27話 あの日の願いを
『
『うるせえ。この黒い悪魔だって誰かのこと守ってるだろ』
『それは仰る通りで』
バルバトスがニコニコと、張り付いたような笑顔のままぱちぱちと拍手をする。感情は相変わらず読み取れないし、どうせそれをこいつが抱くようなことはない。
『しかし貴方のその姿は不可解です。髪の色、眼の色、それにそのツノは人間に存在するものではないでしょう』
『ツノ?何言って……つか髪の色はちょっと珍しいくらいの……』
言いつつ、片手で側頭部をゆっくりと撫でる。コツリと、硬い感触が手に伝わる。それを撫でていくと、何となく形が理解できた。
思ったよりも見慣れたその形、ダンタリオンの頭に生えている二本の天を衝くようなツノ。それが私の側頭部から生えている。
『うお!?なんだこれ!?』
『気付いていなかったのですか』
『それどころか初体験だよ』
身体の変化はおそらくだが纏衣の影響だろう。レヴィも腕の形が変わったり、腰から翼が生えたりしていたし、多分問題のあるようなことではない。ただ、色々と変わっているのに最初からこうだったような感覚はちょっとばかり気持ち悪い。
呑気なことを考えていた私の脳裏に、ダンタリオンの声が響いてくる。
『クリジア、今ならかなり読みやすいんじゃない?』
『……確かに。さっきまでよりハッキリ読める。ぼんやりしてない』
『多分、より一層馴染んだってことだと思う。多少は身体能力も上がるみたいな話だったよね?』
『お前がベースと考えるとあんまり期待できないけどね……』
『お前自分の悪魔を少しは信用しろよ』
ダンタリオンに『信用はしてるって』と返しつつ、こちらをじっと見つめているバルバトスを睨む。感情はなくとも疑問は抱くようで、私の姿が随分奇妙に映るらしい。
『ふむ。今の貴方はどちらなのかよくわかりませんね』
バルバトスが武器を構え、私へと放つ。力魔法で操作されているのは射出するための初速だけで、威力と速度はあるがその後に何か操作されるようなことはない。それが今、より深く鮮明に、思考回路を読み解けるようになって理解できた。
放たれた武器を打ち落とし、バルバトスへと距離を詰める。正直そう簡単に往なせる代物ではないのだが、躱しては守るものも守れなくなる。
『人の身でよくそこまで』
『動いてやるさ、
バルバトスを斬りつける。避けずに反撃を構えることは読めていたので、もう片方の刀でバルバトスが武器を掴む瞬間の腕を斬り飛ばす。
そのまま滅多斬りにしてやるつもりだったが、バルバトスは即座に後ろに飛び退く。
『そういう判断は一丁前に早いんだ。感情だなんだはないくせに』
『戦う理由を奪う方が効果的ですか?』
バルバトスが刀剣類を増やし、空に放つ。狙いは私の後方、ミリと倒れているサルジュだ。空に放たれ、刃を下に向けて自由落下してくる武器の雨。単純明快な攻撃だが、全部弾けるかと言われるとかなり厳しい。
『くそっ!!』
ミリとサルジュの方へ振り返り、駆ける。
マルバスはこれで死ぬことはない。というより、今の私にマルバスはどうしょうもない。ミリを引っ掴み、倒れているサルジュの近くへ連れてくる。
『クリジアさん!?』
『絶対動くなよ!!伏せてろ!!』
空を睨む。水なんかよりも断然冷たく、無慈悲な雨が迫ってくる。見捨ててしまえば私は無事だったというのに、ここまで来てしまっては今更逃げることもできない。
『ああもう!!やめときゃ良かったよカッコつけなんて!!』
ヤケクソで叫び、刀を構える。あと数秒で地面に無慈悲な雨が降る。数本は喰らう覚悟をして、死なずに済めば安いだろうと腹を括る。
空に向けて刀を振りかぶった瞬間、氷が視界を覆った。
『ほん、とに……かっこつけてんじゃ、ないわよ……!』
氷は傘のように開き、私たちとマルバスを隠すように広がる。分厚い氷の傘の前に、降り注ぐ武器の雨はなす術なく弾かれ、ガラガラと音を鳴らしながら降り積もっていく。
『生きてたんだ雪女』
『死に、かけよ……!けど、こんくらいは、守ってあげる……!!』
