第16話 映画と嫉妬

 葉月と一緒に勉強するようになってから二週間ほど経った。二人で図書室に足を運び、家に帰ってからも一人で黙々とテキストに向き合う。そんな毎日だった。


「天海、四番の回答を黒板に書いてくれ」


 火曜日の七時間目は数学Ⅱの時間だ。


 先生に名指しされるから席を立って前に向かった。基礎的なレベルは超えているけれど、ちょっとした応用を交えれば簡単に解ける。


 今も数学が得意だとは思えないけれど、この問題の解法はもう知っていた。


 チョークで黒板に数式を書いていく。


 葉月は数学も暗記科目なのだと教えてくれた。教えてもらうまでは分からなかったけれど、今なら分かる。苦手意識というものは失敗の連続から生み出される。


 そして失敗するのは、大抵は正しいやり方を知らないからだ。


 数式を書き終えたからチョークを手放し席に戻る。窓際の一番後ろの席で葉月が微笑んでいた。最初は何もできなかった私がそれなりの問題を解けるようになっているのだ。努力が実を結ぼうとしていることを、喜んでくれているのだろう。


 先生が回答を解説していく。全てあっていたようでほっと胸をなでおろす。


 ちょうどその時、チャイムが鳴った。「この後のホームルームで期末テストの範囲が公開されるはずだから、よく勉強しておくように」とつげて数学の先生は教室を出ていく。


「ねぇねぇ涼香さん最近賢くなってない? これは期末テストも期待できそうだね」


 峰守さんが隣の席から朗らかに笑いかけてくるから、私も笑みを浮かべた。


「葉月のおかげだよ。教えるのが凄く上手いんだ」

「そうなんだ。私も教えてもらおうかなぁ」


 葉月が私以外に勉強を教える。そんなのは嫌だ、なんてとっさに思ってしまった。不満が表情に表れてしまったのだろうか。峰守さんは眉をひそめながらもニヤニヤと笑った。


「冗談だよ。冗談。そんな顔しないでよ」


 そんな顔って、一体どんな顔をしていたのだろう。苦笑いしてしまう。


 昔の私ならもっと上手く場を収めたのだろう。相手に合わせて意志も全てねじ曲げて、望む答えを返してあげる。けれど今はどうしても手放したくない人がいる。


 葉月のことに関しては、絶対に誰にも譲りたくなんてない。


 とはいえ気を遣わせてしまったのは申し訳ない。


 肩をすくめて反省していると、担任の先生が入って来た。テスト範囲のプリントを配っていく。手元にやってきたそれには、葉月が予想したのとほとんど同じ範囲が書かれていた。完璧すぎて感心してしまうほどだった。


 ホームルームが終わると、クラスメイト達は各々帰り支度をして教室を出ていく。私もみんなに少し遅れて鞄を肩にかける。


 窓際の一番後ろの席では、太陽の光を浴びた葉月が見惚れてしまうほどの美しさで微笑んでいた。でも私がすぐ隣までたどり着くと勢いよく立ち上がる。


「今日は行きたいところがあるのだけれどいいかしら?」

「別の場所で勉強するってこと?」


 葉月は首を横に振った。光を浴びた黒髪がきらきらと揺れる。


「好きな小説原作の映画が公開されたみたいで。それをどうしても鑑賞したいのよ」


 葉月と二人で映画館……。断る理由がない。葉月と出会うまで放課後や休みの日に遊ぶような友達なんていなかった。映画館にだって足を運んだことはない。密かに憧れていたのだ。


「いいよ! 勉強にもちょっと疲れちゃったところだから」


 笑顔でぎゅっと手を握り締めてみる。葉月は花開くみたいにぱあっと笑った。


「本当に!? 嬉しいわ!」


 どうしてか繋いだ手をぶんぶんと振っているのだ。


 らしくない反応に目を見開く。私と一緒に見に行けるのが嬉しいのか、あるいはよほどのその映画に関心があったのか。どちらにせよ、今の葉月は小さな子供みたいで凄く可愛いのだ。よしよしと頭を撫でてあげたくなる。


 願望を頭の中に留めるのもすぐに限界が来て、気付けば自然と手が伸びていた。ニコニコしながら撫でていると、突然石みたいに硬直してしまった。


「ごめんなさい。醜態を晒してしまったわね……」

「醜態じゃないよ。すっごく可愛かった。ずっと見てたいくらいだったもん。でも意外だとは思った。葉月が全力で喜ぶなんて珍しいからね」

「一人で映画館に行くのって抵抗感があるでしょう? だから今回も後で配信サービスで見る予定だったのよ。でも本当に大好きな原作だからできれば映画館で見たいって気持ちがあって」

「へぇ。……そんなに好きなんだ」


 言葉にしてから嫉妬がにじんでいることに気付く。流石に自分でもドン引きしてしまった。人ですらない映画に嫉妬するって恥ずかしすぎる。


 でもやっぱり嫌なのだ。私じゃない何か別の存在に葉月が大盛り上がりしているなんて。うなだれていると葉月はくすりと笑って私の髪を撫でた。


「大好きなものを涼香と一緒にみることができる。それが一番うれしいのよ」


 考えてること、見抜かれちゃったのかな。恥ずかしい。でも優しく微笑む葉月は、いつもよりもずっと可愛い。心の奥まで満たされるみたいだった。


「私も葉月となら何だって楽しいよ。勉強だっていつも楽しいもん」


 つまらないことなんて、きっと何一つとしてない。二人で一緒に過ごす毎日は、一人ぼっちだったこれまでを全て塗りつぶしてしまう。


「遅くなるのは良くないから、早く映画館に行きましょう」

「うん!」


 笑顔のまま手を繋いで学校を出た。

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