかり揺唯は言葉も漢字もマスターして綺麗な文章を綴るようになっていた。

 教えたことをすぐ正しく理解し自分のものにしていく。あっという間にすべてを吸収し、すくすく育っていく揺唯。水を遣ればどこまでも育つ植物のようだった。

 白籠は、揺唯と生活を共にするようになってから、すっかり子どもの成長を見守る親のような気持ちに染まっていた。

(おばあさんとおじいさんはわたしを育ててくれていたとき、こんな優しくてあたたかい気持ちになっていたのでしょうか。そうだったら、いいな……)

 誰かを守り育てること、保護者として慕われることがこんなに幸せなことだとは知らなかった。上子かみごだった謠惟や花椿があれだけ下子に愛情を注ぐのも、今ならその気持ちがわかる気がした。

 ただ、記憶が曖昧且つ特殊な環境で育った揺唯の成長は独特だった。教えたことは一度で覚えるし、興味があって観察したものは教えなくても記憶して実践できてしまう。記憶力がよくて、器用なのだ。反対に云えば、興味のないものに対してはとことんやる気が起こらず身につけることがない。単純な言葉や計算はわからなくても、難しい政治的事案や数式の解は知っている。そのちぐはぐさは、本人から聞いた過去や調べた研究所などの実体、謠惟の悪夢の中で見た家庭環境などからおおよそ見当がついた。基礎スペックが高い揺唯は、しかし基本的な知識を得ずに育ち、そしてある程度成長してから無理やり高等教育を詰め込まれたから、変に知識が偏っているのだ。また、研究所での監獄生活、実家での強制教育のせいで自分の意思に反した、自分の意見を聞いてくれずに勝手にされること、教えられることを酷く嫌悪するようになって、謠惟に勉学・雑用を強要されていたときはものすごく反発していた。翻って、揺唯の興味のあることに絡めて勉強に誘うと、意外なほどに食いついてくる。日常生活に潜んでいる言葉の面白さ、算数ができるとわかるようになること。そういった餌に飛びついて、一生懸命授業を聞いてくれる。

 そうして、学び成長していく姿がうれしくて、ついつい褒めちぎってしまう。謠惟が見ていたら甘やかしすぎだ、と怒られそうだと思った。揺唯の成長を喜ぶとともに一抹の寂しさもあった。いつか、成長し自分の道を決めた揺唯は巣立っていくのだろう、と。自由を愛する彼人は、自分がしたいことを見つけて、きっといつかこの家を出ていく。その頃には、計画も完遂されて皆自由の身になっているだろう。白籠自身は一つ所に留まるのが性に合っているし、時折思い出したときにでも帰ってこられるようなホームになれればいいなと思っていた。その日を思うと、手放しに喜ぶこともできないけれど。

 それに、こうして大人ぶっていろんなことを教えている自分のほうがぽんこつなのだと思い知らされるときもあって、なるべくそんな情けない姿は見せたくないと気を張ってしまう。ぼうっとしがちだから慣れていることでさえたまに失敗するし、慣れていないことにはとても時間がかかる。



 ――同居生活、二日目のことだ。

 初めて商店街で買い物をした。

 いつもなんらかの組織に所属していて与えられるものをただ受け取っているか自由がないかがほとんどだったし、養父母に育てられていたときは異形の子として他所さまに目をつけられないよう外に出ることはなかったので、精々おばあさんが行商人さんから値切りながら買い物していたのを遠くから眺めていたくらいで、実際買い物したのは花籠で仕事させてもらっていた短期間に可鳴亜に連れられてあちこち行ったときくらいだ。

 つまり、一人で買い物なんてほぼしたことがなかった。

 以前の、まだ誰とでも面と向かって喋れていた頃ならともかく、魔力耐性のある身内以外とは直接喋れなくなった今の白籠にはコミュニケーションを取りながら買い物をするなんて至難の業だった。

 ……正直、緊張で足が竦んだ。

 それでも、家から出るときは揺唯に笑顔で「美味しい晩ごはんを作るためにお買い物行ってきますから、いい子でお留守番しててくださいね」とできる大人ぶったのだから、買えませんでした、今日もカップ麺だけです、なんて謝罪する情けない姿見せられるわけがない。

 家の前の道を進めば、すぐに大きな道につきあたる。

 アーチもアーケードも外骨格だけを残して空洞になっており、以前の商店街の名称も判らなければ、雨よけの機能もありやしない。尤も、今の商店街に名前などあったものではないが。しいて云うならば、この大きな道は「花籠」まで続いているので「花籠通り」と便宜上呼ばれることもあるくらいで。

 煉瓦敷き風の道は、煉瓦の端が欠けていたり、コンクリートごと盛り上がったりしていて、平坦ではない。薄汚れてほとんど灰色に近いが、昔は茶色やオレンジに彩られていたのだろう。

 この境界地の商店街も、ただ昔あった名残を再利用しているだけなのである。

 公共事業の手が届くわけなど当然ないので道路工事もされなければ、道路交通法も建築基準法も何もかも指摘されることがない。……たまに倒壊事故は起こるらしい。

 そんな凸凹した道を、えっちらおっちら、退紅あらぞめ色の着物に臙脂色の帯を締め頭はいつもの黒い三角巾という恰好で、草履をカランコロン鳴らしながら、布袋を肩に、時折躓きながら歩いていく。

 新参者が珍しいのか、奇異の目で見つめられている気がする。自意識過剰だ、とばくばく鳴る心臓を落ち着かせようと深呼吸する。

 びくびくと怯えながら、まず初めに八百屋さんの前で立ち止まった。

「いらっしゃい!」

 ひょろっと背の高い八百屋さんは緑のキャップ帽にエプロンという出で立ちで、にこやかにあいさつしてくれた。ぺこり、とお辞儀する。

「見ない顔だね、越してきたのかい?」

 こくり、と頷いた。無言を貫きとおしても何もつっこまれない。

「そうかい。じゃあ、今後もご贔屓にしてってくれな。なんの野菜が欲しい?」

 優しく訊ねられて、白籠は着物の袂から桜色の巾着を出し、その中からメモ帳を取り出して見せた。大きな文字で『キャベツ一玉・にんじん一本・もやし一袋』と書かれている。買い物リストの一部だった。

「よっしゃ、わかった!」

 と、八百屋さんが安くていい奴を全部持ってきてくれた。

 ありがとうございます、のお辞儀をした。

 会計するとき、初めてのお客さんだからと少しまけてくれた。

「ありがとさん。また来てくれよな」

 口でぱくぱくと、また来ますと応えた。

 無言で察してもらおうなんて、それこそ子どものお遣いみたいで恥ずかしかったが、それ以上にそんな白籠にさえ優しくしてくれる心遣いがうれしかった。

 お肉屋さんには指さしと指の本数でほしい量の鶏肉を買った。

 魚屋さんでは、どっしりと構えた低い声の店主が勧めてくれたカレイを二尾買うことにした。煮つけが、きっと美味しい。

 最後に、一番奥にある商店に辿り着いた。実質、この地一帯のスーパーマーケットである。味噌汁と卵焼きが作りたいので、味噌と玉子が欲しかったのだ。コンビニエンスストアと広さは大差ない店舗だったが、お店の籠を手に歩き回って見たものの玉子はすぐ見つけられても、味噌がわからなかった。焦れば焦るほど視野が狭くなり、こんなお遣い一つできないのか、と泣きたくなってきた。そんなとき、そっと無口な店主が声をかけてくれたのだ。「何探してる?」と訊かれて、買い物リストの味噌の部分を指さした。すると、特に何も云うことなく歩きだして、ある商品棚の前で立ち止まった。何種類かの味噌が並んでいる。一つ、籠に入れてぺこぺことお辞儀すれば、そんな礼は要らないとばかりに手を振られた。無言のお会計さえ、なんだかあったかかった。言葉は、必要なかった。おまけで、一口サイズのチョコレート菓子を二つ入れてくれた。そのとき、この買い物中初めて白籠の表情が少しだけ緩んだ。店主もかすかに微笑んだ気さえした。

 商店街の人たちのあたたかさに佐けられ、どうにか買い物を終えた白籠は帰って、ご飯と味噌汁、卵焼き、野菜炒め、そしてカレイの煮つけを作って揺唯に大変喜ばれたのだった。

 そんなだから、この生活の当初に一緒に買い物に行くことがなくて本当によかったと思う。



 最近では、そうやって他者と喋れないことに気遣って、揺唯は荷物持ちだけでなく買い物やそのコミュニケーションさえ自分から進んでやってくれる。それと一緒にお菓子をねだってくるところが、余計に可愛いのだ。白籠はたまに料理で失敗するし、アイロンで焦がしちゃったこともあるし、ぼうっとしてどこに物を置いたか今から何をするところだったか忘れることもある。そんなとき、さりげなくごまかしているけれど、洞察力の高い揺唯にはばればれかもしれない。それでも、できない人間だって、役立たずだって見下されることもない。揺唯は、優しいのだ。

 揺唯に外出を許可したときに渡した鍵には、お守りの効果が付与されてある。単純な防御結界と、悪意を持って近づく人間に認識されづらくなる認識疎外結界だ。それらは、謠惟たちに頼まれた、新事業に関連する魔術補助具などの作成から、考案し作成可能となったものだ。

 元々幻想存在として魔術行使もできる白籠は、魔道具とまではいかなくとも魔術補助具程度なら作成できる素養があった。後は、書物などから結界用の御札作成の仕方を学び、他用途の御札も作れるようになり、屑魔力石に魔力や魔術を込めてさまざまな効果を発揮する人工魔力石を作ったり、とそういった内職作業によって稼ぎを得た。

 揺唯が自分のしたいことを見つけて働きに出るようになって、初めての給料を全部くれようとした。自分のお金だから好きに使っていいのに、ハクローにあげたかった、だなんてなんだか泣きそうになった。食費だとか生活費にって、給料の一部を毎月くれるから、すべて貯金していくことにした。いつか外に出ていく日、きっと役に立ってくれる。それでも、揺唯は自分のお金をあれが食べたいからといった理由で、料理の材料に費やすこともままあった。わがままにしろ、優しさにしろ、或いは両方であってもうれしいことに変わりはなかった。

 白籠が作る煮物だとかの和食で敷き詰められたどうも茶色に色味の偏るお弁当は、行く職場どこでも逑の作った古風な愛情たっぷり弁当だとからかわれているようだった。揺唯が嫌がってはいないからいいのだろうけれど、逑って何?と訊かれても、生式せいしきも持たず普通の人間ではない白籠には答える口がなかった。一緒に暮らしてる人、ですかね。なんて、曖昧に答えた。