『無茶すんなよ』
サルジュの状態はわりと言葉通りに死にかけだ。手足の骨はしっかり折れてるし、半身は火傷、爆炎で地面に叩きつけられたからか意識もまだ朦朧としている様子だった。ボロ雑巾の状態で、立ち上がれはしないまま、無理矢理氷魔法で私たちを守っている。
『友達守るのに、無茶も、何もないわよ……!あんたは、ついでだけどね……!』
『あっそ。なら友達はしっかり守ってよ』
意識が保たれてるだけでも奇跡かなにかのような状態のくせにしっかりと喧嘩腰なのはある意味好感を持つまであるが、今はボロ雑巾と喧嘩をしている場合ではないし、私に対して余計な体力を使ってもらって気絶でもされたら堪ったものじゃない
このボロ雑巾がミリとマルバスのことは意地で守る。それを前提に、私がもし殺す側なら最初に狙うのはこいつだ。
『まだ動けるとは、驚きましたよ人間』
サルジュの背後、刀を握ったバルバトスが現れる。
『やっぱボロ雑巾から狙うよな!!』
バルバトスの持つ武器を弾き飛ばし、眉間を突き貫く。
最初に対峙した時からわかってはいたが、やはりこいつは純粋に速い。速力だけで言うのなら、アモンにも引けを取らないだろう。先読みと心握の魔法でなんとか追いつけるレベルだ。
『随分と必死で守りますね』
『そのためにやってんだよ』
バルバトスの眉間に突き刺した刀を、頭を引き裂きながら抜き取る。胴体に袈裟斬りを一太刀浴びせ、峰で目一杯の力で殴り飛ばす。
ソニム先輩なら一撃で遥か彼方まで吹っ飛ばせたのだろうが、私には流石にそんな腕力はない。バルバトスは軽く後方に吹き飛び、地面を転がる。
『要は何もさせなきゃ良いんだ。触れたもん増やすんだろ?触れなきゃ大した魔法もない!!』
バルバトスが体勢を立て直す前に詰め寄り、腕を落とす。腕が修復されるまではとにかく斬り、殴りを繰り返し、腕が直り切りそうなところで再びを腕を斬り落とす。
サルジュ程ではないにしろ、私の身体も正直なところ限界はとうに超えている。ダンタリオンの魔法での誤魔化しが切れれば、まともに動くのはほぼ不可能だろう。
『何回殺せば死ぬかは知らないけど、さっさと死んでくれよ!!』
『流石にそう簡単に滅ぼされるわけにも』
バルバトスが私の振りかぶった刀に無理矢理距離を詰め、勢いが乗る前に刃を受ける。身体にめり込んだ刃は斬り裂ききる前に止まる。
『ちっ!』
『五本目以外は楽なつもりだったんですがね』
刀を引き抜くとほぼ同時に、バルバトスに蹴り飛ばされる。力魔法を乗せたのか、思っていたよりも重い蹴りで後方に大きく飛ばされた。
受け身を取り、視線を直ぐにバルバトスの方へと戻す。しかし、バルバトスが視界に入る前に、魔札の爆発による土煙でその姿を隠された。
『くそっ!あいつ頭良いのがムカつくな!!』
『クリジア、ちょっと身体貸して!』
『は!?何言って──
疑問を言い切る前に、私の腕が私の意思に関係なく刀を振りかぶる。刀身はバチバチと青い閃光を纏い、少なくとも私がやったこともないことを私の身体が勝手にやっている。
『"
『私ってこんなことできんだ!?』
雷で作られた刃が飛ぶ。ダンタリオン、もといリオンが雷魔法をそこそこ得意としてるが、こんなのは見たことがない。
私の知らない私の魔法は、土煙を裂き、奥にいるバルバトスの姿を捉え、閃光と共に炸裂した。
『刀に魔法が乗せやすくなってるっぽいよ!感覚わかった!?』
『あの砥石か!?魔法の勉強しときゃよかったって今思ってるよ!!』
『今ので理解しろよ自分の身体なんだから!!』
言い合いをする、と言っても口から声を出しているのは私だけなのだが、そんな私たちへ向けて数本の刀が飛ぶ。なんの変哲もない、先程までと同じバルバトスの攻撃を私は軽く横に飛んで躱した。
『避けて良いのですか?』
バルバトスの姿はまだはっきりとは捉えられていない。
『雪女が守ってる』
『それは素晴らしい』
瞬間、轟音が背後で鳴り響く。バルバトスの持つ魔札の起爆音。サルジュの氷壁が砕ける音。
『なっ……』
