19話 ただ日は昇る

ガヤガヤと忙しなく流れて行く雑踏の中を、私はぼんやりと歩いていた。


ブァレフォールの襲撃から三日。水の都は復興作業に追われていた。体格の良い快活そうな漁師、色白の錬金術師、軍服をまとった国軍兵。あらゆる人達が協力し、壊された街を少しずつ、少しずつだが直している。


そんな中で私は何をしているのかというと、神殿の方に寝泊まりをさせてもらいつつ治療を受けていたのだが、足の筋が少し無茶をしすぎたせいで痛んでいたのと、右腕がポッキリと折れていた程度の怪我だったので、流石に寝たきりも暇だと思い、こうして街中を宛てもなく散策していた。


『強い人が多いんだろうな、この国』


溜息と一緒に、思った事をそのまま声にしてぼやく。


きっとこの人たちの中には家や、思い出を。あるいは友人や家族を失った者もいるだろう。全員がそうだとは言わないが、それを振り切って、こうして動ける人が多いからこそのこの光景なのだと私は一人納得する。


『……はぁ、居心地が悪い』


私は立ち止まり、少しの間空を見上げてから、元来た道を戻り始める。足取りは重く、まるで囚人のような気分だった。


そして、こんな時に限ってダンタリオンという奴は何も言いやしない。せっかくなら何か言ってほしいものだが、ただ何も言わずに私の隣を歩いている。





──あの日、あの嵐からはレヴィだけが帰ってきた。



天変地異かと思うような嵐は異形の化物の全てを飲み込み、まるで夢か幻のように無くなった。荒れ狂い、飛沫をあげていた水面は何事もなかったかのように静かになり、暴風に呑み込まれていた空は雲ひとつない星空となっている。


私はイラさんに最低限の応急処置を施しながら、不気味なほどに静まり返った海を見つめていた。


『……どうなった?』


『私たちに聞かれても……凄いことになってたのはわかるけど』


穏やかに陸へ打ちつけられる波は小さな音を立てて砕け、それ以外の音がほとんど聞こえない。そんな筈はないのだが、そう錯覚するような時間だった。


どれほど経ったか、おそらくはそこまで長い時間ではないのだが、とてつもない時間が過ぎた気もする頃に、人影がゆっくりとこちらへ飛んできた。


『……レヴィ!?』


風に揺られ、脱力しきった身体がゆっくりと降りてくる。


『生き……てる……焦らせやがって……はぁーーー………』


足の力が一気に抜け、漸く安堵の声が出る。それと同時に、怪我の痛みやら疲労やら、あらゆるものが噴き出して私を襲う。


脱力感と激痛で、立っていられなくなった私は、地面にそのまま大の字に倒れる。倒れた目線、その先には神殿と、化け物がまだ蠢いていた。


『なあダンタリオン。私らがここまでやって、あの悪魔が役立たずだったら、悪夢だよなぁ』


『自信はあったみたいだけどねあいつ。つかさ、人呼んだ方がいい?動けんの?』


『無理。でもあの化け物まだ動い──


一瞬。


本当に一瞬だった。神殿が、正確にはその周りの生命が"静止"した。


温暖な水の都には似つかわしくない、心まで凍り付くような氷。見た目には氷なのだが、それよりもさらに冷たく、重苦しい印象を感じさせるそれが、巨大な化け物を一掃して見せた。