       /



 秋の夜長に、二人でこっそり夜更かしした。

 朝夕冷たい風が吹いて冷えるとはいえ、日中はぽかぽか陽気ですっかり微睡んでしまい、気づけば二人でお昼寝していたのだ。

 すると、今度は夜眠れなくなった。

 目の冴えた二人は、明日も揺唯が休みであることを免罪符に夜中のティータイムとしゃれこんだ。

 りぃんりんりん、秋の音が夜に響く。

 白籠は「誰にも内緒ですよ?」と唇に人さし指を立ててから、湯を沸かし始めた。揺唯は従順にこくこくと頷いていた。

 その間に、マグカップにインスタントコーヒーの粉をスプーンでさらさらと掬い入れた。こげ茶のコーヒー粉はまるで夜の砂みたいだな、と思う。

 この世には、小さな小さな魔力石である魔力砂でできた砂漠、星砂せいさの渓谷がある、らしい。実際に見たことはないが、一度枯れさせてしまった魔力滞留地帯が再生を始めて小さな魔力の粒が集まった結果できた砂漠だという。そして、魔力の溜まった夜には――夜空との境界がなくなるほどに空も地も星のように光り輝く、と有名だ。そんな夜に祈れば、或いはその願いは叶えられるのかもしれませんね、と希望的観測のようなおとぎ話を述べた。

「ふーん。ハクローなら、何を願う?」

 問われてしまって、少し困った。

 もしも、魔力の籠った星砂が願いを叶えてくれるとしても、現実的に考えればそれは本当に些細なことだろう、と思う。それでも……。

 地の星に願うなら――揺唯さんとずっと一緒にいたい。

 なんて、わがまま。

 本人を前に口にできるわけがないので、うーんと唸ってから答えた。

「そうですね……。ゆーちゃんが無病息災で、元気で過ごせますように、ですかね。ゆーちゃんは、どんなお願い事をしたいですか?」

 えーおれのことかよー、と文句を垂れていた揺唯は訊き返された途端悩みだした。

「……おれ自身で叶えたいから、あんま星に願うことってないかも。まあ、おれもハクローが怪我とか病気とかなく元気でいてくれるとうれしいけど。んー、またアイスの棒のあたりが出たらラッキーだよなぁ」

 と、しょうもない願望を口にした。

「ふふ、二人そろってお互いのことを祈るのはロマンチックですね。あたりの棒って……懐かしい。ゆーちゃんは強運だからあまり祈る必要もない気がしますけど」

 残暑まだ厳しかった頃、揺唯は商店でアイスキャンディーを買った。もう、炎天下での仕事で頭がおかしくなりそうだったのだ。アイスの前におれが溶ける、なんてわけのわからない思考回路になるくらいには。とにかく冷たいものが食べたい!と、店先で商店の主に「アイスひとつ!」と大声で叫んだのだった。軒先のベンチで水色のソーダ味の棒アイスをガリガリと食べ進めていくと、なんと「あたり!」の文字があったのだとか。あたりでどうなるか知らなかった揺唯はこれがなんなのか問うと、もう一本アイスをくれたそうだ。白籠は今も瞼の裏に、あの日汗みずくで「ハクロー、アイスあたった!」って大喜びで溶けかけのアイスを手に掲げた揺唯の姿を見ることができる。……実は、思い出のカンカンに赤丸されたあたりの棒ともうひとつの棒を大事に保管している。揺唯にも内緒だ。

「えー、おれそんな運強いかな?」

「そうですね、勘がいいのか勝負運はものすごく強いと思いますけど――」

 と、お喋りしている間に薬缶がカタカタと鳴り始めた。

 急いでコンロの火を消して、ゆっくりマグカップにお湯を注いでいく。なみなみと、波紋を呼びながら満ちていく夜の水は、牛乳の白が混ざってやがて明けていった。後は、白くてあまぁい魔法の粉をほんのひと匙かけて混ぜれば、完成だ。

 湯を注ぐ瞬間の、湯気とともに香り立つ独特のコーヒーの香りが白籠は富に好きだった。

 白籠はお盆にマグカップと秘密のおやつを二つずつ並べて持っていく。

 湯気を揺蕩わせたマグカップを、揺唯はしげしげと見つめて探りを入れているようだ。

「これ、なに?」

 警戒するのは、泥水だとでも思われたからだろうか。

 そんなものを白籠が提供するはずない、とわかっているからこそ悩んでいる。

「コーヒーですよ。牛乳を入れているので、カフェオレですけど」

「コーヒーってなんかもっと茶色で苦い奴じゃねーの?」

「ふふっ、牛乳と砂糖を入れてるので結構甘いですよ? 騙されたと思って飲んでみてくださいな」

 ハクローが騙すとかおもってねーし!と、薬を嫌がる子どものようにムキになって一口啜る揺唯が可愛らしい。

 両目をぎゅっと瞑っているところなんて、特に。

 ごくり。

「……。ぅ、うまい……。あまくて、なんかコーヒーじゃないみたい」

「お口に合ってよかった。コーヒーは寝る前に飲むと寝れなくなるって云いますけど、あれはプラシーボなので信じなければ効果はありませんよ」

 ……反対に云えば、信じれば偽薬効果を発する可能性があるので、それを信じて飲み続けた白籠の云うことではないが。

「へー。普通の酒と一緒なのな」

 酩酊の魔術をかけていないアルコールは、人間が酒を呑むと酔うという思い込みによって酔ってるだけなのである。それと一緒だ。魔人には普通のカフェインもアルコールも効きはしない。白籠は頷いた。

 おいしいおいしい、とカフェオレを飲み続ける揺唯にお茶菓子を差し出す。

「さつまいもの三日月……?」

 商品名だ。

 今日、和菓子屋で安売りしていたのを買ってきたもので、季節にピッタリのスウィートポテトである。

「スウィートポテトなんですけど、食べたことありますか?」

「ううん」

「さつまいもを使った甘いお菓子です。コーヒーにもたぶん合う、と思います」

 自信はなかった。

 和紙風の小包に入ったそれを、ぱくりと一口で食べてしまう。

 揺唯はその瞬間、目を輝かせた。

 ああ、美味しかったんだろうな、とすぐにわかる。

 そんな揺唯の豊かな表情が好きだった。

 白籠の表情も自然と綻ぶ。

 それを見て揺唯がまたうれしそうに笑った。

 幸せは延々と二人の間でループする。

 円環状に、ぐるぐる、ぐるぐる、と。

 二人の間を循環し続ける。

 二人でいれば、この幸福が続くと信じて疑わない。

 なぜか、白籠はこの時螺旋階段を想起した。

 円状に上り続ける、きざはし

 いつかゴールがあって、そこに辿り着いたらお別れな気がするから。

 幸せのスパイラルは、たぶんどちらかがゴールに辿り着いた瞬間が、終わり。

 出逢っては別れ、いろんな人とその階段を上っていくのだろう。

 白籠は別れればきっともう歩けだせないから、ずっとその階段の下を眺めるだけなのだ。

 秋の夜、三日月が二人、手の中と窓の外でにやりと笑っていた。

 それは……微笑み? それとも、嘲笑?

 不幸になることをわかっているのなら、上らなければいいのにっていうこと?

 ぱくり、と半分口にした三日月は、とろける甘さだった。

 揺唯と笑い合う。

 この瞬間ばかりは、誰にも奪えない。

 揺唯が一気にカフェオレを呷った。

 口の周りに薄茶色の髭を生やしてしまう。

 くすり、と笑って白籠はティッシュで拭いてあげた。

 揺唯は、くすぐったそうに、どこか困ったみたいに身を捩った。

 りぃんりんと鳴く秋の音、窓際に置かれたどんぐりのコマ、口の中に溶けていったお菓子にたくさん入っていたさつまいも。

 そこかしこにある、小さな秋の痕跡。

 ふと、小さく口ずさんだ秋の童謡。

 それを耳にした揺唯は怪訝そうな顔をして、

「デカいもん見つけりゃいいのに」

 なんて呟いた。

 ゆーちゃんらしい、と白籠は微笑んだ。

 揺唯は大きいとかたくさんが好きなのだ。お腹いっぱい食べれると喜ぶし。

 花より団子、風情よりも量、である。

 そういう素直なところが可愛くて好きだと思う。

 今、白籠は揺唯への小さい好きを集めている最中なのだ。

 揺唯に対する大好き、の中にある小さな好きたちがこんなにも愛おしい。毎日、揺唯のすてきなところや可愛らしいところ、かっこいいところ、駄目なところ、子どもっぽいところ、凛々しいところ……小さな好きを見つけている。

 意味深に笑みを深くしていると、揺唯は少し拗ねてしまってごろんと膝に乗ってくる。猫のようだ。

 それでも、こちらの機嫌を窺うようにそろっと見上げてくる。

 甘えるような、捨てないでと怯えているような、どこか熱を孕んでいるようなとろっとした瞳。

 ――ああ、また。小さい好き、みぃつけた。

 白籠は愛しい温もりをそっと撫でた。

 やや硬質な髪を、さらさらと。

 心地よさに、二人とも目を閉じた。

 ……まさか、揺唯に避けられることになるともつゆ知らずにいた、幸せの絶頂期。

 秋の夜長の、二人だけの秘密のひととき、だったのでした。



       /



 もう一人の自分が押し倒されているのを、白籠はただ眺めていた。

 曖昧な和室の中、夜闇に溶けそうな二人が折り重なる。

 揺唯は爛々と獣のように瞳を輝かせて、その人を見つめている。今にも噛みつきそうな獰猛さを伴って。

 揺唯に押さえつけられた自分は、無垢な瞳で見つめ返すばかり。何も状況を理解していない。

 やがて、服を暴かれて、噛みつかれて、三角巾を取り払われてようやく状況を理解するのだ。

 まるで、純潔であるかのように。

 そんな自分を冷めた瞳で見下ろす。

 白籠はそんな自分のことより、揺唯が苦しそうなことばかり気になった。

 暴きたくて、触れたくて、自分のものにしたくて仕方がないって顔をしているのに、今にも泣きそうなほど表情は歪んでいる。

 どうして、すぐ目の前にいる自分は気づかないのだろう。

 こんなにも揺唯が苦しそうにしているのに、ただ恐れて、震えて、何も見ようとしていない。

 もしも、今の揺唯にこの白籠自身が見えているのなら、触れることができるのなら、すぐに抱き締めたいのに。

 するっとすり抜けて、何もできはしない。

 無力感に苛まれながら、触れられもしないのに後ろから抱き締めていた。

 カンカンカン、悪夢に揺唯だけが取り残されてしまう――



 カンカンカン、と新聞屋さんが錆びた階段を上る音で目が覚める。

 隣の揺唯が苦しげに眠っている。皺の寄っている眉間を、そっと撫でた。

 どんなに魘されていても、白籠は揺唯を起こそうとはしない。

 いつもどおり、起きて、藍色の着物に水色の帯を締め、赤い半纏を羽織って着膨れて、洗濯を回して、その間にごはんを作り始める。

 白菜を切って、煮込んでいる間に卵焼きを作って……、変わらぬ朝ごはんと弁当の準備。

 味噌を溶いた後、とんとんとん、と葱を刻んで鍋に入れた。

 すると、揺唯が何も云わず洗面所へと入っていった。

 ザーというシャワー音を耳に、できた朝ごはんを卓袱台に並べていく。

 ストーブの上にかけていた薬缶がかたかたかたっ、と湯が沸いたことを知らせてくれたのでそっと急須に湯を注いだ。

 今朝は、ご飯と白菜の味噌汁、卵焼きに納豆、漬け物だ。

「おはようございます、ゆーちゃん」

 髪から水の滴る揺唯を、変わらぬ笑顔で迎える。

「……はよ」

 目を背けたまま、座布団に座ってしまう。

 きちんと乾かさずに風邪を引いてしまわないか心配で、いつも温風の魔術を陰で発動させている。魔力感知能力が高く目聡い揺唯がそれに気づかないのだから、相当参っているのだと思う。

