第73話 幕間11(麻布針一)
彼の人生は割と順調だった。
勉強もそこそこ出来て、スポーツもそれなりに出来た。
学生時代に伴侶となる人物に出会い、真剣に交際して大学卒業と同時に結婚した。
子供は計画的に作り、生活が安定して来た20代後半30歳目前で長女を、それから二年後に長男を授かった。
仕事先も大手総合商社で潰れる心配も少なく、順風満帆と言って差し支えない人生だ。
これまでの人生で挫折らしいものといえば、大学時代に探索者になり、10階20階で得たスキルが裁縫と複写という生産職用のものだった。魔法が使いたかった麻布としてはとてもショックで、そのまま探索者を辞めてしまう。
それも、何年も経った頃には笑い話になり、スキルで得た裁縫は趣味になっていた。それに、魔法への憧れは消えたわけではなく、魔法陣を独自に研究も始めていた。
そんな順調な麻布に転機が訪れたのは、突然の別れからだった。
事故だった。
妻が信号待ちしていると、暴走した車が歩道に乗り上げて犠牲になったのだ。
まだ幼稚園に入園したばかりの娘と、言葉を喋れるようになったばかりの息子を残して妻がこの世を去った。
突然の訃報に呆然とする麻布だが、娘と息子の泣き声でようやく正気に戻った。
そうだ。妻が残してくれたこの子達のために頑張らないと……。
麻布がまずしたのは、転職だった。
勤めている商社では、鉄鉱石やダンジョンから出た資源を取り扱っており業績も安定していた。社員への福利厚生も充実しており、文句などあるはずもなかった。
それでも、子供達と過ごす時間が欲しくて転職を決断したのだ。
子供達に寂しい思いをさせないために、勤務時間の短い仕事を選択する。妻に掛けていた生命保険と相手方からの賠償金、そして、どこからか振り込まれた大金。
人ひとりの人生が苦労なく終えるだけの大金を手にしたおかげで、安い給料でもやっていけるだけの計画は成り立った。
転職先は衣服の製造メーカーで、裁縫のスキルを持つ麻布には合った職種である。また、新たなプロジェクトで探索者向けの製品を取り扱うらしく、仮にも元探索者で裁縫スキル持ち、また魔法陣に詳しい麻布は重要視される事になる。
最初は他の作業員と共に衣服を作っていた麻布も、探索者部門に異動させられ幾つもの意見を求められた。
やがて、このプロジェクトの製造責任者を麻布が行うことになり、テントの開発や探索者が着用する防具服の製造に取り掛かった。
だが開発は簡単ではなく、他社が出している既存の物を改良して出すという案も出されたが、それでは訴えられたら終わりなので却下した。
そんな大変な状況だが、麻布だけは5時には退勤する。
他の従業員に責任者なのに帰るのかと文句を言われるが、子供を優先する麻布にとってはただの雑音でしかなかった。
そんな中で開発された製品は麻布の魔法陣の知識と、裁縫スキルによる感覚により作り出され、他社の製品と比べても遜色ないレベルの物に仕上がっていた。
約半年かけて開発された製品はそれなりの売上を出し、出だしとしては上々の結果である。
この成果を受けて、会社は麻布を商品開発部に異動させる。
これが二度目の転機だ。
この商品開発部で美しい女性と出会う。
彼女は真面目で仕事を第一に考えており、凛とした立ち姿が良く似合う女傑だ。
この部にも部長はいるが、誰もが彼女の意見を聞きたがっており、正に商品開発部の中心人物だった。
「麻布さんのお子さんって、お幾つなんですか?」
「あ、長女が5歳で長男が3歳になります」
社員食堂で隣に座ったときに、彼女から話しかけられたのが初めての会話になる。
何気ない会話で、麻布も特に意識せずに返していた。
彼女には近寄り難い雰囲気があり、おじさんな自分に仕事以外の内容で話しかけてくるとは思わなかった。
「私ね、女だからって侮られるのが大っ嫌いなの。だから片意地張って生きて来たんだけど、最近疲れて来たんだよね」
この会社に入社して二度目の忘年会の帰りに、女傑と呼ばれた彼女の弱い一面を見た気がした。
子供達は親に預けており、今日は久しぶりの会社の飲み会で、はめを外していた。