まるで地獄のようなその光景に唖然としていると、私の通信魔具のコールが鳴った。


『おう銀蛆。まだ生きておるようじゃのう?かっかっ!儂の仕事はしてやったが、其方の様子はどうじゃ?』


『……港に人寄越せって言っといてくんない?神子様たちが重症だよって』


『ほう、生きておったか。して敵は折れたのか。そうかそうか……なれば面倒じゃのう』


『おい、聞いてんのかババア』


『不遜な蛆よなぁ。儂の機嫌一つで次に死ぬ者が決まる状況なことを忘れてはせんか?』


『……あんたらはフルーラさんのことを裏切らない』


サミジナは暫く沈黙し、笑い出す。


『くはははは!!よぉく儂らを知っておる!良い、良い!面白い主人を持ったものじゃ欣快の餓鬼共は!!』


サミジナは神殿にいる。それは間違いなく遠く離れた神殿にいたはずだ。


その顔が今、目の前にある。


『なっ……!?』


『送り届けてやろう、半死人。未だ儂に還らぬ蛆共よ。精々王の夢で踊るが良い』


静かな音を立てながら、私たちの体を氷が包んでいく。サミジナの足元から冷気が出ているのを見るに、サミジナの魔法であることは間違いないだろう。


『儂に生き死にの差はわからぬが、蛆の美徳に付き合うてやる』


視界が飛ぶように動く。何が起きたかも理解できないまま、動かない身体で視線だけを巡らせると、そこは神殿のすぐ近くだった。


『何が……!?』


『随分と"遠い"からなぁ、近くなったんじゃろうて。さあ、後は勝手にするが良い。生きようが死のうが儂の知ったことではないからのう』


サミジナはくつくつと笑いながら、自分は別の用があると言ってその場を去っていった。どこに何の用があるのかは知らないが、聞いても答えないだろうからと諦めた。




──その後すぐ、神殿の周りの異変に気がついた人間に私たちは発見され、最終的には今日この時に至るというわけだ。


そして、フォカロルのことはあの日以来一度たりとも見かけていない。


『……レヴィは起きてる。イラさんはまだ治療中だけど命に別状なし……街もこんだけ無事で、ほとんどの人間が生きてる。化物相手によくやった、大勝利だろ?なあ、クリジア・アフェクト』


トボトボと、この国に似つかわしくない陰鬱な足取りで私は歩く。


きっと、ほとんどの人が水の都が恐ろしい災厄に打ち勝ったのだとこの国を讃えるだろう。レヴィや国王がそうすると言えば、きっと私は英雄のような扱いだってされる。


何を暗い顔をすることがあるのだと、胸を張って自分の戦果を誇れば良いのだと、きっと誰もがそう言ってくれるだろう。私が観衆の立場なら、間違いなくそう言って英雄を囃し立てる。


『……そうだよ!私はよくやった!だよね!?そうだ、ここ観光国だしさ!パーっと遊んで、国から金も出るし!ヒーローだぜ、私たち!きっと飯とか酒とか色々サービスしてもらえる!』


『なあ、無理すんなよ鈍色』


ダンタリオンの眼が私を見る。


見た目には子供で、普段は見た目相応の二人の目は、今はまるで長い年月を生きた賢者のように映る。諭されているようで、気分が悪い。


『…………無理くらい、させて欲しいよ』


『お前はさ──


ダンタリオンの言葉を遮るように、通信魔具の呼び出し音が鳴る。


『突然すまない。調子はどうだ、真面目な傭兵』


『イラさん!?目覚ましたの!?』


『ああ。積もる話が多いのだが、神殿まで戻れるか?』


『いや、それは良いけど……話せる状態なことに驚きだよこっちは』


『起き上がれはしないのだがな』と、通信先のイラさんは笑う。


この三日間、イラさんは意識不明の状態だった。死ぬことはないところまでは回復したが、いつ目覚めるかはわからない。そんな状態だった筈なのだが、随分とあっさり目覚めるものだなと安堵感より先に肩透かしを喰らった感覚に襲われる。


