44話 不和幽寂

通信が切れ、室内に重苦しい沈黙が流れる。


悪魔による宣戦布告だけでも異常だが、先程までの話の内容も相まって、この空間の緊張感は並大抵のものではない状態だ。


『おい、まさか件の世界の終わりがもうやってきたとか言わねえよな』


『……王による災禍はこのように丁寧な宣戦布告などは存在しません。別件か、災禍に付随したなんらかの陰謀か、判別するには材料が不足しています』


アビゴールは神妙な顔で少し考え込んだ後に、私たちに向き直る。


『いずれにせよ、私は国家間の連携に従事せざるを得ない状況になります。水の都も自国に厳戒態勢を敷くことになるでしょう』


『そうだな。連合軍としての要請があれば動きはするが、自国を丸裸にして全戦力の投下は不可能だ』


アビゴールとイラさんの話に私は『そりゃそうだよな』と心の中で相槌を打ちながら、こくこくと頷く。


アビゴールは対外的にはマギアスの実質的な指導者の位置にいて、国連全体に関してもかなりの権力を有している立場な以上、この異常事態には当然馬車馬も真っ青な勢いで対処に駆り出されるだろう。


イラさん、というより水の都もアビゴールとほぼ同様だろうが、やはり誰しも最優先は自分のことだ。


それはたとえ人から国という括りになっても変わらない話で『世界の中心が危機なので自国を放り出してでも世界を守ります』なんてことを言える国はまず存在しない。というか、このご時世でそんなことを言う国はとっくに滅亡してるか支配下に置かれてるかのどちらかだ。


となれば、自由に動けて尚且つ強大な戦力というのは限られてくる。


『……除け者の巣の皆さん、早速ですが頼らせていただきます。サピトゥリアへの戦力配置をお願いします』


『つまりはいつもの傭兵業だな。仕事はするが、あまり信用しすぎんなよ。俺らは所詮、金と私欲で動く連中だ』


『報酬を含め、援助は潤沢にさせていただきます。命の危険がないとは冗談でも言えませんが、必要なものは可能な限り用意しましょう』


『今までの扱いからすると全く信用できないけどね』


私の恨み節に、アビゴールは『それについては反論のしようがありません』と、悪びれる様子はなく返事を返す。


実際のところ、国どころか世界をうまく回さなければならない立場にいる以上、私たち傭兵へのあの扱いは間違いではない。ただ、再三言うように理屈は通っても納得できないことが、残念ながら人間にはある。


『……少なくとも、ある程度は信用していただけそうな背景が一つありますよ。クリジア・アフェクト』


『信用してもらえそうなこと?』


そんな納得がいかなさそうな私の様子を察してか、アビゴールは少し考えた後、小さく咳払いをして口を開く。


『"もし私の友達におかしなことをしたら、マギアスに海の底への直行便をプレゼントする"と……大海の神子から直々に釘を刺されています』


アビゴールの言葉の直後、イラさんが寛大に吹き出して咳込み、一拍遅れてミダスさんの大笑いする声が部屋に響く。私とダンタリオンは『確かにこれは評議会議長サマより信用できるかも』とアビゴールを指さしながら、ミダスさんと一緒になって笑った。


『レヴィ……変なことは言ってないとあんなに自信満々だったというのに……』


『ははは!あの神子様の手綱を握るのは無理だな!こっちとしちゃ痛快でいいけどよ』


『彼女ならば本当にやりかねないという、ある種の信頼があるのも恐ろしいところです。私も国ごと海底に沈められるのは流石に勘弁願いたいですから』


『いやぁレヴィなら本気でやるね。あの神子様、怒るとマジで怖いんだよ』


『あん時はクリジアもビビってたもんねぇ』


『心の底から怖かったからね』


久々に味わった破天荒という言葉が何よりも似合う神子様の暴れっぷりに、各々が少しの間笑い合った後、アビゴールが一つ咳払いをして話を世界の危機へと戻す。


『では、情報は随時お伝えします。この場は一度解散し、サピトゥリア防衛に備えます』


『災禍前に戦力削ぎ落とされる可能性はいいのか?』


『懸念はありますが、どちらにせよ災禍は我々だけで対処できる規模の話ではない以上、サピトゥリアが陥落すれば災禍に抗うなど夢物語になります。目的の為にも、まずは目先のものを対処せねばなりません』


『そりゃごもっともだな。クリジア、お前先んじてサピトゥリアに向かえ。後からソニムとスライ、サルジュあたりも寄越す』


ミダスさんは言いながら立ち上がり、私もその後を追うように返事をしながら立ち上がる。


『除け者の巣のサピトゥリア到着はいつ頃になりそうでしょうか、ミダス・エンシア』


『クリジアなら今日の夕方にはもういるだろーよ』


『……サピトゥリアへ向かうにはマギアスから数日かかるはずですが』


『さぞかし不思議なことが起こったりするんだろうな』


ミダスさんはアビゴールに背を向けたまま、ひらひらと手を振りながら部屋の出口へと歩いていく。


ミダスさんの言う『さぞかし不思議なこと』は、私たちからすればもう見慣れたフルーラさんの魔法なのだが、相手が魔導国家であることに加え、フルーラさん自体が除け者の巣にとってのとびっきりの隠し玉なのも含めて詳細を話すつもりはないのだろう。


