30話 合縁奇縁

旅に出る前、私が知っていた世界は今とは全く違うものだった。


両親がいて、大きな家に私だけの部屋を用意してもらえて、毎日学校に通っていた。そして、当然のことながらそれが当たり前の生活で、私と同じ歳くらいの人はみんなそんなふうに生きているんだと思っていた。


戦争も飢えも遠い空の下、御伽噺や言い伝えみたいな話でしかなくて、現実にそんなことが起きてるなんて到底信じられない。世界がいくら荒々しい時代とはいえ、世界最大の大都市国家サピトゥリアの裕福層に生まれた人間はそんなものだ。


もちろん私も世界の事情なんて両親がニュースの話をしてるだとか、学校で先生が教えてくれただとか、そんな風に他人事でしか知らなかった。


他人事なのは、実際に見てきた今も同じなのかもしれないが。








透き通るような青空の下、私は竜車や人の往来でできたのであろう草原の道を歩いていた。昔、旅に出たばかりの頃は舗装されていない道を見たことがほとんどなかったので、こういう道を見た時に凄くはしゃいだ記憶がある。そのおかげか今でもこういった道は大好きな道だ。


この辺りは情勢は落ち着いていて、戦争だなんだの話はあまり聞かない。世界有数の大国ヴィーヴ・マギアスと貿易都市レゴラメントのちょうど中間にあたる位置。大きな国や国際都市のおかげで、治安がある程度保たれているという少し皮肉な裏事情がある地域。


『ん〜……地図だとこの辺りに村があるはずなんだけど……もう少し先かな?』


今の時間は正午を少しすぎた頃。目標としては村に辿り着いて、そこで何か食べようかと思っていたのだが、往々にしてそこまで予定通りに進まないのが旅というものだ。この地図も放浪商人から面白そうだからという理由で買ったものだし、正確さを期待しすぎるのもよろしくないだろう。


人による話かもしれないが、私は予定通りにいかないことも楽しみの一つと思うタイプの人間なので、案外こういう時間も好きだ。もっとも、私は私の魔法の関係で野宿が野宿じゃなかったり、飲食にほぼ困らなかったりと、旅における命の危機の頻度が常人より少ないのもあるのだけれど。


『……っと、極力使わないようにはしてるけど、やっぱすぐ頼ることを考えちゃうなぁ』


自分の魔法なのだから悪いことはないのだが、なんとなく自分が納得できないという理由に自嘲気味に笑い、地図をしまってから一つ伸びをする。


『日が暮れるまでは目的の村を探して歩いてみよっかな。締め切りも余裕はあるし!』


誰かが答えてくれるわけではないが、よく澄み渡った青空に意思表示をして、私は再び歩き始めた。







その村にたどり着いたのは、日が傾く頃。いつも通りならとっくにお昼は食べ終えて、気が向いたら少しだけお菓子を食べてたり、ちょうど眠気がやってきてうたた寝をしていたりする時間。


時間としては上出来で、割と彷徨い歩いた割にはしっかりと地図に記されてる場所に辿り着くことができている。ただ、その出来に反して私は困り果て、村の入り口らしき位置で呆然と立ち尽くしていた。


『村……というより廃墟だなぁ……』


眼前に広がっているのは、間違いなく地図の示している位置にある村で、大きくはないが、俗に言う田舎町程度の規模があったのだろう。そう、あったはずなのだ。


建物は人が住んでいた頃の話など忘れてしまったかのように風化し、道は人の行き来など始めからなかったかのように土と同化している。辛うじて石畳に使う綺麗に切られた石材がところどころに見える地面は、どこか虚しさすら感じさせた。


『そんな古い地図じゃないと思うんだけどなこれ……はぁ〜……これは野宿かなぁ……』


一人がっくりと肩を落とし、先ほど何かの間違いかと位置を確認するために取り出した地図をせめてもの腹いせにと乱雑にしまう。ものすごく期待したわけではないが、全く期待してなかったと言えば嘘になるものだったので、少しばかり裏切られた気分だ。


『やあ、お姉さん。こんなところで迷子?』


『うわっ!?誰っ!?』


崩れた建物の影から、いつから居たのかはわからないが一つの人影が現れた。その姿は誰が想像したのか、いつしか魔女といえばこれと言っても過言ではないだろう大きな三角帽子を被った、まさしく"魔女"といった風体。赤銅色の帽子に、同じ色の長いローブ。そこから覗く少々不健康そうな顔は、よく見れば微かに幼さが残っているのを見るに、女性というよりは少女のようだ。