『というわけだ。手が空いた時で構わない。私のところまで来てくれ』


『十数分後くらいに行くよ。どうせ私も怪我人で暇だし』


イラさんは『待っているよ』と言って、通信を切る。変わらない調子に少し面を食らったが、気を利かせてくれているような気もする。


私は今は自分の方がよっぽど大変だろうにと呆れながら、神殿へ戻る足を急がせた。






『やあ。ご足労頂いて悪いな、傭兵殿』


そう言って笑うイラさんは、私の見慣れている軍服姿ではなく、病院の簡素な院内着に身を包み、ベッドの上で力なく手を振っている。


『私がこう言うのもあれだけど、大丈夫なの?』


『暫くはベッドの上だな。まあ、休暇だと思って楽しむことにするさ』


『そりゃ随分と痛々しい休暇だね』


『まったくだ』


苦笑するイラさんは、私にもわかる程度には無理に明るく振る舞おうとしてくれていて、その理由はおそらく私を気遣ってだった。


それがなんだか申し訳なくて、自分が惨めで嫌になる。気まずさから視線を少し泳がせた時、イラさんの左腕が視界の真ん中に入った。


『……その腕』


『ああ、無くなってしまった。流石に元には戻らなかったそうだ』


『不便だね』


『結婚した時に、指輪を嵌める手がないからな』


『なんだよそれ』


予想外の反応に、呆れたように私は笑った。イラさんは『案外真面目なんだが』と少し不貞腐れたように呟いていて、それがまた少し面白かった。


生真面目な石頭様には似合わない、そんな姿だ。


『腕は義肢を付けるよ。このままでいたらレヴィが罪悪感か何かでおかしくなりそうだから』


『そのレヴィにはとりあえず目を覚ましたことは報告したわけ?』


『いや、レヴィはレヴィで落ち込んでいるんだろう?あいつは昔から、辛いことがあると部屋に篭る奴でな。落ち着いたら自分から出てくる。その時までは放っておいてあげた方が良い』


『いや、まあ……あんたがそう言うならそれで良いけど……』


レヴィが一番イラさんのことを心配しているのではと思ったが、長年の付き合いでもあるこの二人の関わり方の正解はわからない。それに、口を出すような話でもないだろうと思い、口を閉ざす。


改めて見たイラさんの状態は、大怪我で済めば良い方で、命が助かったのが奇跡的だった。片腕は肩から先が完全に無くなっているようで、院内着の袖が重力に従って垂れ下がっている。


『さて、君の上司に私から報告をしなければでな。いくらか話を聞きたいんだが、大丈夫だろうか』


『まあ、仕事の内だし』


『さほど堅苦しい話はしないよ』


そう言ってイラさんは話し始める。内容は、事態の解決中に起きた二人が知らない場所での出来事についての質問や、私の怪我の具合など、本当に簡単な質疑応答だ。


除け者の巣の依頼としてフルーラさんの力に頼ったことや、ミダスさんにはざっくりと話は通してること、ブァレフォールの分体を撃破した時の話を、私は一通り報告した。


イラさんはメモを書き終えると、短く息を吐いて顔を上げる。


『ありがとう。君はもう暫くここで休養していくのか?』


『あー、いや……さっさと帰るつもり。この国の人間ってわけじゃないし。明日明後日あたりには帰るよ』


『そうか。それまでにレヴィが出てくると良いんだが』


『無理させなくて良いよ。傭兵一人相手に。イラさんもお大事に』


そう言って私は部屋の出口へと向かう。正直、イラさんやレヴィに顔向けをするのはかなり気まずいし、可能な限り早く帰りたい。これは全て、私のわがままなのだが。


『最後に一ついいかな、クリジア・アフェクト』


『何?』


『君のおかげで助かった。ありがとう』


『……なんだよ、それ』


振り返らずに、そのまま部屋を後にする。


今のこの国は私にとって本当に居心地が悪い。そして、それは全て私の自己責任で、私のわがままだ。わかっていても、それを押し秘めて普段通りに振る舞うことは私にはできなかった。








神殿の中も、忙しなく人が行き交い、各々が職務に追われている。


そんな中で私は何をしているのかと言うと、イラさんに呼ばれた部屋へは案内があったのでなんの問題もなく辿り着いたのだが、帰り道は私一人で、この巨大な神殿の中を把握しているわけもなく、簡潔に言うのならば遭難していた。


