39話 正しいもの


『にしてモ……何事も思い通りにはいかねエもんダ』


歪な杖をガリガリと引きずって歩きながら、悪魔はやれやれと言った様子で呟いた。戦争の最中とは思えない、まるで本の頁を気怠そうに捲るような様子だ。


そんな悪魔の姿に反して、クリジアがいるであろう方向からは建物の崩壊と修復が続き、遠方からは鈍く響く爆発音と徐々にその勢いを増しているように見える黒煙が立ち昇っている。


『お前、まダ頑張んのか?どうせ全員死ぬんだし、面倒なら諦めテも良いんじゃねェの?』


『全員死なないために頑張んのよ。あんまり人間バカにしないでもらえる?』


『やめとけヨ。努力に報酬なんテ付いてこねえゼ』


じっとりとした汗が滲むような重苦しい圧と、安否のわからない仲間たちへの不安がのしかかってきているあたしとは裏腹に、悪魔は緊張感など微塵もない様子で、大きな欠伸を一つしてから頭を掻く。


『まァ、ツイてなかったなと同情はするがナ。事故で一人だけ即死できなかっタようなもんだ。大ハズレとは言わネェが、ハズレなのは間違いネェ』


『もうあたしがあんたに負けたみたいな言い分じゃない』


『ワタシに触れたラ自分が傷つく状態で、もう何もできやしねェだロ?』


悪魔の挑発混じりの発言に、うっと言葉に詰まる。実際のところ、相手を斬れば自分が相手を斬ろうとした箇所を斬られてしまうという風変わりな魔法のせいで、あたしからこの悪魔に手出しをすることができないのは事実だ。


斬撃じゃなければ問題ないとかいう話でもなさそうなあたり、下手に相手を凍らせようとなどすれば、あたしが逆に氷漬けになってしまう可能性もある。


『……あんたはなんで攻撃してこないわけ?』


『あン?』


『あたしが攻撃できない状態なんだし、一方的に嬲り殺しにすれば良いじゃない。そういうの好きそうだし』


悪魔の様子にあった違和感。今、あたしからは攻撃ができない以上、防御的な行動をしないというのは理屈としてもよくわかる。だが、先程までこちらを殺してやろうとしていた側が、ネタも割れているカウンター技を構えてのんびりとしているのはどうにも妙だ。


あたしが攻撃できないのを良いことに、手に持ってる杖だの、得体の知れない魔法だのでさっさとあたしを殺してしまえば良い。少なくとも、あたしが悪魔の立場なら絶対にそうしている。


『……もしかしたらあんたのそれ、自分にも跳ね返ったりするのかしら?じゃないとそんな呑気な様子の理由がないものね』


悪魔は一瞬大きく目を見開き、不気味な声で笑い始める。


『ヒッヒッヒッヒッ……お前、良いナ。カッとなるタイプだと思えバ、案外冷静にモノを見てるじゃねーカ』


『バカだと思ってた?ムカつくけど残念だったわね』


『そう捻た解釈をすんなヨ。良いことだっテ褒めてんダ。当事者意識が足りてねェ奴はこういう時ニ馬鹿を踏ム。油断すル、考えなしに斬りかかル、まあ原因なんザなんでも良いが、早死にする奴ってのハそんなもんダ』


悪魔はまるで学び舎で教壇に立ち、子供に言い聞かせるような態度で話し続ける。その様子はあたしの知る悪魔のどれとも一致せず、奇妙さすら感じる程に人間らしい。それ故に得体の知れない不気味さがあった。

 

『つまリ、そういう意味じゃお前は非常に賢いってこっタ』

 

あたしの知る悪魔、マルバスはそもそも話し方にも態度にも愛想なんてものはなかったし、悪魔として人間が心底嫌いなんだろうという様子が隠すことなく表に出ていた。だからこそある意味ではわかりやすく、明確に敵意や悪意を見ることができた。