 食事だけはたくさん食べてくれるので、少しほっとする。

 だけど、やっぱり何も喋ってはくれない。今日の仕事は修理屋さんですよね、といった白籠の簡単な確認のような問いかけに頷いてくれるだけだ。

 出かける揺唯に、そっと触れないよう弁当を手渡す。

「……いってきます」

「はい、いってらっしゃい。寒いから気をつけてくださいね、ゆーちゃん」

 溶けない氷に覆われたように、揺唯の表情は硬い。白籠があたたかく微笑んでも、そんなものはなんの意味もないみたいだった。

 雪の積もった道を、彼人は黙々と進んでいく。

 一度も振り返らない背中を、白籠は最後まで見送っていた。

「よしっ」

 部屋に戻って、半纏を脱ぐ。掃除をしたりするには、どうも動きづらいのだ。腰紐を襷がけして、袖を留める。

 いつもどおり、家事をこなしていく。

 揺唯が帰ってきたとき、綺麗で温かい部屋であるように、美味しいごはんをたくさん食べてもらうために。

 揺唯が出たからもうストーブを切ろう、と手を伸ばした瞬間、ふらついてストーブに手をついた。

「……?」

 反射的に手を引っ込める。

 右手が赤くなっているのを、ぼうと見つめる。

 自分のおっちょこちょいさに苦笑を零しただけだった。

 スイッチを切ると、ぼうという音を立てて火が消えた。

 夕方、になる前。

 晩ごはんや明日のための買い物に出かける。

 温かい鍋にしよう、と思った。

 寒い外で働いてきた揺唯に、少しでも温かくなってもらいたかったからだ。

 明日のお弁当には、揺唯が喜ぶたこさんウィンナーも入れたい。

 そう決めて、買い物リストも書いてきた。

 着物の下に白のタートルネックと黒のレギンス、上にはインバネスコート、足許は茶色いブーツという重装備で外に出た。

 これらは、すべて可鳴亜チョイスだった。これから寒くなるんだから、おしゃれにあったかくしよ、と郵便で送ってくれたのである。

 揺唯も、似合うと云ってくれた。

 凍った階段をどうにか降りて、雪の積もった道を、足跡を辿るように歩いていく。

 商店街までの道のりが、酷く遠いように感じた。

 小雪が、ふわふわとちらつく。

 白くて、ふわふわしたものは、好き。

 白い夢の象徴のよう。

 白夢しろゆめは、吉夢――いい夢のこと。悪夢の反対だ。悪夢を黒い夢というのに対し、白い夢。〝吉〟という漢字が漢字の「士」と片仮名の「ロ」で構成されているから、士ロユメ、シロユメ、で白夢という変遷もある。

 白籠の名前の〝白〟も、白夢から来ている。

 黒い夢を喰らい、白い夢を連れてきてくれる、獏の幻想存在。

 白く染まった街、白い静寂に包まれて、白い吐息が空へ昇り、白い雪は地へ舞い降りる。

 真っ黒なコートを纏った白籠は、自分の作った黒紅のマフラーと手袋を身に着けながら、しかし顔を真っ白にして寒い外を必死な歩みで進んでいく。

「ぁ……」

 雪に足を取られる。

 後ろにすてん、と転んだ。

 しばらく……、しばらく白籠は動けなかった。

 体内の魔力が偏ったのか、目眩もする。

 右手はなぜか動かしづらい。

 尻もちをついて、きっと痣になっているはず。

 でも、ちっとも痛くはなかった。ストーブを熱く感じなかったように。

 そうだ、元々痛みには鈍かったのだ、と思い出した。

 揺唯を拾ったあの日、傷だらけだったけれどあのときだってちっとも痛くはなかった。

 それと、おんなじ。

 白籠の口から、白い息とともに乾いた笑いが漏れた。

 ――大丈夫、だいじょうぶ……。

 いつもどおり。

 変わらない。

 わらってる。

 だいじょうぶ?

 なにが?

「っ……」

 涙が、つぅと一筋だけ流れた。

 ちっとも、大丈夫なんかじゃなかった。

 ……寂しくて、仕方ない。

 それでも、白籠は自分がそれ以上泣くことを許さなかった。

 揺唯が苦しんでいることを知りながら、傍にいながら、何もできない自分が泣くべきではないと思うから。

 ――だいじょうぶ、まだわらっていられる。

 おぼつかない足取りで、視線を虚ろに彷徨わせた白籠を、商店街の人たちは気遣わしげな視線で追っていた。それでも、いつもと変わらないやり取りを無言で経て買い物を義務のように遂行していく。

 メモ帳を差し出すだけ、指さしと指の本数で示すだけ、なので同じ工程なのに。どこか、そこに感情は籠っていなかった。

「――待ちな」

 そう云われたのは最後の商店でのことだった。いつも無口で不愛想な店主が、自ら話しかけてきたのだ。

 それには、さすがに白籠も驚いて止まった。

 なんでしょう?と云うように、首を傾げる。

 おいで、と手招きされてなんの警戒もなくついていった。

 商店の奥、硝子戸を開けると上がり框があって畳の部屋が続いている。たぶん、そこが彼人の居住スペースなのだろう。

 奥の暖簾の隙間から、台所も見える。それなりに広さがあるようだ。どことなく、一人で住むには寂しいように感じた。……或いは、彼人一人で店を構えようとするタイプには見えないので、本当に昔は誰かと切り盛りしていたのかもしれない。

 座るよう指し示されたので、そっとその境界に腰かけた。買い物した戦利品たちを、ゆっくり横に置く。

 ここを開けてもらえたのは、まるで誰にも見せない秘密を覗かせてもらえたみたいだった。

 なぜか、許されている。

 商店の店主は、戸棚の中から円柱の容器を取り出した。緑色の、化粧品やクリームが入っていそうなプラスチック容器だ。

 近くで見ると、どうやら市販の塗るタイプの魔力薬だった。塗り薬は、基本的に治癒促進効果のものなので何を塗っても一緒なのだ。

 ただ、それを見ても白籠はいったいどうして呼ばれたのか理解できなかった。

 ぼう、と眺めている。

「手、出しな」

 云われて、はたと手袋をつけていない手を見つめた。

 メモ帳を出したり、金銭のやり取りをするために、どうしても邪魔になるのだ。だから、早々に巾着の中にしまってしまっていた。

 手は、赤く染まっている。

 冷やさなかったから、火傷が悪化していたのだ。

 ……そんなこと、すっかり忘れていた。

 心配を、かけてしまったのかもしれない。

 差し出した手を、老齢のInnerは塗り薬を纏った手でそっと包み込んでくれる。

 しわくちゃの、手だ。

 水仕事だとか、高齢による魔力の枯渇化のせいですっかり枯れ枝のようだ。

 かさついて、でも温かい、手。

 懐かしい。

 おばあさんが、冬の日に手を温めてくれたり、なけなしのお金で買ったハンドクリームを纏わせてくれたときの感触と、同じ。

 かじかんだ手を、大事に包んでくれた。

 白籠よりも、白籠の身体を大事にしてくれた。

「……お前さんの身体は、お前さんが気遣ってやらなきゃ、傷が治っても痛んだままだよ。お前さんが自分を大事にしないと、周りの人間も痛くなるんだ」

 傷は、勝手に治る。

 治癒魔術さえかければ、跡形も残らない。

 それでも、この人は火傷で赤く歪んだ手を見て、傷ついてくれたのかもしれない。優しい、人だから。

 不器用で、懐かしい優しさに包まれて、泣きそうだった。

 ありがとう、の気持ちを込めてそっと手を握り返した。

 振り解かれなかった。

「最近、何があったか知らないけどね。ずっと、顔色が悪いよ。連れと喧嘩でもしたかい? まあ、なんでもいいさ。人生は思っているより長いからね、不運に見舞われない限りにゃ。地獄の底だって一瞬さね。気づけば、雪は解けて春が来てる。意外とね。あんまり、重く捉えて塞ぎ込むことでもないのさ」