だからだろうか、普段は誰かに声を掛けたりしないのだが、一人で飲んでいる彼女の隣に座って話掛けていた。
会社でも雑談程度はしていたが、弱音を吐く意外な彼女の姿は魅力的に映ってしまう。
「私の家って、父親がいなかったんです。お母さんが朝から晩まで働いて育ててくれたんですけど、無理が祟って倒れた事があったんです。そのとき思ったんです。あーお父さんがいてくれたらなって」
酔いが回っているのか、顔は赤くつぶらな瞳の瞼も落ちそうになっている。そして、らしくなく麻布にしなだれていた。
「大丈夫ですか? タクシー呼びましょうか?」
「……帰りたくないなぁ」
彼女は若く魅力的な女性だ。
スタイルも良く、真面目な性格で凛とした美しさがある。
そして麻布も現役の男だった。
子供が二人おり、普段は家族思いの良い父親だ。
それでも妻に先立たれ、寂しい思いをしている男でもある。
だから、自然とそうなるのは仕方なかった。
あの日から一年が経ち、麻布は子供達を大事にしながらも、彼女との交際を開始した。
きっかけは酒の力と勢いだが、それでも彼女と交際を続けれていられるのは、相性が良いからだろう。
彼女はもしかしたら父親を求めているのかもしれないが、それでも構わないと思えるほど、麻布は彼女にのめり込んでいた。
交際から一年が経ち、プロポーズしようか迷っていた。
下の子も来年には小学生に進学する。まだ手の掛かる年頃だが、それでも賢い面もあり、彼女が新たな家族になると言ったらどんな反応をするか不安で仕方なかった。ましてや、長女は思春期に差し掛かろうとしている。何か無用な刺激があっても困るので、判断に困っていた。
だが、亡き妻の両親に会った際に、最後の一押しをもらう。
「針一君、いい人がいれば再婚してもらって構わないよ。子供達にも母親は必要だ」
義父からの応援の言葉が後押しとなり、次の週末には彼女に結婚を申し込んでいた。
「僕は頼りない男かもしれない、それでも君を守らせてほしい、これからの人生を一緒に過ごしてほしい」
臭いかもしれないが、思いを込めた精一杯の言葉だった。彼女を真っ直ぐに見つめ、指輪を出して、どうか受け取ってくれと必死に願い返答を待つ。
少し戸惑った彼女だが、意を決したように動き、指輪を受け取り嬉しそうにこう言った。
「お子さんが認めてくれたらね」
麻布は嬉しさのあまりに彼女に抱きつき、喜びを最大限に表す。子供に認められたらと言っていたが、彼女ならば子供達も受け入れてくれるだろうと確信していた。
周囲で麻布達のやり取りを見守っていた人達も祝福の言葉を送り、ここがどこか思い出した二人は我を取り戻し、お辞儀すると急いでその場から去った。
次の日には子供達との顔合わせを済ませると、子供達の反応も良かった。特に反発すると思っていた娘の方は喜んでおり、逆に息子の方が戸惑っていたくらいだ。
そこからは順調に進み、以前は盛大にやった式も、今回は身内だけの小じんまりとしたものになった。再婚も親しい人達にだけ知らせると、祝福するメッセージを受け取った。
第二の結婚生活が始まり、彼女は仕事を続けながら家事も積極的に手伝ってくれた。麻布一人で家事をしていた頃に比べて、生活環境は改善したのは喜ばしい事だった。
それから二馬力で働き、結婚から半年後には彼女の妊娠が発覚する。仕事も他に人員が入って来ており、彼女の役割は相変わらずだが、抜けても問題ないだろうと判断して退職を決意する。
彼女が仕事を辞めてしまったので、職場での麻布への反応が冷たくなったが、それも仕方ないと諦める。
それだけ彼女の存在は、この職場では必要とされていたのだ。
半年後には第三子である次女が産まれて祝福に包まれた。
彼女も初産で体力を消耗していたが、母子共に健康状態は良好だった。
子供達も彼女と新たな家族に喜んでおり、これから明るい家庭を築いていけると思うと麻布の心に喜びと、少しの罪悪感が生まれた。
それは、亡くなった嫁に対するものだったのかもしれない。
それから暫くして彼女が退院すると、失踪した。
娘を置いたまま忽然と姿を消したのだ。
何があったのかと、事故に巻き込まれたのかと警察に捜索願いを出し、関係者に連絡を取って彼女の姿を必死に探すが手掛かりは何も得られなかった。
