28話 最後の不幸
凡ゆるものを殺してきた。
望まれたものを、望まれた通りに。そう形作られた呪詛として殺し続けた。
善人、悪人、街、国、森、海、その全てを悉く望まれれば殺した。憎悪を殺した。理不尽を殺した。己を望むその全てが許せなかった。
醜悪な祈りが産み落とした塵。
だからこそ美しい夢を見た。
そう、夢を見ていたんだ。
『選択肢の提案です、呪殺の呪い。少々お時間を頂いても?』
聞いたことのない声。
長い髪にローブを纏った男だった。顔をほとんど布のような飾りで隠していて、こちらに見えるのはせいぜい片目くらいだ。
『……などと形式上問いましたが、時間は頂くんですがね』
『お前……』
『こんにちは、頽廃と蒐集。加えて欣快もですね。一先ず、落ち着いて話せるようにしましょうか』
男はそう言いながら、バルバトスを指さす。すると、その直後にバルバトスの姿が"キンッ"という不思議な音と共に消滅した。
言葉通り、一切の姿形も残さずに。
『何者なのよ、あんた……!!』
『おっと、戦う気はありませんよお嬢さん。というより、その体で動くのは少々危険かと』
男がサルジュを笑顔のまま制止する。何者なんだは同感だし、心を読めれば良かったのだが、あいにくと私にはもうそんな余裕がない。それどころか魔力も尽きかけてるし、血も流れすぎていよいよ意識が危うい。
『ふむ。魔術医の真似事はあまりできませんが、貴方達に死なれては困る。少し手当をさせてもらいましょう。構いませんね?頽廃の』
『……勝手にしろ。今は己の契約者に時間がない』
『ああ、そうでした。蒐集よりも問題なのは腐敗でしたね』
キンッと再び音が鳴る。男の指先はミリへと向けられていた。
ミリは音の少し後に、意識を失って倒れる。何をしやがったと視線を男へ戻すと、男の手には先程まではなかった手のひらサイズの立方体が握られていた。
半透明の立方体の中に、黒い炎のようなものが閉じ込められた不可思議な物体。男はそれを懐にしまうと、何事もなかったのように私とサルジュへと向き直る。
『これで時間はできましたね』
『なん、なんだ……本当に、お前……!』
男が私たちに笑いかける。
バルバトスとは違うが、ある意味では不気味な笑みを浮かべたまま、男は口を開く。
『……マギアス魔導学院学長、ヴァン・コクマーと申します。以後お見知り置きを』
ヴァンと名乗った男に応急処置を施され、私たちは瓦礫の山を椅子代わりに、座り込んで顔をむき合わせていた。
マギアス魔導学院の学長と名乗ったこの男の素性が本当かどうかはわからない。確かなことは不可思議な魔法を操ることと、私たちに施された応急処置は適切で、私はなんとか命の危機は脱することができたことだ。
『アビィからの報告を受けた際に、貴方は死亡していると思っていたのですが、息災で何よりです。クリジア・アフェクト』
アビィの名と私への依頼の内容を知っているあたり、少なくとも関係者であることは間違いないのだろう。しかし、マギアス魔導学院の学長ともなれば、事実上のあの魔法大国の国王と言っても遜色ない存在だ。それがこんなところに急にやってくるとは俄かに信じがたい。
『アレの上司と言われりゃ納得できる不気味さだけど……まあ、今は何も言わないでいいか……』
ミリは未だに気を失っているが、腐敗の魔法も発動せず、正常に息をしているところを見るに死んでいるわけではない。
それにしても、あれ程ミリを守ることに固執していたマルバスが、怒り狂ってヴァンを殺そうとしていないどころか、こうして腰を据えて向き合っている状況は異様な状況なのだが。
『バルバトスはどうなったわけ?』
『別の場所へ。壊したわけではありません。一時的な封印と言うのがわかりやすいかと』
『長く保つようなものではありませんが』と付け加えてヴァンは笑う。
どことなく胡散臭いというか、怪しい雰囲気があるのだが、纏衣は解けてしまっているし、ダンタリオンに見てもらおうにも契約者の私の魔力が本当にろくに残っていないので、二人には一度引っ込んでもらった。
