23話 夢と毒

『お前にはもう関係ないよ』


振り上げた刀を振り下ろす。


その直前、時間にすれば一秒もなかっただろう一瞬。心臓を直に撫でられたような、尋常じゃない悪寒と、全身の皮膚を引き裂くような殺意を感じて、ほとんど反射的にその場から飛び退いた。


全身から噴き出すように嫌な汗が流れる。


あの女の放つ雰囲気ではない。個人の雰囲気がここまで別のものになることはあり得ない。ましてや人殺しもできない甘っちょろい英雄気取りには。


あれは確実に別の何者かの殺意だ。




目に飛び込んできたのは"黒"だった。




夜の闇だとか、そんなありきたりなものではなく、文字通りの黒。あらゆる物がそこで終わり、世界そのものがそこで朽ち果てているかのような漆黒が、帯を束ね、重なり合い、絡み合うように形を作り上げていく。


『契約者かよ……!!』


滲み出るように現れたそれは、全身を黒い包帯で包み、ぼろ布のようにも見えるローブを身に纏っている大柄の男の形をとる。


黒い悪魔は私の方は見ていない。にも関わらず、手足が異様に震え、全身が今すぐに逃げろと警鐘を掻き鳴らしている。


『っ……!ダンタリオン!!』


『なんでお前毎回こんなヤバそうなの引くんだよバカ!!』


『こっちが聞きてえよ!!』


自慢じゃない、本当に自慢ではないが私は悪魔の中でも相当なものにかなり出会っている自信がある。


しかし、今感じている恐怖心は、そのどれもを上塗りしている。


愛憎フォカロルよりも静かな怒気。


憐憫サミジナよりも濃い死の気配。


羨望ブァレフォールよりも黒く底のない悪意。


強欲アモンよりも重苦しい圧。


絶対に関わるべきではない。直感も、経験も、心も、身体も、私という全てがそれを拒絶していた。


『なんだ、お前達は』


低く、重い声。ただの声だというのに、質量があるかのようだ。


『そこにいる魔女に会いに来ただけなんだけどさ……!別に殺す気もないし、なんなら魔女の味方するつもりだけど』


『そうか』


スッと、黒い悪魔が私たちを指さす。なんてことのない、攻撃ですらないその動きだけで、地面に打ち付けられたかのように身体が恐怖で動かなくなる。


『死ね』


黒い波が私たちへと放たれる。


正体はわからないが、触れたら死ぬという確信だけはある。避けなければ死ぬ。


動け、動け、動け。


頭の中で繰り返す。声すらも出ないまま、ガタガタと自分が震えていることだけは理解していた。


『動け!!』


唇を噛み切り、痛みで無理矢理我に帰る。同じように動けなくなっているダンタリオンを引っ掴み、着地のことなど考えずに飛び退いて、悪魔の攻撃を避ける。


ぜえぜえと肩で息をする。どうやら呼吸すら忘れていたらしく、情けないことに目には涙まで浮かんでいる。明確な死の想像。鮮明すぎるそれが、この重圧と恐怖の正体だろう。


『……動かずにいれば、悪魔諸共死なせてやる』


『悪魔が一発で死ぬようなことあるかよ……!同じなんだからわかるだろ!』


私は震える足で無理矢理立ち上がり、黒い悪魔を睨む。それとほとんど同時に、ダンタリオンが黒い悪魔を見て、青ざめた顔で口を開いた。


『いや、あれ本気だよ……!魔法というか、魔力そのものを殺せる毒があいつの魔法……!!』


『それどういう──


おれを見るか、餓鬼』


黒い悪魔の声の直後、ダンタリオンが悲鳴をあげる。


『痛ぁぁあ"あ"っ!!溶け、眼ぇぁ"っ、ぎっあ"ぁっ、が、ぎゃぃ…!!』


声に驚いて振り向くと、顔を、眼を押さえてのたうっている。なんらかの方法で眼球を潰されたらしい。


『直りが遅い……?』


少しずつ、ダンタリオンの両眼は直っているが、普段よりも格段に修復が遅い。というよりも、直った側から再び溶けて崩れ、その度に激痛も伴っているらしい。


とにかく得体が知れないが、この調子ではダンタリオンの魔法はもう少しの間機能しないだろう。


『なんなんだお前っ!!』


『無価値な塵だ。凡て死ねば良い。己も、お前達も』


先程よりも明確な殺意を伴って、黒い悪魔が手を再び私たちへ向ける。



──あれ?本当に死ぬ?