アビゴールも隠し事があることは理解しているのか、それ以上深く追求することもなく、諦めと納得を込めた様子で小さく溜息を吐いた。


『……サピトゥリアに明日には確実にいるのならば、一つお使いを頼まれてくださいませんか?』


『お使い?別にいいけど、いくら?』


『少し面倒なお使い程度ですので、食事代くらいならお支払いしますが』


『冗談だったんだけど。じゃあ食事代で引き受けようかな』


『………貴方達との会話は、私にとってあまり経験のないやり取りが多いです』


アビゴールが深い溜息と共に片手で顔を軽く覆う。そんな姿が見れたことがなんとなく嬉しくて、心の中で満面のしたり顔をしながら、なんとか抑えたニヤニヤとした顔でアビゴールの顔を軽く覗き込む。


私の期待に反して、アビゴールは私の煽るような行動を気にかける様子もなく、すぐにいつもの無表情に戻ってから口を開く。


『お使いというのは、サピトゥリアにあるオリヴィエ大図書館で、ある者からいくつかの話を聞いてきていただきたいというものです』


『本当にお使いじゃん。そんくらいなら全然良いけど』


『では詳細は後程お伝えしますので、明日の昼以降は都合を空けておいていただけますようお願いします』


『昼食を楽しめる時間はあるのでご安心を』とアビゴールは付け加えつつ、私に紙幣を数枚手渡す。明らかに一日の食事代以上の額が渡されているが、上流階級の金銭感覚なのだろうと黙っておくことにして、軽いお礼を返しながら受け取った。


『それでは皆様。今に在る我々の未来の為に、どうぞよろしくお願い致します』










サピトゥリアは名実共に世界の中心と呼ぶにふさわしい世界最大の大国だ。

 

学術都市サピトゥリアという、国名をそのまま冠した大都市を首都としており、この大都市に生まれればそれだけでこの世界においては勝ち組と言っても過言ではない。


郊外地区やもっと田舎の方はさすがにどうかは知らないが、少なくともこの大都市の中には裕福層はいても貧困層というやつはほとんどいない。そもそも裕福寄りじゃないと住めないのもそうだが、仕事にあぶれるとか、食事に困るようなことが起きることが滅多にないそうだ。

 

そして何より、学術都市の名に恥じずあらゆる分野での学びの場が充実している。魔法に関して言えばマギアスの方に軍配が上がるだろうが、何も学問は魔法だけのものではない。語学や医学、博物学に薬学、工学などなど無数の学問がこの世界には存在し、その大半の最先端を独走しているのがこの学術都市サピトゥリアである。

 

『こういうところで頭の良い奴が日夜頑張ってるから、私らも良い思いができるってわけだ』

 

高級感と気品、品性に満ちた街並みと人の波の中にいたからか、なんとなく感慨深い気分になって、仕事もといお使いの前に立ち寄ったレストランで私はしみじみとぼやく。

 

『お前も頭の良い奴に分類されるべきだろ元貴族』

 

『私、勉強嫌いだったし……。ていうか、読み書き計算できるだけで世界的にはそこそこできる方だから。つまりクリジアちゃんはすでに頭の良い奴なんですぅ』

 

『頭の良い奴があんな間抜けな自己犠牲するかよ』

 

『謝ったじゃんそれは!!悪かったって!!』

 

リオンとリアンのにやついた顔に、ばつの悪い気分になりながら料理を自分の口に突っ込む。

 

あの時のことは私だって反省している。というか、自分が他人のためにあそこまでやろうとするなんて、他でもない私自身が一番想像していなかった。水の都での一件以来、傭兵としてやってきた自分の軸というか、価値観みたいなところがブレ始めている感覚はあったのだが、今回でその感覚は確信に変わったと言っていい。

 

『ごちゃごちゃ考えてるみたいだけど、別にお前最初から不器用でひねくれてるだけで変わってないからね』

 

『人の脳内の言い訳に口挟むのやめてくんない!?』

 

『今後もう少し周りのことを信じて頑張ってくれれば私たちとしてはそれでいいよぉ。人間不信のクリジアちゃん』

 

『簡単に言ってくれるよクソ悪魔』

 

露骨な舌打ちとセットで悪態を返し、そんな私の様子をリオンとリアンが面白がってケラケラと笑う。

 

水の都の時のような居心地の悪さや、ワノクニの時の無力感はないが、単純にダンタリオンを含めて周りに助けてもらった事実がある手前、最近はかなり私の立つ瀬がない。


死にかけたのが自分の独り善がりの生んだ結果な事も、ダンタリオンに耳が痛くなるほど言われた『もっと周りを信頼しろ』という言葉も、あえて何も言わずに労ってくれたミダスさんやエルセスさんの態度も、本当に自分が悪かったのがわかっている分、何も反論ができず、すみませんと言う他ないというわけだ。