目の前の事実として、バルバトスの姿形はなく、どこからか襲いかかってくる様子もない以上、今は唐突に現れたこの男の言葉を信じるしかない。
『ミリに何をした』
『魔女を引き剥がしました。と言っても理解し難いでしょうから、少し授業をしましょうか。貴方達は魔女についてどのような認識を持っていますか?』
マルバスの問いかけに、ヴァンは変わらない様子で応える。マルバスはヴァンからの質問には答えるつもりはないようで、ヴァンもそれを悟ったのか私とサルジュへと視線を移す。
『……生まれつき、変わった魔法が使える人とか』
『あたしもそんな感じのイメージね』
『概ね正解、というより通常はそれ以上を知る由もないものですね。生まれつきの特殊な魔法、ではそれがどこから来ているのかを考えたことはありますか?』
『学者じゃないし、そんなん知らないよ』
手当てされたとはいえ、瀕死の重症であることは変わらない状態で、ひどく回りくどく説明されるのは勉強嫌いの私には正直しんどいものがある。加えてこいつが何をしたいのかが本当にわからないという不安も強い。
『魔女とは、魂と呼ばれるものに起因する性質です。魂というのは個人の情報の塊だと思ってくだされば結構』
『宗教の勧誘でもしようってつもり?この状況で』
『そう訝しまないでください。魔女とは個人の情報に付随する魔法式……つまり、魔女の性質は持ち主とは完全に別物というわけです。なのでこうして、切り離し区別することができます』
ヴァンが先程懐にしまった立方体を取り出し、私たちに見せる。半透明の立方体の中に、ぼんやりとした光を放っているように見える黒い火の玉が閉じ込められているような物体。さっきまでの話を考慮するに、これが"腐敗の魔女"ということだろうか。
『私の魔法は物を隔てることができます。しかし、例えば人間の心臓を切り出すような芸当はできません。人間は人間で一塊ということです。だからこそ魔女が切り離せる別物だと分かるわけですが』
『……それで?その長く保たない封印で、何をどうするつもりでお偉い様が出てきたわけ』
『そうですね。授業は終わりましょう。ここからは選択の話です。もっとも、選ぶ権利を持つのは頽廃……貴方だけですが』
ヴァンがマルバスを見る。マルバスは変わらない様子だが、この悪魔が大人しく座って話を聞いている時点でやはりおかしな話ではある。
ミリに関わることというのはあるだろうが、それ以外にも理由があるのではないか。そんな気がした。
『……己に何を選べと?』
『自分か、他人かです。私はどちらでも構いませんから、貴方にお任せします』
言葉の意味が理解できていない私たちに『順を追って説明しましょう』とヴァンが微笑む。
『アビィから我々マギアスの当初の目的は聞いていたかと思います』
『腐敗の保護だろう』
『はい。付け加えるならば、保護もしくは排除です。そして、私の見解では、腐敗は保護ではなく排除すべきと判断しました』
場の空気が一気に重くなる。マルバスの殺気はこの戦いの中で散々味わったが、自分に向けられていないにも関わらず、未だに身体が無意識に震え始める程に恐ろしい。
だというのに、ヴァンはまるで意に介する様子もなく『落ち着いてください』と微笑んでから話を続ける。
『実際に貴方達と蒐集の様子を観察した上での判断です。腐敗は制御された魔法ではなく、術者自身も蝕む常動型の魔法で──
『ちょっと待ちなさいよ、あんた……あいつとあたし達が戦ってる時見てたわけ!?』
『はい。氷の剣士とだけ言えば物珍しいわけではありませんが、あなたが非常に珍しい魔具をお持ちなことも把握していますよ』
微笑むヴァンの胸ぐらをサルジュが掴む。ボロボロの身体でよくそこまで動くなと呆れ混じりに感心するが、怒る気持ちはわかる。