『………全くわからん』


行き交う人の誰かに迷ったのだと声をかければ、おそらくなんの問題もなく私を間借りしてる部屋に送り届けてくれるとは思うのだが、誰がどう考えても忙しいであろうこの状況で、余所者の暇人が足を止めさせるのも申し訳ない気がしてしまって、結果的に今の今まで彷徨い歩いている。


今は、間違いなく居住向きではないであろうテラスのような場所まで出てきてしまい、なぜか景色を楽しんでいるような状態だった。


街の様子も、海の様子も一望できるここは、この国がどれだけの被害を被ったのかがよくわかる。倒壊した建物に、元が何かもわからないような瓦礫の山。美しかった水路はいくつかが堰き止められて、海と比べて随分濁ってしまっているのがここからでも見てとれた。


『あら?クリジアさん。何してるの?』


街の様子を見て溜息を吐いたのとほぼ同時に、聞き慣れた声で名前を呼ばれ、私は驚いて振り返る。


『レヴィ!?なんでいんの!?』


『しょんぼりするのにも飽きてきたから出てきたの』


目の下に少しばかり隈を作って、若干泣き腫らしたような顔のレヴィは、初めて会った時に比べると弱々しく見える。それでも、落ち込むのに飽きたという言葉通りに、今は凹んでいたり、自棄になっているわけではなさそうだった。


『クリジアさんはなんでここに?』


『……迷った』


レヴィは一瞬、きょとんと私の顔を見たまま止まって、それから大声で笑いだす。


『んなに笑わなくてもいいだろ』


『ふふ、ごめんなさい。そうよね、ここは大きいもの』


レヴィは未だに面白いものを見たように笑っている。私は小っ恥ずかしくなって、頬を掻きながらレヴィの笑い声を遮るようにして口を開いた。


『ていうか、レヴィはなんでここに来たのさ』


『私ね、気分を変えたい時によくここに来るのよ』


そう言って、レヴィは私の横を通り過ぎ、柵に腕を乗せて外を眺める。


『……今は良い景色とは言えなくない?』


『そうでもないわ。確かに、酷いことにはなってしまったし、綺麗な水の都かと言われたらそんなことはないけれど』


レヴィは微笑みながら眼下の街を指さす。


私はそれにつられる形で、もう一度街へと視線を向ける。


『ほら、こんなになってしまっても、皆が支え合って、前を向こうとしてるでしょ』


復興のために忙しなく駆ける人や、復興作業の真っ最中であろう街、それらを見ながらレヴィは微笑む。私の視界には入ってこなかった、真っ直ぐと前を向いて、正面から向き合った人にだけ見えるその明るさに、私は思わず目を逸らす。


私には眩しすぎる。そう感じた。


『……ねえ、クリジアさん。お友達として少しお話ししない?』


『……大した話できないけど』


『いいのよ。難しい話なんて疲れちゃうもの』


レヴィが笑い、私はそれに流される形で話し始める。


イラさんが目覚めたという話は、レヴィは聞いてはいたようで『真っ先に私に直接教えてこなかったのを問い詰めて怒ってあげないと』と息巻いていた。


他にはレヴィが国王から無理せず休んでろと懇願するような勢いで言われた話とか、私のことをレヴィが結構気にかけていたとか、私はそんなに長居せずに帰るつもりなんだとか、ここ数日のお互いの周りの様子を話し合う雑談だった。


そんな他愛のない話がひと段落した頃に、レヴィが少しだけ神妙な顔になる。


『……ねえ、クリジアさんはフォカロルのこと見てない?』


『見てない。……あの時も、レヴィだけが帰ってきた』


レヴィは『そう……』と呟いて、空を眺める。


あの日、あれからフォカロルの姿は誰も見ていない。イラさんも、レヴィも、もちろん私も、国王だってきっと見ていないだろう。


彼女が何処へ行ってしまったのかは誰も知らない。それでも、ブァレフォールを撃破できたのは間違いなくフォカロルのおかげで、私たちは誰一人、その礼を言えずに事態は収束してしまった。