咄嗟に振り返る。先程の刀に魔札を巻き付けて飛ばしていたのだろう。
おそらく氷壁の中身は無事だが、氷壁自体はほぼ完全に破壊されている。後方の三人全員を守る氷壁を直ぐに作り直すのは厳しいだろう。そもそもサルジュは半死半生状態で、氷壁を一度作った時点で気絶しててもおかしくはない。
『五本目ならば、あの人間を信用はしなかったでしょうね』
『このっ……!!』
バルバトスへと視線を戻す。その姿を今ははっきりと捉えることができる。しかし、今更そんなことをしても遅い。
滞空する無数の武具。封縛柱も混ぜられ、その鋒の全てが私たち全員を捉えている。心を読むまでもなく、次の奴の行動は決まっているようなものだった。
『さて、避けなくて良いのですか?』
にこりと、冷たい笑顔が私を見る。
その奥にはやはり何もない。敵を屠る高揚も、勝利に対する喜びも、策略に嵌った獲物への嘲りも、全てがただ無機質に、純粋に、裏表なく、ただそのまま、見たままのそれがあるだけ。
放たれる無数の刃の冷たさなど、気にもならないほどの空虚がそこには在った。
『人間は弱い。
声が遠く響く感覚がする。
『初めの爆撃を五本目ならば叩き落としていたでしょう。まあ、アレは強い呪いですからね。守ることには不向きと言えど、弱いよりは強い方が良い。強ければ他に頼る必要がありませんから』
痛みだけは誤魔化せるが、流れた血は誤魔化しようがない。意識が朦朧として、視界がぼやける。
『貴方は五本目と同じく守ることには向かず、五本目とは違い強くない。弱い私が言うのは恐縮ですが、逃げていればそうはならなかったでしょう』
言葉が耳を滑っていく。後ろからは泣きながら叫んでいる声がする。ひとまずは無事らしい。
『
今更言われなくても知ってるよ。クソ野郎。
全身をズタズタに引き裂かれ、数本刀だか剣だかが身体に突き刺さっているヒーローがいてたまるか。痛みはダンタリオンの魔法で誤魔化してはいるが、足元にできた血溜まりが嫌でも痛みを連想させた。
あの数の、文字通り無数の刃から、後ろにいた奴らを守れているだけでも褒めてもらいたいものだが。
『なん……で、ワタシの、せいで……』
『その通り。貴方が人を殺すのです。腐敗の魔女』
バルバトスの姿を、輪郭をはっきりと捉えることができない。目が霞み、身体が明らかに限界であることを訴えてくる。
『人間というものは本当に理解に苦しみます。なぜ同族殺しの大量殺戮兵器を命を捨ててまで守ろうとするのか』
『理解できないと言えば貴方もですがね、腐敗の魔女。何故百を超える同族を殺し、今日までのうのうと生きていられたのか。心を持たない人間なのですか?心無くとも自身が災害であると理解するには十分な実例を残している筈ですが』
『貴方が早急に死んでおけば、私は此処に現れず、死なずに済む人間が山程いました。生まれ落ちたこと自体が災害である貴方が、惨めたらしく生きることに縋り付いた結果がこの惨劇とは』
『違っ……ワタ、シ、は』
『眼に映る物以外の結果などありませんよ。早く死んでおくべきでしたね、腐敗の魔女よ』
バルバトスが封縛柱をミリへと放つ。私の身体はもう動かない。
『違うよな、わかるつもりだよ私は』
普通なら、動かなかった。
心を騙すことに関してはダンタリオンの右に出る奴なんていない。自分がまだ余裕で戦えるんだと自分を騙すくらいなんてことはない。
どうやって動いているのかもわからないような身体で、バルバトスの攻撃を打ち落とす。
『どんなに死にたくても、死ぬのは怖いんだよなぁ……!』
『まだ動けますか。殆ど死人の様相ですが』
『みっともないとこから本番なんだよ、ヒーローは……!』
大口を叩いているが、視界は水の中にでもいるのかのようにぼやけているし、頭もほとんど回っていない。手足に力が込められているのかも感覚が曖昧で、到底悪魔と、ましてや十柱の一本と戦えるような状態ではなかった。
『クリジアさん!!もう、もういいのです!!あの悪魔は、ワタシを殺すのが目的なんでしょう!?なら、ワタシが殺されれば……!』