『あんたはあんな状態のミリを、マルバスを、バカ傭兵を見て!!何も思わずにずっと眺めてましたって言うつもりなわけ!?』
『おや、何か勘違いをされているようですが、私は貴方達を助けに来たわけではありませんので』
サルジュの手をあっさりと引き剥がし、何も変わらない落ち着いた様子でヴァンは座り直す。身に纏った衣類を軽く整えてから、一つ息を吐いて、未だに憤るサルジュを見据えて再び口を開いた。
『私の目的は常に魔法を知ることです。より多くの魔法を記録し、より貴重な魔法を保存するために活動しています。そういった観点からすれば、貴方達の生死に関してはまるで関心がありません』
淡々と、子供に言い聞かせるように優しくヴァンは話す。アビィと会話していた時に感じた無機質さとも、バルバトスの熱のない薄気味悪さとも違う、もっと不気味で鳥肌が立つような雰囲気。
『欣快との纏衣適合者、稀有な魔具を有する魔剣士、頽廃、蒐集、そして腐敗。あのままではその悉くが失われていました。その損失は魔法の探究においてあまりにも大きい』
『だから助けた……って言いたいわけだ』
『はい。皆、非常に貴重な実例ですから。腐敗を実際に確認することもできましたし、当初の目的の達成に加え、これだけの出会いがあるとは嬉しい誤算でした』
『そこまではっきり言われると清々しいね……くそっ』
血混じりの唾を地面に吐き捨て、私は忌々しさを込めてヴァンから目を逸らす。
マギアスから依頼された内容について、この男の喋っていることとの相違は本当に一切ない。元々私はこの男側の陣営で、これを手伝っていたということはわかっている。
それでも、個人として納得がいかないことというのはあるものだ。
『改めて、貴方達にはこの状況で何もできることはありません。故に、何もしなくても良いのです。選択肢は頽廃にしかない。ご理解いただけますか?』
『そんなの……!!』
『それとも、貴方達で私を殺そうとしてみますか?』
じっとりとした、雨が降り出す前のような、これから何か悪いことが起きる予感がするときのような、形容し難い不快感と共に空気が重くなる。
優しく語りかけるような声色と、暖かく見守るような微笑みから放たれているとは到底思えないほどに気味が悪く、不安を掻き立てられるような重圧に、食ってかかろうとしていたサルジュもたじろいだ。
『もういい。選択肢とやらを話せ』
『ええ。それではお話ししましょう』
ヴァンがマルバスへ視線を移し、一瞬場に満ちた異様な重圧が嘘のように消える。
『一つはそちらの腐敗の持ち主……ミリと言いましたか。その少女に腐敗を戻し、マギアスにて腐敗と頽廃の両者を保護および監視する事』
『腐敗を排除するとか言っておきながら何言って……』
『手に負えなくなれば処分することを前提ですがね。不思議なことに、この魔法は堰き止められていた期間でより強大になっていると推測します。いずれなんらかのきっかけで暴発し術者諸共消滅するのが結末でしょう』
『……だろうな。お前の憶測は正しい』
意外にも、マルバスがヴァンの言葉に同意する。
『異様に強力な魔法だが、一度や二度でミリ自身が腐るほどの力は過去はなかった』
『成程。推測が正しいというのは僥倖です。そうであれば、先程私がお伝えした"手に負えなくなれば処分する"というのは存外近い未来の話となるでしょうね』
ヴァンの言葉は当たり前のように事実を羅列する。バルバトスと似たようなことを言っているのだが、思いやりや配慮のようなものが若干見えるだけでまた違う薄気味悪さが現れる。
『そうなるまでの生活程度は保証します。これが一つ目です』
『二つ目はなんだ』
マルバスの問いかけに、ヴァンはずっと微笑みを湛えていた糸のような目を開き、静かに告げる。
『この場で腐敗の魔女を排除し、損失を最小限に抑えることです』
今のままでよかった。
外から見れば不幸なのかもしれないが、ワタシは案外それで幸せで、こんな身体だからこそ、それがずっと続くと思っていた。