『……懐かしいって思ったの。あの人のこと』


『同じ神子だから?』


『うーん……わからないわ。本当にわからないのよ。それでもこう……懐かしかったし、優しかった。不思議よね』


へにゃりと、はにかんだようにレヴィが笑う。弱々しい姿が似合わないというか、印象がほとんどない人だったのも相まって、消え入りそうな様子にどことなく不安になる。


『……そのうち帰ってくるんじゃない?この国のこと好きなんでしょ、あいつ』


口を衝いて出たのは、私には似合わない、希望的観測も良いところの、慰めにもならない慰めの言葉だ。


『ほら、色々あったし素直に顔出しにくいんだよ多分。気にしそうな性格してたしさ。だから、多分、その……』


しどろもどろになりながら言葉を探す。そんな私を見て、レヴィは吹き出すように笑った。


『ふふふ、ありがとう。そうね、戻ってきた時にまだ国がボロボロだったらフォカロルに怒られちゃうかも』


『壊したのも一部はあいつだけどね』


『言われてみればそうね。直すの手伝ってくれても良いのに』


レヴィは不貞腐れたように頬を膨らませ、それを見て私は軽く吹き出して笑う。こういうところは、神聖な神子様というよりも、無邪気な子供のように見える。まあ、私より少しばかりレヴィは歳上なのだが。


『うん。元気になってきたわ。フォカロルがいつ戻ってきても良いように、私も頑張らないとね!』


『おー頑張れ。契約者で神子様となれば無敵じゃん。なんか合体してたし』


『クリジアさんもできそうって言われてたわよ?』


『やったことねえよあんなの』


悪魔と一体化する、あんなものは前例すら聞いたことはなかった。レヴィの姿もそうだし、魔法の威力や身体能力の向上など、悪魔と契約者以外の形があるというのはあの時が初めての体験だ。


『私はフォカロルを自分の魔法のように考えて、フォカロルは私のことを器とか、容器みたいに考えてそこに自分を入れる感覚らしいわ』


『それあの変身のコツ?』


纏衣てんいっていうらしいわ。クリジアさんとダンタリオンちゃんなら凄く似合うんじゃないかしら!』


『似合うってなんだよ。いや、うん……まあ、試すときあったらやってみる、かなぁ?』


正直、コツも何もわからないが、あの力自体はかなり魅力的なように感じていた。アモンから言われた『混ざれるんじゃないか』という言葉と、フォカロルが言った『この力は貴方の助けになってくれる』という言葉。無力感を痛感してしょげている今の私には、手が届くものなら手に入れたい。


レヴィはイタズラな顔で笑いながら、私に少し近づくと、突然私の頭を小突いた。


『って!?何!?』


『元気出してね、クリジアさん。貴方に助けられた人も大勢いるの。その人たちから、目を逸らさないであげて』


真っ直ぐな目が私を見据える。


私はどうしても気まずくて、居心地が悪くなり目を逸らす。それでも、レヴィの感謝の言葉に嘘はなく、今私が言われていることに、私が反論できる材料がないことも理解していた。


『……出口まで案内してもらっていい?』


『あら、部屋に戻る途中じゃなかったの?』


『目を……逸らしちゃいけない用事が一個だけあるのを、思い出した』


私がそういうと、レヴィは何も言わずに私の手を引いて、神殿の中へと歩き始める。レヴィなりの気遣いなのだろうと思い、私も何も言わず、されるがままに手を引かれる。


レヴィが部屋から出てきたことを知らない人たちに会うたびに大騒ぎにはなっていたものの、無事に出口まで連れられたところで、レヴィは私の手を離すと『頑張ってね』と言って手を振る。


