弐/ゆるゆる、がんばる。
――神さまは、人と人が真実の愛で結ばれることを望まれたのです。
その夜の寝物語は、そう締めくくられた。
現代人はいわゆる魔人と呼ばれる、魔力をコントロールできる人間である。でなければ、環境に適応できなかったのだという。自然魔力を自己魔力へと変換し、また食事によって腹に溜めたものを消化するのではなく魔力に一度変換してから血肉へと再変換することで器官としての名残はあれど排泄を必要としなくなり、人体も活動もすべて魔力によって賄われるようになった。そんな魔人がどのようにして生まれたかは不明であり、いまだ魔人の仕組みすら解明できていない。
だから、これはそのおとぎ話だ。
神さまは愛を失った人類に思い出させるために、真に愛し合わないと子を生めないようにしたのだ、と。だからこそ、子どもは真に愛の結晶であり、愛の魔法によって生まれる。
実際、魔人同士だからといって魔人の子が生まれるのは永遠の謎なのだ。魔法や奇跡以外の何ものでもない。だからこそ、子どもは生まれにくく、大事だとされているらしい。
〆
「ふつかめ。/揺唯の覚書」
『かみさまって、なに?って、ハクローにきいたら、
しんじるもののこと だっていってた。
じぶんのなかにある、しんじるもの。
それが、ひとによってはしゅーきょー?のかみさまだったり、
しんねんだったりするって。
かみさまっているの?ってきいたら、
そのそんざいをしんじるなら、だって。
おれは、いないとおもう。
かみさまにすくわれたこと ないから。
(味噌汁と卵焼き、煮魚と思しきイラストを添えて)』
〆
温かい風がさぁ、と髪を攫うように絡め取りながら、通り抜けていった。
濡れていた髪は、瞬く間に乾いてしまった。
薄っぺらなタオルではどうしても肩まである揺唯の髪を乾かすのに時間がかかる。いくら
「すごいすごい! ハクロー、どうやってんの⁉」
煌めく瞳で白籠を見つめると、彼人は少し照れたように俯いて、
「風と炎の魔術を組み合わせて、温かい風を起こしただけですよ。単純な基礎魔術です」
揺唯は氷系統の魔術しか扱えないので、それが基礎魔術だとしてもいろんな系統が使えるだけでもすごいと思った。
「でも、おれできねーよ?」
「ふふ、基礎魔術程度なら、練習すれば使えるようになります。でも、ゆーちゃんは氷専門だから他は少し難しいかもしれませんね」
そもそも、揺唯は記憶の曖昧な部分から、どうして自分が氷魔術を使えるのか思い起こせなかった。漠然と、冷たくて、寒くてあまりいい印象がない。
少しぼんやりしてる間に、目の前の白籠は真剣な表情になっていた。
「でも、魔術を外で使ってはいけません。これは、とても大事な約束です」
うん、と頷いた。
「いい子。……一般社会では、魔人となった今でも魔術の使用を禁忌としています。魔術を使う存在を、魔法使いと呼んで迫害するほどに。ここ、境界地では平然と使う人も多いですが、それは規制が緩いからです。実際、誰に見咎められるともわからないので、外では使っちゃ駄目です」
白籠曰く、魔力のコントロールも魔術の習得も個人差があるから、誰も使用しないように政府は規制している、らしい。実際のところ、役場の役人どもは魔術が一般に普及して打倒されることを恐れているだけだと思う――って、なんでそんなこと知ってんだろ、おれ?
自分の思考回路に首を捻るものの、答えはふわふわとして浮き出てこない。
「ぁ、境界地ってわかりますか? わたしたちが住んでいるこの周辺も、地区境界地なんですが――」
「知ってる。地区と地区の狭間とか際にある、政府も地区長も見放した管理されてない、法も適用されなければ秩序もない――〝いない人々〟が住む〝忘れ去られた地〟」
それこそ、迫害されて行き場のない人や荒くれ者、孤児、そこで生まれ育った戸籍のない子ども、研究所の
「……ゆーちゃん?」
はっ、と顔を上げた。
どうしよう、白籠は碧の瞳を真ん丸にしてこっちを見てる。
おれ、おかしいって思われる……!
「ごめ、おれ……へんだったよな?」
「ううん。ゆーちゃんはわたしも知らないことを知っていて、博識なんですね」
ふわり、と笑って褒めてくれた。
そっか、いいことなんだ――と安堵した。
「はくしき?」
「いろんなことを知っていて、頭がいいってことです」
「へへ、そっか」
頭を撫でるように、櫛で髪を梳かされた。
「……あまり怖がらせるようなことは云いたくないのですが、境界地はあまり治安がよくありませんから、いずれ外に出るようになっても気をつけてほしいんです」
心から心配してる、そういう声音だった。
「うん……」
「ぁ、でも、そんなに心配しなくても大丈夫。この近くの住宅地や商店街は裏道にさえ入らなければ、比較的治安がよくて皆さんいい人ばかりですから」
いつか家の中だけじゃ飽きてくるかもしれないけど、別にハクロー以外の人間に興味なんかないしハクローだけいてくれればいいのに、と思ったけど揺唯は相づちを打つに留めた。
〆
「三日目。/揺唯の覚書」
『今日は、漢字とか言葉をおしえてもらった。
何を書きたい?ってきかれたから、
ハクローって答えた。
日 白 竹 龍 籠
白籠 はくろう
〝しろいかご〟って意味なんだって。
たしかに、ハクローは雪みたいに白い。
かご はどーいう意味なんだろ?
ハクローは、よーふぼに拾われたときかごに入ってたから、って。
よくわかんないけど、拾われたのならおれと同じだって返した。
おんなじですね、ってハクローも笑ってた。
同じとか、一緒って……なんかいい。
ハクローの漢字、何回も書くの大変!
ハクローは、いつも漢字で書かなくていいですよっていってた。
だから、そーする。
でも、もう覚えた。
揺唯 白籠
二人合わせると ゆりかご なんだって。
(揺り籠の絵が二つ描かれている、二人分のようだ)』
〆
独立都市
元々、
……そんな常識や法から外れた地区境界地に住んでいる時点で、この知識は無意味に思えるけれど。
現在、
自らを結界に閉じ込め、枝櫻守を名乗り出してからそれだけの時が経ったという意味だ。
無法地帯で生きるからといって、無知でいれば他者に害される。外に出るようになる前に一般常識はひととおり教えておきたい、という白籠の意向で絶賛地理や歴史の勉強中だった。
しかし、この都市の歪な社会構造や闇はむしろ揺唯のほうがよほど知っていたくらいだ。早々に次の授業に移行してしまった。
揺唯は、授業が嫌いだ。正確には、知りたくもない、興味もないことを強制されることが嫌いなのだ。その点、白籠は揺唯の興味が湧くようにさまざまな例を出したり、おとぎ話を作ったり、日常生活に潜む不思議と絡めたりしてくれて、面白い。知りたい、と思える。
だからこそ、幻想種の話も物語の設定みたいだった。
揺唯も、幻想種という存在自体は知っている。ただ、魔法使い以上に人類とは異なる異端の種として迫害され、結界を隔てた禁域に隠れ住んでいるという。揺唯のように記憶が曖昧でなくたって、ほとんどの人間が会ったことなどないだろう。
人魚、不死鳥、竜神、風人、花人、獣人……他にも数の少ない希少種もいるという。人より長寿で魔力保有量が多く、最初から魔術が使えたり、翼や動物の耳としっぽといった異形を持っていたりする、一定以上歳を取らない幻想的で美しい存在。
長寿だからか、神秘存在だからか、欲が薄く愛情深い、綺麗すぎる存在だとされる。大きな力を持つにも拘わらず決して振りかざすことなく、どんな酷い扱いを受けようと人間に牙を剥かない。だからこそ、政府は幻想種を脅威に感じて排除/隔離したがっている。
「風人は風の声が聴こえるんです。だから、人里の噂だって北の山にいるのに知っているんですって。わたしたちがここで内緒話していても、もしかしたら風人さんには筒抜けかもしれないんですよ? それってすごくないですか」
嬉々として語られる内容は、いつもの白籠が作ったおとぎ話ではなく、この境界地で聞いた話らしい。白籠が教えてくれること、白籠が信じることなら、真実でも嘘でもどんなことでも信じたいと思った。
「えー、下手くそな鼻歌うたってても届いてるかもしれないってことじゃん。なんか、やじゃね?」
「ふふっ、風人さんたちはきっとどんな鼻歌でも喜んでくれますよ。それに、わたしはゆーちゃんの鼻歌、好きです」
最近は、白籠が口ずさむ童謡や子守唄ばかりをまねしている。歌詞も憶えてないし、仮に憶えていたところでその意味は解らない。でも、白籠の歌が好きだから、自然とメロディーが頭に入っている。気づけば、♪~ふんふふんと揺唯自身が何度もリピートしている。
にこにことしていた白籠も、夕方近くなり部屋に影が忍び寄るにつれ、どこか寂しそうな表情になっていった。
「……あの、ゆーちゃん。ここ、境界地には人間に捕らえられて帰れなくなった幻想種や、その末裔、ハーフ……。或いは、実験されてその能力や性質を持つ人たちがいます。見た目が違ったり、特殊な能力を使えたりするけれど、普通の人間なんです。できれば、偏見を持たずに優しく接してあげてくださいね」
お昼の授業の時間を、その言葉で締めくくって夕食の支度に行ってしまった。
白籠は、境界地で実際に迫害される人たちを見てきたのかもしれない。決して何かを強制したりはしないけれど、きっと揺唯が偏見を持ったり迫害したりしたら、哀しむのだと思う。
そもそも、幻想種の起源は人間が空想した存在を実験によって創り上げたものらしい、という一説もある。……同じ、人間だ。会ったこともないと思うけど、きっとそう。
――そもそも、幻想種と人間を隔てるものとはなんなのか。
自分の姿を、鏡で見つめてみる。
見慣れた顔、髪、瞳……。服は首許の緩い青いティーシャツの上に水色のフードつきパーカーを着て、灰色のだぼついたズボンを穿いている。くるぶし丈のソックスは恐竜柄だ。
感想は人間だなぁ、というよりは自分だなぁ、というもの。
記憶がなくたって自分ってこんなんだったな、っていう感覚は薄れないらしい。
洗面所から戻って、座布団から振り返る。