 励まされているのだ、と気づいた。

 すべて上手く咀嚼できたわけではないけれど、こうやって周囲に心配をかけないよう踏ん張ろうと思えた。

 だって、一番傷ついてるのはゆーちゃんだから。

 白籠が微笑むと、ようやく店主も表情を柔らかくしてくれた。

 ぺこぺこ、とお辞儀するとやっぱりそんなの要らない、と手を振られたのだった。

 といった出来事があってから、たまにあの店と家の境界線でお茶をしたり、雑談を聞いたりするようになった。

 相変わらず、口数が多いわけではないけれど、時折懐かしむように昔の話をしてくれる。

 喋れない白籠への信頼か、それとも誰かに話したかったのか。

 やっぱり、彼人一人でこの商店を起こしたのではなく、一緒に夜店から逃げた家族のような友人と始めたらしい。

 けれど、元々夜店であまりいい扱いを受けていなかったお喋りな友人のほうが病で先に亡くなってしまった。だからこそ、ずっと彼人はここを守っているのだろう。

 ここいらの連中は商店がなきゃやっていけないから仕方ないね、なんて苦笑していたけれど、それがうれしいのかもしれない。

 なるべく、末永くここにいてほしい、と思う。

 けれど、同時に大事な家族のような存在を喪って、独りぼっちになってそれでも強く生き続ける彼人のことを純粋に尊敬した。

 ……きっと、自分は生きていけない。

 煙草屋も兼ねている商店だから、その横に喫煙所が併設されている。と云っても、野晒しにベンチと缶の灰皿が設置されているだけなのだけれど。

 かすかに、安っぽい煙草のにおいが漂ってくる。

 店主は、あの子も煙草が好きだったんだよ、なんて哀しげに笑った。

 化粧台の上に置かれた古びた煙草の箱は、きっとその人が亡くなった時から時間を止めたように数本歯抜けになって鎮座し続けているのだろう。

 煙草のにおいで、揺唯を思い出す。

 いつからか、たまに煙草のにおいを纏わせて帰るようになった揺唯。

 何を思って吸い出したのか、ただの興味本位か、誰かに誘われたのか、それとも何かのストレスのはけ口なのか。

 ……嫌いではないけれど、ただ黙って隠されていることが少し悲しい。

 自分は、こんなにも隠し事を抱えているというのに。

 夜、かじかむ手で文字を書くのも億劫で魔力石に洗浄効果を付与する内職をしていた。

 ダンボールいっぱいに盛られた屑魔力石に魔術をかけるだけの、単純作業だ。

 魔術使でもなく、基礎魔術しか使わないので詠唱することもない。ただ、心に思い描いた効果で魔力を込めるだけでできる。

 魔人となっただけで、人類は容易に魔術を扱えるようになった。

 魔術とは心を形にする作業で、詠唱はそのための言葉だ。

 ……という、説がある。

 詠唱を必要としなくなっているということは得てしていいことではなく、人が神秘存在に近づく代わりに心を失っていっているのかもしれなかった。

 ダンボールから屑魔力石を一つ手に取り、そっと両手で握り締めて魔術をかけ、完成品用のダンボールに入れる。その繰り返しだ。

 蝋燭の灯りだけしかない、薄暗い夜の中で蒼白い魔力光が煌めく。

 ただの作業だけれど、少しでも使う人の役に立てばいいと心を込めた。

 揺唯と生きていくために必要な仕事、でもある。

 微々たる収入の、簡単な魔術さえ扱えれば誰にでもできる仕事。

 もっとたくさん、早く、できるようにならなくちゃ。

 揺唯がいろんな仕事をかけもちしているのに、自分はなんて体たらくなんだろう、と思う。

 ――……もっと、もっともっと!

 がんばらなくちゃ、なんの役にも立てない。

 白籠はかじかんだ手にふぅ、と息を吹きかけた。

 真っ白な手が赤く染まっているけれど、すっかり火傷は治っている。

 商店の店主のお陰だった。

 部屋の中でも白く染まる息が、部屋の隙間を抜けていく。

 ……しんしんと、雪が降り積もるように。

 心に空白ができる。

 それは、襖を隔ててすぐ近くにある温もりなのに、今は隙間風となって消えていくばかり。

 赤い半纏に着膨れた白籠は、その空白に耐えられなくてひとつ、ぶるりと身震いをした。

 冬は、まだ続く。



       〆



「師走の十八日。/白籠の手記」


『ゆーちゃんには云えないことがいっぱいあるけれど、今のゆーちゃんには特に自分が獏の幻想存在であることは云えないんです。だって、既に彼人の悪夢を喰らっている状態なのですから。獣人というわけではないけれど、耳としっぽのある特殊な人間なのだ、と耳を見られた最初に伝えました。だけど、ゆーちゃんは変だなんて云わずにおもしろいとか触りたいとか可愛いって云ってくれたんです。照れくさかったけれど、うれしかった。だけど、最近ゆーちゃんに避けられている。……実は、原因もわかっているんです。けれど、原因について追及することも、わかっていると云うことも、どうして知っているのかという理由も、すべて口にはできないし、しない。獏の力で、近くで寝ている人の夢が見られるから。いい夢、悪い夢を問わず。そして、共有して見ている悪夢から、なんとなく避けている理由を察しました。――わたしを、組み敷いて無理やり触れようとする夢を見ている。それを、ゆーちゃんはわたしを傷つけることだと思ってるみたい。多少乱暴にされても大丈夫だし、犯されるのにだって慣れているのに。なんて、純粋無垢なゆーちゃんには云えないけれど。でも、もしもそれが傷つけることだったとしても、ゆーちゃんにだったらいいと思ってるんですよ。わたしにとって、別にそれは悪夢でもなんでもない、白夢だ。あなたに傷つけられるなら、幸せだから。むしろ、傷つけてほしい。あなたが傷ついているとき、満たされないとき、わたしを傷つけることでその傷が紛れるならいくらだってそうしてくれたらいい。もしも、わたしが悪夢なら、あなたに殺されたって、死んだっていいんです。そんな、あなただけの、被虐嗜好/体質。けれど、わたしじゃ何の解決策もあげられない。どうしたら、いいんでしょうか。優しいゆーちゃんが傷つかないように、何をどう伝えたらいいのか、わたしにはわからないんです。春が来て、何もかもが解決したら、自然とゆーちゃんの凍った心は溶けてくれるかな……。どうか、ゆーちゃんに白夢が訪れますように。祈りを込めて』



       〆



 ――人はたった一度だけ、愛する人と結ばれるために再誕さいたんできる。


 同居生活二日目には、魔人とはどういった存在なのかおとぎ話を通して揺唯に伝えていた。しかし、その核心部分を口にはしなかったのだ。

 揺唯にはまだ早いという気持ちと、白籠自身が普通の人間ではないのでそういったことに疎く質問されても上手く説明できる気がしなかったからだ。

 前時代以前の人類は……、と書き出すと前時代だとか旧時代だとかいったいいつなんだという話になるのでそこから遡って説明しようと思う。

 政府が梢暦しょうれきより前の、独立都市枝櫻守しおうりとなる前の歴史や記録を禁書として封じ込め触れてはいけない情報だと規制し、ある条件にあてはまる言葉を禁句として辞書から排除、使用を禁じそれらを破った者は厳しく罰するようになった。

 旧時代は神秘のなかった普通の人間しかいない時代のこと。前時代は一度滅びかけた人間がこの惑星から月へと移り住み、戻ってきて一部の人間が魔術使まじゅつしとして神秘を持ち帰ってきた時代のことである。しかし、前時代では魔術を使用できない人間がほとんどだったので、神秘は秘匿され魔術使は裏の世界で細々と神秘を研究していたという。

 尤も、魔人となった現代人はほとんどの人に魔術の素養があるというのに、政府が民間人の神秘による反乱を恐れてか魔術を勉強・習得することは禁じられているが。

 閑話休題。

 前時代以前の人類には、性別と呼ばれる区分が存在したらしい。禁書の情報で、言葉にすることはもちろん知っていてはいけないことだが、こういった境界地や裏街など違法な場所に住んでいる人間や歴史研究家・読書家などの情報通は意外と知っている人間も多い。後は、規制している張本人である政府役人だとか。

 生まれたときから性別が決まっており、生殖活動において生ませるほうと生むほうがあって、男と女と呼ばれ、三人称も彼・彼女と分けられていたとか。今だったら、彼人かのとひとつで済むのに。

 現在の人間に、それらはない。

 否、正確には呼び方を変えたに過ぎないのかもしれないが。

 現代人には、生式せいしきという区分がある。

 生まれたときには皆生式機能、歯に衣着せぬ云い方をすれば生殖機能を持たないBorderである。一部の例外を除いて。

 そして、ある程度成長して成熟すると自分の意思で身体を作り変えられるようになるのだ。人生に、一度だけ。簡単に一言で表せば、子どもを生ませる機能を持つようになるのがYour、生む機能を持つのがInner。成長過程でどちらもの生式機能を持ってしまった突然変異型生式がReversible。

 Yourになると力が強くなるだとか、相手を守ろうとする気持ちが強くなるだとか、ガタイがよくなるだとか、Innerになると全体的に可愛らしくまるっぽくなるだとか、その代わりあまり強くなれないだとか俗説があるもののそんなのは個人差の範疇だ。

 そして、大多数の人が愛する人と逑――生涯を共に連れ合うことを誓い、逑の契によってその魂をも結ばれたパートナーまたはパートナー同士のこと(枝櫻守都市監修辞書より)――となるタイミングで相手とどちらになるか話し合っておいてから再誕を同時に行う。なので、逑の契と再誕は同じものだと混同したり、必ず同タイミングでしないといけないと勘違いしている都市民も多い。

 実際のところ、その両者に関連性はなく、先に自分の好みの生式に再誕しようと、とりあえず逑の契をしておいてからゆっくりどちらの生式になるか考えて再誕するも自由なのだが。


 ――生まれも能力も選べなくても、自分を生まれ変わらせられるたった一度の機会/魔法。


 再誕という言葉は、自分の意思で自分を生まれ変わらせることのできる一度きりのチャンスである、という意味でおとぎ話から生まれた俗称だ。公式には、生式の変換、と呼ぶ。

 このおとぎ話は、白籠の友人、と云うには直接会ったこともなく文通か通信のみのつき合いでしかなく、知人が正確なのかもしれない、千織ちしきいとが創造したものだ。いとは、千織家という織物家業の子でありながら、独立し相談所という名前の実質なんでも屋を営みつつ、絵本原作作家という文才も発揮する、多才で神秘に精通し禁書による歴史推理も行う政府の要注意管理人物である。

 白籠からすれば、豪胆でありながら細やかな気遣いのできるすてきな作家さんだが。

 白籠がいとと関わることになったのは、花椿と可鳴亜の紹介あってのことだった。お互いの技能や知識が役に立つだろうし、話せばきっと気が合う、と。実際、おとぎ話好きの白籠とおとぎ話を創り出す天才であるいとは手紙でも電話でも話が尽きなかった。白籠は獏の幻想存在そのものの不思議からその能力によって他者の悪夢や夢という物語を提供し、いとはおとぎ話や知恵、時に白籠の好む和服を提供してくれる。一度も会ったことすらないのに、独特な信頼関係を築き上げていた。

 今、着ているいくらかの古着だって可鳴亜経由で渡されたいとからの餞別だ。

 逃避生活の最中さなか、お礼のひとつを届けることすらままならない。

 そう、これは現実逃避なのだ。

 記憶という悪夢だけを喰らって、現実まで喰らったわけではない。

 ――夢の、逃避行。



 温かい湯気が、梁の見える天井へと昇ってゆく。

 鼻腔をくすぐる紅茶の優しい香りに、ここが喫茶店であり人を待っているという現状を思い出した。相手が紅茶党なので、好きそうな茶葉を頼んでおいたのだった。あと、彼人が好きなパイ系をマスターの気分で、と。今日は珍しい蜜柑を使ったパイらしい。

 白籠自身は悪癖だと思っている、空想への旅立ちのせいで時間感覚も今日の予定も朧げになりかけていた。

 いつも、そうだ。

 今日も、生式のことについて悩んでいたら、いつの間にか書物を書くように脳内で語ってしまっていた。……こんなだから、ぼうっとしてぽかばかりやらかすのだ。

 和洋折衷とした店内は閑散としている。バイトの子も注文の品を届けた後、奥に引っ込んでしまった。マスターが調理器具を洗う音だけが、かすかなBGMとして機能している。

 ここは、結界を張ってあるどころか、異界だ。世界と隔離されている。だからこそ、密談をするにはうってつけの場所で、追われる身でありながら久しぶりに上司と面会することを可能としてくれたのだ。なんのBGMもかかっていないのに、連れ以外の他の客の声が一切届かない。ただの雑音としてしか聞き取れず、意味ある言葉にはならない。時間軸すら不確かで、この喫茶店ですれちがった誰かが、同じ日にやってきた誰かとも限らないし、いろんな場所にこの喫茶店へと入る門があるので場所も異なる。

