25話 蠱憎悪毒
刀剣が放たれ、それをサルジュが氷の壁で受ける。加えて今度は壁だけではなく、そのまま地面に氷を走らせてバルバトスの足元を凍り付かせた。
『器用ですね』
『それはどうも!!』
サルジュが剣を振り上げると、その動きに合わせて一気に空間が凍結し、バルバトスを氷漬けにした。
『あれ?あいつまさか本当にそこまで大したことないんじゃ……』
私の理想を打ち砕くように、氷が爆ぜる。おそらく、先程の魔札を起動させ、氷の牢を自分ごと吹き飛ばして脱出したのだろう。派手な爆発と煙でバルバトスの姿を見失う。
一瞬、視界の端に黒い影が動き、それはサルジュを狙って動いている。狙われている張本人は気がついていないようで、未だに辺りを見回していた。
『伏せろ雪女!!』
言うが早いか、サルジュの足元を払い転ばせる。短い悲鳴をあげながらその場にすっ転んだサルジュの身体がつい数秒前まであった位置を氷塊が走り抜けていった。
『危っ……助かったわ……!』
『次は自分でどうにかしろよ』
『素直にお礼言ってるんだからそこは素直に返しなさいよ!』
喚く雪女を適当に無視して、バルバトスへと視界を戻す。『悪魔の中では大したことがない』とは言っていたが、少なくとも戦闘に関して素人というわけではないようだ。
むしろ死角へ死角へと動き攻撃をしてくるあたり、派手な魔法で押しつぶすアモンやブァレフォールよりも、対人戦闘に慣れていそうで厄介な気配がする。それを裏付けるかのように、遠距離攻撃があるからこそか、しっかりと距離を保ったままバルバトスは動いている。
『死なない悪魔のくせに、随分臆病じゃない?』
『五本目の魔法が厄介でして。バルバトスちゃんは貴方の仰る通り臆病なので』
『なら味わって死ね』
低い声、重苦しい殺気と共に黒い帯が私の背後から伸びる。私自身に向けられていないとはいえ、真横を命の危機を感じるものが通り過ぎていくのはかなり怖い。
というか、私くらいならまとめて殺しても良いとか思ってないだろうかと若干不安になる。
『貴方に出張られると困るのですが』
『お前の事情など、己にはどうでも良い』
『それは私も同じことが言えますね』
バルバトスが魔札を増やし、私たちでもマルバスでもなく塔へと再び放つ。
『その程度で何かできると思ったか?』
黒く、ドロドロとした粘性の液体が壁を形成し、爆発が発生する前に凝固して魔札の爆発を受け止める。マルバスの魔法は"毒"なのだろうが、作れる毒の種類や性質はかなり自由が効くのだろう。
『どこまでがその程度ですか?』
私たちの視界を埋め尽くさんばかりの量の魔札がバルバトスによって作られる。時間にすれば、爆発による煙が晴れるまでのわずかな時間だった。そのわずかな時間のうちに、これほどの量の複製を作り出す魔法。ものを増やすだけと言えば大したことはないように聞こえるが、これは十分すぎるほどの脅威だ。
『先程の発言は撤回します。貴方の都合は私の役に立ちそうですね。
そして、おそらくこれは私たちも、塔も、まとめて吹き飛ばすつもりの攻撃。
『全員伏せろっ!!!』
瞬間、札が爆ぜる。
耳を劈く爆発音に混ざって、建物が崩壊する音が響く。
触れて魔力を流して起動する魔札がこれだけの数同時に爆ぜたのは、おそらく魔力を流して起動した札を増やしたからだろう。
『……っぶねぇ!!』
『ちゃんと手足ついてるわよね!?』
爆発に吹き飛ばされ、派手に転がってから私たちは起き上がる。サルジュの氷壁とマルバスの毒の壁がなければ、文字通りに消し飛ばされていたような威力だった。
あの距離ならバルバトス自身もただでは済まなかったろうが、アレに恐怖も躊躇いもないと考えれば最も効率の良い私たちの討伐方法とも言える。そして、アレはそういった手法を当たり前に取れる存在だ。
『辻斬!ダンタリオンちゃんは!?』
『それは心配しなくて良い。それよりも封楼塔!!』