『んふふ、見ての通り魔女だよ。お姉さん、ベルフェール・トレークハイトでしょう?』


『ん?あ、うん。そうだけど……君、何者?』


『やっぱり。たまたま見かけて、こっそり追ってきたんだ。あなたの作品が好きでさ、今も読んでるよ』


魔女はそう言いながら、懐から一冊の本を取り出す。本は私が正式に作家となったばかりの頃の作品で、わざわざこのためだけに仕込んだものでなければ本当に作品のファンをしてくれているのだろう。


話してる感じは、柔らかく落ち着いた人だ。ただ、私は人を見る目が素晴らしく優れているわけではないが、どことなく憤怒や憎悪、それに近い黒く煮えたぎる何かを感じる不気味な魔女として私の目には映る。幸いなのは、私に特別敵意があるわけではなさそうなことだ。


『そ、それはありがと。サインくらいならあげられるけど』


『本当?それじゃあ頂こうかな?ついでにほんの少しだけ、聞きたいことを聞いても良い?』


『答えられるかは約束しないよ』


『んふふ、ありがとう』


怪しい魔女から本を受け取り、ペンを取り出して表紙にサラサラと自分のサインを書き始める。


『それで、聞きたいことって?』


『あなたって、空想の魔女でしょう?危険視されてるし、息苦しさを感じたことはない?』


『あはは!そんなこと?こんな気ままに旅してる人が息苦しさを感じてるように見える?たまーに面倒なことはあるけどね』


サインを書き終えた本を魔女に返す。魔女は『そう』と微笑んでから『ありがとう』と言って本を受け取る。


『大事にするよ。あなたのこの本、私が小さい頃にたまたま見つけてからずっと好きな本なんだ』


『本当?思い出になれてるなら嬉しいな』


『あの時は、文字が読めて良かったと思った。……あなたは私たちと同じような人だと思ってたけれど、私たちより優しくて恵まれてるみたいだね』


魔女は本を大切そうに懐にしまい直すと、どこか遠くを見るような目で、私を見ながら、私ではないどこかに向かって話し始める。


『陽だまりのような、暖かくて、心地の良い人。会ってみてよくわかったよ。あなたはそういう人だ。嘘偽りのない、幸せ者』


『……褒め言葉だと思っていいかな?』


『ああ、うん。皮肉めいてごめん。私……いや、私たちは世界がどうにも明るく見えない。数多の理不尽に数多の憎悪を重ねすぎた。世界の産んだ孤児みなしごが世界を憎むのは、当然の話だよね』


魔女の眼に宿っているのは、憂いや悲哀。そしてそれを覆い尽くし、まとめて焼き尽くさんばかりの憎悪。私よりも一回りくらいは歳下であろう少女から放たれるとは思えないほどの暗く重い灼熱に、私は無意識に後退りする。


私は確かに世界を自分の足で歩き、自分の目で見てきた。それでも私は恵まれた人間であり、陽の当たる場所から少しだけ影の中を覗き込んだだけだ。


昔のことは話さないが、想像を絶する経験をしてきたであろう傭兵団の頭を知っている。あてもなく世を彷徨い、虚ろなまま十年の歳月を過ごした友人を知っている。けれど、それは私自身ではない。私はそれを知る機会があって、それを見て関わることはしたが、私は彼らと同じ境遇では決してない。


傲慢な言い方をすれば、恵まれない環境を過ごした者の持つ暗さ。それは諦観であり、憤怒であり、憎悪であり、悲哀でもある。音も光もなく、ただ静かに燃え盛る暗き灯火が確かにこの魔女の中にも感じ取れた。


『……あなたがもし、不当な扱いを受けているのなら、私たちと一緒に来ないか誘うつもりだったんだ』


『不当とは縁遠いかな。拘束されてるわけでもないし』


『それなら、今この瞬間は、私はただのあなたのファンで、サインを貰って喜ぶ一読者。……今のマギアスは前と比べると変わってきたのかもしれないね』


『……君はマギアスの人なの?』


『そうとも言える。そうじゃないとも言える。私たちが帰れば、あの国の貴族は喜んで門を開き、私たちを歓迎するだろう。処刑台への道に、満開の罵倒と侮蔑を添えて』


『そもそも帰りたいわけじゃないのかもしれないけれど』と魔女は小さく微笑む。顔は微笑んでいるが、その目は私なんかが見たこともないほどに暗く冷たい。


『復讐がしたいとか、そういう考えなのかな。なら尚更私は仲間にはなれないと思うよ。私には、世の中を恨む出来事ってやつがないからさ』


マギアスに縁を持つ復讐者。各地で聞き集めた噂話の中に心当たりは一つだけあった。


実在するかもわからない、噂話の存在。様々な理由から迫害された魔法使いたちが集った組織、魔女集団"処刑台の魔女"。もしこの少女が風貌通りの魔女であるのなら、これほど冷たい憎悪の炎を滾らせることには説明がつく。