 

『ちゃんと反省はしてくれてるみたいでなによりだけどね』

 

『うっさいよ!この後アビィのお使い行くんだから私に構ってないでさっさと食え!』

 

リオンとリアンは声を揃え、ニヤつきながら『はいはい』と答えて食事を進める。

 

せっかくアビゴールからの厚意で貰った食事代でのお高いところのご飯だというのに、こいつらのおかげで食事を楽しむよりも直近の心の傷に塩を掛けられたダメージの方が印象に残りそうだなと、私は贅沢な溜息を一つ吐いてから食事に戻ることにした。

 

『そういやお使いさ、なんか同行者いるんだっけ?アレの知り合いってどんなだろ』

 

メインの食事が終わり、小休憩の時間に入ったあたりでリアンがぼやく。

 

『あー……アレに似たような人間味のうっすい人形みたいな奴だったらやだなぁ~……』

 

『そもそも友達いるタイプに見えなかったから、知り合いいるのがまず驚きだよね』

 

『そりゃ言えてる。アレの立場も考えると尚更そうだよね』

 

昨日の話の後、私はミダスさんの指示通りに即座にサピトゥリアに飛び、アビゴールから頼まれたお使いに備えていた際に、一応詳細というか、当日の流れの連絡を受けていた。

 

なんでも、オリヴィエ大図書館にアビゴールの知人が来るので、多分、おそらくきっと人間であるはずのその人と合流した後に、大図書館にいるらしいとある人物に会って、いくつかの話を聞いてきてほしいというのが今回のお使いの全体の流れのようだ。

 

『知人も図書館にいる誰かもどっちもよくわかんないのがちょっと怖いけど……ま、なんかあったらレヴィにチクればいいからね』

 

『言えてる!にしてもバカでかい後ろ盾だよなあ、あの神子様』

 

『大海を名乗るだけはあるよホント』

 

駄弁りながら、私たちは席を立ち、目的地のオリヴィエ大図書館へ向かうために店を後にする。

 

オリヴィエ大図書館はこのサピトゥリアにとって有名なランドマークのひとつだ。サピトゥリアには王と呼べる存在がおらず、議会を用いて国を管理していることもあり、王制やそれに類する政治をしている国とは違って城がない。


その代わりというわけではないが、学問の国の象徴と呼ぶにふさわしい、下手な城よりも巨大で立派な図書館やら博物館、何かしらの記念館などの文化財が各所に建てられている。その中でも一際立派で有名なものがオリヴィエ大図書館というわけだ。

 

そもそも安定した国家でなければこの規模の図書館は建てることはできず、世界各地の文献や貴重な文学作品、記録、その他無数の情報の塊で、城に匹敵するほど巨大な箱を埋め尽くすことは並大抵のことではない。勉強嫌いな私でも、四方八方が本に埋め尽くされた大図書館は単純な興味本位で見てみたいと思ったし、現に今も少しわくわくしている。

 

私たちは整備され、人がにぎやかに行き交う活気に満ち溢れた街路を、感嘆の声をたまに溢しながらしばらく歩き、目的の図書館の入り口を視界に捉えた。

 

『……これ待ち合せするには人多すぎない?』

 

『確かに。待ち合わせとしか聞いてないしこれ出会えない可能性あるな……』

 

大図書館の前は大勢の人が出入りして、ごった返すとまではいかないが人を探すのにはかなり不向きな空間となっていた。大人から子供まで、老若男女問わずこの知識の保管庫に出入りできるというのは、やはり大国の首都という安定した基盤があるからこそだろう。

 

私は感心しつつ、ふらふらと大図書館の入り口へと向かう。城塞の門かなにかと見紛うほどの大きさには、もはや感嘆を通り越して妙な笑いがこみ上げてくるが、ここの人々からすればこれは当たり前の光景で、物珍しいわけではないのだろうと思うと、やはり生まれる場所というのは大事だななどという悲観的な感想が脳裏をよぎった。

 

『や!クリジアちゃん久しぶり!』

 

『うおぁあ!?』

 

そんな仄暗い考えを巡らせながら、ぼんやりと歩いていた私の肩に結構な勢いで手が振り下ろされる。ほとんど反射的に、飛び退くようにして振り返ると、そこには白銀の髪を携え、爽やかな笑みを浮かべた明るそうな女性が立っていた。

 

髪は後ろで一本に縛り、色付きのグラスを使ったメガネをかけているせいで私が知っている姿とは少し異なる見た目になっているが、この白銀の髪だけで十分すぎる自己紹介になっていた。

 

『べ、ベルフェ──

 

『わーーーーっ!!!ストップ!!!誰それ!?知らない人だなぁ!!こんにちは私はベール!!インベール・リブレリア!!!』

 

ベルフェールさんが私の口を叫びながら押さえ、まくし立てるようにして偽名の自己紹介をする。一瞬何が何だかわからなかったが、よく考えなくてもこの人はドのつく有名人だったことを思い出し、ベルフェールさんの意図を理解した私はそのまま素直に押し黙る。

