第15話 キスと夕食
ぱっと顔をあげた。表情は雲間から差し込んだ太陽みたいに明るい。
「頑張るわ」
「……分かった。でもキスするのは今日だけだからね?」
そっと頬に手を伸ばす。ただそれだけで葉月はすっかり蕩けた表情になってしまう。うるんだ鳶色の瞳には私しか映っていない。言葉なんてないのに全力の「好き」が伝わってくるのだ。
熱された血液が勢いよく全身を巡るのを感じた。恋愛感情のない友達へのキスではあるけれど、葉月は見惚れてしまうほどに綺麗で可愛い。しかもいつもの凛とした表情が、今や色っぽく塗り替えられてしまっている。
私の前でだけはこんな風になってしまうのだ。平静を保てるわけがない。
「……恥ずかしいから目は閉じて」
目をそらしながらつぶやくと、長いまつげが伏せられて愛おしいキス待ち顔が現れた。日曜日は葉月を失わないために必死だったけれど、今は違う。ただひたすらに恥ずかしくて顔を直視できない。
でもやると伝えたからには、やらなければならない。
大きく息を吸ってから唇を触れ合わせる。でもあの日のように執拗にくっつけるのではなくて、すぐに離した。
ただそれだけなのに張り裂けてしまいそうなほどに心臓がうるさい。
「……え? これだけなの?」
切なげに目を細めて、葉月は自分の唇に触れていた。
「日曜日みたいにして欲しかったの? 葉月こそふしだらだよね……」
ジト目で見つめるとますます真っ赤になってしまった。
「でもあなたにも責任はあるわ。あんなに熱烈なキスをしたのだから期待して当然よ」
葉月の言い分はもっともだ。あの日のせいで私たちがするキスの基準は、息苦しさを感じるほどの長い口付けに固定されてしまった。
軽い刺激では満足なんてできないのだろう。だけどやっぱり今は無理だ。どうにかあの日のキスを再現してあげたい。本当は葉月の言うことを何でも聞いてあげたい。
でもやっぱりあのキスだけは、だめだ。思い出すだけでも葉月と目を合わせられなくなりそうなのだ。今してしまえば、今度は私が問いただされることになると思う。「どうして私と目を合わせてくれないのかしら?」って。
「そもそもだけどキスをするのは十位以内を取ってからって約束でしょ。テストの結果が出るまで待ってて。本格的なキスはそれからにしよう?」
「……そうね。分かったわ。一緒に頑張りましょう。キスのためにね」
照れくさそうに目をそらしてはにかんだ。
「あ! 目を合わせてくれるって約束だったよね?」
頬を膨らませて抗議すると、葉月はしぶしぶという風に目を合わせてくれた。瞳は艶っぽく潤んでいる。二秒に一回くらいちらちらと私の唇に関心を向けているのだ。こんな状態だと勉強どころの騒ぎじゃない。葉月もそれは自覚しているようだった。
「……次からは、人目のある場所で勉強をしましょう。二人きりは色々と危険だわ」
「だったら図書室とかはどうかな?」
「そうね。それがいいわ」
なんてお互いに頷き合っていると、部屋の扉がノックされた。
「涼香ちゃん。もういい時間だけどご飯食べてから帰る?」
扉が開いて現れたのは葉月のお母さんだ。
壁にかけられた時計をみるともう五時半だった。
「ありがとうございます。でも流石に申し訳ないので大丈夫です」
頭を下げると「遠慮しなくてもいいのに」と笑ってくれた。
その言葉に葉月も同調する。
「そうよ。食べていきなさい」
ガラス細工にでも触れるみたいに優しく頭を撫でてくれるのだ。私だって一人の夕食は嫌だ。温かな言葉を投げかけられては、断れるわけがなかった。
「分かりました。でも料理、私にも手伝わせてくださいね」
「えっ、料理できるの? 葉月とは大違いだね……」
ジト目で見つめられて葉月は居心地が悪そうだ。
でも私なんかよりもずっとこの人の方がすごい。勉強も運動もできて、しかも世界で一番可愛い完璧な人。それが葉月なのだ。
「余計なことばかり言うのなら、早く出ていきなさいよ……」
「とにかく、葉月に心を許せる友達ができて本当に良かったよ」
微笑みだけ残して、お母さんは扉を閉める。
葉月は深くため息をついていた。鬱陶しいって思っているんだろう。
でも私はその鬱陶しさすらも知らないから、羨ましいと感じてしまう。だけど今はしんみりとしている場合じゃない。夕食のお手伝いをしにいかないと。
立ち上がると、葉月は私の手を握った。
「ハグがまだよ」
「あ、ごめんね。忘れてた」
葉月の背中に腕を回して抱擁する。葉月の髪はほんのりと甘い匂いがした。ずっと嗅いでいたいくらいなのだ。体温だって温かくて、冬の朝の布団みたいな強い中毒性がある。でもいつまでも抱きしめあっているわけにはいかない。
「葉月、そろそろ手伝いに行かないとだから」
「……そうね」
不服そうに目を細めながらも、身体を離してくれた。
「できることがあるとは思えないけれど、私も一緒に行っていいかしら?」
「いいよ。お母さんも喜ぶんじゃないかな」
私たちは二人で立ち上がり、どちらからというわけでもなく手を繋ぐ。そのままキッチンへと向かうと、お母さんに生温かい目を向けられた。不愛想な娘が他人に心を開いているのが嬉しいのだろう。
誰かと一緒にキッチンに立つなんて初めてだから、楽しみながら料理をお手伝いする。出来上がったのはなんの変哲もないハンバーグとお味噌汁だったけれど、葉月たちと笑い合いながら食べたそれはこれまでで一番おいしかった。
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