第19話 現実

 カーテンの隙間から伸びる光の筋にまぶたを焼かれて目覚める。枕もとの時計をみるとまだ六時半だ。少し早いけど目をこすりながら起き上がる。


 手早く身支度を整えていつもよりも早めに家を出た。


 空は快晴の一言だ。雲一つない。


 天気予報によると梅雨はもう明けたらしく、これからは本格的に夏が始まるのだそう。それを実証するみたいに、忌々しいほどに強い日差しが降り注いでいる。小さな頃なら元気に駆け回れたのだろうけれど、今はアイスみたいに溶けてしまいそうだ。


 それにしても風が直に腕にあたるのには、すーすーしてなかなか慣れそうにない。これまでは長袖だったけれど今日は半袖にしたのだ。日焼けは心配だけれど、背に腹は代えられない。


 住宅街を抜けて小路の前までやってくると、いつものように向かいから葉月が歩いてきていた。今日は早く出たから会えるとは思っていなくて、自然と頬が緩む。


「おはよう! 葉月! 今日も可愛いね!」


 手を振りながら駆け寄る。微笑むと葉月はジト目で見つめ返してきた。でもすぐに口元を緩めて私の頭をよしよしと撫でてくる。


「あなたも可愛いわよ」


 なんて当然のように笑うのだ。もう慣れてしまったらしい。たまにキスをする関係なのだから当然だけれど、恥ずかしがる葉月が可愛かったから少し残念だ。


 いつも通り二人で小路に入る。木々が太陽を遮ってくれているし、すぐ脇に小川も流れている。穏やかなせせらぎが響く空間は、清涼な空気で満ちていた。ここでなら手を握っても暑くなさそうだ。


 繋ごうとすると、剥き出しの腕に葉月の指先が触れた。


「……嬉しいような、憂鬱なような。なんとも言えない心境ね」


 まじまじとみつめたかと思えば、腕を撫でてくるのだ。


 まだ小さなころ、クラスメイトに猫じゃらしみたいな植物でくすぐられたのを思い出す。私はくすぐりに強い方だったから平気だった。でも今はなんだか落ち着かない。葉月の指先なのだと思うと、自然と胸がうるさくなってくる。


「涼香の綺麗な肌を毎日拝めるのはいいけれど、他の人もこれを見るのよね……」

「腕くらいで嫉妬しないでよ……」


 強い独占欲を向けてくれるのは素直に嬉しい。


 けれど不安になって欲しいわけじゃないのだ。


「……いい成績を取ったら、私たち毎日キスするんだよ?」


 周りには誰もいないけれど、秘密の会話みたいに耳元でささやいてみる。


 振り向いた鳶色の瞳には柔らかい笑顔の私が映っていた。


 けれどそんな私とは正反対に、葉月はみるみるうちに赤くなっていく。かと思えば、飛び跳ねるみたいに離れてしまった。


「ちょっと。急に耳元でささやくのはやめなさい」

「事実を言っただけだよ。私がキスをするのは葉月とだけ。半袖くらいいいでしょ?」


 微笑むと「そうね」と肩をすくめた。気だるげにうつむいてため息をついている。


「独占欲が強すぎるというのは、困りものね。本当に。冷静に考えればおかしいって分かっているのに、時に理性を越えた言動をとってしまうのよ。……ただ涼香の顔を見るだけでね」


 不安を隠さない暗い声だった。誕生日のキスだって、理性で押さえられない感情が溢れ出してしまったのだと思う。葉月はあの時のことを未だに後ろめたく思っているのかもしれない。


「嫌いになんてならないよ。我慢しなくていいからね」


 肩を寄せてほほ笑むと、葉月も口元を緩めた。


「十位以内に入る確証はあるのかしら。キスも我慢しなくていいようにしてくれるのよね?」


 今日は期末テストの初日だ。精一杯の努力はした。だから勉強を始めてからの一か月に後悔はない。でも付け焼き刃であることに変わりはない。これまで順当に知識を積み重ねてきたみんなに勝てるのかどうか、わからない。