ビニール袋で何やら肉をもみ込んでいるらしい白籠は、小豆色というらしい赤紫だか茶色だかわからない色の着物に、茶色の帯を締めて着流して、白い足袋を履き、相変わらず黒い三角巾と白い割烹着が喧嘩し合っている。勝敗はつかない、しいて云うなら引き分け。
綺麗な立ち姿だな、と思う。
背が高くがっしりした体型の揺唯とは反対の、そこそこの背がありながらも全体的にほっそりとしていて透けそうなほど白い。
人間とは、ある意味で皆別の姿をした存在だ。
服装によって、さらにその印象は変わる。
白籠は基礎魔術を扱えるし、揺唯も氷系統の魔術のスキルなら卓越したものを持っている。
何もない場所から氷を作り出すことができ、実際にその氷で冷たいお茶にしてみたこともある。
幻想種はその種によって、人とは違う形を持つらしいが、角や動物の耳があろうと、しっぽを持とうとそんなのファッションとあまり変わらない。多少の特殊能力だって、人間皆持ってるものだ。普通の人間は、ブレスっていう親の祈りによって形成される能力を生まれたときから持っているっていうし。
……むしろ、恐ろしいのは。
姿形や能力じゃない。
どろどろした暗闇よりももっと深い闇みたいな、そういうオーラを纏った人間だ。それは、揺唯の見る魔力なのかもしれない。平気で他者を傷つける、弱者を嘲笑う、死を悦ぶ、狂気的な人間のほうがよほど――ヒトデナシだ。
そんな、ヒトデナシを揺唯はよく知っている気がした。
自分も同じ人間であるなら、或いはその狂気を内包しているのかもしれない、と思えば人間というくくりの中に自分がいるほうがいっそ恐ろしかった。
揺唯はそんな人間よりも、幻想種に興味を持った。
――ドラゴンに会ってみたい。
絵を描くのは苦手だという白籠が一生懸命描いてくれた幻想種の中で一番惹かれたのが竜神だった。人間体じゃなくて、ドラゴンの姿のほう。
かっけぇな、って思ったから。
練習した漢字の合間を縫って、空想のドラゴンを描いた。巻くような角を持った、氷のドラゴンだ。凍りついた冷気を纏いながらも、ふわふわした雲のように包み込んでくれるような雰囲気。自分の中に確固として存在する、
ぱちっ、と弾ける音がして思わず振り向いた。
燃え盛る炎の中で弾け飛ぶ火の粉が連想されたからだ。
拾われてから一週間――曜日がぐるっと一周する七日間をいうらしい――経った現在、出逢った当初傷だらけだった白籠はすっかり治って綺麗になった。自己魔力を集中させることによる治癒促進や治療魔術によってあっという間に完治したのだ。それでも、右目のガーゼや包帯の巻かれた腕だとか、そこかしこにあった絆創膏だとかの痛々しさは今も目に新しい。片目で距離感が掴めずに、薬缶で火傷して新しい傷も創ったくらいだ。
……火事の中、取り残される白籠を想像してしまった。
どうして、白籠があれだけ傷ついていたのかは知らない。訊かない。
こんな土地に住んでいる時点で、そうなる要素なんていくらでもあるから。
それでも、揺唯は自分が傍にいる限りもう怪我させたくないと思っていた。
けれど、なんてことはない。
深いフライパンに溜められた油の中に、菜箸で肉を入れていっているだけだった。
でも、初めて見る料理だ。
じぃ、と白籠の後ろ姿を見ていた。
台所の窓から、ちょうど西日が射して眩しい。
夕日の赤に、白籠は溶けてしまいそうだ。
揚げられていくお肉の、香ばしいにおい。
じわり、と白籠の首筋に浮かぶ汗。
落とさないように、と慎重に取り上げる菜箸の運び。
薄く開けた窓からは、網戸越しに帰り道の雑踏や話し声が届いた。
揺唯はぼうっとしてることとか、暇を持て余すことは苦手なはずなのに、どうしてかずっとこの風景を見ていられた。
好きなのだと思う。
白籠が料理している姿だとか、そんな記憶もないのに懐かしく感じるような風景だとか、穏やかに過ぎていく時間とか、そういうの。
心の原風景、ありもしない古の記憶。求めていた幻想の名前。
すっかり馴染んだ六畳一間のワンルームは、白籠のあたたかさで満たされていた。
こんもり、と平たい皿にこれでもかと積まれた揚げた肉を手に白籠はこちらへやってきた。
「お待たせしました、今日は唐揚げですよ」
いいにおい!
揺唯は鼻をくんくんとさせながら、卓袱台の上にどんと置かれた肉を輝く瞳で見つめる。
「からあげ?」
「片栗粉とかをまぶして揚げたもの、かな。唐揚げって云ったら、だいたい鶏肉の唐揚げなんですけど……。安い鶏肉がいっぱい買えたので、ちょっと奮発してみました」
にこにこと白籠は千切りキャベツやご飯、味噌汁を運んでくる。
そういえば、買い物から帰ってきた白籠はお肉屋さんで安くたくさん買えたと喜んでいたっけ。
「うまそー」
よだれが落ちそうだ。
最後に緑茶を入れた急須と湯飲みを運んできた白籠は、どうぞと箸を差し出してくれる。
「いただきます!」
「はい、いただきます」
合掌のあいさつはお手のものだ。
最初は忘れて食べ始めたり、あいさつの意味が解らなくて戸惑ったりしたけれど、今ではすっかりこなれてしまった。
意味とか理由は解らなくても、白籠が哀しむか喜ぶか、それは揺唯にとって大きな指標だった。
からっと揚げられた唐揚げは、噛むとじゅわっと肉汁が口いっぱい広がって、ガワのさくさくと中のふわっと感がまた絶妙で、信じられないくらい美味しかった。
「うめぇ‼ ハクローって魔法使いなんじゃねーの?」
「揚げ物の妖精さんが美味しく揚げてくれてるんだよ☆」
たまにある、おとぎ話を語るときと同じ、白籠のキャラクターなりきりだった。
最初はびっくりしたけど、もう慣れた。
……変ですよね、ってしょぼんとしてたけどそんなことないと思う。
白籠といると飽きない。楽しい。
「へー、妖精さん万能だな」
いると思えばいるのなら、白籠がいると云えば揺唯はその存在を信じるのだ。
「ふふ、いろんな種類の妖精さんがいるんです。お布団が干すだけでもこもこになるのもお日さまの妖精さんのお陰なんです。ゆーちゃんも、日常に潜む妖精さんを感じてみてくださいね」
唐揚げとキャベツの千切りとご飯を反復横跳びしていた揺唯は、頬をぱんぱんに膨らませたままふんふんと頷いた。白籠は、くすっと吹き出すみたいに笑った。
実際、幻想種の中でも希少種に小人族や巨人族がいるのだから、案外と妖精だっているかもしれないし。
お腹がいっぱいで動けない、といった体で揺唯が伸びてる間に、白籠は茶碗を洗っていた。あわあわして、水で流して、きゅっきゅと綺麗になった音が響く。その間にも、ずっと小さな歌が零れていた。あわあわじゃぶじゃぶ、作詞・作曲白籠だった。
自作だろうと、旧時代からある童謡だろうと、どっちみち揺唯の知らない初めての歌だ。
洗うのに合わせてリズムを刻んでいて、小気味よかった。
休憩を挟んで少しお腹の重みも魔力に変換されたところで、お風呂に入ることに。
本当は一人で風呂なんて入れるのに、できないから洗って、といつまでも甘えている。そして、白籠はすべてうのみにして甘やかしてくれる。
こんな狭い部屋についてる浴室なんて当然狭い。お風呂なんてほぼ正方形で、一八五
お風呂の椅子に座った揺唯の頭を洗い、身体の隅々まで綺麗にして、「さぁ、湯船で温まって」と促した白籠は浴室から出ようとして……つるっとこけそうになった。
瞬間、腰と頭を抱き込むように掴んだ。
間一髪である。
意味は知らないけど、白籠曰く。
「……っ。ぁ、ありがとうございます、ゆーちゃん」
驚いて強張っていた身体の緊張が解ける。
「どーいたしまして?」
感謝には慣れていなくて、返答の言葉が口に馴染まない。
桶でお湯をかけられていた揺唯とは違って、白籠は冷えている。
一緒に入ればいいのに、と思ったけれどこの狭さを思って口を噤んだ。
白い襦袢は水に透け、まっさらな肌を晒している。平坦で、何もついてなくて、揺唯とは違う身体。すごく小さいわけでもないのに、華奢で細くて力を込めるとすぐ折れてしまいそうなほど儚い。
水に溶けていきそうな墨色の髪はふわふわとして気持ちよくて、何げなく撫でた。
するり、と黒い三角巾が落ちた。
髪の毛ではない、ぴょこんと立った何かに手が触れて、思わず目線が動いた。
「……みみ?」
そうだ、何か動物の耳だ。でも、白籠にはきちんと目の横に人間の耳がついている。
はて?と、揺唯は内心首を傾げた。
「……! そ、その、実は……わたしは獣人ではないんですが、バクの耳がついてるんです。へ、変でしょうか」
不安そうに、瞳が揺れる。
いつも宝玉みたいに煌めいてるのに、今は深い緑の水面みたいだ。
「んーん。似合ってる、かわいいじゃん。どーして隠してんの?」
もったいない。
黒い、毛のふさふさした獣耳。バクにしては垂れていて羊の耳のようだというそれは、揺唯からすれば控えめに云ってもものすごく可愛い。
「かわっ……? 獣人の耳ではないので、実際にここから音が聞こえるわけじゃない、飾りなのですが……。でも、どういった存在にせよ異形は捕まえられてしまうんです。だから、隠しておかないといけないんです」
家でも三角巾を、それも色が黒いものを身に着けているのは万が一のためなのだ。
幻想種や獣人ではないにしろ、普通の身体ではない白籠。
だからこそ、揺唯に偏見を持たれて心ない言葉を投げかけられることを恐れたのかもしれない、と今日の授業を思い出して気づいた。
優しく耳を撫でると、白籠は頬を染めて照れながらも、どこか心地よさそうだった。
「……おれには見せてくれる?」
――誰にも見せられなくても、おれにだけは。
水晶のような魔性の輝きを放つ揺唯の瞳に抗えないみたいに、白籠はこくんと頷いた。
今日、またひとつ秘密を共有した。
騙されることが嫌いだから、隠し事も好きじゃなかった。でも、心を預けられる人と作る秘密は心に仄暗いよろこびを湧き立たせてくれる。
……ひとりじめ、していたい。
〆
「七日目。/揺唯の覚書」
『ハクローには、バクの耳がついてた!
バク ってどんなの?
今度、図かんが買えたら見せてくれるって。
黒い毛がふさふさしてるのになめらかで、
すっごいさわりごこちよかった。
ハクロー、またさわらせてくんないかな? だめ?
