参/いつもどおりの日々。



 ――ハクローは、かわいい。


 哲学の秋、もあるのだろうか。世界の真理だと、揺唯ゆいは信じて疑わない。

 扇風機をしまい、少し暑くてもうちわであおげば済むようになった頃、白籠はくろうがもう秋ですね、と呟いた。

 季節を感じるようになったのは、きっと白籠と暮らし始めてからだと思う。

 白籠は、芸術の秋・運動の秋・食欲の秋・読書の秋、なんていわれているんですよ、と指折りながら教えてくれた。揺れながら折られていく指が子どもの手遊びみたいで愛らしい。なぜかと揺唯が問えば、そうですね……と考えながら答えてくれた。

 過ごしやすい気温になって何をするにしてもやりやすくなること、実りの季節で美味しい食材がいっぱい旬になること、秋の夜長というし夜が長いとゆったり本を読んだり趣味に費やしたりしやすいのかもしれないこと。

 なるほどな、と思った。

 実際、白籠は夏に比べれば少し食欲が戻ったようだった。揺唯はというと、美味しい食べ物が多すぎてちょっと食べすぎてしまっている。仕事でかなり身体を動かすといっても何か鈍りそうなので、休日でもランニングやトレーニングをするようになった。元々読書家な白籠は少しずつ貯金して古本屋で買った安い本を、夕食後の自由時間にちょっとずつ読み進めるようになった。

 派遣バイト生活も慣れてきて、週三程度の廃品回収・修理工でのバイトを主としながら、人手が足りない境界地の職場を転々と手伝いに行く日々が定着してきた。繁忙期になると、修理の仕事が多くなったり、どこかの工場や現場などを重点的に手伝うときもあれば、反対に暇で早帰りになることもある。おおよそ、週二日か三日の休みが取れる。仕事の日は家事を手伝わなくていい、と白籠が云うので茶碗洗い・拭きなどの簡単な作業に甘んじている。休みの日は寝坊しない限りは、以前と同じお手伝いのルーティンをこなしている。白籠自身は自分がずっと家にいるのだから家事をして当然だと云わんばかりだし、休みの日は休んでほしいと云ってくれるけれど、内職だって仕事だ。どちらが大変という区別はない。休日くらいは、一緒に家事をしていたかった。

 一時期、朝早くに新聞配達や牛乳配達のバイトをしていたこともある。新聞は自転車を借りて、牛乳は荷車を引いての配達だった。早朝から白籠に手間をかけさせないためにも、時短のためにもそういうときはコンロの魚焼き機で食パンを焼いて牛乳で流し込んで朝食を済ませるようになった。

 バイトの縁もあり、初期契約金を無料で新聞と牛乳の定期購入をするようになった。境界地の地域新聞である「今日界きょうかい新聞」は数枚しかない薄っぺらさで、しかし一般のニュースではなく境界地独自の情報を載せてくれている。どこの組織の抗争がとか、商店街のイチオシだとか、新しい店ができたとか、どこどこで孤独死だとか。記事自体はほぼ個人が作っているものらしく主観が入りすぎだが、それでも境界地の現状を知るにはうってつけだ。白籠は文字を読むこと自体も好きみたいで、すっかり新聞を読むことが朝のルーティンに入っている。揺唯はちんぷんかんぷんな漢字ばかり並ぶので、早々に天気予報とクロスワードパズルの欄だけしか見なくなった。朝、新聞配達の人が階段を上ってくる音できっちり起きれるようになった、と白籠は便利に活用しているみたいだ。

 牛乳も週に一度配達されるようになり、新鮮で美味しい瓶牛乳を買いに行かずとも飲めるようになって少し楽になった。商店まで買いに行かなきゃいけなかったので、地味に大変だったのだ。部屋の前に上の空いた木箱が置かれ、勝手に牛乳屋さんが瓶を回収して、また持ってきてくれるというサイクルが確立している。コーヒーもカフェオレじゃないと飲めないし、パンのときは牛乳をそのまま飲むし、眠れない夜には白籠がホットミルクを入れてくれるので牛乳の活躍機会は多い。

 今日は休日だ。揺唯が昼ごはんを作る番だったので、ミートスパゲッティーを作った。安いお徳用を買っていっぱいあるにんじんをふんだんに使った、やけにオレンジ色のスパゲッティーになった。白籠はスプーンとフォークでくるくると回してスパゲッティーを取るのが苦手みたいで、かなり時間をかけていた。揺唯が優雅にくるくるとたくさん巻いては口に運んでいくのを、感心するように見つめていた。……なぜか、恥ずかしかった。危うく、丁寧な一口サイズで貴族然として食べようとしたことに、酷く嫌悪感を覚えた。そんなこと、どこで習ったのか。思い出せない悪夢を振り払うように、ばくばくと殊更に汚く食べた。

