第22話 キスと涙

 上まで登りきると、すっかり夕方になった街がオレンジ色に包まれていた。平日だからか一か月前に来た時ほどの人はいない。ほとんど私と葉月の貸し切り状態だった。夏らしくない涼しい風が吹くから、階段をのぼる間に流れた汗が引いていく。


 影が長く伸びる。遊歩道を歩きながら、葉月は街並みを眺めていた。


「あなたに出会うまでは何度もここに来たわ。どうしようもない苦しみから逃げるために一番良い方法は、現実に立ち向かうことではなく、自分という存在の矮小さを自覚して『もう何もかもどうでもいい』って全てを諦めること。高校に入ってからも、ずっと信じていたわ」


 葉月は中学のとき、友達に裏切られたのだ。詳細は知らないけれど、それが葉月の心に影を落としたのは確かなのだと思う。出会ったばかりの葉月は、刺々しかった。常に人を拒絶する態度ばかりみせていた。


 そんな葉月に声をかけたのは、みんながもうグループを作ってしまっていたから。


 要するに仕方なくだった。私も最初は葉月のことなんて全然好きじゃなかった。


 でも今はどんな手段を用いてでも一緒にいたいと願っている。


「……可愛いって言葉だけで私のこと好きになってくれたんだよね? 理由を教えて欲しい」


 遊歩道の脇の夕日に照らされたベンチに二人で腰かけた。オレンジ色の光を真正面に浴びた葉月の横顔は、天使みたいに可愛い。胸がざわめいてしまうほどだった。


 これまでの人生で「美人」だとか「可愛い」だとか褒められたことは数知れないと思う。でもそれが裏目に出ていたことを、私は初めて知った。


「友人が私を裏切ったのは、色恋沙汰のせいだったのよね」


 その一言から始まった中学時代の話は、本当に酷いものばかりだった。


 信頼していた友達に裏切られ嫌がらせを受けたせいで、自分の容姿が大嫌いになってしまったのだ。また同じような目に合うのが怖くて、一人ぼっちでいることを選んだ。孤独なまま自己否定を重ねていたある日、私の裏表のない「可愛い」という発言に救われた。


 理由を聞けば、恋に落ちるのも十分に納得のいくものだった。


「私は、もう裏切られたくもない。信じていた人と離れ離れになりたくもない。あなたと願うところは同じなのよ。抱く感情は違う。けれど願いをかなえてもらえるのなら、あなたの提案を拒む理由はないわ。例え一生片思いをすることになるのだとしてもね」


 微笑む葉月の先には、私たちの暮らす街が広がっていた。ビルの陰影の連なる道路が、網目のように何度も結ばれている。赤信号に立ち止まる人々の前を、堰を切ったような勢いで車が流れてゆく。


 私に出会わなければ、葉月はいつまでも一人ぼっちのはずだった。一人で高校に向かって、一人でお昼ご飯を食べて、一人で帰って。


 そして孤独が辛くなった日にはここに足を運ぶのだろう。きっと私も同じだった。もしも葉月に出会えなければ死ぬまで自分の運命を呪うだけだった。


 伝えられることなんて、私にはもう何もない。


「……分かった。これからは毎日キスしようね」


 肩に寄りかかって、上目遣いで甘えるような声を出す。愛おしいじゃ済まない感情を葉月には抱いている。でも決して恋愛に発展することはない。


 これからもずっと、友達として過ごすのだろう。


 艶っぽい瞳が私をみつめる。葉月が何を求めているのかすぐに理解した。


 形の良い唇に意識が吸い寄せられる。


「……してもいい?」


 私がつぶやくと、葉月は無言で顔を寄せた。切なさと喜びの入り混じった瞳は宝石みたいに美しくて、吸い込まれるみたいだった。


 見つめ合った瞬間に、世界から音が消える。気付けば呼吸すらも忘れていた。主導権なんてものは存在しない。磁石が引き合うみたいに、自然と唇を触れ合わせる。


 まぶたを閉じると、唇から伝わってくる熱としびれが痛いほどに気持ち良い。初めて私からキスをしたあの日みたいに、執拗に唇を奪い合う。


 心が痛かった。もしも過去を忘れることができればどれほど幸せだろう。敏感な神経から快楽の波がやってくるたびに、泣いてしまいそうになるのだ。


 葉月の温もりをもっと感じたくて、私はそっと背中に腕を回して抱き寄せた。目を閉じていると熱が溶けあうみたいで、お互いの境界線があいまいになってしまう。ずっとこのままでいたいのに、やがて息が続かなくなって唇を離す。


 葉月の頬はすっかり色っぽく上気していた。


「……きもちいいね」


 はにかんで顔をそらす。


 体が熱いから街の方から吹いてくる涼しい風が有難かった。うるさい胸に手を当てて小さく息を吐いていると、不意に葉月の手のひらが頬まで伸びてくる。首をかしげて振り向く。不意を突くみたいに、葉月の唇が私のそれに重なった。


 あまりにも唐突で目を見開く。けれど拒む気にはならなかった。斜陽に照らされた目元から、一筋の涙が下っていくのがみえたのだ。逆らうこともせず静かにまぶたを閉じる。体の芯まで響くような重く息苦しい痺れが、永遠みたいに心を苛んだ。

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