三角巾は、ハクローにとって大事なもの。
ずれたり、おちたりしないよーに、
気をつけてあげないと。
(たくさんの唐揚げのイラストが所狭しと描かれいてる)』
〆
手を繋ぐ。
触れたぬくもりを、ずっと離したくなかった。
自分の大きな手が、これまでなんのためにあったのかは知らない。ごつごつしてて、何か硬い物をずっと握っていたんだな、と判るけれど。
少なくとも、こんなやわかいものを包んだことは、きっとなかった。
白籠の手は細くて骨っぽい。百合の花みたいだ。
なのに、あたたかくてやわらかく感じる。
それは、魔力――その元となる心のせいなんだろう。
白籠はいつもふわふわしている。雲や風船のように足取りさえ不確かで、手を繋いでないと今にも飛び去っていきそうだ。初めての外出で道も人も知らない揺唯を先導するために繋がれているはずなのに、足許のおぼつかない白籠を支えるために握ってるんじゃないかと思えるほどだ。
それでも、白籠の手は揺唯の心底に蔓延る不安をすべて浚うほどに心強かった。
――このまま、どこか遠くへ攫ってほしい。
おんぼろな木造アパートメント――「メゾン・トワイライト」という名前らしいことは外に出てかすれた看板を見て初めて知った――の二階から錆びた階段を下りると本通りに繋がる道に出て、駐車場を挟んですぐ商店街に辿り着く。
記憶しようとするまでもなく、簡単な道のりだ。
白籠がここ二週間ですっかり馴染みになったらしい商店街はとりあえず後回しで、行ける範囲を一周した。
今日の目的は、揺唯初めての外出で行っていい場所とそれ以上行ってはいけない場所を教えること、だった。
ほとんどの裏道は駄目、商店街から繋がる本通りは大きな和風屋敷の手前まで、なるべく大きな道をぐるっと回って寂れた公園までが境界線、そこから少し回っていくと裏手からアパートまで帰ってくる寸法だ。
それが、以降の散歩コースとなる。
元の位置まで戻ってきたところで、商店街で買い物して帰ろうということになった。
昼からずっと歩いていた。
揺唯がそこここと気になって白籠にあれは何これは何と訊くので、なかなか進まなかったのだ。
疲れてはいない。
むしろ、体力のなさそうな白籠のほうが心配だった。
白籠のゆったりとした
日が傾き始めて、影が濃くなる。
新たに増えた約束事を思い出した。
『六.
七.
八.
九.
十.
十一.
十二.その
そうだ、暗くなる前に帰らなきゃ。
夜闇に攫われてしまわないように。
商店街で買い物する白籠を見て、驚いた。
別に、商店街の人は彼人の云うとおり優しくて酷いことされたとか云われたとかじゃないけど。
白籠は他者と一言も話さなかったのだ。表情さえ、凍りついている。
揺唯と喋るときとは雲泥の差だ。尤も、雲も泥も大量に水分を含んでいるなら、上にあるか下にあるかなんてなんの差があるのか揺唯には意味不明な言葉だな、という感想しか湧かないが。
だからか、と納得したところもある。
いつも、白籠はメモ帳と筆記用具を肌身離さず持ち歩いていた。
買い物メモもしっかり書いてある。
日常的な会話なら、汎用的なメモによって流れるように済まされる。
そんな白籠の態度に、商店街の人も慣れたもので怪訝な視線を送るでもなしに、書かれた文字に添って肉とか野菜とか魚とかを差し出してくれる。
初めて揺唯がついていったからか、おまけだと多くもらえたり安くしてもらえたりした。揺唯がやった!と喜んだときだけ、白籠は小さく微笑んだ。むしろ、そんな白籠の表情に店の人たちは驚いていたくらいだ。
煙草屋も併設した商店が最後だった。
外の白籠とどっこいどっこいなくらい愛想のない店主が、会計してくれた。ホットスナックのコーナーを白籠が指さして、一本の指を立てると店主は言葉もなく何かを包んで渡してくれる。
白籠はわずかに口角を上げて、ぺこりとお辞儀した。
軒先のベンチに、並んで座った。
唇に人さし指をあてて、内緒ですよのポーズだ。
別に二人暮らしで誰に怒られるわけでもないのに、晩ごはんの前にお菓子食べるのは秘密ねって。
白い紙の包みから、甘い香りのする茶色く厚みのあるまるいものを取り出す。それを二つに割って、大きいほうを揺唯にくれた。
白籠はいつもたくさん揺唯にくれる。焦げてないほうをくれる。よくできたほうをくれる。
さりげなく、あたりまえみたいに。
心が、じんわりとあたたかくなる。
今、手渡された甘い物が手をじんわりと温めてくれてるみたいに。
「……一個しか買えなくて、ごめんね」
小さな声だった。
首を振る。
「これ、なぁに?」
「大判焼きっていうんです。甘い生地に、あんこが入っていて美味しいですよ」
初めて食べる大判焼きに戦々恐々としながらも、揺唯はがぶりと一口。
一口で大きな半分を食べきっててしまった。
柔らかくて、甘い……。
「うっま……」
素朴な味と食感なのに、ものすごく美味しい。口やお腹が求めていたというよりは、心が満たされる感じだ。白籠の作ってくれるごはんと近い。
白籠が作ってくれたから、白籠と一緒に食べたから、白籠が買ってくれたから、人の温もりを感じられるお店で買ったから……。
――白籠は、おれの求めた形をくれる。
いや、むしろ……。
小さい欠片を、ちまちま食べていた白籠が立ち上がった。
両手はおまけもしてもらって大量になった紙袋と自前の布袋で手いっぱいだ。
手を繋ぎたくて、片方を持った。
揺唯からすると全然重くなかったけど、細腕の白籠には大変そうだ。
「ありがとう、ゆーちゃん」
心底うれしそうに、白籠は微笑んだ。
自分のために、自分が手を繋ぎたいから白籠の手を片方空けたくてやっただけなのに、喜ばれた。
夕日に照らされた白籠の頬が紅いのは、なんのせい?
ぎゅ、と握り締めた手を、せめて帰り道だけは離したくなかった。
「なー、ハクロー。今日の晩ごはん、何?」
「今晩は……カレーライスにしましょうか」
〆
「十四日目。/揺唯の覚書」
『今日は、初めて外に出た。
ハクローと手をつないだ。
やわらかくて、あったかかった。
商店街と大通りと公園、
ぐるっと回ってアパート。
商店街には、肉屋・魚屋・八百屋・駄菓子も売ってる商店とか。
いろいろあった。
たくさんオマケしてもらった。
じゃがいもとか。
おおばんやき 大判焼き
二人ではんぶんこ。
甘くておいしかった。
ばんごはんはカレーライス!
甘口ってやつで、すごくおいしかった。
辛くて苦手だったのに、ハクローが作るのはすき。
ハクローって、すごい。
いったい、いくつ魔法が使えるんだろう?
地図をかいたら、ほめられた!
おぼえてるのも、せーかくにかけるのもすごいって。
おれって てんさい?
――白籠はおれ以外と喋らない。笑いもしない。
どうして?なんてきかない。
そんなの、どうしようもないからだ。
理由を問うことに意味はない。
……ただ、おれの中にあるのは白籠の声も笑顔も何もかもがおれだけのもの
だっていうじめじめした喜びだけ。
(簡易的だが正確な位置関係の地図と大判焼き、カレーライスのイラスト)』
〆
『十三.
〆
「二十日目。/揺唯の覚書」
『今日から、一人で外歩いてもいいよ、ってカギをもらった。
銀色の、部屋のカギ、二〇三号室。
黒い紐のチョーカーにつけてくれた。
絶対、チョーカーを肌身離さずつけてなくさないようにって。
このカギはお守り。
家を守るってことでもあるけど、
これを持ってると悪い人に見つからなかったり、
ケガしそうになっても防いでくれるんだって。
たぶん、ハクローの魔術だ。
んー、ハクローと一緒じゃないなら外に出るのもなぁ。
でも、からだ動かしたいし、散歩くらいしよーかな。
(鍵つきのチョーカーと焼き魚のイラストつき)』
〆
雨がたくさん降る季節になった。
洗濯物があんまり乾かなくて少し白籠は憂鬱そうだ。でも、てるてる坊主の作り方を教えてもらって、天気になる歌を一緒に歌った。楽しかった。
布団はあんまり干せなくてべちゃっとしてしまって、なんだか寝苦しい夜もある。けど、白籠にぎゅっと抱きつくとなんだか安心して眠れる。子守唄が耳許で聴こえる。あったかい。
白籠に拾われてひと月以上経ったということだが、代わり映えのない日々を過ごしていた。
特別なイベントがあるわけでもない、穏やかな毎日。
退屈とも思わず、ただずっと続けばいいと揺唯は思っていた。
朝、白籠に起こされて作ってくれた朝ごはんを食べる。それか、においで起きることもある。だいたい和食だけど、たまに商店街のベーカリーで買った食パンが出てくる。最近のお気に入りは漬け物。白籠が簡単に漬けている奴だ。尤も、白籠が作ってくれる料理はなんでも好きなので日々お気に入りは更新されている。定番で好きなものも好きなままだ。ごはんを食べ終わった頃には、ちょうど洗濯機がピーピー鳴って、白籠は皿を洗った後早速洗濯干しに取りかかる。その間、揺唯は白籠が古本屋で見つけてくれたパズルの本を眺めて遊んでいる。
昼、気づけば掃除も何もかも終わっていて、昼ごはんになっている。昼は丼ものや麺類におにぎりとか一品つけ足すのが定番だ。昼からは勉強をする。文字どおりの言葉・漢字や算数みたいな勉強、日常生活に必要不可欠な情報や手順またルールやマナー講座、歴史や社会の勉強のほか、揺唯が知りたがったことはなんでも教えてくれる。授業が一段落すると、三時のおやつ休憩になる。もらったパンの耳を焼いたり、おまけでもらった駄菓子だったり、ささやかだけど心地いいひとときだ。温かい緑茶が喉を通っていく瞬間、穏やかな気分になる。白籠は揺唯の好きな飲み物を見つけるために、いつかコーヒーや紅茶を淹れたいと云っていた。
夕方の前には、商店街へ買い物に行く。揺唯は散歩したいし、あわよくば白籠と手を繋ぎたいし、荷物持ちという名目の下お手伝いのご褒美に駄菓子の一つでも買ってもらえるならラッキーという魂胆で白籠についていくのだった。揺唯以外とは喋らない白籠の代わりに、白籠がメモした買い物リストを元に何を何個と注文していく。人前だと表情すら硬かった白籠も、揺唯が笑いかけるといくらか緩むようになった。白籠を独占していたいけれど、白籠のことを悪いほうに勘違いされるのも嫌だから積極的に街中でも話しかけている。帰ると買った物を片づけてから、洗濯物を取り込んで畳む作業に入る。タオルだとか畳むのが簡単なものを手伝って、ふかふかになったタオルにつっ伏して眠ってしまうこともしばしばだった。
……だが、あいにくの雨。買い物も白籠一人が行ってしまったし、洗濯物も乾いていない。中干されていた洗濯物の中で今日中に乾かないと困るものを、白籠が魔術の温風で乾かしていった。ドライヤーの代わりにやってくれるのと同じ奴だ。