 いまだに知らない言葉や漢字は多いので軽く授業を受けたものの、一時間もしないうちに終了となった。日常生活やマナー、他の勉強についてはだいぶ教わることがなくなってきたし、仕事に就いてからは実地で常識を知ることも増えた。バイトも大変なのだから、と授業はそんなにしなくなったのだ。宝の山で拾って修理した古の携帯ゲーム機で少しパズルをした後、腹筋や腕立て伏せのトレーニングを始めた。白籠はというと、内職ではなく編み物をしていた。もうすぐ来る寒い冬のために、手袋やマフラー、セーターなどを編んでるみたいだ。実を云うと、もう既に白籠の編んでくれたネックウォーマーをつけて出勤している。

 すっかり慣れた揺唯主動の買い物を終えた帰り道、焼き芋の移動販売と遭遇した。揺唯がいいにおいがする、と興味本位で近づくと爆音で宣伝音楽が鳴り始めたのでびっくりした。白籠が一つ買ってくれた。新聞に包まれたそれを、白籠はあつっと時折悲鳴を上げながらどうにか半分こにして渡してくれた。

「ゆーちゃん、どうぞ。熱いから、気をつけてね」

 焼かれたさつまいも。でも、中が黄金に光っていて甘い香りがする。どうして、宝物のように見えるのだろう。

「ありがと」

 手で包み込むと、温かくて寒さを忘れられた。ちょっと冷たい風が吹きだした夕方、それだけで揺唯は寒く感じた。……なんだか、さみしい。

 木枯らしがく。腰を落ち着けた公園も、いつの間にかすっかり黄色や紅の葉っぱで彩られている。夏の緑が好きだったから、色鮮やかなのに哀しくなった。

 一口、大きくぱくりと食べる。

「あひっ」

 注意されていたとおり、熱かった。でも、美味しい。甘くて、口の中で溶けていって、皮の焦げた感じすらいいアクセントだった。ほくほくする、心も身体も。

 白籠は心配そうに見つめた後、揺唯が満足そうに笑みを浮かべるのでほっと胸を撫で下ろしていた。そして、小さな欠片をちょっとずつ口に含む。

 揺唯が苦手だと思う秋の景色も、白籠にとっては〝わびさび〟だとか〝ふーりゅー〟だとか奥深いすてきな景色らしい。焼き芋を食べ終わった後、少し公園を散策した。木の下に落ちていた、大小形さまざまなどんぐりを拾って、家に帰ってから油性ペンで顔を書いたり、コマにしたりして遊んだ。白籠は懐かしいと喜んでいたし、揺唯も初めての遊びにわくわくした。

 葉が枯れ落ち寂しくなっていく季節のように思えたけれど、実るものもあるらしい。

 実りの恩恵である、秋の味覚が卓袱台いっぱいに晩ごはんとして彩った。

 きのこご飯にサンマの塩焼き、さつまいもの味噌汁、かぼちゃの煮物、ほうれん草のお浸し、林檎。

 林檎は検査のバイトをしている工場で、工場長からたくさんお裾分けしてもらったものだ。兎の形にカットしてある。実は、器用な揺唯が白籠のために可愛く切ったのである。自信作だ。

 最初に味噌汁から口をつけ、次いできのこご飯をかき込む。揺唯のマイブームが炊き込みご飯だった。栗ご飯や豆ご飯、銀杏ご飯など、いろんなのを白籠が作ってくれた。ご飯っていろんな形に変わるけど、まだこんな美味しい食べ方があったなんて!と、感動したばかりなのだ。炊き込みご飯のおにぎりもお気に入りである。

 ……お風呂は、一人で入った。

 単純にいつもかつも白籠にお風呂の世話までしてもらっていると、彼人の自由時間がなくなってしまうからだ。というのも、嘘じゃない。でも、最近――どうも水の滴る白籠が、濡れて透ける白い肌だとかが直視できなくなってしまって、回数を減らしている節はある。なんか、はずかしい。

 じゃぼん、とお湯に顔をつっ込んだ。ごぽごぽと空気の泡が上がっていく。

 ざばん、と顔を上げる。揺らめく水面には、情けない顔と、白籠に整えてもらったざんばらな髪が映る。やっぱり、細かい作業は得意じゃない白籠がそれでも結ぶにしても少し伸びてしまった髪を一生懸命切ってくれたのだ。その上手くいってない切り方が、意外と揺唯の外見とマッチしている。