『いいえ。魔女を知る者は全てです。言ったでしょう。貴方のせいで人が死ぬのだと』
私を止めようとしたミリを後ろに放り、バルバトスとの間に割って入る。
『私が勝手に魔女のせいだか魔女のためだかに死ぬつもりで話すなよ……!』
黙って聞いていれば失礼な話だ。そもそも私は死ぬつもりすらない。気持ちだけはそのつもりでいる。誰かのためにとか、冗談じゃない。私は生き汚いことを誇りに思ってる辻斬だというのに。
『言ったろ、私は英雄
『だったら尚更!逃げてください!!ワタシのせいで、死ぬ人がいるのは……事実で……!』
『過去の事件は知らない、けど今人を殺すのも、私らを殺そうとしてんのもあの悪魔だよ』
バルバトスが再び武器を数本放ち、私がそれを弾き飛ばす。
『おや。存外まだしっかり動きますね』
『なんならダンスだってしてやるよ……!』
流血を上回る勢いで、身体中を巡る全てのものが回るような感覚。確実に死に際の危ないハイテンションのそれな気しかしないが、それで動けるのなら今は都合がいい。
私は魔法使いではないし、魔法の勉強だってろくにしてない。それでも、ダンタリオンという異質な魔力が身体を巡る感覚は嫌な感覚としてだが特にわかりやすかった。
これをさらに巡らせる。
『辛い時に都合よく助けてくれるヒーローなんていない』
次の攻撃のための武器を取り出すバルバトスに肉薄し、その手が武器に触れる前に斬り飛ばす。
『ムカつくよな。間違ってるだろって思ったことない!?善い奴はしっかり得して、悪い奴はしっかり苦しまないなら!なんのために善人は善いことに苦しまなきゃいけないんだって!!』
動くわけもない腕を振るい、進めるわけもない脚で進む。視界からはもう色が殆ど抜け落ちて、夢か現かの輪郭すらはっきりしなくなっている。
『人間ならばとうに意識すらない怪我のはずですが、何が貴方を動かしている?』
『納得いかないよな、ムカつくだろ!怒ってみろよ!楽しくないとつまんないじゃんか!!人形で終わるつもりか!?』
バルバトスの脳天に刀を振り下ろす。頭をかち割ることはできなかったが、肩から腰にかけて派手な切り込みを入れてやることはできた。
なにか音がしてきた気がするが、よくはわからない。
『成程。既に殆ど意識は無いようで』
ミリという少女に初めに会った時に感じたのは悲壮感だった。
どこかで感じたことがある、大切を台無しにされて、それ以来ずっと塞ぎ込んできたような悲壮感。そういう時の塞ぎ込み方は色々あって、強がったり、諦めたり、忘れようとしたり、悪者ぶってみたりと、本当に色々だ。
あの子は私によく似ている。
『それならば尚更理解の外です。何故その状態で、私をこうも抑え込むように身体が動くのですか』
本当は最初からなんとなく気がついていたのかもしれないし、今でも本当は何も気がつけていなくて、これは私の妄言なのかもしれない。
それでも、どうにもならなかった事に対してずっと自分を何故だと責め続け、どうにもならなかったんだと諦め切りたい理性を、怒り狂ったような心が永遠にふざけるなと叫んで咎め続けてくる毎日を過ごした奴の目を、顔を、心を、私は、
『もっと巡れ、まだ回せ!泣いてしょぼくれるつまらない今日はもういい!気分良く"ちくしょう"って叫んで笑え!!』
身体は軽い。足がある感覚は私たちにとっては慣れてない。今は少し足がぼやけていて、私からしたらこっちの方が慣れていないのだが、地面を蹴るのではなく空を飛ぶのは少しだけ面白い気もした。
『悪魔の姿を、人間のまま縁取りますか。何者なんです?貴方は』
斬り刻まれようと、氷漬けになろうと、毒で溶け崩れようと、一切の表情を見せなかったバルバトスの顔が、一瞬だが歪んで見えた気がした。
私たちは笑う。こうありたいと願い、こうあれと望んだ私たちの形は決まっている。
『
はっと、意識が再浮上する。
夢か何かを見ていたような、不可思議な感覚に混乱しながら、目の前の悪魔へと注意を戻す。何を見て何をしていたのか、途中からはっきりとはしないが、優勢なままこいつを抑え込めていたのは確かだ。