『……あれ?マルバス……?』
『目が覚めたか』
妙に重たい身体を起こし、隣に座っていたマルバスを見る。その姿は、マルバス自身の魔法の影響で、身体に入っていたヒビが増えているのが見てとれて申し訳なさが込み上げる。
起きあがろうとした時に、腐敗した腕が痛んだし、自分が過ごしてきた封楼塔が瓦礫の山になってしまっているのを見る限り、先程までの出来事は夢ではないのだろう。
『サルジュちゃんと、クリジアさんたちは……?』
『無事とはいかんが、生きている』
『そう、ですか。よかったのです』
あの人たちの無事を聞いて胸を撫で下ろす。ワタシに巻き込まれて命を落とすような人は、これ以上増えてはいけない。何もしなければ、誰も傷つけずに済むんだと思い続けてきた。
そうしていれば、ワタシもこれ以上傷つかない。痛いのも、苦しいのも、ワタシは嫌だ。誰もがそう思っているはずで、何もしていなければワタシも皆も傷つかないで済む。それなら、それで幸せなんだと思っていた。
『生きてみたいと、あの時お前は言ったな』
『……気の迷い、なのです。嘘とは言わないけど、ワタシは……』
自分の腐りかけた手を見て、ふと疑問が頭に浮かぶ。ワタシの腐敗はワタシの意識の有無とか、そういうものに左右される代物ではない。たとえ気絶してようと問答無用で腐敗は発動するし、どれだけやめてと願っても止まらない。
だから、普通に考えれば今ワタシが生きていることはおかしいし、たとえ生きていたとしても、少なくとも最初に腐り始めた腕は完全に腐り落ちているはずだ。そもそも、今も腐敗が発動していないことも妙な話になる。
『……今、お前に腐敗の力はない』
『どういう……?』
『魔女の力を、己の知る奴がいつか"祝福"だと語っていた。己達が呪詛ならば、魔女は祝詞だと』
マルバスはこちらを見ず、ぼんやりと空を眺めるようにしながら話し続ける。
いつも話す時は顔は向けないで、ワタシが満足するまでずっと会話をしてくれていたから、そう違和感を感じるような様子ではないはずなのだが、今は何かが違った。
『まあ、あれは相当な皮肉屋の
『お友達の話です?マルバスの話にしては、珍しい……』
『友……とは呼びたくはないな、アレは』
マルバスの横顔が若干歪む。無表情というか、常に仏頂面のマルバスがこうも考えていることが顔に出るのは珍しくて、少しだけ面白さすら感じた。
『だが、考えたことはある。呪詛と祝詞に何の違いがあるのだと』
『お前に会ってからではあるが』と付け加え、変わらずにワタシの方は見ずに話し続ける。
『お前は、腐敗を望んだことはあるのか』
『……望んだことはないのです』
腐敗の力を望んだことは、本当に一度もない。というより、自分自身すら死んでしまうような魔法を望む人はきっといないだろう。
ワタシは自分のせいで誰かを殺してしまったし、二度とあんな思いはしたくない。そう思い続けてきた。本質的には、自分が傷つくのが怖かっただけなのだけれど。
『だろうな。それが己達との違いだろう』
『マルバスは自分の魔法、望んだことあるのです?』
『己が望んだというよりも、己達は人に望まれ生まれ落ちた。望み通りに力を振るう願望機が悪魔という存在だ』
その割には、マルバスの冠する願いに対してこの人は優しすぎる気はする。確かに、頽廃の願いに加え、万物を殺す毒と力に関しては仄暗い。
けれど、ワタシがマルバスを望んだ理由は、マルバスがそういう力を持っていたからこそだった。
『己は何かを殺す時、己もそれを望み、望まれた通りに殺した。己はそういうもので、それで良い』
マルバスがワタシを見る。多分、ワタシ以外は見たことのないだろう、いつもより少しだけ優しい目。
この人はいつも自分のことを酷く卑下する。本当は優しくて、だからこそ誰かが自分と関わらないように遠ざける。呪殺の呪い、強力な悪魔だと誰もが言い伝えているからこそ、マルバスはきっと優しい人なんだと思う。
