第25話 かりそめの恋人

 背の高いビルが立ち並ぶ市街地。その中でも目立つ大きな建物が目的地だった。冷房の効いた吹き抜けの空間は三階に別れていて、食品売り場から家電量販店まで様々なお店が入っている。


 私たちの目的は水着を買うことだけれど、せっかく二人で来たのだからたくさん寄り道をしたい。でも葉月は興味がなさそうだった。可愛い洋服の売られているお店を無言で通り過ぎていく。


「葉月っておしゃれとかあんまり興味ないんだよね」

「ただでさえ人目を引くのに、着飾ったところで何もいいことはないわ」


 寂しそうな横顔だった。今も男女問わず行き交う人たちから視線を集めている。葉月はあんまりにも可愛いから、そのせいで友達に裏切られてしまった。綺麗になることに抵抗感があるのだろう。


「……水着は大丈夫なの?」

「不安ではあるけれど大丈夫よ。涼香の水着姿を拝めるのだからね」

「だから期待しすぎだってば……」


 なんて会話をしていると、急に大学生くらいの男性が声をかけてきた。


 一緒にいるとたまにこういうこともあるのだ。いつものにこやかな笑顔が消える。つららのような冷徹な瞳に睨みつけられた大学生は、それでも諦めきれないのか粘っていた。けれどやがては無理だと判断したのだろう。顔をしかめて立ち去った。


「今回は妙にしつこかったわね。夏だからなのかしら。すこぶる面倒だわ」


 うんざりした風にため息をついている。もしかすると葉月が着飾らないのは、ナンパを避ける意図もあるのかもしれない。


 というか、ただのショッピングモールですら声をかけられるのだ。水着姿で海を満喫して大丈夫なのだろうか。楽しむどころの騒ぎじゃない気がする。


「海大丈夫? 葉月すっごく綺麗だから、たくさん声かけられると思うんだけど……」

「不安なら、あなたが恋人になってくれればいいじゃないの」


 肩をすくめて反応に困っていると、葉月は切なげに笑った。


「冗談よ。恋人がいればナンパをかわしやすくなりそうね、なんてふと思っただけよ」


 違う。絶対に本心じゃない。分かっていても、作り笑いを浮かべることしかできない。


「……そっか」

「また邪魔が入らないうちに水着を見に行きましょう」


 葉月に手を引かれるままに、私は歩みを進めた。制服のスカートの裾が寂しそうにゆらゆらと揺れる。とてもじゃないけど、自分が正しいだなんて思えない。私からすると恋愛は有限の象徴だ。でも葉月は泣いてしまうほどに私が大好きなのだ。


 夏休みはめいっぱい楽しみたかった。辛いことなんて考えたくなかった。


 でもどこまで逃げてもついてくるのだろう。このままだと私だけじゃなくて葉月にも深い影を落としてしまう。そんな未来を知っていても、恋愛なんて怖い。この考えだけは変えられない。


 でもだからって、苦しんで欲しいわけじゃない。


 歩くたびにつやつやの黒髪が揺れている。綺麗だと思う。見つめているだけで胸が高鳴る。世界で一番可愛い女の子なのだから、当然だ。


 つないだ手を強く握りしめて、立ち止まる。


 葉月は黒髪をなびかせながら振り向いた。ありふれたショッピングモールの背景が、煌びやかなパーティー会場みたいだった。一度目にすれば一生網膜に焼き付いてしまいそうな可憐な容姿。それに相応しい凛とした立ち姿で首をかしげている。


「どうしたの?」

「……恋人になったら、海も楽しめるんだよね?」

「別に恋人なんていなくても楽しめるわよ。涼香がただそばにいてくれるだけでね」


 ちょっとした衝撃を加えれば、粉々に砕けてしまいそうなガラスの微笑みだった。私が好きなのは素直な葉月だ。「涼香に会いたいわ」なんて恥ずかしいくらい真っすぐに笑ってくれる人だった。無理に気持ちを取り繕う葉月じゃなかった。私のせいで、こんなことになってしまった。


「私が不安なんだよ。制服でもナンパされるのに水着なんて絶対に危ないでしょ? お願い。海に行くときだけは私と恋人になって欲しいんだ。……だめかな?」


 上目遣いでみつめる。恋人なんて言葉が自分の口から出るなんて、変な感じだ。ずっと嫌悪していたはずだった。なのに今は「恋人」の対象が葉月だと思えば、身体がふわふわするのだ。


 でも私はきらめきに手を伸ばせない。


 恋愛に溺れた挙句破滅した母親の姿が、脳裏をよぎる。


「……恋人になるって、具体的にはどういうことなの?」


 葉月は不安そうに首をかしげている。目的は誰にもこの人をナンパさせないことだ。付け入る隙を見いだせないくらい、仲良くすればいい。友達としてではなく、恋人として。中身の伴わないハリボテだとしても、それでも。


 繋いだ手をほどいて、寄りかかるみたいにぎゅっと腕を組んだ。ほんのり甘い匂いがするし、せせらぎみたいな息遣いが心地いい。けど葉月の体温が直に伝わってくるから、心臓は落ち着いてくれない。


「……これなら恋人だって思ってもらえるかも」

「悪くないアイデアだけれど、こんな距離感では色々と我慢できる気がしないわ」


 長いまつげが伏せられる。熟れた果実みたいに頬が赤いのだ。あんまりに可愛いから目が離せない。くらくらするような甘い感情が、私の胸を息苦しく満たした。


「……その、我慢しなくていいよ。葉月になら何されてもいい。流石にここではダメだけどね」

「何もしないわよ。あなたは私を何だと思っているの?」


 呆れたみたいに深くため息をついている。


「とにかく、私の水着も葉月が選んでね。葉月が喜んでくれないなら意味ないし」

「それならさっさと行きましょう。さっきから周りの視線が痛いのよ」


 周囲を見渡してみると、行き交う人たちに生温かい目を向けられていた。


「……恋人だって思われてるのかな?」

「どうかしらね。仲のいい友達止まりかもしれないわ。醸し出す雰囲気とか、色々とあるでしょう? 恋人特有の甘い空気感が私たちにはない。……だから、どうにかして濃度を高める必要があるわ」


 艶っぽい瞳で私の唇をみつめた。心臓がドキリと跳ねる。


 きっと理由が必要だったのだろう。キスはしたいけれど、辛い。背中を押してくれる何かがなければ、お互いの唇を味わうこともできない。テストで条件を果たせなかった私たちは、今まで宙ぶらりんだったのかもしれない。


 けれどようやく大義名分を手に入れた。


「ナンパされないためだもんね」

「そうね。仕方ないのよ。あなたと二人で夏休みを楽しむためなのだから」


 世界で一番大切な人がそばにいる。しかもキスまでできるのだ。気持ち良さを分かち合える。誰にも負けないくらいの特別な関係でいられる。


 悩みはたくさんある。潰れてしまいそうなくらい心が苦しい。それでも今はまだ笑っていよう。鼓動が聞こえてくるくらいに寄り添い合って、吹き抜けから降り注ぐ日差しの中を二人で歩いた。

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