 

バルバトスは人間味が一切ない、本当に無味無臭の化物といった調子だった故の違和感、忌避感はあったものの、人間ではないものなのだという絶対の確信を得られた分、最初から『こいつは異物だ』と思えた。

 

そのどちらにも当てはまらない不気味さ。絶対に人間とは違うものが、まるで人間のように振舞っている違和感。

 

『マ、総合的に見りゃこんなとこに来てル時点で大馬鹿野郎だがナ。何しに来たんだヨ。理由なんざ知ったところデ意味はねえけどサ』

 

『それなら教えてあげる意味もないでしょ。自分で言っててそう思わなかった?あんたも大概馬鹿みたいね』


『ヒッヒ!口が達者で良いことダ』


悪魔はそう言って笑うと杖を構え、それに合わせてあたしは剣を構える。


『向こうの相手がブッ壊れるのをのんびり待チでもしようと思ったガ、存外頭の良かっタお前に免じて辞めておこウ』


『それはどうもありがとう。睨めっこで勝負しなくちゃかと思って困ってたのよ』


歪な杖と氷の刃がぶつかり合う。


『折角だシ楽しくやろうゼ。人間』


『素敵なお誘いだけどお断りよ。悪魔!』


お互いに得物を振り払い、鍔迫り合いから距離を取る。悪魔の足元からは先程までも使っていた黒い泥のようなものが溢れ出て来る。


あの泥の正体はわからないが、マルバスの毒のように形状や特性をある程度変化できるものなのだろう。そして、あれだけしっかり魔法と思しき力を使っているにも関わらず、未だに悪魔からは魔力を一切感じない。


『あんたのそれ、本当に気味悪いわね。なんなのよ』


『あァ?教えてやったロ。呪いだヨ』


『抽象的すぎんのよ!』


冷気の刃を飛ばし、それを悪魔が杖で振り払い消滅させる。やはり魔法に対してはめっぽう強い性質を持っているらしい様子に舌打ちをしながら、距離を詰めて斬り掛かる。


『抽象的モ何も、そのままの意味なんだがナァ』


『教える気はないってことね!だったら良いわよ別に!』


剣と杖が何度かぶつかり合い、大きく斬り払う動きでお互いに再び少し距離を取る。


奇妙な黒い泥は気掛かりだが、派手な魔法を使用する様子もないところを見るに、ダンタリオンのように戦うことそのものにはあまり向いていない悪魔な可能性はある。最も、あたしと切り結んでいる時点で、身体能力は並以上のものがあるのだが。


『わからねぇってンならもう少シわかりやすく使ってやるヨ』


悪魔が杖を地面に突き立て、何か形を作るように両手を組み合わせる。


『なァ、人間。悪魔の正体は知ってルか?』


『正体……?意思のある魔法とか、そういう?』


『ヒヒッ、もっと簡単なもんサ』


黒い泥が形を作り上げ、白く巨大な女性の姿を模っていく。


『悪魔はナ、祈りが生んだ呪いダ』


瞬間、全身の毛が逆立つような、理由のない死の直感に身体が弾かれるようにして動く。自分の前に氷の盾を貼り、身を屈めて衝撃に備える。


悲歌絶唱白愛嵐妃ひかぜっしょうはくあいらんひ


直後にあたしに叩きつけられたものは暴風。言葉の通りに、暴力的なまでの風が吹き荒れ、その手で撫でたものを一切の区別なく吹き飛ばしていく。


建物も、地面も、あたしの作った氷の盾も、あたし自身も何もかもを纏めて吹き飛ばし、その悉くを切り裂くような風。上下左右もわからないまま後方に吹き飛ばされたことだけは理解できたので、受け身を取ることは諦めて雪製のクッションで全身が粉々になるのを防ぐことに集中する。