『今、腐敗のない状態だが……どうだ。気分は』
『……ずっとこうなら、とは少しだけ』
『そうだな。己もそう思う』
マルバスが立ち上がり、懐から手のひらサイズの半透明の箱を取り出す。
『己が動く理由はそれで充分だ』
どろりと、黒い毒がマルバスの手から溢れ出す。手にした箱を毒が包み、少しずつ溶け崩れていく。
同時に、マルバスの身体のヒビが広がっていく。マルバスの魔法は、毒の強さが蝕めば蝕むほど強くなるもので、いつしか自分すらも蝕むものになったと、マルバス自身が説明してくれた。
『マルバス!?身体が……!やめるのです!!』
『どちらにせよ、己はもう長く保たん』
『何を…!やめて、やめてよ!!その箱がなんなのです!?マルバスの方が死んじゃう!!』
『己は腐敗の魔女を殺す』
ワタシの理解が追いつかないまま、マルバスは魔法の手を緩めることなくその手の中にあるものを蝕み続けていく。
『二度とあるかわからん機会だ。他人の願いで殺し続けてきたが……最後は己の願いを叶えさせてもらおう』
『何のことかわかんないのです!!なんで、死んじゃうんですよ!?ワタシは、ワタシは今のままで良いから……!!一緒に居てくれれば……!』
『有難い話だが……二つ願いを聞くのは無理だ。悪いな』
ぐしゃりと、音を立てて箱が握りつぶされる。光りをかすかに放つ破片が散らばり、その一片も残さずに黒い毒が飲み込み壊していく。
それとほとんど同時に、マルバスの身体に一際大きなヒビが入る。そのヒビから、少しずつ身体が崩れていっているのが見えて、ワタシは縋り付くように、自分の身体の札を剥がしてマルバスのヒビに貼り付ける。
『待って、待ってよ!止まって、嫌だ……!!』
マルバスの身体はボロボロと崩れ、崩れた側からさらに細かく、チリのようになって消えていく。
マルバスが消えてしまう。嫌だ、嫌だと叫び続けても、ワタシの腐敗を、身体を止め続けた札も関係なく、無慈悲に崩壊は進んでいく。
泣きじゃくるワタシの頭をマルバスが優しく撫で、頭に巻かれている札を外した。
腐敗が発動する気配はない。
『……疑ったわけではないが、本当に殺せたようだな』
『何で、何でぇ……!ワタシの為なんかに……』
感覚の話だが、本当に腐敗の力が消えてしまったことを直感できた。
そのために、マルバスが壊れてしまっていることも。
『ワタシは、あなたを!自分のために、自分の勝手で呼び出して……!!あなたに、なにも……!!なのに、なんで……』
死ぬために、呪殺の呪いを呼んだ。
自分で死ぬ勇気がなかった。アレだけのことをして、自分でも死んでしまいたいと願っておきながら、自分では死ねなかったから、誰よりも優しい呪いに頼った。
自分勝手な願いを押し付けて、そんな中で何も言わず、マルバスはワタシをずっと守ってくれた。一緒に居てくれた。ワタシは何もしてあげられなかったのに。
『何故、か……』
マルバスは、落ち着いた様子で、まるで当たり前のことのような態度で、ワタシの頭をいくらか撫でる。
『覚えているか、我が夢よ。お前は己に殺してくれと願ったな』
『それは……』
ワタシの頭を撫でるために屈んでいたマルバスが立ち上がり、ふわりと、優しい表情で笑った。
『よかった。やっと腐敗の魔女を殺せたな』
何年も一緒に居て、初めて見た笑顔だった。
『己一人ではどうにもならなかったというのがなんとも締まりが悪いが……贅沢は言わん。できた最期だ』
ボロボロと、崩れていくその姿には似合わない、満足そうで、優しく、暖かい笑顔。
『己のこれは寿命に近い。気にするな』
もう一度、マルバスがワタシの頭を撫でる。
『さあ、前を向け我が夢よ』
待ってと叫ぶワタシの声も、願いを込めて綴った札ももう届かない。
『足を止めるな、俯いて嘆くな。黒い毒など過去に置いていけ』
『歩き方なんて知らない!顔を上げられたことなんてない!!一緒に居てくれたらそれでよかった!!それで、良かったのにぃ……!』