しょぼん、と留守番していた揺唯の前にふかふかになったタオルが置かれる。畳んで何枚も重ねると、いい枕になった。すっかり上機嫌である。
今日の晩ごはんは、ご飯に野菜炒めともやしの味噌汁、漬け物だった。質素でごめんね、と謝られたけど、そんなのわからないくらいいつも美味しい。
いつもどおり、お風呂の世話までしてもらった後、白籠が浴衣を着せてくれた。いつもパジャマにしてるスウェットが乾かしきれていないから、代わりに浅葱色の浴衣を前に後ろにと抱き締められるみたいに整えてもらいながら着た。帯は紺色だ。白籠の柔らかな髪が頬をくすぐるほどに密着されて、甘い白百合の香りがした。いつも、石鹼の香りか作ってる料理のにおいを纏わせてるけれど、これはつまり白籠本来の匂いなんだ。魔力香かもしれない。白籠の心の形、のひとつ。
ずっと、この匂いに包まれていたかった。
帯を締めて、よし、と満足気に離れていってしまったのがとても惜しく感じる。
だからというわけでもないけれど、歯磨きして、とせがんだ。
白籠は「今日は特別ですよ」って甘やかしてくれた。
湯上がりの白籠は黄緑の浴衣を着ていた。おそろいみたいでうれしい。
正座している白籠の膝に、ちょこんと頭をのせる。すらっとして薄っぺらな、柔らかくもない膝枕。でも、揺唯はここを特等席みたいに気に入っていた。
しゃこしゃこと丁寧に歯磨きしてくれる白籠の、その揺れがまるで揺り籠のようで、ゆらゆらと眠りに誘われる。
知らぬ間に寝ていた揺唯は、ふと深夜に目が覚めた。
早くから寝すぎたせいかもしれないし、じめじめとした湿気のせいかもしれないし、隣にいつもある温もりがなかったせいかもしれないし、子守唄や寝物語を聴いて眠るというルーティンから外れたせいかもしれない。
あきらかに白籠より重いのに、しっかり布団に寝かされていた。
手探りで白籠を探すも、いなくて焦った。
ばっ、と起き上がる。
台所から、淡い
白籠がいなくなったわけじゃない、という安堵とともにどうしてこんな夜遅くに起きているんだろう、という疑問が湧いた。
障子を開けて、ひょこっと覗くと、白籠は台所の地べたに正座して内職の作業をしていた。彼人の収入源は御札作りだとかの内職作業らしく、蜜柑のダンボールを机代わりにして魔力を込めながら和紙に文字らしきものを綴っている。
揺らめく炎は、蝋燭の灯だ。
ふ、と白籠がこちらを振り仰いだ。
「ごめんなさい、起こしましたか?」
なんて白籠は揺唯の心配をしたけれど、夜な夜な作業をしているであろう白籠の白い肌にはしっかりとした隈が浮かんでいた。
どうして気づかなかったのか。
――ああ、おれはハクローに無理をさせている。
ちょっとした手伝いをすることはあっても、ほとんどの家事もお金を稼ぐのも全部白籠ががんばっている。算数を習うようになって、金銭感覚、というものを得て、うちの収支がいつもぎりぎりであることを白籠の書く家計簿から見て取れるようになった。そして、大飯食らいで遊びや駄菓子をせがむ揺唯が、その支出の原因であることなど火を見るよりもあきらかだ。
白籠が身を粉にして働いて、その苦労を見せもせずにずっと笑顔で傍にいてくれた。
「……ごめん、ハクロー。おれがいるせいで、大変なんだろ?」
謝った。
感謝すべきも、謝罪すべきも、白籠ではなく自分自身だと揺唯は思ったから。
けれど、そんな揺唯の謝罪を白籠は受け取らなかった。
「ゆーちゃんが謝ることなんて何もないんですよ。わたしはわたしのしたいことをしてるだけです。夜なべしなくちゃいけなくなったのは……わたしがどんくさくて仕事が遅いせいですから」
「でも……」
「それに、記憶も曖昧で、新しい生活に慣れてないゆーちゃんは既にいっぱいがんばってるじゃないですか。いくら境界地が無法地帯っていっても、本来ゆーちゃんくらいの子はまだ学生なんです。就職可能年齢だからって働く必要もないんですから、無理して仕事をしようとか手伝おうとかしないでくださいな。……できれば、何かやりたいって心から思えることが見つかるまで、無理に仕事を探そうなんて考えないでほしいんです」
子どもはよく食べてよく寝て、遊んで学ぶのが仕事なのだ、と。
云いたいことは、わかる。
でも、揺唯は自分をそんな小さな子どもだとは思わない。
仮に子どもだとしても、このまま白籠にだけ負担をかけ続けるのはよくない。
――ハクローの犠牲の上に成り立つ
〆
「三十七日目。/揺唯の覚書」
『ハクローは、夜中にも仕事をしてた。
おれがいるから無理させてたんだ。
……でも、仕事ってピンとこない。
何がしたいとか、明確なビジョンもないし。
だけど、とにかくハクローに甘えて頼ってるのはよくないと思う。
これからは、お手伝いとかちゃんとする。
なんでもかんでもハクローに甘えない!』
〆
久しぶりの晴れの日。
天気がいいと朝日の眩しさで自然と目が覚める。
揺唯は跳ね起きてひとつ伸びをすると、ベランダに出た。雨上がりの日の澄んだ空気が心地いい。ベランダ用のスリッパがこきゅっ、と歩くたび愛嬌のある音を鳴らす。専用の雑巾でベランダの手すり柵についた水滴だとかを拭いてから、自分の布団をばさっと干した。
――お昼になったら、ハクローの分を干そう。
あいにく、二人分の布団の干場はないので、片方がいい感じにふかふかになったらの交代制だ。あまり天気のよくない日が続いたのもあって、白籠は自分の分はそっちのけで揺唯のばかり干していたけれど。揺唯の当番となるなら、それはもうどっちも平等に扱う。
雨の日は、ドライヤーや洗濯物を乾かすのと同じ要領で白籠の魔術で乾燥させていた。布団は結構時間がかかるのでいつもかつもできたわけではないけれど。
二階だし、隣が平屋のお陰で日あたりもいい。きっと、いい感じに乾いてくれる。
とんとんとん、と葱を切っている白籠に、
「おはよ、ハクロー」
あいさつをする。左手は猫の手のまま、包丁を木のまな板の上に置いて白籠は振り返った。
「おはようございます、ゆーちゃん」
朗らかな、笑み。
朝、一番に見る笑顔が白籠であることが何よりの幸せだった。
顔を洗い、パジャマのスウェットから黒いタンクトップと水色のパーカー、紺色の緩いズボンに着替えるといった身支度を終えてから、洗濯を始める。
洗濯籠から服をざばっと洗濯機につっ込んで、下着だとか白籠の着物だとかをネットに入れてから放り込み、いつもの量だとこれくらい、という量の洗濯用粉末洗剤を計量スプーンの目盛りもそこそこにばさっと入れてしまった。
揺唯は目測や自分が持った感じの重さだとかから直感的に適量を推測するのが得意だった。失敗したことがない。
直方体の箱に入った粉状の洗剤は、所どころに白籠が洗浄の魔術を込めた屑魔力石が紛れていて、洗濯物がすごく綺麗になるし、洗剤の量もせびれるので節約にもなっている。内職の仕事では、そういった物も作っているらしい。
ピッ、とスタートのボタンを押してしまえば、後は洗濯機が勝手にぐるぐる回って洗ってくれる。習った当初は、洗濯機の中がぐるぐる回るのが面白くて、終わるまでずっと眺めていた。そんな揺唯を、白籠が微笑ましそうに見つめていたことも知らずに。
揺唯が朝の一連の流れを済ませる頃には、白籠が朝ごはんを作り終えているという寸法だ。
朝餉の温かなにおいに、揺唯は頬を緩ませる。
「いーにおい」
「今朝は、昨日の煮物の残りを温め直しただけなんですけどね」
と、白籠は苦笑しながら、煮物を深皿にのせていく。
揺唯は炊飯器を開けて、白米の濃密な香りがする湯気を浴びながら、ご飯をつぐ。
真ん中に置き直した卓袱台の上に、白籠が盛りつけてくれた朝ごはんを次々と運んでいって、最後に箸と湯飲みを持っていった。白籠が緑茶の入った急須を持ってきてくれたら、完成だ。
二人でいただきます、と合掌して食べ始める。
ご飯と味噌汁と煮物、漬け物。
シンプルで定番ながら、揺唯の大好物!
味噌汁を最初に一口飲むと、ほっと安心が胸に広がっていく。
梅雨とは思えないほどよく晴れていて、窓から入り込んだ日射しが眩しい。
二人の食卓は、ぬくもりに溢れていた。
白籠が茶碗を洗っている間に、ピーピーと自分の仕事が終わったことを盛大に自己主張していた洗濯機から洗濯物を取り出し、物干し竿に干していく。
ハンガーにかけるもの、洗濯ばさみがじゃらじゃらついたハンガーに挟むもの、分けながら干していく。……おっと、おれの下着はメリーゴーランド(白籠命名)に乗せるんだった。
タコか観覧車のように干すための足がいっぱいあって、先端に洗濯ばさみがついている円状のハンガーを、横にくるくると回ることから白籠はメリーゴーランドと名づけている。そこには、揺唯の下着や靴下、ハンカチなどの小さな布類が干される。ちなみに、白籠はいろんな物に名前をつける派だ。
白籠が服屋で定期的に買ってくる下着は、なんというか派手だ。昨日のは、でかでかとしたぞうさんのイラストがプリントしてある。揺唯は下着の柄なんて誰も見ないんだし興味はなかったが、さすがにこれは若干恥ずかしい気持ちにもなる。のだが、白籠が新しいのを見つけるたびに嬉々としてプレゼントしてくれるので、これでいっかという気持ちになった。
どうも、そういうのが可愛いらしい。
白籠は下着ともわからない白い薄手の襦袢なので、外に干しても安心だ。
……何が不安なのか、揺唯にはわからないが。
単純な話、排泄をしない、魔力で保護された身体を持つ魔人に下着が必要なのか、という問題はいつ何時でも議題として上がっているが、汗をかくなどして汚れはするんだし、見た目や慣習のために必要だというのが大多数の意見、らしい。罷り間違って服が捲れたりずり落ちたりしたときに、裸だと問題だろう、という意見もよくあるのだが揺唯には肌が直接見えることの問題がよくわからない。
(……でも、ハクローの肌は誰にも見せたくないな)
パンパン、と皺を伸ばす瞬間が好きだ。
そして、全部干し終わった後、綺麗に並んだ洗濯物が風になびく姿やメリーゴーランドが回る姿を見るのがいっとう楽しくてすかっとする瞬間だった。
部屋に入ると、割烹着を脱いで着流し姿になった白籠がべたべたに褒めて感謝してくれた。
今日の白籠は、
何色を着ても似合う。
白籠が掃除をし始めて、揺唯はもう休憩していいと云われる。一応、卓袱台の台拭きだけ自分でして、そこでちょっとした日記を書いたり、地域誌や本のパズルを解いたりする。
いよいよ、昼ごはんは揺唯の練習の成果を見せるときがやってきた!
