第18話 わがままなキス

 映画の内容は「恋人でもない二人がキスをしているうちにお互いを好きになっていく」というものだった。とんでもなく性的に過激なシーンばかりで、目を覆いたくなるほどなのだ。


 葉月がこういうのが好きだとは思えないし、映画化されるにあたって酷い改変がなされたのだろう。


 それでも境遇が自分に重なったからなのだろうか。葉月はスクリーンを集中してみつめていた。濡れ場のシーンが来るたびに顔を真っ赤にして目をそらしていたけれど、エンドロールが流れるまで席を立つことはなかった。


 私たちも恋人ではない関係。


 でも期末テストの成績が良ければ毎日のようにキスをすることになる。


 映画の二人は、最後は恋人になっていた。好きという気持ちをひた隠しにしてキスをしていたのだ。お互いの気持ちの全てをぶつけ合うシーンのカタルシスは、凄まじいものがあった。


 でも私たちはそんな風にはならない。フィクションの恋はあまりにも美化されている。現実の恋なんて、きっとおぞましいものばかりだ。最初は良くても、途中で変わってしまう。葉月の気持ちに応えることはできない。


 映画館を出る頃、辺りはすっかり夕方になっていた。オレンジ色の光の中をたくさんの車が行き交ってゆく。帰宅ラッシュで人通りも多い。


 手を繋いで人ごみの中を歩いていく。


「……今日はごめんなさいね?」


 しょんぼりとした声が聞こえてきた。表情だって心底申し訳なさそうなのだ。


「大丈夫だよ。葉月と一緒なら何だって楽しいんだから」


 大人な映画だった。けど言葉は紛れもない本心。全然平気だったのだ。でも葉月はどうなのだろう。大好きな原作とは全く違う内容だった。


 子供みたいな笑顔でぶんぶん腕を振っていた姿が脳裏をよぎる。


「……原作のメインはヒューマンドラマなのよ。あんな爛れた恋愛要素、一つもなかったわ」


 ぽつぽつとつぶやく葉月の横顔は、本当に悲しそうだった。それでも「調べておくべきだったわ。ごめんなさい」なんて私を思いやった言葉をかけてくれるのだ。


 大通りを抜けて人気のない小路までやって来る。苔むした石垣が伸びていて、小川が静かに流れている。風に吹かれて木々がさわさわと揺れていた。


 ここを抜ければ私たちはお別れだ。


 でも今も葉月はしゅんとしてしまっていた。つないだ手をぎゅっと握りしめる。このまま別れるなんて嫌だ。手を引いて、立ち止まる。


「……涼香? どうしたの?」


 振り向いた葉月の後ろから覗く夕日の逆光がまぶしい。そのせいでなおさら陰りが強調されているようにみえた。


 自分の行動が矛盾してるってことは分かってる。個人的な事情に葉月を巻き込んでしまっているのだから。それでも笑って欲しいって気持ちは変わらないのだ。


 衝動に突き動かされるままに葉月を抱きしめた。そっと体を離して、至近距離から鳶色の瞳をみつめる。


「……どうすれば、映画でがっかりしたこと忘れてくれる?」


 問いかけた瞬間に、葉月は熱っぽく私の唇をみつめた。可愛い。本当に分かりやすい人だ。言葉だけじゃなくて仕草もあまりにも正直だから、つい笑ってしまう。


「そっか。キスしたら忘れてくれるんだ?」

「違うわよ。今のは、反射的にみつめてしまっただけで……」


 艶っぽい瞳が逃げるようによそを向くから、くすりと笑う。


「誤魔化さなくてもいいよ。しゅんとしてる葉月をみるのは嫌なんだ。葉月が笑顔になってくれるのなら色んなことしてあげたい。キスだってしたいんだよ」


 顔に手を伸ばしてささやくと、触れた指先から熱が伝わってくる。上気した頬が色っぽい。澄んだ瞳も小さく揺れていて、見つめ合っているだけで胸がうるさくなってくる。鼻先の触れ合うような距離まで寄ると、不安のにじむ声が聞こえてきた。


「でもいいの? さっきの映画……」

「大丈夫だよ」


 微笑むと逡巡するみたいに長いまつげが伏せられる。


 でもまた熱っぽく私の唇をみつめたかと思うと、ちらりと目を合わせてからまぶたを閉ざした。体が強張っているから、後ろ髪に手を伸ばして優しく撫でてあげる。するとすぐに柔らかくなってくれた。