縋るように手を伸ばしたワタシに、マルバスは背を向ける。崩れていく身体で、ワタシに顔を合わせることもないままひらひらと手を振って離れていく。
もう二度と戻らないのだと突きつけられたような気がして、伸ばした手は虚空を掴んでから、枯れ草のように力弱く項垂れる。
『人は前に進むべきだ、行ってこい。……君の生きたいという願いを叶えるのは君だ』
『置いて行かないでよ!一緒に居てよ!!独りになるのが嫌なのです!!それだけの、勝手な願いなのに……!!』
マルバスは振り向かない。涙がこぼれ落ちて、自分の手に落ちる。
冷たいと感じたのは、水が流れる感覚をしっかりと感じたのは、もう十年以上も前だった。立ち止まって、塞ぎ込んで、逃げ続けた時間が動き始める。
『"笑って生きろ"。君を呪う最後の呪詛だ。君の道に、この先不幸などあるものか』
何も言えないまま、涙が溢れ続け、腕の傷に涙が落ちる。その痛みを感じたのも、声にならない言葉を叫ぼうとして喉が痛むのも、苦しいのも、悲しいのも、あの時に止まったままだった全てが動き出す。
たった一つ、大好きだった呪いを置き去りにして。
『君の不幸は己が最後だ』
ワタシを優しく撫でるように風が吹いて、ハッとしたように顔を上げる。
私たちとヴァンは、マルバスに言われて物陰に移動していた。最後に少し二人で話す時間をくれと、他でもないマルバスが頼んだのだ。
私にはもちろん、サルジュも何も言うことはできず、これからマルバスが死ぬつもりなのだとわかっていて止められなかった。
『では、私はこれで失礼します』
マルバスの最期を見届けた直後に、ヴァンはその場から去ろうと立ち上がる。
『何もなしなわけ。知り合いなんじゃないのかよ、マルバスとさ』
『残念ではありますが、何かできるわけでもありませんからね。蒐集についてはご安心を。私の方で管理します。アレは悪用されると危険ですから』
『あっそ……。私の仕事は?』
『腐敗の魔女は破壊されました。情報も得られましたので滞りなく成功です。お疲れ様でした』
ヴァンはそう言うと、スタスタと歩いて行き、少し離れた位置でキンッという音と共に姿を消した。移動したと言うよりは、その姿を認識できなくなったような状態なのだろうが、何にせよ私にはもうあの男に何か文句を吐いてやることも、憎たらしげに睨みつけることもできない。
ボロボロの身体は軋みを上げ、痛みを猛烈に訴えてくる。アレだけ無茶をすれば当然なのだが、今は動こうとするだけで本当にしんどい。私は諦めたように空を見上げ、少し離れた隣から聞こえてくる小さな啜り泣く声に耳を傾ける。
『何泣いてんだよ、英雄気取り』
『……守ってあげたかったのよ。あの子のこと』
くぐもった声でサルジュは答える。俯いて、べそべそと泣きながら答えのだろうことが声だけでよくわかった。
見上げた空は相変わらず無表情だ。天気は良くも悪くもないし、雲の裏から射す陽光が一人で泣きじゃくるミリを照らしている。それで何か慰めか何かのつもりなのかと言いたくなるような、優しい空。
『守れたろ。ミリのこと』
『けど、あの子は泣いてる』
『そりゃ泣くよ。悲しいだろうし』
『あたしがもっと強かったら、泣かせないで済んだかもしれなかった』
顔を上げないまま、サルジュは答える。
その気持ちはよくわかる。心底わかりたくないし、こいつと同じだとは言いたくないが、残念ながら私とこいつはよく似ている。だから気に入らないのだ。
けれど、こいつは私よりマシだ。
『守れたんだよ。マルバスはこれで良いって言ってたじゃん。ミリは死んでない。私らは必死こいて皆でミリを守れたんだ』
『あたしは!あんたみたいに冷たくな……』
サルジュが涙でぐしゃぐしゃの顔を上げ、私を見る。途中まで言いかけた暴言を止めて、私と目を合わせたままたじろぐようにして固まった。
『私たちは英雄じゃない。守れなかったもの嘆いてる暇あるなら、守れたもの誇ってやらないと何もなくなるよ』