 もっとも結果が出る前から弱気になるつもりもない。


「絶対に大丈夫だよ。いい成績取って来るから待ってて」


 微笑むと葉月の目元はすっかり優しくなった。


「……この一か月、凄く頑張ってたものね」

「そうでしょ? 夏休みはたくさんキスしようね」

「そうね。色々な場所に二人で行って、忘れられない思い出を作りましょう」


 遠い目をする葉月は、どこか切なげだった。


 数えきれない回数キスをしたとしても、私たちが恋人になることはない。それを自覚しながら快楽に身を任せるのは途方もなく辛いことだと思う。


 私が葉月に歩ませようとしているのは、過酷ないばらの道なのだ。口にはしないけれど葉月は迷っているのだと思う。


 私への恋を完全に諦めるのか、キスだけの関係を受け入れるのか。どちらも同じくらい辛くて、同じくらい選び難い選択肢。


 そのどちらを選ぶのかは、きっと私の成績次第だ。良くも悪くも葉月の悩みは成績が明らかになった時に解消されるのだと思う。


 テストで十位以内に入った時は、毎日のようにキスをする。逆説的にいうのなら、テストで十位以内に入れなければキスはしないということ。両刃の剣が切るのは「ただの友達」という関係でなければならない。


 私たちだけの特別な関係を傷つけさせるわけにはいかない。


 迷いを覆い隠すみたいに固く手を握って、学校に向かった。



 それからの四日間、私はかつてないくらい集中して期末テストに取り組んだ。分からない問題はもちろんあった。けれどそんなのはごくわずか。


 葉月と勉強した記憶は私の脳に根深く溶け込んでいて、一緒に過ごした時間を思うたびに自信が湧いてくるのだ。


 でも自信があるからといって、必ず十位以内に入れるというわけではない。


 不安は消えてくれなかった。正直、成績表が帰ってくるのは途方もなく恐ろしいことだったのだ。いつまでも葉月と二人で過ごしていたい。私たちの関係を揺るがすかもしれないのなら、未来になんて進みたくない。


 けれど時計の針は止まらない。ついに、その時がやって来る。


 期末テストが終わってからほぼ一週間、夏休みまで同じくあと一週間。授業終わりのホームルーム、先生が成績表を手に教室に入って来た。成績に自信のないクラスメイトは、不安そうな表情を浮かべていた。


 けれどほとんどの人たちは浮かれたような空気を醸し出している。


 私はどちらでもなかった。天国と地獄の境目にいるような気分で、吐き気すらも催していた。葉月に心配はかけたくないから不安は隠していた。けれど今は、自然と手が震える。足だって立ち上がれば生まれたての鹿みたいに震えてしまいそうだった。


「天海」


 先生が私を呼んだ。全力疾走したあとみたいに鼓動がうるさい。荒くなる息をこらえて、静かに椅子を引いて立ち上がる。教卓まで向かうと、先生は微笑んだ。


「よく頑張ったな」

「……ありがとうございます」


 私は成績表に目も向けず、自分の席に戻った。


 少なくとも褒めてもらえるくらいの成績は取ったということだ。けれどそれが十位以内なのかは分からない。もしもそうでなければ、私の全ての努力は無駄になる。


 でも無駄になるだけならまだいいのだ。


 葉月との永遠だって失いかねない。折りたたまれた成績表を開く勇気はない。けれどしり込みしていれば、求める物すらも手に入らない。


 他の誰ともキスをしたくないと思うほどに、お互いの唇を味わう。もう二度と忘れられないほどに、一緒に気持ち良くなる。その先にしか、私は永遠を見出すことができない。


 葉月が私を好きになってしまったから、私が葉月の好意に応えられなかったから。だから私たちは矛盾する関係に希望を見出すしかなくなった。苦しみのない完全な幸せを手に入れることが不可能になった。


 それでも、葉月とずっと一緒にいたい。この気持ちは変わらない。大きく深呼吸をしてから、成績表を開く。各教科の順位が連ねられていた。


 平衡感覚すらも忘れてしまいそうな極度の緊張で総合成績に目を下ろしていく。私は、期待していたのだ。不安を抱える一方で、あれだけ勉強したのだからきっと大丈夫だ、なんて楽観もあった。


 けれど、願いはあっさりと打ち砕かれた。


 十三位。それが私の順位だった。

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