第28話 冷たい記憶と温かい今

 恋人みたいな距離感で肩を寄せ合う。


 私たちは二人でショッピングモールの通路を歩いていた。さっきまでは晴れていたはずなのに、吹き抜けの天井、ガラス張りの向こうは黒い雲で覆われている。


「ねぇ葉月。本当にこれで良かったの?」


 右手の袋の中を覗き込む。そこには布面積の多い水色の水着が入っていた。


 ビキニではなく葉月と同じワンピースタイプを買うことになったのだ。


 好き好んで恥ずかしいのを着たいってわけじゃない。ちょっと油断したら胸とかも見えちゃいそうだったし。でも葉月が望むのなら頑張るつもりだった。あんなにも私を求めてくれたのは初めてなのだ。大切な人には喜んでほしい。これは当然の考えだと思う。


「あの水着はどう考えてもだめよ。男も女も目の色を変えてあなたをナンパすると思うわ」

「流石にそれはないでしょ。葉月ならともかく」


 葉月なら海でのナンパだって止まなくなると思う。私たちが恋人みたいな距離感で仲良くしたところで、効果は薄くなってしまうだろう。


「冗談ではないのだけれどね」


 深いため息をついて葉月は私の腰に腕を回した。ドキリとしてみつめた横顔は真剣そのものだ。


「……約束、覚えているわよね? 誰にもあなたを渡すつもりはないわ」

「そんなに警戒しなくてもいいよ。葉月ほどモテないし」


 何より、葉月以外の誰かを好きになれる気がしない。この感情に恋なんて名付けるつもりはないのに、ただ隣を歩いているだけで心拍数が上昇する。


「あなたは警戒心が薄すぎるのよ。やっぱり心配だわ……」


 すれ違う人みんなに鋭い目を向ける程度には、不安を感じているみたいだった。


 杞憂でしかない。でも普通の方法では説得するのは困難なのだろう。葉月がどれほど強い思いを抱いてくれているのか、もう知っているのだ。


 小さくため息をついてから、耳元でささやいた。


「前にカラオケで言ったよね? キスだけじゃなくてもいいんだって。あれ、嘘じゃないよ」


 びくっと震えたかと思うと、顔を真っ赤にしてジト目を向けてきた。


「そういうのは早すぎるわよ! せめて大人になってからじゃないと……」


 あんまりにうろたえるものだから、私まで恥ずかしくなってしまう。


「とにかく! ……そういうことしても良いってくらい葉月のこと気に入ってるんだから。誰かに告白されても絶対になびかないよ。葉月と一緒にいること以外考えられない。心配なんてしなくていい」


 言い切っても難しい顔を崩さなかった。けれど表情の節々に喜びがにじんでいるのだ。目元も口元も柔らかく緩んでいて、見ているだけで心が温かくなってくる。


「ひとまずは納得してあげるわ。獣みたいな激しいキスを求めるくらいだものね」


 からかうみたいな微笑みを向けてくるから、かあっと顔が熱くなる。


 その瞬間、私の脳内には、試着室での一連の出来事が再上映されていた。観客席に座った私は、真っ赤になった顔を両手で覆いながらも、指の間からまじまじとスクリーンをみつめている。


 現実の私も、ついつい可愛い唇に目を向けてしまうのだ。


「本当にあなたはいやらしい人ね。あれだけしたのに、まだ物足りないのかしら?」


 呆れたみたいな半目を向けられてしまった。


「だって気持ち良かったから。葉月だってそうでしょ?」

「……そうね。ほろ苦いチョコレートを口にしたような気分だったわ」


 寂しそうな笑みの先にはごおごおと雨が降りしきっていた。自動ドアの向こうで、唐突な大雨に大慌てした通行人たちが走っているのだ。夏の風物詩、積乱雲が悪さをしたのだろう。傘はもってきていないけれど、きっとすぐに止んでくれるはずだ。


 雲で散乱した薄暗い光が雨の向こうにぼんやりと街を照らしている。激しい雨音がスコールみたいだった。遠い昔、家族でグアムに旅行した時のことを思い出す。あの時は大変だった。でも、楽しかった。


