40話 狂瀾

話が通じない奴というのは生きていればどこかで遭遇する。生まれた環境が違ったり、価値観が違ったり、そもそも言葉を理解できるほどの知能がなかったり、話が通じない理由はなんでもいいが、生きてれば誰もが思い当たる顔がいるだろう。


私は結構な数の顔が思い浮かぶ。一番身近な人間で例をあげるのならスライだろうか。アレは本当に人間とは違う価値観で生きている獣の類だ。たまたま人語が得意で、たまたまある程度意思疎通ができるだけで、わかり合えるような事はない。そんな人間がスライという人間だ。


それでも、アレくらいならまだマシだと今の状況なら思えるかもしれない。


『ねえ、お友達は一緒じゃないの?それに、あなたの目、まるで私たちみたいな色なのね!もしかして病気?治してあげるわよ?』


『なんで全部本気で心配してる発言なんだよこいつ……!気持ち悪っ』


『あら、ひどい事言うのね』


視界から五本腕の悪魔、ブエルの姿が消えた。視界を上げれば、私を頭上から叩き潰そうとするブエルの姿が映る。


『ひどい事言う子にはめっ!するわよ!』


私はその場から飛び退き、もともと私が立っていた場所にブエルの掌底が降る。地面を易々と砕くその威力と、目の前から消えたと錯覚するほどの速度に嫌な汗が頬を伝う。


『龍狩に引け取らないんじゃねえのその膂力!』


砕けた地面の破片が風を切って私を目掛けて飛んでくる。咄嗟に首を曲げて直撃を免れたが、直撃してれば頭蓋に穴が空いていただろう。


恐ろしいのは今のは魔法ではなく、破片を掴んで放り投げただけだということだが。


『四本腕、背中の合わせたら五本かな?それであの怪力……魔法が回復系なのがまだギリギリ救いか……!』


『ちゃんと避けられて偉いわ!ほら、もっと遊びましょ!』


『遊んでねえんだよこっちは!』


四本の腕から繰り出される乱打を受け流しつつ、ブエルを見る。心情は本当に楽しそうな調子で、まさしく遊んでいるのと変わらない感覚のようだ。嫌気がさすような事実に舌打ちをして、乱打の切れ間にブエルの腕を斬り飛ばしながら一度距離を取る。


戦い方をある程度見た限り、ブエルの主な攻撃は物理的な攻撃のはずだ。ダンタリオンのようなサポート型の魔法ではもちろんないし、バルバトスやアモンのような魔法主体の攻撃でもない。いや、アモンは魔法無しでも様子がおかしかったのだが。なにはともあれ、派手な魔法で吹き飛ばされるといったことは今のところなさそうに見える。


