壱/拾われた日。



 ぽたりぽたり、と拡がり消えていく波。

 雫が落ちては広い海の一部になっていく。

 それはどこから来たのだろう?

 それはどこへ行ってしまったのだろう?

 天の恵みか、瞳から降る温かい雫かはわからなかった。

 ……揺れる水面が海ではなくただの水溜まりだと気づいたように、寒気や地べたに座った感覚でようやくこれが夢ではなく現実なのだと思い知らされた。

 目が覚めた、とも思わなかった。眠っていた、とも知らなかったからだ。すべては曖昧で、何もかもがぼんやりとしていて、水面に映る顔が自分だということに気づくのさえ随分かかった。

 灰色がかった水色の髪は雑に肩までかかっていて、猫のような目に藍白あいじろの瞳が無垢に泡立っている。薄っぺらな黒い服はべちゃべちゃに肌に張りつき、どこからともなく聞こえる水音は雨上がりの軒先だとかから滴り落ちる雨雫あめしずくの音なのだろう。

 息を吸うすう吐くはあ……。

 呼吸とともに上下する胸許だとか、開いた青白い唇だとかに、これは自分だと思った。

 ――これは、おれだ。……ゆい。そう、揺唯ゆいだ。

 朧げな記憶の中で、確かな自分がここに在った。

 揺唯は鮮明になってきた視界で、ようやく顔を上げた。


 ――光だ。


 一見してすぐ判る路地裏の闇の中に佇む、一輪の光。そんな白く発光している存在だけが、網膜に焼きついた。

 単に雨上がりの日射しが白い肌と白い着物を着た彼人かのとを眩しく照らしていたのか、それとも本人が魔力光を発していたのか、或いは単なる幻視なのかは判らない。

 ただ、声も出せずに見惚れていた。

 墨色の髪は黒い三角巾に覆われてほとんど見えず、白い肌は傷だらけで包帯や絆創膏に隠されていて、何よりも美しい宝石のような碧の瞳は左目しか見えなくて、右目は白いガーゼに秘匿されていた。

 不思議には思わなかった。ただ、残念だと。

 だって、こんなにも綺麗なものを初めて見たのに、それが傷つき隠されてるなんてもったいない。

 そっと、手を差し伸べられた。

 骨張った、細っこい手だ。

 まるで、白百合のように握っただけで簡単に手折れてしまいそうな。

 彼人の美しい顔ばかりを見ていて、反応が遅れた。

 しばらく、この手の意味を考えた。

 ぶたれるでも、武器を出されるでもなく、柔らかく差し出された、手。

 自分はというと、路地裏のダンボールにでも捨てられていそうな薄汚い捨て猫だ。新しい飼い主が現れなければ、すぐにでも野垂れ死んでしまいそうな。

 差し伸べられた手に縋るしかないような、気がした。

 或いは、掴んで決して離してはいけないと思った。

 曖昧模糊とした記憶の中で、この辺が治安の悪い路地裏だということも、寒くて凍え死にそうだってことも、いつか誰かに記憶喪失にも幾つかパターンがあって……という話を聞いたことがあるのも憶えていたから、たとえ最近のことや自分が何をして生きていたのかを思い出せなくても、自分が今誰かのたすけを必要としているんだってことは、判別がついた。

 彼人は寒いからか震える唇で、言葉を発した。

「……うちに、来ますか? 何もない家ですけれど、きっとここよりはあたたかい」

 頷いて、手を取った。

 お互い冷えきった身体なのに、触れた手はあったかく感じた。


――それが、出逢い。拾われた日。



       ……



 カン、カン……と、濡れて滑りそうな錆びた金属の階段を上っていくと、203とかろうじて読める部屋のドアの前で彼人は立ち止まった。鍵を取り出すためか、繋いでいた手は離された。

 ……ちょっと、残念。

 一言で云うなら、おんぼろのアパートメント。

 彼人が鍵を開錠して開け放った扉の向こうにあったのも、台所と畳の一室しかないちっぽけな部屋だった。少し埃っぽくて、冷たい空気が流れていて……なんだかこの人の住んでいる場所っぽくはないな、と感じた。でも、そもそもこの辺りに何も事情のない人間が住んでたりしないよな、というなんとなくの実感があった。追及するべきことでもない。