魔女は少し考える素振りを見せた後に口を開く。


『復讐なのかは、私は少しわからない』


『それじゃあ、なにか他に目的が?』


『復讐を目的にしている人もいる。私たちは身を寄せ合った弱者だからね。自らを虐げたものが憎くてたまらないっていうのは理解できる。私も、マギアスの貴族を殺せと言われたら喜んで殺せると思う』


『君はそれが目的じゃないってことかな』


『……いつか、居場所が欲しい。あなたの本を、ゆっくりと落ち着いて読めるようなそんな場所が。あなたのお話が好きなのは本心なんだ』


暗い憎悪は今も魔女の目に宿っているが、その目は憂いを帯び、より強く悲しみが浮き出ている。きっと、生きる場所が異なればというありきたりな言葉がよく似合う人間ではあるのだろう。


それが自分自身を思ってなのか、はたまた別のものを見ているのかは私には推し量れないが。


『……私にそれを作る力はないね。君に手を差し伸べることもできないし、君の伸ばした手を掴むことも私はしない。同情しかできないことを謝るので精一杯』


『んふふ、それを期待しているわけじゃないから気にしないでよ。あなたみたいな人もいる。あなたがそう思える人で良かった』


魔女は小さく微笑むと、くるりと私に背を向ける。


『あぁ、そうだ。迷惑をかけてしまったお詫びに。ここから北東にいくと、廃墟じゃあない村があるよ。余所者への当たりは強いけれど、廃墟で野宿よりは人里が近い方が良いんじゃないかな』


『えっ、ほんと!?それは助かる!行ってみるよ!』


『その地図がまるで嘘みたいになってしまったのは私のせいだからね』


『え?それってどういう──


『それじゃあ、さようなら。あなたがあなたのままなことを祈ってるよ』


私の疑問を遮るように別れを告げて、魔女は廃墟の奥へとその姿を消した。


私は少しぽかんと呆けたあと、改めて廃墟を見渡す。明らかに数年程度では説明がつかないほどに風化した建造物に対して、一つだけ明らかにおかしな点があることに、今更気がついた。


『……そうだ。これだけ放置されてるなら、道なんて見えないくらいに草が茂ってる方が普通なのに。土に埋まった石材が見えてるのはおかしい……』


頭に浮かんだ疑問に従うまま、私は近くの適当な建造物だったであろう残骸に触れる。それは触れるだけで表面が欠けて崩れるほどに風化しており、長い年月が経過していなければこうはならない。


私はそのまま、魔女が先程まで立っていた位置を見る。そこは他よりもさらに風化が進んでいるようで、私は魔女の去り際の発言を思い返していた。


『……君がやったとか言わないよね、魔女さん。はぁ……ミダスめ。君のお願い、思った以上にとんでもないものを引き受けちゃった気がしてきたよ』


軽い悪寒に襲われて、いったいいつからこうだったのかわからない廃墟を私は後にした。惨劇の最中にいなかったことも、今私が生きていることも、今夜の行く宛を知れたことも相当な幸運だったのかもしれない。そんなことを考えながら、私はもう一度身震いする。


しばらくの間、少なくとも一週間はあの魔女の眼が鮮明に記憶にこびり付いている事だろう。










『おお、本当にあった……』


日が傾き、空が茜色に染まりきった頃、私は素朴な雰囲気の村の入り口に辿り着いていた。


あの魔女の言った通りに村があったことに安堵すると同時に、嘘をついているわけではなかったという事実に再び悪寒が走る。あの魔女はこの辺りにそこそこ詳しくて、実際にあそこが廃墟のようになってしまった理由を知っている。それらが全て事実であるとすれば、十中八九まともで親切な人とはかけ離れた何かということになる。