『っくぁ……!!』


自分で作った分厚い雪と共に建造物に突っ込み、おそらく二、三枚ほど壁をその勢いのままぶち抜いてようやく身体が止まった。吹き飛んできた方向に目をやれば、つい先程まで立ち並んでいた建物が根こそぎ削り取られたようにして消し飛んでしまっていた。


これだけのことをやってなお、魔力の動きが全く感じられないのはなぜなのかはわからない。しかし、これまでのあの悪魔の攻撃とは比べ物にならない威力と規模に血の気が引く。


『誰かノ幸せを願うことは誰かノ不幸を願うことと同義ダ』


ガリガリと杖を引き摺りながら、悪魔がこちらに歩いてくる。


あたしは手足の動きを確認して、一先ずは五体満足であることに安堵する。意識を切り替え、一瞬で廃墟と化した道を歩き、ゆっくりと近づいてくる悪魔に視線を合わせた。


『誰が憎いとカ、誰がムカつくだとカ、お前ら人間ハ何年も前からあらゆる負の感情を吐き散らしてきタ』


ガリガリと引き摺られている杖の先から、黒い泥が滲み出るようにして溢れている。


『憎い、苦しい、ムカつく、悲しい……まァ、とにかく色んなもんがあル。やり場のない理不尽ガ堆積した泥。それに適当な吐口をくれてやルのがワタシの呪いっつーわけダ』


『……ずいぶん後ろ向きで暗そうな力じゃない』


『暗いものばっかじゃネえさ。言ったロ?幸せを願えバ、誰かを不幸にすル。大元が明るくて前向きでモ、降り積もるものは結局呪いダ』


悪魔が杖を振り抜き、黒い泥が無数の手の形を成しながら、真っ直ぐにあたしの方へと走ってくる。


横に飛んで泥の手を躱し、それに合わせて斬り掛かってきた悪魔の杖を剣で受ける。悪魔は背丈だけで言えば子供で、四肢も身体も不健康な細さをしているというのに、力自慢のあたしとほとんど同等の膂力があるのはなんとも納得がいかないなと呑気な愚痴を考えながら鍔迫り合いを繰り返す。


『例えば、戦って生き残りたいと願ったとしよウ。それを叶えル一番の方法はなんダ?』


『戦って勝てば良いって話でしょ』


『その通リ。敵を殺せバ良いのサ』


お互いに距離を取り、黒い泥の塊と氷の槍をそれぞれが放つ。互いに一発を残して相殺し、残った一発をあたしは躱し、悪魔は弾いて再び前に踏み込んだ。


再び悪魔の杖とあたしの剣がぶつかり合い、悪魔の顔が目の前まで迫る。

 

『不思議だナ。生き残りたいと願っタだけなのに、結果的に一人の命を終わらせちまっタ』

 

『屁理屈が好きなわけ?あんまり斜に構えてばっかいると損するわよ』

 

『ワタシの力の起源をわかりやすく解説してやってルのさ。もっと身近な話をしようカ?お前はワタシを止めようと戦ってんだロ?』

 

鍔迫り合いの最中、悪魔の足元から氷柱を出し、胴体を貫こうとする。しかし、悪魔は杖で剣を滑らせるようにして力比べから脱し、その動きのまま氷柱を躱してみせた。

 

悪魔の杖の形状は殆ど剣と遜色なく、ワノクニでは太刀だとか長刀だとか、そんな呼ばれ方をしていたものに近しいが、振るい方や使い方を見てる限り、剣術ではなく杖術に近い。やはり一応は杖なのだろう。身の丈よりも長い歪な杖を、器用に振りながら悪魔はニタニタと不気味な笑みであたしを見る。

 

『ワタシが吹っ飛ばしタこの瓦礫の山の中にあル死体は、お前とワタシが戦わなけれバ死体じゃなかったかもしれねぇナ』

 

『なっ……!?人がいたの!?』

 

『気にすんなヨ。遅かれ早かれ全員殺スってワタシが言ったロ?何もお前が責任を感じる事なんてないんダ。ちょっと順番が狂っただけサ』

 

