第20話 キスもその先すらも
ホームルームが終わった直後の教室は、浮足立つような雰囲気だった。やがて来る夏の盛りをみんな楽しみにしているのだろう。表情が明るい。
でも私は空気に馴染めなかった。
肩身を狭くしながら帰り支度をしていると葉月に声をかけられる。
「涼香。帰りましょう」
「……うん」
顔をあげて、作り笑いを浮かべる。
十位以内に入れなかったことはまだ葉月には伝えていないし、伝える勇気もない。葉月も不安なのか聞いてこなかった。
ぎゅっと葉月の手を握って立ち上がる。こっそりと唇をみつめた。薄桃色で形も綺麗で、今だってキスをしたいって思ってる。葉月とたくさん一緒に気持ち良くなりたい。ずっと一緒にいたい。願いは変わらない。
でもそれが葉月を苦しめることも知っている。私への思いを完全に封じ込めてただの友達として笑い合うのと、思いを中途半端に露わにしてキスを繰り返すこと。そのどちらも苦しいはずなのだ。
けれどどちらも選ばないなんて選択肢はない。だから、葉月は私の頑張りに全てをゆだねた。そして私は葉月に「ただの友達」を選ばせることになる。
手を繋いだまま薄暗い昇降口まで歩いていく。影の向こうは太陽の光がふりそそいでいて、目もくらむほどにまぶしかった。
見えない力に頭を押さえつけられたみたいで、息苦しい。うつむいて靴を履き替えていると、葉月に顔を覗き込まれた。綺麗な鳶色の瞳にみつめられる。ただそれだけで胸がうるさく騒ぐ。
「今日はカラオケでも行かないかしら」
「いいよ。でも葉月から『カラオケ』って言葉が出るのって、変な感じ」
くすりと笑うと、ジト目で見つめられた。
「あなたは私のことを何だと思っているの?」
「世界で一番可愛い女の子だって思ってるよ」
ささやくと、葉月の頬はほのかに赤みを増した。
「そういうことじゃないわよ……」
ちらりと私の唇に目を向けるも、わざとらしくそらす。神秘的なまでに美しい横顔はどこか物憂げだった。
小さくため息をついて二人で昇降口を出た。街中にあるカラオケを目指して二人で歩いていく。太陽の光は炎みたいに熱い。アスファルトにはゆらゆらと陽炎が浮かびあがっていて、蝉の大合唱も体感温度を押し上げている。
葉月も熱気に打ちのめされているのだろう。赤信号の横断歩道で立ち止まった拍子に、首筋を珠のような汗が滑り落ちていく。
無意識に伸びた私の手が、そっと撫でるように指先を這わせていた。スクリーンに映った映画でもみるみたいな気持ちで、汗の粒が指に溶けるのを眺める。
「……涼香?」
目を向けると感情の読めない瞳が、私をみつめていた。
「あ、ごめんなさい……」
飛び跳ねるようにして、首筋から手を離す。胸がうるさい。葉月に触れたかった。理性でブレーキをかけることもできなかった。
うつむいていると、今度は葉月の指先が私の首筋に触れた。顔をあげるのもなんだか恥ずかしくて、じりじりと焼けたアスファルトに目を落とす。
細い指先がくすぐるみたいに肌の上を進んでいく。でも不快感なんてない。むしろ葉月に触れられるだけで胸が高鳴ってしまう。その瞬間に確信してしまったのだ。
私はきっとこの胸の高鳴りを手放せない。
目を向けるのが恐ろしかった。一体葉月はどんな表情で私をみつめているのだろう。めまいにも似た感覚を覚えていると、やがて首筋から指先が離れた。
「信号が青になったわ。行きましょう」
いつもの落ち着いた声が聞こえてくるから、ゆっくり顔をあげる。
大きな瞳が私をみつめていた。表情は柔らかくて、いつも通り美人で可愛い。けれど瞳の奥にかつてのような明るい光はみえない。私の成績がどうだったか、察しているのかもしれない。
「……うん」
手を繋いだまま、とぼとぼと横断歩道の白線をまたいだ。