心無い人は若い男を作って失踪しただの、麻布のDVに耐えれなくて逃げたなどと言っていたが、そんなのはどうでもよかった。
ただ彼女の無事を祈っていた。
そんな時だ、麻布の通帳から大金が引き出されたのは。
前の妻の保険金も入った口座から少なくない全額引き下ろされており、警察に被害届けを出す。事情を聞かれたときに、誰なら口座を動かせるか尋ねられる。
「……彼女と共同の口座にしていました。 もしかしたら、彼女が関わって……」
麻布の言い分を聞いた警察は、事件性ありとして捜査を開始した。そして引き下ろした人物は直ぐに特定される。
犯罪歴のある男だった。
元探索者で、スキルに恵まれずに引退して、半グレ集団に所属しているそんな男だった。
事態を把握した警察は直ぐに動く。
探索者観察署に連絡を入れると、制圧部隊が即座に編成され作戦は実行される。
元探索者含む半グレが拠点としている店に、ダンジョン40階突破者の化け物共が突っ込み、容赦なく始末して行く。
探索者が犯罪者集団、或いはそれと関わっていると認定されると容赦なく殲滅される。
探索者の秩序を守るため、探索者のモラルを守るために必要な処置であり、必要な見せしめだった。
但しそれは、第三者ならばの話だ。
無惨な姿で横たわる彼女を目の前にして、麻布の中で何かが壊れた。
当事者である麻布は警察に、どうして彼女がこうなったのか事情を尋ねる。
正気を失いそうになる心を諫めて、呼吸を必死に整えて話を聞いた。
彼女は買い物から帰宅中に、件の探索者くずれに連れ去られた。
乳飲み子をその場に残したのは、そういう事情からだった。
どうして連れ去ったのかは分からない。何故なら犯人は既にこの世にいないからだ。下世話な欲望を満たすためなのか、金銭のためなのか、或いは両方なのか、麻布にはそんなことどうでもよかった。
ただ彼女を失った。
守ると言っておきながら何も出来なかった。
その場にいなかったからどうしようもない。誰かに相談すれば、そんな言葉が返って来るだろう。だが、麻布にとってその言葉は救いにはならない。
どんなに言い訳をしても、約束を誓いを破ってしまった。無力な口先だけの自分、その事実だけが麻布に残された。
彼女の葬儀を終え、塞ぎ込んでいる子供達を必死に励まして、少しでも早く日常に戻れるように奮闘する。
麻布自身も膝を突いて感情の赴くままに叫びたかったが、そんな事をしても何の救いにもならず、子供達を不安にさせるだけなのは分かっている。
だから、必死に前を向いているフリをした。
だが、悪い事は続いてしまう。
「転勤ですか……」
「はい、探索者向けの部門は他社との提携が決まり、縮小することになりました。 申し訳ありませんが、麻布さんには関西支部に異動してもらいます」
「そんな、子供達もいるんです。そんな簡単に転勤なんて出来ません! どうか再考願えませんか?」
「残念ながら、もう決定しているんです。ここには、貴方の仕事はもうありません。 言いたくはありませんが、貴方への苦情も入っています。ここにいても、肩身の狭い思いをするだけですよ」
「苦情……ですか?」
「ええ、事情があるのは分かりますが、仕事を残して退社したせいで、他の社員に迷惑が掛かったと聞いています。 ご家族の為なのでしょうが、それを何度もやられては他の社員も良い思いはしませんよ」
気付かなかった。いや、注意はされていたが、それでも子供達を優先していた。両親が子供の面倒を見てくれているが、高齢の両親に負担を掛けるわけにもいかず、子供達に寂しい思いをさせたくなくて無視していた。
そのツケが回って来たのだ。
麻布は何も言い返せずに退出すると、自分のデスクに戻る。すると、他の社員からの視線に気付いた。
上司に言われたせいか、その視線が自分を非難しているように感じて、申し訳ない気持ちになる。謝ろうにも、誰に言えば良いのかも分からなかった。
後日、麻布は会社を辞める旨を上司に伝えた。
転勤して子供達を育てれるはずもなく、両親の協力がないと楽に働くことも出来ない。この職場に留まっても他の社員の迷惑になる。