『……今考えても仕方ないか』


今はとにかく泊めてもらえるかどうか聞いてみようと、自分に言い聞かせるようにして村へと足を踏み入れる。時間も時間だし、規模も大きいわけではない村なのもあって、往来してる人はぱっと見では見当たらない。


魔女の話を全て信じるのなら、ここは閉鎖的な村で、余所者はあまりいい顔をされない。宿かなにかがあればいいが、最悪の場合はこの近くで野宿をすることになるだろう。とはいえ、流石に宿無しの女一人をこの時間に追い出すほどではないと思いたいのだが。


しばらく村の中を歩いて、広場のようなところで数人が集まって話をしているのを見つけた。何にせよ誰かと話さないと始まらないと思い、私はひとまず挨拶をと声をかける。


『すみません。こんにち──


『……余所者か。魔女の手先じゃあるまいな』


挨拶を遮り、冷ややかな視線と共に吐き捨てられた第一声。流石に経験したことのなかったレベルの余所者嫌いに一瞬固まる。


『さっさと立ち去ってもらおう。ここには何もない。余所者をもてなす準備など特にな』


『いや、ちょっとせめて話くらい……そもそも魔女の手先って何の話?』


『話すことなどない。出て行け。お前の言葉に信用に値する価値など一つもない。どうしてもと吐かすなら、外れの物置小屋にでも籠るが良い』


男はそう言うと私に背を向け、その場をさっさと後にしてしまった。先程まで話をしていたであろう他の村人も同じようにその場から早足でいなくなり、私は通り雨にでも降られたような気分でその場に固まる。


『……嘘でしょお……?こ、こんなに……?』


余所者嫌いの閉鎖的な文化自体には触れたことがある。龍狩の集落に行った時に、あまり歓迎されなかったものの一泊させてもらった時が私の中の余所者嫌いのピークだったのだが、ここはそれを平気で飛び越えてしまっている。あの龍狩の集落でさえギリギリ聞く耳は持ってくれたというのにという、若干理不尽な怒りが湧いてくる。


魔女の手先というのも意味不明だし、せめて対話くらいはしてくれても良いじゃないかというエゴもある。とにかく、私だって嫌な態度を取られればそれが理不尽な理由だろうと何だろうと多少は腹が立つものだ。


『物置小屋、物置小屋ね……絶対にその小屋で一夜明かしてやる……!』


完全に子供じみた意地の張り合いなのだが、私は村の外れにあるという情報しか知らない物置小屋を探して、せめてもの抵抗にとでも言うように村の中を歩きまわることにした。


意気込みはしつつ、石でも投げられたら堪らないので、そそくさと物陰に逃げ込んでから少しだけ考える。


『被ると透明になれるローブ……滑らかなシルク、神秘的な衣……よし!綴り語るは人の夢、御伽話の贈り物!』


目を閉じて、頭の中で普通はあり得ないものをイメージする。瞬間、虚空に一着の長いローブが現れ、私の手にふわりと落ちてきた。


私はそのローブに身を包み、適当な民家の窓を見て自分の姿が映っていないことを確認し、満足して笑う。もっとも、自分が今どんなしたり顔をしているのかも見えはしないのだが。


『ふふーん完璧!こういう時はバンバン使わせてもらっちゃうもんね〜!』


"空想の魔女"。それは私のもう一つの呼び名で、私の持つ少し特別な力の名前。この力の内容は至ってシンプルで『私の考えたものが現実になる』という力だ。幻を作るとかではなく、本当に単純に現実になる。一度現実になったものは私の魔力がなくなったとか、私が仮に死んだとしても、すでに現実として固定されているので無くならない。ちなみに、この呪文みたいな部分は気分が上がるからと勝手に考えたもので、なくても問題はない。


魔法で作り出せるものに幾らかの制限はあるし、何よりも脳にかかる負荷が尋常ではないというデメリットがあるので、万能の神様とまではいかないが、それでもこの魔法は世界を二、三度ひっくり返すくらい造作もないような強力なものだ。おかげさまでヴィーヴ・マギアスの魔導評議会にはしっかりと目をつけられている。最も、不定期な面談といくつかの誓約以外は自由にさせてもらってるので文句の一つもないくらいなのだけれど。


『さて、ミダスからのお願い事もあるし私としても少し気になるし……立ち話の盗み聞きしつつ小屋を探そうか』


探偵みたいだと呑気なことを考えつつ、私は意気揚々と表通りへと戻っていく。余所者が来たこともあり、路地や店に人は散ってしまったようだ。そんな中に神妙そうな声で話す複数人の集まりを見つけ、私は物音はたてないようにしつつ話が聞こえる位置まで近寄る。


