第17話 わがままな友情

 人通りのそれなりな昼下がりの街は、街路樹からたまに蝉の鳴き声が聞こえてくる程度には、暑い。照り付ける日差しに目を細める。


 早く冷房の効いた映画館に逃げ込んでしまいたかったけれど、横断歩道に差し掛かる直前で信号が赤に変わった。


 立ち止まると汗が噴き出してくる。お互いに繋いだ手がびしょびしょで、どっちの汗なのか分からない。それだけが不幸中の幸いだった。


「……汗っかきでごめんなさいね?」

「私だって汗まみれだよ。だから大丈夫」


 笑顔を向けると、透明感あふれる首筋を水滴が伝っていくのがみえた。


 宝石みたいに綺麗で思わず息をのむ。


「首に何かついてる?」

「……ううん。美人は汗も綺麗なんだなって感心してただけ」

「涼香ってたまに妙なことを言うわよね」


 呆れたように眉をひそめて首を拭っていた。長いまつげを伏せながら汗をはらう仕草があんまりにも色っぽいから、さりげなく目をそらした。


 きっと葉月を好きになる人はたくさんいるのだろう。今だって行き交う人々から視線を感じる。あまり見て欲しくない。葉月の可愛さを堪能できるのは私だけでいい。


 そんな考えが不意に脳裏をよぎるから、小さくため息をついた。


 葉月のことになれば、私からは公共の精神が欠如してしまうようだ。溢れ出す独占欲に必死で蓋をかぶせていると、気付けば信号が青に変わっていた。


 横断歩道を渡った先に映画館はある。


 ありふれた街並みからは浮いた洋風の外観だ。公開中の映画のポスターが入り口の脇に張り付けられている。葉月が見たいのはどの映画なのだろう。大好きな小説が原作だって言ってたけど、もしかしてこの前プレゼントしてくれた小説なのかな?


 もしもそうなら気まずくなる気しかない。けれど一目見てそれらしきポスターはなかった。ほっと息を吐きながら自動ドアを抜ける。心地よい空気に全身を包まれた。


「はぁー。涼しい……」


 大きく息をついてハンカチで汗を拭っていると、葉月と目が合った。その途端に恥ずかしそうによそを向いてしまう。どうしたのだろう。首をかしげているとささやくような声が聞こえた。


「……なるほどね。さっきのあなたの発言、分からないことはないわ」

「私は別に美人じゃないよ?」


 ごくごく普通の容姿だと思う。葉月は可愛いって思ってくれてるのかもだけど、世界一の可愛さに並ぶなんて絶対にあり得ない。


 なのに不服そうに目を細めて振り返るのだ。かと思えば汗まみれの私の髪に手を伸ばして、愛おしそうな笑みで撫でてくる。


「汚いからダメだよ……」


 葉月になでなでされるのは好きだから、言葉でしか抵抗できない。


 ふわふわした雲に包まれているみたいに心地がいいのだ。情けないことに体はとっくの昔に篭絡されてしまっている。快楽になされるがまま、私は目を閉じた。


「私には平気で可愛いって言うのに、自分が言われると否定するのね」

「……だって恥ずかしいでしょ」


 そっと目を開くといたずらっぽい笑みが現れる。


「恥ずかしがる涼香、とても可愛いわ」

「……もう」


 小さくため息をついて顔をそらした。


 映画館の中は涼しいのに、外にいた時よりも顔が熱い。


 今でもこんな調子なのだ。毎日キスすることになれば、夏休みなんて特に大変なことになってしまいそうだ。学校がないから、いつだって寄り添い合って過ごすことになると思う。そうなればドキドキすることも増える。


 葉月はきっとたくさんキスを求めてくるはずで「約束を守るため」という大義名分が与えられれば我慢することはなくなるのだろう。十位以内を取った時のことを考えただけなのに、死んじゃいそうなくらい鼓動が激しい。


「映画見に来たんでしょ。早く行くよ」


 気を紛らわせたくて、ぐいぐいと手を引っ張って受付に向かう。


 受付の人に映画を指定する葉月の横顔は、相変わらず綺麗だった。


 映画館特有の薄暗い中にぽつぽつと灯る暖色の明かり。それに照らされて顔の陰影が強調されている。いつもよりも大人びてみえるのだ。


 吸い寄せられるみたいに目を奪われて、ぼんやりしてしまう。


「涼香。行くわよ。もうすぐ始まるみたいだわ」

「……あ、うん」


 微笑む葉月に手を引かれるまま私はシアターへと向かった。



 高さと奥行きのある広い空間には、満席というわけではないけれどそれなりの数の観客がいた。指定した真ん中あたりの座席に私たちも腰かける。


 薄闇の先の巨大なスクリーンには映画の予告が流れていた。非日常な雰囲気に胸が高鳴る。隣にいるのが葉月なのだからなおさらだ。さりげなく横顔をみつめる。


 葉月はどんなジャンルの小説でも読むらしいけれど、好きなのは恋愛要素の薄い物語らしい。誕生日に貰ったあの小説は例外中の例外なのだと思う。


 だからきっと、この映画も気まずくなるような話ではないはずだ。


 ひじ掛けに腕を置くと、不意に温かな手が覆いかぶさってきた。横目でみるとびくっと体を震わせて、大慌てで手を引いているのだ。


 私は目を細めて不満を声にのせた。


「別にいいのに。普段から繋いでるんだから」

 