振り返れば、塔はほぼ完全に瓦礫の山と化しており、ミリの生死はパッと見ただけでは全くわからない。私たちが言うが速いか、マルバスが崩壊した塔へと向かい動き始める。
私たちに何かを言うことはなかったが、一瞬見えた表情が、あの殺意の塊のような黒い悪魔に似合わない、切迫した表情だったのは確認できた。こちらのことはすでに、意識の外だろう。
『おやおや、随分魔女が大事なようで』
『わかってるなら…‥近寄るな!!』
全く変わらない、貼り付けたような笑みのままのバルバトスにサルジュが肉薄する。巨大な氷の大剣をするりするりと躱しながら翻弄するその姿は、あまりにも熱量の差を感じてどこか虚しさまで湧いてくる。
『ふむ。やはりわからない。何故そこまで怒るのですか?』
『へえ、怒ってることはわかるわけ!』
『四肢に力が入り、声が大きくなる。そして何よりその顔の形は怒りというものでしょう。調べたんですよ、その昔』
サルジュの様子は見るまでもなく、完全に怒り心頭といった具合で、言葉もないままに大剣をバルバトスへ振り下ろす。バルバトスはさも当然のようにするりと避け、魔術鞘から武器を一つ取り出す。
『そんで死角に入り込む、だよね人形野郎!!』
バルバトスが思った通りにサルジュの死角へ入り込んだところに合わせて私は刀を振るう。私の攻撃を避けずにそのままサルジュを殺そうとする可能性も踏まえて、武器を掴む腕ごと悪魔を斬り裂く。
私の刀が悪魔に痛みを与えることができるのは知らなかったようで、斬り裂かれたバルバトスは未知の刺激に後方へ飛び退いた。あの壁か何かに描かれたような顔に、初めて驚愕に近いものが映ったのを見ることができた気がする。
『……妙な武器をお持ちのようで。街で見たものとは別物ですか』
バルバトスが先程から意識してか無意識かは知らないが、狙った相手の死角に潜り込む、まるで狩人のような動きを繰り返しているのを見ていたし、私が似たような戦い方をするのもあったおかげで対応できた。
できはしたのだが、速い。
『この刀、生憎と特別製でね。お墨付きなんだわ。拾い物だけど』
『ワノクニでは剣士の刀は命とまで言われるのにあんたね』
『へー。じゃあ刀折ったら死んでくれんのかなこの国の剣士』
『物の喩えよ』
呆れた顔をしたサルジュに『わかってるよ』と吐き捨てるように返しつつ、ちらりと後ろの崩壊した塔へと視線を向ける。見れば、瓦礫の山をマルバスがかき分けるようにしてミリを探しており、ちょうどその動きが止まった。
『うーむ、どうやらまだ生きてるようですね。アレで魔女を殺せていれば楽だったのですが』
私たちの後方を覗き込むように、少し背伸びをして、帽子もあるのに手で日除けを作ったバルバトスがぼやく。
ある意味で裏表が一切ない、嘘を吐くようなものじゃないこの人形がそう言っているのであれば、ミリはひとまず死んではいないのだろう。
『雪女!壁!!真横に一直線で!!』
『は!?何──
『いいから!!』
『何なのよ!』と吠えるサルジュの声と同時に、崩落した塔を隠すように氷の壁が作られ、そこに衝突する寸前の位置、私たちの真横にバルバトスが現れる。
ちょうど私が刀を振り下ろし始めたその位置に、読んだ通りに来てくれた。
『先に魔女を殺そうとするなよ人形野郎!!』
身体を上下で真っ二つにしてやるつもりだったが、身を引かれて腕を斬り落とす程度になってしまった。
アモンでさえ不意打ちには驚愕の声をあげていたというのに、バルバトスは特別驚くような様子もなく、ふわりと後ろに飛んで再び私たちから距離を取る。
『やっぱあいつ純粋に速いな……!』
『あんた今の見えてたの!?』
『ほぼ見えてない。お前と戦った時に使ったやつで読んでるだけだよ』
私が自分の右眼を指さすと、サルジュは『ああ、それね』と納得の声を上げる。
私の纏衣はダンタリオンの魔法を少し使わせてもらう程度のものに留まってるのだが、それでもダンタリオンが言っていた『