最初は単純なご飯の炊き方やお茶の入れ方を習った揺唯だったが、野菜炒めと焼き飯に始まり、焼きそば・うどん・ラーメン・パスタという簡単な麺類をコンプリートした今日は自分一人での実践だ。白籠には食の好みというものがないのか、揺唯が作ればなんでも親のように喜んでくれるので、失敗しなさそうな焼きそばにすることにした。
白籠が所在なさげに座布団の上で正座して揺唯の背中を見つめているともつゆ知らず、揺唯は野菜を切り始めた。
揺唯は興味を持って覚えようとしさえすれば、基本一目見ればできるし、忘れない。
器用だから、切るのも危なげなくさくさくと綺麗に切れる。
分量も、目分量ながら適量をキープ。
慣れと努力によって料理にこなれた白籠とは正反対のスペシャリストである。
最後に麺を入れて、ソースで味をつけ、塩胡椒で味を調えれば完成だ。
「できた!」
器用さと力業を合わせた揺唯の豪快料理は無事に終わった。
白籠は、ほっと胸を撫で下ろした。
指を切ったり、火や油で火傷したりすることを恐れていたのだが、揺唯は研修生の時点で優秀な生徒だった。
料理は盛りつけまで、手伝いは片づけまで、である。
揺唯の好みに大きくカットされた野菜たちと麺が絡まり合い、香ばしいにおいのする焼きそばを器用に皿へと移していく。どこにでもありそうな、白に稲のワンポイントがついたお皿だ。とあるおむすび屋でポイントを貯めるともらえる皿らしい。
ピッチャーに入った麦茶を透明のグラスに注ぎ、お盆で箸も含めて全部運ぶ。
白籠は手伝いたそうに腰を上げ下げしていたが、揺唯がいっぺんに持ってきてしまったので、すとんと落ち着いた。
「どーぞ」
上手くできたとは思うけどちょっとした緊張感の下、いただきますした。
くるんとした癖っ毛を耳にかけてから、白籠は箸で焼きそばを掬う。
ちまちまと一口食べ終わった白籠は、
「美味しい……」
と、呟いた。
思いがけず口から零れた、みたいない嘘偽りない評価だ。
「! ほ、ほんとっ⁉ おいしー……?」
「はい、とっても。ゆーちゃんは味つけも焼き加減も絶妙で、師匠のわたしよりも上手です。本当に、美味しい……。ずっと食べていたいくらい」
「やった!」
揺唯も自分で大口いっぱいに焼きそばを啜ってみた。
うまっ……!
白籠に褒められたことも、白籠に習って自分が作ったものが上手くいったことも、美味しいごはんがたらふく食べられることもとってもうれしい。
正直、白籠の作るごはんが一番美味しい。
その気持ちは今でも変わらないけれど、自分でがんばって作ったものが美味しくできてるとそれもまた別の喜びがあるものだ。
揺唯の基準でいっぱい作った焼きそばは、普段の白籠の昼食よりもかなり多い量だったが、美味しい美味しいと残さず食べてくれた。
……食べた後、ちょっと動きづらそうにしていたけれど。
お礼に片づけはわたしがやります、って白籠が云ってくれたけど、片づけまでがお手伝いだ。やりたいって云って、断った。
昼からは、変わらず授業の時間だ。
最近は家事がやりたい、とそればかり習っていたけれど、そろそろ洗濯・掃除・料理と大体のものが免許皆伝になってきたので、またいつものお勉強に戻った。
それが終わると、もう好きにしていいですよって云われた。
「ゆーちゃん、本当にありがとう。いろいろお手伝いしてくれるのはうれしいんですが、全部やってくれちゃうとわたしのやることがなくなっちゃいます。遊んだり、知りたいことを学んだり、お昼寝したり……やりたいことはちゃんとやってほしいんです。我慢せず、食べたいものを云ってくれるほうが献立を考える身としても
じゃあ、と揺唯は早速注文した。
「鯖の味噌煮!」
「……なかなか渋いですね。わかりました、いい鯖があるといいんですけど」
そう云いつつ、白籠は買い物リストに追加していた。
揺唯が白籠に習ったお手玉で曲芸したり、お昼寝したりしている間、白籠は破れてしまった揺唯のズボンを縫っていた。以前、公園で出逢った猫を追いかけてアクロバティックな動きをしたときに膝の部分をこすってビリッとやってしまったのだった。
今日は散歩がてら一人でお遣いに行くことにした。
本当は白籠と一緒に行きたいけれど、また夜なべさせるわけにはいかない。
内職の仕事をする白籠を家に置いて、夕飯の買い物へ、いざ!
白籠の書いた買い物メモを手に握り締め、ウォレットチェーンに繋がれた財布はポケットの中、自前の買い物袋(白籠が布から作った)を肩にかけ、首にはしっかり鍵つきのチョーカーが巻かれている。
白籠はそっとチョーカーを大事そうになぞりながら、あれこれと注意事項を述べて、心配そうな瞳でこちらを覗き込んだ。
「だいじょぶだって! いってきまーす」
揺唯が階段を駆け下りて商店街へと続く道へ出てしばらく、見えなくなるまで白籠は見送ってくれた。
一人でのお遣いは初めてじゃない。
実は最初の頃に、ちょっと失敗した。
高いのを買ってしまったり、違うものを買ったり、他のことに気を取られて買い忘れたり、いつもと違う奴を買ってしまったり、新鮮じゃないのを買ったり、誘惑に負けてお菓子を買って帰ったこともあったけれど、そのどれもを白籠は怒らなかった。精々、苦笑したくらいだ。
そろそろ、お遣い熟練者だ。今日は失敗しない!
意気込みとともに踏み出した足は、商店街の煉瓦風の道路を踏み進む。
「お、ゆー坊じゃねぇか。今日もお遣いか?」
早速、八百屋の店主が声をかけてきた。
名前につける坊にいったいどんな意味があるのか、風化した言葉の中で意味など形骸化して子どもにつける愛称の一つとしてしか理解されず、しかし禁句なのではないかという野暮なことは口にしない。揺唯は子どもだが、境界地に染まった理解ある大人のフリはできた。
「うん、ハクローは仕事。ねー、八百屋さん。玉ねぎちょーだい、でっかくて安いのな?」
図体だけ大きい綺麗な子どもが首を傾げておねだりして見せると、うーんとか唸りつつもすぐに大きな玉ねぎを値引きして売ってくれる。
裏表がなく甘え上手な揺唯が、一生懸命お遣いしている姿に甘やかしてくれる人がほとんどだ。コミュニケーションを取れない白籠より、短い期間でよほど仲よくなったともいえる。しかし、皆が優しいのは揺唯を抱えながら必死に生活をやりくりしている白籠の苦労とか努力とか優しさを解ってくれているからだとも思う。揺唯だけの功績ではなかった。
「豆腐屋さん、豆腐いっちょー」
「あいよ、一丁!」
「おっす、魚屋さん。ハクローが鯖の味噌煮作ってくれるから、いい鯖ちょーだい」
「……おー、味噌煮か、いいな。じゃあ、これ持っていきな」
境界地の商店街なんかで商売しているんだから、皆訳ありな人たちだ。それでも、笑顔で朗らかに接してくれる。あからさまに一生治らない怪我を負っている人も、自分の能力を隠さない人もいる。人間、或いは何者かに追われていて怖いのかどもりながら接客してくる店員だっている。
すっかり、揺唯は皆のことが、この街が好きだった。
最後に一番奥の商店でティッシュと牛乳を買った。
相変わらず、寡黙な店主が黙々と会計をしてくれる。
けど、無言で、まるでお遣いのお駄賃みたいに風船に膨らむガムを二つくれた。
……ちょっと、いい日だ。
むずむずあたたかい気持ちを噛み締めながら、半ばスキップするみたいに跳びはねながら夕日に照らされる帰路を辿った。
カンカンカン、とステップを踏むようにリズミカルにアパートの階段を上れば、ドアを開けずとも白籠が自動開閉してくれた。玄関に入って扉が閉じた途端、白籠にぎゅっとされた。
心配性……。
でも、白籠に抱き締められるのが好きで、買ってきたものが傷まないうちはずっと抵抗をしなかった。
その日の晩ごはんは、ご飯に玉ねぎの味噌汁、もやし炒め、冷や奴、そして鯖の味噌煮だった!
〆
「五十二日目。/揺唯の覚書」
『今日のお手伝いは完璧だった!
ミス0!
商店街の人もいい人たちばっかで、
いろいろ安くしてくれたり、オマケしてくれた。
ハクローがぎゅってしてくれた。
おれがリクエストしたさばのみそ煮を作ってくれた。
今日はとってもいい日。
明日も晴れるといいな……。
オマケでもらった風船ガムを膨らました。
楽しかった!
ハクローは下手くそで作れなかった。
そーいうとこがかわいいと思う。
ちょっと むくれちゃうとこも。
(鯖の味噌煮と風船ガムのイラスト)』
〆
雨ばかり降っていた日々が終わり、からっと暑くなってきた。
洗濯物も布団もふわっふわに乾くし、散歩したり外で遊んだりするのにうってつけだし、いいことづくめだ。けど、白籠は強い日射しや暑さは苦手みたいで、項に汗を光らせながらぼうっとしていることも増えたし、余計ごはんを食べる量が減り、日傘を差すようになった。
白籠は自分のためにお金を使おうとあまりしないけど、今回ばかりは倒れそうになったので渋々レースの黒い日傘を買っていた。
ゆったりと浴衣を着流した白籠が、黒い日傘を持っているのは安い絵画よりもよほど絵になっていると思う。
傘って手を繋ぎづらいのが難点だけれど。
――抱き寄せたらいいのかな?
