工場を出ると外はもう暗かった。門のすぐ外にあるバス停で晩秋の冷たい風に吹かれていると、すぐにバスが来た。なんとか座れるぐらいの混み具合だ。この辺りの工場での長い一日を終わり、家へ帰る人々。みな無口のまま流れ過ぎる街の灯りをぼおっと見ている。その疲れ切って虚脱した表情の中には、今日の勤めを終えた人の前向きなものが垣間見えるような気がする。あとは家に帰って休むだけ。可奈はカバンから携帯を取り出し、ブログサイトを開く。今日あったことを素早い手つきで書き込んでいく。一日の中の週末にあたるこの時間が可奈は好きだった。言葉は交わさなくても、バスの中の仕事帰りの人たちと家族になったような、そんな気分になれるのだ。たとえ血はつながっていなくても、長く単調な労働と、疲れでつながった一つの家族。父がいて、母がいて、兄弟がいる。そんな幻想に包まれてぼおっとしているうちにバスは駅に着く。


 玄関のドアを開けて家に入る。居間にだけ灯りがついていて、そこで母が廊下の方に背中を向けてテレビを見ていた。可奈は声もかけず洗面所で手を洗うと、母の後ろを素通りして二階の自分の部屋へと向かう。最近は母ともほとんど会話がない。夕食も、自分で台所で用意したものを自分の部屋で食べるようになっていた。

 可奈の父は都内にある小さな印刷会社の営業職だが、どこで何をしているのか、たいてい夜中をすぎてから家に帰ってきた。母親の方は、可奈が子供のころからずっと家で専業主婦をしている。父親は家のことを何一つしないので、可奈とその兄の世話は母親が何から何まで一人でやってきた。やがて長男は家を離れ、可奈も手がかからなくなって、可奈の母はようやく自分だけの時間を持つことができるようになった。その時間のほとんどを、可奈の母は庭いじりとテレビを観ることに費やしている。母はいつもひとりぼっちだ。

 母は何も悪くないことは可奈にも分かっている。悪いのはもちろん、私だ。和也の自殺のあと、母は私をショックから立ち直らせ、心の傷が癒えるようにとできる限りのことをしてくれた。でも可奈は母の受け入れなかった。自分にはその資格がないと可奈は感じていた。可奈が母を避けていたのはそのためだ。


 可奈は子供のころから絵を描くのが好きだった。クラスでは目立たない子供だったが、絵を描くときだけはみんなに注目された。美術系の大学でデザインを学び、そこで和也と出会った。

 二人はすぐに恋におちた。まるで生き別れた自分の半身と出会ったかのようだった。卒業後、可奈は友人とネット上で小さなデザイン事務所を始めた。和也は大手のP広告社のデザイン室に就職した。そして二人は和也のアパートで同棲を始めた。

 事務所を立ち上げたのはいいけれど、注文をかけてくるのは大企業の下請けの制作プロダクションばかりだった。本来は自分たちの仕事のはずなのに、人手が足りないのか、仕事をしたくないのか、孫請けの私たちに丸投げしてくるのだ。そういった注文はいつも期限がギリギリで、正式な契約もない。おまけに第三者との交渉など、こちらの業務外の仕事まで押しつけてくる。そして、ほとんど出来上がった時点になってから平気でキャンセルを入れてくる。無茶な期限に間に合わせるための徹夜の作業、休日のことなど一切無視したスケジュール、約束のすっぽかしやら請求やら法的な防衛手段の構築のために可奈たちは疲弊した。

 和也の職場環境もそれよりましではなかった。名の知れた大企業にもかかわらず、P広告社は社員を人とも思わない理不尽がまかり通る所だった。和也の配属されたデザイン室は特にそんな傾向が強く、先に入社した社員たちは悠々と自分のペースで仕事をし、無茶な仕事はすべて入社一、二年の新入社員にやらせる決まりができていた。大型の案件を統括する部長や役員は朝遅くに出社してきて、夕方ごろになってようやく会議を開いて方針が決まる。するとそれがデザイン室まで下りてきて、何か次の日の会議に出せるものを作らねばならない。特に金曜日の会議は盛り上がるらしく、注文も多かった。そういった、勤務時間や曜日を無視したやり方のツケはすべて和也たちに回される。やがて、要領のいい新入社員たちはのらりくらりと理由をつけて仕事を回避するようになり、きつい仕事はすべて和也に回されるようになった。ロクに仕事のやり方を教わりもしないうちに、平日の夜や週末に和也は出社して一人で働いた。どうしても分からないことがあると先輩たちに電話をして、プライベートな時間の邪魔をされた不機嫌な先輩たちからの罵詈を浴びながら必要なことを聞き出さねばならなかった。