『この黒い檻、お前か?』


ブエルは斬り飛ばされた腕を、ニコニコとした顔のまま治してから私に視線を合わせ、改めてニコリと微笑む。


『これは私じゃないわ。ヴォラクが作ったモノよ』


『ならあの爆発する鉄塊とかは?』


『そっちは本当になんなのかわからないの。アレ、危ないし私も困ってるのよ!たくさん壊れて大変なんだから!』


『全部別もんかよ……』


ブエルはプンプンという効果音が聞こえてきそうな様子で例の鉄雨に怒りを訴える。せめてどちらかの正体であっては欲しかったのだが、その期待は見事に裏切られてしまった。


『だったらお前なんのために呼ばれて来たんだよ』


『この国がずっと続くように、治し続けるために来たのよ』


ブエルの言葉と同時に私は身を屈める。一秒前まで私の頭があった場所をブエルが振るった腕が空気を裂きながら通過する。


屈めた身体を伸ばして、起き上がりと同時にブエルの胴体を斬り裂こうとするが、刃が届く前に蹴り飛ばされる。


『素敵でしょう?ずっと治して、壊れてを繰り返してくれるなんて!私、戦争ってとっても好きよ!だってずっとみんな壊れてるんだもの!』


刀で受けることができたので身体は無事だが、蹴りの威力に腕が痺れる。ブエルはそんなものお構いなしに距離を詰め、再び四本の腕での乱打が浴びせられる。


『意味わかんねえって言ったろ!余計なことせず帰ってくんないかな!!』


『わからずやさん!治してあげましょうか?』


言いながらブエルが身を捻る。少し距離を取るのかと考えたが、すぐにその考えが誤りだったと気付き、私は衝撃に備える。


瞬間、背中から生えた巨大な腕を、鞭や尻尾のようにして、ブエルは私ごと正面の空間を薙ぎ払った。


『ぐっ……!!重っ……!!』


メキメキという身体の奥から響く嫌な音を聞いた後、私は建物の壁に向かって吹き飛ばされた。建物の石の壁を身一つでぶち抜いた私は当然無事なわけがなく、明らかに片腕がへし折れている。身体の痛み方的に、他にも何箇所か骨が逝ってそうだが、辛うじて動ける。


『クリジア!大丈夫!?これ逃げた方が……』


『逃がしてくれるかわかんねえよ……!ダンタリオンもあいつのあの速さと力見てたろ!』


『けどお前身体!』


『ま、逃げた後に三人まとめて死ぬよりマシだって。今の面々なら、私が一番戦えるんだから……?』


カタカタと、私の足元や周りに散らばった瓦礫が揺れ始める。その違和感と妙な音に気が付いたとほとんど同時に、私がぶち抜いた壁の穴に向かって瓦礫が吸い寄せられるように飛び、その瓦礫の一部に座り込んでいた私ごと穴へと吸い込まれていく。


『なっ……!?治す魔法だけじゃ……』


『クリジア!まず逃げろって!!よくわかんないけど巻き込まれる!!』


ダンタリオンの声にハッとして、私は私を乗せて吸い寄せられる瓦礫から離れようとする。普段なら、万全の状態なら難なく逃げられただろう。しかし、今の私は全身が結構めちゃくちゃになっている。身体を動かした時に走る痛みに動きが止まり、離脱するのが一瞬遅れてしまった。





ぐしゃり。





嫌な音が聞こえ、見たくないと思いつつ音の方を見る。


右足の膝から先、本来あるべきものがない。


『っあ"ぁ"ああ………!!』


何が起きたのかを理解するために視線を動かせば、ぶち抜いて穴が空いたはずの壁が元通りに直っており、そこに無理やり捩じ込まれ、押し潰されてひしゃげた私の足がぶら下がっていた。


私の足が生えていること以外は元通りに直っていた壁が再び壊れ、ブエルが姿を見せる。


『クリジア!!逃げなきゃ!!』


『逃げられるなら逃げてるっつの……!!』


ダンタリオンの言葉に、この状況へのせめてもの抵抗として忌々しげに言葉を返す。もっとも、そんなことに意味も何もないのはよくわかってはいるのだが。


『あら大変!大怪我してるじゃない』


『はっ……!誰のせいだよ……!』


『大丈夫。私が触れたらすぐ治っちゃうんだから!』


そう言いながらブエルが私の腕を掴む。瞬きの間に私の足は元通りに治り、身体中あちこちにあったはずの怪我や痛みもなくなってしまった。


確かに怪我や病気は嫌いだとか、治すのが楽しいだとかは言っていたが、まさか敵として対峙していた私の怪我すら治してしまうと思ってもいなかった私は、何が起きたかわからずに固まってしまう。そんな私にブエルはニコリと目を合わせてから微笑むと、握ったままの私の腕をぐいっと引っ張り上げる。


『ほら、元気になったでしよ?』


ブエルがそのまま私を頭上に放り投げる。一瞬の浮遊感の後、鈍く重い衝撃が身体の中心から全身に走った。


『ごぁっ……!あ"……?』


視界に映ったものは赤。真っ赤に染まった何かが、私の身体をぶち抜いて顔をのぞかせているブエルの腕だと理解するのにはそこまで長い時間は掛からなかった。


背後から心臓を一突きにされている。それが理解できた瞬間から恐ろしい速度で身体が冷たく、重くなっていくのを感じる。


『クリジア!!』


纏衣もいつの間にか解けてしまっている。どうやらこれは幻覚でも夢でもないようだ。ダンタリオンの声がやけに遠く聞こえて、目がほとんど何も見えていない程度には霞んできた。