私は声を出さず、手だけを挙げてレヴィに返事をして、重い足取りで街へと歩き始める。


空は日がだいぶ傾いてきていて、あの時と同じように雲ひとつない快晴だった。


やっぱり私は、空が嫌いだ。









はじめにこの国へ来たとき、最初に潜った扉。その扉の前に私は立っていた。


錬金術の研究家、私を歓迎してくれたロゼ家の玄関。ここに辿り着いてから、すでに20分程時間が経っているのだが、未だに呼び鈴に触れることができていない。


空は少し赤くなり始めていて、時間が進んでいっているのを嫌でも認識させられる。


『……ここまで来ただろ』


自分に言い聞かせるようにして、深く息を吸って、ゆっくりと吐き出してから、覚悟を決めて呼び鈴を鳴らす。


すぐに奥からパタパタと駆ける音がして、玄関の扉が開く。


『オロバス!?……って、クリジア!元気、そうってわけでもないのね』


ニコラが、扉を勢いよく開けて顔を出した。


『……よう。そっちは元気そう?』


『うん。あの時倒れちゃってごめん』


『あんなの相手じゃね。むしろ助けてくれてありがとうだよ』


ニコラはえへへと笑いながら、鼻の下を指で擦る。私はそんなニコラの様子に少し微笑ましいものを感じながらはにかむ。


『オロバスはまだ帰ってきてないの。手伝いとかなんとか……連絡くらいくれてもいいのにね』


『……そっか。あいつにも、助けられたんだけどな』


私は、ニコラから目線を少し逸らす。


けれど、私は目を逸らしてはいけない。逸らして逃げたら、きっと後悔するんだとはわかっていた。


『……ねえ、クリジア。この後少し時間ある?』


『え、まあ……時間はあるけど』


私がそう言うと、ニコラは嬉しそうな様子で『付いてきて!』と言って私の手を引いて走り出す。私はどこに行くのかとか、少し待ってとかを言いながら引っ張られていく。ニコラは特に何も言わずに、どんどん道を進んでいく。


走っている場所は徐々に人気がなくなって、その内水の都の中では珍しい、小高い丘のような場所までやってきた。ニコラの家からパタパタと小走りで、数分走ったくらいのところにこんなところがあるのかと思ったが、街中とはまた違う、自然特有の落ち着きがある空間だった。


『ここね、私の好きな場所なの。嫌なことがあったり、疲れちゃった時とか、ここに来てのんびりするの!』


『へえ、こんなとこあるんだ……』


小高くなってることもあって、国の内側に近い位置の割に海も見え、空も開けている。俗に言う穴場というやつなのだろう。観光パンフレットにも乗らない、地元の人……というより、ニコラしか知らない場所なのだろう。


『クリジア、なんか凹んでるみたいだし!ちょっと元気出るでしょ?どう?』


『うん。ありがと』


『ここ、夕焼けが一番綺麗なの!オロバスともよく一緒に来るの!パパとママに怒られた時とか、二人でここに来るのよ』


ニコラはそう言って、思い出話をああだこうだと話し始めた。微笑ましいエピソードが溢れるように出てきて、私はそれを一つ聞くたびに、心臓を握り潰されるような気分になる。


ニコラの話がひと段落した頃、日は随分と傾いて、夕焼け空が真っ赤に燃えていた。私は、意を決して口を開こうとした。その瞬間に、ニコラが私の言葉を遮るように『あのね!』と声を上げた。


『私、天才錬金術師なのよ!そう、天才なの!』


私はニコラの言葉の意味がわからないまま『まあ、そうだね?』と、返事を返す。ニコラは大きく腕を開いて、大袈裟なくらい大声で続ける。


『天才だから、いろんなことがわかるの!きっとクリジアより頭だって良いわよ!』


『それは、そうだろうね』


『そう!だから、だからね……』


ニコラが俯いて、震え始める。


スカートの裾を握りしめて、怖いものを目の当たりにしたように。


『私ね、わかってるの……』


ニコラが顔を上げる。ぼろぼろと大粒の涙を目から溢して、整った顔をくしゃくしゃにしながら、震える声で言葉を紡ぐ。


『オロバス、もう……帰ってこないんでしょ……!?』


震えて上擦った声で、ニコラが叫ぶように私に問う。


私は何も言えないまま、口を開閉しながらその場に立ち尽くす。


あの時、ニコラを助けたのは私ではなく、サミジナでもない。




──あの時、ニコラの容器が砕けた時、それを直そうとあらゆる手を尽くしていた。


フラスコの中でしか生きられない生命であるニコラは、容器が壊れると一分と生きてられない。心臓部のフラスコが砕かれてしまった以上、それをどうにかしなければならないのだが、私には当然ながらそんな技術も魔法もなかった。