 そのうちに和也は同期の新入社員たちからも侮られるようになった。デザイン室全体が一丸となって和也を苛める体制ができあがった。夜中や週末に出社してもなお、和也は午前中も時間通りに会社に来ることを強要された。着替えを用意して会社に泊まり込むことが多くなった。先輩たちも、気が向いたときには和也に気さくに声をかけ、その不精ひげや疲れ切った顔を冗談めかして笑い、缶コーヒーをおごってくれた。しかし表面上の親密さはそれ以上深くは進まなかった。昼食時にも、気がつくと和也以外はみな示し合わせてどこかへ食べに出かけてしまっていて、和也は近くのコンビニで昼食を買ってきて休憩室で一人で食べた。


 可奈の妊娠が分かったのはちょうどそのころだった。可奈がそのことを和也に告げると、長い沈黙が返ってきた。二人はせまいアパートの部屋で向かい合わせに座っていた。日曜日の朝遅くで、外は明るく晴れ上がっていたけれど、厚いカーテンを締め切っているので部屋の中は薄暗かった。茶色のカーテンを通して漏れてくる橙色の陽の光が、まるで子宮の中にいるかのようだった。

「無理だ」長い沈黙のあと、和也は駄々っ子のように叫んだ。「俺には無理だよ! 無理だ! 俺には無理なんだよ!」

 そう繰り返しながら和也は泣いた。可奈は自分が血の気の引いた、蝋のような色の顔をしているのを感じた。痛み。意味のある痛み。可奈は和也のためにそれを受け入れるしかないことを理解した。そして、赤ん坊をあやすように和也の背中を両手でくるんで、その背中を何度もさすった。

 月曜の朝、和也は部屋を出るとき可奈に封筒を渡した。

「ごめん」

 それだけ言うと、職場へと去っていった。封筒の中には十五万円が入っていた。

 その日のうちに可奈は病院へ行った。帰ってくると、可奈はそのままの格好でベッドに倒れ込んだ。何もかもが空しかった。私はいったい何をしたいのだろう? 和也さえいれば私はそれでいいと思っていたのに、何かが変わってしまった。今では和也が帰ってくるのが怖かった。ずっと会社に泊まり込んだまま、もう帰ってこなければいいと思った。

 その日、和也は会社から帰ってこなかった。次の日の朝、可奈は荷物をまとめて部屋を出た。

 和也の自殺を知ったのはその二週間後だった。アパートの近くのマンションからの投身自殺だった。可奈が現実とも母親ともうまくいかなくなったのはその時からだ。灰色の膜が世界を覆い、何を見ても、何を聞いても、灰色の膜がそれと自分との間を隔てていて、まるで人ごとのようにしか感じられなかった。間接的に音を聞き、光景を見る。自分がそこにいないみたいだった。

 それでも可奈はよく和也のことを夢に見た。灰色の光の膜に包まれて、和也は楽しそうに微笑んでいる。まだ若く、希望に満ちていたころの顔だ。かつて自分の目で見たはずのその顔を思い浮かべながら可奈は産卵するウミガメのように涙を流した。可奈は和也を愛していた。今でも和也だけを愛していた。それなのになぜ、どうして、こんなことになってしまったんだろう?

 ある夜中、ベッドに横たわりながら可奈は目を見開き、和也の顔を見つめていた。すると真綿で首をしめられるようにだんだんと息が苦しくなってきた。可奈があの痛みを初めて感じたのはこの時だ。その痛みは可奈の中にある鉛色の海に流れ込み、とけ合わさる。可奈は和也の顔を見つめながら泣いた。生暖かい涙が頬を伝ってまくらに落ちていくのが分かった。このまま死んでもいいと思った。このまま息がつまって明日の朝起きることもなければどんなに幸せだろう。

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