 ばしゃばしゃ、と顔に湯を浴びせる。

 ごみ溜めから救い出されたあひるが、右往左往と波に揺られていた。

 風呂上がり、雑にタオルで髪を拭きながら部屋に戻ると、集中しているのか気づかず本を読んでいる白籠の姿があった。夜の帳が降りた窓の傍で、繊細に捲りながら読書する白籠の姿は絵画のようだ。

 そんな姿を見つめている時間が、実は嫌いじゃなかった。

 白籠特有の空気感、誰にも妨げられない結界、聖域の静謐。

 ずっと見ていたいと思う半面、こちらに振り向いてほしい、自分を認識してほしいという二律背反した感情も持ち合わせている。

 ぽたり、と台所の床を水滴が濡らした。

 ふ、と白籠がこちらを見上げる。微笑み。

「ゆーちゃん、上がったんですね。髪、乾かさないと風邪引いちゃいますよ」

 ぽんぽん、と膝を叩く。こちらに来て、という合図だ。座布団と共に、白籠の前に座る。

 緩く、優しくタオルで水分を拭き取られていく。

 ドライヤーの騒音が、部屋のすべての音を奪い去った。

 これも、ごみだった物である。

 少しずつ、家に物が増えた。

 割ってしまった代わりに買いに行った、おそろいの茶碗や急須セット。売れない廃品だ、と修理したもののそのまま親方が揺唯にくれた小物や家電、電子機器の数々。季節が変わるごとに、布を買って作ったり、古着を買ってきたりして増える服。ほとんどは、揺唯のためのものだった。でも、本のようにいくらかは白籠が自分のために買った物だってある。

 自分たちの物が増えると、家らしさが増した気がした。

 ぶぅん、と情けない音で電源を切られたドライヤーはまた押し入れの箪笥の中にしまわれる。物が増えても場所もコンセントもそんなにないので、しまうほかないのだ。

 途端、秋の音が聴こえた。

 虫の音だとか、時折風が吹き抜けていく音、そして白籠が髪を梳いてくれる音。

 白籠の指運びは非常に丁寧だ。

 自分の不器用さを自覚しているから、他人に触れるとき特に慎重になるのだ。

 揺唯も、白籠のおっちょこちょいなところやあまり器用でないところは知っている。

 晩ごはんの焼き魚だって、あからさまに白籠の分だけ焦げていた。他の料理にかかずらっていたか、或いはちょっとの間ぼうっとしてしまっていたのか、一尾焦がしてしまったのだろう。白籠は夢見がちなところがあって、どうにもぼうっとする癖が直らない。でも、そういうところが白籠のよさでもあるから、直さないでほしい。

 散髪のことだってそうだし、破れたズボンにつけてくれたワッペンが斜めってたのもだし、作業の途中に自分が何をしようとしていたか忘れちゃうのも、たまに揺唯の頭に二回シャンプーをつけてしまうのも可愛らしいポカだ。

 失敗するのも、ぽやぽやしてるのも、ものすごく可愛いと思う。

 白籠自身はいけない、気をつけようと必死だけれど、そんな白籠が好きなのだ。

 くしゅん!