話していたのは先程私をにべもなく追い払ってくれた男と他数人の集まりのようだ。


『つい先日に隣が滅んだって話は嘘じゃないらしいな』


『バカ言え!一晩のうちに全員が失踪して村は廃墟になるなんてことがあるかよ!』


『そりゃそうだけどよ……現に廃墟にはなっちまってたんだから……』


私は話を聞いたことを早速半分後悔しながら、例の廃墟があの魔女によって引き起こされた直近の惨劇であったことを確信する。


『ここも危ないかもしれねえ……魔女の報復なんだろ?』


『ここは直接関わってねえから大丈夫だろ』


『だがこんなタイミングで余所者が来たりと怪しいこともあるだろ!そもそもあの女、出てったかもわかんねえんだぞ!』


話を聞いてる限り、あの魔女本人かはわからないが村の中で魔女への迫害があって、その報復によってあの村は一夜にして廃墟となったらしい。余所者への当たりが異様なほど強かったのも、魔女の姿を誰も知らず、繋がりがあったこの村にも同様の悲劇をもたらす魔女やその仲間が来るかもしれないという恐怖からだったのだろう。


『落ち着けって。あの風体なら誰かが見かけりゃすぐわかる。万一小屋に行ったら、それこそ都合が良いさ』


『た、たしかにそうか?いくら魔女でもあの怪物には喰われちまえば……』


『怪物の方が死んでくれても構わねんだがな』


男たちは笑う。私は酷く嫌な気分になって、盗み聞きなんてするものじゃないなと思いながらその場を後にする。余所者嫌いと言えばまだ聞こえは良いが、これはどちらかと言えば言い逃れと保身の類の行いなのだろう。私は別に法の番人でもなければ、ものすごい正義感を持ってるわけでもない。だからこの人達に何かをしてやろうとは思わないが、久々に心底反吐の出るような話だった。


『……小屋に怪物、か。良い予感はしないけど』


小屋なんて見ずにさっさとこんなところは立ち去ってしまっても良かったが、何となく、本当に何となく嫌な予感がした。それを払拭したくて、私は外れにあるという物置小屋へと足を急がせた。









その小屋は村から本当に遠く離れた位置、ほとんど村の周りの林の中にぽつりと建っていた。パッと見た感じでは、何の変哲もないボロ屋で、獣の匂いもしなければ、人ならざる唸り声がするような様子もない。そもそも、小屋の大きさからしても、人を喰う怪物をしまっておけるようなものには到底思えない。


『怪物がいるなんて話だったけど、魔物だなんだじゃないのかな……?』


不思議に思いつつ近寄ると、戸にはかなり厳重に施錠が施されているのが目に入り、少なくとも何かは中にあるのだろうと少し顔が引き攣る。旅で色々な人に会う分には清濁合わせてそこまで気にしないし、怖い目に遭うのも一度や二度ではないのだが、唯一苦手なものに幽霊やら心霊やらの類がある私としては、こういうのが正直一番怖い。


いつ聞いたかもわからない古い村の怖い話や、今はさほど関係ない怪談話が一瞬で脳裏を駆け巡り、嫌な想像ばかりをしてしまう。村と隔離された離れの小屋やらなんやらなど定番中の定番じゃないかまで考えて、頭を振って思考を切り替える。


『………まあ、軽く覗くだけ覗こう』


窓はなく、入り口以外に侵入経路はパッと見た感じはない。どういうつもりでこの状態で中に入れとあの村人が言ったのかはわからない。ボロ屋だから無理矢理入るかもと思われてたのだろうか。


現状その通りなので何とも言えないが、私は壁を壊すとかはせずに堂々と入り口から入る。厳重に閉ざされた南京錠が一人でにガチャリと音を立て、外れて地面に落ちる。これは幽霊とかではなく、私が"鍵が開くというふうに想像した"からだ。


建て付けの悪い戸を開き、中を魔法で作った光球で照らす。暫く使われた形跡のないガラクタやゴミが詰め込まれていたようで、物置小屋というよりはゴミ捨て場にしか見えない。キョロキョロと見回してみても、中に怪物がいる様子はないし、何かよくわからないものを祭り上げた祠とか札が大量に貼られた怪しい箱があるとかの様子もない。