『もう少し付き合えよ人形野郎。どうせ私らも殺さないとなんだろ?』
『そうですね。先に五本目を対処しておきたかったのですが、貴方達も無視するには厄介なようで』
一応、練習で除け者の巣のみんなに試すだとかもしたし、雪女戦でも実際に使ったが、ダンタリオンの魔法は相手の心を本のように"読む"魔法だ。実際の小説に、登場人物のセリフ以外に風景描写だとかが入るように、人の心にも思考回路の他に感情が混ざる。楽しいとか寂しいとか、そういうものが混ざり、少しごちゃごちゃしているのが普通。
そして、バルバトスにはそれが一切ないから異常なのだ。今の言葉も、一切の乱れもなく、殺意や憎しみ、怒りといった感情がなく、綺麗に並べられた作文のような思考回路。どれだけ落ち着いている人間でも、こんなことにはなり得ない。
『さっきみたいに簡単な警告とかくらいは教えてやるけど、頑張って自分でどうにかしろよ雪女』
『あんたこそ、死なないように気張りなさいよ辻斬女』
空気が軋むような、重苦しい圧が空間に満ちる。先程も味わったが、それよりもさらに重く、冷たく、無機質で、滲み出すような不安と恐怖を伴う重圧。
『下がれ』
それを塗り潰すような悪意、深海に放り出されたような圧力の黒い憎悪。これが私に向けられていたのなら、その場で失神していたかもしれない。それほどの重圧を放ちながら、マルバスが私たちの前に出る。
『無理をさせた……お前たちはミリを頼む』
『マルバス!ミリ無事なの!?』
『気を失っている。ミリを守れ……信頼は、してやる』
この黒い悪魔は今は味方だ。味方なのだが、近くにいられるだけで身体が芯から震えて始める。なんというか、本能的に生命である以上これを恐れないことの方が難しい感覚。よく見ればサルジュも無意識だろうが少し震えている。
『……私に、大事な契約者を任せていいのかな?』
『信頼はしてやると言った』
『そ。ありがと、なら守ってやるよ』
私の言葉にマルバスはこちらを見ず、バルバトスを視線で射殺すように睨みつけたまま答えた。
私はサルジュと眼を合わせてから頷き、ミリのいる崩壊した塔の方へと走り出す。
『魔女だけではなく、あの人間らも守るのですか?五本目』
『守る?己が?……己を知っていると言う割には、随分と間の抜けたことを言う』
じわりと、マルバスの身体から黒い毒が溢れ出る。離れているというのに、自分に向けられているわけではないのに、自分の死を明確にイメージできるほどの強い死の気配。ゴボゴボという粘度の高い液体が鳴らす音一つ一つが、死神の足音に錯覚しそうだった。
『己は殺す。それだけの
私たちはミリの元に駆け寄る。ミリは瓦礫の上に寝かされていて、頭に瓦礫が当たったのか、傷ができているようだった。しかし、そこから血はほとんど流れておらず、マルバスから聞いた話が本当だったことを痛感する。
『一応、生きてはいるわけね……』
『ミリを守れって言ってたけど、マルバス大丈夫かな……』
『私らが必死になるよりは大丈夫だろ。多分』
クリジアの視線の先では、バルバトスの手に握られた武器が次々と増えていくのが見え、マルバスは黒い毒に囲まれながら、微動だにせず佇んでいる。
『まともに貴方と戦うというのは些か恐ろしいですから。契約者を殺させてもらいます』
増殖した刀剣が宙を漂い、その刃をマルバスの後方へと向ける。
『己を無視できると思うか』
マルバスの周りに流れていた毒液が波のように唸り、バルバトスへ襲いかかる。バルバトスは飛び上がり、地を這う毒液を躱す。
『心臓代わりの契約者を狙うだけですよ』
バルバトスが手を掲げ、それを静かに前方へ振るう。ふわふわと滞空していた武器がピタリと静止し、標的へ鋒を向けて放たれる。
その直前に、糸が切れたように地へと落ちた。
『おや?』
『舐められたものだ……己の事を知ったような口振りだったのは聞き違いか?』