自分が死ぬことを想定している人間というのは案外いない。そもそも、死んだことなどないのだから何があったら死ぬとか、もしかしたら死ぬかもしれないというのを漠然としかイメージできないのだから当たり前なのだが。何をどうやったって助かりようがない。そうなって初めて本当に自分が死ぬということを理解できるのだろう。


呆気ないものだとか、死にたくないなだとか、そんな月並みな思考が一瞬浮かんでから意識が完全に途切れた。


『あら?人間の中から悪魔が出てくるなんて不思議ね!おもしろいわ!』


ブエルはクリジアを腕で串刺しにし、返り血で真っ赤に染まったままダンタリオンを見て笑う。


『おもしろくねえよキチガイ女!!クリジアのこと、離せ!!』


『確かにずっとこのままじゃ疲れちゃうわね』


ダンタリオンの放った雷魔法をブエルはクリジアを串刺しにしたまま躱し、クリジアの傷口に両手の指を無理矢理気味に捩じ込む。


心の読めるダンタリオンには、ブエルが何をしようとしているのかが行動の前に理解できてしまった。


『は!?おい、待て!やめ……!!』


クリジアの身体が裂ける。


鮮血に混じり、質量を持った臓器や肉片があたりに散らばる。


乱雑に破った紙切れのように、クリジアの身体は縦に裂かれ、元々が人間だったことすらも認識できるかわからない肉片に姿を変えた。


『あっ……あぁ……!!』


唖然として固まるダンタリオンの前に、クリジアの身体の半分が投げ捨てられる。


『うわぁぁあああああぁあッ!!!なに……なにを、なにしてんだよお前!!!ふざけんな、ふざけんなふざけんなふざけんなッ!!僕のっ、あたしのっ……!!私たちの!!』


無造作にぶちまけられた肉片を、ダンタリオンは狂ったようにかき集め、繋がるはずもない欠片同士を繋ぎ合わせようとする。その手に触れた人間だったはずの欠片は仄かな温もりを宿しており、それがほんの一瞬前まで生きていたのだということを突き付けてくる。 

 

『お前ぇえ!!』 

 

──意識が再浮上する。ダンタリオンの怒声が聞こえ、驚愕と憤怒が混ざったダンタリオンと目が合う。 

 

『何がどうなった?』と疑問が脳を滑る。それと同時に、身体が浮遊感に襲われ、自分の少し下からブエルの声が聞こえた。 

 

『大丈夫!死んだりしないわ、私が治すもの!』 


心底楽しそうな、弾むような声に一瞬遅れて腹に衝撃が走る。内臓が幾らか潰れた音と感覚を味わいながら、勢いよく吹き飛ばされた。


『げぁっ、ゔ、えぇっ……!!な、にが……!?』


『クリジア!?とりあえずは生きてる!?生きてるね!?』


もう死にそうだという文句の代わりに、空気が漏れただけのような呼吸音をダンタリオンに返す。珍しく、本気で心配したような様子ですっ飛んできたダンタリオンの手が血塗れになっているのは、悪魔は怪我をするということはないので、おそらくは私の血なのだろう。


激痛に悶えつつ、なにが起きたのかを必死で整理する。記憶が正しければ、私はついさっき背中から心臓を串刺しにされて確実に死んでいた。その後からどうなったのか記憶はないが、今は胸に穴は空いていない。先程腹に喰らった掌底の傷はあるし、重傷なのは変わらないが。


『生きてるならいいよ!!とにかく早く逃げ──


言葉の途中でダンタリオンが殴り飛ばされる。


心配する声も出せずに蹲り、ひゅうひゅうと風が抜けるような呼吸を繰り返す私の顔をブエルが一本の腕で掴み、軽々と持ち上げてニコリと笑う。


『悪魔は勝手に治っちゃうから嫌い。人間ってやっぱり素敵ね』


ブエルがそう言うのと同時に、私の腹の傷が瞬く前に治っていく。瞬きを一度した頃には、おそらく破裂していた内臓の痛みも一切ない、健康体そのものの状態にまで回復していた。