突飛な想像はともかく、もうすぐ夏だった。
深い緑が生い茂る季節は、白籠の瞳がたくさんあるみたいで揺唯は好きだ。
真っ裸になって風呂掃除するのが気持ちいい。ついでに、かいた汗を流してさっぱりする。
この間、風呂で布団を足でじゃぶじゃぶ踏み洗いするのがものすごく楽しかった。
ぶるぶるぶる、と髪についた水滴を振るって落とし、タオルで身体を拭く。
洗面所から出ると、部屋は窓がすべて全開になっている。
爽やかな風が通り抜けて心地いい。
白籠はというと、なぜか冷蔵庫とにらめっこしていた。
「ハクロー……?」
白籠は困り眉で揺唯を見上げた。
「実は……、冷蔵庫があまり冷たくならなくって。これから、夏の盛りなのに……」
冷蔵庫が冷えない、それは大変だ!と、揺唯は頭を巡らした。
どう見ても最新型には見えない、古い型の冷蔵庫。
戸棚にしまってあった取扱説明書を読んで、冷蔵庫を動かして工具でちょいと中を開く。
白籠は、揺唯のする作業をおろおろと見つめていた。
冷蔵庫の中を触れて魔力感知する。光る回路のように、すべての動線・構造が揺唯には感じ取れた。……んー、これかな?
冷えない原因と思しき周辺をいじって、故障した部品を特定した。
「ハクロー……、説明書のこの部品が壊れてんだけど、代用品って作れる?」
白籠はじっと説明書を見つめてから、こくん、と頷いた。
屑魔力石に魔術をかけて、その部品の代わりとなる作用を持つようにしてくれたのを不良品と取り換えた。
冷蔵庫を元に戻して開けてみると、中から冷風が漏れ出てきた。
二人で目を見合わせる。
「できた!」
「すごいすごい! ゆーちゃん、すごいです。魔法使いみたい。きっと、修理の妖精さんなんですね!」
子どものように目を輝かせて、跳びはねそうなくらい喜ぶ白籠を見て、揺唯も達成感だけじゃなく、自分の能力が誰かの……大事な人の役に立った喜びを感じていた。
その晩は、素麺パーティーだった。いっぱいゆでられたつやつやの素麺に、茶色くて香ばしい麺つゆ、たくさんの新鮮な野菜の添え物、錦糸卵。修理にいくらか時間をかけたから、ちょっと危なそうな食材はぱあっと使い切ってしまおうという魂胆らしかった。けど、半分くらいは口実で、修理のお礼なのだろうということは揺唯にも判った。
家電となると買い替えるにもお金がかかるし、あまり家に人を入れたくないから修理屋さんを呼ぶのも怖かったから本当に
揺唯は口いっぱいに素麺ときゅうりとオクラと卵を詰め込んで、白籠の笑顔に胸を鳴らせた。
――ああ、なんだ。そっか、おれ……ハクローの笑顔が欲しかったんだ。
修理して直ったときの喜びようとか、口いっぱいにして食べてる揺唯を見る微笑みとか。
こういう、自分にできることをして、働いて、誰かに喜んでもらって、その結果お給料をもらって、そのお金でいっぱい買い物していっぱい食べて、そしたら白籠が笑顔になって、自身の腹も膨れる。
それが、揺唯のやりたいことの断片だった。
〆
「六十四日目。/揺唯の覚書」
『冷蔵庫の修理をした。
直したら、ハクローがすごい喜んでくれた。
晩は素麺パーティーだった!
素麺っていくらでもつるつるたべられるよな。
おれさ、ハクローの笑顔が欲しい。
おれが、ハクローを笑顔にしたい。
仕事ってよくわかんなかったけど……。
自分のできることとか、得意なことを活かして、
誰かのためになることができるんなら、
それってすてきだと思った。
誰かの魔法使いにだって、妖精にだってなれる。
それが、修理かどうかはわかんないけど。
明確なビジョンで、仕事したいって思った。
初めての給料で、いっぱい食材買って、ハクローに料理してもらって、
二人でもう食べられないってくらい食べよう。
そうしたい。
明日、ハクローに伝えてみようと思う。
(冷蔵庫と素麺のイラスト)』
〆
初めて会う人と、二人きりで会話する。
……ことに、なっている。
商店街の人や管理人さん、近所の人、そういった軽くあいさつをしてちょっとだけ雑談するくらいの人なら、いる。けれど、揺唯にとってまともなコミュニケーションを取るのは白籠一人くらいだ。
初対面の人と白籠なしで面と向かって会話するのは、少し緊張した。
事の始まりは、揺唯が修理とか自分にできることを活かして働きたい、と訴えたことだった。
白籠は少し悩んだ後、それなら……と理解を示してくれて、管理人さんの部屋の黒電話を借りて、どこかに連絡を取ってくれた。
その相手こそが、ある意味就職面談ともなる、仕事を斡旋してくれる仲介業者のような仕事もする顔の広い白籠の知り合い、らしい。
正直なところ、白籠に知り合いがいることも驚きだが、それどころか連絡先を知っていてなおかつこの家にも呼んでいいほど信頼している人物だ、ということにもやもやした感情すら抱いてしまう。
白籠は買い物に行くから、と二人で会うことになったのだ。
お茶と茶菓子の準備はしてある。
この家に客を迎えるのも、お客さまをもてなす準備をするのも初めてだった。
こんこんこん、と三回ノックの音がした。
この部屋にはチャイムがない。つまり、これが来客の合図だった。
「ごめんくーださい」
間延びした、ちょっと緊張の緩むような高い声が響いた。
「ど、どうぞ……!」
揺唯は扉を開けて、相手を招き入れた。
ブーツを脱いで綺麗に整えたその人物は、揺唯の視点からはとても背が低く小柄に見えた。
黄色い小鳥のように特徴的な段のついた長髪を二つにくくり、蜂蜜ミルクのような甘ったるい黄色の瞳を納めた目はぱっちりまるまるとしていて、子どものような顔つきをしながらもこちらを逃さない鋭ささえ感じさせ、身体つきはふっくらして顔とはアンバランスなほど大人っぽく感じた。
白籠の薄っぺらい身体とも、揺唯の筋肉のついた身体とも違う、柔らかな身体は時折街で見かけるひらひらした服を着たどちらかといえば可愛いに該当しそうな人々に印象が近い。
揺唯には、それらがなんの差なのか判らなかった。
ただ、肩が出るほど首許の緩いクリーム色のシャツに、黒のスーツワンピースを纏い、茶色のコルセットベルトで締め、下には黒いジーンズの短パンを穿いた、黒ハイソックス、何よりチェーンをじゃらじゃらさせた姿はその美貌なくしても、どこでも目立つだろうけれど。
「おじゃましまーす」
あくまで軽いノリの相手に、揺唯はいつも自分が座ってるほうの座布団を手で示して勧めた。
……なぜか、白籠の座布団には誰も座らせたくないと思ったのだ。
すとん、と座った相手はなぜか懐かしげに目を細めた後、
「初めまして、
高級そうな箱を手渡しながら微笑んだ。
不思議と、不快感や不信感はなく、自然とお土産を受け取るように可鳴亜の存在を受け容れることができた。
「揺唯、です。よろしく、お願いします……」
「あっはは、硬くならないで。白籠の身内ってことは、あたしの友人ってことでもあるんだからさ」
「ゆーじん?」
「友達ってこと。家族でもいいけど」
「かぞく……」
「あはは、もっとわかんなくなっちゃったか。まあ、知り合いよりもっと仲よしってこと。友達になった記念に、ユイユイって呼んでもいい?」
「うん。じゃあ、カナカナ?」
と、揺唯が呼び返すと、可鳴亜はけたけたと笑った。
変わってなくて安心した、とかよくわからないことを呟いて。
ひとしきり笑った後、ちょっと涙目になった可鳴亜は緑茶を飲んで落ち着いた。
本題だ。
「あたしは情報屋してて、いろんな仲介業とかもしてるんだ。それで、まあ頼まれれば仕事の斡旋とかもするんだけど、別に面接官とかじゃないから。そんな構えなくていいよ。今から軽く質問していくけど、単純にユイユイがどんな仕事したいのかなーとか、どういう仕事に向いてるのかなーとか、教えてもらうためだから。何を云ったら駄目とか、そういうのはない。思ったとおりに答えてね」
それでも、真剣な表情になった可鳴亜に、揺唯も姿勢を正した。
「白籠から適性とかやりたい仕事を聞くには聞いてるけど、一応聞かせてね――」
やりたい仕事、得意なこと、不得意なこと、他者とのコミュニケーションについて、好きなこと、嫌いなこと、具体的な希望があるのか――すべて自分が思っていること、知っているだけのことを素直に答えた。
ふんふんとすべてにおいて興味深そうにメモを取った可鳴亜は、最後にこう質問した。
「これで、一応仕事としての質問は最後。揺唯は、どうして仕事がしたいの?」
これこそが一番大事な質問だ、とばかりに真剣な瞳だった。
その気迫に少し押されて、ちょっとだけ悩んだ後、やっぱり素直な気持ちを言葉にした。
「――ハクローの笑顔が欲しいから。自分の能力を活かして、誰かの役に立って、給料もらって、いっぱい食材買って料理してもらって、お腹いっぱい食べて、そんでハクローを笑顔にできたら幸せだから。誰かじゃなくて、おれがハクローを笑顔にしたいから」
鋭い、氷のように射貫く瞳が、可鳴亜を貫いた。
可鳴亜も負けずに見つめ続け、そして笑った。
「なーるほど、りょーかい、わかった。おっけー。単純に誰かのためって云ったらやめときなって止めたけど、自分のために白籠を笑顔にしたいっていうんだったら大丈夫。いーよ、仕事、見繕ってあげる」
ぱらぱら、と書類ケースから大量の資料を取り出して、
「んーと、ここ周辺だと、紹介できる仕事はこのへんかな。主な仕事先は、ユイユイが得意な修理ができる、廃品回収・修理工の
具体案を出されて、よくわからなかったけど、揺唯は頷いた。
曖昧な表情の揺唯に可鳴亜は苦笑しながら、まあそのへんは実践あるのみかなと励ました。
それからは、ただの雑談だった。
主に、白籠とこの家での生活はどうか、という話だった。
白籠のことをたくさん話せて、揺唯自身満たされた。可鳴亜もなかなか聞けないらしい白籠と揺唯の近況を聞くことができてものすごく喜んでいた。
けれど、夕方になって可鳴亜は帰ることになった。
「んー、白籠に会いたいは会いたいけど、今はまだ時期がなぁ。今日は白籠が帰ってくる前にお暇するね。よろしく伝えておいて」
「おー、ハクローに伝えとく」
「じゃ、またね。実際に職場まで連れていったりはできないけど、また経過報告は聞くからさ。ばいばい」
「……ばいばい」
ばいばい、は初めてだ。
白籠は一緒に暮らしてるから、ばいばいしたことがない。
さよならのあいさつの一つだってことは知ってる。
ただ、ばいばいは寂しかった。
ばいばいはなるべくしたくないな、と思う。白籠とは、なおさら。
可鳴亜を玄関から見送った後、お茶の片づけをしていると、白籠が買い物袋を持って帰ってきた。
なんだか胸がぎゅってなって、白籠を抱き締めた。
ただいま、を云いかけた白籠は何も云わず抱き締め返してくれた。
その日の晩ごはんは、オムライスだった。
仕事することが決まったお祝いらしい。
可鳴亜と話したことを白籠に伝えると、白籠もうれしそうだった。
白籠が笑ってるとうれしいのに、それが自分のことではないことに、少し……胸がむかむかした。
〆
「七十日目。/揺唯の覚書」
『カナカナと、初めて会った。
可鳴亜 カナリア
って書くらしい。
あて字、なんだってさ。
でも、なんかカナカナに合ってるいー名前だと思う。
名前なんて個体の識別くらいの意味しかないと思ってたけど、
なんか大事なんだなって思うようになった。
存在を認められるっていうか。
あだ名をつけるとさらに仲よしみたいだし。
カナカナに仕事を紹介してもらった。
会社の人たちと話がついたらすぐにでも働けるんだって。
ちょっと、きんちょーする。
明日、とか云わないよな?