 

『その意図でやるならあんたの場合はもう少し隠さないと普通にバレそうだけど』と口を滑らせかけはしたが、周りの様子を見るに通用はしているらしいので、滑りかけた口も何とか留まってくれた。

 

『あはは……ごめんね驚かせて。作家って職業柄顔だけならバレないことの方が多いんだけど……』

 

『いや、それはいいんだけど……悪いけど私らここに仕事で来てて』

 

『アビィのお使いでしょ?私も同じ。大変なことになっちゃったからね』


予想だにしない人から、思ってもみない人物の名前が飛び出て私は一瞬固まる。


自分の持っている情報と、今のこの状況を鑑みて、必死に頭を回してみると、件のアビゴールの知人というのがベルフェールさんなのだろう。ただ、そうなるとこの人の正体というか、人脈が本当に訳がわからないことになる気もするが。

 

『……作家なんだよね?世界を股にかけるスパイとかじゃなくて』

 

『あっはっは!だとしたら面白いけどね!残念ながら作家だよ』


ベルフェールさんは大きな声で笑い、私とダンタリオンは呆れ混じりにベルフェールさんを見る。初めて会った時にも思ったが、本当にこの人は気分の良い明るい人だ。ただ、その明るさが今はそのまま胡散臭くもある。

 

『けど、私は特級魔具の一つ"空想の魔女"でもあるわけさ。アビィとはお互い色々融通を利かせ合ってるんだよ』

 

 『あ、あー……そういうことならちょっと納得いったかも』


『にしてもなんで一個人が国家権力相手に取引をしてんのさ……』


『言いたいことはわかるよ。まあ、端的に言うと私の機嫌を損ねると向こうとしても怖いってわけさ』


『逆らったりとかはするつもりないけどね』とベルフェールさんは付け加え、図書館へ向かって歩き始める。私たちはベルフェールさんを追いかける形で歩き始める。


『みんなはオリヴィエには来たことある?』


『私はないかな。リオンとリアンは?』


『見かけたことはあるくらいかなぁ』


『当然だけど同じく。本好きだから、今度個人的に来たいな』


『そっかそっか。それじゃ簡単にオリヴィエ大図書館について話しながら行こう』


門をくぐり、巨大なんて言葉で括れないほどの知識の宝物庫の姿が視界に飛び込んでくる。当然ながら入ってすぐに広がる景色なので、今見えているのはこの大図書館のほんの一画なのだが、これだけでもそこらの図書館が子どものおままごとに見えるスケールだ。


『入館料とかはないから、今みたいにいろんな人が自由に出入りしてるよ』


『ずっと思っちゃいたけど、宣戦布告されてる光景じゃないな……』


『なにしろ都心だからね……戦争の経験なんて数百年単位で前の話だし、下手に騒ぎにするよりもって判断もあるみたい』


私が『同じ世界に生きてるとは思えない話』と呆れたようなため息を吐き、ベルフェールさんが『本当にね』と自嘲気味に笑う。


実際のところ、この世界の中心でもある大都市がパニックに陥っていたら、その余波で世界中が大混乱になるだろうし、このくらいの空気感の方が安心ではあるのだろう。この平和の裏では、各国のお偉いさんが色々と頑張っているのだろうが、私たちには知る由もない。


『オリヴィエの説明に戻るね。ここは見ての通り基本的に入退場も本の閲覧も自由、ルールを守れば書籍の貸し出しも自由なの。けど、全部の本が誰でも触れられるわけじゃない』

 

『やっぱりすごい貴重な本とかもあるんだ?』

 

『その通り。世界最大の書庫は伊達じゃないってわけ。貴重な本、唯一無二の原本、歴史的な遺物、いろんな理由で厳重に保管されているものも沢山あってね。それらをまとめて封印書架って呼んでるんだ』

 

『あ、それなんか聞いたことある。サピトゥリアの大図書館に眠る隠された世界の秘密!みたいなゴシップの噂』

 

『あははは!あるある!今でも現役だよその噂話!私も昔はそういうの聞いてここの探検とかしたなぁ』

 

ベルフェールさんは館内を歩く足を止めずに進んでいく。

 

ふと気が付けば、賑わいを見せていた館内からは徐々に人の音と気配が消えており、周囲には物言わず聳える無数の書架だけが並んでいる。

 

『けど、普通に探検しても封印書架が見つかるわけもなくてね。当然司書さんに聞いても知らぬ存ぜぬを通されるし、本当にそんなものがあるのかはわからなかった』

 

『わからなかったって……なんで過去形?』

 

『このオリヴィエ大図書館を造った人は相当遊び心があったんだろうね。普通、図書館で大事な本を保管するって言ったら金庫とかそういうのを考えるでしょ?けど、ここではまず本館の第48番書架を目指さないといけない』

 

『ちょうどここをもう少し行ったところの書架だね』とベルフェールさんは付け加え、私たちを先導して歩いていく。私たち以外には人影は見えず、歩いてきた道のりを思い返すと、違和感はないが必然的に人目につかなくなるような、偶然にしてはよくできている構造の通路を歩いてきていたような気がする。