墜落した武器は、黒い波に飲み込まれ『じゅう』と哀れな悲鳴をあげると、そのまま飲み込まれて消えていく。地面に広がっていた黒は、鉄塊を飲み干すと満足したかのように地面へとそのまま溶けてゆく。
『己は凡ゆるモノにとっての毒だ』
マルバスが自身の身体の一部、黒い帯を伸ばし、バルバトスを捕らえようとするが、バルバトスはそれを空中を蹴るように移動して躱し、変わらない表情で降り立つ。
その着地に追い討ちをかけるように、黒い球状の塊が数発放たれ、そのうちの一発がバルバトスを捉えた。
『成程、万物にとっての猛毒。人間の死体も、私自身もお構いなしに蝕むとは。本当に恐ろしい』
ぐちゃりと、醜い音を立ててぐずぐずの肉塊が地面にうち捨てられる。辛うじて原型の残った一部と、バルバトスの発言からしてそれは人間の死体だったものだろう。
バルバトス本人も全くの無事ではなく、死体を持っていた指先が黒く変色し、溶け崩れている。
『魔法さえ蝕むとなると本当に困ってしまいますね。バルバトスちゃんにはささやかな力魔法と増やすだけの魔法しかないというのに』
『心配せずとも何一つ残さずに殺してやる』
『これはこれは、随分と嫌われてしまったようで』
言いつつ、溶け崩れた指が直るのを眺めながら、バルバトスは魔札を取り出す。続けて魔術鞘から人間の死体を引き摺り出した。
『まともに戦うと勝てそうにないのが困りものですね』
直後に死体が弾け飛んだ。
ぶち撒けられた肉片は爆散して散り散りにならず、ほぼ一直線にマルバスを目掛けて飛ぶ。マルバスは特別意に介することもなく、肉片の弾丸を毒壁で溶かし崩す。
『無意味な事だな』
『無意味ですか』
毒壁で視界が遮られたマルバスの横をバルバトスが抜けて行く。その視線の先に捉えているのは、二人の剣士と腐敗の魔女。
マルバスは舌打ちをしながら振り返り、バルバトスへと手を向ける。まだ振り切られた訳ではないとマルバスが思った直後、バルバトスが踵を返す。
『貴方の行いほど無意味ではありませんよ』
マルバスの眼前で魔札が爆ぜる。胴体を爆炎が貫き、風穴を空けた。その威力で後方へと吹き飛ばされる直前に、マルバスが身体の帯を伸ばしバルバトスを捕らえる。
『それほど守りたいですか。ただの人間程度、貴方ほどの呪いが』
バルバトスは引きずり倒されるようにしてマルバスに放り投げられ、再び崩落した塔から距離を離された。毒による侵蝕で片腕が崩れるが、気にする様子はなく、土埃を払いながら立ち上がる。
『貴方を見た時には、随分と人に近い形をしているモノだと感じましたが』
バルバトスはマルバスを見据え、にこりと無機質に微笑む。
『存外、化物らしい中身のようで』
魔札の爆発で風穴の空いたマルバスの胴は、ズルズルと布の擦れるような音を立てながら徐々に塞がっていく。そこには人の身体のようなものはなく、ただ幾重にも重なった黒い帯。その姿が、マルバスという悪魔は、呪いと悪意の籠った毒が人のような形を成しているだけと物語っていた。
『本当にわからない。何故たった一つ、凡百の人間に固執するのですか』
バルバトスの手の上で、音もなく魔札が増える。
『その契約者と同じようになれるとでも考えましたか。私たちのような空洞が』
バルバトスが魔札を放ち、マルバスの正面で地面を爆ぜさせる。爆煙に紛れさせ、後方を狙った魔札と武器が飛ぶ。
マルバスは直り切っていない身体で帯を伸ばし、その全てを受け止める。
『あの人間らを信頼すると言いながら、随分と必死に守りますね。理解しているのではないですか?私たちは所詮は"魔法"です。術者が守れと願えばそれを実行する道具ですよ』
『守れ、と……』
マルバスの背後に回りこんだバルバトスが、その背中に無造作に、無数に刀剣類を撃ち込む。直り切らないままのその身体は撃ち出された刀剣の勢いにぐらりと揺れる。
『嗚呼、無価値な同胞よ。貴方は私と同じ、こんなにも空っぽなのですよ』