悪魔はにっこりと笑いながら、先程と同じ教壇に立った教師のように、子供に語り聞かせる様に話す。

 

人が死ぬという鮮烈な経験は、あたしの人生ではほとんど発生していない。寿命で亡くなった知り合いだとか、そういうのはいくらか経験してきたが、手の届く範囲で誰かが、理不尽に殺されるというのは、自分で思っている以上に思考回路を鈍らせる。

 

『まァ、死んじまった以上、生き残ル微かな可能性すらゼロだがナ』

 

『このっ……!!』

 

その現実を突き付けるかのように、ぐにゃりと歪んだ笑顔で悪魔は嗤う。

 

『そう怒るなヨ。戦争なんてそんなもんダ。誰かの為だろうガ自分の為だろうが、金でも名誉でも命でもなんでモ、どれだけ崇高だろうが下劣だろうガ、死ぬときゃ全員虫けらみてぇに死んじまウ。そんなもンいちいち気にしてたら疲れちまうゼ』

 

『自分でこれだけやっておいて何を!!』

 

『あともウ一つ』

 

斬りかかる為に踏み出そうとした足が、踏み抜いた地面に不自然に沈み込む。驚いて足元を見れば、黒い泥で形作られた人の手があたしの足を掴んでいる。

 

『怒ると視野ガ狭くなるそうダ。ヒッヒッヒ』

 

まずいと思うのとほぼ同時に、泥が一気に噴き出してあたしの身体を包み込もうとする。振り解きようがない程に強く、あたしの足に纏わりついた泥の手を咄嗟に凍らせ、衣類に加えて皮膚がいくらか剥がれるのを感じながら無理矢理足を引き抜く。痛みはするが、得体の知れない泥に包まれるよりはマシだ。

 

無理矢理引き抜くと同時に飛び退いたせいで、後方に勢いよくすっ転んだようになってから慌てて体勢を整える。

 

『おいおイ、無茶すんなヨ。痛そうだナァ』

 

『痛いで済んでるなら良いほうなのよ……!不意打ちだなんて、ホントに陰険な悪魔ねあんた!』

 

『明るク快活な悪魔も様子がおかしくて怖ぇだロ。しっかしまァ、自分が傷つくのは然程気にしねぇのニ、いるかもわからん他人の話でそこまデ怒るとはナ』

 

『人間らしくテ良いことダ』と悪魔は呆れた様子でパチパチとやる気のない拍手をあたしへ贈る。こういう細かなところの感情の変化や態度、言葉の端々から感じられる奇妙すぎる程の人間らしさが、得体の知れない不気味な術とはまるでちぐはぐで、それが一層気味が悪い。

 

『よくそれデ戦争なんざに顔出せタもんだ。尊敬するゼ』

 

『ムカつく顔から似たようなこと言われたことあるわね。バカにしてると思っていいかしら』

 

『ワタシはちゃんと尊敬してるサ』

 

悪魔の軽口に舌打ちを返すが、悪魔はニヤニヤとした不気味な笑みを浮かべたまま、あたしの悪態を気にも留めていない。口喧嘩が強い方ではないし、こういうのを相手するならクリジアの方が向いていそうだなと、遠回しな悪口を考えたあたりで、あたしの後方から人の足音と気配を感じて振り返る。

 

『国連軍……!?』

 

視界に映ったのは一個小隊程度の規模の国連軍。おそらく、先程の暴風による大規模な破壊を確認してこの場来たのだろう。戦争の早期終結とか、人命救助とか、現状確認とか、理由はいろいろあるのだろうが、少なくともこの黒い檻に閉じ込められた被害者なことは間違いない。

 