『誰に話してたんだっけ、もう本当にわかんなくなってきた』
『好きなこと言ってたよ。いいじゃん、ムカつくならムカつくってやっぱ言わないとさ』
『それはそうだ。私たちが殺されそうなのもムカつくし』
バルバトスが後方に大きく飛び退く。私はそれを追って飛ぶが、途中でばら撒かれたであろう魔札の爆発に行手を拒まれる。
『言いたいこと言わない奴ってやっぱムカつくよな』
『反応できなかった様子を見るに、本当に私を見る余裕すらない状態のようですね』
返事を返すような余裕はない。というより、何を言ってるのかもはっきり理解できてる自信すらない。まあ、おおよそその通りであることを言われているのだとは思う。
いい加減限界なのだろう。騙していたつもりの痛みが少しずつ戻ってきて、身体が鉛のように重くなる。
『もう、キツイか、さすがに……』
ぼやける視界でバルバトスを見る。
先程と同じ、増えた武器が私たちへと鋒を向けている。アレを放たれればいよいよ私も私の後ろも助からないだろう。
『想定以上に長くかかりました。バルバトスちゃんも流石に疲れましたよ』
刃が飛び、私たちへと迫る。次にまばたきをすれば、目を開ける頃には全身ズタズタになっているだろう。
『死にかけで、無理してんじゃないわよ!!』
『……同じセリフ返すけど』
気に入らない声につられて目を開く。目の前には氷の壁、となりには死にかけのボロ雑巾が立っている。折れた手足を凍らせて無理やり動かし、火傷も氷で覆って誤魔化しているらしい。
『まあ助かった。単なる延命にしかならんかもしれないけど』
『諦めるわけ?』
『いやー、死にたくはないな』
死にたくないというのは本心だが、状況が割とどうにもならないのも事実だ。今いるのは死にかけのボロ雑巾だけだし、できることと言えば口を動かす程度しかない。サルジュも強がってはいるが、魔力も身体もほとんど限界だろう。
私は一つため息を吐いて、後ろを振り向く。
『なあ!死にたくないだろ!!もうほとんど詰んでるけどさ!!何したいとかどうしたいくらい、最後に声に出してみていいんじゃねえの!!』
私の今際の際というやつは、もう少し往生際が悪いと思っていたが、我ながら意外なほどにすっきりはしていた。
ただ、最後にあの諦めきって塞ぎ込んだ臆病者に、最期くらい顔を上げさせてやりたいと思った。本当にそれだけの理由。
『ワタシ、は……ワタシも……』
それ以上は何も考えていなかった。
『みんなと、一緒に、生きて……』
マルバスとも、バルバトスとも違う、それでも感覚として絶対に近寄ってはいけないと理解できる異質。死にかけの身体が発する危険信号とは別に、心の底から忌避の念が浮かび、冷や汗が噴き出す。
瞬間、氷壁が砕けた。再び無数の刃が飛び、私たちを狙う。
『生きてみたかった……!』
ミリが、私たちの前に出て、刃の群へ手を翳す。
ミリの手から黒いモヤのようなものが放たれたと思うと、そのモヤに触れた武器が全てボロボロに腐食し、崩れ去った。
『ゔゔゔっ……!!!』
腐敗の魔女。
悉くを蝕み、腐敗させ、死に至らしめる最悪の魔法。あらゆる物を飲み込み形すら残さないその様は最悪に相応しいものだろう。
術者のはずのミリの腕すらも表皮が崩れ、中の肉がところどころ見えるようになっている。アレでもまだ術者だからマシな方なのだということを直感で理解して、抑えようのない恐怖心に顔が引き攣った。
『逃げて、ください……!ワタシのせいで、死なないで、いてくれるんでしょう……!?』
ミリが、私とサルジュを見て叫ぶ。
サルジュがもう完全に動けない私を引っ掴み、引きずるようにして後ろへ下がる。
『ははっ、どっちがヒーローだよ。くそっ……!』
助けてやるつもりだったのだが、本当にうまくいかないものだ。
明日からも、みんなで一緒にいると思っていた。
あの日、あの時からワタシには明日なんてものはこなくて、ずっとそこにいる。
この力を憎んだこともある。運命を呪ったことだってある。それでも、何よりも許せなかったのは自分自身のことだった。