『だってたくさん遊べるものね!』


満面の笑みと共に、ブエルが私を放り投げようと腕に力を入れる。


私は咄嗟にブエルの顔面に蹴りを入れ、一瞬緩んだ拘束から抜け出して、地面に放り出されていた自分の武器を回収する。


おそらく、先程のブエルの言動と今の状況を鑑みるに、私は一度死んだか、死の直前くらいまでのダメージを受けてからあの魔法で回復させられた。治すのが楽しい、戦争が好きというのが全て本心である以上、こいつの目的は飽きるまで人を壊しては治すを繰り返すことだろう。


『怪我が治ったのはありがたいけど、冗談じゃない状況だなおい……!!』


自分が死ぬという経験は、よほど特殊な体質をしているとか、常人には想像もつかないような出来事がない限り、一人につき一度味わうのがせいぜいだ。それを何度も味合わされる可能性があるというだけでもかなり気が滅入る。正直に言うのなら、もうすでに二度と味わいたくない。


しかし、だからと言って素直に逃げて逃げ切れる相手かは怪しいし、下手に逃げてエルセスさんやあの雪女を巻き込みでもしたら最悪の事態に陥りかねない。つまり、私が今しなくてはならないことは、極力時間を稼ぎ、被害を抑えてなんとか逃げ仰ることというわけだ。


『クリジア!!そんなこと考えてる場合じゃないんだよお前!さっさと逃げることだけ考えろって!!』


『……心配すんなよダンタリオン、幸い死ぬわけじゃないし、私だって死にたかないし。いつも通りだろ』


叫びながら私の隣に戻ってきたダンタリオンに、ブエルを睨みつけながら言葉を返す。何かを言いかけたダンタリオンを制して、纏衣を戻す。


『そう、いつも通り。生きて帰れば勝ちだろ』










『ってカッコつけておいてやることは逃げなんだけどさぁ!!』


私は今、全力で市街を走って逃げている。


あの身体能力を持った相手にまともに近接戦を挑んだところで勝ち目は当たり前のようにない。ダンタリオンの魔法はあるが、一撃で殺せない悪魔相手にだと時間稼ぎが良いところだ。加えて、変に早く逃げ切ったりして、ブエルが別のところに流れてしまうのも避けたい。もっとも、全力で逃げても逃げ切れるのかはまだ怪しいところなのだが。


『鬼ごっこ?私、そんなふうに遊びたいわけじゃないわ』


こっちは遊んでいるわけでもないんだという文句は飲み込みつつ、私はある程度人間がいたことを確認している街の中心部を目指して走っていた。今からやろうとしていることは最悪に近いことだが、上手くいけば安全に逃げ切ることができる手段だ。


『もう!どこまで行くつもりなのかしらっ!』


『飽きたなら追うのやめてくれても……は?』


ブエルの不満を訴える声に、視線を向ける。その目に映ったのは信じたくない光景。


あれだけ強力な回復の魔法があり、あれほどまでの身体能力を持っているのなら、バルバトスのように他の魔法はさほど得意ではないのだろうとたかを括っていた。


ブエルが手に携えているのは鮮烈な光を放つ雷。素人目に見ても、かなりの高出力の雷魔法を弓矢のような形に圧縮し、私に狙いを定めているのが目に映る。


『"神雷の星矢ラヴヴェロス・カデンテ"!』


雷の矢が放たれたと思ったのとほとんど同時に着弾し、私の脇腹を焼き焦がして消し飛ばす。一歩遅れて激痛が走り、迫り上がってきた血が口内を満たした。即死になるほどの怪我ではないが、走る足を止めるのには十分すぎるくらいだ。


私を貫いて飛んでいった雷の矢は、遠くで炸裂することもなく突き抜けていった。魔法には詳しくないが、あの密度の魔法を押し固めたままにするのはかなり高度な魔法技術なんじゃないだろうか。天は二物を与えずなんて言葉があった気がするが、どう見ても二物を与えられた化け物に追われたことがない奴が適当なことを吐かしたに違いない。