脳裏に、あまりにも馬鹿馬鹿しい問いかけの声が滑っていく。アモンに襲われた時に一度味わった、思考が止まる感覚。


『待った!!あんた本当に殺す気でしょ……!!』


そこに割って入ってきたのは、私がついさっき殺そうとしていた女だった。足を引きずりながら、私たちと黒い悪魔の間に割って入り、黒い悪魔を諌めてくれている。


『退け』


『聞きなさいってば!あんたもあの子の悲しむことはしないんでしょ!!』


『知らなければ関係はない』


『あんたのことであの子が気が付かないわけないでしょーが黒のっぽ!!』


流石に私を可哀想だとか同情して守ったわけではなそうだが、理由はどうあれこの助け舟に乗れなければ、私もダンタリオンもあの黒い悪魔に殺されることだけは間違いない。


『……おい雪女。魔女を守るのに協力するつったら、とりあえず生かしてもらえる?』


『あんたね、信用すると思うわけ?』


『しないだろうけど、死にたくねえんだわ。アレには勝てる気がしない』


黒い悪魔をちらりと見れば、未だに手はこちらに向けたままだ。距離はそこそこ離れているし、間にこの雪女もいるというのに、喉元に刃物を突きつけられているかのような気分が抜けない。


『……なあ、悪魔さんもさ、お前がいれば別に心配ないのかもしんないけど、魔女を狙ってくる奴らのこと、少しくらいなら教えてやれるよ』


『……この人斬りが情報持ってるのは確かよ。これ以上なにかしようとしたらあんたが何しても止めないから……!』


悪魔の表情は動かず、周りに満ち満ちている殺気や重圧にも変化はない。というより、少し落ち着いてわかってきたが、あの悪魔の存在そのものに対して異様なほどの恐怖心があるのが正解のようだ。


暫くの間、沈黙が場を支配する。長い時間がたったのか、一瞬だったのかは定かではないが、黒い悪魔が小さな溜息と共に手を下ろした。


『…………餓鬼を己に寄越せ』


『え"っ私たち!?』


突然名指しをされたダンタリオンが、上擦った驚愕の声をあげる。


『ご指名おめでとう。今までありがとう』


『ふざけんなお前!!契約者として恥じろよその見捨て方は!!』


半泣きでダンタリオンが私を見る。とはいえ、今は向こうに従うしかない以上ダンタリオンには尊い犠牲というやつになってもらう他ない。今すぐにこちらを殺すつもりはなさそうになったからという大前提はあるが。


私たちが醜い言い合いをしているところに、黒い悪魔がいつの間にか近寄ってきてダンタリオンの頭を鷲掴みにした。短い悲鳴をあげて持ち上げられたダンタリオンは、虐待を受け、主人に怯える犬猫のように震えている。


『余計な真似をすれば即座に殺す』


『しないよ。なんなら武器も預けようか』


『そうしろ。せいぜい己の機嫌を損ねるな、異邦人』


『心臓握られながら言われちゃハイ以外言えないって……』


黒い悪魔はダンタリオンを引き摺るようにして、顔面を掴んだままスタスタと塔の方へ歩いていく。ダンタリオンは面白いくらい無抵抗だが、おそらく抵抗した瞬間に即死するだろうし、アレは正しい判断だろう。