 頭が濡れたままぼうっとしていたからか、くしゃみが出た。

 慌てて、白籠が背中を、手をさすって温めようとしてくれる。

 骨っぽい、しかし柔らかな手が揺唯の身体を這い撫でる。

 ……今日も、きっとうまく眠れない。

 次の朝、小さな手鏡を片手に、リップクリームを唇に塗る白籠を目撃した。

 確か、可鳴亜かなりあがそろそろ乾燥する季節だから、とプレゼントしてくれたものらしい。

 唇が塗った端から潤んでいく、やや色素の入ってるらしいリップのお陰で、桜色に色づいた。

 艶やかな唇から、目が離せない。

 ……何かが、ショートしてしまいそうだ。

 煙が、立ち昇っている。

 空へ、上へと。

 ふぅ、と吐き出した息はまだ白くはならないものの、吹く風は冷たく肌を刺す。

 パチパチ、と爆ぜる音は焚火の音だった。

 修理屋の敷地の、広く空いた場所で燃えるごみや落ち葉を集めて処分していたのだった。

 不法投棄の中には、たまにただの家庭ごみが紛れていることがある。親方はたぶん、ああいうのを見て静かに怒ってる。今日は、その盛大なお焚き上げだった。

 ただのごみや葉っぱの山だ。けど、元は何か生きていた、使われていたものだった。

 ……ばいばい。

 空に手を振る気持ちで、見送った。

 ほいよ、と唐突に軍手をした親方から、こちらも軍手をしている揺唯にアルミホイルがパスされた。

 焚火の中からトングで取り出されたらしいそれは、たぶん素手で触れば火傷する熱さだろうことが窺えた。

 興味本位で、アルミホイルを開けた。

 十字に切れ目の入った、じゃがいもだ。

「これなに?」

「じゃがバターだよ、熱いうちに食え。うめぇぞ」

 確かに、バターの香ばしいにおいがする。

 ふぅふぅしてから、ぱくっといった。

 あちち……、うめぇ!

 外の作業で冷たくなっていた身体を、芯から温めてくれる。

「これ、うめぇ。あんがと、おやっさん」

 そう謝意を示すと、親方はなんでもないように手を振った。

 或いは、単純に煙たかっただけかもしれない。

 シュッ、シュッ、と何度か擦ってマッチを点けていた。

 煙草を咥えて、マッチの炎を移す。マッチの棒はそのまま焚火の中に放り込まれていった。

 ぷはぁ。

 焚火の煙に、煙草の煙が混じっていく。

 境界も曖昧になっていく中、空を見上げた親方は独り言みたいに呟いた。

「……煙で目の前が見えなくなることだってあるだろうよ。人生、いつだって五里霧中だ。けどな、大事なことを忘れんなよ。前も後ろも、未来もなんも見えなくたって、手を離さなきゃなくならねぇ」

 なんとなく、不器用な親方なりの励ましなのだと気づいた。

 揺唯が何かに悩んでいることを、見透かされていた。

 年の功、という奴なのだろうか。

「たまには、立ち止まってもいいさ」

 ふ、と息を吐いた。

 わからないなりにがむしゃらに進まなきゃ、と焦っていたけれどその言葉に安心した。

 別に、いいんだ。

 わからなくちゃいけないとか、進まなきゃいけないとか、そんなのないんだから。

 親方が煙草をくれた。

 初めての煙草は、初めてビールを飲んだときみたいに苦かった。

 でも、煙草を吸って、煙を吹かしている間はゆっくり考え事に浸れる気がした。

 揺唯は、一応法律上でも飲酒・喫煙が許された大人だ。都市では、一六歳以上から大丈夫だから。つい先日、誕生日が来て、盛大に祝ってもらって、給料日だけお酒をぱーっと飲むことになった。

 自分の誕生日なんて憶えていないけれど、白籠が決めてくれたのだ。

 大人だけどまだ子どもで、考える時間も必要だった。

 或いは、大人だからこそ、そういう何もない時間が必要なのかもしれない。

 秋の空に、高く煙は昇る。

 揺唯の心も空高く揺蕩っていった。



       /



 雨に降られて、身体は冷えきっていた。

 出逢った日のことを思い出すと、あたたかい気持ちになるような哀しくなるような、そんな気がする。

 雪とまではいかずとも、冷たい雨だ。あのときとは違う。

 一人ずつ風呂に入る、なんて云ってられなかった。

 ……だから、揺唯は白籠と一緒に風呂に入ることになったのだ。

 風呂の世話をされることはあっても、思えば一緒に入ることはなかった。

 境界地は、冬を迎えた。

 色づいた葉は一つ残らず枯れ落ち、寒々しい枝だけが残り、人々も寒さから無言で足早に帰っていく。家の灯だけが、唯一のあたたかい場所であるかのように。連なる山に囲まれた山中だが、揺唯たちの住む街はちょうど谷間になっている。寒く、雪が降り積もりやすい。きっと、真冬には埋もれるほどの雪に囲まれるだろう。