 白籠が心配性で早めに着きすぎたのもあるが、やや遅れてドアベルが鳴った。件の、上司である。

 廿楽つづら謠惟……室長――ある組織の一グループを任される敏腕のリーダー且つ仕事人。

 現在は、白籠に内職の仕事を斡旋しながら、この境界地を変革するという目的のために奔走している多忙な人物だ。以前は白籠も同じ職場にいた。

「……悪い、待たせたな。白籠」

 端正な顔立ちにすっとした切れ長の目は紅碧べにみどりに鋭く甘く優しい色を湛えていて、紺色の長髪を緩く三つ編みにして前に流し、柄シャツにきちっとしたスーツを着込み、重たそうなコートにはきっと武器が詰まっている。白籠がアンティークらしい木の椅子に座っていなかったところで、随分見上げることになるであろう長身痩躯はたまに雑誌で見るモデルのようだ。眉間に皺が寄っていなかったら、既に写真の一枚のようである。

 ぶっきらぼうな言葉とは裏腹に、その声音には優しさが籠っている。久しぶりの邂逅であっても、どこか安心してしまう。これが、がっしりとした大人の包容力というものだろうか。Yourならではの力強く守ってくれるような雰囲気、というものはやはりあるのかもしれない。

「いいえ、お久しぶりです。謠惟さん」

 ぺこり、と座ったままあいさつする。

 立ち上がったところで、そんなかしこまらなくていい、と制されることはわかりきったことだったから。

 丁寧な所作で対面に座った謠惟は、漂う紅茶の香りと目の前に置かれた一切れの蜜柑パイに、かすかに口許を綻ばせた。

 責任ある上の立場の人間として、いつも気を張って態度も表情も硬くなっているが、小さな機微の可愛らしい人である。

「蜜柑のパイなんですって、珍しいですよね。マスターの手作りなので、きっと美味しいですよ?」

「ああ、ありがとな」

 その謝意が先に来て注文していたことに対するものだ、ということはすぐに判った。ので、どういたしまして、と返した。

 話し始める前に、折角の紅茶とパイを楽しまなくては損だ、とティータイムにしゃれ込むこととなった。

 謠惟は優雅な手つきでティーカップを持ち紅茶を飲むと、満足そうに微笑んだ。にも拘わらず、フォークを持つと蜜柑パイを大きな口でばくばく食べ始めるのだ。

 ……似ている、と思う。綺麗な作法を覚えているのに、それを否定しようと必死に汚く食べているところとか。

 揺唯と、謠惟が。

 ぱっと見て、名前の漢字すらも。

 揺唯、と彼人に名づけた張本人である謠惟が、果たして本名をそのまま与えたのかどうかはともかくとして、〝揺〟を〝搖〟とも書くことを知らないわけがないだろう。つまり、部首が違うだけで同じつくりをしているのだ。

 白籠は知っている。たとえ、元々幼い頃の記憶をなくしていた揺唯自身が知らずとも。

 ――二人が、きょうだいであることを。

 魔人は子どもが生まれづらい。だから、子どもはとても大事、というのが世の共通認識である。なのに、多くの孤児やこういった戸籍のない浮浪児がいることは一旦端に置いておいて。

 だから、きょうだいというのはかなり珍しい。一人生まれただけでもすごいのだ。故に、きょうだいという概念は薄れた。昔は性別によって姉・兄・妹・弟などという云い方があったらしいが皆Borderで生まれるのだからそんなもの当然なく、現在は上子かみご下子しもごという上か下かの区別しかないし、きょうだい同士も名前で呼び合う。

 魔力が強力だとか優等種だとか、そういった強みがある家系、優等種同士などで結ばれなければきょうだいは難しかった。

 つまり、二人は優等種同士で縁を結ばせるような、いい所の家の出、なのだ。

 揺唯と謠惟がきょうだいであることは、所作や見た目の類似点から気づいたわけではなく、謠惟の悪夢から知ったことではあるが。

 知っている、ということで気づけることもあるんだなぁ、という今日の気づきである。

 ちまちま、と不器用な手つきで蜜柑のパイをつついては口に入れる白籠が食べ終わるのを待ってから、謠惟は話を始めてくれた。

 気を利かせてバイトさんが紅茶のおかわりにティーポットを持ってきてくれた。赤い薔薇が描かれ、金で縁取られた高そうなポットだ。これに触れるのは、割ったときを考えて少々怖い。

 謠惟がこなれた手つきで注いでくれて、ほっと安堵した。

「まあ、名目上であろうと、一応仕事の面談もしておくか」

 軽い口調だ。こちらを緊張させない気遣いがそこにあった。

 こくり。

「内職してもらってる札やら人工魔力石やらだが――」

 質は良好、納期は完璧、新しく高所作業用の安全確保可能な飛行か浮遊系の御札の製作打診、給料の昇給、他の事務作業手伝いの依頼につき今度機器を郵送すること、そして――納品が早すぎることへの、心配。

 部下を心配することは上司として当然のことだ、とばかりに憂いを湛えた瞳を投げかけてくる。

 自分にはもったいなさすぎて、白籠は目を逸らしてしまいたくなった。

 ゆらゆら、と湯気を立ち昇らせる紅茶を一口含んだ。

 ――あ、ミルクティー。

 マスターが厚意で喉に優しく気分を落ち着かせるように、と選んでくれたのだろう。ぼうっとしていて、飲むまで気づかなかった。

 優しい味が、じぃんと沁みる。

 時に、優しさのほうが、やわらかすぎて、痛い。

 そういうときは心のほうが尖っているからゆっくり休んだほうがいいんだよ、と昔おばあさんに教わった。

「……あれとの、生活はうまくいっているか」

 揺唯がどうか、と下子の心配をしていたらいいのに、同居生活で何か不安があるんじゃないか、と心配してくれている。

 夜空が明けるような、夜闇にミルクをぶち込んだみたいな、そんな優しい瞳で覗き込むのは……やめてほしかった。

 不安が、口から零れてしまう。

「……ゆーちゃ。揺唯さんは、元気です。寒かったから最近までは少し気分が上がらなかったみたいですけど、仕事も生活もうまくいってます。ただ……夢見が悪くて、毎日魘されているんです」

 ゆっくりと、息を吐いて、吸う。

 それだけの行為が、酷く億劫で、緩慢だった。

 口がぱくぱくと、言葉を成さない。

「で? どんな夢かは知っているんだろう」

 綺麗で、的確な誘導に、ただそれだけを答えようと口を動かす。

「……はい。わ、たしを――」

 果たして、下子を溺愛するきょうだいに、こんなこと伝えていいものか、逡巡した。

 白籠は揺唯だけではなく、心を許した、なおかつ魔力耐性の高い身内なら普通に喋れる。或いは、通信機越しなら誰とでもそこそこに。なのに、うまく言葉を紡げない。

 着物の衿を、はだけるような動作をした。

 それだけだ。

 日頃ジェスチャーをする機会の多い白籠と、察しのいい謠惟はその意図を共有できた。

「……あー、そりゃ俺にも責任があるな。不安に思うことねーよ」

 机越しに、わしわしと頭を撫でられた。

 雑なのに、決して三角巾が外れないようにするところ、バクの耳の部分は優しく触れるところが彼人の気遣いと器用さを明確に表している。

 何も悪くないのに謠惟は白籠に謝罪しながら、少し困った顔をしていた。

 がしがし、と自分の頭をかく。

 まったく予想外の相談に、何から口にすればいいか迷っているような、そんな珍しい謠惟だった。

 いつも鉄面皮だと有名な上司が、人間らしい表情をしていることに、くすっと笑ってしまう。

 笑うな、と端的に怒られた。

 ――そうやって、気まずくなるとお口がむずむずするところ、きょうだいしてそっくりですよ。

 云ってあげたかったけれど、口にすると気にしそうなのでやめておいた。



       ∴



 廿楽謠惟にとって、揺唯がたとえ憶えていなくても大事な下子であるのと同様に、また白籠も下子のように大事にしてきた部下だった。

 白籠だから揺唯を任せたし、揺唯だからこそ白籠を任せようと思ったのだ。

 そのあたりを、白籠は自覚していない。

 実のきょうだいだから揺唯を特別扱いしていると微笑ましげに見つめてくるが、白籠のことだってかなり特別扱いしているのだ。

 ここのところ内職の納品が早いから、もしかするとそれ以外のことがうまくいっていないから仕事に打ち込んでいるのかもしれない、と白籠の心配をしていた。のに、揺唯の報告しかしない。自分自身の報告など必要ないと思っている。

 仮に疑念がなくても、白い肌に隈が浮かび、また春めいた桜色と黄緑の合わさった着物と黒い羽織によって隠されてはいるものの昔のように痩せ細った姿を見れば、白籠が不安定なのはあきらかだった。

 魔人は魔力によって生きる。そして、魔力は心に左右される。故に、魔人は病気や外傷などに強い代わりに精神的なダメージが身体に直接あらわれる。

 世には、精神死、という言葉があるくらいだ。それは、精神的な瑕疵によって本当に死に至るということだ。

 普通の人間ではないから、と自分のキズを蔑ろにしがちな白籠は、本人が気づかないうちにぼろぼろと壊れていってしまう。

 ある意味、自分の心に正直でもし耐えられなくなったら勝手に爆発して発散する揺唯よりも、人知れず自滅する白籠のほうが心配だったとも云える。……まあ、だから揺唯はよく他人に迷惑をかけるのだが。いっそ、かけてくれるほうが楽なときだってあるのだ。

 ――さて、と。現実逃避はこれくらいにしておいて、問題を直視しなきゃなんねぇな。

 計画が大詰めに差しかかったことで秘密裏の邂逅を果たしたのだが、白籠の相談はいささか大きな悩みの種となった。

 いっそ、計画の最終段階となればあまり考えることはなく、後はやるしかない、という状況だからよかった。脳のリソースをこちらに割くことができる。

 ……それでも、一旦持ち帰らせてほしい。

 白籠の上司としても、揺唯の上子としても、頭を抱えるような情けない姿は見せたくない。

 しかし、ここでなんの答えも出さなければ二人は苦しみ続ける。ここは、年長者としての余裕を見せつつ、解決の糸口を提示すべきなのだろう。

 最近、いささか優しさという名の暴力に頼りすぎていたせいか、どうもコミュニケーションが雑になってしまっていていけない。

 問題:「揺唯の生式知識のなさが主な原因となった、二人の関係の不和」

 解:「ヤりゃあ、解決だろ。不適切な発言につき削除。訂正――要検討」

 先に、一つだけ弁明させてほしい。

 組織加入の規則として、そして揺唯自身の安全のためにもYourへと再誕させたが、上官としてすべき生式についての説明を詳しくはしなかった。本来、ハニートラップなどに引っかからないためにも一人前になった仕事人は花籠に連れていって初めての生式行為を実践して学んでいく、或いは先輩の下世話な話から徐々に理解していくものなのだが、純粋無垢で生式欲を持たない揺唯がハニートラップにかかることなどまずないので教える必然性を感じなかったのだ。

 ……正直に告白すれば、あの幼すぎる子どものような下子に自分の口からそんな下世話な教育をするのは気が引けた。

 つまり、そういった方面に対する揺唯の無知さに関しては上司としても上子としても責任があると云える。

 それでも!

