幕間 夏休みの独白

 夏休みは春休みや冬休みよりも長い。必然的に、なのかは知らないけれど、終業式での校長先生の長話もいつもより間延びしていた。


 退屈だからと涼香の姿を探すけれど、みんなの背中に隠れて見えるわけがない。涼香の苗字は「天海」で私の苗字は「七瀬」だ。


 広い体育館では天と地ほどに離れているように感じる。


 代わりに私の目に入るのは、どこかそわそわした雰囲気のクラスメイト達だった。愛着なんて薄い。私が話す人はせいぜい峰守さんくらいだけど、あの人も友達とは呼べない。


 涼香が転校してこなかったのなら、今年も一人ぼっちで過ごしていたと思う。


 中学で人との関わりを絶ってからは、すっかり夏休みをもて余すようになっていた。課題は多いけれど真面目にやっていれば最初の一週間程度で終わってしまう。


 読書は好きではあるけれど、一か月もの間、時間を潰せるかと問われればそんなわけはない。その上、不運にもテレビなんかで夏休みを満喫する同年代をみると、惨めさに耐えられなくなる。


 私だって好き好んで、人との関係を絶っていたわけじゃない。ほとんどトラウマにも近い経験に縛られていただけだった。そんな私を救ってくれたのが、涼香だった。


 恋のきっかけは今となっては些事に過ぎない。私は純粋に涼香という人に恋をしていた。その子犬みたいな仕草や可愛らしい顔立ち、そして優しい性格。


 悪い所ももちろんあるのだろう。でも目につかないのだ。欠点すらも、気付かない間に長所にすり替えられてしまう。もちろん思うところはある。それでも好きな人とひと夏を共にできるのだから、嬉しくないわけがない。


 ここ数年はみんなの気持ちが理解できなかった。けれど今年は間違いなく断言できる。涼香と一緒に色々な場所で遊び、そしてキスをするのだ。想像するだけで心が弾む。夏休みが、楽しみだ。


 終業式が終わり教室に戻る。先生は手短に注意事項だけ伝えてクラスを解散させた。騒めく教室の中を歩いて涼香の元へ向かう。


「帰りましょう」


 声をかけると今日も可愛い笑顔で振り向いてくれる。


「今日はソフトクリーム食べに行かない?」

「いいわよ。最近はうだるような暑さだものね」


 三十五度を超える猛暑日も珍しくはない。


 いつもはそんな炎天下の中、ソフトクリームのためだけに歩くようなことはしない。でも涼香と二人なら色々な場所に足を運びたくなる。


 二人で教室を出て廊下を歩く。どちらからというわけでもなく自然と手を繋ぐ。涼香は私に色々なことを許してくれる。キスもそうだし、胸を触ることだって拒否しないのだろう。カラオケで手に感じた柔らかな感触が、今もまだ忘れられない。

 

 でも私が一番欲しいものが恋人みたいな距離感だってことに、気付いているのだろうか。誰にも恋はしないと涼香は約束をしてくれた。けれど人は機械じゃないから、心変わりする可能性だって十分にある。


 外堀を埋める、じゃないけれど周りに私たちの関係を示しておきたい。例えばこれまでは普通の手つなぎだった。でもこれが特別な繋ぎ方になったらどうだろう。


「……ねぇ、恋人つなぎをしてもいいかしら?」


 ささやくと涼香の頬はほんのりと赤くなった。そのまま笑顔で頷いてくれる。


「いいよ」


 愛おしい指先が絡まる。ぎゅっと隙間のないくらいに密着した手は、あの日のキスを連想させた。


 涼香の手のひらの感触をここまで深く味わえるのは、きっと私だけなのだろう。自然と口元が緩む。独占欲の強さにかけて、私の右に出る者はきっといない。


 これから先、永遠に、私の求める関係は手に入らないのだろう。それでも隣にいられるだけで幸せなのだ。人には各々に相応しい幸せが用意されている。それに満足できない人が、身の丈に合わない幸福を掴もうとして階段を転げ落ちる。


 私は嫌というほど不幸を知った。ようやく手に入れた幸せを失いたくなんてない。


 だからもう出過ぎた真似はしない。


 薄暗い昇降口で愛おしい横顔をみつめていると、不意に問いかけられた。


「どうしたの? もしかして、……キスしたいの?」


 見惚れてしまうほど可愛らしい上目遣いだった。反射的に小さな可愛い唇に目が向く。けれど昇降口には生徒がたくさんいる。流石にこんな場所でキスはだめだ。激情のあまり押し倒してしまったことはあるけれど、普段の私には分別がある。


「あなたは私のことを何だと思っているの?」


 ため息をついていると、涼香は小さく首をかしげてこんなことをつぶやいた。


「……私は葉月とキス、したいよ?」


 かあっと顔が熱くなる。これで私に恋をしていないというのだから、魔性と呼ぶほかない。ますます心配になって来る。


 本当に、私とだけキスをしてくれるのだろうか。涼香がそういう人じゃないって分かってはいるけれど、周りが放っておくとは思えない。


「あなたのような人を小悪魔というのね」

「私が……?」


 不思議そうに首をかしげている。どうやら自覚はないらしい。


「これまでに告白されたこと、結構あるんじゃないの?」

「あるにはあるけどそんなに多くないよ。というか葉月の方がずっとモテるよね?」

「小悪魔な涼香には負けると思うわ」


 ため息をつくととジト目で見つめられた。


「同じ言葉、そのまま返してあげたいよ」

「好きでもない相手なのに、積極的にキスを求めるあなたには負けるわよ」 


 靴を履き替えて外に出る。相変わらずの夏の日差しがさんさんと降り注いでいて、暑い。それでもまたぎゅっと指先を絡めて涼香と恋人つなぎをする。


 周りから私たちはどんな風にみえているのだろう。涼香にちょっかいを出そうなんて人が消えてくれればいいのだけれど。


「言っておくけど、私、葉月のこと大好きだよ?」

「友達としてでしょう?」

「……友達というか、正直、私にもよく分からない。でも友情だけじゃじゃないよ」


 申し訳なさそうな微笑みだった。


 涼香は悪人ではない。むしろ物事の良し悪しはよく分かっていると思う。自分の提案によって私がどれだけ苦しむことになるか、理解しているはずなのだ。


 強い罪悪感を許容してでも私との関係を維持してくれる。それだけ、私を友達として大切に思ってくれている。私だってできることなら、恋なんて忘れるべきだ。


 それでも熱くたぎるこの気持ちをなかったことにはできない。


 あの日、丘の上で涼香とキスをしている最中に涙を流してしまった。家に帰ってからもとめどなく悩んだ。忘れたほうが楽なのだと分かっていた。でも胸の奥に取りついた恋心は、いくら泣いても消えてくれなかった。


 これから先、幸せには痛みが伴うのだろう。だけど笑っていなければならない。


 私が泣けば、きっと涼香は苦しんでしまう。正直、キスだって怖いのだ。またあの日のように泣いてしまわないとは限らない。だからこの一週間も、涼香と甘い雰囲気にならないように気を配っていた。


 でもいつまでも逃げ切れるわけがない。私も涼香も理由は違えどお互いにキスをするのが大好きで、欲を抑えるのには限界がある。


 今日なのか、明日なのか。もしも懇願されれば断り切れないのだろう。


 不安だけど悩んだところでどうにかなるものではない。今はただ夏休みを楽しんでいたい。辛いことは考えたくない。笑い合っていたいのだ。


 海に水族館に花火大会に、涼香と一緒に行きたい場所はたくさんある。強く手を握って輝く日差しの中を歩いた。

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