 出入口の軒下までやってくると、ずぶ濡れになった人たちが恨めしそうに夏の空を睨んでいる。


「土砂降りね……」

「雨が止むまで一緒に待とうよ」

「そうね」


 葉月の微笑みを最後に雨音だけが響いてくる。


 目を閉じると湿っぽいアスファルトの匂いがより濃く感じられた。何かを話すような空気でもなかったし、葉月が相手なら沈黙に気まずさも感じない。体を寄りかからせて穏やかな時間を楽しんでいると、雨音に混じってささやくような声が聞こえた。


「涼香は遠くからここにやって来たのよね?」


 まぶたを開いて葉月に微笑む。


「うん。前にいたところは夏でも涼しかったよ。冬の寒さと雪の厚さはとんでもなかったけどね」

「雪国出身なのね。どうりで色白なわけだわ」

「葉月には負けるよ。というか出身は別の場所。転校は一度や二度じゃないよ」


 なんの変哲もない地方都市。特段、名物と呼べるようなものもない。県外からの観光客も素通りするような場所だった。


 お父さんとお母さんはお互いに地元出身で、高校生の頃に知り合ったらしい。もう人生の半分以上前のことだから、故郷と呼ぶにはあまりに記憶が薄い。


 何より思い出したくもない。


 ぼんやりと雨の景色をみつめる。地面に落ちたそばから水滴は砕け散る。


「……涼香は、寂しいとか辛いって思うことはないの?」


 興味本位の質問という感じだった。葉月は私の人生をあまり知らない。伝えたのはお父さんの仕事の都合で転校を繰り返していたこと、仲のいい友達を作れなかったことだけだ。


 お母さんのことなんて当然伝えていないし、私が恋愛を恐れていることだって知らない。葉月と付き合わないのは、単に好意がないから。そういう認識なはずだ。


 雨は今も止む気配がない。


 ぎゅっと腕を組んだまま、すべすべの手に指先を絡めた。


「転校にはもう慣れちゃったんだ」


 霞んだ街は、薄暗いせいか既に街灯が点灯していた。雨粒が照らされて、流星の軌跡みたいに落ちていく。これから私がこらえなければならないもの思うと、気分は沈み込む。


「産まれた街で生きたのは、もう人生の半分以下の時間。最初は過ごした街を離れる不安もあったのかもしれない。でも繰り返してたら自然と慣れてきてね」


 言葉にすると思い出す。誰とも心から仲良くなれないのは当たり前のことだった。人や場所に対する愛着も薄く、自分をさらけ出すこともしなかった。それはきっと、辛い現実に対する防衛機制のようなものだった。あんな毎日を続けていれば、いつかは壊れていたのかもしれない。


 あるいは、もう壊れていたのか。


「……葉月と出会えて本当に良かったよ」


 遠くをみつめたまま微笑む。言葉は本心だった。


 でも心は冷たい虚しさで満たされる。


 もしも出会わなければ、救われることはなかった。だけどお互いに苦しむこともなかったのだろう。恋なんかとは無縁だと思っていた。誰かを好きになる喜びなんて知らなかった。痛みだって、知らなかった。


 いつまで私はこの激情を否定しきれるのだろう。万一にも肯定してしまったのなら、その先に待つのは地獄だ。私の初恋は最初から失恋が決まっている。過去は忘れられない。両思いでも絶対に結ばれるわけにはいかない。


 葉月とはずっと一緒にいたいのだ。破滅的な終わりなんて迎えたくないのだ。


 雨音に包まれてうつむいていると、明るく澄み切った声が響いてきた。


「きっと一生あなたへの思いを忘れられないと思うわ。呪いだと思わない日はなかった。でもやっぱり嬉しいという感情の方が強いのよ。涼香を好きになれたこと。たくさんキスをできること。これから先、ずっと一緒にいられるということ。だから何も気負わなくていいのよ」


 優しく頭を撫でてくれた。太陽みたいな笑みだった。


「私を苦しめるかもしれない、なんて悩みは余計なお世話」

「……そっか。ありがとう。葉月は優しいね」


 肩をすくめて微笑む。やっぱり凄い人だ。私とは正反対だ。


 不安におびえて目を閉じていると、全身が温かな体温に包まれた。背中に回った葉月の腕は優しい。ただ抱きしめてくれただけで、言葉はなかった。それでも願いは強く伝わってくる。私が笑顔を望んだように、葉月も同じことを望んでくれている。


 軋む心を力任せに歪める。


 無理やり浮かべた笑顔で、大好きな人を抱きしめた。 

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