私は目の前で安堵の息を吐いている雪女に刀を投げ渡す。雪女は慌てた様子で刀を受け止め、じっとりと私を睨む。


『感謝しなさいよ人斬り』


『私のためじゃないくせに感謝も何もあるかよ。ラッキーだったけど』


『ムカつく奴……痛つつ……。何もすんじゃないわよ』


『死にたくないからね。私の死にたくないは信用してくれていいよ』


黒い悪魔の背を追う形で、私と雪女は歩き始める。足を思いっきり貫いてやったので、雪女の方は随分と歩きにくそうだが、出血は氷で抑えているらしい。


思ったより器用だなと、そんなことを考えながら、肩をかすわけもなく私は黒い悪魔の後を追い、封楼塔の扉を潜った。










封楼塔の内部は、外から見た通りに、出入り口の扉以外に外に通じるようなものはなく、壁に取り付けられた灯り以外に中を照らすものはない牢獄のような空間だった。


造りもほとんど牢獄のもので、生活感などは一切感じられない。それどころか、上へと続く階段はだいぶ昔に壊れている様子だし、後付けされたと思しきボロボロのハシゴが上へと続く唯一の道のようだ。


黒い悪魔は何も言わずに、腕を黒い帯のようにして伸ばし、するすると上階へと上がっていく。私や雪女にそんな能力は当然ないし、連れて行ってくれる様子もない以上、このハシゴを使うしかないのだろう。


『……お前もこれ使ってんの?』


『使うわよ。あいつはあたしのこと連れてってくれないし』


『契約者の割に雑に扱われてんな……』


『あたしは契約者じゃないけど』


『は?違うの?』


『あたしがくる前からここに居た、あの子の悪魔よあいつは』


雪女はそう言って、ハシゴを登り始める。


あの子というのは件の魔女のことだろう。自らの魔法による大量殺戮に加えて、あんな悪魔まで従えている魔女なんて、一体全体どんな化け物なんだと私は深い溜息を吐いてから、雪女の後を追ってハシゴに手をかけた。


『ボロいのが怖いなこれ……』


ハシゴは結構な長さがあり、特別高いところが苦手なわけではないが、下をあまり見たくない程度は登らされている。仮に人間がなんの対策も無しに飛び降りれば、即死はせずとも降りた後に動けるような状態ではいられなさそうだ。


階段が壊されていたのは、上に閉じ込めて二度と出てこられないようにするためだったのだろうか。そんなことを考えて、想像の中でどんどんとんでもない存在になっていく腐敗の魔女に、対面したくないという気持ちが募っていく。


『どうか化け物じゃありませんように……』


小さく溢しながら、ハシゴを上り切る。


そこは下の階よりは、生活感のある空間だった。ボロボロの本棚と、そこに収められたいくらかの本と、お世辞にもあまり質の良くはなさそうなベッド。そのベッドの上に先程まではいなかった人影が座っている。


『……子供?』


全身に札や帯のようなものを巻きつけているようで、容姿自体は異様だが、それは十歳やそこらの子供にしか見えなかった。そもそも、こんなところに子供がいること自体が異様ではあるのだが。


しかし、黒い悪魔の契約者がこの雪女ではなく、件の魔女がここに来るまでに出会った一人と一本のうちのどちらでもない以上、導き出される答えは一つだけだ。


『その子供が、腐敗の魔女?』


こくりと、他でもない子供自身が小さく頷いてみせた。私の想像に反する姿と、あまりにも弱々しい印象に戸惑いを隠せなくなる。


こうなると、腐敗の魔女が起こしたとされる事件は何年前の話なのだろうか。アビィの口振りからして最近の出来事ではないし、この塔の中の様子を見ても、数ヶ月だとか一、二年だとか、そんな短い期間の話ではないように思える。


『えと、二人以外とお話するのは、暫くしてなくて……こ、こんにちは、です』


『え、あ、はい。こ、こんにちは?』


辿々しく話す小さな魔女に、釣られて若干口調がおかしくなる。どういう状況なんだこれはと頭の中で激論を交わすが、結局理解は追いついてこない。


『初めまして、腐敗の魔女。そしてその従者』


アビィの声が魔具から響く。その瞬間に場の空気が、特に黒い悪魔の殺気が戻ったのを感じ、私は慌てて命乞いをする。


『何するってわけじゃないから!!単なる通信魔具!!これに頼まれて魔女に会いに来たのが私らなんだよね!!』


『ご説明ありがとうございます。この言葉通り、私は貴方達へ危害を加えるつもりはありません。ご安心を』


『……あんたら何が目的で来たわけ?』


『単刀直入に言えば、腐敗の魔女の保護が目的です』


『保護?』と雪女が首を傾げる。黒い悪魔は私を、というよりは魔具を睨み付けるようにしながら黙り込んでいる。正直、生きた心地がしないのでこの人形女には切実にもう黙って欲しい。