そうなると、選択肢は一つしかなかった。
退職した麻布は再び仕事を探すが、なかなか見つからない。四十を目前にしたおじさんに選べるような職は無く、ハローワークに行っても子供達との時間を取れないようなものばかりだ。
前までなら貯えにも余裕があったが、犯罪に巻き込まれて引き下ろされた金額は、一割も戻って来ず、早急に次の仕事を見つける必要があった。
麻布は探索者協会の扉を潜る。
彼女の事件もあり、探索者に忌避感を持っているが、背に腹は代えられないと、覚悟を決めて仕事を受けに行った。
「他に仕事はありませんか? もう少し時間の掛からないものがいいんですが」
「時間はその人次第なんですが……リスクを極力減らした上で日当1万以上、時間も9時〜17時までに終わりそうなものなんてありませんよ。朝早くから取り掛かれば可能ですけど、9時開始だと厳しいかもしれませんね」
「……そうですか」
仕事はある。モンスターの討伐や薬草に鉱物の採取、新人の指導など様々だ。だが、そのどれもが麻布には向きそうもない。
依頼の一覧を見ても、貴重な素材の回収などがほとんどで、ダンジョンから離れて二十年近く経過し、装備も揃っていない麻布が行っても無駄死にでしかないだろう。
受付に他にないか探してもらっていると、探索者協会の会長が近くを通り、声を掛けて来る。
「あんた、何か生産系のスキル持ってないかい?」
「え? ああ、裁縫と複写のスキルを持っています。前職は裁縫を使った職に就いていました」
「おお、それはグッドタイミングだね。 裁縫を受け持っていた講師が辞めてしまってね、あんた講師をやってみないかい?」
突然の誘いに戸惑ったが、渡に船と断る理由もなく了承する。
麻布の講座は概ね好評だった。
前職で裁縫スキルの活用法を学び研究したおかげで、その知識は深く、人に質問されても淀みなく答えれている。
しかし、月に二度ほどの講座では収入はまるで足りず、また何か仕事を探す必要があった。
そんな時だ。どこか変わった女性に声を掛けられたのは。
「失礼、麻布針一さんですね。 私はミンスール教の
世樹麻耶と名乗った女性は白いワンピースに身を包み、白いブーツ、白いバケットハットを被り、横からはロングのブロンドを流していた。肌も色白で美しい顔立ちをしている。
世樹が纏う雰囲気は人を惹きつけるものがあるのだが、周囲にいる人は世樹の方を見向きもしない。
そして何より、ミンスール教というものに引っ掛かった。
ミンスール教会は、所謂カルト宗教と呼ばれるものだ。
神の名の下、世界の資源は平等に扱うべきだという教義の元、活動している団体である。
平等というのは、言葉の通り全てのモノに対してであり、ダンジョンから採取された物もその対象となる。また、探索者は管理されて然るべき存在であり、その能力は戦争を誘発する恐れがあると主張している。
「世樹さん、ミンスール教会の方が僕に何か?」
警戒する。ミンスール教会には他にも悪い噂があるからだ。
ミンスール教会には、荒事を専門とする探索者部隊がおり、邪魔する者を消しているという噂が。
そんなミンスール教会の会員が話掛けて来たのだ。しかも、麻布の事を知っている。警戒しない方がおかしいだろう。
「ふふ、そんなに警戒しなくても大丈夫ですよ、取って食べたりしませんから。 少し、お話しがしたいだけです。そこの喫茶店なんていかがですか?」
「これから仕事があるので遠慮したいのですが……」
「嘘はいけませんよ、職を探しているのは知っていますから。なんでしたら、お仕事紹介しましょうか?」
麻布の嘘も、覗き込むような笑顔で遮られる。
目は笑っておらず、青い透き通った眼が暗く淀んで見えた。その迫力に押された麻布は何も言えなくなり、世樹に手を取られて付いて行くしかなかった。
探索者協会での講座では生活できないので、内職をするようになる。会長の紹介で、ホント株式会社より出されているグッズに、護身用の魔法陣を複写していく。
この魔法陣に魔力を流せば、ゴブリンの攻撃を一度防ぐ程度の防御膜を張る事が出来るが、それ以上の効果は付与されていない。