 

私は昔、いわゆる御伽噺とされるような話を母様や兄様に読み聞かせてもらうのが好きだった。その中で、大きな図書館にある秘密の部屋みたいなものはあった気がするが、それが現実にあるようなことがあるのだろうか。

 

『ねね、クリジア。なんかワクワクすんね』

 

『……しないと言うと嘘になるなあ~』

 

正直、子供心を全力でくすぐられている状況に興奮しつつ、私たちはベルフェールさんの後をついて歩いていく。しばらく歩いたところでベルフェールさんが立ち止まり、書架を指さしながら、私たちに『これが48番書架だよ』と紹介してくれた。

 

とは言っても、何ら特別な書架には見えず、他に並んでいる数多の書架と違いはない。ベルフェールさんは48番書架に近づくと、何冊かの本を書架から抜き取り、抜き取った本を別々の場所に戻していく。

 

『これ覚えるまで結構大変だったなぁ……いやほんと、よくこんなの思いつくよ』

 

最後の一冊をベルフェールさんが書架に戻したと同時に、ガコンという重い音が鳴る。その音の後にベルフェールさんが書架の中心を手のひらで押すと、書架の一部が沈み込み、扉のように開いて下へ続く階段が姿を見せた。

 

『す、すごっ!!マジでこんなのあるの!?』

 

『わー!静かに!!一応見つかるとまずいからこれ!気持ちはホントわかるけど!』

 

私とダンタリオンズは慌てて口を塞ぎ、周りを見渡して誰もいないことを確認して安堵の息を吐く。興奮冷めやらぬまま、ベルフェールさんに招かれるままに書架に開いた扉を潜り、御伽噺でしか見たことのなかったような世界に踏み込んだ。

 

『見ての通り、通常の書架の中に隠された通路を使って地下に降りるのが、ここオリヴィエ大図書館の封印書架への行き方ってわけ』

 

『これを本気でやろうと思って実際やったのがすごいわ……』

 

『ホントにね。ベルさんも初めて来たときはびっくりしたもんだよ』

 

『けどさ、こんなに変わった隠し方する必要はあるわけ?頑丈な金庫とかでもいい気はするけど』

 

『リアン君の言う通り、普通に貴重な本とかだけならそれでいい。けど封印書架には番人が居てね……いや、番人って言っていいのかかなり微妙な感じなんだけど、とにかく封印書架の監視役みたいな子。それを隠すためっていう意味合いもあるみたい』

 

『え、なに?ここに住んでるってこと!?』

 

リオンがあげた驚愕の声に、ベルフェールさんは『そうなんだよね~』と気の抜けた様子で答えを返す。

 

封印書架へと続く階段はかなり長く、これを登って外に出るのかと思うとかなり気が滅入るような構造なのだが、この最奥に封印書架と共に生活をしている何者かがいるというのはさすがに信じ難い。


しかし、今の状況と事前に受けているお使いの話を考慮すると、その信じ難い何者かがお使いの目的の可能性が高い。

 

『変わってるけど、悪い奴じゃないよ。一応』

 

『こっちとしてはその一応が怖いんだけど』

 

『いやぁ~……なにせちょっと尺度が人とは違うとこあるからねえ……』

 

『そりゃこんなとこに住んでりゃ尺度も変わるだろーね……』

 

私がまだ見ぬ変人に思いを馳せていると、階段の果てが見えてくる。一抹以上の不安はあるものの、現状この状況でのわくわくが不安を上回っているせいか、この封印書架と呼ばれる空間の全貌が楽しみで仕方がない。


リオンとリアンも同じ調子らしく、なんなら私よりも楽しそうにしているのが見るだけでも十分に伝わってきた。

 

『さあ、お待ちかねのオリヴィエ大図書館の秘密、封印書架の御開帳!』

 

『おおー!』

 

ベルフェールさんの掛け声に合わせて私たちは声をあげ、ベルフェールさんが扉を押すと重そうな扉がゆっくりと開かれる。

 

視界に飛び込んできたのは仄かな灯りに照らされた背の高い本棚と、年季の入っていそうな木製の床。広さはそれなりにあるようだが、本棚が並んでいるせいで見晴らしが悪く、紙の匂いに満ちている。

 

例えるならばそう、まさしく……。

 

『図書館って感じだ……』

 

浮かび上がったまま着地する場所を見失ったテンションを、どうしたものかと考えながら私は周囲をぐるりと見回す。そんなことをしても、この場がどう見ても年季の感じられる図書館や書庫といったもの以外の何物でもない事実が、より確固たるものになるだけではあったが。

 

隣を見れば、リオンとリアンも同じ様子で、感心と若干の落胆の狭間で、言葉を失いながら揺れているようだった。

 

『図書館だからね。中にある本は貴重だけど、金銀財宝があるわけでもないし、人を喰う魔本とか謎の石板とかそういうのもないから……』

 