 一厘くらいは弁解の余地を残しておいてほしい。

 テーブル上の一輪挿しの梅の枝が、首を振った。

 ――んだと、こいつ。縦に振れや。

 気が動転しているので、手折られた植物にも喧嘩を売りそうになる。

 空咳/本題ごほん

 すべての欲求不満を暴力によって発散していた揺唯はYour再誕後に普通持ち始める生式欲もそれだけで発散してしまっていたし、綺麗なInnerとすれちがおうとまるで興味を示さなかった。それからしばらくして、なんでもかんでも暴力に訴えず落ち着いてきてからも、今度は白籠というよき理解者を得たことによって満たされ欲求不満に陥ることがなくなったのだ。子どもの頃に得られなかったものをようやく与えられ、一歩ずつ階段を上っている揺唯に一足飛びにそういったことを教えるのは憚られた。下手に教えると暴走しそうだと思った。

 実際、その判断を間違いだとは思っていない。

 ただ、周囲の状況が揺唯の成長を待っていてはくれなかった。

 結果、今記憶が曖昧だとはいえ、そういった欲を感じる感じないいかんに拘わらず好意を抱いていた白籠と強制的に同棲することになり、あの優しく穏やかな性格に以前と同じように惹かれ、美しくも儚げでかと思えばどこか抜けていて可愛らしい彼人の、警戒心が強いようでいて無防備に立ち昇る色香や妖艶さを見て肌で感じ取ってしまえば、もう一度好意を持ちさらには肉欲を伴うのも当然のことだと云えた。

 白籠は揺唯に好意を持ちながらも、それ以上に大事にしたい、守りたいという親心のような愛情が強く、求められるなら差し出すが積極的に何かを欲していなかった。――そりゃ、仕事と違って、好きな人に求められたなら、それはそれでうれしいんだろうが。

 揺唯がそういった方面に無知だから、ということを除いても白籠を穢すのは心が痛む、という気持ちはわからないでもない。どんなに汚されてもその美しさを損なわない清廉さを持ち、あまりにも儚げで手折ってしまえば幻のように消えてしまいそうな危うさがある。

 実際問題、解決策として慣れている白籠がリードして一から揺唯に好きな人間同士があたりまえにやる行為で何も罪悪を感じる必要がないのだ、と教え込んでしまえばいい。のだが、一生安眠抱き枕としてどんなことをしてきたか揺唯に教えるつもりがないであろう白籠が、自分からそれを示唆するような行動に出られるはずがない。

 かといって、今俺のことも憶えてない揺唯に、それだけ教えに行くのはいろいろアウトだ、と考えた。

 となれば、一挙解決するしかない。

 悪夢も、組織も、境界地の改革も、ついでに二人の生活のいざこざも。

「大丈夫だ、その件は俺がなんとかする。揺唯も揺唯で悪気はないんだ。もう少し、いつもどおり接してやってくれ」

「わかっています。大丈夫ですよ」

 ぎこちない微笑みが返ってくる。

 今からゆーちゃんの好きな唐揚げを作るんです、と意気込んでいる白籠に、当然お茶代はこちら持ちだと云って帰宅を促す。

 両者立ち上がって帰ろうとしたところで、ちょっとした仕掛けを仕込むことにした。

 白籠の頭を撫で、抱き締める。

 きょとんとした白籠は、

「慰めてくださっているのですか? それとも、寂しいんですか? 大丈夫ですよ、必ずメリーさんは目を覚ましますから」

 なんて、見当違いなんだか的を射ているんだかわからない励ましをくれた。

 揺唯は魔力香の嗅覚に優れている。これだけ謠惟の魔力香を白籠につけておけば、無視できず煽られてくれるだろう。

 ――そして、必ず俺に辿り着く。

 最後の最後になって、かなりばたばたとした改革になるが、まあいい。責任の一端は、やはり自分にあるし、二人がこんなことで拗れて傷ついてはやりきれない。

 と、謠惟は覚悟を決めたのだった。



       ∴



 昨夜、白籠が薬を呑んでいるところに遭遇してしまった。

 揺唯は冬くらいからずっと白籠を避け、子守唄だとかのルーティンもなくなり、寒さの中独り寝することにも慣れたはずだった。或いは、ひょっとすると白籠が温かくなるようなんらかの魔術をかけていてくれたのかもしれないけれど。悪夢は見れど、夜中に起きることはなかった。春も近く暖かくなってきたというのに、なぜだか肌寒さを感じて目が覚めた。

 添い寝はもちろん、隣の布団にもいなくて思わず飛び起きた。

 もしかして、愛想尽かされた⁉

 そう焦って飛び出しそうになったけれど、台所から淡い光が漏れていた。

 障子をがら、と開ければ透明なグラス片手に何かを呑み込む白籠の姿があった。

 それが薬だと判ったのは、シンク横に白い袋とカプセルが入った銀色のシートが散らばっていたからである。――魔力薬だ。

 薬、を見るとあまりいい気持ちにはならない。

 白籠も治安が悪い場所では違法魔力薬っていう悪い薬が流通していて、ちゃんとした薬局やドラッグストアじゃないとおかしな薬を買わされることがあったり、夜の街では薬を強制されることもあるそうなので気をつけてくださいね、って云っていた。

 それでなくても、薬が要るってことはどこか悪いってことだ。

 ――ハクロー、どこか悪いの? それって、おれのせい?

 精神的に弱ると、人は病気になるんだって。

 ――ハクロー、おれが避けて嫌な態度ばっかり取るから、ストレス溜めちゃったのかな。

「ゆーちゃん、ごめんね。起こしちゃった?」

「ううん。ハクロー、その薬――」

「……ああ、これはお薬じゃないんですよ。ただの、サプリメント。カナさんにもらった、美容系の。魔力のバランスを整えて身体を綺麗にしてくれるって眉唾物なんですけど、わたしこの見た目のとおりちょっと普通ではないので。魔力量が多くて乱れがちだから、こういう気休めも意外と役に立つ、ような気がするんです」

 珍しく早口で捲し立てるように告げられたので、一瞬何を云っているのか理解できなかったのだが、白籠曰く薬ではなくサプリメントらしい。……なら、よかった。

「そう、なんだ……。でも、こんな夜遅くに」

「実は、ちょっと内職をきりのいいとこまでやっておきたくてこんな時間に……。でも、もう終わってちょうど寝るところなので、大丈夫ですよ」

 美容に気を遣ってサプリを呑んでるなんて知られるのが気恥ずかしくて見せなかっただけなのだ、と白籠は主張する。

 なんだ……、と納得する半面、別にハクローの白い肌に粗なんて一つもないのにな、って思った。

 ただ、白い顔に、隈が浮き出ている。

 仕事、がんばってるせいなんだ。もっと寝かせてあげなくちゃ。

 半ば、心の中で自分に云い聞かせるようだった。

 そんな気持ちとは裏腹に、白籠の綺麗で柔らかな肌だとか、細くて折れそうな痩せっぽちな腰とか、目に入った場所すべてからいろんなものが想起されてどうしようもなくて、ぶっきらぼうに布団に入ってしまった。



       ……



 ピチピチピチ、と小鳥の慣れない囀りに起こされた。

 春を告げる鳥なのかもしれない。

 子どもの鳥は親をまねながら必死にここにいるよ、おなかがすいたよ、と親に伝えているのだろうか。或いは、愛を求めているのだろうか。

 魔力の濃度が高くなったために普通の人間が存在できなくなり、魔人のみしか生きられない環境だから現代人は魔人なのだという説がある。だとすれば、動物や虫たちはどこまで生き残ったのか。どれだけが適応できたのか。人類はそのあたりに興味を示さず、動植物の生態調査は進んでいない。そもそも、人間の研究ですらまともにできていないのに、そこまで手を伸ばせるわけがないのだった。もしも、その生態を知っているとすれば、奇特な専門研究家くらいなものなのだろう。

 冬が去り、日が出るのも早くなった。

 寒いのが苦手な揺唯からすれば、暖かくなることほどうれしいことはない。

 雪が積もれば街は静寂に包まれるし、動植物の活気もなくなる。足早に帰ろうとする人々は、コミュニケーションから逃れようとしているようにさえ感じる。

 寒いのも冷たいのも寂しいのも嫌いだ。

 あたたかい、とはすなわちひとりじゃないことの証明みたいだ。

 今日は少し早出の仕事だった。時間がないのでさくっと準備しなければならない。

 珍しく、隣の布団に白籠が眠ったままだった。……きっと、夜遅くまで仕事してあんな隈を作ってるくらいだから、疲れてるんだ。

 錆びついた赤い郵便受けから新聞を取り、朝食の準備を始める。洗濯機は時間がないのもあるが、白籠を起こしたくなくて回さなかった。

 朝食、というほどのきちんとしたものではなく、コンロについた魚焼き機能で食パンを二枚焼いて、目玉焼きと焼きウィンナーをフライパンで作るだけだ。

 片手でぱかっ、と玉子を割る。自分にはできない、すごい!って白籠に褒められたからこの割り方ばかりやって、もう慣れてしまった。一人のときでもやってしまう。その横でウィンナーを二本焼く。

 じゅー、っていう焼ける音から食欲をそそられる。

 現代の人間、魔人に食欲が湧くという感覚があるのも人間の名残もしくは模倣に過ぎないって説もある。消化しないし、自然魔力さえあれば呼吸するように身体に取り入れて体内の魔力炉って場所で自己魔力に変換すればいくらでも生きてゆけるのだから、そもそも食べるということそのものが本来不要なのだ。お腹が空くのは、いっそ錯覚だとさえ云える。

 それでも、人間が人間らしく生きるために必要なことだから、まあ……気分的にお腹が空くし、美味しいにおいがしたら食欲も湧く、そういうことだ。

 それって、幸せなことだなって思う。

 白籠の料理を食べるようになってから、白籠と一緒に食卓を囲むようになってから、ごはんが美味しいって思えるようになった。それは、とても幸せなことだから。

 自分の分と白籠の分、二回フライパンで焼いた。

 白籠は小食だからトースト一枚に目玉焼きとウィンナー一つずつ。揺唯のはトースト二枚に、目玉焼きを一つとウィンナーを三つ。不公平な感じがするけど、白籠はお外でいっぱい働いて動くゆーちゃんはいっぱい食べなきゃって云ってくれる。揺唯も、ハクローももっと食べてふっくらしたほうがいい、って思ってるけど。