『ぐっ……!!』


『ほら、捕まえた!』


ブエルが私の髪を掴み、自分の方へと引き寄せる。髪を引っ張られた痛みの直後に、腹に風穴が空いた。赤黒い液体とともに、質量を持った柔らかい塊がいくらか眼前にぶちまけられる。自分の内臓を凝視する羽目になるような奴も、何度も死に目にあうどころか事実上絶命する奴も、世界は広いとは言うがそう多くはいないだろう。

 

私がそんな暢気なことを考えながら、意識を手放す直前、ブエルの腕が引き抜かれ、確実に致命傷であった怪我が何事もなかったように治癒される。そのおかげで身体はあんな悲惨な絵面を繰り返しているわりには一切の不調がない。しかし、痛みや死といった苦痛が与えてくる負荷は、肉体だけにかかるものではなく、正直なところ死に続けるのはまずいという直感だけははっきりとある。

 

『マジで何したいんだよ、化け物!』

 

私の髪を掴んだままのブエルの腕を斬り飛ばし、胴に斬撃を叩き込んでから蹴り飛ばして距離を取る。ブエルは斬撃の痛みに若干顔を顰めはしたが、然程気にした様子もないまま損傷した身体を回復させて笑う。

 

『やぁね。ずっと言ってるじゃない。楽しく遊びたいのよ!』

 

『なら一人で遊んでろ!!"雷炎の飛両刃ラヴティア・コルタール"!!』

 

私の放った炎と雷の刃を、ブエルは左右の手で水と土魔法を器用に発動させて打ち消した。先程の雷の矢で思った通り、この何も考えていない能天気な態度、不気味なほどに快活な表情、龍狩に比肩するほどの身体能力のいずれとも裏腹に、かなりの魔法の腕も有しているらしい。

 

複数の属性の魔法を同時に使用するというのは言葉で言うよりも高度な技術だ。私は今、ダンタリオンがリアンとリオンでそれぞれ魔法を使ってくれているので、炎と雷を同時に扱うような真似ができたが、ブエルはそれをいとも容易く一本でやってのけた。


おそらく、除け者の巣でもっとも魔法に長けているフルーラさんでも、複数の属性の魔法を同時に使うというのはいくらか梃摺るとは思う。逆に言えば、ブエルはそれ以上か、少なくとも同等の魔法技術を持っているという証明でもある。

 

『何でもありかよ!くそっ!!』

 

盛大な舌打ちと罵声と共に、私は再びブエルから逃げるために走り始める。目指している市街はもうすぐそこまできている。確実に逃げられるとは言わないが、ブエルという悪魔のこの性格、というより性質を考慮すれば、私の作戦は少なくとも間違いではないと信じたい。


欲を言えば、それを確認するための方法がどこかに転がっているのが理想なのだが、そこまで旨い話はなかなかない。そう諦めかけた時、目の前に一人の男が通りかかった。

 

『っ!ラッキー、ついてるかも今日の私!』

 

男はごくごく普通の一般人、パッと見た印象では企業で主にデスクワークを生業にしていそうな、そこそこ見た目も綺麗な男だ。当然、悪魔どころか戦地には縁のない人間だろう。

 

『恨んでくれて構わないけど、申し訳ないと思ってるって言っとく!!』

 

そんな見るからにこの二か国の戦争が生んだ悲劇に巻き込まれた哀れな男の喉に、私は薄っぺらな謝罪を述べながら刀を突き立てた。

 

男は何が起きたかもわからないまま、悲鳴の代わりに風が細い隙間を抜けていくような音を出して、全身が脱力し崩れ落ちていく。そんな男を引っ掴み、道に投げ捨てるようにして放る。

 

『ほら!死人が出るぞイかれ悪魔!!』

 

私がそう言うが早いか、ブエルは打ち捨てられ風前の灯火となった男の方へと駆け寄り、その手で男に触れる。男はさっきまでの私のように、ブエルが触れた瞬間に致命傷だったはずの傷が完全に回復し、この一連の異様な光景に思考が追い付かずに呆然としているようだった。