『いや、うん。そりゃそうだよね……ごめんなんかテンション変にあがっちゃってて』

 

浮足立っていた気分を、ベルフェールさんの気遣いと冷静な説明でなんとか地面に下ろし、私は改めて辺りを見回す。古い本が多いからだろうが、本独特の何とも言えない香りが漂い、仄かな灯りの他には見渡す限り本棚の群れという、読書家には夢のような空間になっている。加えて、ここに収蔵されている本は様々な理由から貴重とされている本であるとなれば、読書家や勉強家など、その道の人間にとっては垂涎ものだろう。

 

広さもそれなりにありそうだが、そのスペースのほとんどが本棚に喰われており、到底人が住むような空間には見えないし、人間にとってはここと独房はあまり大差が無いようにも感じる。

 

『さてと……今日はどの辺にいるかな。おーい、ハーゲンく~ん。ベルさんだよ~』

 

『そんな緩い感じなんだ。封印書架の監視役……』

 

『むしろどんな奴なのか不安になってきたけど……』

 

呼びかけを続けながら歩くベルフェールさんの後をついていき、しばらく封印書架内を彷徨い歩いたころで、書斎机の置かれた少し開けた空間が姿を見せ、そこから気の抜けた調子の返事が返ってきた。

 

『は~い~。待ってたよ~。そろそろ来る頃だと~ちょっと前まで思ってたんだけどなぁ~』

 

声がしているのは、どうやら書斎机の下のあたりのようで、机には紙とペンが乱雑に転がり、机の周りにもいくらかの本と紙が散らばっているのが確認できた。この重要な書物の宝庫の中で、こんな状態でいいのかという疑問が浮かんだが、声の主の姿を見た瞬間、そんな些細な疑問なんて消し飛んでしまった。

 

まず私の目を惹いたのは、鳥類を思わせる巨大な一対の翼。独特な色味の翼は、仄暗い灯りに照らされてより一層不可思議な色彩を纏わせている。加えて、人よりも大きな尖った耳に、一対の紫を帯びた黒い角。そして怪しく光る深紅の眼光が、その正体を声もなく物語っている。

 

『マジで人間から外れてることがあるかよ……!』

 

『えーっとぉ〜……君たちは~、はじめましてだね~?ぼくはハーゲンティ~よろしくぅ~』

 

パタパタと、長い袖で隠れた手を振ってハーゲンティと名乗った悪魔は私たちに挨拶をする。この異様な空間に対して、あまりにも温度差のある気の抜けた様子に調子が狂うが、最近はこんなことばかりなのも手伝ってか脳が混乱する時間は比較的短く済んだ。

 

ハーゲンティは軽く挨拶をし、ベルフェールさんからの手土産を受け取って、一、二言会話をしてから私たちの方へ向き直る。

 

『君は~確か~クリジアちゃんだっけ~?そっちは~ダンタリオンだね~。噂は~色々~知ってるよ~』

 

『アビゴ……アビィからいくらか聞いてるってことかな』

 

『いや~、違うよ~。調べたのさ~。二人とも~けっこ~有名人さんだね~。簡単に見つかったよ~』

 

ハーゲンティはそう言いながら、書斎机の周りに散らばった紙切れをいくつか拾い集め、私たちに手渡す。受け取った紙には、走り書きのメモのような文字が乱雑に書かれているが、どうやら私とダンタリオンについてのメモのようだ。


それだけなら気にも留めなかったが、傭兵業としての活動やそれに付随する情報が、私たち本人やミダスさんなどの直接の関わりがない限り知り得ないはずのものまでいくらか記載されていた。

 

『どうやって調べたんだよ、これ……!』

 

『あれぇ〜?アビっちーから聞いてない〜?んも〜説明はしておいてほしいなぁ〜』


『あれ、私も聞いてるものだと思ってたや。ごめんごめん、そりゃびっくりするよね』


ハーゲンティは書斎の椅子に登り、机に突っ伏すようにしながら『ベルちー説明よろしくぅ〜』と言う。ベルフェールさんは短い文句を呟いた後、やれやれといった様子で私たちに向き直る。


『君たちは悪魔には慣れてる方だろうから、ハーゲンくんが悪魔なことはあんまり触れずに話しても良いかい?』


『まあ……いや、うん……もういいや。悪いのアビィだし』


『それはその通りかも。で、ハーゲンくんの魔法についてなんだけど、既知の事象の知覚、閲覧って効果の魔法なの』


『僕とかあたしが知ってることはそこのだらけてる奴にも知られる魔法ってこと?』


リアンの質問にベルフェールさんは『その通り』と頷いてから、続けて話していく。


『より詳しく言うなら知ってる人が多ければ多いほど速くその情報に辿り着ける魔法。だから比較的有名なクリジアちゃんとか、ダンタリオンの二人のことを事前に調べて知っていたってわけだね』


相変わらず悪魔の魔法ってやつはとんでもない上に意味不明だなと、呆れながらも私は納得して頷く。


つまるところ、世界の誰かが知っていれば、そしてその数が多ければ多いほどハーゲンティはなんらかの手段でその物事を知ることができるわけで、おそらくはアビゴールはこの力で諸々の情報を仕入れて欲しいのだろう。


