くうくう、ねむる、しろゆめのこい。
裄なかば
「逃避生活」
零/逃非生活
とんとんとん、とリズムよく刻まれる音、洗濯機が回る機械音、味噌汁のにおい、目を閉じていても判る日射しの眩しさ、いつもどおりの、朝。
瞼を開けると、六畳一間の一部屋に一組だけの布団。
そこまで毎朝の仕事を終えてから、ようやく障子に隔たれていた台所を覗くと、白い割烹着に黒い三角巾というちぐはぐな恰好の後ろ姿が見えた。割烹着の隙間から春らしい薄紅色の着物が覗いていて、古式ゆかしいとでも云うべきか懐かしさや安心感を覚える。と、同時に神聖な神々しさすら感じるのは、すり硝子越しの穏やかな日射しに照らされた彼人が煌めいて見えるからだろうか。
「……おはよ、ハクロー」
寝ぼけ眼をこすりながらあいさつすると、その背中は舞うようにふわりと振り返った。
「おはようございます、ゆーちゃん」
お玉を片手に微笑み、丁寧なあいさつを返してくれる
(おれのすきな、ハクロー)
毎朝、毎日見ているその顔に今日もきっと惚れ直している。
見つめていると、だんだん白籠は頬を染めて、味噌汁が沸騰しかける音でふと我に返ってそっぽを向いた。
かわいい。
あんまり意地悪すると可哀そうだし、せっかくの朝ごはんを焦がしてしまったら本人も落ち込むし、自身もちょっと哀しい。
すぐ隣の洗面所で顔を洗い、口をゆすいでから、できた朝食を運ぶのを手伝った。
朝露に濡れるみたいにきらきらした白米を大きな茶碗に大盛り、並の茶碗にそこそこついだ。空と海の境界を描いた、同じ柄の茶碗だ。
最後に白籠がお盆で急須と湯飲みを持ってきて、温かな緑茶を入れてくれる。湯飲みのセットは、すべてに一輪ずつ白百合が凛と咲いている。
「お待たせしました。ゆーちゃん、運んでくれてありがとう」
白籠は毎朝のことなのに、いつも感謝してくれる。手伝う……というより、一緒に家事をすることなんて当然のことなのに、そう考えずに有難く思ってくれてるみたいだ。
……それを、白籠の律義さと捉えて真面目だなぁと苦笑すべきか、家事は家にいる人間がやるべきだとかいう旧時代の遺物的な考えが未だに蔓延っているのかと哀しむべきか、わからない。
けれど、
何かって、何を?
「どうぞ」
湯気を立てた湯飲みを右手側にそっと置かれた。こういうとき、白籠は慎重だ。繊細な動作が不得意だから。
はっと顔を上げた。
ぼうっとしていた。白籠は気づいているのかいないのか、いつもの微笑みを湛えてこちらを見ている。幸せで仕方がない、ってそういう笑みだ。
「いただきます!」
「いただきます」
合掌すると、合わせて白籠もいただきますする。
今日の朝ごはんは、ご飯に大根の味噌汁、卵焼きと納豆、漬け物だ。
白籠の前には卵焼きがない。朝はあんまり食べられないのだ、と前云っていた。質素に思われるかもしれないけれど、これでも豪華な朝ごはんだった。
裕福、ではない。
このおんぼろアパートの一部屋にぎゅうぎゅう詰めになって二人で暮らしている。
もっと稼げるようになったらって思うけれど、この生活が嫌なわけじゃない。狭いほうが近くにいられるし、お互いに贅沢な暮らしは求めていなかった。
ただ、ちょっとは白籠に楽をさせてやりたいとは思うのだ。
むしゃむしゃ、いっそ貪るように食べ進める。行儀がいいとは決して云えないそれを、しかし白籠は微笑んで眺めている。毎朝、白籠が料理を作ってる後ろ姿を見て幸せを感じるように、白籠はたくさんごはんを食べて幸せそうにしてるところを見るのが幸せなのだと云っていた。
しょっぱい、好みの味の卵焼き。さっぱりしたいくらでも飲めそうな味噌汁。ふんわりした白米。どれをとったって、自分のためだって判る。
――ハクローの好きって、おれの好きとか幸せばっかだ。
どうしようもなく、むずむずした。
もごもごした口内を流してしまうように、お茶を一気に飲み干した。
「ごっそさん!」
「お粗末さまでした」