 というかむしろ今だって葉月の温もりを感じていたいのだ。ひじ掛けなんていらない。本当は体を寄せ合えるカップルシートを希望したいくらいだった。


 でも葉月は腕を引っ込めたまま、小声でつぶやくのだ。


「流石に恥ずかしいわ。薄暗い映画館でそういうことをするのは……」

「えー? 繋ごうよ」


 そっと葉月の席に腕を伸ばした。


 薄闇の中からすべすべの手を探り当てて、指先を絡める。


 私は暗い場所がそんなに好きじゃない。嫌なことをよく思い出してしまうし、なにより葉月が隣にいるって実感が薄くなるのが嫌だ。


「やっぱり私、葉月の温もりが大好きだよ。こういう暗い場所では特にね」


 微笑むとスクリーンの光に照らされて、うっすらと葉月も笑うのがみえた。


「そうね。私も好きよ。少し冷たいあなたの体温を、この手の平で包み込んでいるとき。あなたが『温かい』と笑ってくれた瞬間、……この世に生まれてきて良かったと心から思えるのよ」


 相変わらず恥ずかしいことを言う人だ。


 普通の人なら歯の浮くようなセリフだけれど、葉月なら妙に馴染む。それはきっと葉月が誰よりも素直だって知っているから。表面だけ修飾した言葉じゃなくて、心の奥底にある思いをそのまま口にしてくれただけなのだ。


「私も葉月と同じ気持ちだよ」


 ひじ掛けがもどかしい。これさえなければ今すぐに葉月を抱きしめられるのに。


 残念だけど、せめて今はありのままの言葉を伝えてあげたい。


「葉月が隣にいてくれるだけで、生まれてきて良かったって思えるんだ」


 顔が少し熱い。手つなぎにもハグにも慣れたけれど、思いを伝えるのにはやっぱりなれない。肩をすくめていると、ささやくような声が聞こえてきた。


「……キス、してもいいかしら」

「えっ」


 あまりに唐突な発言に、私はジト目で葉月を見つめ返した。


「だめに決まってるでしょ。ここ映画館だよ? 人がいるんだよ?」

「でも薄暗いわよ? ばれないと思うわ」


 手が触れ合っただけで照れていた癖に、やけに大胆だ。


「そういう問題じゃないよ。とにかくダメだからね?」


 こそこそつぶやくと、葉月は悲しそうに肩をすくめてしまった。


「……分かったわ。頑張って我慢するわね」


 心なしか瞳が潤んでいるような気がするのだ。


 気のせいなのか、それとも実際に悲しんでいるのか。


 本当にどれだけこの人は私の唇が欲しいのやら。小さくため息をついて、ひじ掛け越しに葉月の方へと体を乗り出す。そしてそのまま、そっと頬に口付けをした。


 目が見開かれる。薄闇でも分かるほどに葉月は頬を赤くしていた。唇にしたわけじゃないのに、こんな過剰な反応をされれば私まで恥ずかしい。


 スクリーンに目をそらして独り言みたいにぼそぼそとつぶやいてみる。


「その、これで我慢してね! 流石にここで唇は無理だから……」


 唐突にアクション映画のCMが流れる。派手な爆発の閃光がまぶしい。


 轟音が空間に響いて、恥ずかしさをかき消してくれるみたいだった。ほっと息を吐いていると、不意に葉月の手が髪を優しく撫でてきた。指先が分け入っては抜けてを繰り返すのだ。割れ物を扱うみたいで、くすぐったい。


「……恋っていうのは、ままならないものよね」


 雨音みたいな声だった。


 とっさに目を向けるもそこには微笑みしかない。


「あ、始まったみたいよ」

「……うん」 


 私の選択は決して正しいものではない。一緒に苦しんだからって葉月の痛みが消えるわけではない。むしろなおさら大きくなる可能性だってある。


 でも、それでもだ。葉月の手を離したくはない。


 いつか死んでしまうまで、この人の隣にいたい。


 美しい横顔から目をそらさず、つないだ手をぎゅっと固く握りしめた。覚悟なんて高尚なものはまだないのかもしれない。それでも葉月の温もりを私じゃない誰かに渡したくなんてない。例え理不尽を押し付けることになるのだとしても。


 本当に私はわがままだ。小さくため息をついてから、スクリーンに目を向ける。二人の若い女優が濃厚なキスをしていた。


「……えっ?」


 思わず葉月に目を向ける。どうやら完全な想定外のようで、目を見開いていた。手元にある自分のチケットを五度見くらいしている間に、スクリーンにタイトルが表示される。その瞬間、泣きそうな顔になってしまった。


「……こんなシーン、原作にはなかったわ」

「見るのやめる?」


 問いかけるも葉月は首を横に振った。


「お金を払ってしまったわけだし、もったいないわ」


 覚悟を決めたみたいに口を結ぶから、私も恐る恐る正面を向いた。 

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