オロバスも同じで、ブァレフォールから模倣した魔法でニコラの容器を直そうとしたが、特殊なものを作るのにはそれに見合った材料側の魔力が必要なようで、身の回りに魔力の塊など存在しなかった。


正確には"ただ一つを除いて"存在しなかった。


『……クリジアさん。ニコラのことを、守ってくれますか』


オロバスが、砕けたフラスコを手に乗せたまま私に声をかける。


『間に合うの!?それなら守るけど、何すりゃいい!?』


『ブァレフォールの魔法は、自分を対象にすることはできるみたいです。特別なものを作るには、魔力の塊があれば良い』


私には、その時にすでに何をしようとしているのかはわかっていた。


『それじゃお前が死ぬだろ!!家族なんでしょ!?神殿の方になんかあったりしないわけ!?』


オロバスは私を見て微笑む。


『あなたは優しい人ですね』


『そんなんじゃない!!そんなんじゃ……』


『神殿で手を尽くすような時間はありません。それに、言ったでしょう』


オロバスが自分の胸から、宝石のようなものを引き摺り出す。


悪魔の核、悪魔にとっての心臓のようなもので、それが壊れてしまえば悪魔も壊れてしまうもの。現物を見るのは初めてだったが、それでもそれが核なのだと直感できた。


『やめろよ、待って。まだ、まだ何かあるだろ。ニコラはお前のこと家族だって……』


手段がないことは、わかっていた。


それでも、何かに縋るようにして私は懇願する。それが何の意味も持たないと知りながら。


『……ニコラはこれから、多くのものを見て、多くのことを知っていきます』


あの時に聞いた話。


私が羨ましいと思った、家族の話。


『それをお前が手伝うんだろ!!』


『これが、最後の手伝いになりますね』


オロバスは笑い、その手に持った核が小さなニコラを包むように形を変えていく。


『なんでだ……!なんでそんな……!!』


ニコラを包むフラスコが完成すると同時に、オロバスの身体がボロボロと崩れ始め、崩れ落ちた部位が霧散していく。


『僕は、ニコラという人間に、恋をしてしまった呪いですから』


崩れていく身体で、オロバスは私にニコラを手渡すと、ニコラに『元気で』と短く告げて、微笑んだ。


『失うことが、一番怖い。だからこうする。僕の勝手で、ニコラを一人にしてごめん。伝えられたら、そう伝えてください』


『待っ……』


そう言い残し、オロバスは私の目の前で霧散して、消滅した。




──それが、あの時ニコラが助かった理由だ。


私には守れなかった。


オロバスが、ニコラに自身の夢を託して、命を賭してニコラを救った。


『守れ、なくて……ごめん………』


私に涙を流すような資格はない。そう思っていた。手を握りしめて、唇を噛みしめ、ニコラに目も合わせられないまま、やっとの思いで呟く。


ニコラはその場に崩れるように膝をついて、大声で泣いていた。私は何もできないまま、その場に立ち尽くす。なんとも情けなくて、滑稽な話だと、自嘲する自分の声を聞きながら。