 揺唯が玄関につっ立っているうちに、彼人は部屋の左の窓を開け放って、玄関入ってすぐ右にある扉に入っていった。何をしてるのか、なんて考えることもなく、ただ雨上がりの湿った風に身を任せていた。

 変に知識や手続き記憶はあるのに、エピソード記憶は曖昧っていうぐちゃぐちゃで意味のわからない状態ながら、いっそ頭はクリアだった。

 信じられるのは、自分と彼人だけ。

 なぜあの人を信じられるのかと訊かれたら、答えられない。答えなんてない。

 ただ、あの華奢な体躯にしては低めの、穏やかな声が揺唯に安心感を与えてくれるのだ。

 気づくとすぐ傍にいた彼人が、玄関での靴の脱ぎ方、置き方を教えてくれた。そして、右の扉に連れられると、そこが脱衣所と風呂場だということが即刻判明した。こんな狭い部屋である。確かに、考えるまでもなくあるとすれば後は洗面所・浴室くらいのものだろう。

 そして、揺唯が何か声を発する間もなく、彼人は揺唯の服を脱がし、風呂やシャワーの使い方を説明しながらシャンプー・リンス、固形石鹸で身体まで隈なく洗ってくれたのだった。

 彼人自身は、着物の下着みたいな――襦袢と呼ばれる薄着で、三角巾をしたまま、揺唯のやや硬質で跳ねやすい髪を丁寧にマッサージするように洗ってくれた。何も憶えていないのに、感覚的にこうして頭を洗ってもらうのは初めてだと思った。頭皮を洗う繊細な手触りが優しくて、心地よかった。泡立てたタオルで全身あわあわにしてもらった。それもすごく気持ちよかった。

 ……別に、記憶がなくても子どもではないし、日常動作は覚えていたから、一人で入浴もできたのだけれど。誰かに自分ですることをやってもらう、っていう心地よさに抗えなかった。

 あとは、お風呂にゆっくり浸かった。

 出る前に百数えるように教わった。声に出して数えていると、彼人は微笑んでいた。

 なぜか、きっちり百数えて風呂を上がっただけで褒められて、頭を撫でられた。

 その延長線上で、タオルでもふもふと拭かれる。

 揺唯はもうされるがままだった。

 偶然にも、揺唯にサイズのちょうどいいスウェットを着せられたことも、気にしないことにした。

 部屋の真ん中にどんと構えた卓袱台、右側に押し入れ、台所には小さなシンクと二口ガスコンロ、シンク下収納と窓を挟んで上に吊戸棚、冷蔵庫、振り向いて備えつけの食器棚は抽斗ひきだし式の天板を出せてカウンターにできる代物だ。

 ほとんど興味湧かなくて中身は見てないけど、物の位置は把握した。ざっと見た感じで、押し入れの中にある布団だとか、下の段に入ってた箪笥の何段目に揺唯の必要な服が入ってるかは記憶できた。むしろ、彼人の家だというのになぜかじっくり見てることをそろそろつっこみたくなるレベルだった。

 卓袱台を挟んで対面に、彼人は座布団を敷いた。ぽんぽん、とここに座って待っててほしい旨を手の動作で伝えられた。

 ぺらぺらの座布団でも、一度座ってしまうと立ち上がれなかった。今まで何をしていたかも判らないけれど、なんだか疲れていた。半ば、夢見心地でうとうとしていた。

 ……すると、気がつけば布団はベランダに干してあって、目の前には湯気を立てたカップ麺が置いてあった。

 意識が飛べば、人は時間旅行ができるらしい。或いは、妖精に記憶も夢も持っていかれたか。

 なんて、幻想的ファンタジック童話的メルヘンな思考回路は、果たしてどこから来たのだろう?

 疑問はすぐに、三分経って開け放たれたカップ麺の蓋と、そこから出る真っ白な湯気、そして濃いだしの香りに遮られた。

「……ごめんなさい、お昼はカップ麺くらいしかなくって」

 申し訳なさそうに謝罪されるも、空腹は最大のスパイスだ。

 たとえ、お湯を注ぐだけの即席麺だろうと、クソみたいな味の保存食だろうと、今ならなんでも美味しく食べられる気がした。

 ぐう、とちょうどお腹も鳴ったことだし。

 ずるずるとラーメンを啜って一瞬で食べ終えた。

 物足りなさを感じていたところ、すっともうひとつも差し出された。

 どうやら、両方揺唯の分だったらしい。

 半分くらいまで勢いよく啜ってから、ふと相手を見遣った。

 ――いる?