そんな願い事はお構い無しに、アビィは話しを続ける。


『近々大規模な魔女狩りが行われることはご存知ですか?……それほどの呪いと、大量殺戮の実績を持つ魔法があれば問題はない可能性はありますが、我々は万一の損失を恐れています。故に、マギアスでの保護と保全をさせていただきたい』


『マギアス……魔導国家か』


『はい。貴方と契約者を引き離そうとは考えておりません。必要であれば、生活も援助しましょう』


『何故、腐敗を保護に来た』


『見たところ、制御ができている様子ですから。魔法の形式が常動型で、尚且つ完全に制御不可のものであれば排除せざるを得ませんでしたが──


アビィが喋り終わる前に、黒い悪魔が私の耳についていた魔具をちぎり取り、握り潰す。ごぼごぼと、粘性の高い液体のような音が鳴ったあと、原型を一切留めていない魔具がベシャリと地面に打ち捨てられる。


『話は終わりだ。去れ』


黒い悪魔はダンタリオンを放り投げるようにして離し、私に背を向ける。


『……いいの?少なくともここより良い暮らしになる気はするけど』


『己は去れと言ったはずだが』


刺すような殺気が再び叩き付けられる。嫌でも冷や汗が噴き出す重圧を裂いたのは、魔女のか細い声だった。


『あ、あの。マルバス。お願いなのです』


『……なんだ』


『わ、ワタシ。この人たちと、お話したくて……外の人、久しぶりなので……』


黒い悪魔、マルバスは明らかに嫌そうな顔をして、私たちと魔女を二、三往復ほど交互に見る。


『ミリからのお願いらしいわよ、黒のっぽ』


『…………好きにしろ』


溜息を吐いてから、マルバスは下の階へと飛び降りる。どうやらこの魔女にあの悪魔はなかなか逆らえない、というより過保護の類のようだ。


そうしてこの場には、先程まで殺し合ってた二人と、悪魔が一本。そして特級とまで称された魔女が残された。


暫くは重苦しい沈黙が続き、誰も口を開かなかったが、耐えかねた様子で雪女が自分の怪我の手当てを終えたのを皮切りに、大袈裟に『あ〜』と声をあげる。


『……あたしはサルジュ。雪峰スィニェークってとこ出身なんだけど、あんたらは?』


『は?急に何?』


『自己紹介よ自己紹介!話すにしたって名前も知らないんじゃ困るでしょ!!』


『……クリジア。こっちはダンタリオン。これで良い?』


雪女は『つまんない自己紹介ね』と言って私を睨んだが、それは無視して私は腐敗の魔女へと目を向ける。


『え、と……ワタシは、ミリ・ウェネムヌなのです。わがままを聞いてくれて、ありがとうです。クリジアさん、ダンタリオンさん』


『あの黒いのに殺されるよりはマシだからね。むしろ助かったよ』


『ほんとほんと、マジで怖かったあいつ!』


私とダンタリオンの反応を見て、ミリは困ったような顔で力無く笑う。本当に恐ろしい力を持った魔女とは到底思えない姿に、調子が狂いそうになる。


『マルバスのこと、あまり悪く思わないであげてほしいのです。本当はとても、優しい人だから……』


『一欠片でもその優しさ私に向けて欲しかったけど』


『あんたどう見ても敵だったんだから優しくされなくても仕方ないでしょ』


『うるせーな私は魔女さんに話しかけてんだよ出てくんな雪女』


『なんですってこの人斬り女!!』


『サルジュちゃん、喧嘩しないで……クリジアさんも、みんなでお話がしたくて……』


啀み合いを始めた私とサルジュを、ミリがオドオドしながら必死で止めようとする。サルジュはそれを見て『ごめん』と謝り、すぐに落ち着いて座り直す。


私も私で、なんとなく申し訳ない気分になってしまったし、この空気感の中でどうでもいい喧嘩を続行する気にはならず、溜息を吐いて床に座る。


『……それで?私、大して面白い話とかできないけどいいわけ?』


『大丈夫、なのです。人とお話しする機会も、ほとんどないので……!』