 葉月の悩んでいることは分かる。


 映画の主役二人みたいにキスを繰り返せば、きっと私への思いはより強くなる。恋なんて知らない私にも、想像はつく。思いはぶつけるほどに強くなってしまう。相手が拒まないのならなおさらだ。


 このままだと、いつか爆発してしまうのかもしれない。


 私の選択は中途半端だった。今からするキスだってわがままだ。暗い顔をしているのがどうしようもなく嫌だった。葉月一人に全てを抱えさせるなんて耐えられなかった。身を引こうとする葉月を、無理やりに引き留めた。その延長線上のキスなのだ。


 正解じゃないって分かってる。でも好転させられないのなら私も一緒に辛さを抱えるし、笑顔にできるのなら何でもしてあげたい。


 ううん。違う。本当はもっとわがままな理由だ。善人ぶるなんて、とてもじゃないけれどできない。醜い独占欲が私の根源にはある。葉月を楽にさせたいのなら、綺麗さっぱり振ってあげるのが一番なのだ。


 でも私はそうしなかった。自分に縛り付けることを選んだ。ひりひりとした罪悪感が心の表面を走っていく。どうせ、葉月を手放すなんて選択は最初から私にはないのだ。もう言い訳なんてしない。葉月が善人なら、私は悪人なのだろう。


 葉月の隣にいるためなら、世界で一番自分を嫌いになってもいい。葉月以外の誰からだって嫌われてしまってもいい。葉月以外の何もいらない。どれだけ罪悪感を抱えることになっても、この気持ちだけは絶対に変わらない。


 大きく深呼吸をして、葉月に目を向ける。


 花びらみたいに可愛い唇をみつめてから、優しく口づけをした。


 二週間前ほど熱烈ではない。でも軽く触れ合わせるだけでもない。世の中の一般的なキスだと思う。おかしくなってしまうほどに気持ちいいわけじゃないけど、唇の敏感な神経からはいつまでも浸っていたいほどの温もりと痺れが伝わってくる。


 顔を離して快楽を遠ざけると、葉月は息を荒くさせていた。


 好きな人の唇の感覚を深く味わいたい。その願いが息を止めさせていたのだろうか。胸の中が愛おしさでいっぱいになる。恋愛的な好意なんて欠片もないはずなのに、気付けば私の肺も焼けるみたいに苦しいのだ。


 私も、葉月と同じく息を止めていたらしい。


 二つの苦しそうな息が交じり合う。気まずさを感じながら、額を落ちる汗をぬぐった。黙り込んだまま顔の熱を手で扇ぐ。目をそらしているとジト目で見つめられた。


「……本格的なキスはまだしないんじゃなかったの?」

「映画館でもキスをせがんできたでしょ。これくらいしないと満足してくれないかなって。それに、今のだって二週間前のとくらべたら全然だと思うよ?」


 平静を装って微笑む。


 その瞬間、小路を涼しい風が吹き抜けていった。つやつやの黒髪が夕日に照らされて美しく揺れる。何気ない光景なのに、どうしてか目が離せなかった。


 葉月に告白されて、キスをするようになってから見惚れることが増えた。理由も分からずぼうっとしている間に、葉月は何やら重大な事実に気付いたらしい。目を見開いて、耳まで真っ赤にしている。


「もしもあなたが十位以内なら、今以上に凄いのを毎日のようにするってこと……?」

「今さら? そういう約束でしょ」

「……そうだったわね」


 実感がなかったのかもしれない。私だって二週間前のあれを毎日のようにするなんて、未だに現実味がないのだ。


 でも夏休みには訪れるかもしれない未来。私がいい成績を取りさえすれば、その日からは恋人みたいなキスが私たちの常識になる。


 不安は消えない。それでも隣まで歩いて、また葉月の手を握る。何とも言えない顔のまま握り返してくれた。


 お互いに悩みがないわけはない。でもキスをしないただの友達に戻れば、きっと葉月は私と距離を取ると思う。いつまでも一緒にいるためにも、今さら怯むわけにはいかない。


 長い影がオレンジ色の中を伸びる。紫紺に染まる空の下、私たちは小路を帰った。

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