ハクローがおめでたいからってオムライス作ってくれた。
卵がふわふわしてた。
でも、ハクローはちょっと失敗しちゃったってしょぼんとしてた。
美味いのに、なあ?
(オムライスのイラストが描かれている)』
〆
真夏の日射しが、じりじりと揺唯の白い肌を焼く。既に、ちょっぴり焼けて健康的な肌色になっていた。
揺唯は白籠が古着屋で買ってきてくれたどこかの工場で使われていたらしい未使用のまま売られた灰色の
炎天下の中、
廃品回収・修理工の研修生として、とりあえず週四程度でバイトに入るようになってはや数週間。最初は工具や部品の名称を憶えることに始まり、専門書を読ませてもらったり、実地で親方の修理を見せてもらって技を盗んだり、冷房機器の修理依頼が多くて実際ちょっと手伝ったりもした。時間があればいつも廃品回収のために荷車を引いて周辺を徘徊して、終わったら戦利品と宝の山の整理専門と化している。
ガラガチャガシャン、と山をかき分け、一つひとつ状態のいいものや使えそうな部品はないか確認していると、色が落ちて黒が灰色になっているものの比較的壊れてなさそうな箱型の機械を見つけた。
薄めな直方体に、スピーカーやアンテナがついているあたり、音が鳴る通信機器のようなものなのかな、と揺唯は予想した。
カチカチカチ、とボタンを押し込んでみるも、うんともすんともいわない。
それもそうだろう、壊れていなくても電池だとか充電するだとかのエネルギーがない。
とりあえず、使えそうな物があった、と親方に報告することにした。
仕分けて報告するのが、揺唯の仕事だった。実際、それを修理するか、そして売り物にするかは親方の判断だ。
この職場に名前はない。そもそも、会社という体も成していない。それは、この境界地にある商店街の店も含めたすべてが法を逸脱した、必要要件も資格も持たない違法業者なのだが。だから、仕事内容そのまま「廃品回収・修理工」と呼ばれている。長ったらしいので、修理屋さんという呼び方をされることが多いが。
一応のフェンスで囲まれているも不法投棄されることの多いごみ集積場、プレハブの事務所、トタンで囲んだだけの修理するための工場、コンテナ群の倉庫。
この時間なら親方は事務所にいるだろう、とプレハブ小屋へ足を向ける。
一人でこの工場を切り盛りしている雇い主は、後ろ前にしたキャップ帽にゴーグル、髭面にツナギ、という見た目の印象からか、親方と皆に呼ばれ親しまれている。無口でぶっきらぼうだけど、職人気質できっちりやり遂げるキャラクター性もそれに拍車をかけているのかもしれない。皆に倣って、揺唯もおやっさんと呼んでいる。特に拒否されないので、本人は呼び方に拘りはないようだ。
ガラガラ、と硝子戸を開ければ、ほんのり冷たい空気が揺唯の火照った身体を優しく包み込んでくれる。親方曰く、修理したクーラーという家電のお陰で涼しくなっているらしい。
「おやっさん、これ修理したら売れる?」
表情に乏しく何を云っても同じ調子で返答する親方に、揺唯はすっかりフランクに話しかけるようになった。最初のほうこそ慣れない敬語を使おうとしていたものの、親方が敬意とかマナーとかを気にせず、むしろ簡潔な会話を望んでいることを感じ取って以来、話しやすい言葉を使っている。或いは、揺唯自身が親方は寛容で優しい人物だと気づいて、心を許したからかもしれない。
「あ? そりゃあ……ラジカセじゃねぇか」
また、懐かしいモンを……、と親方は野太く低い声で呟く。
触れたり開いたり電池を入れたりして、状態を確かめた親方はぽい、とそれを投げて寄越した。
「ぉっと、おやっさん? これ何? どーすんの?」
軽いので大したことはないが、何も云わずに投げられたので驚いて問いかける。
「そりゃあ、ラジオとカセット……
ラジオ……はよくわからないが、透録帯ならわかる。いわゆる、薄い直方体に穴が二つ空いてて、中に入ったテープが記憶媒体になってる奴だ。その形をカセットって云ったりもするらしい。小さいのが録音用で、ちょっと大きいのが録画用だとか。
旧時代にあったカセット・ビデオテープやCD・DVDを元にした、懐古的な媒体だという話だけれど、揺唯にはちんぷんかんぷんだ。
「てめぇで直してみろ」
揺唯はぱぁっと瞳を輝かせた。
だって、修理を揺唯一人に任せてくれたのは初めてのことだったから。
これまでいくらか親方の修理を手伝わせてもらったことはあっても、全部一人でやったことはない。
「うん、やるやる! 任せといて」
やる気に満ちた返事をして、すぐ工場に向かっていく揺唯を、親方はやわらかな視線で見送った。
早速、外の箱を外して中を見てみた。
魔力感知する必要もないほど、単純な造りと簡単な不良だ。熱か何かで基盤のはんだが溶けてしまっているだけで、ちょちょいとはんだづけしてやればあっさり直りそうだった。他の部品は意外なほど綺麗に保たれている。
よしっ、とはんだごてを手に、揺唯は修理を開始した。
……ものの数分で作業は終了してしまった。描写も必要ないほどに。
揺唯は首を傾げる。
あまりにも簡単だったのでちゃんと直ったのかな、と不安になったのだ。
ともあれ、初の一人仕事の完成である――おやっさんに見せに行かなくっちゃ。
「おやっさん、できた!」
手渡すと、親方は何も云わず電池を二本入れて、円柱のスイッチを回し始めた。
ジジジ……、としばらく雑音が続いた。
『……の天気、は――』
「うわっ」
揺唯は急に機械が言葉を喋り始めたのに驚いて跳び上がった。
「ラジオってぇ奴だ。どうせ、んな古いモン売れやしねぇ。聴きたきゃ、ウチ帰って聴きな」
そうスイッチを元の位置に戻して音を消した後、揺唯に渡した。
ぽかん、とした後親方の云っていることを理解して、揺唯は破顔した。
「ありがと、おやっさん! 大事にする」
手が塞がっていたし、汚れていたから言葉だけで済ましたけれど、そうでなければ親方に抱きつく勢いの喜びようだった。
そのテンションの高さに、ちょっと親方は気圧されていた。
でも、うれしかったのだ。
だって、親方は揺唯の初仕事を記念に持って帰っていいと云っているのだから。
「研修生は終わりだ。明日から、ウチのモン名乗っていい」
「やった! おやっさん、まじ好き。おれ、がんばる」
一人前とまではいかずとも、研修生を卒業することになったのだった。
と、いう話を晩ごはん中ずっと白籠に話していた。
白籠はいつも、揺唯の今日の仕事の話をうれしそうに聞いてくれる。
帰って、いつもなら汗で気持ち悪いから、と作業着を脱いでざっとシャワーを浴びる揺唯が、まず白籠にリュックサックから取り出したラジカセを自慢したのだった。
ブーンと回る扇風機も、実はバイト初日に「暑いだろ」と古い型の物を修理して親方が揺唯にくれたものだった。
「お祝いに、明日はお赤飯炊きましょうね」
白籠はバイト初日にもお赤飯を炊いてくれた。これから、祝い事のたびにもしかすると炊いてくれるのかもしれない。名前のとおり赤いご飯は揺唯も好きなので、それはそれでうれしいけれど。
今日の晩は蕎麦と野菜サラダだった。
食べ終わると、すぐに二人でラジオを聴いてみた。
見よう見まねでスイッチをちょっとずつ回していくと、ピントが合うみたいに綺麗な音が聴こえ始めた。
「おー」
「ゆーちゃんが直したラジオ、すごいですね……」
ラジオというのは、放送局から番組が音声だけで流れるもの、らしい。白籠が教えてくれた。つまり、電波で音が飛ばされているのだ。境界地にも電波塔の名残はあるし、キャッチできるんだとか。
一般社会のよくわからないニュースは、つまらなかった。
もう少し回してみると、違う回線をキャッチした。
好き放題音楽を流したり、云いたい放題の番組を流している。こんなの公共の電波で流していいのだろうか、という内容に眉を顰めていると、
「海賊放送ですね」
と、白籠が呟いた。
「海賊ぅ? 海もないのに、この辺」
「ふふ、勝手にどこかの回線をジャックしてるんです。境界地から境界地だけに流してるので、とりあえず政府は取り締まってないみたいですけど」
境界地や政府不介入地域では、こういった民間の違法放送はありがちなことなのだと白籠は教えてくれた。
一般のまっとうな放送よりは、よほど境界地の現状を赤裸々に罵詈雑言として叫び、下手くそで騒音みたいだけど魂の叫びみたいな等身大のインディーズ音楽が流れる海賊放送のほうが聴いていて楽しいかな、と思った。
天気や魔力濃度予報みたいな役立つ情報もあるしたまに聴いてもいい、程度の気持ちに落ち着いてきた揺唯とは反対に、白籠はラジオにぞっこんみたいだった。揺唯が直したラジオ、というのが何より使う原動力なのだろうが、それと同時に何か思い出に浸るみたいにしっとりとした音楽を流し出した夜の放送に耳を澄ませている白籠だった。
揺唯の直したもので、白籠が喜び、たくさん使ってくれるのは幸せだ。
ずっと、白籠のそんな姿を見ていたいくらい。
〆
「百日目。/揺唯の覚書」
『ラジオを修理した!