たどり着いた薄暗いカラオケの個室で、私たちは隣り合って座っていた。
デンモクを手に葉月は悩まし気な表情を浮かべている。
「そうね……。何を歌おうかしら」
「葉月って最近の流行りの曲とか知ってるの?」
普段の会話で若々しい話題が出て来ることもないし、部屋だって殺風景だった。本棚に詰め込まれている小説以外に目を引くものがない。だから当然の疑問だと思う。
けれど気にくわなかったらしい。非難するみたいなジト目を向けられた。
「あなたは私のこと、おばあちゃんかなにかだと思っているの?」
唐突な発言に思わず吹き出してしまう。
おばあちゃん、か。確かにどことなく古風な感じが葉月にはある。話し方もそうだし、どこか達観したような雰囲気を纏わせていることが多いのだ。
もっとも、それにしては可愛すぎるけどね。そのギャップが私の心を掴んで離さないのかもしれない。
落ち着いていることが多いのに、誕生日に可愛くおめかしして来てくれたり、可愛いって伝えたら顔を真っ赤にしてくれたり、私のことを素直な言葉でたくさん求めてくれる。
そっと葉月によりかかると、さらさらの髪が頬に触れた。
可愛い唇がちょうど目の高さに来る。最後にキスをしたのは映画の帰りだと思う。つまりはもう三週間もしていないのだ。もう我慢できなかった。私の全てが葉月の唇を渇望していた。
「……キスしてもいい?」
声は、震えていた。恐怖なんてもう隠しきれない。丘の上で私は葉月が出した条件を安易な気持ちで受け入れた。達成できるのかもわからないのに、失敗したときに私たちの関係がどう転がってしまうか推測すらしなかった。
葉月は私とキスをしないことを選ぶ。私への好意を忘れようと努めるのだろう。約束を反故にできるだけの動機は、きっと葉月にはない。誰だって報われない思いに執着なんてしたくないのだ。
葉月に思いを我慢させて、その上で迷わせて。でも何も変えられなかった。
こんなの、葉月と苦しみを共有するどころの騒ぎじゃない。ただただ、一方的に苦しめただけだった。私は大馬鹿だった。
込みあがって来る涙をこらえていると、葉月の手が優しく髪を撫でた。
「十位以内、取れなかったのよね?」
「……うん」
「だったらキスはもうだめよ。……そういう約束でしょう?」
悲しさを無理やりに押し殺したみたいな微笑みだった。
私たちにはもう大義名分なんてない。葉月の言葉は正論なのだ。
それでもだ。大人しく諦められるほど私は善人じゃない。
「……葉月は、私と友達になったこと、後悔してる?」
震える声で伝える。予想もしていない質問だったのだろうか。薄暗い部屋はほんの一瞬だけ完全な沈黙に包まれる。でもすぐに力強い声が私の鼓膜を揺らしてくれた。
「そんなわけないわよ! 振られたあの日も、友達としてキスをするなんて歪な関係を提示された瞬間だって、ただのひと時も後悔した瞬間なんてないわ」
「だったら、キスしてくれるよね?」
期待を込めて葉月をみつめる。けれど表情が明るくなることはなかった。
「……それは、できないわ。涼香のことは大好きよ。ただ、私が自分を信じられないから。想像してみなさいよ。キスをするたびにあなたへの好意が膨れ上がっているのよ。爆発したとき、一番傷つくのはあなたでしょう? 本当に、何をしでかすか分からないのよ?」
恋は人を狂わせる。想像できないような酷いことを、葉月がしてしまう可能性もある。誕生日の翌朝、葉月は私を押し倒した。いつかキスだけじゃなくて、その先までしたいと願ってしまうのかもしれない。
でも私は、葉月が相手なら全然いいと思っている。
細い手首を掴んで引き寄せる。
葉月の手の平を、制服越しに自分の胸に押し当てた。
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