 白籠のように一汁三菜みたいな朝餉にはならない。

 けど、いつも白籠は作るだけで喜んでくれる。自分のはテキトーに立ち食いして牛乳を一気呑みしてから、白籠の分はワンプレートにしてラップをかけておいた。

 縮こまるようにして眠っている白籠の前髪を、口許からそっと払った。

 ――行ってくるな、ハクロー。

 起きていない今なら、ちゃんと云える気がした。

 作業着に着替えてから仕事に出る。

 悪夢を見ないわけではないが、慣れと諦観と新しく得た知識によってそこまで苦しくはなくなった。からか、あまり調子は悪くない。

 今日は早出早上がりだから、お昼は家で食べられる。きっと、白籠が待っていてくれる。

 清掃の仕事で個人宅に直行だった。

 少し遠方にある、ぽつんとした一軒家だ。豪邸、と云っても過言ではない。

 そこには、二人の老人が住んでいる。

 こんな境界地の、その中でも辺鄙な森林地帯に住んでいるのだから、まともな仕事で成り上がったわけではないのだろう。

 人の好い老人たちは、この広い家の掃除が行き届かないから、と定期的に清掃をお願いしてくる。ひょっとすると、誰も来ない場所で二人きりだと人恋しいのかもしれないし、或いは二人の話を誰かに聞いてほしいのかもしれない。

 揺唯は、一人で黙々と窓や高い所、換気扇、風呂のカビ、部屋の隅など細かい所を丁寧に掃除していった。広いとは云っても日々掃除を欠かしていない家は、定期清掃に来ていることもあって午前中で掃除をやり終えてしまう。

 清掃が終わったことを二人に報告すれば、一杯お茶はどうかい?と誘われる。

 早く白籠のいるおうちに帰りたい気持ちもありながら、二人の話も聞きたくて誘いに頷いた。

 小さな前庭にある、パラソル下の円状のテーブルに三人が席に着く。

 ふわりとしたドレスを着た老人が、紅茶と自分で作ったというシフォンケーキをテーブルに並べてくれた。

「どうぞ、私が作ったケーキでよければいっぱい食べていってくださいね」

 ゆっくりとした、やや舌足らずな発音。

 それが耳障りではなくて、むしろ穏やかな気持ちにさせてくれる。

「ありがとーございます」

 ぺこ、とお礼を欠かさない。

 本当は派遣バイトがこうして一緒のお茶の席に着くなんて言語道断なのかもしれないけれど、お客さんに望まれているのにそれを無下にするほうがいけない気がした。

 庭の手入れはもう一人のスーツを着ている老人がしているそうで、春の花が蕾ながら所狭しと並んでいる。チューリップは並んでいるものらしい、白籠が歌っていた。

 山の中に自生している梅の木も花を咲かせていて、気持ちのいい昼下がりだ。

 いつもありがとう、と掃除の質を褒められた。

 仕事としてあたりまえのことをしているので、そこは首を振っておいた。

 謙遜でもなんでもなくて、仕事とはそういうものだと思う。

 あらあら誠実で真面目なのねぇ、と微笑まれた。

 出された紅茶とクリームの添えられたケーキをなるべく丁寧に、でも結局ぱくぱくと食べ進めてしまった。美味しくて口も手も止まらない、といったふうの揺唯を微笑ましげに二人は見つめていた。

「……すんません、一人でたくさん食べちゃって」

 謝ってもむしろうれしい、と答えられてしまった。

「いい、いい。見事な食べっぷりじゃったよ。こっちがお腹いっぱいになるくらい」

「ええ、作った私としてもとてもうれしいわ」

 さすがにもう一皿は遠慮しておいた。白籠の作るお昼ごはんを美味しく食べたいから。そう云うと、二人はなんだか何かを懐かしむような瞳をしてぽつりと語ってくれた。

「いいパートナーがいるのね。なら、早く返してあげなくっちゃ」

「そうだな。老いぼれの戯れ言じゃから忘れてもらって構わんが……わしらは連れ合ったが子宝には恵まれんかった。この境界地で酷い仕事をして荒稼ぎもしたし、実験されて身体も散々いじくられたから……無理な話だったんじゃろう。それでも、ういと二人でこうして老いぼれになるまで連れ添えてそれ以上に幸せなことはない」

「もう、私のういったらすぐ他人さまに惚気るのよ? 恥ずかしいわ……。私も、この人と死ぬまで一緒にいれることが何よりの幸いなんだけれどね。でも、貴方がこの家の清掃担当になってくれて、本当によかった。子どもって云うと失礼かしら? まるで、孫を見ているみたいで……。だから、貴方にも大事な人がいるなら大切にしてあげてね」

「一度手放すと、二度と手に入らないものはたくさんある。どうせ全部は手に入らんのじゃ。一番大事なものだけは、決して手放さんようにな」

 ――ハクローを手放したくない。

 二人の云うことは難しくもあって全部わかったわけじゃないけれど、それだけは確かだった。

「その、二人は逑って奴なの?」

 気になっていたことを問いかけた。

「ええ、そうよ。世間には認めてもらえないから結婚はしてないけれど、逑よ」

「逑の契をして、二人で死ぬまで連れ合いたいと誓い合ったなら、誰が認めなくてもわしらは逑なんじゃよ」

 そう、二人はシルバーのリングで隠されていた逑のしるしというものを見せてくれた。

 二人らしい、梅やチューリップなどの春の花が円環状になって小指に黒く描かれていた。

「……スキなんだ」

「ふふ、あらあら。ちょっと恥ずかしいわ。もちろん、好きだから一生連れ添おうって思ったのだけれど」

「ほっほっほ、そうじゃな。さあ、揺唯くん。君も好きな人の許に戻るのだろう。老人の長話にすっかりつき合わせてしまったな。家へお帰り」

 そう云われて、無性に白籠が恋しくなった。白籠の待っているあたたかい家に帰りたくなった。

 うん、と頷く。

 二人はまた頼むからね、仕事じゃなくてもいつでも来ていいぞ、って見送ってくれた。

 蕾んだ春の花と二人の老逑を背に、揺唯は走りだした。

 びゅんびゅんと風を切る揺唯は、すべての景色が走馬灯のように見える。

 冬から春にかけて、いろんな場所でいろんな話を聞いた。

 その日限りの工事現場で、どっかの組織の下っ端みたいな奴らが見た目とか夜店とかInnerをヤる云々といった下世話な会話をしているのも聞いた。

 いつも行く検査工場でも、逑がいるなら夜はどうなんだとか、身体の相性はとか、自分とこはうちのが~とか自慢話まで始める。

 修理屋でおやっさんが寂れたリング二つを見つけて、こいつが逑指輪ってんだ、と教えてくれた。自分たちの逑の刻を隠したり、逑であることを示すために二人で同じ意匠の物をつけるんだって云ってた。

 まだ、わかんないことも多いけど、生式って呼ばれる身体の違いによる区別があること、逑ってのは好き同士が特別な神秘的繋がりを得た人たちだってこと、逑同士なら愛し合うために身体の接触はごく自然なことらしいってこと。

 そういうことを、最近なんとなく理解し始めた。

 ――おれとハクローって逑?

 じゃ、ないよな……。

 連れ合うのはそれ相応の儀式が必要って話で、出逢ってこれまでそんなのしたことない。し、先ほどの二人のように刻印が小指に刻まれていない。

 そもそも、契なんて仕方を知らない揺唯に経験などあるはずない、とかぶりを振る。

 あのシルシのない自分もハクローも逑がいないんだって、いっそほっとした。

 白籠にだけあったとすれば、なぜか正気じゃいられない気がしたから。

 でも、連れ合ってなくても、恋人同士だったり同棲してるなら事実婚だ、みたいな話も工場で聞いた。難しくて意味はわからない。

 ――もしも、許されることなら。

(……悪夢みたいにじゃなく優しく触れ合いたい。笑ってる、うれしそうなハクローが見たい。でも、悪夢で、どうしようもなく乱されてる、泣きながら縋ってくる姿に、どこか昂揚してしまう自分がいるってことの罪悪感がハンパない。どうしちゃったんだろ、おれ……)

 頭の中がぐるぐるしながらも、森の険しい道を難なく通り抜けていく。

 お日さまはとっくに中天を過ぎて、昼は随分回っている。

 帰る頃には、きっと遅いお昼になる。

 とにかく、かえらなきゃ。

 病気じゃない、と白籠は云ってるけれど、最近彼人が疲れているのは確かなのである。

 少しでも家のことを手伝って休ませてあげたい、と揺唯は思った。

 帰ると、唐揚げを揚げるいいにおいがした。……おれのこーぶつ、のひとつ。

「ただいま、ハクロー」

「おかえりなさい、ゆーちゃん。今朝は朝ごはんを作ってくれてありがとう。本当に美味しかったです。……お見送りできなくて、ごめんなさい」

 後の謝罪など耳に入らないほど、ありがとうって微笑まれたのがうれしかった。

 じゃあ、この唐揚げはきっとそのお礼なんだ、うれしい!って一つつまもうとしたら「手洗い、うがいをしてからですよ」って窘められた。

 菌やウイルスなんて生きていないであろう現代で、この行為にいったいどれだけの意味があるのかは判らないが、仕事後だから物理的に汚い可能性はある。ごしごしと洗って、がらがらぺっした。そしたら、白籠は「ひとつだけですよ?」って小さな唐揚げをあーんしてくれた。

 あつっ、うま!