御守りのようなもので、子供に配る物のようだ。
スキルの効果で、一つあたり数秒で描き終わり、一日のノルマが200枚とそれなりに数は多いが時間はそんなに掛からなかった。
描くインクは会社より支給されており、特殊な物のようで、これまで使っていた物と違い抵抗は少なく、魔力をスムーズに流す事が出来る。
余ったインクは返した方が良いのか会社に確認すると、好きに使っていいと言われたので、趣味の魔法陣研究に使おうと考えた。
魔法陣はインターネット上にも掲載されているが、その大半が偽物と言われている。
探索者協会で取り扱っている魔法陣は、これまでの探索者達が発見したり試行錯誤したりして開発した物であり、信頼のある物だ。しかし、その魔法陣を見るには料金が掛かる。
これは魔法陣が知的財産として扱われている証拠であり、新たな魔法陣開発を促すものでもある。
新たな魔法陣を開発して探索者協会に登録すれば、二ヶ月に一度、閲覧数に応じて料金が支払われる。
所謂、特許と同じ扱いとなり、その大元が国か探索者協会かの違いでしかない。
その魔法陣を集めた本を作ろうと麻布は考えた。
知的財産権の問題はあるが、販売するつもりはないので問題はないだろうと思っていた。
「その本、値段次第じゃ売りに出しても良いよ」
探索者協会の会長が、魔法陣の本を見て許可を出した。
別に自作している本を見せるつもりはなかったが、会話の流れで、趣味で魔法陣の本を作成している事を話してしまったのだ。
興味を持った会長が目を通すと、すんなりと許可が下りた。
本当に良いのか再度尋ねると、本に描かれている魔法陣には多少手は加えられているが、正常に機能するだろうというのと、新しいオリジナルの魔法陣が多数入っているので、その効果を確認すれば、協会側としては問題は無いそうだ。
こうして完成した魔法陣の本を定価百万円で売りに出した。値段は探索者協会との協議の上で決められた。この本一冊で大半の魔法陣が賄えると考えれば、決して高い買い物ではない。
そう自信を持って販売した本だが、一冊も売れなかった。
考えてみれば当然だった。
ダンジョンをより深く潜ろうとする探索者が必要とする魔法陣は、魔法スキルを持つ者に限られており、その必要な魔法陣も探索者協会で購入したりと、わざわざ本を買う必要がないのだ。
それに、魔法スキルを持つ者でも覚える魔法陣は二つか三つで、多くても五つくらいだ。魔法陣が百種類以上描かれている本を購入しても、使い道はないのだ。
錬金術や裁縫、鍛治スキルを得た者でも、使う魔法陣はほぼ決まっている。新たに魔法陣が発明されたとしても、自分達で研究、改良したりするので、わざわざ素人同然の麻布が作った本を買う必要はなかった。
魔道具を製造する企業などは必要があれば探索者協会に問い合わせるので、本を手にするはずもなかった。
つまりは、最初から売れるはずがなかったのだ。
その事に気付いた麻布はガックリと肩を落とす。
価格を落としたからと売れるような物でもなく、調子に乗って作ってしまった百冊の在庫は段ボールに入れられて、倉庫で眠る事になった。
それでも諦め切れなかった麻布は、講座の終わりに一冊どうですかと声かけをするが、誰も見向きもしない。
そもそも、この講座を受ける人の大半が、お金が無くて働こうとしている人達なので、不要な物に百万円も出す余裕はないのだ。
それでも声掛けは忘れない。
本を出した日から二年が経過し、新たに完全版として一冊を作り上げる。これは売る気のない完全に趣味の物だ。ただ自己満のために作った物である。
子供達が寝静まったあと、完成した完全版を眺めながら、グラスを傾けて一人悦に浸っているのだ。
「買います!その本買います!!」
そして、次の日に初めて魔法陣の本が売れた。
購入したのは太った男の子だった。
まだ10代後半くらいの子で、一括で料金を支払ってくれたので文句はないのだが、本当に大丈夫なのか心配になって聞くと。
「はい!先生の講義に感動しました!その本買います!」
その瞳は、真っ直ぐで汚れを知らない子供のようだった。
この日は家族を連れて、高級焼肉店に行った。