 寒いのが苦手な揺唯は、想像するだけでぶるぶると震えた。

 それを、雨に濡れたせいだと勘違いした白籠は、さっそく肌に張りついた衣服を脱がせてくる。

 されるがままになっていた揺唯は、脱ぎきると先に浴室へ入った。どの道、湯船に入るか洗い場で洗うか分かれなければ、狭い浴室に二人は入りきれない。

 身体を軽く洗ってから、ざぶんと湯に浸かった。

 しばらくして、おずおずと白籠が硝子戸を開けて入ってきた。

 襦袢を纏っていない白籠を見るのは初めてで、恥ずかしいのかタオルで軽く前を隠していた。それにどれだけの意味があるのかはわからないが。

 つるっとした、何もないまっさらな身体。

 雪みたいに、無垢な。

 最近では三つ編みにしてまとめるほどに伸びた墨色の髪は湿気のせいかやや跳ねている。

 揺唯はふと、白籠にはバクの耳がついているからしっぽもあるのかな、と背中側を覗いてみた。

 薄いお尻には、小さな黒いしっぽが三角にちょこんとついていた。

 つい、触れてみた。ぴやっ、てなった――白籠が。

「おー、すげぇ」

「あの、ゆーちゃん……? しっぽ、触りたいんですか?」

 怒るでもなく、白い頬を紅く染めた白籠が問う。

「うん。しっぽ、初めて見た」

「そ、そうですよね。珍しいですもんね……。っ、ぴゃ」

 ふにふに触ってたら、しっぽが隠れるみたいに縮こまっていった。引っ張り出そうと手を伸ばすと、白い手に止められた。

「だ、め……。破廉恥なのは、だめです――ゆーちゃんの教育に悪い、ので」

 ドクン、と心臓が鳴った。

 涙目で、顔を紅潮させた白籠が、上目遣いにこちらを睨む。

 そのあまりの艶美さに、目を逸らした。

 ――ってことがあったんだよ、って可鳴亜に話したら大笑いされた。

 揺唯は真剣そのものなのに、酷い。

 あの後、耳もしっぽも縮こまらせて、身体をまるめながら洗い始めた白籠に〝はれんち〟の意味を訊くなんて到底できなかったから、代わりに訊いているのに。

 なぜだか、莫迦にされた。

「ふ、はは。きゃー、えっちぃってことだよ。ユイユイ。……しっかし、教育に悪いから、ねぇ。自分のことは大事にしないんだから、あの子」

「?」 

「耳もだけど、しっぽは敏感なとこなんだよ。普段触られることのないところだし、急に触られたりいっぱいいじられたりすると、危機感で怯えちゃうの。だから、揺唯が気をつけて、白籠のこと大事にしてあげてね」

 って云われて、そういう弱いトコ守ってやりてぇって思って、大事にするって決意した。

 冬の、大衆食堂。おしゃれしたこの場にそぐわない可鳴亜は、しかし豪快に大味のパスタを啜る。それが、なぜか様になっているのだ。ここなら誰かに聞かれることもないから、と可鳴亜が云うとおり人っ子一人いない。閑散としたレストランだ。

 奢りと云われたけれど、今日は何か食べる気がしなくてソーダだけ注文した。味も感じなくて、美味しくなかった。

 油染みた木造建築、古びたアイドルのポスター、壊れたジュークボックス、厳めしいコック、流れてるロックミュージックは古いコンポから。

 どれもが今の気持ちとはマッチしない。

 決意とは裏腹に、蔓延る生ぬるい感情が粘ついて心の底から離れない。

 ――おれ、なんかおかしい。ぴゃってなってるハクローをかわいいって思う。

 危険を感じるってことはハクローにとってよくないことなのに、もう一回あの姿を見たいって。いつも隠れてる耳としっぽが見えて、小さな触り心地のいいふにふにしたしっぽに触れて、怯えて照れて、頬を染めながら震えて、白くて華奢な身体が綺麗で、もっと触れてみたくて、触れてほしくて。

 ――おれのものにしたい。おれだけに、見せて、触らせてほしい。触れて、いっそ泣かせたい。組み敷いて、何もかもを征服したくなる……。

 ……はっとした。

 自分の思考に驚いて、心底嫌悪した。あんなに大事にしたい、優しくしてやりたいって思ってる白籠を、傷つけたいと思ってる。あんなに大事にされてうれしくて、一緒にいたいのに、こんなにも汚い感情を持っている。ぶつけたくなっている。

 一緒に寝るとか、お風呂に入るとか、無理だ。何かが爆発しそうだった。

 白籠は何も悪くないのに、揺唯はうまく喋れなくなった。

 避けるようになった。

 白籠が哀しそうにいているのも、寂しそうに背中を見送っているのも肌で感じ取っていたのに、それでも。

 ……直接的に白籠を傷つけてしまうよりはマシだって、何も言葉にしなかった。


 ――毎日のように、悪夢を見る。



       /



 暗闇に、白い肌が光る。

 夜目の利く揺唯には、月明かりだけでありありとすべての情景が目に見えた。

 組み伏せられた白籠は、きょとんと無垢な瞳でこちらを見上げる。

 夜でも外さない三角巾を、するっと外して、もうひとつの耳をあらわにした。

 墨色の髪が闇に溶けるように、布団へと広がっていく。

 バクの黒い耳を、何度も撫でた。

 それでも、まだ現状を理解しない白籠は「ゆーちゃん?」と不思議そうに訊ねるだけだ。何をしたいの?って。何をしてほしいの?って。甘えたら、なんでも甘やかしてくれるいつもの白籠。

 ……無垢で、純粋で、愚かなハクロー……。

 こんなところまで、その鈍さを発揮しなくてもいいのに。

 帯を解いて、寝巻の浴衣を寛げる。

 季節はいつ?

