第29話 台風とお泊り

 夏休みに入ってから一週間、今日も私は葉月の部屋で課題に向き合っていた。全て終わらせてからじゃないと海に遊びにはいかないと葉月が頑なだったのだ。私の怠け癖を見抜いていたのだろう。


 窓の外には強い風がびゅうびゅうと吹いていて、横殴りの雨が激しく打ち付けている。午前中は晴れていたのに、午後に入ってから急に大雨が降ってきたのだ。悪さをしているのは積乱雲ではなく、同じく夏の風物詩の一つである台風だった。


 ローテーブルの上に並べられた課題は、もうほとんど終わっている。でもこの天気だと台風が去った後も海へ行けるかは怪しい。真隣で黙々と課題を進めている葉月に問いかける。


「海大丈夫なのかな? 流木とかで閉鎖されることもあるみたいだけど……」

「今回のはそこまで勢力が強くないみたいだから、きっと大丈夫よ」


 葉月の笑顔をみていると不安が和らいだ。


「そっか。早く台風過ぎてくれたらいいのにね」


 微笑み合ってからまた課題に戻る。葉月とたくさん話したい気持ちはあるけれど、今は我慢だ。ラストスパートをかけるために、またペンを握った。


 集中しているといつの間にか時間は午後五時を過ぎていた。


 課題を終えたらしく、葉月は大きく伸びをしている。私はまだもう少しかかりそうだった。欲をいうのなら最後まで終わらせてしまいたかったけれど、常闇の中を家に帰るのは怖いから早めに葉月の家を出たい。外はもう夜みたいに暗いのだ。


 課題を閉じて全身を伸ばす。緊張していた体が弛緩して気持ちいい。大きく息を吐いてから帰り支度をしていると、不安そうな目を向けられた。


「今日は泊まっていけばいいわ。外はこの有様だし危ないでしょう?」


 今もびゅうびゅうと強い風が吹いている。


 今日もお父さんは仕事先で夜を明かすのだろう。泊っても問題ないと思う。というか、むしろ泊まりたいのだ。台風の夜を一人で過ごすのは嫌だ。葉月と一緒にいられるのなら、そっちの方が良いに決まっている。


 ローテーブルの上の手を、笑顔で握った。


「それならお言葉に甘えさせてもらうね」

「お母さんも喜ぶと思うわ」


 心底嬉しそうに笑うのだ。いつの間にか伸びていた手が、優しく頭を撫でてくれていた。今も台風の暴力的な勢いが窓から伝わってくる。


 でも隣に葉月がいるだけで心が弾むみたいなのだ。愛おしさが無尽蔵に膨れ上がってしまうから、そっと肩に寄りかかって上目遣いでみつめた。


「……キスしてもいい?」


 部屋がしんと静まり返ったみたいだった。


 葉月は顔を赤くしながらも、ジト目を向けてくる。


「一回だけよ。前みたいに執拗に求められたら、今度こそ何をするか分からないわ」


 艶っぽい瞳と声に心臓が飛び跳ねる。そらした目が無意識にベッドへ向いてしまうのだ。そんな自分に気付いて、顔を両手で覆ってしまいたくなる。


「相変わらず涼香はいやらしいわね……」

「葉月が変なこと言うからでしょっ! 何するか分からないとか。考えちゃうに決まってる」

 