初めて本が売れてから数日が経つと、その喜びも次第に消えていく。講座のあとに本の販売をするが、誰も見向きもしない。
この前のは、たまの贅沢と思っておいた方が良いだろう。
「み〜つ〜け〜たー!?」
この日も探索者協会に講座をしに来ていたのだが、突然、地の底から這い出て来るような恐ろしいデブに肩をがっしりと掴まれた。
顔が怒りに満ちて般若のようになっていたので、最初誰か分からなかったが、話を聞くと初めて魔法陣の本を買ってくれた人物なのだと気付いた。
「あの本で百万円は高過ぎやしませんかね。ネットで検索すれば直ぐにヒットするし、似たような魔法陣たくさんあるじゃん!」
そう言って魔法陣の本をズイッと突き出す悪質なクレーマー。
その突き出された本を見て、麻布は少し頭に来た。
本は焦げたような跡があり、何かのシミが所々に付いており、極め付けは、ラーメンの麺の切れ端とネギまで付着していた。
購入した以上、本はその人の物だが、製作者としてはまるで笑えない。
だから何を言われても、返金する気にはならなかった。
「駄目ですね。クーリングオフの期間は過ぎています」
「なんだよ期日って!ネットの情報上げただけの本に百万円はおかしいだろ!?こんなもん詐欺だよ詐欺!返金しろ返金!」
「ですから、クーリングオフの期日の八日間はとうに過ぎています。今頃持って来られても、対応は出来ないんですよ」
「ぐっ!? そこを何とかしてもいいじゃん! その期日だってあんたが勝手に決めたんだろ?」
「いいえ、法律で決まっています。訴えてもらっても結構です。そもそも、ここまで汚されては返品は出来ません。高い買い物をしたんですし、もう少し丁寧に扱ってはいかがですか?」
「ぐぅ……」
初めてぐうの音を聴いたなと、意気消沈する太った男を見て溜飲が下がる。
そこで、この青年は魔法陣の使い方を知らないのではないかと考えが至った。粗末に扱ったとはいえ、初めて購入してくれた事もあり、魔法陣と本の使い方を教えようと思ったのだ。
「君、この魔法陣の本の使い方が知りたければ、明日10時にここに来なさい。やる気があれば、ですが……」
太った青年を見ると、以前見た汚れを知らないような純真な瞳をしており、何か希望を得たような表情をしていた。
昨日は飲み過ぎた。
本をあんな粗末に扱っているのを見てしまい、やけ酒をしてしまったのだ。
二日酔いで頭を抱える麻布を見て、子供達が不安そうにしている。頑張って大丈夫だよと笑って見せると、息が酒臭いと思春期の長女に注意されてしまう。
反抗期の子は難しいと聞くが、長女は妹の面倒も率先して見てくれてとても助かっている。
遅くなったが、探索者協会に向かうと、昨日の青年が待っていた。一時間も待たせてしまったせいで機嫌が悪そうだ。
「あっざっぶっさんよー!!なに人待たせてんだよ!あんたが指定した時間だろうがい!」
「ごめん、大きな声出さないで、頭に響くから。 こっちだよ、会議室を午前中取ってるから安しオェ」
トイレに直行して戻ると、昨日はあれだけ純真だった目が蔑んだものに変わっていた。
すっきりしたので、改めて会議室に向かうと説明を始める。
魔法陣を宙に描いて宴会でも使える一発芸を披露するが、どうやらお気に召さなかったようで、かなり怒っていた。
掴みは失敗したので、なにか挽回しようと考えたが、早く説明しろと言われたので仕方なく本題に入った。
この本には、本自体を空中に浮かせたりと隠し要素があるのだが、披露する機会はなさそうだ。
「魔法陣を使うには、魔法陣の効果と構造、魔力の流れを理解する必要があります。魔法陣の効果については陣の下に記載しているので、そちらを見てもらえれば大丈夫です。 魔法陣の構造と言いましたが、これは先程の空中に描くものと根本は同じです。ただ、より強く使いたいのなら、どうして魔法陣がこの形になり、そのような効果を発揮するのか理解する必要があります。 まあ、これは魔法スキルを持つ人に限られますけどね。 次に、裁縫スキルを持つ田中君に必要な事は……」
いろいろと説明した。途中から聞いていないような気がしたのだが、彼の表情はいたって真面目だった。