 そんなの、麻痺している。

 温度なんて感じないのに、血潮が熱く流れて、白籠を柔らかく感じてる。

 この段になってようやく、白籠は抵抗を始めた。

「や、やめてください。ゆーちゃん……、な、にする、の……?」

 何もへったくれもない。

 これが何かなんて、自分自身がわかっていない。

 ただ、触れたくて、もっと近くにいたくて、奥まで繋がりたいと本能が告げている。

 首筋に齧りついて、甘い肌をなめて、白百合の香りを思いっきり吸う。

 白籠はどうにか腕で押しのけようとするけれど、か細い腕の弱々しい力ではびくともしない。

 そんなの、抵抗になると思ってんの?

 でも、うっとうしくて、がっ、と腕を押さえつけた。

 痛みに白籠がびくついた。

 涙が頬に光る。

 お願い、やめて、ゆーちゃん。

 声にならない言葉が、はくはくと唇を動かす。

 ここまで来ても、ゆーちゃんだなんて子ども扱いをする。

 いっそ、笑いそうになる。

 ――ねぇ、ハクロー。もっと、泣いて。もっと、その顔を見せて?

 そうして、おれはハクローの唇に自分の唇を重ねようとして――



 ――目が、覚めた。

 ばっ、と半身起き上がると、はぁはぁと呼吸を繰り返す。

 冬だというのに、汗が大量に噴出していて、熱さと寒さが衝突する。

 窓の外は目が直視できないほど、隣の家の屋根に積もった雪を反射して、眩しい。

 隣の布団は既に押し入れにしまわれていて、もうひとつ身体があったような温もりはどこにもない。よく耳を澄ませば、いつものようにとんとんとんと小気味いいリズムで食材を切っている音が聞こえる。

 夢だ。

 あれは、ただの悪夢だった。

 ようやく、揺唯は安心した。

 ドッドッド、と早鐘を打っていた心臓も、徐々に平静を取り戻す。

 揺唯は白籠にあいさつもせず、風呂場に直行した。

 このところ、毎朝だ。

 汗をかきすぎて、このままだと風邪を引く。

 魔人は丈夫だとはいえ、元々寒さに弱い揺唯は用心するに越したことはないのだ。

 ざっと熱いお湯でシャワーを浴びた揺唯は、乱雑に拭いて作業着に着替えた。

 水道代・ガス代だって特に冬はばかにならないのだから、この癖を直したい。けれど、どうしようもなく悪夢に苛まれ続けるのだ。

「ゆーちゃん、おはようございます」

 朝食をすべて卓袱台に運び終えた白籠は微笑んで揺唯を迎えてくれる。

「……おはよー」

 目も合わせられずあいさつする揺唯を怒るでもなく、白籠は滴る雫を拭こうと手を伸ばした。

 パシンッ!

 音が響いた。

 触れられたくなくて、思わず叩き落としてしまったのだ。

 ……本当は、何よりも触れたいくせに。

 白籠は一瞬目をまるくしたものの、

「ごめんなさい、冷たかったですよね」

 と、手を引っ込めた。

 そうじゃない、謝らなければいけないのは自分だ、とわかっている。

 確かに、水仕事をしてかさかさとした冷たい手になっているかもしれないけれど、白籠の手ならそれすらあたたかく感じるのに。

 赤く染めさせてしまったのは、自分が叩いたせいだった。

 揺唯は、目を背ける。

 いただきますのあいさつはするものの、無言の朝ごはんだった。

 元々、二人とも食べるときは食べるし、その合間に喋るで分けている。いつも話し声が響いているわけではない。それでも、口に物を含んでいないときは多く揺唯が何か喋っていたのに。それすら、ない。