ミリはキラキラとした目で私を見る。


毒気のない純粋な子供というのは苦手ではないのだが、ミリからは封印されてるとか魔女だとか、そういった事情を度外視しても感じられる悲壮感がある。そのせいでどことなく直視しにくいし、なんとなくだが自分に少し似た雰囲気を感じた。


無視できなかったのはそのせいだろう。


『まあ、依頼人との連絡も取れなくなってるし……報告は適当言っときゃ良いか……』


そうして、不思議な面々での他愛のない話が始まった。














おそらく、早朝。空が白み始めたかどうかくらいの頃だろう。私はいつも通りによくない寝覚めで目を覚ます。


昨晩は長いこと話し込んで、疲労でいつの間にか眠ってしまっていたらしい。寝起きのぼやけた目で周りを見れば、ミリはベッドで、サルジュは壁にもたれかかるように座って眠っているようだ。ダンタリオンは私にもたれかかって寝ていたので、起こさないように静かに床へずらしておいた。


『なんなんだろうな、腐敗の魔女って』


好きな食べ物はなんだとか、どんな本を読むのかとか、本当にどうでも良い、世間話とも言えないような話題で私たちは会話を続けた。その中で、私はどうしても気になって、一つだけ聞いたことがある。



"悪魔までいるのに、なんでここから逃げないのか"



封印というだけあって、ここは人が生活しているとは到底思えない空間だ。衛生状態も良くはないし、水すらも雨水を溜める以外に得る方法はないらしい。


加えて周りは死の大地ときたものだから、正直どうやってミリが生きているのかの想像がつかないのだが、流石にそこまでズケズケと問いただす気にはなれなかった。


とにかく、そんな劣悪な環境なら、あれほど強力な悪魔もいて、魔女の力もあるのだからどこかに逃げてしまえば良いのにと思ったが、私がそれを聞いた時、ミリは力無く笑って『逃げた先にも、居場所はないのです』と言っていた。


それがどうしても引っかかって、その先の会話でも、私はずっとミリの言葉を頭の中で繰り返していた気がする。


『……居場所かあ』


『妙な気は起こすな、異邦人』


『うぉっ……!?』


誰に向けたわけでもないぼやき声に、返事が返ってきたことと、その返事の主に驚いて声をあげそうになり、慌てて口を手で押さえる。


声の方を反射的に振り向けば、いつの間にそこにいたのか、黒い悪魔が壁に寄りかかりながら立っていた。


『えっと、マルバス……だっけ』


『お前は存外、情を持つようだ。アレと同じように』


マルバスはサルジュの方をちらりと見る。私はあの雪女と同じにされるのはだいぶ癪だったので、露骨に嫌な顔をする。


『あんな甘っちょろくないよ』


『だと良いが。……ミリを、救けようとは思うな』


『……契約者が苦しむのが望み、みたいなタイプ?』


『ミリは今、死体と変わらん』


マルバスの言葉に私は『死体?』と聞き返して首を傾げる。ミリは普通に喋っていたし、動いている。それに、マルバスが魔法を扱えるということは、契約者であるミリが魔力を供給しているということだ。それが死体なはずはない。


『全身の札は、腐敗の力を抑えるための魔具だ。お前たちの言う大量殺戮……その日からあれは、姿も、心も、止まっている』


『それってどういう……』


『腐敗は、生きている限り他を蝕む。それを厭い、ミリは自分の命を殆ど止めた』


『けど普通に話してたし、動けてるじゃんか』


『理屈は己にもわからん。だが、現状は腐敗の依代として魔力を回されているだけだ。摂食も、鼓動も、呼吸も……生命らしさなど殆どない』


そんなわけがあるかと言いかけて、まずこの塔の環境が脳裏をよぎった。まともに水すら得られない、到底人間が生きていられるとは思えないような環境。そして周りには動物はおろか、草木すら生えていない死の大地。