ただ、悪魔と戦う異常事態にどれだけの人が対応できるのだろうか。ただでさえ忌避される悪魔の中でも、一際異質なこいつを前にして小隊全員が冷静でいられる保証は全くない。訓練されているとしても、所詮は人間の集まりであることには変わりないのだ。あたしだって最初にマルバスと会った時には吐きそうなほど怯えたし、バルバトスと対峙した時の悪寒を未だに覚えている。

 

『また他人の心配カ?優しいなァ、人間』

 

 意識が外れた僅かな隙に、悪魔の手があたしの頬に触れる。すうっと、優しく撫でられた感覚に全身が凍り付いたような悪寒を覚え、慌ててその場から飛び退いた。異常なまでの忌避感はあるものの、それ以外に異常は感じない。

 

それとほとんど同時に、国連軍もこちらに気が付いたのか、行軍速度を上げてこちらへと近づいてくる。

 

『おーおー、元気な奴らだナ。ほラ、もたもたしてるとまタ関係ない奴が死んじまうゼ?』

 

悪魔がそう言うが早いか、あたしは国連軍の方へ振り返る。先遣隊として入ってきたということは、素人ではないにせよ先鋭部隊というわけでもないだろう。例えばマギアスの高名な魔法使いがいるだとか、各国の有数の武人がいるだとか、そういう本格的な殲滅部隊ならばあたしが邪魔になるような話だが、そういった部隊が突入するのはあたし達の本来行う予定だった現状調査と報告が完了してからの手筈だった。つまり、ここにいるのはあたし達とほとんど同じ、威力偵察のための人員というわけだ。

 

そんな人達をこの悪魔と対峙させるわけにもいかない。一騎当千の実力者も数の暴力には敵わないなんて話があるが、あくまでそれは同じ土俵に立っているときの話で、蟻が群がって竜に勝てるかと言われれば答えは否だ。無意味な犠牲を増やすくらいなら、ここで引き返して別の場所の救助活動に当たってもらった方が何倍も良い。そう考えて、こっちに来るなと声をあげる。

 

『……っ!!……!?』

 

あげたつもりだった。

 

まるで喉を押し潰されたかのように、声を出そうとすると息が詰まり、音が出ない。何度試しても、大声はおろか微かな呟きすらも声として成り立つことはなく、苦しげな呻き声のような、奇怪な音としてしか出てこない。

 

異変に戸惑いながら、必死に身振り手振りで引き返せと伝えようとしたが、国連軍の先頭に立っている男があたしと悪魔に気が付き、あたしへ心配の声掛けをしながら、陣形を整えてこちらへ向かってくる。

 

『お前みたいなのニはこういう方が効くだロ?そのまま暫ク、静かにしてナ』

 

あたしと国連軍の様子を見て、ぐにゃりとした、歪な笑顔で悪魔が嗤う。

 

あたしは引き返させることを諦め、これ以上国連軍が近づいて来られないように氷壁を作ろうと剣を振り上げる。しかし、振り下ろす直前で黒い泥に腕を絡めとられ、地面に引きずり倒されてしまう。

 

『不帰の御魂、声無き産声、地につく事無く堕ちし天の子よ』

 

悪魔の腹部が裂け、そこから不気味な牙と舌が覗く。

 

『異の身を借りて生れ堕つ。血肉恋しや、妬ましや。命恋しや、妬ましや』

 

悪魔の腹に開いた異形の口から、ごぼごぼという不気味な音と共に、赤子の泣き声のようなものが響き始める。

 

『怨嗟沸沸・堕胎天子』

 

腹の口から大量の黒い泥が吐き出され、それが無数の赤子を模り、苦痛の声とも産声ともとれる不気味な泣き声をあげながら、国連軍の足元へ這いずっていく。戦場に赤子の泣き声が響いている異常さや、見かけの恐ろしさもあるが、それ以上に確実にアレは良くないものだという確信めいた予感に、全身があらゆる警鐘を鳴らしている。

 