『何もないのはそれはそれでちょっと不気味な気もするけど……』


『誰?』


『ひゅぃっ』と、よくわからない悲鳴と共に飛び跳ねるように後退りする。今のは明らかに女の子の、子供の声だった。


おそらく声がしたであろう方向に光を恐る恐る向ける。照らされたそこにあるのはやはりガラクタの山だったのだが、その影から覗く紫色と目があった。


『…………こ、子供?何でこんなとこに?』


ボサボサの灰色の髪が顔を覆うほどに伸び、痩せこけた身体を抱えるようにして座り込んだ小さな子供が、紫色の濁った瞳で私を見つめている。


少なくとも幽霊ではなく、実体がある人間のようだ。となれば次の疑問は一体なぜこんなところに子供がいるのかという話になる。見てわかる程度に健康状態はよろしくないし、少なくともイタズラのお仕置きで反省させられているとか、そんな話ではないのだろう。


『……君、いつからここにいるの?』


『……わからない』


『そ、そっか……じゃあ、何でここにいるの?』


何となく予想はついていた。そして、その予想は外れてほしかった。


『かいぶつだから』


抑揚のない、疲れ切ったような声で少女は答える。私が一番聞きたくなかった、そうであってほしくなかった答えに、内臓を掻き回されるような忌避感と混乱に襲われる。


『私には、君はただの女の子に見えるけど』


少女は無言でスッと手を挙げる。瞬間、その手が巨大な口のように変貌した。


『うわっ!?』


敵意があるわけではなく、単純に私の疑問に答えてくれたようだ。驚きはしたものの、その変貌した腕でそれ以上何かをしてくる様子はない。


最も近しい形はサメなどの大型の肉食魚類だろうか。私の上半身くらいなら丸ごと齧り取れそうなほどの大きさの口内に、歪な牙が乱雑に並んでいる。光がしっかりと影を作っているのを見るに、幻覚の類でもないようだ。


『こ……これが君がここにいる理由?』


『……怖くないの?』


『びっくりはしてるよ。お姉さんは基本的に小心者だから』


私はへたり込むようにして、少女の前に座り込む。怖くないとは間違えても言わないが、たとえば私を食い殺すつもりなら、声もかけずに後ろから齧り付けば良い。そうすれば一口で腰から上下に分れた哀れな女の死体が一つできあがる。それをしないという事は、少なくとも今すぐ私を害するつもりはこの子にはないのだろう。


改めて少女の顔を見ると、怯えた様子で私に目を合わせようとはしない。人との会話というか、人に会うことにそもそも慣れていないといった調子だ。


『私、ベルフェール。ベルでいいよ。君は?』


『…………エダ』


『エダちゃんね。嫌な聞き方だけど……エダちゃん、何か悪いこととかしたの?』


エダは小さく首を横に振る。


『わたし、かいぶつだから……』


エダのこれはおそらく、何らかの魔女の力の類だ。人間には生まれつき、魔女の魔法という不思議な力を持って生まれる人がいる。エダはこの村でたまたま魔女として生まれ、村の価値観等も含めていつからかはわからないが幽閉されていたのだろう。


『ねえ、外に出た事はある?』


『もう、ずっと昔……覚えてない』


私は、変わり者とは言われるが、例えば正義のヒーローとは違う。エダの境遇に対して、なにか正義感を感じて村人を問いただそうなどとは思わない。そして、世界平和を謳う活動家でもなければ、恵まれない運命に怒る復讐者でもない。


けれど、たまたま今日、私の脳裏にはあの魔女の目が焼きついていた。憎悪に焼かれたような暗い瞳。それに近いものを、この子の目には感じる。


『外に出たいって思った事は?』


『…………』


『一人でここにいたんでしょ?それじゃ寂しいよ』


『……思った事は、あるよ。でも、出れないから』


生まれながらの悪人というのは、かなり珍しい。いないとは言わないが、大体の場合悪人も善人も環境と経験が作りあげる。この子がこの先どうなるかなんてことは、私には正直な話関係がない。