『加えて、アビィのお使いはこの魔法で調べてもらってた情報の確認と共有ってわけ』


『じゃあ襲撃者は何者か、とかを聞けるだけ聞いときたいってわけだ』


『そういうわけ〜ベルちーどうも〜。それじゃ〜、さっそく伝えていいかな〜』


『あんまり長くやってると忘れちゃうからね〜』と言いつつ、ハーゲンティは机に散らばった紙を雑に何枚か取り、パラパラとめくる。


『えっとぉ〜……とりあえず悪魔についてだね〜。例の話で出てきたのは〜……二本目、九本目、十九本目の三本だね〜』


『十柱が二本いんの正気かよ……』


『お〜十柱は知ってるんだ〜……あーそっかぁ〜、六本目とか七本目に会ってるんだもんね〜』


ハーゲンティは手元の紙を捲りながら、目的の情報が見つからなければ乱雑に床に投げていく。


この書斎スペースの惨状は山程の調べ物をしていたことももちろんあるのだろうが、おそらくこの悪魔が雑なせいが大半なんだろうなと考えながらハーゲンティの手が止まるの待つ。


『そうだそうだ〜。二本目についてはアビっちに聞いたほうが詳しいかも〜。九本目は〜……魔法についてはぜ〜んぜん誰も知らないみたいだね〜』


『……襲撃された時に知ってる人が殺されたから?』


『いや〜……これが不思議なことにね〜、今のところ、あの宣戦布告の襲撃で死人は出てないんだよぉ。もちろん、現地の軍隊とか〜建物とかはズダボロにされてるんだけどね〜』


予想だにしなかった情報に、私は思わず困惑の声を漏らす。てっきり、あのやりとりを聞いていた限りでは街の一つや二つは人命を含めて壊滅したものだと思っていた。


しかし、そうなるとなおさら合計三本もの悪魔が現れた理由がわからない。加えてなぜ悪魔を止めることができなかったのにも関わらず、魔法について誰も知らないというのも不可解がすぎる。


『自警団みたいなのがいる場所で九本目は暴れたみたいだけど〜一人ちょっと変わったのを残して〜あとは全員ギッタギタにしちゃったみたいだねえ』


『それをどうやったのかを誰も知らないってわけ?流石におかしな話すぎない?』


『どうやったかはわかってるよ〜。武器で叩きのめしたんだってさ〜。信じられる?なんの変哲もない武器でね〜』


『武器ぃ?悪魔がわざわざ?魔法が戦闘向けのじゃないとか?』


『残念だけど〜、そこは本人に聞くしかないね〜』


ハーゲンティはそう言うと、九本目とやらの話は終わったと言わんばかりに持っていた紙をぽいと放る。


正直なところ情報としてはかなり弱い気もするが、事前に何者かわかるだけでもありがたい話なのだろうと自分を納得させる。実際、バルバトスのワノクニでの虐殺を思えば、悪魔の襲撃に対して情報が残っていることが奇跡に近いのは事実だ。


『次は十九本目……なんだけど〜……これはぼくも正直予想すらつかないんだよね〜』


『じゃあほとんどなんもわかんない感じじゃん』


『悪魔を知ってる頭数が少ないから仕方ないんだよ〜』


『まあ何もないよりは良いだろうけど……』


『そういうこと〜』


なぜか得意げな様子のハーゲンティに、私たちは揃って若干の呆れが混ざった返事を返す。この場所から動かずに世界のあらゆる情報を得ることができるというのは確かにすごいが、状況が状況だったこともあり期待が上がり過ぎていたのかもしれない。


『全知全能とはいかないわけね……』


『そんなつまんない物があったらマギアスもここも今頃ないよ〜。みーんな知らないから調べるのさ〜』


『あ、それはそうかも』とベルフェールさんが返し、ハーゲンティが『でしょ〜?』と得意げな顔をする。私も人のことを言えた義理ではないが、世界的な危機の割にはかなり呑気な空間だなとため息を吐いた。


サピトゥリアの街中にも言えることだが、日常的なやりとりが多すぎて今がどういう状況なのか忘れそうになる。


『さてさて〜十九本目だけど、まず唯一建物とかにも被害が出てない。というか、悪魔が現れたってだけで他に何があったのかがわからないんだよね〜』


『なんもしてないってこと?もしかして別件とか言わないよね?』


『ん〜多分同じだとは思う。けど一番異質だね〜。古い悪魔のはずなんだけど、だ〜れも知らない……ちょっと妙なくらいだよ〜』


『もう知ってる人間死んでるとかじゃないの?悪魔と人間じゃ時間の感覚違うのはわかってる?』


『辛辣だねえダンタリオン〜。わかってるよ〜、その上でおかしいのさぁ。記録も記憶もなさすぎてね〜』


『お手上げお手上げ〜』とハーゲンティが両手をあげる。結局わかったのは悪魔が何本目かと、奇妙な力を持ってる奴ばかりということだけだが、アビゴールのお使いはこれでいいのかという疑念が湧く。しかし、現状でこれ以上何かをどうこうすることができないのも間違いない。