裁縫スキルや錬金術スキルには、魔法陣の組み合わせも重要だったのだが、理解出来ているのか甚だ不安でしかなかった。
他にも、魔法スキル持ちが魔法陣を使う場合の注意点があるのだが、裁縫スキルしか持ってなさそうな田中には必要ないだろう。それに、注意点なら本にも記載しているので問題無いはずだ。
一通りの説明が終わり、何故か余計な事を言ってしまった。
「魔法陣辞典完全版、今なら二百万円です!!」
「買った!!」
まさか購入するとは思わなかった。
二度目だが、本当に良いのか尋ねると、絶対買うと言って譲らなかった。
麻布は子供達の成長を見守りながら日々を過ごして行く。
両親や義両親、彼女の母からの手助けもあり、子供達は寂しい思いをせずにここまで来れた。
麻布自身、趣味に時間を割く余裕も出てきており、その中で少しだけ一人になる時間ができた。
麻布は次女を幼稚園に送ると、その足である場所に向かう。
着いた先は、ミンスール教会の文字が書かれた看板の建物。三階建ての一階には、多くのお爺さんお婆さんがおり、お布施の代わりに治癒魔法を掛けてもらっている。
お布施はお気持ち程度だが、そのお気持ちはとても高額なものとなっている。
「おはようございます」
「あら、おはようございます、麻布さん。朝から珍しいですね」
治療を行っている女性、世樹麻耶は手を止める事なく、お布施に応じた治療を行っている。
「そうだわ、麻布さん。先日仲間になった同志に食事を運んで頂けませんか? 彼らは追われる身ですので、誰かが手を差し伸べなければならないのです」
「……はい、場所はどこでしょう?」
麻布の返事を聞いて嬉しそうにする世樹の目は、相変わらず笑っていなかった。
世樹は再び治療に戻る。
その様子を見ながら、麻布は数年前のやり取りを思い出した。
喫茶店の一番奥の席に座り、紅茶が二つ運ばれて来ると世樹が口を開く。
「最初の奥様が亡くなった原因は、運転手の操作ミスになっていると思いますが、実際は違います」
「……どういう事です?」
「言葉の通りです。運転手は発進直後に、何者かに殺されていました。運転手と彼を殺した犯人に、どういったトラブルがあったのかは分かっていませんが、この殺人によって罪の無い、貴方の奥様はお亡くなりになられたのです」
「その犯人とは、一体……」
「犯人とされる人物は、既にこの世にいません。犯人は元探索者だったようで、いろいろと悪事に手を染めていたようなので、犯人も同じように殺されたのかもしれませんね」
「どうしてその事を僕に、わざわざ時間を割いてまで来る理由はなんです?」
「あら? 冷静ですね。少しは怒るのかと思っていましたよ」
世樹は紅茶を一口飲むと、麻布の様子を窺う。
テーブルの上に置いた手には力が入り、唇は微かに震えている。冷静なのではなく、怒りを面に出していないだけだと分かる。
「率直に言いますと勧誘ですね。一度ならず二度までも探索者の被害に遭われた貴方ならば、探索者の危険性を理解しておられるでしょう? だからこそ、力の無い者達は集まって身を守るしかないのです。どうですか、私達と一緒に来ませんか?」
「世樹さん、貴重なお話ありがとうございました。 ですが、僕は貴方を信用出来ない。ミンスール教会の悪い噂は聞いています。そんな宗教団体が、守ってくれるとは到底思えない」
断言した麻布は席を立ち、この場を去ろうとする。
麻布は家族を子供達を守る為なら、手段は厭わない。そう彼女の遺体を目の前にした時に決意した。
これ以上、大切な人を失わないための決意だ。
探索者協会と関わり、会長と懇意にしているのもその為である。
今さら宗教団体が来たからといって、これまで築いたものを失う必要はない。
去ろうとする麻布の背中を見て、世樹はなんでもないように呟く。
「……二人目の奥様。実行部隊が突入したときは、まだ生きてたみたいですよ」
麻布の中の壊れた何かが顔を覗かせた。
ーーー
麻布針一(42)
レベル 11
《スキル》
裁縫 複写
ーーー
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