あたしの方へは何故か赤子は向かって来ないが、泥で自由を奪われ、目の前の人間を助けに行くことも、逃げろと声をあげることもできない。

 

赤子の姿に国連軍はたじろぐが、泣き叫び這いずる赤子はお構いなしに進み、その足に縋りつく。赤子が人に触れた瞬間、悲鳴が響く。

 

『何が起きてルって言いたそうだナ。思ってることハ声に出さねェと伝わらねえぞ』

 

『~~~っ!!!』

 

『冗談だヨ怒んな人間。そうだナァ、ありゃ簡単に言えば厄の塊ダ。触れた相手の命を脅かスんだが、生れる事すらないまま死んダあいつらは命に縋り続けル。別にそれで生き返るわけでモねえけどナ』

 

悪魔は『健気なこっタ』と言って嘲るように笑う。態度は軽薄だが説明に嘘はないようで、あの赤子に触れられた人はまるで病気のように肌が変色したり、大怪我でもしたかのように動けなくなったりと、様々な症状に苦痛の声をあげている。

 

人間の悲鳴、赤子の泣き声、悪魔の笑い声、建物が爆ぜ崩れる轟音、一つたりとも調和しない不協和音の大合唱と眼前の異様な光景に、堪らず胃の中身をぶちまける。

 

『おいおイ、気にすんなっテ。どうせ他人だロ。それに、遅かれ早かれ全員死ぬんダ』


泥に身体が持ち上げられ、空中で拘束が解かれる。身体が自由落下を始めたと同時に悪魔の杖に強打され、メキメキという嫌な音が内側から響くのを感じながら吹き飛ばされる。


『お前、大方不特定多数の誰かを助けルって思ってここに来たんだロ?ご立派でいいことダ。それで?誰か一人でも助けられたのカ?』


血と吐瀉物が混ざったものを吐き出し、赤子と悲鳴の群れの中で地面に蹲って嗚咽するあたしを、悪魔は何度か踏み付けてから蹴り飛ばす。


『抱えきれなイものを抱え込んだつもリでいるから取り零ス。落としてかラ本当に大事なものはこれでしタって言うつもリか?』


悪魔の声が、厭な音として頭の中で反響する。クリジアにも同じようなことを、あの時に言われた。


優しいことは、誰かに感謝されることは、人のためにいることは悪だろうか。そうではない。そうではないが、その正しさを免罪符にするのはどうだ。間違えてないから仕方がない。正しいだけだが許される。そこまで綺麗に世界ができていないことは痛感した。


だって、あの子は泣いていたじゃないか。


『ヒヒッ!お優しくて良いことダ!死んダ後は誰のせいにすルかは決めたカ?最後まで誰かのために頑張りましタって褒めてやるヨ!』


悪魔が杖を振り抜き、地面に這い蹲るあたしをかち上げる。地面に墜落する前に、振り抜かれた杖があたしの鳩尾を捉え、中身をいくらか潰してから瓦礫の山へと吹き飛ばした。


傭兵を始めたのは、人の役に立てると思ったからだった。育った小さな村町ではちょっとした魔物を追い返したり、ごろつきを返り討ちにできる程度には強かったから。世界のことなんて知らなかった。身近な人たちと同じように、みんなを助ければ良いんだ。そう思っていた。


あたしの見てきた世界はどうだ。


街一つの人間全てを皆殺しにして、表情一つ変えないような化物がいる。


あたしと同い年くらいのくせに、人の死に嫌というほど向き合った奴がいる。


ただ、ただ運命に愛されなかっただけで、全てを奪われ、諦めて泣いていた女の子がいる。


『お前みたいナ奴が願い、呪うのが正義ワタシだ。じゃあな人間。お前の死んダ理由になりそうな奴らモ、後でちゃ〜んと殺してやるヨ』


悪魔があたしの髪を掴み、瓦礫の山から引き上げる。


良い人には良いことがあってほしい。身近な人には幸せになってほしい。誰だって、きっと当たり前にそうやって考える。誰もがそう願う当たり前の中で、ただ少し運が悪かったから踏み躙られる。そういうことが当たり前にあるのがこの世界なんだと、ワノクニで本当はとっくに理解していた。