 寒い朝に、冷たい空気がより充満していく気がした。

 揺唯はそそくさと支度をして、部屋を出ていこうとする。それでも、白籠は弁当を手渡してくれた。

 触れないように、受け取った。

「いってらっしゃい、気をつけてくださいね」

 笑顔を絶やさない白籠は、見送りの最後までその表情を崩さなかった。

 揺唯は、振り返らない。

 ……それでも、わかっている。

 白籠の笑顔が寂しそうだということも、ここ最近心からの笑顔を見ていないのだということも。

 その日は、日雇いバイトへの派遣だった。一日だけの、工事現場の手伝い。

 得てして、そういった誰でも応募可能な一日限りの仕事というのは、あまりバイトの治安がよくない。今日だけの同僚も、どこか胡散くさい空気を漂わせていた。揺唯は軽くあいさつだけして、自分の仕事に集中する。

 揺唯が黙々と作業を進める中、同じ界隈の人間らしい二人はどうも汚らしい話を繰り広げていた。やれどこぞの酒場にイカサマするにちょうどいいカモがいるだとか、あそこの売人が新しい違法魔力薬クスリを安価で提供してくれるだとか、この間ゲームに負けた腹いせで誰それをボコっただとか、あそこの組織の連中があのバーに最近よく出入りしているだとか、どうも組織統一の機運があるだとか、あの閨店ねやみせのInnerがいい身体してる、とか。

 ほとんどの意味は解らない。

 言葉そのものを、揺唯は知らなかったから。

 常識として、違法魔力薬が神秘的に病気などを治すよう促進してくれる魔力薬に対して、違法な効力を持った薬である、ということくらいは知っている。だから、ヤバイこと云ってるな、と思って極力近寄らない。

 それでも、ガタイのいい揺唯に目をつけたのか、

「今度、スラムのInner狩りすんだけど、アンタも混ざんねぇ?」

 そう一度だけ声をかけてきた。

「……いっす。いんなー、とかよくわかんないし」

 そうおざなりに答えると、げらげらと嗤われた。

 こいつドーテー⁉とか、お子ちゃまはせいしきもしらないのかよ、とか酷い云われようだった。

 ちょっと、というかかなりむかつく。

 白籠は、わからないことは決して悪いことじゃないって云ってた。知ろうとするその姿勢を尊敬する、とも。

 殴りたかった。

 自分は弱くない、それはってる。

 ……けど、白籠が哀しむからやらない。白籠は揺唯が外出するようになって、危ない所には行かないよう、よくよく云い聞かせてきた。「そんなに弱くねーよ」と何かあっても暗に蹴散らせると示すと、「誰かを傷つけてゆーちゃんに傷ついてほしくないんです」ってものすごく哀しそうな笑みを零した。あの表情を思えば、誰かを害そうとは到底思えない。自分の心の中にも、傷つけることへの忌避感がある。