 口の中ではふはふしながら、ジューシーな肉汁とかりかりした衣を堪能して、やわらかな肉を噛みちぎった。

 仕事を朝早くからがんばってきたのだから、と座布団に座って待つことを云い渡された揺唯は、さすがにちょっと疲れていてお言葉に甘えた。仕事を急いで終わらせて、全力疾走して帰ってきたツケが返ってきた。

 卓袱台の上に、キャベツの千切り、お味噌汁、白いご飯、そして大皿に大盛りのせられた唐揚げ、と昼から豪華な献立が並ぶのを、よだれを垂らしそうになりながら待っていた。

 ごちそうを前に、慌てていただきますして食べ始める。

 口の中には、唐揚げとキャベツとご飯でいっぱいいっぱいだった。

 口許は米が点々とついていて、白籠は「おべんとさんがいっぱいついてますよ」と苦笑しながら、指で拭ってそれを口に含んだ。

 どきっとしたものの、親が子にするような触れ合いはあまり緊張を呼ばない。

 今日の仕事のこと、老逑の話をたくさんした。

 ……寒くて苦しかったから気が立って、心が氷に覆われていたのか、それとも単なる慣れか。以前と同じように、ちょうどいい距離感で白籠と話せている気がして安堵する。

 もう無理!っていうくらいたくさん食べて、まだ魔力変換されていない食物がお腹の中でぱんぱんになってるのも、どうにか食後のお茶で落ち着いてきたころ、唐揚げのにおいもすっかり換気扇によって吹き飛ばされていた。

 ――いつもと、ちがうニオイ。

 それは白籠からする。

 食べ物とか、香水とかのにおいじゃない。感覚的になんとなく感じている、この人はこういうニオイって奴。いわゆる、魔力香だとかいう。

 ――それぞれの魔力香の違いを感知する能力が高いんだな。

 なんて、誰かに云われた記憶が、ある。

 いつもの、白籠の百合みたいな澄んだ甘い香りじゃない。

 誰かのが、まざってる。

 商店街に買い物に行ってちょっと人とすれちがった程度じゃ、他人のニオイがついたりしない。他人の服を着たり、密着したりしないと。

 白籠の着物を着たとき、洗ってるのに白籠のニオイがして心地いいなって思ったくらいだ。

 じゃあ、ハクローは午前中に誰かと会ってた?という、当然の疑問に行き着く。

(こんな、疲れてるのに? ハクローはおれやカナカナ以外、口も利けないのに。もしかして、最近忙しそうにしてるのも、疲れてるのも、その誰かのせい?)

「ハクロー……。今日、どっか行ってた? いつもと違うニオイ、する」

 白籠は食器の片づけをしながらなんでもないみたいに、

「ああ。この内職業の上司の方と面談があったんです」

 なんて振り向きもせずに告げた。

 内職だって仕事である以上、上司がいて当然だ。たまに実際会うこともあるのかもしれない。おかしいことなんて何もない、はずだ。

 白籠の予定を知らなかったのは、単に揺唯が昨日の晩も避けていたし、朝も早出だったから云うタイミングがなかっただけで。

 ……でも、ただの上司が、どうして魔力香を残すほど密着するのか。

 ――おかしいよ。

 白籠が嘘を吐いているとは思わなかった。いつも、白籠はわざわざなんでも話してはくれなくても、優しさ以外で嘘を吐くことはない。そして、今嘘を云うタイミングでもなければ、言葉にすることになんの躊躇いもなかった。ということは、白籠は別に変なことをしてきたつもりはない。でも、白籠は優しいからそいつにやばいことを強要されていても、ただ受け容れてしまって違和感を抱いていないだけなのかもしれない。

 ……こんなに、あからさまにニオイをつけてくる奴はやばい奴だ。

 挑発、以外のなんて云えばいいのかわからない。

 そいつが上司だろうとなんだろうと、一言がつんと云ってやらないと。

 ――ハクローを、守らないと。

「なぁ、ハクロー。今から、ちょっと出かけてきてもいい? 夕飯までには帰るからさ」

 茶碗を洗ってる白籠を後ろから抱き締めて、スンとニオイを嗅いだ。ちょっとぴくってなってから、

「今から、ですか? わたしも夕ごはんの買い物に出るので、鍵は忘れないでくださいね」

 って何も疑わずに送り出してくれた。お気をつけて、と心配までして。

 首許にまでこびりついたニオイから、その根源まで辿れるほどだった。ニオイに集中しすぎて、白籠が行っちゃいけないって云ってた所にまで踏み込んでしまわないように気をつけながら歩いていくと、意外と近場だった。

 白籠が雰囲気がよさそう、って云ってた喫茶店だ。揺唯がなんだか近寄りがたいなって云うと、結界が張ってあるからかもしれませんねぇ、ってのほほんと教えてくれた。反対に云えば、ここは密談とかにぴったりだし、他人に邪魔されないんだって。

 木の看板に、おしゃれな文字で喫茶『曼華鏡』と書かれていた。なんて読むかはわからない。

 重たげな木の扉を押すと、カランコロンとベルが鳴って、びくっとなった。

 中は古そうな木の椅子とテーブルの席、小上がりの座敷、カウンターもあって、その奥にマスターと思しき眼帯をした人が何か準備していたけれど、ちらりともこちらを見なかった。

 和風なんだか洋風なんだか、中華も取り入れているのかちぐはぐな内装。障子張りのランプが仄明るく店内を照らしている。

 お金がないわけでも、浮浪者みたいな恰好してるわけでもないけど、なんとなく場違いな気がして変な目で見られないかな、とか緊張してびくびくしながら踏み込んだ。

 店員さんが「お好きな席へどうぞー」って店の雰囲気とは異なり軽い調子で促してきて、特に気にした様子もなくてほっとした。

 でも、好きな席も何もそいつがいないと話が始まらないのだ――と、店内をぐるっと見渡せばすぐに目が合った。

「待ちくたびれたぞ」

 って、奥の席から声がかかったのだ。

 紺色の髪に、白っぽい海のような色の瞳を持った、どことなく貴族かどこか裏組織のドンみたいな雰囲気を醸し出す、いけ好かない奴。

 やっぱり、わかっていて挑発してきてたらしい。

 その姿を見た瞬間、反感を覚えると同時になんだか懐かしいような既視感を持ったけど、とにかく敵意を剥き出しにして向かっていく。

 喫茶店で立ってるのも迷惑だから、そいつの対面にどんと座った。睨んでいると、そいつはそんなのどこ吹く風って感じで、

「コーヒーでいいか? いや、メロンソーダのほうがいいか」

 なんて子ども扱いしてきた。「コーヒーでいい」って反論すると、

「そうか、白籠はコーヒーを淹れるのも上手いからな」

 さも白籠のことわかってますみたいに云ってきて余計腹が立った。慣れた仕種で店員を呼んで、スマートによくわからない名前のコーヒーを頼んでいた。ちなみに、そいつは綺麗なティーカップに注がれた紅茶を、洗練された仕種で飲んでいる。なんだか自分が酷く子どもっぽくて、低能に思えてきて揺唯は嫌になった。

 本当は、人と関わるのも外食するのも苦手な白籠をスマートにエスコートできるようになりたいのに、完全にこいつに負けている、と。こいつなら、そつなくハクローの代わりに注文して、守ってやれるんだと思うと、酷く気が沈んだ。

「それで、俺に用事があったんだろう?」

 って云う声ではっとして、顔を上げた。

「ハクローにあんだけニオイつけて、あんた変なことしてんじゃねぇの?」

 ――許さねぇ。

「あれは正直に話しゃ、お前を誘き寄せるための囮だ。それ以外の意味はねぇ。精々、部下として下子みたいに可愛がってるだけだ」

「ただの囮? でも、最近ハクローが仕事忙しくて辛そうにしてるの、お前のせいじゃねぇの? あんたが、ハクローにいろいろ無理させてんだろ」

「……そう思いたきゃ好きにすりゃいいがな。心あたり、あるんだろ? 別に大量に急ぎで仕事を与えちゃいねぇよ。ただあいつが仕事して気を紛らわせてるだけだ。何を不安に思ってるか、わからねぇとは云わせねぇけどな」

 喉が詰まった。言葉が出てこない。目の前の人物が本当にただの上司で、懸念事項があったから誘き出すためにニオイをつけただけだって云うなら。

(そもそも、それが本当でも嘘でも、おれがハクローを不安にさせてるって事実に変わりはねぇじゃんか……)

 白籠を外でエスコートする以前に、家の中でも避けてあんまり喋らないでいて、白籠を寂しくさせてる。ほとんど喋れるのは揺唯しかいないのに。もしも、仮にハクローがこいつに縋ったとしても、それをとやかく云う権利なんて少なくとも今のおれにない、ってわかっていた。

 会話が途切れてしまったとき、ちょうどコーヒーがやってきた。クリームがのっかっていて、思わず驚いた。

「ウィンナコーヒーだ。砂糖も入ってるし、甘くて美味いぞ」

 やっぱり莫迦にされてる気もしたけど、どこかこのコーヒーのように甘い雰囲気がしてなんかむずむずした気持ちになった。飲んでみた。甘い、おいしい……。

「口に合ったようで何よりだ。……それで、こちらの本題だが。お前が何を原因に白籠のことを避けているかは知らない。だが、お前が白籠のことを傷つけたくてそんなことしてるわけじゃないっつぅことは、わかる。自分の中にある問題を他者に伝えることは難しい。だがな、伝えないことで傷つけるくらいなら、いっそその一部分でも話してみると意外と相手は傷つかないかもしれない。少なくとも、白籠は他人の問題を莫迦にしたりはしないだろ?」

 ――それは、一番お前が知ってることだろう、と云われてる気がした。

 すべては、云えない。どす黒い感情を白籠に向けてるとか、云えない。けど、触れ合いたいって思うことはもしかしたらおかしいことじゃないのかもしれない。それなら、少しずつ白籠に伝えられるかもしれない。ちょっとした、希望だった。

「……なんか、知んないけど、ありがと……。勝手に疑って、わるかった」

「いいや? こっちこそ、勝手に白籠にニオイをつけて悪かったな。お詫びと云っちゃなんだが、コーヒーは奢りだ」

 その後は、喋ることもなかった。お互いに飲み終わったら、この秘密の邂逅はなかったことみたいに解散するんだってわかってた。もう飲み終わる、という段になってそいつの持ってたけーたいでんわって奴が鳴り始めた。「失礼」と、スマートな動作で電話を取った。相手が何かを伝えてるみたいで、そいつは二言三言ですぐに電話を切った。

「ちっ、よりによって今か……。お前が白籠の傍にいないときに限って。いや、だからこそか――白籠が不安定になったから結界が消えて見つかったのか」

「⁉ ハクローに、何かあんの⁉」

「ああ、急いで帰れ。あいつが早まらないうちにな。俺は俺で他にやることがある。現場に直行はできん。頼んだぞ」

 頼まれるまでもないことなので、そいつが釣りは要らないって万札置いていくのを後目に喫茶店から走りだした。

 ……ハクローの教育がなってないって思われるのも嫌だから、本当は行儀よく自己紹介すべきだったんだろうけど、たぶんなんでかその必要はないっておれはわかってたんだと思う。

 って、後になってなんとくそう感じた。



       〆



「弥生の十五日。/白籠の手記」


『ゆーちゃんが出ていっちゃった。夕ごはんまでには帰るって云ってたのだから、心配することなんて何もないのに。わかってる。ゆーちゃんの言葉を信じるべきなんだ。でも、もし帰ってこなかったら? これっきりだったら? こんな、役立たずでのろまで穢れたわたしが嫌になって、もう帰りたくないって思っちゃったんだとしたら? さびしい。かくごしてた はずなのに。いやだ。どこにも い か ……(万年筆のインクが滲んでいるだけで後は何も綴られていない)』

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