言いつつ、ギシギシと軋む身体を刀を杖代わりにしながら無理矢理起こす。全身のあらゆるところが痛み、血が足りないせいか眩暈もする。本当に最悪の気分だが、生きているだけマシだ。
私たちはそう思うしかない。
サルジュは私の様子見て、フラつきながらではあるが私よりもすんなりと立ち上がる。
『……あんたも泣いてんじゃない』
『身体痛えだけだよ。穴だらけだし』
『あっそ』
くだらない強がりを吐いて、私とサルジュは互いにそっぽを向く。小さな声で『ごめん』と聞こえた気がしたが、多分怪我が原因の幻聴の類だろう。
強がってはみたものの、立っていることもままならない私を、唐突に魔術鞘から顔を出したダンタリオンが支える。
『よく生きてたねえ、英雄気取りの馬鹿野郎』
『お前等は私の味方であれよ、クソ悪魔……』
『支えてやってるだろ』
呆れたように笑うダンタリオンの顔を見て、私は大袈裟にため息を吐いてから、わざとらしく戯けた口調で言葉を返す。
『はいはいどーも。じゃあ支えるついでに連れてってくんない?お姫様のとこまでさ』
『お前も来るんだろ』とサルジュを見る。サルジュは私と目は合わせずに『当たり前でしょ』とだけ返して歩き始める。
心では私の方が動けているのに、生憎身体が言うことを聞いてくれずにすぐに追い抜かれたのが若干癪だが、どちらにせよ初めに声をかけるのは私であるべきではない気もするので都合は良いだろう。
泣き続けている小さな少女を、サルジュがボロボロの身体で抱きしめる。
『ごめん、ごめんね。何もできなくて。あたしもアイツに助けられた』
『サルジュ、ちゃん……』
『一緒にいるから、勝手だけど約束したの。アイツらしいでしょ?一緒に居てやれってさ、ミリに何も言わずに約束しちゃって』
泣きながら、精一杯強がってサルジュは笑顔で話す。あれは多分、立場が逆だったとしても私にはできないことだ。
今、この場でマルバスから『ミリと一緒に居てやれ』と言われたのはサルジュだけで、私は本来関係ない。礼は言われたが、実際私とミリの関係などたかが知れてるものだ。多少の同情はしたかもしれないが、それだけ。
『けどまあ、クリジアちゃんって英雄気取りで馬鹿野郎だからなあ』
『自分で言うんじゃん』
『今やってることにこれしか言えないんだよ』
自嘲するように大きくため息を吐いて、少しだけ頭を切り替える。
いくら禁足地とはいえど、封楼塔という建造物が崩壊し、前線基地扱いの街の人間が全員死んでいる状況を鑑みれば、そう遠くない未来に確実に騒ぎになる。ボロ雑巾二人と小さな女の子一人がその騒ぎに巻き込まれればせっかく助かった命が無駄になる。つまり、さっさと逃げてしまわないとまずい。
『辛くて悲しくて訳わかんないとこ悪いけど、さっさと逃げないと拾わせてもらった命落とす羽目になるからさ。そろそろ行こう』
『どこに、ワタシ、歩き方なんて、知らないのです。一人じゃ、どこにも……』
『一人じゃねえよ。そこの暑苦しい雪女いんだろ。歩き方知らないってなら引きずって行ってやるから』
『今引きずられてんのお前だけどね』
『人がカッコつけてる時に茶化すのやめてくんないかな』
支えてくれているダンタリオンに軽く頭突きを入れてからミリを見る。当然だが、整理はついていないし、すぐに前を向いて明るく新しい人生をなんて考えられる様子ではない。それは当たり前だし、私もわかっている。なんなら、私は未だに似たような経験を引きずっている。
けど、私は慰め方はこういう慰めしか知らない。
『無くしたもんの穴は一生空いたまんまだよ。良いじゃん別に、暗く引きずって泣いてれば。けどさ、そういう時に一人って寂しいよ』
手を取り合って、仲良く一緒に立ち直ろうとは思わない。無くした奴らに、嫌われ者に、不器用な馬鹿に結局必要なのはそれを否定も肯定もしない居場所だ。
『泣いても喚いても埋まらない。代わりだって一生手に入らない。けど穴だらけで笑って生きてられる場所をやるから、あとは勝手にそこで考えろ。少なくとも、あそこは寂しくないよ』
