意味のある痛み

荒川 長石

「大村さん、悪いですけど、次の土曜の午前、新しいラインの準備を手伝ってくれませんか」

 作業の遅れを取り戻そうと集中していたちょうどその時に、大村可奈は一人事務所に呼び出されると、主任の坂上にそう告げられた。

 その坂上の言葉は耳から入り、胸の辺りで小さな痛みの水滴に変わる。それは心の奥に広がる巨大な灰色の海に流れ込み、とけ合わさる。工場で働き始めるずっと前から可奈の中のその場所には、冷えたマグマのような灰色の感情が広がって、微熱を発し続けている。

 先週の土曜日も、可奈は朝の十時から夜の九時すぎまで、会社の創業者の誕生日を祝う会のためにボランティアとして会場の準備や受付を手伝ったばかりだった。

 大村可奈がこのT食品の工場で働き始めてから、もう八ヶ月がたつ。今では正社員を除けば可奈がもっとも古参の働き手だった。仕事の内容のことなら可奈は主任の坂上よりもよく知っている。働き始めからちょうど半年たったとき、可奈はチーフになった。といっても時給は900円のままで変わらない。週五日働いても、保険やなんやを引かれて手取りは月に十二、三万円だ。ところが、チーフになってからは休日にもボランティアという形で何やかやとよく呼び出されるようになった。

「半日でいいですから。須賀君も来てくれることになってますから。もちろん僕も行きます」

 可奈はまたかとうんざりする。飲み込みも要領も悪い須賀など、来てもほとんど何の役にも立たないだろう。坂上も、役に立たないという点では同じだ。彼は指示を出しこそすれ、頑なに自分では手を動かそうとしない。それにしても、若い須賀がどうして休日をつぶしてまでつきあうのだろう? そこが可奈には疑問だった。あの須賀も、やはり坂上には逆らえないのだろうか?

 坂上は一方的にしゃべり続け、まだなんの返事もしていない可奈を稼働中のラインの奥にあるシートを被せたままのラインの所に連れてゆき、休日におこなう準備作業の内容を説明し始める。

 坂上は年齢は三十前後、ラグビー選手のようながっしりとした体格で、顔つきは整っており、決して感情を荒げることのないおっとりとした性格だ。人の話にもよく耳を傾ける。一見したところ優秀な上司のようなので、最初は誰もが騙されるのだ。実際には、坂上は恐るべき無責任男だった。どんなトラブルが起きてもまるで人ごとで、自分では指一本動かさない。決断も、人への頼み事も、将来自分が責任を負うことになりそうなことは一切しない。どんなに問題が大きくなっても自分は何もせずに待ち続け、周囲の人間が動いて問題が解決するのをただ黙って眺めているのだ。そのくせ、自分は人の上に立つ人間だという揺るぎない自信を持っていて、いつか自分は出世するという確信を微塵も疑うことがないようだった。

 坂上の説明が終わると、可奈はラインに戻る。五時までに今日の分を終わらせるのはもう無理としても、なんとか少しでも遅れを取り戻さなねばならない。

 作業が遅れている原因は、今日から配属された新人の山下だ。山下はまだ二十そこらで、慣れないせいで作業が遅い。そもそも、五人の手慣れた作業員が集中してようやく時間に間に合うようになっているのだ。一人でも作業が遅いと、帰る時間は六時を過ぎてしまう。

 六時過ぎ、今日のノルマがようやく終わった。タイムカードを押すときになると、坂上はきまって工場の建物内の一角にある事務所に姿を隠してしまう。見て見ぬふりをするために。

「お疲れさま」

 いつものように竹内が最初にカードを押してさっさと帰っていく。竹内は四十代半ばの、大手電機メーカーの技術者を夫に持つ共働き夫婦の妻だ。以前は市役所の正規職員として働いていたが、退職してしばらく専業主婦をしたあと、子供の中学入学と同時に再び仕事に出ることにした。竹内はいつも実際に働いた時間通りにカードを押す。休日のボランティア活動などには一切参加しない。

「私は働きに来てるんで、ボランティアしに来てるんじゃないから」

 それがいつもの竹内の言い方だった。主任やその取り巻きと対等に張り合えるのは竹内だけだった。竹内は外交的な性格で、誰とでも分け隔てなく接することができる。新しい仕事に慣れるのも作業をこなすのも速い。全体の作業が遅れたときには、みんなと一緒に残業につきあうだけの社会性は備えているが、言いたいことはズバリと言う。坂上も竹内に対してだけは、時間通りにカードを押すのを今までのところ黙認しているのだ。

 新人の山下がまごつきながら真新しいタイムカードをカード入れから取り出すと、さっそく横田が口を出す。横田は主任にべったりの四十過ぎの男だ。

「山下君、まさか残業はつけないよね?」

「え?」山下は訳がわからずキョトンとしている。

「時間通りだと、残業したことになっちゃうだろ? でも、今日遅れたのは山下君が原因だよね? もちろん、初めてだし、作業に慣れてないんだから遅れるのは仕方がないよ。でもさ、まだ不慣れで仕事ができないから、逆に給料をたくさんもらえるっていうのは、おかしくない?」

 山下はカードをもったまま凍り付いたように立ちつくしている。

「それにさ、君の遅れをカバーするために、僕も、須賀君も、大村さんも一緒に働いたよね。僕らは残業をつけないんだよ。僕らがつけないのに、君がつけるっていうのは明らかにおかしいよね?」

 すると横田の隣に立っていた、二十代半ばの須賀が床を向いたまましゃべり出した。

「こういう場合は残業をつけないのが普通ですね。みんなそうしてます。僕も最初のうちは仕事が遅かったけど、残業なんてつけてませんでした」

「だろ?」

 横田が須賀の顔を見ながらくだけた態度で笑う。

「でも」と、山下が宙を見ながら呟くように言った。「僕の友達は、残業したら残業代はつけるべきだって。つけないのは法律違反だって」

 するとそれまでずっと床ばかり見ていた須賀がとつぜん大声を出した。

「お前なあ、まだ人並みに仕事ができねーくせに残業手当なんて片腹痛いわ。そういうことは人並みに仕事ができるようになってから言えよ」

「まあまあ」と横田が手で須賀を制した。「君、この工場でずっと長く働きたい? それともただの足掛けのつもり? 長く働くつもりなら、その場その場のしきたりっていうものがあるでしょ? お世話になってる坂上さんにも悪いでしょ?」

 山下は悔しそうな顔をして床を見ていたが、「はあ」と曖昧な返事をして横田の顔を見た。「どうすればいいんですか?」

「ここのボタンで時間を調節してから、カードを入れればいいよ」

 それからはみな無言のまま、山下、横田、須賀の順でカードを押して、最後に可奈がカードを押した。みんな残業はつけていない。

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