長い間、そうしていた。


空はすっかり暗くなって、星と月が顔を出している。


ニコラはゆっくりと立ち上がり、私の方へふらふらと近づいてくる。


殴られるだろうか、怒鳴られるだろうか。何にせよ、私に文句を言う資格はない。それでニコラの心に整理がつくのなら、いくらでもそうしてくれと考えていた。


『……ありがとう、伝えてくれて』


ニコラは、そう言って私を抱きしめる。


『……は?』


『聞きたかったの、どこかで、ずっと期待してて、明日戻ってきてくれるかもって……ありがとう。大丈夫、私。大丈夫だよ、これで……』


私は何も言えないまま、ニコラの言葉を聞いて、血が滲むほどに唇を噛みしめていた。


暫くそのままでいて、ニコラがふと『帰ろう』と呟き、私とニコラは帰路についた。ニコラの家の前ではロゼ夫妻が待っていて、二人からは特に何を言われたわけではなかったが、ニコラを送り届けたお礼を言われた後に、ポンポンと頭を優しく叩かれた。


ニコラが私を罵ってくれれば、どれだけ楽だっただろうか。


守ったものから目を逸らすな、守れなかったものを言い訳にするなとは、なんでこんなにも難しいんだろうか。


私はぐしゃぐしゃの感情のまま、ニコラの家を後にする。


『……ニコラ!』


少し歩いた後、未だ見送ってくれているニコラの方を振り返る。


『一人にして、ごめんって……これから、すごい錬金術師になれよって、あいつ言ってたから!!』


ニコラは大きく手を上げて、叫ぶ。


『任せなさい!私、天才なんだから!!』


未だに震える声で、それでも大きく、まっすぐに叫んだ。それを別れの挨拶にして、私は半ば逃げるようにその場を去った。


『怒ってくれりゃ、よかったのに』


私の心は、誰に聞かれることもなく夜に溶けた。










次の日、私は挨拶もなしに早々に除け者の巣へと帰っていた。


居心地も悪いし、心の中はぐちゃぐちゃだし、何もかもが嫌になって、逃げ出したくなったので、フルーラさんに無理を言って早朝に帰してもらった。


そんなわけで、今は自分の部屋でベッドに突っ伏している。


『おいクソガキ。帰ったんだろ』


ドンドンと、少し強めに自室のドアが叩かれる。


『……なんすかミダスさん』


『なんすかじゃねえよ。報告寄越せ』


『疲れてるんで後でに……』


『なら今から聞くことだけ答えろ』


珍しいほどに横暴な調子で、ミダスさんは強引に話を進めていく。その割にドアを無理に開けてきたりとかをしないのは少し不思議だったが、私はだいぶ参っていたのもあって、それ以上は文句も言わずに、ミダスさんからの質問を待つことにした。


少しの間沈黙が続いて、私が不思議に思ったあたりで、ドアの向こうから声がする。


『大丈夫か、お前』


優しく、語りかけるような声。


ミダスさんらしくないその声に、少し戸惑う。


『……大丈夫ですけど』


『嫌になるよな。いろんなものが手をすり抜けて落ちていくだろ』


質問とは言えない、問いかけのような話が続く。


『それでも手に残ったもんはちゃんと誇ってやれ。落としたもんにも失礼だし、何よりお前自身への侮辱になる』


『……なんの話』


『それでも納得できねえなら泣いてみろ』


それきり、ミダスさんは何も言わなくなる。けれど、ドアの前にまだ居てくれているんだろうなというのが、気配でなんとなくわかった。


私は暫く天井と睨めっこをした後に、独り言のように呟く。


『……泣いても、いいのかなぁ。私が』


返事はない。


『守れると、思ってたのに。手が届かなかった。私のせいで悲しんでる人がいるのに、悲しんでいいのかわかんないよ』


少しの間を空けて、ドアの向こうから声が帰ってくる。


『お前に都合よく世界はできてねえよ。泣きたかったら勝手に泣け。文句言う奴なんざ何しててもいるんだ。気が済んだら出てこいよクソガキ』


ドアの前からミダスさんが下の階へ歩いていく音が聞こえる。


私は一人、静かな部屋に残される。


『泣きたかったら泣け……かぁ……』


手で顔を覆う。


最後に泣いたのはいつだったか。


悔しいとか、悲しいとか、そんなことを思ったのはかなり昔の話のような気がした。


家族を失ったあの日。


友達を守りたかったあの日。





私は、ヒーローになりたかったんだ。



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