 一瞬殺気立った後むくれた揺唯に、そいつらは何を思ったか授業を始めた。

「いーか、お前つくものついてんだからYourだろ? Innerにつっ込むと、気持ちよくなれんだよ、これが」

「Innerってのはな、胸に脂肪の塊がついてて×××するための穴がある奴だよ。街でも、年寄り連中でもいちおー見たことくらいあるだろ?」

 ――ハクローは、なんにもない。おれみたいについてもないし。

「はっ、お子ちゃまはBorderに欲情してんのか? また、初っ端からハードな性癖なこったな」

 とりあえず、自分も白籠も莫迦にされているのだ、ということだけは理解できて、揺唯はその場を足早に去っていった。

 今日の仕事は終わりだ。お喋りしていてまだ自分のノルマが終わっていない奴らと違って、揺唯はトンテンカンテン配管を繋げる作業をこなしていた。

「お先っす、お疲れっしたー……」

 人生の先輩を自称する奴らにおざなりなあいさつをした後、現場監督に報告すると仕事の早さを褒められた。それに比べてアイツらは……、と零していたくらいだ。

 こういう日雇いバイトは直接その場で給料がもらえる。早帰りな上に、ちょっと色をつけてもらえた。ラッキー。

「お疲れさまでした!」

 表情が明るくなったのも束の間、先ほどの話を思い出してげんなりした。白籠がいる家に帰ることを、嫌がっている自分も嫌だった。

 揺唯はまだ知らない知識も、理解できないこともたくさんある。

 でも、察しが悪いわけじゃない。

 教えてもらえれば、いろんな事実を繋ぎ合わせて理解することができる。

 商店街を、歩く。

 確かに、商店の不愛想な店主はワンピースを着ていてふっくらしているし、魚屋さんや親方は筋肉がしっかりしていて揺唯に近い。子どもは、どっちも感じない。

 人によって、身体に差異があるのだ。

 ヤる、だとか汚い言葉の意味は解らなくても、ろくでもないことなのだ。

 でも、少しだけ理解できてしまった自分が、心底嫌になる。

 ――押し倒して、触れて、征服して、何もかもを自分のモノにしたい。ハクローを。

 そういう感情が自分にも、ある。

 ……なんて汚い感情、なんて汚い――おれ。

 悔しくて、涙が出た。

 あんな連中と同じだなんて、反吐が出る。

 冷たい空気が、涙さえ凍らせてくれたらいいのに、と思う。

 白籠の作ってくれた手袋もマフラーも、温かいのに、今はその温度がちっともわからない。

「おかえりなさい、ゆーちゃん。今日は早かったんですね。外は寒かったでしょう? ストーブにあたって、あったまってくださいな」

 白籠はそうあたたかく迎えてくれる。

 自分一人のときはストーブも点けないくせに、揺唯が帰ってくる前には早めに点けておいてくれるのだ。

 寒さで目許が紅いのだ、と心の中で云い訳をして、ずびずびと鼻を鳴らした。

 白籠はティッシュボックスをそのまま渡してくれる。

 触れないようにしてくれているのだ。

 有難いけど、それはそれで寂しい、なんてわがまま。

 今日の晩は、きっと温かいシチューだ。

 においで判る。

 揺唯はストーブの前で、ちーんとはなをかんだ。

 少し温まった後、着替えて、手洗いうがいをした。

 部屋に戻ると、ほくほくと湯気を立ち昇らせているじゃがいもがいくつか入っているすり鉢とすりこぎが卓袱台の上に置いてあった。

「すみません、ゆーちゃん。ポテトサラダを作るので、じゃがいもを潰すの手伝ってもらえませんか?」

 仕事で疲れているのに、と申し訳なさそうに白籠は頼む。

「わかった。おれ、これ潰すの好き」

 ほんとのことだ。

 以前、コロッケを作るときタネを作るのも楽しかった。

 それに、ちょっとでも白籠を手伝えるのはうれしい。最近、避けてばかりで優しくもできてない気がするから。

 どうしようもない濁った気持ちをぶつけるのに、ちょうどいいとさえ思った。

 それすらわかっていて、白籠は手伝ってほしいと云ってくれたのかもしれない。

 ごっ、ごり、ごり、がっがっが。

 力強く、もうそれは粉々になるまで潰した。

 その日のポテトサラダは、異様にさらさらしていた。

 ご飯にシチュー、ポテトサラダにじゃがいもの入った煮物。

 やけにじゃがいもが多いな……と思ったけれど、よく思い返せばそれこそ親方からじゃがいも農家からたくさんもらった、とお裾分けしてもらったじゃがいもが今家に溢れ返っているのだった。

 身体が芯から温まるメニューでほくほくする。

 物理的に温まれば、少しだけ心も緩んだ。

 あんまり喋れなかったけど、それでも少しだけ夕食は和やかだった。

 やっぱり、じゃがいもを潰してストレス発散できたのがよかったのかもしれない。

 とろり、とシチューが口いっぱいに広がる。揺唯が好きだからと大きめに切られたじゃがいも、にんじん、ブロッコリーがごろごろして噛み応えがあって最高だ。

 白籠が自分の力じゃこうはならない、ともうそれはなめらかすぎるほどなめらかなポテトサラダを、目をまるくしながら食べていた。むしろ大きいものや硬いものを噛むことが苦手な白籠からすれば、このもう塊ひとつない軟らかいポテトサラダは大好評らしかった。

 正直、やりすぎたかな、と反省しかけたのでほっとした。

 じゃがいもですっかりお腹がいっぱいになってしまって、食後の紅茶で少しゆっくりしながら落ち着けた。

 白籠の入れる飲み物は、お茶でも紅茶でもコーヒーでもなんでも美味しい。彼人自身は、安いお茶っ葉ですよとか、ティーバッグ・インスタントの粉ですから、と謙遜するけれど、入れる量とか温度が絶妙なのだと思う。

 風呂に入って、一人と一人で床に就く。

 少しだけ浮上した気持ちも、夜の帳が降りるに連れ沈んでいった。

 触れられたら困るのに、抱き締めてほしかった。ガラの悪い連中に云われたことで傷ついた心を、慰めてほしかった。あんなのデタラメだって云って、大丈夫だと揺唯を肯定してほしかった。

 今、目を開けてしまえば、悪夢と同じようなことを白籠にしてしまいそうだった。

 だから、必死に目を瞑った。

 ……今夜も、悪夢を見るのだとしても。

 ――なぁ、ハクロー……。おれがハクローの悪夢なら、傍にいないほうが、いいのかな……。

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