『ただね〜、十九本目の出てきたところ。人間が異様な動きをしてるよ〜』


『異様な動き?』


『クーデター……サピトゥリア侵攻の準備だね〜。動機はわからないけど、急に、何の前触れもなく……強いて言うなら十九本目の顕現が前触れかなぁ?』


『この悪魔だけでも大惨事の時に……』


『ぼくが教えられるのはこれだけかなぁ〜。調べたもの、君の頭に入れておくからね〜。伝言よろしく〜』


そう言って私たちを指さすハーゲンティの言葉の意味を問おうとした瞬間、強烈な頭痛に襲われ私は思わず膝をつく。


頭の中に水を流し込まれたような、かなり奇妙な感覚に胃の中身が逆流するのを感じたが、なんとか耐えた。代わりにかポタポタと鼻からは血が垂れ、目の前がぐわんぐわんと揺れている。


『なに……しやがった……!?』


『情報を流し込んでおいたよ〜。これでぼくが忘れちゃっても安心ってわけ〜』


『それ説明してからやんなよハーゲンくん!?』


目眩で立ち上がれない私にダンタリオンズとベルフェールさんが寄り添い、ベルフェールさんが優しく背を摩りながら声をかけてくれる。


『大丈夫クリジアちゃん?気分悪いだろうけど、一時的なものだから落ち着いて』


『これ、何なの……?』


『んーっと……さっきハーゲンくんが調べた情報、ちょっと思い出そうとしてみて』


言われた通り、件の悪魔について思考を巡らせる。するとすぐに先程聞いた話に加え、自分が知るはずのない、聞いていない情報までもが頭を駆け巡っていく。


『うわっ、何これ!?』


『調べたものを直接他人の頭に入れてるんだよ。身体にそこそこ負担が掛かるから、やる前には覚悟がいるんだけど……』


『説明した方が怖いかと思ってさ〜。ごめんごめん〜』


私はせめてもの恨みを込めて、ハーゲンティを睨むが、当のハーゲンティ本人は全く気にする様子はなく、書斎に突っ伏すようにして一仕事を終えたと言わんばかりにだらけ始める。


もうこういう存在なのだろうと諦めて、さっさとお使いを終えたい気分になった私は、多少身体がマシになってからすぐに立ち上がり、帰るために書斎に背を向ける。


『お使い一つでもこんなことになるのかよマギアスさんは……ったく』


『あ、そうだ〜。一つ忘れてたや。アビっちに伝えといて欲しいんだけど〜』


ぶつくさと文句を言いながら数歩歩いた先でハーゲンティに声をかけられ、私は弾かれたように振り向きハーゲンティの顔を睨む。


『口頭でいいからねそれ。さっきのやめろよ』


『しないしない〜。えーっと……"探せてるけど、辿り着けてない"って伝えておいてよ〜』


『……何それ?』


『これ言えば勝手にわかるから〜』


私は助け舟を求めてベルフェールさんの顔を見るが、ベルフェールさんも同じようにわからないと言った顔で肩をすくめる。ダンタリオンに読んでもらうことも考えたが、余計なことに首を突っ込みすぎても怖いと思い、聞いたこと以上を知ろうとするのをやめた。


『頑張ってね〜人間さん。ぼくもね〜、今の世界は嫌いじゃないんだ〜。この生活を守ってくれたまえ〜』


ひらひらと手を振る呑気な様子のハーゲンティに、舌打ちとセットで手を振り返し、私たちは封印書架を後にする。


もらった情報でどれだけ動けるようになるのかは知らないが、そこを考えるのはアビゴールの役目になるだろうし、私は近づく絶望的な戦いに備えて今日は一秒でも早く休もうと心に誓って、長い階段の一歩を踏み込んだ。










重い扉の閉まる音が響き、封印書架は普段の静寂を取り戻す。


ハーゲンティはひとつ伸びをして、椅子の背もたれに寄りかかって天井を眺めながらぼやく。


『アビっちたちが正しいとは言わないけど〜、王様も正しいわけじゃないからねぇ。おじさんはどっちかなぁ……』


二本目については知っていた。


最初の漂白で友を失った者。


きっと、彼の目的は漂白とは真逆に近いもののはずだ。それを知るのはおそらく、九本目と十九本目、そして本人のみだろう。調べるのは間に合わなかった。


確定した情報以外は不安定な要素であり、それが感情論や心の問題になれば尚更である。


ハーゲンティは情報を、知識を、確定された事象を信仰している。それ故に、今を生きる人間に、抗うことを選んだ同胞に、自分の知る感情という不確かを、そうであるはずだという願望を伝えないことを選んだ。


『……でも、人間が頑張ってくれたら〜、それは素敵かもね〜』


ハーゲンティは歴史書を手に取り、頁を捲る。


そして、その先に続く道に想いを馳せながら、ゆっくりと目を閉じた。


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