 そういう視線だ。

 声なくもたらされた問いかけに、彼人は緩く首を振った。

 お腹が空いていないということなのか、揺唯が食べればそれでいいという意味なのかは判らなかった。

 食後、二人でゆったりと緑茶を飲んだ。

 ようやく落ち着いてきたけれど、何を、何から口にすればいいかわからなかった。

 自分のことさえ曖昧な揺唯は、云う言葉すら見つけられない。或いは……、元々他人とコミュニケーションなんてあまり取ってこなかったのかもしれない。

 ふぅふぅ、と小さな口でちょっとずつお茶を飲んでいた彼人と、ふと目が合った。

 何か言葉を発そうとしては思いつかず口をぱくぱくしている揺唯を見て、ようやく何か思いあたったように湯飲みを置いた。

「……自己紹介もまだでしたね。わたしは、白籠はくろうです。夢杙・・・白籠」

 空気を多く含んだ低い声、けれど凛とした涼やかな――雑音ノイズ。名字は上手く聞き取れなかったけど、名前はおそらく判った。

「ハクロー、な。……おれは、ユイ。揺唯」

 白籠は台所の戸棚の抽斗から、ノートと鉛筆を持ってきた。どちらも真新しい。

 鉛筆を削らなきゃ使えないと気づいた彼人は少し慌てた後、濡れたままの自分の鞄からペンを取り出した。どこにでもあるような、大容量パックで買えそうな黒色のボールペンだ。

『夢杙白籠』

 ちょっと文字同士が繋がっている、柔らかで跳ねるような、癖があるけど綺麗な字。正に白籠の字っていう印象。

(へえ、ハクローってこう書くんだ)

「わたしの名前です」

 ペンを差し出される。云われずとも意図は解った。

『揺唯』

 自分の名前を書いた。

 同じペンで書いたのに、濃く太い文字。たどたどしく書かれた漢字にしかし、

「すてきな名前ですね」

 と白籠は微笑んだ。春の木漏日みたいな、やわらかな笑顔に包まれた。

 声も落ち着いているけど、顔も柔和で見ていると自分自身も穏やかになれそうだった。

 深緑のような瞳に、搦め捕られる。視線も、心も。

「そ? おれ、名前の意味もよくわかんねーけど」

 名前も、漢字の意味もよくわからない。

 記憶がないからではなく、そもそも漢字はあまり得意ではないし。

「えぇと、揺れる……に、唯一の唯」

れる ゆい 揺蕩たゆたう…ゆらゆら揺れ動くこと』

 ご丁寧に振り仮名まで振られた漢字。

「名づけられた方の意図は存じ上げませんが、唯一の存在で、揺れる……揺蕩うやわらかな波のような雰囲気がすてきな名前だな、って思います」

 揺唯は名前だ。名前は、自分を表す唯一だ。絶対のものだ。意味は解らなくても、大事なものだった。そこに、白籠が意味を見出してくれるなら、きっともっとすてきになった瞬間だったのだと思う。

 ノートの一頁目が大きく書かれた名前やその意味で埋まってきたころ、次の頁に白籠はこの家での約束事を書き始めた。声にしながら。

『おやくそく

 一.約束やくそくまもること。

 二.あいさつをすること。「おはよう。おやすみ。いただきます。……」

 三.わからないことはなんでもきくこと。

 四.からだやこころの調子ちょうしがわるいときはきちんとつたえること。

 五.自分じぶん大事だいじにすること。』

「揺唯さ……。えっと、ゆーちゃんって呼んでもいいですか?」

 なんだか子どもっぽい響きだったけど、初めてのあだ名がうれしくて「いーよ」って答えた。

「ゆーちゃんを縛りつけたくないですし、自由に過ごしてほしいんですが……。でも、まだ生活に慣れてないゆーちゃんが外に出るのは心配なので、しばらくはおうちにいてもらってもいいですか?」

 来たばっかりだけど白籠のいる家は安心するし、なんだか疲れている気もするし、外を安全だとも思えなかったから、しばらくはいいかなと思った。

「うん」

 素直に頷いた。白籠はどこかほっとした表情で、

「……よかった。じゃあ、また外に出るようになったら、外出時のお約束を改めて決めますね」

 と告げた。

 ルールって面倒だな、って思う。

 でも、白籠と二人だけの約束事だと思えば、なんだか秘密めいていて悪くなかった。

「云いたいこととか、やりたいこととか、嫌なこと、なんでも云ってくださいね? ここはわたしだけじゃなくて、ゆーちゃんのおうちでもあるんです。自由に、好きに過ごしていいんですから」