塞がりかけていた胴の風穴に、バルバトスが腕を突っ込む。その直後に、突っ込んだ腕ごとマルバスの身体が爆ぜ、上半身を失って倒れる。
『私たちは人足り得ぬ伽藍堂。脈打つ熱など何処にございましょう。愛は強く在らねばならない。私程度に敗れるそれは、ただの妄執か、それにも満たないお遊戯でしかない。人にしか存在しないのです。永遠の熱を帯びる、愛というモノは』
地面に伏したマルバスの身体は、ボロボロと崩れるようにして霧散した。
あの無機質な人形のような悪魔の魔法を、完封して見せていたマルバスの胴に風穴が空く。
マルバスの魔法の関係もあり、私たちは無策に近づくわけにもいかない。下手をすれば巻き込まれて、一瞬で原型を留めない肉塊になってしまうだろう。私は勝ってくれよと願いながら、ミリの様子を伺っていた。
『ぅ……マル、バス……?』
『ミリ!気がついた!?大丈夫?』
気を失っていたミリが目を覚ます。傷はいくらかあったが、おそらくミリの体質の関係もあり、やはりそこまで大事にはなっていないようだった。しかし、意識は朦朧としているようだ。
『サル、ジュちゃん……?何が……』
『悪魔が襲ってきてね……今マルバスが戦ってくれてるんだけど』
『……!マルバスが!?』
サルジュの言葉を聞いて、ミリが跳ね起きてサルジュの肩を掴む。その顔は驚愕と焦りに満ちていて、心の中は恐怖の感情に満ち満ちている。
『だめ、だめなのです……!!マルバスは……!!』
ミリは震えながら、サルジュの肩を掴んだまま言葉を続ける。
『ちょ、落ち着きなよ。あの悪魔、強いしそんなに慌てなくても……』
『違うのです……止めないと、あ、ワタシのこと、守ろうとして、あ、ああ……だめ、だめ……!!』
ミリの心の中はぐちゃぐちゃの状態で、焦燥と不安、恐怖が嫌というほどに伝わってくる。サルジュもミリの言いたいことはわからないようで、落ち着くようにと声をかけているが、それを聞けるほどの余裕もミリにはないようだ。
ミリの手に力がさらに強く込められ、サルジュへ助けを懇願するように泣き叫ぶ。
『マルバスが死んじゃうっ!!』
直後、爆音が響き、私は跳ね返るように視線を二本の悪魔の戦いへと戻す。
その視線の先には、地に倒れた黒い悪魔と、私たちを見据える無機質な笑みが佇んでいた。
『マジかよ……』
『嘘でしょ……?マルバスやられちゃったわけ!?』
倒れたマルバスの身体は崩れるように霧散していっているように見える。思い返したくはないが、悪魔が壊れた時。つまりは死んだ時の様子は、ああやって消えていっていた。
私はマルバスをもう一度見て、舌打ちを一つしてから、ゆっくりとこちらに歩いてくるバルバトスを睨みつける。
『さて、腐敗の魔女はそちらにいますか?』
『わかりきってること聞くなよ。何が悪魔の中じゃ弱いだ、くそったれ』
『殺す道具が守ろうなど、機能不全にもなるというものです。壊れた道具程度ならば私にも狩れますよ』
『……雪女。構えろよ。ミリはひとまずそこから動かないで』
じりりと、バルバトスと私たちはお互いに睨み合う。数秒あれば詰め切れるような距離、それが今はやたら長く感じるような気がした。
サルジュは未だにマルバスが倒れたことが信じられないといった様子だが、なんとか立ち上がって武器を構える。
『ふむ、何故そうまで必死に守るのか。腐敗の魔女は紛うこと無き大量殺戮兵器でしょう』
びくりと、ミリが怯えたように震え始める。先程までの様子とはまた違う、塔で話した時と同じ、トラウマを呼び起こされた時の怯え方だ。
『ご自身の魔法は理解されているのでしょう?五本目が私程度に敗れるのも、街の人間が皆殺された事も、腐敗の魔女の存在故です』
『貴方達は嘆いても良い。腐敗の魔女がいるから、貴方達も殺される』
ミリの呼吸音が浅く乱れた音になっていく。生命活動が殆ど機能していないとは言われていたが、精神的な恐怖や忌避は影響が出るようだ。