 

私はというと、そんな男に若干の申し訳なさを感じつつ、ブエルは“目の前で人が死ぬことを絶対的に忌避する”という確信を得たことに、内心全力のガッツポーズをしながら走り続ける。人が出来るだけ多くいる空間にさえ出てしまえば、今の確信を踏まえてほぼ間違いなく逃げ切ることができる。

 

『ダンタリオンの魔法使ってる余裕もない今!これは相当僥倖ってやつじゃない!?』

 

『考えてること悪魔よりひどいからなお前!反対はしないけどさあ!』

 

『反対しないなら黙って賛成だけしとけよなお前も!』

 

ダンタリオンと声はないままの言い合いをしつつ走る。

 

ダンタリオンの魔法が機能しきらないのは、今回はダンタリオンが悪いというわけではない。そもそも論で私の魔力量が少ないこともあるし、私が絶命することはイコールでダンタリオンの魔力の経路が断たれることになる。


加えてダンタリオンの魔法は”見る”魔法である以上、纏衣状態では私がブエルにやられるたびに魔法を起動させることが実質的に不可能になってしまうという諸々の原因がある。並大抵の奴が相手なら文句なしに強力なのだが、今は残念ながら私の方に余裕がない。

 

あのアモンにも通用した以上、効果がないことは決してないとは思うが、アモン相手にダンタリオンの魔法を使えていたのは、私一人ではなかったことと、後先を考えずあの瞬間さえ乗り切れれば良かったことがある。そしてなによりアモン自身が本気ではなかったことが大きい。今は私は一人だし、ここだけを乗り越えても事態は全く好転しないし、ブエルは本気で私を壊しに来ている。こんな状態では逃げに専念するので精一杯というわけだ。

 

『もう少し走れば最初に治ってた地帯に戻る……!』

 

市街地を駆け抜け、曲がり角を曲がって顔を上げる。初めに私と雪女が居た広場に近い場所。ブエルが治しながら進んで来たであろう地帯には、思った通りに人が日常を過ごすように歩いている。

 

今ならなんとなく理解が出来るが、おそらくこの辺りの人間も建物も全て、あの鉄の雨による破壊とブエルによる再生をずっと繰り返していたのだろう。その結果があの記憶に蓋をした老紳士のような状態であり、戦火と黒煙が周囲で立ち昇るような異様な光景すら気にせず、というよりは無意識に認識しなくなるまで壊された人々。それがこの一帯の違和感の正体というわけだ。

 

『想像したくない話だけど、今は都合がいい!』

 

『もう!人間さんはどこまでいくつもりなのかしら!』

 

『お前から遠く離れたいんだよ!悪魔ぁ!!』

 

私は狂った平和を享受する人の流れに駆け込み、目につく人間を片っ端から斬りつける。一家団欒の笑顔を、無邪気に走る子供を、優しそうな老夫婦を、とにかく目の前のものを斬り捨て、また次のものをと刀を振るう。

 

ブエルは私が斬り捨てた人間を一人一人、丁寧に取りこぼしなく触れて治しながら私を追う。いくら一瞬で治癒できるとはいえ、この数の怪我人を作ることが出来れば人の群れに紛れながら離脱できる。そう思った。

 

『ちょっと!酷いことする子はめっ!するわよ!』

 

広場の中央付近にきたあたりでブエルが私の腕を掴む。流石に狙いがばれたのか、こいつの行動原理が偶然私を止めることを優先したのかはわからない。しかし、ここで逃げ切れなければ私にブエルから逃げ切ることが出来る手段はないに等しい。

 

『安く済んだ方だ……!やるよそれ!!』

 

ブエルに掴まれた自分の腕を斬り飛ばす。

 

一瞬、ブエルが呆気にとられた隙に、近場に居た人間を数人適当に斬りつけ、人の群れに紛れ込むようにして逃げ出す。

 

『無茶苦茶すぎるだろお前!ていうか腕……!』

 

ダンタリオンの驚きと心配と怒りとが混じりあった声が脳裏に響く。

 