『私と一緒に外に出ようって言ったら、一緒に来るかい?』


だから、私は勝手にこの子を可哀想だと決めつけて、勝手に手を差し伸べる。迷惑だと振り払うのも、私の手を掴むのも、この子の勝手だからと言い訳をして。


『でも……』


『ふふふ、何を隠そう、実は私も君らの言う怪物なのだよエダちゃん』


そう言いつつ、手のひらの中に小さな花火を作る。小気味の良い音とカラフルな光が弾け、私とエダの顔を明るく照らす。


『他にも色々できるよ。外じゃあ、私やエダちゃんみたいな人の事を、怪物じゃなくて"魔女"って呼ぶんだ』


『魔女……』


『今のこれは花火っていってね。ほんとは空一面にこんな感じのが広がるんだよ。美味しいご飯とか賑やかな屋台と一緒に、みんなで空を見るのさ』


『外……ご飯……』


『青い空も、心地よい風も君を嫌ったりはしないよ。もちろん私もね。ここが好きなら何も言わないけれど』


言いつつ、外を映したスノードームのようなものをいくつか手のひらの上に作り出す。私の見てきた私の世界だが、外の紹介にはうってつけだろう。


エダはそれをしばらく見つめた後に、ボロボロと泣き出した。


『あれ!?怖かった!?ご、ごめんごめんいきなりびっくりしたかな!?えーっとえーっと……あ!そうだ!!私絵本とかも書いてて、読んだりする!?というか読んであげようか!?』


エダは泣き出したまま、顔を俯かせてしまっている。私は大慌てのまま、よく考えてみればさっきまでの私の聞き方は、ずっと閉じ込められていた小さな女の子にとってはかなり怖かったかもしれないと猛省する。加えて目の前で、普通じゃありえない魔法が飛び出てくるのだから、逆の立場なら私も怖くて泣くかもしれない。


『……外、行ってみたい……わたしも、みんなとおんなじように……』


エダは少しだけ顔を上げ、わたわたとする私を見てから、顔を再び俯かせ消え入りそうな声で言った。


『……じゃあ、早速行こう!こんなところにいつまでもいる理由は、私にもエダにもないからね!』


『え、今……?』


『もちろん今!まずは……大きな街を目指したいね!服とか買いたいしさ!』


エダの言葉を聞いて、私はまだ泣いているエダの手を掴み、壁に扉を作り出して外へと引っ張り出す。ともすれば人攫いの絵面だが、まあ私は悪い魔女で、厄事を運ぶ余所者なのだから人攫いくらい普通だろう。


『これから君が知らないことがたっくさん起こるだろうけど、私と一緒に楽しもう!きっともう、泣いてる暇なんて無いほど忙しいよ!』


『え、あ、う、うん……』


エダの手を引いて、私は大きな街を目的地に歩き出す。月明かりと星に照らされた夜は門出にしては随分暗いが、太陽一人じゃなく、月と星に見送られる旅立ちと思えば素敵な話かもしれない。







──その日、小さなかいぶつが村から消えました。


かいぶつが何処へ行ってしまったのか、それは村の誰も知りません。











『さて、私たちも帰ろうか』


村の中の背の高い建物の屋根の上、座り込んだ錆色の魔女が笑う。魔女の眼下には怪物を飼っていた村が広がり、夜の闇と共に静かに眠っている。


『良いのか。魔女探しに来たんだろう』


金の髪を携えた男が魔女に問う。魔女はその問いかけに微笑んだまま、優しい声色で返す。


『んふふ、"空想"にはフラれちゃったし、もう一つも先を越されちゃったみたいだから』


『この村はどうする』


『んー、無くしても私は困らないんだけど……』


魔女は少し考え込むようにしてから、すっと立ち上がる。


『……やめておこう。素材にはあっちの村のおかげで困ってないし、私の好きな先生にも危害はなかったわけだからね』


『引き込めなかった割に、随分肩を持つな』


『私の楽しみの一つだからね。お話が途中で終わったりしたら、悲しくて泣いちゃうよ』


男は『そうか』と短く返す。魔女はそれを見て『ワガママに付き合ってくれてありがとう』と笑う。


『それに、あまり悪目立ちするわけにもいかないからね。こんなつまらない所に八つ当たりをしてる暇もないよ』


『……好きな作家を見張る暇はあったのにな』


『怒らないでよぉ。大丈夫、ちゃんとやる事はやるからさ』


男は何も言わずに歩き出し、魔女もそれを追うように歩き始める。屋根の上から落ちる事はなく、そのまま宙を歩くようにして二つの人影が村を後にしていく。


『幸運だったね、暴食。誰にでも訪れるものじゃないそれを、大事にすると良いよ』


夜の闇の中に、魔女の言葉は吸い込まれるようにして消えていった。


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