バルバトスは当たり前のように言葉を繋ぎ、実際のところ事実を羅列しているだけではあるのだが、感情の一つもないというのにダンタリオンよりも的確に人の心を抉り取ってくる。
『貴方が人を殺すのです。腐敗の魔女』
『っ!!お前いい加減に!!!』
サルジュが吼えながらバルバトスへ斬りかかる。やめろと制止しようとしたが間に合わず、無理矢理引き留めようと伸ばした手は空を切る。
怒り任せの一振りが振るわれるが、バルバトスは慌てる様子もなく氷の大剣をするりと躱す。
『貴方も不幸ですね。同情しますよ』
『それ以上口開けなくしてやる……!!』
追撃を振おうとサルジュが大剣を横薙ぎに振り抜こうとするが、それよりも前にバルバトスが魔術鞘から刀を抜く。
『雪女ァ!!退け!!!』
バルバトスが刀を放ち、サルジュの脳天を貫こうとしていたところに、サルジュを突き飛ばして割り込む。この
放たれた刀を掌で無理矢理に受ける。左手を貫かれ、傷が一瞬遅れて熱を持ち始める。鍔の部分まで突き抜けたそれを、無理矢理引き抜き、バルバトスへとそのまま振り下ろす。
こいつに避ける気はない。そのまま、攻撃を意に介さず私を殺すための二手目がくる。
──死ななければ安い
確実に急所を狙い放たれた二手目の攻撃を、ギリギリ体に穴が空く程度で済むように体を捩りながら、バルバトスの右腕と左脚を纏めて突き貫き、刀を地面に撃ち込む。
『辻斬女!!』
放たれた刀が私に触れる直前、氷の大剣の腹で殴られ後方に吹き飛ぶ。衝撃自体はかなりしんどいものがあるが、骨も無事だし、身体に穴が空く事もなかった。
助かったとは思うが、元はと言えばお前のせいだと心の中で中指を立てながら、私は地面を転がってから体勢を立て直す。
『随分、険悪な様子のチームワークですね』
『うるっさいわね!!』
サルジュが大剣を振り抜き、バルバトスの左腕を斬り飛ばす。そのまま胴にも深々と斬撃が入り、直後に切断面が氷塊を伴って凍結する。
『氷が修復の邪魔を……しかし、これだけでは悪魔は壊せませんよ』
バルバトスはこの状態でもなお、何も変わらない様子で話す。サルジュはもう一撃を浴びせようと大剣を振り上げる。
瞬間、何かに気がついたように後ろへ飛び退き、私の方へと転がり込むように戻ってきた。
『気がつくの遅いな。仲間なんだろお前ら』
『……あんた知ってて黙ってたわね』
『だってお前演技下手そうだったし……』
サルジュが『あんたねえ!』と抗議の声を上げるが、私は無視してバルバトスを見据える。
『ほら!守ってやったよ"五本目"!!殺すのはお前の役目なんだろ!!』
しんと、音が消えたような錯覚。
視界が全て黒で染まる。
憎悪よりも醜悪で、殺意よりも冷酷で、憤怒よりも沸騰し、絶望よりも暗鬱。凡ゆる悪意を混ぜ合わせ、その全てが喰らいあった地獄の底で生まれ落ちたような黒。
もちろん、その殆どが"ただ私がそう感じただけ"というものだ。実際には、黒い悪魔がバルバトスの背後にゆらりと、滲み出るように現れただけ。
だというのに、私はあまりの悪寒と恐怖に、自分に向けられてもいないそれに対して涙を流し震えていた。
『おや。壊したつもりでしたが、これでは狩人失格ですね』
『……己はアレに守ることを望まれたことなど、一度もない』
黒。黒としか言いようのないものが、バルバトスの身体を這うようにして侵食していく。それはまるで蜘蛛の巣に哀れな獲物が掛かり、死を待つのみの状態になってしまったかのような状態だった。
マルバスが腕を掲げ、バルバトスを見下ろす。
『何を──
『己の望まれる時は常に、死を望まれた時だ』
マルバスが腕を振り下ろす。
途方も無い悪意の濁流。
黒い毒が、空虚な悪魔を呑んだ。
『我が夢を侵すのなら、凡て死ね』
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