私は辻斬の手は極力止めず、走りながら頭の中での会話に言葉を返す。ブエルの姿はもう見えず、人々の悲鳴と困惑が私をうまく隠しているように見える。

 

『安い方だって!辻斬の本領発揮もできたし、上手くやったよこれ!』

 

『お前は悪魔と違って治らないんだからな!?』

 

『わかってるよショックだよ!!けど、とにかくあれに関わり続けるのはまずい!今のメンツで一番戦争慣れしてるのは私で──







視界が一瞬暗転して、回った。







私の腕をブエルが握っている。






『は?』


切り落としたはずの私の腕が握られている。


広場を駆け抜けたはずなのに、眼前に広がっているのは広場の中央から見える風景。


『おかえりなさい。まだまだ遊べるわね。いけない子』


ブエルは私にニコリと微笑みかける。


『なんっがぇあ!?』


何が起きたかわからないまま、ブエルの腕を払い除けようとした寸前で、地面に鞭か何かのように叩きつけられる。一撃で身体中のあちこちが砕けた音がしたが、ブエルはお構いなしにさらに二、三回私を振り回して地面に叩きつける。


砕けていない骨の方が少ないような状態から、急速に回復させられ、その直後に鳩尾に重い蹴りが飛んでくる。


『あんまり離れるとまた逃げちゃうものね。人間さん』


幾らかの内臓を潰されながらブエルに蹴り上げられた私は、今にも吹き飛びそうな意識を必死に繋いで頭を回す。


ブエルの悪魔としての魔法はまず間違いなくこの並外れた治癒魔法だ。ならば何故ブエルの真横に瞬間移動してきたのかだが、おそらく"私が切り落とした腕から私を治した"のだろう。想像したくない話だが、それ以外は考えられない。


血をぶちまけながら自由落下する私の頭を空中でブエルが掴み、傷が治ったとほぼ同時に地面に向けて叩きつけられる。激痛と共に何度死んだかを一瞬考えて、正気を失いそうな感覚がしたのですぐに思考を止めた。


『クリジア!!』


『げほっ……ダン、タリオン……?ああ、纏衣解けてんのか……』


『急にお前が溶けたみたいに消えたからね!!今大丈夫なの!?』


『大丈夫とは、言い難いけど……』


見たこともないほど心配と焦りが滲んだ顔で言うダンタリオンに、適当に言葉を返しながら眼前の災厄、ブエルを見据える。


ブエルは未だに楽しそうな笑顔のまま、私への攻撃の巻き添えになった物や人を治している。


『けどあんなのを、二人の前に連れてくわけにはいかないし……』


地面に叩きつけられた時にまた幾らかの骨が砕けているが、ガタガタの身体で無理矢理に刀を構える。


『クリジア!!なんか変だよ今のお前!!』


『いつも通りだって……大丈夫、怪我はしてるけど』


今回の仕事では私が一番悪魔や戦争に関しては慣れている。サルジュはまだ悪魔と戦った経験があるかもしれないが、エルセスさんとこんなものを会わせるわけにもいかない。私がここでさらに逃げられる保証がない以上、次に私にできることはこいつを可能な限り足止めすることだ。