口が小さく、お箸で不器用にちょっとずつ食べる白籠は、あからさまに量が少ないのに食べ終わるのは遅くてまだもぐもぐしている。
おそまつなもんなんかじゃちっともない、って反論した日が懐かしい。ありがとうに対するどういたしましてみたいなものだから別に卑下しているわけじゃないんですよ、と苦笑されたのだった。
あいさつや応える言葉の定形って大事だ、って白籠は云う。なんて云って声をかけたり、応答すればいいのかわからなくなるから。
でも、言葉だけで意味を伴わないあいさつなら、それって無意味なんじゃないかなって思ったんだ。白籠は少し悩んでから、仮にいつも言葉に感情や意味が伴ってなくても、云うことに意味があることだってあるんだと思います、だって。よくわかんなかったけど、今は少しだけ解る気がする。いつもかつも、ごちそうさまの中に作ってくれてありがとうとか、美味しかったとか、いろんな意味を込めていられるわけじゃない。朝寝坊してごはんをかき込む日だってあるし、そんなとき言葉を口にしてもたぶん気持ちはそこまで籠ってない。でも、そう云って白籠が返してくれて、どんなときだってあいさつを欠かさないこととか、できるときにそういう感謝を思い出すこととかそういうのが大事なんじゃないかなって。
歯磨きしたり、作業着に着替えたりしている間に、白籠は食べ終えて茶碗を洗っている。……ずっと、そんな後ろ姿を眺めていたくなる。そして、できれば抱き締めたい。
――どうして、こんなに好きなんだろう?
白籠にずっと家事しててほしいとか、美味しい料理を作ってくれてるから好きだとか、そういうわけじゃない。けど、好きなのだ。この姿が。
朝日や夕日に照らされながら、台所に立つ白籠。その姿は、日常の、そう――幸福の形そのものみたいだって感じる。
愛おしくて、あたたかくて、でもどこか寂しくて、ぎゅっとしたくなる。
懐かしい原風景なんて、どこにもない。
なのに、ここがそうだって思うんだ。
何よりなくせないものなのだ、と痛感する。
この寂しさや切なさは、その痛みなのだ。
白籠はきゅ、と蛇口を締めるとどこかの会社の名前が入った白いタオルで手を拭いた。シンク下戸棚の
「……ゆーちゃん? ぁ、お弁当」
視線を勘違いして、白籠は調理台の上に置かれた水色の弁当風呂敷を手に取って渡してくれる。青い波の柄がついた風呂敷も、白籠が布から手縫いしてくれたものだ。
「ありがと。今日のおべんと、何?」
「内緒です。お昼の、お楽しみ」
悪戯っぽく微笑む白籠はどことなく妖艶で、爽やかな朝にはちょっと見せられない。リュックサックに弁当を入れるのもそこそこに、隠すみたいに口づけた。
「いってきます」
「いってらっしゃい――待ってますね、
白籠なりの基準でころころと呼び方が変わるけれど、一番名前を呼び捨てされるときがドキドキする。子どもを見守るお母さんみたいな白籠じゃなくて、対等な関係の恋人の白籠になるからかな……。
いってきます、のちゅーをしてから仕事に行くのは約束事の一つ、みたいなものだ。
揺唯は小躍りするように玄関を出て、アパートの階段を駆け下りていく。
一度だけ、振り返った。
白籠は見えなくなるまで手を振ってくれている。
大きく振り返してから、走りだした。
桜の舞う、始まりの季節。
寒い山々の谷間にある街には山や平地に遅れて春がやってくる。それでも、踏みしめれば底に落ちて溺れそうなほどに花びらの海が満潮だ。木々は桜餅のように、薄紅と黄緑が仲よく並んでいて和やかな色彩を湛えている。
咲き誇る花のような笑顔に見送られながら、揺唯はこんな日々が訪れるなんて思ってなかったな、とほんの一年くらい前を懐古する。
あの日は、桜が降るみたいに、雨が舞っていたんだっけ。
まばたきの間、瞼の裏には焼きついて離れない、光がある。
――これは、
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