 心配そうな声音に相づちを打っている間にも、意識は浮遊していた。

 お腹いっぱい食べて、食後の魔力変換に魔力を持っていかれているからだろうか。それとも、ずぶ濡れになっていたことだし、疲労が溜まっていたのかもしれない。或いは、何もかもが曖昧な中での新しい生活に緊張でもしていたのか。

 揺唯はすっかり夢も見ない深い眠りの中、だった。



       ……



 ……いいにおいがする。

 ソースと、あと嗅ぎ慣れない美味しそうなにおい。

 ふわふわとしたものに包まれて、日溜まりの中みたいだった。

 ここは大丈夫、安心していいよ。

 そう、云われてるみたいだ。

 いつも、どこにいても、何をしていても、ほんとに安心できる場所なんてなかった気がする。

 それでも、あの……音が。声、が。すると、安心?できて……。

 一日中、微睡まどろむような日だったので、いっそ瞼を開けた瞬間こそが夢みたいだった。

 ふかふかの布団の中にいて、起きた瞬間には美味しそうなにおいのする晩ごはんが並んでいる。何より、白籠が「目が覚めましたか?」って優しい瞳で覗き込んでくれるのだ。

「うん。いーにおいがする!」

「ふふ、焼きそばのソースのにおいですかね。お昼と代わり映えしなくて申し訳ないんですけど、明日はちゃんと買い物に行って料理を作るので……」

 布団をちょっと折り畳んでよけると、卓袱台の上にカップ焼きそばが置かれた。安っぽいけど、香ばしいにおいだ。

 ……ジャンクなのは辟易としていた気がするけれど、白籠と食べるごはんは別だ。

 白籠は麺を啜るのが下手くそだった。ちゅるちゅるとがんばってみたものの、数センチも上手くいかず、結局箸で引き上げていた。

「あの、料理ってほどでもないんですけど、これもよかったら」

 やっぱり、カップ麺ひとつじゃお腹の空く揺唯に、白籠は白い米の塊ののった皿を出してきた。

 なにこれ?

 まじまじと見ていると、

「おにぎりです。お米をこう、握って固めて……」

 細い手がお山の形をつくる。

「ふーん?」

 あまり得心のいっていない声で、とりあえず一口ぱくり

「! ふー、ふっっめぇ!」

 めちゃくちゃ、うまい!

「……ただの塩むすびなんですけどね」

 揺唯の喜びように、むしろ白籠が若干引いていた。

 でも、本当に美味しいのだ。

 あったかい、ご飯がぎゅうぎゅうになってて、ただの塩味なのに旨味が凝縮されたみたいな。

 何より、白籠が自分のために作ってくれたってことがあったかかったんだと思う。

 誰かに、自分のためだけに料理を作ってもらったことなんて、ない気がする。

 ずっと、求めてた。

 飢えてた。

 埋まらない穴があった。

 それが、この山みたないおにぎりの形だった、とは云わない。

 けど、揺唯はここに求めるただ一つがあると思った。

 それがなんなのか、今はまだわからないけれど……。

 昼に風呂は入ったから、歯磨きをして寝るだけだった。

 青色の歯ブラシでしゃこしゃこした後、チェックと仕上げをしてもらった。褒めてもらった。

 布団を二つ敷いて、二人で横になる。

 夕方に眠ったからか、なんだか眠れなかった。

 白籠に頭を撫でられながら、小さなうたを聴いていた。

 白籠の口許から零れるそれは、なぜか子守唄だとっていた。

 気づけば、深い眠りへと誘われていた。

 曖昧な夜闇の中で、白籠が額に口づけて「おやすみなさい、いい夢を」と告げた気がする。

 そんな、始まりの日。



       〆



「いちにちめ。/揺唯の覚書」


『きょう、ハクローにひろわれた。

 ハクローのつくってくれた おにぎり すっげぇうまい。

 ハクローはこのいえで じゆう にしていいっていってた。

 ハクローとおれのおうちなんだって。

 (おにぎりらしきイラスト)』

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