戦争という空間で人が死ぬことは珍しくない。貴族だろうが貧民だろうが、老若男女いずれも等しく当たり前に死ぬ。そんなことは痛いほど理解しているつもりだった。


『あら、悪魔は別に帰ってこなくてもよかったのだけれどね』


ブエルの掌底が目の前に迫っていることに気がついたと同時に地面に叩きつけられる。


当たり前に人が死ぬ状況なら、私や仲間が死ぬことだって当たり前だ。けれど、実際にそれに直面した今、聞き分けのない、心底くだらない感情論だが嫌だと思った。


自分だけならいいが、家族は嫌だ。


『っ……あぁ!』


頭を叩き潰され、即座に治される。はっきりとしていない意識のまま刀を振るい、ブエルにかすかな切り傷を負わせたが、直後に雷で全身を焼かれる。


治り、殺され、また治る。


もはや自分が生きているのかもわからない。


『クリジア!!なんで逃げようともしないんだよ!お前いつも自分が好きだとかなんだとか、そんなことばっか言ってるだろ!!』


聞き覚えのある声が聞こえてくる。


『今度、こそ。守るんだ、守れる、ように、家族なんだ……私の、宝物。あの時とは、違うんだ……大丈夫、大丈夫……』


『っ…………!!もうまずい……!』


意識が途切れる。


最後に見えたのは、私の親友の顔だった。










クリジア・アフェクトという人間は矛盾と葛藤の塊のような人間だ。


自分さえ良ければ良いと思いながら、誰かのためになる事を捨てられない。わかってるんだと繰り返し続けながらも、それでもと文句を言うことをやめられない。聞き分けがないとか、大人になれない奴だとか、月並みな言葉で言えばそんなふうに言われるような人間だと思う。


『あら?また不思議な格好になったのね。それなぁに?』


だからこそ私たちは彼女が好きだ。


『教えねえよ気狂い女……!』


『そう、残念』


きっと、生まれた場所が違えばクリジアは家族や友人が好きな一人の女の子として生きて、穏やかに人生を終えていた。それくらいに性根の部分じゃ優しくて、お人好しな奴だ。そういう奴が笑ってる世界が楽しい世界なんだってことに、最近ようやく気がついた。


バカを騙して嗤った時も、自業自得で身を滅ぼした奴を貶した時も、楽しくなかったわけじゃない。けれど、そんなものよりもずっと楽しいことがあることを、友人に巡り会えてから初めて知った。


『"心獄の檻カルケージ・ゲミュート"!!』


ブエルを覆い隠すように、球状の檻がブエルを捕える。


『これ、魔法?こんなこともできたのね』


『"私たち"はな!!』


檻がブエルを完全に包み込む。ブエルは中で脱出するためにと魔法を放つ。しかし、魔法が檻を捉えることは決してない。


それもそのはず、この檻はただの幻で、私たちが作り出した存在しないものなのだから。


『逃げるよリアン!!あれどのくらい保つの!?』


『そんな保たない!即席だから大したもんじゃない!!』


『色々やって逃げるしかないわけね!クリジアは"沈めた"!?』


『そっちはバッチリ!これ以上起きてたらあいつ本当に完全に壊れるとこだし!!』


クリジアの身体を使って私たちは走る。


幸い、ブエルのおかげで肉体的なダメージはほとんどない。逃げる分には申し分ない身体能力が残っている。


『聞こえてないだろうけど聞けよクリジア!お前が家族だとか仲間だとか守りたいのと同じで、私たちはお前がいないとつまらないんだからな!!』


とにかく、サルジュかエルセスと合流することを目的にする。通信魔具は激戦の中で壊されてしまっているが、異様に派手な戦闘の形跡に近づけば可能性はある。


『それと!!仲間なんだったら少しは信用しろ!!捻くれ者の分からず屋!いいか!私はお前が信用しなかったお前の仲間を信じて逃げるからな!!』


意識の奥底に沈め、眠っているような状態のクリジアに聞こえはしないであろう言葉を投げつけながら走る。


『素直じゃないと損するんだよ、バーーカ!!』


エルセスへはもちろん、サルジュへの態度も心配が先に来ているし、どこまでも冷酷にはなれない。そんな自分をわかっているはずなのに結局こんなになるまで意地を張る。今がこんな状態じゃなければ思いっきりぶん殴ってやってるところだ。


私たちの親友は、生い立ちも含めてこうならざるを得なかった。それはわかっているのだが、やはり致命的なところでこいつはいい奴だ。子供みたいな夢を持って、あの時手の届かなかったものに今も囚われている。そのくせ自分が誰かの大切なものに入っている自覚がほとんどないのだから手に負えない。


今、お前の隣にはたくさんお前を家族だと思ってる奴がいるだろうがと大声を出してやりたい。


『……文句言うためにも!!お前が助ける気のないお前を、私たちは勝手に助けるからな!!覚悟しろ鈍色ぉ!!』


生きて帰れば勝ちだ。


勝ち方すら忘れた奴には黙っててもらって、私たちは勝ちに行く。


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