まさかと思い、ベッドで眠るミリを見る。普通なら、寝息と共に微かに身体が動く。しかし、ミリの身体はほんの少しも動くことがなく、耳を澄ませても寝息はベッドの方から聞こえてこない。


『お前を寄越した者は、制御ができているのならと言ったが、腐敗は制御されていない。魔導国家に行ったとして、処分されるだけだろう』


『……確かに。それは、その通りかも』


『とうの昔に自らの生を拒絶した者が、今は身勝手に死を望まれる。哀れだが、誰に救えるものでもない。だから、救けようなどと思い上がるな』


マルバスはただ、淡々とした様子で語る。『救けようと思い上がるな』というのは、実際のところその通りだろう。中途半端な同情で手を差し伸ばしたところで、それをどうにかできる力がなければ、その先は共倒れか事態の悪化となるのが大半だ。


マギアスは魔法を知りたいだけで、ミリを救ける気は更々ない。それどころか、今の話のように特異な体質や魔法を持つミリが真っ当な扱いを受けるのかも怪しいだろう。そう考えれば、ここが最も安全で平穏なのかもしれない。


『ま、私にどうにかできる話じゃないのはわかってるよ。もう少ししたら帰るから、気悪くさせて悪かったね』


サルジュがミリと一緒にいる理由は、なんとなく予想がついた。どの付く善人のタイプで、大方可哀想だと思っただとか、そういう理由だろう。それでしっかり一緒にいるのだからまだマシな方だとは思ってやらんこともないが。


ただ、マルバスが居る理由がわからない。私には関係のない話ではあるが。


『…‥お前はなんで、ここに居るの?』


答えは期待していなかった。契約者だからとか、そういう月並みな理由を適当に返されるか、無視されるかだろうと思って、ほとんど独り言のように溢した疑問。


『……夢を見ている』


『夢?』


『届かない手を伸ばし、叶わない祈りを吐き続ける。己も人間お前達と変わらん、何処かで思い上がった愚物だ』


マルバスは、それ以上何も言わなかった。


私に何もできないことは変わらない。それ以上は何も聞かず、私は冷たく、重苦しい静寂の中で、ただ時間が過ぎていくのをぼんやりと待っていた。












──数刻前、ヴィーヴ・マギアス某所。


『……遠隔、それも魔具を通して蝕まれるとは』


アビィは溶け崩れた眼球を手で押さえながら、感心したような声を漏らす。


『おやアビィ。その眼はどうしたんです』


アビィの様子に特別驚くこともなく、長いローブに身を包む、長髪の男がアビィへ声をかけた。


『潰されました。魔具を起点に、私の魔力を導線代わりに辿ることで遠隔で暴露さられたようですね。……暫くは直りそうにありません』


『腐敗の魔女ですか』


『いえ、別物です。悪魔が一本……あれは、所在不明となっていた"呪殺のまじない"でしょう』


アビィは『まさかこれ程までとは』と言いつつ、やれやれといった調子で小さくため息を吐き、男は『それはそれは』と嬉しそうな様子で相槌を打つ。


『魔女の件の方はどうなりましたか?』


『確証はありませんね。腐敗事変は十五年以上前の事件のはずですが、魔女と思しき人間はどう見ても齢十歳程度です。魔女の代替わりにしては歳を重ねすぎていますし、当事者としては若すぎます』


『ふむ、奇妙な話ですね』


『何にせよ、欣快の主に待たせた眼も壊されてしまいましたから、確認の術は断たれてしまいました。折角嫌われ役まで買ったというのに残念ですよ』


男は考え込むようにした後に、くるりと振り返りアビィに背を向ける。


『では、直接出向くとしましょう。気になることも増えましたからね』


『私は此処を留守にするわけにはいかないので同行できませんが……』


『問題ありません。留守はお願いしますね、アビィ』


『……本来は貴方が今の私の立場であるはずなのですが。はぁ……お気をつけて、学長』


男はアビィににっこりと笑いかけるが、その笑顔をアビィが見る事はなかった。

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