『腐敗の魔女。凄まじい魔法ですね』
『当たり前、なのです……!!人殺しの道具、なのだから……!』
お父さんはワタシが何かされたんだと、ワタシを守ろうとして腐り落ちた。
お母さんは泣いてるワタシを抱きしめようとして、泣かないでと残して腐り落ちた。
友達も、知り合いも、街も、思い出も、全部、何もかもがワタシのせいで腐敗した。
『道具は……貴方の前では無力ですか。モヤに触れた側から腐食し使い物にならない』
止まれと願うように、呪うように身体に言葉を刻んでワタシは腐敗を止めた。全身を自ら作った札、二度と目覚めるなと呪いを綴った札で、身体のあらゆる機能を封じることと引き換えに今日まで腐敗を抑えてきた。
他人を傷つけた、殺めたことが怖かったのは本当だ。
けど、腐敗に止まれと願ったのは、それ以上に自分が死ぬのが怖かっただけ。
『しかし、悪魔には腐る肉がありませんから。どうやら制御できる代物でもないようですし、ご自身で腐敗して死んでいただけそうですね』
『そう、ワタシの腐敗は、ワタシ自身も腐らせます』
だから、あの時に恐ろしくて止めた。今の今まで、一度も表に出さなかった。
『それは難儀な魔法ですね。腐敗の魔女』
だけど、止まったままなのが嫌だと、死ぬのが怖い臆病者が、死にたいと願った卑怯者がそう思えた。
みんなと一緒に生きてみたかった。
『ほんの少しの間でも、生きてみたかったから……!』
『これから自殺する人間が何を──
バルバトスが目を見開く。
それはそうだろう。私だって、あんな小さな子供があれだけの覚悟を持っているのを目の当たりにしたら、それだけで怖くて逃げ出す自信がある。
なんて言いたいが、アレにそんな覚悟や決意を理解するほどの機微はない。バルバトスの驚愕はもっと単純な理由だ。
黒い毒が滲み出す。
『馬鹿な』
己の手で封じ込めたはずの呪いが目の前で芽吹くという異常事態。アレに驚くといった感情はないが、想定外の物事に理解が追いつかなくなることは、心がなくてもあるらしい。
『あれだけ私たちと話したんだ……少し見とくくらいはしてやった……!動けないままだと思い込んではいたらしいね……!』
心や感情がなかったとしても、思考回路はバルバトスにも存在している。そして、その思考の中で、マルバスは封縛柱で封じ込められ、指一つ動かすことができないままになっている筈だった。
実際は、ミリが前に出てくる前に、マルバスの封縛柱は腐敗させられ崩れ去っていたのに、心がない故に疑わないあいつは、見たままをそのまま健気に信じ切っていたというわけだ。
『いつ封縛柱を──
バルバトスが後方へ飛び退こうとする。
瞬間、がくりと脱力し、膝を折って地面に崩れ落ちる。
『指一本動かせないくらいズダボロにされた痛みを丸ごと共有してやりゃ、流石に一瞬動きも止まるよな』
痛覚は感情じゃない。恐怖がない以上、痛みを与えるものに怯むことはないが、バルバトスは痛みそのものには反応は見せていた。
痛みというのは所謂ブレーキだ。それを急に、意識外の要因で踏まれれば、一瞬だとしても身体は止まる。
ダンタリオンの魔法は心を使う魔法が多いが、それに付随する感覚にも作用させることができる。物事は所詮個人の捉え方だ。向こうがどう思ってようが、私の思った私の『痛い』を、無理矢理向こうに感じさせれば"心が無くとも共感させる"ことができる。
『私たちの贈り物は気に入った?ざまあみろ、人形野郎』
倒れたバルバトスを見据え、マルバスが腕を振り上げる。
『ねえ、マルバス。ワタシ、生きてみたいのです』
『……そうか』
マルバスが振り上げた手をバルバトスに振り下ろす。
その直前だった。
キンッという、不可解な音。
二本の悪魔の間に割って入るように現れた人影。
『選択肢の提案です、呪殺の呪い。少々お時間を頂いても?』
聞いたことのない、声だった。
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