『あんた本当言い方に配慮がないわね……』
『うるせえ雪女。お前のことは呼んでねえからな』
呆れきった顔で私を見るサルジュに中指を立て、最大限の嫌悪を伝えるための顔で吐き捨てる。
マルバスとの約束がある以上、こいつも絶対に付いてくるのはわかっているのだが。
『呼ばれなくても行くわよ。ていうか、あたしが行かなかったら誰がミリを連れて行くのよ』
『呼ばれてねえなら来んなよ。送り届けたら帰ってくれ。私お前のこと嫌いなんだよ』
『そっくりそのまま返すわよその台詞!!』
ギャイギャイと、最初に私たちが全員で話した時のように、くだらない内容でボロ雑巾二人で喧嘩をする。間に挟まれたミリは言い合いが始まってからしばらくして、少しだけ笑った。
涙はまだ止まっていないし、顔はくしゃくしゃのままで、表情がかなり忙しいことになっているミリを見て、私とサルジュも思わず笑ってしまった。
『悲しいのに、嬉しくて……わかんないのです、なんでこんな……』
『泣いてんだか笑ってんだかもわかんないわよ』
『笑って生きろかぁ、難儀な呪いだね』
『本当に、そうなのです』
へにゃりと、弱々しい笑みでミリが答える。
頽廃だとか、呪殺の呪いだとか、散々暗いことを言っておきながら、アレは私なんかより余程人に前を向かせるのが上手いらしい。
私にミリを助けようなどと思うなと言っておいて、全部救って去って行った黒い毒が少し羨ましくなる。
『かっこいい奴ばっかで嫌になるね、本当さ』
『かっこつかないくらいがお前っぽいよ、
『んだそれ。ふざけんな』
言いつつ、気分はそんなに悪くない。逃げるよりは断然マシだっただろう。ヒーローには程遠い有様だが、いつものような自分を憎む気分は湧いてこない。少なくとも私の中で、私自身の行動は、結末は良くはないが、悪くもなかったのだと思い上がることにしよう。
一先ずは、このボロボロの体を引きずって、三人仲良く密航する算段を立てなければと、私は大きな溜め息吐いてから顔を上げる。
『帰ろっか』
柔らかい風が一つ、私たちの背を押すように吹いた。
『貴様まで来るとはのぅ。管理人の身にもなってほしいものじゃ』
『お前の事情など、己が知ったことか』
降り積もる生命が還り巡る地にて、二本の影が向かい合い対峙している。
もっとも、片方は徐々に形を失い、彼の地の中心に聳える光の巨木のようなものへとその欠片を飲み込まれているのだが。
『悪魔が折れるのは、貴様が考えるよりも最悪に近い事態なのだがなぁ』
『同じことを言わせるな。お前の、お前らの事情など己の知ったことか』
『黒い毒、知恵の奴隷……貴様らは常々余計なことしかせんのう』
管理人と名乗った女は顔を覆い、大袈裟に嘆くような素振りで文句を垂れた。
その様を見て、黒い毒は嘲るように笑って見せる。
『精々苦労しろ、煉獄の管理人』
『貴様の笑みなど初めて見たわ。何がそこまで呪いを変えた?』
黒い毒は管理人の問いかけに答えることはなく、管理人の横を素通りして、その背後に聳える光の巨木へと歩いて行く。
『己達と人間は違う』
『藪から棒じゃの。儂の問いは無視しておいてなんじゃ』
『人は前に進むものだ。立ち尽くし、呆けてる莫迦に教えてやると良い』
管理人は『はっきり物を言え』と、怒り混じりに振り向くが、黒い毒の姿はもうどこにもなく、彼女にとってはとうに見慣れた、静かに輝く墓標だけがそこに鎮座していた。
『ちっ……見ておったんじゃろう?聞こえてはせんだろうが……呪い一つとっても、上手くいかんもんじゃのう』
問いに答えを返すものはいない。
あらゆる物が、音もなく降り積もり、還っていく。永遠にも等しい変わらない光景の中、管理人の呆れ返ったような溜息だけが音を立て、消えていった。
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