第14話 葉月の部屋で勉強

 飾り気のない勉強机とベッド、あと私が遊びに来るようになってから用意してくれたローテーブル。葉月の部屋なだけあって無駄な装飾のない、すっきりとした空間だ。でもその一方で壁際の本棚にはみっちりと小説が詰め込まれている。


「……分かっていたけれど、なかなか厳しいわね」


 葉月は難しそうな顔でテーブルの上の答案をみつめている。


 私は苦笑いして目をそらした。


 放課後、習熟度を見定めるために葉月の部屋で簡易的なテストを解いたのだ。基礎的な問題は解けるものの、少し発展させるとさっぱりわからなくなってしまう。


 それは理系に限った話ではなくて、主戦場の文系科目でもそうだった。


 表面的な知識だけはある。それが今の私だった。何も知らないよりはずっとましだけれど、この程度では十位以内なんて夢のまた夢だ。


 明確な形で明らかになると、結構へこむ。


 でも今の私にできるのは諦めないことだけだ。


「とりあえず勉強しようよ。何から始めればいいと思う?」

「大まかなレベルは把握できたわ。あなたはまず何が分からないのかをはっきりさせるべきね。分からないところが分からないのならどうしようもないわ。一つずつ確認していきましょう」

「やっぱり葉月って頼もしいね。ところで向かいじゃなくて隣にいってもいい?」


 頷いてくれたから、私は葉月のすぐそばに寄った。肩が触れ合うだけで頬が緩んでしまう。


 でも葉月は顔を真っ赤にしていた。


「どうしたの?」

「部屋にあなたがいるのだと思うと、どうにも落ち着かなくて」


 唇に熱っぽい目線を向けてくるのだ。苦笑いしてつやつやの髪に手を伸ばした。


「今はまだ我慢してよね。十位以内を取れたらたくさんキスすることになるんだから」

「……そうね。善処するわ」


 我慢できる、とは言い切れないんだ。好きな人が自分の部屋にやってきたら、みんなこんな風になっちゃうのかな? 相手が葉月だから可愛いとは思う。でもやっぱり申し訳ない。


「……ごめんね?」

「謝らなくてもいいわ。自制心が弱い私が悪いのよ。とにかく今はやるべきことをやりましょう。気も紛れると思うから」


 二人でテキストに目を向けた。葉月のてきぱきとした声に従っているだけで、自分の分かること分からないことがどんどん可視化されていく。


 窓の外が薄暗くなるころ、ようやく確認が終わった。漠然と不安に思っていた時よりは、かなり気分は楽になっていた。


「まずは重点的にこの範囲を勉強するべきね」


 要注意な範囲をまとめた紙を葉月は指さす。何をするべきか迷うことはもうなさそうだ。


「分かった。ありがとう葉月」


 笑顔で見つめると葉月は照れくさそうに目をそらした。これで勉強に関しての悩みは消えた。


 でも一つだけ気になることがある。


「葉月ってさっきからずっと目をそらしてばかりだよね?」

「気のせいよ」


 絶対に気のせいではないと思う。


 目を向けるたびに、わざとらしくよそを向いてしまうのだ。これまでは真っすぐに私をみつめてくれていたから、なんだか胸がざわざわする。葉月の正面に回り込んでじっと顔を覗き込んでみるも、同じ極の磁石みたいにそっぽを向いてしまった。


「葉月?」


 不満を声にのせると、葉月は顔を伏せてつぶやいた。


「……好きな人が自分の部屋にいるって、あなたが思う以上に刺激的なことなのよ」

「どうすればいつもの葉月になってくれるの?」


 肩をすくめて問いかけると艶やかな瞳にみつめられた。


「あなたがキスをしてくれれば、治まってくれるかもしれないわ」

「何言ってるの……」


 この人は押し倒すくらい私のことが好きだ。


 二人っきりの場所でキスをすれば、色々と暴走させてしまうかもしれない。そうじゃないとしても、なおさら目なんて合わせられなくなると思う。


 妙なことを言う葉月をジト目でみつめていると、苦笑いが現れた。


「冗談よ。頑張って我慢するわ。……でも少なくともあと一か月は涼香とキスをできないのね。果ての見えない過酷な砂漠で喉の渇きに苦しむ旅人は、ちょうどこんな気分なのかしらね」


 しゅんと肩をすくめ、力なくうなだれてしまうのだ。


 今は言うことを聞いてあげるべきでないと分かっている。でも悲しそうにする葉月をみていると、心がぐらぐらと揺らぐ。


「テストで十位以内に入らないとキスをしない」というのは葉月の言葉なのだ。約束を反故にしてキスを求める自分に一番困惑しているのは、きっと葉月自身だ。


 実現不可能にも思える厳しい条件を付けたのは、せめてもの抵抗みたいなものだったのだろう。恋人でもないのに「キスをしたい」なんて私の願いを素直に受け入れるのはおかしい。


 それでも葉月は私のことが好きなのだ。約束も常識も反故にしてしまうほどには。


 恋が人をおかしくさせることは、私も知っている。理性ではどうしようもない変な行動をとってしまうことも知っている。そしてそれが本人を苦しめてしまうことだって、よく理解している。今も葉月は苦しんでいるのだろう。


 こんなことになったのは、全て私のせいだ。


 葉月がキスを望んでいるのなら、拒んでいい道理はない。一番自縄自縛に苦しんでいるのは葉月のはずで、私には少しでもこの人を楽にする義務がある。義務なんて堅苦しい考え方を除いたとしても、葉月には苦しんで欲しくない。


 苦しみの中で、まだましな苦しみを差し出す。これが正しいことだとは思わない。それでも葉月のことが世界で一番大好きなのだ。ずっと一緒にいたい人なのだ。

 

「……キスしたら、本当に目を合わせてくれるようになるの?」 


 目をそらしている葉月に、上目遣いでそっと問いかけた。

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