 ここは葉月の部屋なのだ。プライベートの空間で、何をしてもいい場所。恋人でもないのにそういうことを考えるのは変だけど、葉月が相手ならどうしようもないと思う。


「そういうことは本当に好きな人としかしてはだめなのよ」

「好きな人なんてできないよ。約束したでしょ?」


 頬に手を伸ばす。触れただけでもう赤くなっていた。今日は理性が残っているからなのか、目が合うだけで恥ずかしそうにそらしてしまうのだ。


 あんまりに可愛いから今すぐにでも唇を奪ってしまいたい。私のものにしてしまいたい。熱っぽくみつめて、顔を近づけた。


 長いまつげと澄み切った大きな瞳は、見惚れてしまうほどに綺麗だ。


「……やっぱり葉月って世界で一番可愛いよね」


 無意識に言葉が漏れる。誇張しすぎだと咎めたかったのだろう。不服そうな表情が現れた。何かを言いたげに、小さな唇がつぼみみたいに開く。


 けれど言葉が漏れることはない。重なった唇から伸びた私の舌に絡めとられてしまった。色っぽい吐息が漏れ聞こえて来るだけだ。


 胸がうるさい。一度境界を越えてしまえば、もう一度またぐのは難しくはない。繰り返すほどに行為に慣れて、日常の一部へと変化していく。


 なのに葉月への思いは決して日常になってくれない。絶え間なく膨れ上がる一方なのだ。思いの強さは、行動にまで現れてしまっている。


 最初は触れ合わせるだけのキスだった。


 でも今は、恋人みたいな深い口付けが当たり前。


 言葉にしてはいけない感情の全てが行動に転化する。これから先、強まってゆく思いの中で、どれほど親密に交われば自分を騙せるのだろう。


 とめどなく溢れる感情から、逃げ切れるのだろうか。


 これからのことを思うと、おぞましい恐怖が胸の奥から湧き上がってくる。


 不安に耐えられなかったのだ。葉月の腿の上にまたがり、正面からぎゅっと抱き着く。互いの全てを求めるみたいに、生温い感触は執拗に絡まり合う。何も考えられなくなるくらいの気持ち良さだけが、今の私の救いだった。

 

 息苦しくなるまでキスを続けてようやく満足する。でも顔を離すと、蕩けてしまった葉月の表情は目が離せなくなるくらい煽情的なのだ。


 見つめているだけでまたキスをしたくなってしまう。抗いようのない欲が生まれてしまわないうちに、なんとか目をそらして葉月から離れる。


 胸に手を当てて息を整えていると、不服そうな瞳に睨みつけられた。


「不意打ちなんて卑怯よ」

「ごめんね。あんまりに可愛いから我慢できなくて……」

 

 私も反省はしている。言葉を遮ってキスをするなんてちょっと強引すぎた。


「……まぁいいわ。でも代わりに今夜は私の抱き枕になるのよ」

「それってつまり一緒に寝るってこと?」


 色々とまずい気がする。葉月の可愛い寝顔を前にして、何もせずに眠れる気はしない。

 

「寝ている間に変なことをされないよう警戒も兼ねて、後ろから抱きしめるつもりよ」


 ジト目でみつめてくるのだ。全てお見通しらしい。思わず苦笑いする。


「いいよ。私もそっちの方が安心だし。いろんなこと我慢できそうにないもん」

「涼香は本当にふしだらね。あと素直過ぎるわ。少しくらい欲望を隠したらどう?」

「でも隠したところでどうせ溢れ出しちゃうよ。それでもいいなら頑張るけど……」


 つやつやの髪に手を伸ばす。軽く撫でるだけでふわりと甘い匂いがするのだ。そばにいるだけで五感が警笛を鳴らす。


 理性が吹き飛んでしまいそうなくらい、魅入られてしまう。生まれた瞬間に結ばれることが決まっていたみたいに抗えない。葉月は、甘い毒みたいだった。


「……本当に仕方のない人ね」


 照れくさそうに肩をすくめる仕草も、どことなく嬉しそうな声も。私の前でだけみせてくれる欲にまみれた等身大の姿も。ずっと一人ぼっちだった私を救ってくれた救世主としての葉月も。葉月という人の全てが、刻一刻と私の心を侵食していく。 


「お母さんに話してくるね。泊めてくださいって」

「私も行くわ。またあの人、余計なことを言いそうだから」

「いいのに。葉月のことたくさん知りたいんだ。小さなころのこととかさ。赤ちゃんの頃は誰にでもニコニコ笑う子だったんだよね。ほとんど泣きもしないから、みんなに可愛がられてたって」


 赤ちゃんな葉月も、きっと今と同じくらい可愛らしかったのだろう。想像するだけで頬が緩んでしまう。


 ニヤニヤ笑っていると、葉月は顔を真っ赤にして睨みつけてきた。


「ちょっと。いつ聞いたのよ!」

「別に恥ずかしいことじゃないでしょ?」

「そういう話じゃないのよ! まったく。本当にあの人は……」


 大きなため息が聞こえてくる。少し乱暴に手を引かれるから、バランスを崩しながら立ち上がった。私よりも少しだけ大きな後ろ姿が、不意にお母さんと重なる。


 赤ちゃんの頃、私は良く泣く子だったらしい。夜泣きも酷くて大変だったと、遠い記憶の中でお母さんは笑っていた。


 強い風がガタガタと窓に吹き付ける。


 固く葉月の手を握り締めて、リビングに向かった。

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