聞き分けがなかったのはあたしだ。その結果がこれなのだから、無様も良いところだ。


『ご……めん……』


霞む目を閉じ、もう終わってしまおうと思った。瞬間、悪魔が短い悲鳴のような声と共に手を離して後ろへ飛び退いた。


霞む視界に映ったのは、黒い帯のようなものが身体に絡みついた悪魔の姿。


『……なん、で』


夥しい理不尽の中で、ただ唯一己の信じたものを愛した呪いがいる。


誰よりも残酷で、恐ろしく、優しかった黒い毒。もういないはずの呪いの力がそこにあった。


『……!そう、よ……託されたもの……あたしの、守りたいもの……!』


力を振り絞り、巨大な氷の壁を悪魔との間に作りだす。ズタズタの身体を無理矢理起こし、あたしは悪魔と惨劇に背を向ける。


『ごめん……ごめん……!助けられない……助けてあげられない……!!』


激痛と、全身に絡みつく罪悪感と無力感。それを払い除けるように、せめて今は気にしなくていいようにと全力で逃げる。


『俺たちは生き残れば勝ちだ』とエルセスさんは言った。あの人は、こういうことが起こりうるのが戦争なのだと知っていたのだろう。だからこそ、ああやってわざわざ何度も言ってくれたのだ。


熟れて潰れた果実のような姿で助けを求める手を、生きているもの全てが憎いと泣き叫ぶ赤子の声を、大切な人たちを言い訳に自分だけ生き残るつもりかとあたしを糾弾するあたしの声を、全て払い除けながら走った。


『はっ、はぁっ、はぁっ……ゔぉぇっ……!!ごめん……ゔぅ、あ……ごめん……!!』


きっと、あそこで誰かを助けるとか、そんなことを言って、何も為さずに死んでいれば、気持ちは楽だった。やりきった、頑張った、そう言い訳ができるから。


あの悪魔の言い分は、悔しいが正しかったと思う。


『……あたし、みんなを、ミリを、マルバスあんたとの約束を、言い訳にして生きる』


今目指すのは、約束した帰る場所だ。


あたしには、死ねないだけの言い訳理由がある。









氷の壁が崩れ、目の前から消えた氷の剣士の顔を思い浮かべて、悪魔は小さく舌打ちをする。


『……本当に何事も予定通りには行かねェもんダ』


溶けて崩れた自身の身体が直っていくのを眺めながら、悪魔は足元の小石を忌々し気に蹴飛ばして溜め息を吐く。


『ヒヒッ。黒い毒、お前は本当に素晴らしイ呪いだヨ。死んで尚も守りたかったカ?たかが人間の一つや二つ、お前が息をするように殺しタ程度にゃ、くだらねえモノのくせニ?』


未だに鳴り響く悲鳴と赤子の泣き声、それを気にする様子もなく、死体も赤子も踏みつけながら、悪魔は地獄をただの街路のように歩く。


『お前だっテ、アイツの事を知らなイわけじゃねえだロ。それでも人間の味方なのカ?呪いのくせに、最後まで……』


悪魔は地獄の中心で足を止め、少しの間だけ空を眺めてから地獄へと視線を戻す。


悪魔の足元から、黒い帯が無数に溢れ出す。


死壊蝕命尽絶黒縄しえしょくめいじんぜつこくじょう


黒い死毒が、人を、赤子を、包み込んで溶かしていく。命というものを悉く呑み込み、蠢き、地獄を喰らい尽くした帯は音もなく地面へと溶けて消える。


『お前の呪い願いは、殺す力だろうガ。なァ、五本目』


地獄だった場所で、悪魔は小さく、嘲るように嗤った。



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