おやっさんが、おれのこと認めてくれた。
ハクローは、ラジオ とっても喜んでた。
んー、ラジオはそんなにおもしろいもんじゃなかったけど、
ハクローが楽しそうに聴いてるから、まぁいいかな?
みんなに捨てられて、ごみになっても、
こうやって生き返る。
思い返すと、ごみみたいに道端に転げ落ちてたおれをハクローが拾ってくれたから、
おれは生きてるんだよな。
なんか、そんなことを思った。
(ラジオの精巧なイラストが描かれている、仕事の内容のメモも)』
〆
今日は、待ちに待った日だった。
揺唯は暑さも忘れて全速力で帰路を走る。
公園より向こう側にある工場からは、ゆっくり歩いて二十分、揺唯の足で走れば十数分という距離がある。
木造の家、廃屋、自然溢れる空き地、寂れた公園、あいさつしてくれる近所の人、横切る野良猫、今日はそのどれもを軽く通り過ぎてアパートの二階まで直行した。
あまりの速さで白籠がドアを開ける間もなく、揺唯は部屋に飛び入った。
「ハクロー、これ!」
握り締めてくしゃくしゃになった、薄茶色の封筒を掲げる。
白籠は勢いに目をまるくしながら、封筒と揺唯を交互に見つめていた。
「給料、おやっさんにもらった! ハクローにあげる‼」
と、封筒ごと全部白籠に押しつける。
落ちないように受け取った白籠はとりあえず卓袱台の上に中身を出してくれた。
千円札が何枚かと、小銭がじゃらじゃら。
お遣いに行ってるし、白籠の授業で習ったから、どれが何円札で何円玉かは判る。
ただ、これが高いのか安いのかは判断がつかない。
握り締めた封筒の重たさが小銭だったことに気づくと、少し拍子抜けな感もあるけれど。
ともあれ、記念すべき初めてのお給料である。
「ハクローに全部あげる」
にこにこと、しっぽがあれば激しく振っていそうな笑顔で揺唯は告げる。
白籠はふにゃっと笑うと、
「ありがとうございます。……でも、ゆーちゃんが一生懸命働いて稼いだお金は、全部ゆーちゃんのために使っていいんですよ。買いたい物でも、やりたいことでも」
そっと封筒に入れて返された。
白籠らしい言葉に、じゃあと彼人の手を取る。
「買い物、行こ! いっぱい食材買って、ハクローにたくさん美味しいもの作ってほしい!」
今日はもう仕事がないから、と早帰りだったので、白籠も買い物はまだみたいだ。
ちょうどいい。
一緒に買い物に行って、たくさん買えばいいんだ。
「……わかりました。じゃあ、ゆーちゃんは何が食べたいですか?」
買い物の支度を始めた白籠の問いに、うーんと唸ってから、
「おにぎり!」
と、答えると白籠に笑われた。
初めて食べた日から、ずっとおにぎりの美味しさは忘れられない。
「じゃあ、たくさんおにぎりの具を買いましょうか」
うん、と頷く。家を出ようとした瞬間、ふと白籠に袖を引かれた。
「おかえりなさい、お疲れさまでした」
あ、と思った。
つい浮かれて約束事を忘れていた。
「ただいま、ハクロー!」
今から出かけるのに、帰ってきたと実感した。
仕事も好きだし、商店街で買い物するのも楽しいけど、家が、白籠の居る場所が一番だ。
明太子・高菜・昆布・ツナマヨ・お惣菜の唐揚げ・鮭・漬け物……と、いろんな具のおにぎりパーティーになった。けど、結局海苔を巻いただけの塩むすびが一番美味しい、と思った。
白籠は揺唯が今日した仕事の話を聞いて、うれしそうに微笑んでいる。
修理したクーラーのこと、おやっさんの昼はいつもかったいパンのサンドイッチなこと、廃品回収で荷車を引いていたら老人に声をかけられて麦茶をごちそうになったこと、この前宝の山で見つけて磨いた変な置物が高く買ってもらえたこと……。
尽きない話に、静かに耳を傾け、時に相づちを打ってくれる。
何より、美味しくてむしゃむしゃと頬を膨らませながらおにぎりを食べ進める揺唯を、心底幸せそうな微笑みで見つめてくれている。
――その笑顔が、たまらなくかわいい。
おれがハクローを笑顔にした。
だれにもやんない。
〆
「百十七日目。/揺唯の覚書」
『初めての 給料日。
おれが仕事して、自分の力でお金をもらった。
それで、いっぱいおにぎりの具を買った。
おにぎりパーティー!
ハクローの欲しい物とか買いたかったけど、
ハクローはおれのために使ってほしいっていった。
おれがいっぱい食べて幸せそうな顔してるのが好きなんだって。
おれは、そんなおれを見てたまらなく幸せそうな笑顔になるハクローがすき。
おれの力でハクローを笑顔にできた。
……ちょっとは、ハクローの負担減らせたかな?
ハクローの笑顔を自分だけのものにしたいって思うのは、
おかしい?
(たくさんのおにぎりとその具のイラスト、仕事内容のメモ)』
〆
夏の暑さは鳴りを潜め、揺唯が修理屋として一人前と認められ他のバイトも兼任するようになり、どこもそれなりに慣れ始めた頃の話だ。
配達や清掃、工事現場、工場ライン作業など、どのバイトに行っても物覚えがよく器用な揺唯は単純作業をすぐにこなせるようになり、派遣バイトとして重宝されるようになった。
職場によっては気性の荒い人やバイトに冷たくしてくる人もいるが、おおよそ甘え上手で子どもっぽい揺唯は皆に友好的に受け容れられた。多く、人気者である。
ただ云われたとおりの仕事をこなしているだけなのに皆褒めてくれるし、休憩時間は楽しくお喋りしたり、お菓子をくれたりする。
今日は工場ラインで検査とかシール貼りの仕事だった。
動体視力もいい揺唯は、ぱっと見ですぐ良し悪しを判断でき、さっさとシールを貼る。
かなり年上の人が多い中、仕事も早いし、力仕事も手伝ってくれて
自分でも上手くいったと思ったし、褒められてご満悦な揺唯は、昼ごはんの時間になってさらにテンションが上がった。何せ、白籠の作ってくれたお弁当が食べられるのだ!
青い波の柄が入った、YUIと白籠が刺繍してくれた風呂敷に大容量の弁当箱が入っている。銀色の柄もない弁当箱は、ゴミ山の中から掬い上げて揺唯自身が綺麗にしたものだ。紺色のゴムをするっと外して、蓋を開ける。
白いご飯に、煮物、焼き魚、漬け物、野菜炒めがぎゅうぎゅうと詰まっている。チャームポイントはご飯の上にちょこんとのった梅干しだ。
口にはしないものの、美味そー、と内心よだれだらだらだ。
そろいではない、木目柄の箸箱から薄れて判別のつかないキャラものの木製箸を取り出して、
「いただきます!」
と、律儀に手を合わせる。
それがまるでこの工場での合掌の合図みたいに、休憩所にいた皆も合掌して食べ始める。揺唯が来てから始まった習慣だ。揺唯がバイトに来ない日でも、工場長や年長者の誰かが合掌の合図をするらしい。
会話にも交ざらず一心不乱に弁当を食べていると、同じチームの一人が声をかけてくる。
「おーおー、今日も茶色い弁当だな」
確かに、色鮮やかな弁当とは云い難いかもしれないが、ものすごく美味しいのだ。嫌みかと思って眉を顰めた。
「いやぁ、懐かしい。古風だが、逑に愛されてるんだなぁ。羨ましいこった」
どうやら羨ましがられているらしい、と知ってほっとする。
他の皆もイマドキにしては珍しい古風ですてきな逑さんなのね、と好評だ。
白籠が褒められるのは素直にうれしい。
でも、横から伸びてきた箸はひょいと避けた。
「でも、弁当はひとつもやんないっ」
むくれて、かき込んだ。
あっはっは、って皆が笑ってた。
本当に逑のこと愛してるんだな。いいことだ。逑は大事にしろよ。
――云われなくたって、ハクローのことは一番大事にしてる。
ただ、皆の云う逑って言葉が揺唯にはちっともわからなかった。
だから、ふと寝る前にそのことを思い出して、
「ねー、ハクロー。つれあい、って何?」
と、訊ねた。すると、白籠はどこか困ったように、
「それは……一緒に暮らしてる人、ですかね」
って答えた。白籠にもよくわからないことはあるのかもしれない。
深く追及することなく、揺唯はそれならハクローは逑だなって納得していた。
眠る前、いつもの寝物語の後に、「おやすみなさい、いい夢を」とこれまたいつものように額にキスされる――はずだった。ちょっと揺唯が身じろぎしてしまったせいか、狙いが外れて唇の近くの頬にちょこん、と白籠の薄くて柔らかい唇があたった。
白籠はちょっと動揺して頬を染めていたけど、揺唯を起こさないようにとそれ以上何も云わなかった。
対して、揺唯はそのまま目を瞑ったものの、なんだかドキドキしていた。
額にキスされるのは、儀式めいたいつものことだ。なのに、ちょっと違う場所にあたっただけで、明確な感触を得て白籠をより近くに感じてしまった。
手を繋いだり、抱き締めたり、触れ合うことは好きだ。
……けれど、白籠の唇にもう一度触れたい、と思ったのは――そんな純粋な好きとは違う、妖しい何かのように思えた。
〆
「百五十六日目。/揺唯の覚書」
『弁当が茶色一色だって、美味しければ一緒じゃね?
ハクローの作ってくれるごはんはいつもおいしー。
つれあい?に、愛されてるって皆にいわれた。
つれあいのこと大事にしてるんだな、って。
つれあい、ってなんだろ。
ハクローは一緒に暮らしてる人のことじゃないかっていってた。
ハクローがいうならそうなのかな。
夜、寝る前のおまじないで、
おれがちょっと動いちゃったからハクローのくちびるがおでこじゃなくて
ほっぺたにあたった。
やわらかくて、きもちよかった。
なんか、ドキドキする。
ハクローのくちびるにもう一度ふれてみたい。
へんなの、なんだろこの気持ち。
ハクローのくちびるがふにふにして気持ちいいからかな?
でも、なんか……いつもとちょっとちがう気がする。
ハクローは、ふれたいっていったら、ゆるしてくれる?
(お弁当のイラストと今日の仕事メモ)』
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